:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ スペインで日本への宣教師誕生 -元高松の神学生ー

2011-12-30 03:43:41 | ★ 日記 ・ 小話

ヴァレンシア大司教区のインターネット公式サイトのロゴ

 

~~~~~~~~~~~~~~

  スペインで日本への宣教師誕生 

  -元高松の神学生ー

~~~~~~~~~~~~~~

 

 この出来事は、ヴァレンシアのカトリックック教会にとっても特筆すべきものだったのでしょう、教区のインターネットのサイトでも、カトリック新聞でも、いずれも一面トップの扱いでした。

 ヴァレンシア出身のマヌエル君、通称 「マヌ」 はファゴットの名手。キコのオーケストラのメンバーでもあります。彼は高松の神学校が閉鎖になったとき、もうほとんど神学の勉強を終えていて、日本語も申し分ないほど習熟していました。突然、日本で司祭に叙階される道が閉ざされ、やむなく苦労の多い彷徨う人の生活に出ることになりました。数年間をベトナムで過ごし、現地の言葉で宣教が出来るまでに成長しました。 

 

左のひげ面がマヌエル君。こちらに背を向けている右側の男はジャネス。

ジャネスはローマのレデンプトーリスマーテル神学院の一期生で、わたしの2年先輩。

元ユーゴスラヴィア国立放送管弦楽団のコンサートマスターとしてヴァイオリンを弾いていたプロ中のプロ。

神学校の夕食にバチカンの枢機卿が賓客として同席した時など、デザートのタイミングでジャネスが静かに現れる。

かれがサンサースやベートーベンの小品を奏で始めると、食堂は水を打ったように静まりかえって聞き惚れたものだ。

真ん中、ファゴットの筒先の位置に顔が見えるのが、ギターを弾くキコ。

彼も私と同じ72歳で今年(2011年)は年男。

彼の深い信仰と、あらゆる分野に秀でた天才的大きさに、男として羨望や嫉妬を超越して、ひたすら神を賛美する思いだ。


 神様はご自分の召し出しに忠実なものに対しては、ご自分も忠実でらっしゃる。マヌの故郷ヴァレンシアの大司教様が、彼の不屈の精神に目を止め、日本で司祭に叙階される機会を奪われたのなら、自分の教区の司祭として彼を叙階した上で、直ちに本人の望むところへ宣教師として派遣すると約束されました。

 12月16日、ローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の院長である平山司教様と秘書の私は、ヴァレンシアに飛び、ひとまずマヌの両親の家に落ち着きました。そして翌17日、彼を叙階してくださる大司教様に表敬訪問に伺い、その寛大な計らいに感謝の言葉を申し上げました。

 

右端の紫のキャップをかぶったのがヴァレンシアの大司教。大司教館の入り口ホールで。


 12月18日(日)の朝、11時からマヌの家の食堂で家族がそろって「教会の祈り」の読書課と朝課を一緒に唱えました。マヌの兄弟も姉妹も一緒でした。祈りの中で共同祈願を唱える箇所があります。一人ひとり、胸に湧き上がる祈りを声にして唱えます。母親が、愛する息子をはぐくみ育てた日々の苦楽、司祭として捧げることの出来る喜び、自分の手を離れて神の道具として遠く宣教地に離れていく離別の悲しみ・・・、こもごもの思いが彼女の胸から長い祈りとして溢れ、目からは涙が流れていました。続いて父親も、賛美と感謝と、そして息子を神への捧げものとして捧げる決意、喜び、賛美を祈るうちに、彼の眼にも涙が光るのを私は見落としませんでした。そして、マヌもまた祈りました。ここまで育ててくれた両親への感謝、神への賛美、そして宣教への固い決意・・・、彼の眼にもこらえきれない涙が・・・。嫁ぐ日の花嫁が両親への別れを告げる場面と同じ感動がそこにありました。ある意味で、マヌの司祭叙階の日の一番感動的な時間ではなかったかと思います。

 

マヌの右側に両親が。父親は医者で看護大学の教授でもある。新求道共同体の第1世代の夫婦。

スペインのインテリ家庭としては6人の子どもは多い方。その娘も乳飲み子を育てながら、すでに次を妊娠している。

新求道共同体の若い夫婦はいずれも子沢山。6人はおろか、10人も13人も例外ではない。そういう信仰の家庭の

 中から、マヌのような司祭、そして修道女や宣教家族が輩出するのだ。

 

 マヌの両親は、すでに上の娘を宣教家族の一員として、チェルノブイリからも遠くないウクライナの地に送り出しました。二番目の娘も、やはり宣教家族の妻として、中国の北京の北の太原に献身しています。そして、今長男のマヌエルまでも、宣教師として遠くアジアに、日本に送り出すのです。親として淋しくないと言ったら嘘になるでしょう。それでも、神のみ国の栄光のために、誇りとしてそれに耐えているのです。

 巨大な司教座大聖堂をぎっしりと埋め尽くした会衆の見守る中、多数の共同司式司祭に囲まれて、叙階式は厳かに始まりました。日本からはマヌの里親や共同体の姉妹たち、日本になお留まっている司祭、ローマの日本のための神学校の神学生全員、そして養成担当者や先輩の司祭たちも多数参列しました。


古い荘重な司教座大聖堂の夜の佇まい。街路樹はたわわに実を付けたオレンジの木。

 

      

     ヴァレンシアの大司教から叙階の按手を受けるマヌ                            手のひらに聖香油を塗られるマヌ



叙階式を終えて控えの香部屋で平山司教らと記念の一枚


 叙階式の後は、ヴァレンシア市内の一流レストランの大広間で、大変なご馳走のパーティーが開かれました。そして翌朝、ローマから参集した「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」の神学生たちと、院長の平山司教様の一行は、ヴァレンシア観光の一環として、市内から30キロ余り離れたカルトゥージオ会の修道院を訪れました。カルトゥージオ会というのは、隠遁修道士たちが祈りと日曜祝祭日のミサ以外は一人ひとり祈りと苦行の全く孤独な一人住まいの生活をするという、きわめて古い形式の修道院です。

  

カルトゥージオ会の修道僧たちの姿。中世の僧院の面影がある。

 

 修道院や旧市街の史跡を訪ね、一休みして、夜の9時からマヌの初ミサが彼の所属する教会で行われました。彼の共同体と彼の両親の共同体の合同の初ミサには約100人余りが参加した。

 


新司祭としての初説教はベテラン説教師も顔負けの落ち着いた味わい深いものだった。

 

自分で聖別したパンを捧げて、朗々と栄唱を歌い上げるマヌ

 

ミサの後には、参列者一同喜びにあふれて祭壇を囲んで輪になって踊る

 

祭服姿のマヌを囲んで、駆けつけた旧高松の神学校出身の司祭たち、左端は私。

 

初ミサのあと、余韻に酔うパーティーは夜更けまで続いたが、私は翌朝早くヴァレンシアを後にした。

市の上空に舞い上がったところで朝日が昇り始めた。

 

 マヌの今後の身の振り方ですか?おそらく3カ月の観光ビザでヴェトナムに入り、現地の宣教チームを助けることになるのではないでしょうか。ビザが切れる度に一時国外(例えば日本)へ出て、そこで旅行者として共同体の兄弟を励まして回るのもいいのではないでしょうかね(笑)。 

                                  (終わり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 「世の中、一寸先は闇」 =さようなら日本= (その-2)

2011-12-12 22:15:08 | ★ 旅行


 
~~~~~~~~~

世の中一寸先は闇

~~~~~~~~~

= さようなら日本 =

(その-2)

 

 先のブログの副題に「さようなら日本」と書いたら、「もう日本には帰ってこないのか」とか、「さては日本の教会籍を捨てるつもりになったか」など、気の早い憶測や心配の反応が相次ぎ、かえってびっくりしましたが、別にそんなに深刻な意味で書いたものではありません。5か月余りと異例に長かった今回の日本での生活に、ただ名残を惜しむ気持ちを込めたかったに過ぎません。

関空に二日の足止めを食らった後、やっと無事に機中の人となり、成層圏の水平飛行に移って、ワインとおつまみが届いたころには、窓の外の中空に13夜の月が明るく照っていました。その写真と、今回の休暇中の忘れがたい思い出の写真を2枚貼り付けながら、「世の中、一寸先は闇」という言葉をもう少し味わってみたいと思います。

 

 

機内から見る13夜の月

 

上の写真から30分後、太陽の光の余韻がすっかり消えた成層圏の夜空の月は、空気が澄んで希薄なためか、この写真よりさらに黒々とした宇宙の闇に銀盤のように冴えわたっていました。まして、真空の中を駆け巡る宇宙飛行士の見る空は、凄いまでに漆黒であるに違いありません。

この秋、私がまだ野尻湖の山荘にいたころ、11月の満月の夜は曇りで、十七夜になってやっと雲が切れました。それで、何かに誘われるように、湖畔に出て月の出を待ち、そのまま夜更けまで月の写真を撮り続けました。月明りのまばらな星空と、雲と、月を映す湖面とで、光と蔭の絶妙な対話があったせいか、その夜は不思議と孤独を感じませんでした。月の写真を配しながら、光と闇の考察を今しばらく続けたいと思います。


 

  斑尾山の稜線の落葉した木々の向こうからぬっと顔を出した17夜の月 

 

「一瞬先は闇」と言いましたが、本物の闇には確かに恐ろしいものがあります。

「闇」と言えば、私は、香川の三本松教会の田舎司祭をやっていた頃、カトリック教会の典礼にある復活祭の徹夜祭の「光の祭儀」を忠実に完璧に演出しようと、自分で設計して建てた窓の多い聖堂を完全な暗室にするために細心の注意を払ったことを思い出します。

暗幕と黒い厚手のフエルト紙で、あらゆる光を遮断しました。廊下の明かりも消し、聖堂内外の非常口の緑の誘導灯も消し、窓はもとより、ドアの上下の隙間も塞ぎ、日暮れの街になお残るかすかな光まで完全に遮断しました。灯りを順次消して、最後の一灯が消えた瞬間、聖堂の中はピンホールほどの光の漏れもない真っ暗闇になりました。万歳!大成功!

30センチと離れていない人の存在感が忽然と消えました。人の心臓の音までは聞こえないものです。一瞬にして完全な孤独に包まれる点では、聖堂にいつもの人数の会衆が入っても状況はまったく変わりませんでした。

大汗かいて準備を手伝わされた信者さんの中には、「ほんの数分間の儀式のために、こんな大そうな手間暇とお金をかけて、一体何になるんです?よその神父さんはこんな物好きなことをしませんよ。ただ電気を消すだけではだめですか?」と不平を言うものもいましたが、私は聞こえないふりを装ってかわしました。

復活の徹夜祭に、うちの信者さんたちには日常生活では決して経験することのない「本物の闇」の凄さ、恐ろしさを是非体験してもらいたかったのです。

私たちが、洗礼の恵みを受けて、キリストの光に心を照らされる前は、みんな罪と欲望と孤独の絶望的な闇の中を這いずりまわっていたのだ、ということを、現実の暗闇の体験を通して思い出してほしかったのです。

会衆が本物の闇の「凄さ」をたっぷり身に染みて味わった頃合いを見計らって、司祭である私は、火を点した復活の蝋燭を掲げてその闇に入ります。太い一本の蝋燭の明かりが闇を切り裂くと、その光は聖堂の隅々にまで届き、遠くの人の顔までもぼんやりと見えてきます。

「ルーメン・クリスティー♪!」(キリストの光♪!)と私が歌うと、会衆は「デオ・グラチアース♪!」(神に感謝♪!)と答えます。

それから、近くの者が復活の蝋燭から小さな蝋燭に火を点し、その火を周りの人の蝋燭に順繰りに分けていくと、聖堂の中はみるみる光の海になり、各自の蝋燭はその人の顔とまわりを明るく照らし出していきます。

教会の一年の典礼の暦の中で、私の最も好きな美しい儀式です。

キリスト教の福音宣教とは、復活の蝋燭のように、闇に支配されたこの世俗社会に入って、キリストの光を人々の心に点し、広めていくことではないかと思う次第です。

 

雲を照らす月


今はキリストの降誕を待つ「待降節」。そんな時に復活祭の話は季節はずれと思われるかもしれません。しかし、「闇と光」のテーマは、両方に共通します。

キリストが生まれた日、その季節、についての確かな証言は、聖書にもどこにもありません。

クリスマスが12月の25日と決まったのは、インド、イランを経てローマに入った太陽神のミトラス教の、冬至の祭りの風習に合わせたもののようです。闇の支配が強くなって日中が次第に短くなる状態から、再び日が長くなる変わり目、つまり、光が闇に勝つことを祝う祭りを、世の光であるキリストの降誕の祭りに置き換えたのでしょう。

まじめな宗教がどれも全くお呼びでなくなった 「一寸先は闇」 のこの世、世俗化が行き着くところまで行った病める現代社会に、どうしたらキリストの光を人々の心にアピールする新鮮なプレゼンテーションの仕方で伝えることができるかと、ローマの空のもとで思いめぐらす日々がまた始まりました。

(つづく)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 世の中一寸先は闇 =さようなら日本=

2011-12-06 22:55:29 | ★ 旅行

~~~~~~~~~

世の中一寸先は闇

~~~~~~~~~

= さようなら日本 =



前夜、私はホテル日航関西空港に泊まった。次の日、少し早かったが、11時半にホテルをチェックアウト。歩く歩道の向こう側のターミナルビル4階の日航ABCカウンターでスーツケースを受け取って、余裕たっぷり出発ロビーのEブロックに向かった。前日の下調べでは、そこにアリタリアのカウンターが開いているはずだった。

おや~ァ? ないな! 変だぞ!! どうして?

出発便のディスプレイのところに行って目を凝らした。12時台の便が4便。1時台の便が5便。2時台の便が4便。3時台のが・・・

その中に、私の便、アリタリアAZ792便14 時20分発ローマ行きは・・・ ン? 無い! なんで~ェ? 悪い予感がした。

 


目の前の 〔?〕 印の案内ボックスのお嬢さんのところに急いだ。「すいません、AZ793便のチェックインカウンターはどこですか?確かEブロックのはずですが・・・」

「少々お待ちくださいませ。」 分厚いファイルをパラパラとめくり、もう一度パラパラと繰りもどして、中の一枚のページをじっとみながら。「お客様、その便は今日は飛んでおりません。」

「えーェ?!そんなーァ!見てくださいこれ。 ほら、ここに (自分のチケットに代わる用紙を見せた):

                    2 Voli

                    AZ - Alitalia

                Volo 792

                    Data: martedi 6 dicembre 2011

                    Da: Kansai International Arpt, Osaka Japan

                    A: Fiumicino Arpt, Rome Italy

                   Partenza: 14:20 Arrivo: 19:15

                    Stato: confermato

つまり、復路 AZ アリタリア航空 793便 日付:2011年12月6日火曜日 関西空港 大阪 日本 14時20分(発)  フィウミチーノ空港 ローマ イタリア 19時15分(着) 

ステータス: コンファームド(確認済み)、 と書いてある。

最近の航空券は、E-チケットとか言って、手軽にメールの添付ファイルで届き、それをプリントアウトしてパスポートとともにカウンターに提示すれば、簡単にチェックインできるようになった。私は、今まで何度もその方法でヨーロッパを往復してきた。それなのに今回に限って躓いた。しかも、ボックスのお嬢さんは冷静に、アリタリアのローマ便が飛んでいるのは、月、木、土、日だけですね。火、水、金は飛んでいません、と言い切った。飛ばない火曜日にぼくの予約が入っている? いったいどういうことだ!

 


大阪のアリタリアのオフィスに問い合わせた。「お客様は昨日5日の便に予約が入っていました。予約された便にお乗りにならなかったのでその切符は規定によりすでに無効です。あらためての変更はできません。新しく切符を買って予約していただくしかありませんね。とにかくこちらで申しあげられることはそれだけです。後は発券元の代理店とお話しください」と、冷たく突き放された。

のんきに、今夜は久しぶりにローマのイタ飯だ、と思っていたのに、「世の中、一寸先は闇」 とはこのことか!

今夜のホテル代ぐらいはまだ何とかなるが、新しい航空券を正規料金で請求されでもしようものなら、たちまちお手上げではないか。どうしよう。

 

デジカメのシャッタータイミングは難しい 着陸の瞬間に押しても 右のタイヤの擦れた煙は後ろに残った


チェックアウトしたばかりのホテルに舞い戻り、8時間の時差があるローマの夜が明けるのをじりじりしながら待った。日本の夕方4時過ぎにやっと連絡がとれた。「なんとか対処するから、30分ほど待ってくれ」 と言われた。30分のわけがあるものか。何しろ相手はローマに住むスペイン人だ。案の定、4時間後の7時を過ぎてやっと電話が鳴った。

 


「済まなかった。代わりに8日の便が取れた。今は外だから帰ったら新しい予約の詳細をメールに添付してすぐ送るから、安心しろ」と言う。 すぐ送る?怪しいものだ。

悪い予感が的中して、深夜の12時まで待ったが、頼みのメールは来なかった。そして、睡魔に負けて不安のままいつしか寝てしまっていた。

虫が知らせたか、早朝4時過ぎに目が覚めた。トイレに行ってから、やおらパソコンを開け、祈る思いで立ち上がるのを待った。「あった!あったぞ!!」 これで一件落着! 

 

「世の中、一寸先は闇だ」 という言葉があるが、すべて順調に運んで当たり前と思っているまさにその瞬間に、今回のようなアクシデントに突然見舞われる。東電の幹部だけではなく、3.11の地震と津波の被災者のだれが、次の瞬間に自分が死ぬ、あるいは家族や家を奪われると予測して、それに備えが出来ていただろうか。

聖書を少しでもかじった人なら、ノアの洪水や、ソドムとゴモラの滅亡、紀元70年のイスラエルの滅亡が突然に訪れたことをすぐ思い出すに違いない。

ぬるま湯に浸かり、怠惰に流れ、人を顧みず、自己中心的に生きているこの瞬間に、私の「死」も突然やってくる。わたしに「死」を迎える万全の心の準備ができているか?!

ここまでは前置き。ここから本題の =さようなら日本= に入るはずだったが、長さの都合で次回に譲ることにする。明日の午後、仕切り直しでローマに発つ。そうすれば、来年の6月末まで、シャワーばっかりの生活に戻ることになる。妙高や関、燕の温泉とまではいかずとも、せめて、ホテルの湯船にどっぷりつかって、神経を休めることにしよう。

 

日航ホテルのエレベーターホールの生け花

(つづく)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする