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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 肉体の復活は本当にあるか(その-3)

2014-08-04 01:39:40 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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 肉体の復活は本当にあるか(その-3)

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キリスト教は、4世紀ごろから伝統的にその信仰内容を短く「クレド」(「信条」、乃至は「信仰宣言」)の中に要約し、

それを信じる者を正統な信者、それと異なることを信じる者を異端者として来た。

現代のカトリック教会が採用している「クレド」には幾つかバージョンがあるが、

その一つは、日本語で以下のように翻訳されている。


 信仰宣言

天地の創造主、全能の神である父を信じます。父のひとり子、おとめマリアから生ま

れ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キ

リストを信じます。聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、から

だの復活、永遠の命を信じます。アーメン


何だ、キリスト教の信仰って、煎じ詰めればたったこれだけのことか、とそのあまりの簡単さに驚かれませんか?

その中で、いま私が問題にしているのは、イエス・キリストが「死者のうちから復活したこと」

我々一人一人も、世の終わりの日に「からだが復活し、永遠の命を得る」と言う核心部分についてだ。

ラザロのように、

死後4日してすでに腐敗が始まった後に、再びこの世の世界に生きて帰ってくるのではなく、

(バラモン教、仏教ヒンズー教の輪廻はある意味で永久に」この段階にとどまる)

復活したキリストが今すでに彼岸の永遠の命に生きているように、

われわれも生前と同じDNAを持った同一の個体として、

「新しい天と地において永遠の命に生きる」

ことを信じるかどうか、の問題だ。

(日本のカトリック信者さん、あなたは命がけでこのことを確信していますか?)

ここで、またもや面倒な問題を引き起こすのが、新約聖書の実にややこしい、こんがらがった記述だ。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)と言う教えを身をもっ実践し、証ししたイエスが、

想像を絶する苦しみの後、十字架の上で死んで、葬られて、三日目に見に行って見たら墓は空っぽだった、まではいい。

ではどうして、彼の肉体はそのまま彼岸の世界に直行してそこで永遠に生きる、というコースを辿らず、

復活から昇天までの極めて短い間(現代の教会の典礼の暦では6週間とは言え、

この世をウロウロし、チョロチョロと弟子たちに現れるという、実に中途半端な道を選んだのか。

しかも、弟子たちの前に現れる時、どうして堂々と生前見慣れた容姿、同じDNAの個体の特徴をもって現れなかったのか、

実に歯切れが悪く、分かりにくい。

十字架の上で死んだキリストは、33歳ほどの若さで、

百何十何センチの体躯、印象的な顔立ち、特徴的な目の色、声、etc.

他の誰とも決して取り違えることの出来ない個性豊かな魅力的な一人の男性だっただろう。

それなのに、聖書の描く復活したキリストは、常に、全く似ても似つかぬ別人の姿に身をやつしているのは、

一体どうしたことか?

私としては、キリストは墓に葬られ、三日目の朝墓を訪ねたら、墓は空で、そこに遺体はなく、

その体は復活して、真っ直ぐにこの世とは次元を異にする彼岸の世界へ渡って、

永遠に至福の天の国で世の終わりまで我々を待っておられる、

と言うのが、一番スッキリして信じやすいのだが・・・

ところがどっこい、聖書によれば、

キリストが最初に現れたのは空の墓から引き返すラザロの妹のマリアに対してであった(ヨハネ20章)

(キリストも男性ならば、真っ先に最愛の女性に現れたというのは、まあいいとして)

おなじDNAを持つ個体としてのイエスとは似ても似つかぬ別人、「園丁」 の姿で現れたのは何故か。

また、エマオに降る弟子たちルカ24章)

イエスご自身が近づいて来て、一緒に歩きはじめられた。

しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった・・・

一緒に食事の席に着いたとき、・・・パンを裂いてお渡しになった。

すると、2人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

さらに、ティベリアス湖畔での出現(ヨハネ21章)では、

見知らぬ人であったが、「イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに 『主だ』 と言った。

シモン・ペトロは 『主だ』 と聞くと・・・湖に飛び込んだ。・・・

その人は、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』 と言われた。

弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』 と問いただそうとはしなかった。・・・

イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

三度とも、弟子たちは心の目で復活したキリストに出会ったが、

肉の目では別人を見ていた。

 

ここで、先のブログ 「肉体の復活は本当にあるか(その-1)、(その-2)」 が生きてくる。

(その-1) で書いたように、私はラザロの墓の中で、「ジョン、出てきなさい!」 というカテキスタの声を

肉の耳で聴きながら、心の耳ではイエスの声を確かに聴いた。

それは、ペトロの首位権の教会で、シェーンボルン枢機卿の 「ジョン、私を愛するか?」 と言う声を

肉の耳で聴いたとき、心ではイエスの声を聴いたのと同じだった。

同じ事実から二つの体験(物理的と霊的)が生まれるたのは、長年親しんできた聖書の記述に対するある程度の知識と、

僅かばかりの信仰が私ににあったからだろう。

福音書をあらためて読んでみると、イエスが弟子たちに現れた話は決して多くはない。

上の三つの典型的な例の他にも幾つかの記述があるにはあるが、その多くは、弟子(たち)に現れたという証言と、

その場にいなかった他の弟子たちが頑なに信じようとしなかった事実とが、セットで語られていることが多い。

又、目の前に現れているのに、(別人の姿だったから)信じられなかったり、なお疑ったりしている。

生前のナザレのイエスのそのままの姿で(つまり、同じDNAを持った同一の個体の特徴を備えて)

現れていたら、そんな疑いや混乱が起こるはずがないではないか。


私はミサを司式する時、稀に自分の体を借りてミサを執り行っているイエスが私の内に現存し、

私の全存在を掌握するのを感じて心震え、畏怖の念に打たれることがある。

ああ、もしこのとき自分の罪にまみれた内面がありのままに暴露されたらどんなに恥ずかしいことか、と思い、

その薄汚れた私の惨めな存在が一方にありながら、

他方では、神の子キリストが私の全存在にみなぎって、そこに現存しておられることの凄さに圧倒されるのだ。

また、私に近づいて罪を告白する信徒の懺悔を聴きながら、

そして、その信徒よりも遥かに大きな罪人である自分を恥じながら、

私の中に現存し、私を用いて行われるイエスの憐れみの業に感動し、信徒も神父である私も一緒に涙する、

そんな二重性の体験も、上の事実と無関係ではない。

(その-2) で展開した中風の人を癒すイエスの奇蹟譚においても、

病人を瞬時に癒してベッドを担いで歩かせるという目を見張るような物理的奇蹟と、

罪を赦すという、目には見えないが、内容においてはなお遥かに偉大な霊的奇蹟とが対比されたように、

また、弟子たちの手の中でパンが物理的に増える手品のような奇跡と、

5000人もの人を、そろって利己心と我欲から解放し、隣人愛を実践させた精神的な高度の奇蹟が対比される。

(その大奇跡が今、世界規模で起こったら、地上から餓死する人は一人も居なくなる。)

それならば、復活したキリストが、まっすく彼岸の世界に直行しないで、

ほんの数週間と言えども、蘇生したラザロよろしくこの世にウロウロ滞留し、

チョロチョロと半端な姿で弟子たちに現れた後、

弟子たちの復活信仰が固まったのを見届けて、昇天 と称して出現するのをやめたという話より、

葬られて三日目の朝、空の墓というぶっきらぼうな現実だけ残して、

固有のDNAを備えた唯一の個体としての身体は、

実際には一気に彼岸の世界に場所を移して、世の終わりまで二度と再びこの世に姿を見せることはないが、

イエスの生前の予言、「私は三日目に復活する」 が弟子たちの心の中に生きていて、

信仰の目では出会う人々の中に復活したキリストを見ることが出来た、

と考えた方が、より真実に近いように私には思えてならなない。

では、聖書の中に記された復活のキリストが弟子たちに現れたという話は嘘か、作り話か。

私はそうは断定しない。現に、その気になれば聖書はそうも読めるし、教会もそうとも取れるような説明をしてきた。

しかし、私ごとき救い難い罪人でさえ、聖書の知識と僅かばかりの信仰があれば、心の耳でイエスの声を聴けたのであれば、

3年間ナザレのイエスから濃密な薫陶を受け、彼の復活の預言を何度も聴き、旧約聖書をイエスから説き聞かされ、

豊かに信仰の恵みを受けた弟子たちが、それ時々のPTOに合わせて、信仰の目と耳で、

イエスとはDNAを異にす見知らぬ別人の言動の中に

復活したイエスと霊的に出会ったとしても、何ら驚くに値しない。

イエスの受難と、壮絶な死と、葬りと、三日目の空の墓の現実を通して、

一方には弟子たちの肉の人としての根深い不信仰と疑いとがありながら、

イエスと寝食を共にして、その話を聴き、奇跡を目のあたりにして、魂の奥深くに刻み込まれた信仰によって、

ガリラヤ湖の岸部に立つ見知らぬ人の姿の中にイエスの現存が確信できて、主であると知っていたから、

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』 と問いただそうとはしなかった。」

と聖書は記しているのではないか。

イエスの死と復活の強烈な体験の直後の短い特異な(わずか数週間の)時間の間に、

弟子たちの心の中では、イエスの復活、

それもラザロのようにこの世に戻ってくるのではなく、異次元の新しい天と地の彼岸の世界に真っ直ぐ行ったまま、

世の終わりまで戻ってこない形での空前絶後の 「復活」、の現実に対する確固たる信仰が成熟したのであろう。

聖書のいかにも中途半端な、イエスのウロウロ、チョロチョロの話は、弟子たちの確信に満ちた証言にも拘わらず、

肉体を伴って異次元の世界復活して行きっ放しになったイエスのことがなかなか信じられない信仰の弱い信者たちを、

何とか復活信仰に繋ぎ止めるために考え出された教育的説話と考えることは出来ないだろうか。

復活から昇天までの時間は、

イエスと起居を共にする濃密な時間が断ち切られた後、

霊的な信仰だけで自らを支え、その信仰を歴史を通して受け渡していく態勢が整うまで、

機会あるごとに、様々な人の中に復活したキリストを霊的な目で見ることのできる恵みが豊かに降り注いだ濃密な時間だったのだろう。

そして、キリストを取リ上げられても、イエスの生前の教えを信じ続けることが出来るほどに信仰がゆるぎないものになったとき、

その特異な時間は終わったのではないだろうか。

私たちが巡礼の終わりに回教徒が支配するオリーブ山(キリストの昇天の丘)に登り、

復活して弟子たちに現れたキリストの最後の足跡が残っていると言い伝えられた石に触れたとき、

私はイエスの復活後の出現の物語を上のように総括した。


イエスの復活とラザロの蘇生とが全く別物で、決して混同を許さないものであることをはっきりさせるために、

聖書の記述は注意深く、イエスが生前と同一の個体として、

つまり、おなじDNAを備え、同じ顔立ちと、声と、目の色と、体格を持った姿として現れたという誤解を招くような表現を、

注意深く避けていることは、注目に値する。

私は、この事を 「バンカー、そして神父」 の本の末尾に詳述した 「空の墓」 の史実の考察と重ね合わせて、

キリストの 「彼岸への行きっ放しの復活」 を深く確信するものである。

(おわり)

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★ 肉体の復活は本当にあるか(その-2)

2014-07-25 17:08:00 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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肉体の復活は本当にあるか(その-2)

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私に哲学する楽しさを教えて下さったのは、私の恩師であり、若き日の霊的指導者のヘルマン・ホイヴェルス神父だった。


 

 1964年に一緒にインドを旅した時のホイヴェルス神父(ペン画は筆者)

 

 世間には大学で哲学を講じ、哲学者を自任する人がいる。 

しかし、その多くは、実は過去の哲学者の教説を解釈する哲学史の専門家であって、

自ら哲学することを楽しむ人とは別の人種である場合がほとんどだ。

アリストテレスが、カントが、ベルグソンが、西田幾多郎が・・・哲学史の中にどう位置づけれられ、何を説いたかを、

誰よりもよく研究し、解説できる人を、世は哲学者と呼び、その人はそれで生活が成り立つ。

しかし、哲学を講じる事を生業とする人が、自ら「哲学をする人」であるとは限らない。

世界とは何か、人間とは何か、私は何故存在し、何のための存在するのか、etc.を命がけで探求する人。

その意味では、ホイヴェルス神父は哲学する楽しみを知るまことの哲学者だった。

その彼が、信仰無しに哲学するのは危ないから止した方がいい、と言った

また、信仰無しに真面目に哲学をすれば、いずれ発狂するか、自殺するのが落ちである、と警告された。



その典型的な例が、

1903年(明治36年)日光の華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して自殺した藤村操だ。

厭世観によるエリート学生の死は「立身出世」を美徳としてきた当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。

藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名にのぼった(内既遂が40名)。

華厳滝がいまだに自殺の名所として知られるのは、操の死ゆえである。  

その藤村が遺書として残した「巌頭之感」の全文は以下の通りだ。 

             悠々たる哉天壤、
             遼々たる哉古今、
             五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
             ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
             萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」
             我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
             既に巌頭に立つに及んで、
             胸中何等の不安あるなし。
             始めて知る、
             大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。

これは、日本に於いてホイヴェルス神父の警告が的中した典型的な例ではなかったろうか。

そう言えば、キコもその自伝的処女作「ケリグマ」の中で、サルトルの演劇の影響を受けて、神の存在無しには「人生は不条理」と悟った。青年時代の彼は、その「不条理」が必然的に行き着く先は自殺だと思い知ったと書いている。「人生は不可解」と悟って自殺を選んだ藤村と同じだ。

しかし、ホイヴェルス師は、神を信じる者にとって哲学は実に楽しい知的営みだともいった。彼はその楽しみを私に教えようとした。

神を信じないものが「神学をする」というのは結構笑える形容矛盾だが、哲学者が往々にしてただの哲学史の教師に過ぎなかったように、世に神学者を自称する者たちも、往々にして、過去の偉大な神学者の解説者、釈義学者である場合がほとんどで、直接神と対話し、観想し、神を味わう楽しみを知っているまことの神学者はむしろ稀なのではないだろうか。

何故こんな回りくどい前置きを書くのか。それは、「肉体の復活は本当にあるか?」という設問との関連で、キリストの復活ラザロの復活(蘇生)と本質的に異なり、甦ってこの世の生に戻ってくるのではなく、肉体ごと彼岸の世界へ、永遠の世界への旅立ちとしての復活だということを明らかのしたいからだ。

その際、一番厄介なのは、聖書の記述だ。聖書では、イエスが葬られて三日目の朝から、オリーブの丘から昇天するまで、体をもって弟子たちの前に度々現れたと書いている。キリストは、真っ直ぐ彼岸の永遠の世界へは行けばよかったのに、そうはしないで、しばらくの間、蘇生したラザロよろしく、この世をうろうろして、チョロチョロと弟子たちの前に見え隠れしたかのような印象を与える。いや、ただの印象ではなく、教会の伝統的な教えはまさにそのようなものとして説くのが今もって正当派のようでさえある。

はたして本当にそうか。私はラザロの墓の中にいたとき、確かに「ジョン、出てきなさい!」と言う声を聴いた。その時私は二つの声を聴いたように思う。一つは言うまでもなく巡礼のリーダー、カテキスタの一人の声だった。それを私は肉の耳で聞いた。そしてもう一つの声は、ナザレのイエスの声で、それを霊の耳で聞いたように思う。

同じことを、実はすでにペトロの首位権の教会で体験していた。「ジョン、私を愛しているか?」と言う声は、肉の耳にはウイーンのシェーンボルン枢機卿の声であったが、霊の耳に響いたのは、2000年の時間を超えて、紛れもなく主イエスの声だったではないか。




この、一つの出来事における2つの現実について、聖書は重要な示唆に富むエピソードを記している。 

中風の人をいやす(マルコ2章1-12節)

イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

イエスは人間の思いを見抜いて、この中風の人を即時に奇跡的に癒して、ご自分の力を示された。人間の目には、「あなたの罪は許される」と口先で言うのは簡単だが、中風を癒すのは容易ではない(いや、不可能だ)と映るだろう。だから、「あなたの罪は許される」と言うのは神を冒涜する言葉だと言って文句を言う者たちに、もっと難しい癒しの奇蹟を行って見せて、ギャフンと言わせてやったのだ。

しかも、本当は肉体の病、中風を癒すことより、魂の病、罪を赦すことの方が、比較にならないほど難しい高度な業であることに私たちは気付くはずではないだろうか。

長くなるが、もう一つだけ聖書の例を引こう。

五千人に食べ物を与える(ルカ9章12-17節)

日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々やへ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。
しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼らは言った、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。
というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。
彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。
イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。
みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった。

教会の神父さんが聖書のこの箇所についてお説教する時、このパンを増やす奇跡のメカニズムをどう説明するか興味深い。普通は、何も解釈しないですり抜けるのが無難なのだが、こだわると墓穴を掘る羽目になる。五つのパンで五千人を満腹させて、なお12のかごに余るためには、どうしてもパンが増えなければならない。5つのパンを裂いて12使徒が群衆に向かう。その間に手の中でパンがポコンと増える。弟子たちが手の中のパンを裂いて分けると、裂く度に手の中でポコン、ポコンとパンが増える。分けて与える弟子たちもさぞ面白かったことだろう。人は奇蹟譚だというけれど、それではまるで手品の世界ではないか。そんなの有り得ない。いや、有り得ないはずのことが起こったから奇蹟なのか?

もう一つの説明は、イエスは男だけで5千人の群衆を、50人ぐらいずつ組にして坐らせたことと関係がある。大集団の中では個は埋没するが、50人ほどの少人数になると、お互いの顔が見えてくる。イエスが利己心を棄てて、顔のある身近な人の必要に心を配るよう隣人愛を説いて、それによって群衆の一人一人の心が柔らかくなり、自分のためだけに食料を隠し持っていたものが、持たない人たちに平等に分けることで、みんな満腹し、有り余った、というのはどうだろう。

なんだ、パンは増えたのではなくて、もとからあったんじゃない。そんなの、奇跡でもなんでもない。ちぎっちゃあ増え、ちぎっちゃあ増えして、物理的には絶対に有り得ないことが起こったからこそ、奇跡じゃないの。

どっこい、そうでもないぞ。死を恐れる人間の自己防衛本能、自己愛、エゴイズムがどれほど根深く強烈なものかを考えると、せっかく自分のために持ってきたものを、そんなに簡単に気前よく他人と分かち合えるだろうか。それも、一人や二人ならともかく、5千人がそろいもそろってみんな回心するなんて、そんなことこそ絶対に有り得ない。もしそれが可能なら、この世の中に飢死にする人何か一人もいないはずではないか。人類は歴史を通じて、過去に絶え間なく無数の餓死者を出してきたし、現在も十分に栄養の取れない飢餓人口は9億6300万人おり、その数は毎年増加傾向にある。毎年約1500万人、4秒に1人の割合で飢餓が原因で死亡している。食べものを富めるものが浪費してしまうという富の格差が、飢餓の根本的な原因なのだ。世界の食料生産総量は、世界中の人々を養うに十分な量があるというのに。

50人の小グループの中で、互いの顔が見えてきて、その必要が理解できて、他人が他人でなくなって、互いに愛し合うようになって、その愛がエゴイズムに打ち勝って、隠し持っていたものを分かち合えるようになるなんて、それも、100組もそれ以上ものグループが同時に一斉にそうなるなんて、イエスがその説教と弟子たちの模範を通してそれを成し遂げたなんて、何と言う奇蹟だろう。不可能を可能にした世紀の大奇蹟ではなかっただろうか。それを集団催眠と言うか。だが、人間の独占本能、排他的所有欲の根深さを思えば、そんな催眠が起きること、それこそが高度な奇蹟なのではないか。

キコと言う人は、神を信じない人とかわらない様な価値観で生きている名前だけのキリスト信者を捕まえて、それを35人~50人の小グループに分けて、20年も30年もかけて薫陶し、何とか上の大奇跡に似た状況を体現出来るほどの小集団に育て上げようとしている。その数は、5千人などではなく、今や世界中でその数100万人ほどに増えているのではないかと私は試算する。

パンを手品のように手の中で増やすのを奇跡と言うならば、5千人の心が柔らかくなって、持たない人に持っているものが寛大に惜しみなくパンを、富を、分かち合うようにさせる方が、どれほど大きな奇蹟だろう。

 

だけど、それがどうした?それが「人間の肉体の復活」、それも「彼岸への復活」とどんな関係があるのか?それが、大ありなんですね。そのことは次回のブログで説明するとしましょう。乞う、ご期待! 

(つづく)

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★ 肉体の復活は本当にあるか イスラエル巡礼=ラザロの墓で体験したこと

2014-07-19 20:21:34 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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肉体の復活は本当にあるか

イスラエル巡礼=ラザロの墓で体験したこと

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私が40日以上もブログの更新を怠ったことは珍しい。

その間に10日余りイスラエルに行っていたが、帰ってからも心配なことがあったり国内の移動などで、なかなか他の事が手に着かなかったのです。

* * * * *


私が初めて聖地を訪れたのは、1972年5月30日に岡本公三ら3人の日本赤軍兵士らが、テル・アビブのロッド空港で26人を殺害し73人に重軽傷を負わせた 乱射事件 のすぐ後で、対日感情が極端に悪い頃だった。当時、私はドイツのデュッセルドルフに住むコメルツバンクの社員だったが、テルアビブ空港に着くと、若い日本人の単独旅行と言うだけで、直ちに隔離され、尋問される羽目になった。アルメニア教会の安い巡礼宿を当てにしていて、日本人が泊まりそうなそこそこのホテルのどこにも予約を入れていなかったことも疑惑を持たれる要因になったのだろう。忘れ難い第一印象となった。まだ30代初めのことだった。

以来、私は聖地イスラエルを度々訪れている。55才で神父になってからも、いろいろな機会に恵まれたが、自分自身のために一人で真剣に歩いたこともがあった。(その間の消息は私の本 「バンカー、そして神父」http://t.co/pALhrPLにも詳しく書いた。)

だが、そんな私にとっても、今回の巡礼は特別だった。それは、新求道共同体の一連の段階の歩みを締めくくる卒業旅行に相当するものだったからだ。11日間の旅の前半はガリレア湖のほとりの 「ドームス・ガリレア」 を拠点に、後半はエルサレムの4つ星のホテルに泊まり、ナザレのイエス誕生から洗礼、受難、復活、昇天 までの足跡を忠実に辿ることになる。

ある日は、エルサレムのすぐ近くのベタニアと言う町に行った。そこはエルサレムの街に隣接していながら、パレスチナ人の支配する区域の中にあるため、遠くを迂回して兵士達に固められた検問所から観光バスで入らなければならなかった。そこには、高さ4メートル余りのコンクリートの塀があって、パレスチナ人が自由にユダヤ人地区と行き来させないように分断している。冷戦時代、共産主義陣営に属する東ドイツの中にポツンと島のようにあった西ベルリンを、東ベルリンから分かった悪名高き 《ベルリンの壁》 のように。


   


ベタニアにはイエスの友人 ラザロ とその姉妹たち マルタ マリア の家があった。マリアはイエスがこの地上でもっとも深く愛した女、イエスをどの男性の弟子たちよりも深く理解した女性ではなかったかと思う。最後の晩餐の席では、イエスの足に高価なナルドの香油を注ぎ、自分の黒髪でそれをぬぐって弟子たちのこころを波立たせた。また、復活したイエスに最初に出会ったのも他ならぬこのマリアだった。

ある日、マリアの兄のラザロが病気だという知らせがイエスに届いた。しかし、何故かエスはすぐには動かなかった。

ラザロが死ぬのを待ってイエスはベタニアに入った。マルタはイエスが兄の死に目に間に合わなかったことをなじった。

その前後のことは、不思議なことに ヨハネの福音書11章以下 だけが語っていて、他の3つの福音書は沈黙している。興味のある方は、このブログの末尾に全文引用したから味わって読んでいただきたい。

さて、イエスがベタニアにラザロの家を訪れたとき、ラザロは死んですでに4日経っていた。あの地方の気候では、墓に葬られた骸は、4日目にはすでに腐敗が進み、墓の中の空洞は死臭に満ちているはずだった。

「もう臭いますから」と言う姉のマルタの制止を振り切って、イエスは命じて墓の入り口を塞いでいる石を取り除かせた。そして、中の部屋に入り、地下の墓室の闇に横たえられたラザロの腐乱死体に向って、

「ラザロ、出て来なさい」 と大声で叫んだ。

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出てきた、とヨハネの福音書は記している。

わたし達一行は、そのラザロの墓と言い伝えられている穴に実際に入った。その墓は現在アラブ人の所有に属するが、キリスト教徒の巡礼者は金を払えば中に入ることが許されるのだ。


   

現在の墓の入り口はイエスの時代のものではない。この入口の前の道は左方向に急な坂になっていて、隣りは旧式なスピーカーを四方に向けた塔とモスクに連なる。このモスクの建設に伴ってラザロの墓の本来の入り口は塞がれてしまったが、イエスの時代にはその入り口は写真では左下の位置にあったと考えられる。


   

現在の墓の入り口にモザイクで描かれた稚拙な図がある。3次元の立体構造を平面に映そうとした実に解りにくいものだが、添えられた説明と照らし合わせると現在の入り口 ① は今の地面の高さで、そこから下に延びる茶色に蛇行する部分は4メートルほど地下へ新しく掘られた人一人が体をすぼめてやっと下りていけるような階段のトンネルだ。そのトンネルは折れ曲がって下の6畳ほどの狭い石室  ② へと通じる。そして石室②のほぼ真ん中に、さらに狭いトンネルの階段が今降りてきたのとは反対方向に下りる穴を通ってもう一段深いところにある墓室 ③ へと通じてそこで行き止まりになる。

説明によれば、イエスの時代には、現在の入り口の左、急な坂の下に建てられたモスクのあたりにあった本来の入り口から水平に、今は塞がれている ④ の通路を経て ② の前室に入り、その部屋の床の真ん中から右下にある地下の墓室 ③ へ降りていくようになっていたと考えられる。

ラザロの骸は、この地下の3畳ほどの狭い墓室に布に巻かれ横たえられ、4日目にはマルタが言うように腐臭が部屋に満ちていたのだろう。

イエスは親友の死の悲しみに心打ち震え、涙を流し、マルタの制止を振り切って、命じて墓の入り口の石を取り除かせ、中の前室 ② に入り、そこから地下の墓室に置かれた腐乱死体にむかって、

「ラザロ、出て来なさい」

と大声で叫んだのだった。すると、ラザロは甦り、布に巻かれたまま、墓から出てきたという。

私たちは、キリストのように ④ の本来の入り口からではなく(それはモスクが建てられた時塞がれた)、


1890年代にはすでに存在していた新しい入り口から入り、長いトンネルを下に降って、② の部屋にたどり着いた。

中は非常に狭いので2-3人ずつ入った。


写真は ② の部屋からさらに下の ③ の墓室に通じる石段の通路を行く仲間。後ろ向きでないと降りられないほど狭い。

私も後から墓室に降りた。3畳ほどの穴倉だった。そこに横たわっていたラザロを思ってしばらく黙想していると、

「ジョン、出てきなさい!」

と言う重々しい声が、穴を通して上の石室から響いてきた。ちょっとショックだった。仲間内では 「ジョン」 と呼ばれている私は、思いがけずイエスに出てきなさい」命じられたラザロの屍が受けたのとおなじ衝撃に打たれたのだった。

ラザロの墓に居たわたしは、その時、自分のプライド、情念、金銭への執着、怠惰や虚飾などの罪で腐乱し、死臭を放っていたに違いない。声の主は現実にはこの巡礼団のリーダーであったのだが、その声を聴いた私は、2000年前この同じ場所で、イエスから 「出てきなさい!」 と命じられたラザロの死体と同じ心境だった。私はそれらの罪にまみれて、霊的には死んだも同然の状態にあった。キリストは、私が自分の死の原因であるこれらの罪を、その腐臭と共に、この穴倉の中に残し、回心した新しい人間となって、外の新鮮な空気と眩しい光の中に甦らなければならないのだと悟った。ああ、そんな奇蹟が簡単に起きたらどんなに幸いな事だろう。

イエスが死んだラザロの体を甦らせ、再びこの世の生に呼び戻したことは、それ自体、偉大な奇蹟ではある。しかし、この世の生を生きる者はいずれ死なねばならない宿命のもとにある。聖書は沈黙しているが、キリストによって甦らされたラザロといえども、またいずれ老いて病を得てこの世の生に別れを告げて死の眠りについたはずだ。

しかし、イエスの復活はラザロのとは全く違う。キリスト教の真髄はイエスの死に対する勝利と、復活と、永遠の生命への信仰だ。人祖アダムとエヴァは 原罪 を犯して人類の上に宿命的な を招き寄せた。イエス・キリストは、十字架の上の苦しみに満ちた死を通して死に勝利し、自ら永遠の生命に復活した。それはこの世の次元を超えた彼岸の生命への復活だ。そして、全ての人類に、つまり、アダムとエヴァに始まって、その後に地上に生きて死んでいったすべての人間と、今この世に生きていてやがて死に呑み込まれる全ての人間と、そして、これから生まれ、生き、命を次の世代に渡して死んでいくであろう全ての人間に、同じ復活の可能性を開いた。

この事を心から納得し、自分も永遠の生命に復活すると確信し、人にそれを良い知らせとして告げる事が出来なければ、また、その信仰を命に賭けて守れなければ、洗礼を形通り受けていたとしても、まだ本当のキリスト者とは言えない。

その夜、エルサレムの街中で、ユダヤ人の青年たちと、アラブ人の青年たちとの間で投石合戦があった。ただの憂さ晴らしではない。一発頭に受ければ死ぬかもしれないほどの激しい応酬だ。夕食後、街に散歩に出た巡礼の仲間たちは、その騒ぎに巻き込まれそうになって、遠く迂回して深夜遅くホテルに帰ってきた。同じ唯一の神を信じるユダヤ人とアラブ人のこの根深い対立と憎悪は、世の終わりまで続くのだろうか。ユダヤ教徒とキリスト教徒が対話と和解に向けて歩み出しているというのに。

私は、帰国後有楽町で 「ノア」 と言う映画を見た。旧約聖書になじみのない日本人には分かりにくいだろうと思った。一触即発のガザ地区の応酬の根は 「ノア」 の世界にまで遡る。

(つづく)

ラザロの死(ヨハネ11章1-57節)

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
イエスは復活と命
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。
マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、
マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
イエス、涙を流す
マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。
マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。
イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。
家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、
言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。
イエスは涙を流された。
ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。
しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエス、ラザロを生き返らせる
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
イエスを殺す計画
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

 

ベタニアで香油を注がれる(ヨハネ12章1-10節)

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」


ラザロに対する陰謀

イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。

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★ イエスの町 ・ カファルナウム

2012-11-30 22:31:55 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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イエスの町 ・ カファルナウム

―アジアの教会の未来を占う―

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 キコ氏がアジアの司教たちをガリレア湖のほとりのドームスに招待すると、120人余りの司教たちがその招待に答えてやってきた。

 最大のグループはインドの司教団だった。1700万人以上と言われるインドのカトリック信者は168人の司教達によって導かれているが、その三分の一以上の67人(枢機卿1人、大司教6人、司教60人)が参加した。

お隣の国、韓国からは最近選ばれたばかりのソウルの大司教の参加が人目を惹いた。

 日本からは元大分教区の平山高明司教がただ一人参加した。


 

カファルナウムは「イエスの町」と呼ばれてきた(マタイ9.1)。

しかし、下の写真の1世紀のユダヤ教会堂(シナゴーグ)や、

イエスが度々投宿したペトロの家が考古学的に確認されたのはわずか20年ほど前のことだ。

 

 

イエスが説教をしたカファルナウムのユダヤ教会堂の遺跡を見学する120人の司教たちとその随行の一団

 

 

カファルナウムの町の遺構の一部と

その向こうにあるのは発見されたペトロの家の上に遺構を覆う形で建てらえた8角形の教会

 

 

中央のガラス張りの床からペトロの家の遺構が見下ろせるように設計された教会でミサを司式する

ソウルの新大司教

向って右は日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院の副院長アンヘル・ルイス神父

左はドームス・ガリレアの責任者でイスラエルのレデンプトーリスマーテル神学院長のリノ神父

 

 

新求道共同体のやり方に則ってペトロの家の教会でミサを司式する

アンドレア・ヨム・スジョン大司教は今年5月に就任したばかり。

かれの新求道共同体に対する前向きで好意的な姿勢は、

今までの韓国のカトリック教会の空気を一変させるものがある。

  

 

近い将来にはソウルにレデンプトーリスマーテル神学院神学院が設立されることも期待される。

韓国の信徒の数はソウル大司教区だけで140万人。日本の全信者数の3倍にあたる。

ローマの意向に忠実な大司教の姿勢は、アジアの教会全体に対してやがて大きな影響を与えると予想される。

  

 

同じ日の午後、一行は聖母マリアが受胎告知を受けた町、そして、幼い頃からイエスが

30年間ひっそりと住んだ町ナザレに向かった。

このファッサードの大きな「お告げ」の教会中央には、

メガホンを伏せたような巨大なドームが載っているのだが、近くからは見えない

 

 

三層になっているこの教会の上の層の壁には、各国から寄贈されたマリア様のモザイク画が並んでいる

日本の聖母子像はきもの姿で描かれている

 

 

下の層はマリアとヨゼフとイエスが住んでいたナザレの家の遺構の一部が取り込まれている。

洞窟型住居の前を張り出して石造りの壁で囲った小さい家だったが、その張り出し部分の石積みは

回教徒がこの地方を支配する直前に十字軍の騎士たちの手で取り壊され、

麻袋に詰めて船に乗せて運びだし、今はイタリアのアドリア海に面したロレトの町に

マリア様の家として小さな、小さな、チャペルの建築素材に使われていて

そのミニチャペルを巨大な教会が包み込んでいる。

この祭壇の下には、ラテン語で

ここで 「神のみ言葉は人となった」 と書かれている。

マリアの受胎告知がこの場所であったということだろう。

 

 

圧倒的な存在感を示すインドの67人の司教・大司教・枢機卿達。

帰国後彼らの内の35人が新求道共同体の導入を決めたという報せがあった。

この1回の司教の集いで、

インドのカトリック教会の約20パーセント、5分の1に、一気に新求道共同体が広がることになる。

ソウルの大司教の今後の動向と共に、アジアの教会の変化から目が離せない。


~~~~~~~~

なお、今回のアジアの司教たちのドームスの集いのかげには、

ベトナムのある有力な大司教が、参加のためのビザを政府に申請したら、

今回国外に出ることは認めるが、

一旦出たら2度とベトナム国内に帰国することは認められないとの警告を受けて

参加を断念したという話があった。

また、中国の二人の司教もこの集いに参加すべく準備を整えたが、

空港で官憲に阻止されて出国できなかった。

また、アジアのある国の二人の司教は、何とか無事テルアビブ空港までやってきたが、

ビザの不備を口実にイスラエル政府が入国を認めず、そのまま引き返した例もあった。

これだけの国際的な集いともなれば、各国の思惑と外交的駆け引きもあって

国際政治の影が及ぶことも避けられないということか。


(終わり)


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★ 主はあなたをガリレアで待っている-2

2012-11-15 16:26:44 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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主はあなたをガリレアで待っている―2

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ドームスガリレアの前のスロープには大きなテレピンの樹が立っている

樹齢2000年以上と言う話だ

乾燥地のパレスチナでは、テレピンやオリーブのような樹は

2000年たっても温帯の屋久杉のような巨木になることはない

今は人の手が入ってし芝生地にポツンとあるが、元々は大小の岩石が累々とした

荒れ地の中に生えていて、他にあと2本あって、

その3本のテレピンの樹の周りにべドウイン(遊牧民)たちがテントを張っていたそうだが

今は枯れ残ったこの一本だけが孤立している

 

 

整地が及ばない向こうの荒れ地のはるか下には

曲がりくねった道路の先にキリストの山上の垂訓の教会を包む森がみえ、

その向こうは陽光に光るガリレア湖の湖面が広がっている

 

 

その上を鶴ぐらいの大型渡り鳥が群れをなして渡っていく

2000年の12月末にティベリアスの街のガリレア湖畔のホテルに泊まったときには

フラミンゴの大群が、湖面のすぐ上を左から右に渡って何十分も途切れることがなかった

 

 

飛ぶ生き物と言えば、足元の敷石に赤とんぼが一匹羽を休めていたが

中学生時代の昆虫少年の頭の中の図鑑には、この腰の細く締まった赤とんぼはいない

私の知らない日本では見られない新種に違いない

大きさはヤンマと塩辛トンボの中間ぐらいだ

 

 

昼に、ペトロの首位権の教会の前の大きな樹の下で野外ミサを行った

私がイエスの「わたしを愛するか?」と言う声を聞いた教会の前だ

ガリラヤの風邪薫る丘で-3 (参照)

 

 

ミサの祭壇は円形の石のテーブルだが、大勢の会衆に配るパンとブドー酒を乗せるにはやや手狭だ

 

 

目を上げると、樹の枝の彼方に船が見えた

ペトロが漁に使った舟よりははるかに大きい観光客を乗せる船だろう

(つづく)

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★ 主はあなたをガリレアで待っている

2012-11-13 06:20:20 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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主はあなたをガリレアで待っている

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 神様は今年2度目のイスラエルへの旅を私に恵んで下さいました。

世界の新求道共同体の創始者のキコ氏が、6年前に次いで、2度目のアジアの司教達を招いての集いを

ガリレア湖のほとりの山上の垂訓の丘にあるドームスガリレアで開くので

日本からは唯一の参加司教である平山高明引退司教(88才)に同道するためでした。

 

 

好天に恵まれ、エーゲ海の島々の上をひとまたぎ

ローマから約3時間でテルアビブへ

 

  

 

中空には半月が静かに浮かび         空の回廊をローマに向かう僚機かすれ違う  

 

 

テルアビブ空港からは66号線のフリーウエーでティベリアス(ガリレア湖のほとりの古い町)へ向かう

 

 

ドームスガリレアに着くと

白い羊と黒い羊 (私のブログ「黒くなったり白くなったり」 《ガリレアの風・・・④》 (2012.04.27)参照)

 の混成チームの音楽と歌の歓迎が待っていた

 

 

彼らの頭上には 「主はあなた達をこの山の上で待っておられた」 という

教皇ヨハネパウロ2世の言葉が刻まれていた (これ今年の5月にはまだなかった)

教皇は2000年の聖年にこの場所を訪れ、この建物の落成を祝福されたのだった

 

 

キコ氏の招待に応えたアジアの司教達120人余り

インドからの枢機卿1人大司教6人司教60人は全体の過半数を超える圧倒的プレゼンス

紀元1世紀、キリストの12使徒のひとり聖トマスはインドのマドラスで殉教を遂げている

今回、キコの招きに応えて参加したインドの古い典礼の教会の司教達の正装は人目を引いた 

私は1964年(東京オリンピックの年)に日本を脱出し、その年のクリスマスには

インドの最南端コーチンの山の上の修道院でクリスマスの儀式に参加していた

遠くの村々から夜道を上ってきた信者たちが、屋外の焚火の周りを祈り歌い踊るのを

不思議な思いで見守ったことを今でもはっきり思い出す

 

 

キコにかかると、偉い司教さんたちもその指導のままに従う

120人余りの司教を含む300人ほどの司祭・信徒が先ず告白(懺悔)をする

キコの奏でるギターと歌声をBGMに、人々の面前で一人の司教がもう一人の司教に

自分の罪を告白して、跪いて赦しを受ける

50年前、まだシスターや神学生が毎週のように懺悔していたのはもう昔の語り草

多くのカトリック信者が懺悔をしなくなって久しい

ローマ法王はそれでも毎月のように告白する中で

司教や神父や修道女でさえ年に一度も懺悔しないものも出始めているご時世だ

キコに促されて久々の懺悔と言う司教がいても驚いてはいけない 

 

 

この光景をほほえましく見守るサリー姿のインドのご婦人

私にとって、インドのサリー、ベトナムのアオザイ、日本のきもの、が

世界で一番美しい女性の民族衣装だと思われる

 

 

懺悔で心を清められると、今度は祭壇を囲んでミサにあずかる

後ろの壁画はキコの作品

 

 

キコの設計によるドームスガリレアの夜景

中央上の遠くにティベリアデの街の明かりが、その下から左にかけてがガリレア湖

(つづく)

 

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★ 2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・⑤

2012-04-30 01:06:07 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・⑤

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 同じ題で回を重ねすぎました。そろそろ飽きられる頃だと分かっています。だから、この辺で一区切りつけましょう。

 86の姉妹校の関係者が集まって、一体何が話し合われたのでしょうか。


今後の活動の構想を語るキコ氏


 ひとつは疑いもなくユダヤ教との対話促進です。キコのシンフォニ―「無垢な者たちの苦しみ」はユダヤ民族、イスラエルの民の、神秘的な苦難に満ちた歴史に光をあてたものです。目前に迫ったアメリカ公演、特にニューヨークのリンカーンセンターのエイブリ―フィッシャーホールでのシンフォニー演奏に賭けるキコの思いは深いものがあります。なぜなら、その成果如何は、彼の夢である「ドームス・エルサレム」の建設がかかっているからです。(私も5月4日にローマを発つ。夜中にこんなブログを書いている暇があったら、旅の荷作りでもした方がいいのではないか?)


この会議の重要な出席者の一人 ウイーンの神学校の設置者シェーンボルン枢機卿


 二つ目は、これからのアジアの宣教戦略についての話し合いです。アジアと言えば、日本もですが、日本の状況は今のところあまり思わしくありません。今はむしろ14億の人口を擁する中国と12億のインドです。中国は遠からず大きな社会的変化を迎えるかもしれません。このままの体制がいつまでも維持できるはずもないでしょう。その時には、宣教師の数は1万人いても2万人いても十分とは言えないのです。いまから備えが必要です。日本にだって、日本の教会に受け入れ態勢さえあれば、お金の神様の奴隷になって魂の闇に沈んでいる1億3000万の日本人に福音を伝えるという緊急課題のために、1000人も2000人もの宣教師がいても多すぎることはないのです。そんなことを言えば、夢みたいな、と一笑に付されるでしょうか。会議はミサや祈りを織り交ぜて進みます。


  

ギターをつま弾きながらミサの中で歌うキコ氏             説教をするシェーンボルン枢機卿    


 話は大きく脱線しますが、私は、今日バチカンの聖ペトロ大聖堂で、ローマ教皇による新司祭の叙階式に与ってきました。どこへでもカメラを持ち込んではばからない私としたことが、今日はどういう風の吹き回しか、祭服を着て司式に加わるのに、衆人環視の中で黒いごついカメラを肩に入堂の列に加わるのは不謹慎ではないか、と普段は全く機能しない良識が働いて、持ち込みを控えました。お蔭で、教皇ベネディクト16世を目の前にとらえるかぶりつきの特等席に居ながら、絶好の被写体の映像を一枚もお見せできないのはまことに残念至極です。年を取ったものだ。とうとう焼きが回ったな、と自嘲しました。

 私が司祭になった年、18年前にはローマの伝統的神学校のコレジオ・ロマーノから15~6人、我々のレデンプトーリスマーテル神学院からもやはり15人ぐらい、それにバチカンの外交官を養成するコレジオ・カプラニカから数名、それといろいろな修道会からも合計数名、合わせて50人前後が一度に叙階され、それはそれは盛大なものでした。それが、わずか20年足らずのうちに、教皇のお膝元で、我々のレデンプトーリスマーテル神学院から4人、誇り高きコレジオ・ロマーノからはそれより少ない3人、カプラニカ2人の合計たった9人の実に淋しい叙階式でした。

 世俗化に押しまくられて、若い世代の教会離れ、信仰離れはローマでもとうとう行き着くところまで行った感があります。このままではカトリック教会はもう終わりだ、何とかしなければ、と言う危機感に思わず武者震いが起きます。(話を戻します)


今後の世界宣教のあり方について 自分の意見を述べるドイツ人のコルデス枢機卿 (元バチカン信徒評議会議長)

わたしが ドイツ語の ボク キミ の親称に相当する "du" で互いに呼び合えるほど親しい仲の枢機卿はこの人しかいない

昔話になるが 四国のレデンプトーリスマーテル神学院が開設された当時 香川県の三本松の田舎で

神学校の裏の「とらまる山」一帯を開発して ローマ村(バチカン村)のテーマパークを開いて 

聖ペトロ大聖堂の3分の2のスケールのそっくりさんを建てて それを美術館の箱ものにして

その中にバチカン死蔵の美術品を長期貸与で持ち出して アジアに第二バチカン博物館を開いて

世界中から集客しようという地元の名士たちの夢を 本気で一緒に検討した仲だ

JALやANAや JTBなどの大手旅行会社 それに四国の地銀や関西の大手銀行まで食指を伸ばしてきた

だが あのプロジェクトはやらなくて正解だった 

一歩間違えたら バブルがはじけたあとに大赤字を抱えて潰れるところだったから クワバラ クワバラ


   

食事のテーブルで 左から キコ氏 ガリレアの東方教会の司教 コルデス枢機卿   (一人置いて) 右端はウイーンのシェーンボルン枢機卿

(シェーンボルン枢機卿のような人が次の教皇に選ばれればいいのに と思うのは私だけだろうか 何しろパパベネディクトはもうお歳だから・・・)

 

ミサの中で祭壇を香で清めるコルデス枢機卿


 世界中の86の姉妹校の設置者である86人の司教達のうちスケジュールが許して出席できた50数名と、86人の院長とその他の関係者を集めて討議された内容は、企業秘密(これは私が銀行マンだったころの用語ですが)なのでここに書くわけにはいきませんが、その代り、来賓で出席した駐イスラエル教皇大使に託されて代読されたカトリック教育省(-司祭養成に対する配慮、およびカトリック教育の推進・組織化を行うお役所)の長官ゼノン・グロコルゥスキー枢機卿の書簡の訳をご披露することにいたしましょう。


教育省長官の書簡を代読する駐イスラエルバチカン大使 

 

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

カトリック教育省

公文書番号 228/2012

 

アントニオ・フランコ

駐イスラエル、並びにキプロス教皇大使

駐エルサレム、並びにパレスチナ教皇代理 宛

 

ローマにて、2012年4月2日

大使殿

 去る3月12日、私は貴方にキコ・アルグエロ氏が私を本年4月15日から15日までドームス・ガリレエで開催されるレデンプトーリスマーテル神学院の会合に招待されたことについてお知らせし、私が主催する別の会合のために、それらの日々に聖地に行くことが出来ないことを説明いたしました。そう言うわけで、私は貴方に、私とカトリック教育省に代って、レデンプトーリスマーテル神学院の会合に出席していただきたいと思いました。

 教会にとって最も重要な課題の一つに、明日の司祭たちの養成があります。最も本来的な性格からして宣教的である教会の未来は、その大きな部分が司祭たちの資質と、彼らの宣教への心構えにかかっています。

 だからこそ、カトリック教育省は 新求道期間の道 に対して、聖地でレデンプトーリスマーテル神学院の会合を組織したことについて祝辞を送るものであります。世界中の非常に多くの司教達によって極めて好意的に評価されているこれらの神学院は、福音宣教のため、特に新しい福音宣教のために重要な任務を遂行することが出来ます。事実、熱烈な宣教的・使徒的情熱を特徴とするレデンプトーリスマーテル神学院は、キリストのために魂たちを救いたいという望みに満たされて、特別によく準備されています。

 「あなた方は、その実で彼らを見分ける」(マタイ7:16)と神なる主は言われました。この福音的基準は、神学校についても当てはまります。事実、レデンプトーリスマーテル神学院は、様々な地方教会と普遍教会のために今までに生み出した数多くの善良な司祭たちのために喜ぶことが出来ます。

 同時に、聖地におけるこの会合は、すでに良いものであるレデンプトーリスマーテル神学院が、どうすればさらにより良いものになりうるかを検討しようとするでしょう。「天上の世界では異なるかもしれないが、この地上では、生きるとは変わることであり、完全になるということは度々変わることを意味する」(ジョン・ヘンリー・ニューマン、キリスト教の教義の発展、第1章、第1節)。ですから、この 集い に参加することは、典礼や他の形の祈りに与ることを通して、対話することのうちに、また経験を分かち合いキリストの弟子のあり方を共に生きることを通して、どうすればレデンプトーリスマーテル神学院はその学生たちを、急速に変化していく喜びと希望、嘆きと不安、の世界の挑戦(現代世界憲章1参照)によりよく備えさせることが出来るかについて、共通理解に達するに違いありません。

 私は 新求道期間の道 の指導者たち、及びこの重要な会合に参加するためにドームス・ガリレアに参集された枢機卿、司教、並びに神学校の養成担当者たち全てに対して、繰り返し感謝したいと思います。神様があなた達の共にされた時間、あなた達の交わされた討議を祝福し、この 集い が聖霊の働きによる豊かな稔りを結びますように。

 この機会に、あなたに最高の個人的敬意を表したいと思います。

 

カトリック教育省 

長官 ゼノン・グロコルゥスキー枢機卿

(終わり)

 

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★ 黒くなったり、白くなったり (ガリレアの風・・・④ )

2012-04-27 07:39:08 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

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黒くなったり、白くなったり

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2012年「ガ リ レ ア の 風 か お る 丘 で」 今年も何かが ・・・ ④


「ガリラヤの風かおる丘で」 ・・・③ で = ガリラヤの丘の黒い羊たち = と言うのを書いたら、すかさず 「黒くなったり、白くなったりするのですね」 という、突っ込みメールが届きました。それにつられて悪乗りするわけではありませんが、予定外に 

=ガリラヤの丘の白い羊たち= 

についてちょっと書いてから先に進むことに予定を変更しました。


 話を複雑にしないために、一旦は敢えてカットしたのですが、実はドームス・ガリレアには「白い羊の群れ」ともいうべきもう一群の若者たちが実在するのです。

 「黒い羊」たちが、まさに「地獄」のような、地下の窓もない核シェルター、ナチスの強制収容所のようなすし詰め環境に押し込められているかと思えば、このいわゆる「白い羊」たちは、文字通り「天国」のような、陽光がさんさんと降り注ぎ、爽やかなガリレアの風が吹き渡る小ざっぱりした二人部屋に優雅に暮らしているのです。

 

中央の円筒形のミニチャペルをコの字型こ囲むの棟割長屋のような個室に

「白い羊」たちの神学生が二人ずつ住んでいる

彼らは同じ年恰好てありながら レストランのウエイターも ベッドメーキングも トイレの掃除もすることなく

優雅にお祈りと勉強三昧である 白と黒は まさに天国と地獄ほどの隔たりがあり

日常生活では彼らは互いにほとんど交わることがない


 世界に86ヶ所展開しているレデンプトーリスマーテル神学院の姉妹校の一つがイスラエルにもあって、それがまさにこのドームスの一隅におかれているのです。そこの神学生たちは、地獄の住民とほぼ同じ世代の若者で、将来の宣教師を目指して日々研鑚に励んでいます。


  

円筒形のチャペルの中では 多分24時間だと思うが 神学生が二人ずつ交代で 聖体顕示台の中のパンに現存するキリストを昼夜礼拝している

その彼らの頭の上にはブロンズの彫刻群像が


この群像もキコ氏とその弟子の彫刻家たちの合作だ

12人の弟子たちに山上の垂訓を説いているイエスの姿

それはイエスが最初の宣教者たちを養成している姿だ いわば最初の神学校の姿だと言ってもいい

 

 

空の鳥をよく見なさい とイエスが言うと 鳥ならここに居ますよ とハトが言う お蔭で私ら糞だらけです 先生なんとかしてくださいよ

と白い頭の弟子たちは言う

 

カファルナウムのユダヤ教の会堂の遺跡に行った。すると、緑の木陰で男の子が姉妹たちに聖書の箇所を朗読していた。

 このあたりでイエスはユダヤ人たちに多くの教えを宣べられた。 例えば次のような言葉だ。


  

 

空の鳥をよく見なさい。

種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。

あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。(マタイ6章26-27節)

   

  

  

頭上を悠々と舞う鳥たち

 

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。

まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。(マタイ6章28-30節)

 

   

名のわからない青い花            とげだらけのアザミの花   

白からピンクまでグラデーションのあるマーガレットの一種?

  

     レモンの花に受粉するミツバチ           この花イスラエルにいっぱい 誰か名前知りませんか?

 

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

それはみな、異邦人が切に求めているものだ。

あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6章31-33節)

「はい、わたしは今何不自由なく生活しています」(影の声)

 

全くその通りです と カエルは言う

 近くに赤い丸い屋根が見えた ギリシャ正教会の建物だ

中に入ると神父さんが退屈そうに土産物の店番をしていた

 突然、外ででけたたましい叫び声が聞こえた なんだ? と、飛び出すと

声の主 放し飼いのりっぱんオスの孔雀ではないか お願い! ちょっとだけポーズして!

するとどうだ 日本語が分かったのだ

ハイ ポーズ! どんなもんだい 上野動物園にに行ったって なかなかこう注文通りにはいきませんよね

 

 何の話でしたっけ? 脱線もここまで来るとプロ級ですね。えーと、あ、そうでした。今回のテーマは「黒くなったり、白くなったり」でしたね。そういうわけで、地獄(核シェルター)の住民と天国(明るい太陽のもとのマンション)の住民とは、同じドームス・ガリレアの敷地の中で、同じ年頃の若者の二つのグループが、反目することも、牽制しあうこともなく、淡々と住み分けて共棲している姿は、何か不思議な気がしませんか。

 黒い羊たち、社会から足を踏み外しかけた彼らの多くは、ここで自分を見出し、自分を大切にして、逞しく巣立っていく。

 白い羊たち、躓くことなくいい子ですくすく育ってきた彼らは、今はまっしぐらに明日の宣教師を目指して恵まれた環境の中で研鑚に励んでいる。

 中には、黒い羊だった子が、一念発起して、白い羊の仲間入りをして、神学生として再スタートを切るものもいる。そういう子たちこそ、人の痛み、人の弱さに対して深い共感をもって接することの出来る素晴らしい神父になるのではないでしょうか。かく言うわたくしもかつては札付きの黒い羊でした。

おしまい 

 

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★ 2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・③

2012-04-24 11:23:41 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

たまには、重い能の舞台の幕間に、軽い狂言が入るのもいいでしょう。

今回は頭の疲れない写真中心の小話をどうぞ。


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★ 2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・③

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= ガリラヤの丘の黒い羊たち =

 


この黒く変色したへその緒を下げた真っ白な子羊 まだ生まれて二、三日目でしょう

これは ローマの旧アッピア街道に沿った野原で2009年の春に撮ったものです

旧約のイスラエルの民は春の過ぎ越しの祭りに 新約のイスラエルの民(カトリック教徒)は春の復活祭の頃に

好んでこの一歳以下の子羊の肉を炭焼きにして食べる習慣があります それが実に香ばしく美味しいのですよね

この子羊に関連した記事は 私のブログ 「春の訪れ、生命の季節」 に詳しく書きました

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/27516228455c4ec55fd1a67071e8eed5

よかったちょっと寄り道をして URLをクリック して読んでから 先に進んでください

その方がこのブログの内容を立体的に味わうのに役立つかもしれませんので・・・


 先のブログで、ドームス・ガリレアを訪れるユダヤ人観光客をヘブライ語の歌で歓迎する職員たちの写真を紹介しましたが、よく見られましたか? 大部分が年若い男性たち-少年たちと言ってもいい-であることに気付かれましたか?

 彼らは、ユダヤ人観光客を歓迎してギターやボンゴや、チャランゴやタンバリンなどを奏でて ♪ シェマ― イスラエール ♪ を歌ったり、






 食堂での給仕、客室のベッドメーキング、パス・トイレの掃除、タオルの交換、ホールの掃除、etc. のサービスに当たるためにここに住んでいます。

 若くきびきびした動作の好感をもてるこの若者たちは、ホテルマンの養成学校の生徒かと見間違えそうですが、実はそうではありません。彼らは正真正銘の 「ガリレアの黒い羊たち」 なのです。

 新求道期間の道を歩む家庭は多くが子沢山で、たいていはみんな親の背中を見ながら育ち、親たちとおなじ強い信仰を保ちながら思春期を乗り越え、やがて彼ら同志で結婚して、宣教精神に燃えた子沢山のクリスチャンホームを築いていきます。

 ところが、そんな家庭にも稀に毛並みの違う子供が生まれることがあります。小さい時から親に反抗し、暴力をふるい、非行に走り、教会に行かず、学校もさぼり、悪い仲間と麻薬を吸ったり、窃盗をしたり、女の子とあらぬ関係になったり、とにかく親泣かせの悪餓鬼どもが生まれることがあるものです。とくに、共同体の活動で指導的な役割を担う立派な親たちの家庭で、そういうのが生まれることが多いというから、世の中は皮肉なものです。

 思い余った親が、キコ氏に相談すると、彼はそのどら息子をドームス・ガリレアに一時引き取ることになります。ヨーロッパやアメリカが多いのですが、時には途上国からも送られて来ることがあります。

 そのような若者は、所持金もパスポートも取り上げられ、朝早くからお祈りをし、ミサに与り、決められた労働をし、聖書を勉強し、まるで軍隊の兵役についたか、戒律の厳しい修道院に入ったかのような生活をさせられます。

 彼らが住むところはブンカーの中です。ブンカーとはドイツ語で地下壕のこと、現代風に言えば地下の核シェルターのことです。イスラエル政府は、大勢の人が集まる会場や宿泊施設には、アラブ世界からの核兵器や細菌・化学兵器の攻撃に備えて、シェルターの設備を法律で義務付けています。ここドームス・ガリレアにも、結構広い物々しい窓一つない地下ブンカーがあります。平時には無用の長物のこのブンカーを、黒い羊(ブラックシープ)の寝ぐらにするとは、キコ氏も実によく考えたものです。後はたっぷり食べさせ、仕事着を与えれば、それ以外は人件費ゼロの有能な労働力として彼らを活用します。それで、若者が奇跡のように更生・自立していくとあっては、いいことずくめの一石三鳥、いや四鳥の名案と言うほかはありません。


  

左は潜水艦の中の隔壁のような鉄の重い気密扉。中は兵舎の中か、フィリッピン娘達に売春を強要するピンククラブの

ヤクザ監視付き宿舎のようだ


二段になった蚕棚式ベッドはアウシュヴィッツの強制収容所を思わせる


 国を離れて遠くイスラエルのガリレア湖のほとりの人里離れた丘の上。囲いは無いが、お金もパスポートも車もなければ、脱走してもイスラエルの社会に紛れ込んで一生生き延びられる算段はつかないというものだ。初めのうちこそふてくされて、じたばたするが、やがて観念して大人しくなり、そのうち多くは明るいいい顔の逞しい青年に育ち、やがて別人として巣立っていきます。

 これは、目立たないけど、このドームス・ガリレアで日々起こっている大きな奇跡です。

 実は、上の白い羊の写真を巡るブログの中で紹介した日本の若者も、これを書いている私自身も、かつてはれっきとした「ブラックシープ」(黒い羊)たちだったのです。 神様に不可能はない!

(おしまい)




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★ 2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・②

2012-04-23 11:50:39 | ★ ガリラヤの風薫る丘で


ドームス・ガリレア 空から眺めると大きくて複雑な施設だが 地上から正面に回ると意外と低い単純な建物に見える


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2012年 「ガリラヤの風かおる丘で」 今年も何かが・・・②

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正面玄関のガラスの扉の上の絵は 漁師の船の錨と二匹の魚


 カトリックの宗教施設であるこのドームス・ガリレアに、最近は年に12万人ほどのユダヤ人が訪れるようになった、と前回のブログに書きました。何故そんなことが?まずその疑問に答えなければ、先に進むことが出来ません。

 すでに書きましたように、ユダヤ人が忌避する十字架の印が、目立つところには一つもないという配慮も確かにあります。しかし、ただそれだけのことでしょうか。アメリカをはじめとして、世界中からイスラエルを訪れるユダヤ人は、たいてい土産話の種にと一度は観光でガリレア湖にやってきます。すると、ユダヤ人経営の旅行会社は、観光の目玉の一つとして、必ずと言っていいほどこのドームス・ガリレアをルートの中に組み入れるようになりました。別に話合ってお互いの金銭的利害が一致して了解が出来ていると言うわけでもないのです。自由に中を見て歩いても別に一銭も金を要求されるわけでもない。今回の世界の神学校の会議のような行事などで部外者の立ち入りが制限されていないことだけ事前に電話で確かめておけばいいらしいです。「ではあとで行きますからね」とだけ告げて、どやどやと乗り込んでくる。立ち寄ってお客さんに見せると、みんな喜ぶ。それで、いつの間にか自然にそうなったのでしょう。(一人1ユーロずつ取れば12万ユーロ、それは、えーっと、1,200万円になる。年間の建物補修費は出るのになー、もったいない。オット、これは元銀行マン神父のそろばんでした。キコ氏は何でもタダ。そうでなきゃ!蔭の声

 観光バスを乗り付けて、案内嬢が上のガラスの扉から客を中に案内すると、たいてい準備が出来ていて、ヘブライ語の歌と音楽で歓迎される。ちょっとしたサービス精神のサプライズで人々は大喜び、まずすっかり心が和む。 歌は決まって、

♪ シェマ―イスラーエール ♪ シェマ―・イスラーエ~~ルー ♪ アドナーエロヒムーゥ アドナーァエハー ♪

で始まるヘブライ語の簡単な歌です。

訳せば 「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。・・・」

 ユダヤ人、イスラエルの民の聖典「モーゼ五書」の中の「申命記」6章4節のこの言葉は、ユダヤ教徒なら、寝ても覚めても忘れることのできない神の言葉、神の掟です。その言葉を、キリスト教の、カトリックの施設に足を踏み入れた途端に美しく力強い歌声に乗せて聞かされた時の気持ちを思いやってみてくださ。胸がいっぱいになって涙ぐむ人だっているかもしれない。


ユダヤ人観光客を歓迎して 「シェマ―イスラエ~~ル ♪♪」 と歌うドームスの職員たち


 彼らの大きな発見と喜びは、このヘブライ語の歌がこの建物に関わっている者たち自身にとっても、ふだんの祈りのことば、いつもの歌いなれた歌として使われているらしい、ということです。つまり、キリスト教徒なのに、旧約聖書のユダヤ教徒の聖句をヘブライ語で歌っているものたちがいると言うことです。じじつ、私はローマの共同体で、ことあるごとにこの歌を集いの中で歌っています。

 ロビーを抜けて中に入ると、そこにはユダヤ教の聖書の言葉がいたるところに氾濫している。これも彼らにとっては新鮮な驚きです。ここで働いている若い優秀な神父たちは、ヘブライ語もアラブ語も話す、などなど・・・。



 これが、彼らの歴史に、そして心の奥に刻まれた偏見と反感の対象であるキリスト教の、あのカトリックの施設かと、彼らは目を疑うのです。

そして、極め付きはこれだ!


外から見たこの図書館 そこにはガラスの球体の一部が覘いている

中に入って見ましよう



図書館の壁には高価な古い希少本がぎっしり並んでいるが

真ん中にはあの外から覘いていた青いガラスの半球の本体がほとんどの空間占領している

そしてその中心に なにやら防弾ガラスのケースに守られて 安置されているものがある



これなんだかわかりますか?

「トラー」 すなわち ユダヤ教の儀式で用いられる旧約聖書の巻きものです

推定約300年前のもの と言うのが どれぐらいの価値のものか私にはわかりませんが

ユダヤ人たちはここでこれに出会って深く感激する

 ユダヤ人たちは、自分たちがアブラハムの子孫、神に選ばれた民、イスラエルの民であると思っている。その多くはユダヤ人特有の顔立ちや人種的特徴を共有している。それに対して、このドームスに関わるカトリック信者たちは、自分たちのことを新しいイスラエルの民だと思っている。神の民、イスラエルの民であるユダヤ人達を年上の兄弟、兄たちと感じ、自分たちカトリック信者をその年下の兄弟、弟たちと感じて、彼らに対して敬意と親近感を抱いている。そのことが、この施設に入ったとたん、ユダヤ人観光客の心に自然に伝わるのではないでしょうか。

 このドームス・ガリレアの施設を着想し、それを具体的に設計したスペイン人の一信者(神父でも司教でもない)キコ氏は、最近「無垢な者たちの苦しみ」と言う題の組曲風のシンフォニーを作曲した。ギターも弾くし歌も歌うが、全く楽譜の読めない彼としては、ちょっとした冒険だった。彼はその曲をこのドームスの円形のホールにエルサレムをはじめイスラエル中のユダヤ教指導「ラビ」達を招いて、彼らの前で自前のオーケストラとコーラスを動員して演奏した。結果は大好評。聴衆は感激し大反響を呼んだ。キコの音楽は、2000年、いや4000年以上にわたる、イスラエルの苦しみと悲しみに満ちた虐げられた民の心に理屈抜きで染み透る力があったのです。

 イスラエルのユダヤ教を代表するラビは、このシンフォニーを聴いたあとの挨拶の中で、旧約の太祖アブラハムの孫のヤコブ(別の名をイスラエルと言う)の12人の子供たちの話をしました。

 末っ子のヨゼフは父イスラエルに特別可愛がられていい目を見ていた。それをねたんだ11人の兄たちは共謀して、ヨゼフをエジプト人の隊商に奴隷として売りとばした。奴隷ヨゼフはエジプトで出世してファラオの宰相(総理大臣)になった。飢饉がパレスチナを襲ったとき、イスラエルは息子たちにエジプトに下って穀物を買ってくるように言った。11人は自分たちの売りとばした弟ヨゼフがエジプトで宰相になっていることを知って驚き、仕返しを恐れたが、ヨゼフは兄たちを赦し、和解し、父と兄たちをエジプトに呼んで大切にした、と言う話がある。2000年前にナザレのイエスをローマ人に売渡し十字架の上で殺した先祖たちは、実は末の弟をエジプト人に売り渡したイスラエルの11人の息子たちだった。いま長い苦難の歴史の後、11人の兄たちの子孫である我々ユダヤ人は、王の宰相となったヨゼフに相当するキリストに出会い、和解する時が来たのだ、と。これ、ユダヤ教の大教師(ラビ)の口から出た言葉ですよ。

 2000年の歴史の中で、かつてユダヤ教指導者のトップのラビの口から、キリストとキリスト教について、ユダヤ人とキリスト教徒の関係について、旧約のイスラエルの民と新約の新しいイスラエルの民(キリスト教徒)との関係について、兄と弟の絆について、これほど明白な肯定的な説明を聞いたことがあったでしょうか。これほどの言葉を引き出すことに成功したドームス・ガリレアの建物の雰囲気と、そこで演奏されたキコの音楽の力に、私は内心舌を巻いた。

 キコ氏は、このシンフォニーをもってアメリカに殴り込みをかけるつもりのようです。この5月4日ら15日までの間に、ボストン、ニューヨーク、シカゴと、アメリカの有名な交響楽団のホームグラウンドに乗りこむつもりです。ニューヨークフィルのホームベース、リンカーンセンターの「エイブリ―・フィッシャー・ホール」は5月8日と決まっています。この結果を見て、彼は日本でも演奏することに意欲を燃やしています。その時は私がマネージャーなのだそうです。そんなわけで、私は今回のアメリカツアーにも同行することになりました。


「無垢な者たちの苦しみ」のニューヨーク演奏会のポスター

 写真は キコ氏の横顔と 民族抹殺工場アウシュヴィッツのユダヤ人移送貨車

(下の方 5月8日8時開演 の下に 「入場無料」 とあるが 実際はニューヨークのユダヤ人上流社会の招待客で一杯になる)


 またどうやら話半分で一区切りするときが来たようですね。 続きます。


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