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追憶の旅 - ウイーン
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ウイーンのシュヴェヒャート空港に着いたヴェーリング格安航空機
もう以前のように気軽にローマと日本を頻繁に行き来することもあるまいと思うと、最後に一か所だけどうしても立ち寄っておきたい都市があった。それはウイーン。オーストリアの首都だ。
そこに30年来の親友が住んでいる。その名をドクター S. マリアンヌという。ドイツ人の名前はカタカナで書いても、分かる人はそれが女性だと理解するだろう。
出会った時、彼女はまだ20歳台で神学博士になったばかりの学究の徒だった。瀬田のアントニオ神学院で開かれたボナヴェントゥ―ラ学会の講師として来日したミュンヘン大学の D 教授の秘書としてはじめて日本にやってきた。その時、私はアントニオ神学院の受付兼電話番をしていた。
院長の粋なはからいで、学会のスケジュールの合間を縫って、マリアンヌの息抜きに一日東京見物の案内をしてあげなさいとい、う言う指示を受けた。それで、二人して浅草に行ったり、水上バスに乗ったり、アイスクリームを食べたりの、ローマの休日ならぬ、「TOKYOの休日」とあいなった。元銀行マンのドイツ語を話す神学生と、まだ20歳台の金髪の神学博士の(院長公認の)デートは、非日常的な香りがした。
その後、私がローマのヴェネチア広場にあるでサンマルコ教会で学生神父をしていたとき、当時ミュンヘン大学で確か助教授だった彼女は、弟の結婚式を司式してくれないかと頼んできた。快諾すると、彼女は弟とその婚約者と数名の親戚を伴ってローマにやってきた。そこで、私は由緒ある古くて美しいサンマルコ教会で二人の結婚式を挙げて差し上げた。
そのマリアンヌが、厳しい男性社会の競争に勝って、ウイーンの国立大学の神学部の「カテドラ」、つまり名誉ある「学部主席教授の地位」を射当てて、ミュンヘン大学からウイーンに移り住んだ。以来すでに10数年になる。
わたしは、彼女のアパートを訪れた。
マリアンヌの住むマンション。元は古い修道院だった。馬車のまま中庭に乗り入れられる大きな入り口の左側には、オーストリアの国旗4枚が掲げられた白い銘板がある。
ウイーンの記念碑的建造物にはこの手の印があちらこちらにある。ジークムンド・フロイドの診療所あと、とか・・・。マリアンヌのマンションの場合は「ベートーヴェンの終焉の家」とあった。マリアンヌの家は、あの有名な作曲家が亡くなった家のある建物の一郭だ。
私と彼女の関係はあの「TOKYOの休日」以来の友情がベースになっているが、当時から2人の専らの関心事は深い真面目なテーマについて神学論争をすることにあった。今回わたしが持ち出したテーマは、死から復活(世の終わり)までの心理的時間と、人類の歴史の時間との相互関係についてだった。彼女は博識の上、非常にバランスの取れたオーソドックスな教会の教えに忠実な学者だが、私はいささか乱暴な野心的な新説を持ち出しては、彼女に挑み挑発するスタイルで臨む。彼女は大概のことでは冷静さを失わない。かといって、教条主義的に私の説を頭ごなしに切り捨てることもしないで、予断と偏見なしにまず私の説を理解しようと心を開く。実に最高に楽しく最高にスリリングな、かなり高度で専門的な知的遊戯のお相手なのだ。
滞在中、彼女が大学の研究室に行って仕事をしなければならない時間帯は、私は邪魔をしないで、一人で気さくにウイーンの散策と洒落こむ。
この日は、ウイーンのカテドラル(司教座聖堂)のシュテファンドーム前の広場で手回しオルガンを奏でている山高帽のおじさんに出会った。明るく軽やかなワルツの調べを紡ぎ出している。
通りには絶えず馬の蹄の音が響いている。往時は紳士淑女の日常の乗り物だった馬車が、いまは手軽な市内観光の足になっている。
電車に乗ってシェーンブルン宮殿に足を延ばした。バラが満開で甘い香りを漂わせていた。
宮殿の正門の前では、生きているモーツァルトの彫像が出迎えてくれた。足元の帽子にチャリンと硬貨が入ると、彼は大げさな身振りで優雅に挨拶を返してくる。顔も手も金色に塗っている。
フランスのヴェルサイユ宮殿に負けじと、オーストリアのハプスブルグ家が造営し、女帝マリアテレジアによって完成された宮殿と庭園群は、いまは世界遺産に登録されている。女帝のむすめでフランスのルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットは、6歳の神童モーツァルトとここで戯れた。そして、彼女はフランス革命の時、断頭台の露と消えた。歴史を感じさせられる。
庭園の随所に彫刻を配した噴水がある。
たいていは対称美を基調にした庭園だが、中にはジャポニズムの影響を受けた日本庭園もある。
宮殿の一郭では、世紀末ウイーンを代表する画家グスタフ・クリムトの展覧会がたまたま開かれていてひどく心を惹かれたが、気の多い私は、すでに予定していた次のスポット、中央墓地に行く計画を変更しなかった。
やはり、ウイーンの中央墓地は欠かせない。トラムを乗り継いで、中央墓地の第2ゲート前で降りる。ここの一郭に私たちの耳にも親しい大音楽家たちの墓碑が集まっているのだ。
まずはベートーヴェンの墓
モーツァルトの墓を正面から見る。左の側面にはヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの銘板が。
フランツ・シューベルトの墓 ヨハン・シュトラウスと妻アデーレの墓
ブラームスの墓 ヨハン・シュトラウスの父
ヨーゼフ・シュトラウスと妻アンナ
ヨハンシュトラウスの大きなモニュメントは一つだけ離れたところにある
広大な中央墓地のはずれのユダヤ人の墓地にも足を運んだ。ダビデの星以外に葬られた人を特定する手がかりのない墓碑。草ぼうぼうで長年人の訪れた気配のない一画に、幽霊のように墓碑が傾いたりして雑然と立っている。
一つの立派な墓碑が目を引いた。ヘブライ語とアルファベットで葬られた人の氏素性が刻まれているが、気になるのはこの墓石の表に明らかに銃弾によると思われる跡が無数に見いだされることだ。銃撃戦の痕か、処刑の痕か??
長い初夏の一日も、太陽が西に傾き始めていた。プラトーに急がなければ。ウイーン版の後楽園の遊園地みたいなところだ。
リーゼンラート、つまり「巨人の輪」と呼ばれる大観覧車だ。映画、第三の男のラストシーンはこの箱の中だった。あのメロディー、哀愁に満ちたチターの響きが聞こえてきませんか?
遠くの塔には空飛ぶ回転椅子が高く高く回っている。素朴な仕掛けだが、怖いぞー!
地下鉄と郊外電車の路線図にハイリゲンシュタットという駅名を見つけた。約30分でたどり着けると踏んで、急いだ。しかし、駅を出てみたら、ただの住宅街。日本の完備したガイドブックも手元に無いし・・・。ベートーヴェンのハイリゲンシュタットの遺書に結び付く何の印も見つけずにすごすごと撤退した。こんな時、マリアンヌが待っていなければ、気分直しに懐かしいウイーンの森のホイリゲ(ワイン酒場)に行ってひとり白ワインを夜更けまで飲むのだが・・・。
翌日、北京経由のチャイナエアーで羽田に向かった。
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付記:マリアンヌは私と出会った時、どのような人生を選び取るか悩んでいた。修道女になりたかったが、入りたい修道会が見つからなかった。結婚は考えていなかった。結論としては、初代キリスト教会にあった「奉献されたおとめ」の生活に落ち着いた。ミュンヘンの大司教に直接誓いを立て、その直接の庇護のもとに生涯を教会への奉仕と祈りに捧げる。生活の資は自分で工面する。同じ生き方を選ぶ女性が現れたら、緩やかに連帯するが、組織的な結びつきは選ばない。初代教会にはあったが、女が一人で生きることの難しい粗野な中世時代には、高い塀に囲まれて集団で生きるしか道がなかったためにそのスタイルは自然に消滅した。それを、第二バチカン公会議は再発見して、信仰に生きる女性の生き方の選択肢の一つとして公認した。彼女は、ミュンヘン大司教区における先駆けとなった。
彼女は、教義神学の大家だったラッツィンガー枢機卿がドイツ人教皇ベネディクト16世になると、彼の全著作を研究した論文を教皇に献じて、教皇からバチカンで個人謁見を賜った。その様子は写真入りでオッセルバトーレ・ロマーノ(バチカン広報誌)のページを大きく飾った。
現在、彼女はバチカンの神学学会の正式メンバーとして、定期的にローマに旅行し、バチカンの城壁の中のフランシスコ教皇の質素なアパート「聖マルタの家」の一室に寝泊まりしている。
天は二物を与えないというが、それは正しくない。彼女、優れた女流神学者であるばかりではなく、プロとして立派に通用するコロラトゥーラのソプラノ歌手として、ミュンヘンのマリーエンドーム(聖マリア大聖堂)その他で復活祭やクリスマスのミサなどにソロで歌ったりしている。
彼女のゼミにはウイーンのレデンプトーリス・マーテル神学院(キコが創立した神学校)の神学生が多数学んでいる。私は、日本にレデンプトーリス・マーテル神学院が再建された暁には、彼女を集中講義で日本に呼びたいものだと思っている。