:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 追憶の旅 - ウイーン

2018-06-24 00:49:51 | ★ 旅行

~~~~~~~~~~~~~

追憶の旅 - ウイーン

~~~~~~~~~~~~~

ウイーンのシュヴェヒャート空港に着いたヴェーリング格安航空機

もう以前のように気軽にローマと日本を頻繁に行き来することもあるまいと思うと、最後に一か所だけどうしても立ち寄っておきたい都市があった。それはウイーン。オーストリアの首都だ。

そこに30年来の親友が住んでいる。その名をドクター S. マリアンヌという。ドイツ人の名前はカタカナで書いても、分かる人はそれが女性だと理解するだろう。

出会った時、彼女はまだ20歳台で神学博士になったばかりの学究の徒だった。瀬田のアントニオ神学院で開かれたボナヴェントゥ―ラ学会の講師として来日したミュンヘン大学の D 教授の秘書としてはじめて日本にやってきた。その時、私はアントニオ神学院の受付兼電話番をしていた。

院長の粋なはからいで、学会のスケジュールの合間を縫って、マリアンヌの息抜きに一日東京見物の案内をしてあげなさいとい、う言う指示を受けた。それで、二人して浅草に行ったり、水上バスに乗ったり、アイスクリームを食べたりの、ローマの休日ならぬ、「TOKYOの休日」とあいなった。元銀行マンのドイツ語を話す神学生と、まだ20歳台の金髪の神学博士の(院長公認の)デートは、非日常的な香りがした。

その後、私がローマのヴェネチア広場にあるでサンマルコ教会で学生神父をしていたとき、当時ミュンヘン大学で確か助教授だった彼女は、弟の結婚式を司式してくれないかと頼んできた。快諾すると、彼女は弟とその婚約者と数名の親戚を伴ってローマにやってきた。そこで、私は由緒ある古くて美しいサンマルコ教会で二人の結婚式を挙げて差し上げた。

そのマリアンヌが、厳しい男性社会の競争に勝って、ウイーンの国立大学の神学部の「カテドラ」、つまり名誉ある「学部主席教授の地位」を射当てて、ミュンヘン大学からウイーンに移り住んだ。以来すでに10数年になる。

わたしは、彼女のアパートを訪れた。

マリアンヌの住むマンション。元は古い修道院だった。馬車のまま中庭に乗り入れられる大きな入り口の左側には、オーストリアの国旗4枚が掲げられた白い銘板がある。

ウイーンの記念碑的建造物にはこの手の印があちらこちらにある。ジークムンド・フロイドの診療所あと、とか・・・。マリアンヌのマンションの場合は「ベートーヴェンの終焉の家」とあった。マリアンヌの家は、あの有名な作曲家が亡くなった家のある建物の一郭だ。

私と彼女の関係はあの「TOKYOの休日」以来の友情がベースになっているが、当時から2人の専らの関心事は深い真面目なテーマについて神学論争をすることにあった。今回わたしが持ち出したテーマは、死から復活(世の終わり)までの心理的時間と、人類の歴史の時間との相互関係についてだった。彼女は博識の上、非常にバランスの取れたオーソドックスな教会の教えに忠実な学者だが、私はいささか乱暴な野心的な新説を持ち出しては、彼女に挑み挑発するスタイルで臨む。彼女は大概のことでは冷静さを失わない。かといって、教条主義的に私の説を頭ごなしに切り捨てることもしないで、予断と偏見なしにまず私の説を理解しようと心を開く。実に最高に楽しく最高にスリリングな、かなり高度で専門的な知的遊戯のお相手なのだ。

滞在中、彼女が大学の研究室に行って仕事をしなければならない時間帯は、私は邪魔をしないで、一人で気さくにウイーンの散策と洒落こむ。

この日は、ウイーンのカテドラル(司教座聖堂)のシュテファンドーム前の広場で手回しオルガンを奏でている山高帽のおじさんに出会った。明るく軽やかなワルツの調べを紡ぎ出している。

通りには絶えず馬の蹄の音が響いている。往時は紳士淑女の日常の乗り物だった馬車が、いまは手軽な市内観光の足になっている。

電車に乗ってシェーンブルン宮殿に足を延ばした。バラが満開で甘い香りを漂わせていた。

宮殿の正門の前では、生きているモーツァルトの彫像が出迎えてくれた。足元の帽子にチャリンと硬貨が入ると、彼は大げさな身振りで優雅に挨拶を返してくる。顔も手も金色に塗っている。

フランスのヴェルサイユ宮殿に負けじと、オーストリアのハプスブルグ家が造営し、女帝マリアテレジアによって完成された宮殿と庭園群は、いまは世界遺産に登録されている。女帝のむすめでフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは、6歳の神童モーツァルトとここで戯れた。そして、彼女はフランス革命の時、断頭台の露と消えた。歴史を感じさせられる。

庭園の随所に彫刻を配した噴水がある。

たいていは対称美を基調にした庭園だが、中にはジャポニズムの影響を受けた日本庭園もある。 

宮殿の一郭では、世紀末ウイーンを代表する画家グスタフ・クリムトの展覧会がたまたま開かれていてひどく心を惹かれたが、気の多い私は、すでに予定していた次のスポット、中央墓地に行く計画を変更しなかった。

やはり、ウイーンの中央墓地は欠かせない。トラムを乗り継いで、中央墓地の第2ゲート前で降りる。ここの一郭に私たちの耳にも親しい大音楽家たちの墓碑が集まっているのだ。

まずはベートーヴェンの墓

 

モーツァルトの墓を正面から見る。左の側面にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの銘板が。     

 

  フランツ・シューベルトの墓     ヨハン・シュトラウスと妻アデーレの墓

 

    ブラームスの墓           ヨハン・シュトラウスの父

ヨーゼフ・シュトラウスと妻アンナ

ヨハンシュトラウスの大きなモニュメントは一つだけ離れたところにある

広大な中央墓地のはずれのユダヤ人の墓地にも足を運んだ。ダビデの星以外に葬られた人を特定する手がかりのない墓碑。草ぼうぼうで長年人の訪れた気配のない一画に、幽霊のように墓碑が傾いたりして雑然と立っている。

一つの立派な墓碑が目を引いた。ヘブライ語とアルファベットで葬られた人の氏素性が刻まれているが、気になるのはこの墓石の表に明らかに銃弾によると思われる跡が無数に見いだされることだ。銃撃戦の痕か、処刑の痕か??

長い初夏の一日も、太陽が西に傾き始めていた。プラトーに急がなければ。ウイーン版の後楽園の遊園地みたいなところだ。

リーゼンラート、つまり「巨人の輪」と呼ばれる大観覧車だ。映画、第三の男のラストシーンはこの箱の中だった。あのメロディー、哀愁に満ちたチターの響きが聞こえてきませんか?

遠くの塔には空飛ぶ回転椅子が高く高く回っている。素朴な仕掛けだが、怖いぞー!

地下鉄と郊外電車の路線図にハイリゲンシュタットという駅名を見つけた。約30分でたどり着けると踏んで、急いだ。しかし、駅を出てみたら、ただの住宅街。日本の完備したガイドブックも手元に無いし・・・。ベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書に結び付く何の印も見つけずにすごすごと撤退した。こんな時、マリアンヌが待っていなければ、気分直しに懐かしいウイーンの森のホイリゲ(ワイン酒場)に行ってひとり白ワインを夜更けまで飲むのだが・・・。

翌日、北京経由のチャイナエアーで羽田に向かった。

* * * * * * * *

付記:マリアンヌは私と出会った時、どのような人生を選び取るか悩んでいた。修道女になりたかったが、入りたい修道会が見つからなかった。結婚は考えていなかった。結論としては、初代キリスト教会にあった「奉献されたおとめ」の生活に落ち着いた。ミュンヘンの大司教に直接誓いを立て、その直接の庇護のもとに生涯を教会への奉仕と祈りに捧げる。生活の資は自分で工面する。同じ生き方を選ぶ女性が現れたら、緩やかに連帯するが、組織的な結びつきは選ばない。初代教会にはあったが、女が一人で生きることの難しい粗野な中世時代には、高い塀に囲まれて集団で生きるしか道がなかったためにそのスタイルは自然に消滅した。それを、第二バチカン公会議は再発見して、信仰に生きる女性の生き方の選択肢の一つとして公認した。彼女は、ミュンヘン大司教区における先駆けとなった。

彼女は、教義神学の大家だったラッツィンガー枢機卿がドイツ人教皇ベネディクト16世になると、彼の全著作を研究した論文を教皇に献じて、教皇からバチカンで個人謁見を賜った。その様子は写真入りでオッセルバトーレ・ロマーノ(バチカン広報誌)のページを大きく飾った。

現在、彼女はバチカンの神学学会の正式メンバーとして、定期的にローマに旅行し、バチカンの城壁の中のフランシスコ教皇の質素なアパート「聖マルタの家」の一室に寝泊まりしている。

天は二物を与えないというが、それは正しくない。彼女、優れた女流神学者であるばかりではなく、プロとして立派に通用するコロラトゥーラのソプラノ歌手として、ミュンヘンのマリーエンドーム(聖マリア大聖堂)その他で復活祭やクリスマスのミサなどにソロで歌ったりしている。

彼女のゼミにはウイーンのレデンプトーリス・マーテル神学院(キコが創立した神学校)の神学生が多数学んでいる。私は、日本にレデンプトーリス・マーテル神学院が再建された暁には、彼女を集中講義で日本に呼びたいものだと思っている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 教皇フランシスコのメッセージ=新求道期間の道の50周年記念式典で

2018-06-14 00:00:20 | ★ 新求道共同体

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

新求道期間の道の50周年記念式典での

教皇フランシスコのメッセージ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ローマのトール・ヴェルガータの草原にて

2018年5月5日(土)

 親愛なる兄弟姉妹のみなさん、こんにちは!

 あなた方に出会い、あなた方と共に「感謝!」と言えるのは、わたしにとって大きな喜びです。神様に、また、遠くから旅してきた人々をはじめ、ここに集う全ての皆さんに心から感謝します。あなた方が福音を生き、福音を告げ知らせるために、神からの呼びかけを受け入れ、「はい」と答えてくれたことに対して感謝します。そして、50年前に新求道期間の道を始めた方にも深く感謝します。

 「50」という数字は、聖書の中で大切な数字です。復活された方の霊は50日目に使徒たちの上に降り、世界に教会を現わされました。それより以前に、神は第50番目の年を聖別され、「50年目の年はあなたたちのヨベルの年である」(レビ記25章11節)と言われました。それは聖なる年であり、その年に選ばれた民は、解放と圧迫された者の帰国などの新しい事実に手で触れることができました。「全住民に解放の宣言をする。・・・あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(10節)と主は言われました。さて、「道」の50年間の歩みを経て、あなた方各自が「主よ、あなたはわたしを本当に解放してくださったこと、教会の中に自分の家族を見出すことができたこと、あなたの洗礼によって古いものが過ぎ去り新しい命を味わっていること(2コリント5章17節参照)、この「道」を通して、あなたの父としての優しい愛を発見するための道筋を教えてくださったことを、あなたに感謝します」と言えたら何と幸いなことでしょう。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方は最後に「神の愛と忠実の故に感謝するためにテ・デウム」を歌うことになっています。神の愛と忠実の故に神に感謝するということはとても美しいことです。多くの場合、わたしたちは、神がわたしたちに与えてくださる恵みや贈物のために神に感謝します。そうするのはいいことです。しかし、神が愛において忠実であられることそれ自体の故に神に感謝するのは、更にいいことです。神の愛はわたしたちによるものではありません。わたしたちがどんなことをしても、神は忠実にわたしたちを愛し続けられます。これこそが、わたしたちの信頼の源であり、人生の大きな慰めです。だから、元気を出して、悲嘆にくれることがないように!そして、問題の雲があなた方の日々を重苦しく覆うように見える時も、神の忠実な愛が沈むことのない太陽のようにいつも光り輝いていることを思い起こしなさい。神の善はあらゆる悪よりも強いのです。そのことを思い巡らしなさい。そうすれば、神の愛の甘美さを想起することは、すべての苦悩の時にあなた方の助けとなるでしょう。

 感謝しなければならない大切なことがまだ一つ残っています。それは宣教に出かけようとしているあなた方のことです。今日の教会の最優先課題である宣教について、一言言及したいと心から望んでいます。宣教とは、神の忠実な愛について語ることです。そして、たとえ私たちが愛することに疲れてしまうことがあったとしても、主は、わたしを、あなたを、わたしたちを、そしてわたしたちのこの世を愛することにおいて、決して疲れることがないということを告げ知らせることです。宣教とは、わたしたちが受けたものを与えることです。宣教とは、今耳にした「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という主の命令を果たすことです。あなた方と共にこの言葉について少し考えてみたいと思います。

 「行きなさい。」宣教は出かけることを要求します。しかしながら、人生においては、安住し、リスクを取らず、状況を掌握するだけで満足する誘惑には強いものがあります。自分を愛してくれる人々に囲まれて家に残る方が簡単ですが、それはイエスの道ではありません。彼は、「行きなさい」と言って派遣されるのです。彼は中途半端な態度を許しません。彼は、旅費の一部の支給や、立て替えた旅費を後で埋め合わせることを保証すことなく、ご自分の弟子に、ご自分のすべての弟子に、ただ一つの言葉「行きなさい!」しか話されません。「行きなさい」とは、キリスト教生活の隅々にまで響き渡る力強い呼び掛けで、常に出向いて行くように、神の愛の喜びをまだ知らない兄弟を探しながら世界中を旅する巡礼者になるように、というはっきりとした招きです。

 しかし、出かけるためにどうすればよいのでしょうか。身軽に行動する必要があるので、すべての家財道具を持ち運ぶことなどできません。聖書もそれを教えています。神は、選ばれた民を解放されたとき、神への信頼という手荷物ただ一つだけを持たせて、荒れ野を行かされました。神ご自身も、人となられると、彼には枕する所もない(ルカ9・58 参照)という状態で、貧しさの中を歩まれました。彼はご自分の弟子たちにも同じ態度を要求されます。出かけて行くためには身軽でなければなりません。告げ知らせるためには捨てる必要があります。この世を捨てる教会だけが、良く主を宣べ伝えるのです。教会は、権力とお金に束縛されず、勝利主義や聖職者至上主義から解き放たれたときにだけ、キリストが人間を解放される方であることを説得力をもって証しすることができるのです。キリストへの愛のために過ぎ去る物を捨てることを学ぶ人は「自由」という大きな宝を抱きしめます。もはや、絶えずより多くを求めながら決して心の平和が得られない執着心への隷属状態から解き放たれて、落ち着きの中で心が広くなるのを感じながら、神と兄弟のために身を捧げる用意ができるのです。

 宣教の動詞である「行きなさい」は、わたしたちにもう一つのことを語っています。この「行きなさい」は複数に活用されている動詞なのです。主は「あなたは、行きなさい。次にあなたも、それからあなたも……」とは言わないで、「行きなさい、あなた方みな一緒に」と言われるのです。円満な宣教師とは、一人で行く人ではなく、ともに歩む人なのです。共に歩むということは常に、毎日修練すべき技能なのです。例えば、相手に自分の歩幅を押し付けないように気配りをしなければなりません。むしろ、相手の歩み方が自分のそれとは同じでないことに心をとめ、相手に寄り添い、相手を待つことが必要です。人生においては、他者と全く同じ歩幅の人が一人もいなように、それは信仰においても宣教においても同様です。自分で孤立したり、自分の歩み方を押し付けたりすることなく、一緒に前進するのです。抜け駆けをしたり、自分よりペースの遅いものに文句を言ったりすることなく、牧者たちも兄弟姉妹全員も共に、教会として整然と前進するのです。わたしたちは兄弟たちに伴われながら、他の兄弟たちに寄り添う巡礼者であり、神への応答は偽りのない真摯な自由の中にのみ成熟するのですから、一人ひとりの歩みに配慮し、それを尊重し、誰に対しても成長を強いることなく、個々人に対してしっかりと対応すべきです。

 復活されたイエスは「人々を弟子にしなさい」と言われます。宣教はこれです。「征服しなさい」とか「占領しなさい」などと言わないで、「人々を弟子にしなさい」、つまり「受けた賜物、あなた方の人生を新たにした愛の出会いを他の人々と分かち合いなさい」と言われるのです。これこそ宣教の核心です。つまり、神がわたしたちを愛し、神が共におられると、真の愛、すなわち、家庭でも職場でも、奉献された者としても結婚した者としても、如何なる場においても命を与えるように駆り立てる愛が可能でることを証しすることです。宣教とは、イエスの新しい弟子たちとともに、自分も弟子にもどるということです。それは、自分がキリストの弟子なる教会の一部であることを再発見することです。言うまでもなく教会は教師なのです。しかし、まず娘でなければ母にはなれないのと同様に、教会はまず弟子でなければ師にもなれません。御父の娘でありながら、師の弟子であり、人類の姉妹であることを喜びとする謙遜な教会、これこそがわたしたちの母なのです。弟子である者が他の人々を弟子にするという「弟子のありかた」のダイナミズムは、強引な改宗活動のダイナミズムとは全く別物です。

 ここに、世が信じるようになるための告知の力があります。役に立つのは説得的な論証ではなく、人を引き付ける生き方であり、押し付ける能力ではなく、奉仕する勇気なのです。そして、あなた方は聖家族の模範に倣い、謙遜と、素朴さと、賛美をもって家庭生活を営みながら、この[福音を]告げ知らせる召命をⅮNAの中に持っています。荒廃し愛情に欠ける多くの場所に、この家庭的な雰囲気をもたらしなさい。イエスの友として知られるようになりなさい。すべての人を友と呼び、すべての人の友でありなさい。

 「行って、すべての国の人々を弟子にしなさい。」イエスは「すべて」と言われるとき、その心にはあらゆる国民のために場所があるということを強調しておられるように見受けられます。誰も除外されることなく。父親と母親にとって自分の子供たちがそうであるように。たとえ大勢であろうとも、大きい人達も、小さい人達も、一人ひとりが心を込めて愛されています。なぜなら、愛は配られることによって決して減少することなく、かえって増加するものだからです。愛はいつも希望しています。両親がまず気にするのは、子供の欠点や過ちではなく、子供自身であり、その視点の中で子供の問題やその困難を受け止めるように、宣教師たちも神に愛された民に対して同じ態度をとります。彼らは否定的な面や改善すべきことを前面に置くのではく、「心で見る」、つまり、尊重する眼差し、尊敬するアプローチ、忍耐する信頼を持つのです。あなた方もこのように、「ホーム試合」のつもりで宣教に出かけなさい。なぜなら、主にとってどの国民もご自分の家の民であり、あなた方が着く前から聖霊が既に種を蒔いておられるからです。そして、この上なく世を愛してくださるわたしたちの御父(ヨハネ3章5節参照)を思い起こしながら、人間そのものに情熱を傾け、皆の喜びのために協力する者(2コリント1章24節参照)になり、身近にあって信頼できるもの、近くにいるから聞き入れやすい相手でありなさい。予め作った理想像を押し付けることなく、あらゆる国民の文化と伝統を愛しなさい。理論や計画からではなく、具体的な状況から出発しなさい。そうすれば、聖霊ご自身がその時や方法に沿って宣教を形成されます。そして、教会も聖霊の似姿として、つまり、国民、賜物、カリスマの多様性における一致として、成長することになるのです。

 親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方のカリスマは、現代教会に与えられた神からの大きな賜物です。この50年間の故に主に感謝しましょう。この50年間のために拍手しましょう!また、神の父性的な、兄弟的な、そして情け深い忠実さを見ながら、決して信頼を失うことがないように。彼ご自身が、愛する弟子のように、あなた方を謙遜な単純さとともにすべての国民のもとに行くよう駆り立てられるその時、きっとあなた方を守ってくださるでしょう。わたしもあなた方に伴い、あなた方を励まします。前へ進みなさい!そして、どうかここに残るわたしのために祈るのを忘れないでください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 「新求道共同体」 50周年記念祭典

2018-06-11 07:59:42 | ★ 新求道共同体

~~~~~~~~~~~~~~~~~

「新求道共同体」 50周年 記念祭典

~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は4月20から約一か月間ローマにいたが、10年住み慣れた神学校の部屋を片付けて明け渡すことの他、スペインやフランスに旅したのは、いわば刺身のつまのようなもので、本命のマグロのトロに当たるのは、5月5日の大祝祭典だった。スペインで始まった新求道共同体の歩みは、1968年に初めて教皇様の教区、ローマに入ってから今年の5月でちょうど50年、半世紀を迎えた。

2008年の40周年の祝いは、ローマの共同体のメンバーを中心に、バチカンの聖ペトロ大聖堂を満員にして、教皇ベネディクト16世の隣席のもと、盛大に祝われたのだったが、この50周年は全世界の120余りの国々から、ローマ警察の発表では20万人の共同体のメンバーが集まり、ローマ郊外の草原に教皇フランシスコと世界中の枢機卿・司教ら多数と共に盛大に祝われた。

数日前からの天気予報では、この日雷を伴う荒れた天気が予想されていたが、幸い夕方まで一滴の雨も降らず晴れ間さえも覗いた。

この日、私のためには、1枚の特別席のチケットが用意されていた。会場正面の大ステージの上の席だった。

赤いカーペットで覆われた正面の巨大なステージの上から見ていると、開会2時間半以上前から、世界からこの日を目指してやってきた共同体の兄弟姉妹がそれぞれの国の旗を掲げてステージにより近い場所をめざして続々と集まってきた。20万人と言えば単純にバスに換算して約4000台に相当する。バスの駐車場だけでも広大な土地がいる。自家用車ならなおさらのことだ。 

巨大なバックスクリーンはキコの壁画を拡大して布に印刷したものだ。私の席の目の下には、右に降りていくスロープがあり、スロープの向こうの小集団はキコのオーケストラの一部の演奏家たちだ。

前列のバイオリンの女性の横顔がちらりと見えた。アッ、彼女は第一バイオリンのコンサートマスターではないか。2016年東京のサントリーホールのコンサートでは、あす生まれてもおかしくないほどのポンポンのお腹で堂々とコンサートマスターを勤めていたが、その時の縁で結婚式の花嫁の証人を頼まれてその次日本に来た時にはペッタンコのお腹で、エレガントなドレス姿は見とれるほどのスタイルだった。 

その彼女が目の前で立ち上がった。エーッ!また膨らんでいる???キコの薫陶をうけた共同体の女性たちは避妊をしない。何人目だろう?

ちなみに、今朝、夜中の3時ごろ、何かの虫の知らせか目が覚めた。寝付けぬままにパソコンを立ち上げると、一件のメールが目に止まった。6月10日22:00、ベルリンフィルのコンサートホールで、キコのシンフォニー「罪のない人々の苦しみ」が演奏され、それが YouTube のライブ中継で世界中で見られると書いてあって、URLが添えられていた。時計を見たら今まさに始まろうとしていた。親切な天使が起こしてくれたのだと納得した。ベルリンフィルの晴れの舞台で、彼女は颯爽とコンサートマスターの役を演じていた。5月5日で上のお腹だった。6月10日の舞台の上ではサントリーホールの時と同じで、また、突き出したお腹ははち切れんばかりだった。 

式典開始の時間が近づくにつれ緑の草原は人であふれ始めた。遠くの人は胡麻粒のようだ。彼らから見れば、わたしも壇の上のゴマ粒に見えているのだろう。かれらは、教皇やキコの姿を何台か設置された巨大スクリーンで見ることになる。

左右に2台のテレビカメラが人の頭の上の中空に陣取っている。

ズームを引っ張って遠く会衆の最後部を引き寄せて見ると、裸眼では青い一本の線にしか見えなかったものは、会場を取り巻く万里の長城のような簡易トイレの列であることが分かった。20万人分のトイレとはこういうものかと感心した。絶えず人が出入りしている。

どちらを眺めても人、人、人、・・・

どこの国だかわからない旗がいっぱい翻っている。

私の位置からは群衆の半分しか見えないが、見渡す限り人で埋め尽くされた。これだけの群衆が平和的に一堂に会する機会は、現代世界でも極めてまれなケースではないだろうか。少なくとも、ローマにおけるカトリック教会の中のイヴェントとしては、ヨハネ・パウロ二世教皇の列聖式以来だろう。

頭上には、さっきから入れ替わり立ち代わり、ヘリコプターが2-3機低く旋回しているが、よく見るとパイロットの顔が見える。教皇の到着を待っているのだろうか。

少数ながら、礼服に身を包んだ男女の憲兵もちらほら。出番を待っている。いつ見ても恰好よく絵になっている。

定刻に遠くの方で歓声が上がった。パパモビレに乗ったフランシスコ教皇の到着だ。聖ヨハネパウロ2世はヘリを使うことが多かったが、清貧をモットーにするフランシスコはご自慢の中古のフォードか何かで地上を走ってここまできたのだろう。

聖教皇ヨハネパウロ2世は二発の凶弾を腹部に受けて絶対に死ぬべき状態から奇跡的に生還したが、ベネディクト16世はファチマの予言にある教皇暗殺を恐れてか、群衆から極力距離を置いているように見受けられた。しかし、フランシスコは全く無頓着、無防備に群衆と接触する。

壇の下でパパモビレを降りた教皇は、私の目の前のスロープを上がってきた。

人々の視線を意識しているときのフランシスコ教皇は、俳優のように若々しく表情豊かだ。しかし、彼が周りの視線を感じていない時、また一人祈るとき、全く別の顔の疲れたお爺ちゃんであることも私は知っている。

だからと言って彼の笑顔が作り笑いだとも思わない。

何はともあれ、今日の主役はやはりキコだろう。

壇の上には10人余りの枢機卿と、100人ほどの司教たちが参列している。手を口にやっているのが、昨年9月日本にやってきた福音宣教省の長官、フィローニ枢機卿。かれは日本の新しい福音宣教に力を入れている。その手法は、もっぱら新し司教人事を通して教会を変えると言うものだ。

前の二人は左が元典礼省長官のリルコ枢機卿、右の白髭はアメリカはボストンの大司教のオマリー枢機卿。

柔和に微笑んでいるのはヨーロッパからの教皇候補として現フランシスコと教皇の座を争ったウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿。その右のアリエタ大司教はバチカンの法務関係の要職にある。

韓国のソウルの大司教は今や韓国の教会を代表する枢機卿にあげられた。巷には彼が新求道共同体の神学校を誘致した功績が認められた印だという声がある。そういえば、新しい大阪の前田大司教が最近枢機卿にあげられたのも、教区内で新求道共同体を公認し受け入れたたことと関係があるという声をローマで聞いた。また、戦後初の外国人司教として沖縄司教に選ばれたアメリカ人も、大阪の補佐司教になった二人も、新求道共同体との関係がいい人達ばかりだ。語らずして教皇フランシスコの意向とそれに沿ったフィローニ枢機卿の人選が、教会の向かっている新しい方向性を指し示している。世界から教会の要人を集めたこの祝いの席に、日本の教会の代表者が一人もいないのは実に寂しい。

海外旅行が生活の一部になっている日本の庶民と違って、中南米やアフリカからここに集う共同体のメンバーは、一生一大のローマ詣での旅費を工面するのに全生活をかけているのだ。

旗、旗、旗、熱狂は頂点へと向かっている。

歓呼する新求道共同体のメンバーたちにメッセージを贈るフランシスコ教皇

教皇のメッセージの全訳は、長くなるのでこの次のブログに譲ることにしよう

この日教皇は、共同体の道の歩みを終えたローマの共同体のうち、準備の出来た25の共同体を、慣れ親しんだ自分たちの教会を出て、まだ教会の無いローマの周辺地区の移民や外国人労働者の貧しい人たちの住む地域に共同体ぐるみ宣教に送り出した。その共同体の責任者の司祭達に銀の十字架を渡して、派遣式を行される教皇。

上は、十字架と祝福を貰うために並んで跪いた司祭たち。

また、この日教皇は新たに35組の異邦人のための宣教団を全世界に向けて送り出した。子沢山の4組の家族に一人の司祭と数名の独身男女を加えたチームを宣教地のまだ教会の無い土地にパラシュートダウンさせて、そこに新しい共同体と教会を建設する橋頭保とするためだ。

警察や救急隊、教皇のシークレットサービスの他に、多数のボランティア―がこの大集会の成功を支えた。

長いアームの先のテレビカメラが大集会の模様をリアルタイムで全世界に中継した。

40周年はバチカンの聖ペトロ大聖堂でベネディクト16世と共に祝った。この日の50周年は野外の草原で20万人を集めてフランシスコ教皇と共により盛大に祝われた。

60周年には、もはやキコも私もこの世には居ないかもしれない。しかし、フランシスコの次の教皇のもとで、次の世代の共同体のメンバーたちと、もっともっと盛大に祝われることを信じていたいと思う。

(つづく)

  •  
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする