:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ キリスト教の洗礼について(その-1)

2024-12-23 00:00:01 | ★ 神学的考察

 

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キリスト教の洗礼について(その-1)

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 いま85歳の私が中学2年生で洗礼を受けたとき、担任のクノール神父さんは私に一本の灯のともったろうそくを手渡して、「ともれる灯(ともしび)を受けなさい。主イエス・キリストが来られるとき、喜んで主を迎えることが出来るように、いつも光の子として歩みなさい。」という意味の言葉を言われたことになっている。ことになっている、とはずいぶん無責任に聞こえるかもしれないが、10人ほどの同級生に流れ作業で繰り返される言葉の深い意味をその場でしっかり悟れるはずはなかった。

 洗礼そのものがただの儀式に過ぎなかった。受洗後は、日曜日のミサの時に赤く長いスカートをはき、白いケープを着て赤い幅広のカラーをつけたピエロのようなスタイルで祭壇に奉仕し、ウイーン少年合唱団よろしくラテン語の合唱などもやったが、それ以外は、洗礼の前にも、後にも、自分の生活はまわりの生徒たちと何も違わなかった。

 中・高はミッションスクールの男子校だからまわりに女子学生はいなかったが、思春期の色欲は健全にもすこぶる旺盛だった。上智大学でイエズス会の志願者だった間は猫をかぶっていたが、会を飛び出した後は、解き放たれた若駒のように全力で疾走し、ほとんどの学生が就職活動でおとなしくなる大学の4年に学生会の議長選挙に立候補して、当選後は上智大全学生の頂点に君臨し、書記と称してきれいな女子学生の大根足を壇上に並べたりもした。議長の立場を武器にせっかくナンパに成功しそうになっても、「僕はいつか神父になるかもしれないので結婚はしない」とポロリと本音を吐くと、彼女らはみな身をひるがえして去っていき、間もなく「お見合いして結婚することになりました。」と言って東大や慶応のお坊ちゃまを紹介された。女性とは薄情な現実主義者だ、という確信がそのとき植え付けられた。中には、それなら私も、とばかりにシスターになったのもいないわけではなかったが、要するに私は振られ上手だったと言える。

 話を元に戻せば、私は神父さんから額(ひたい)にチョロリと水を注がれた洗礼の前も後も、意識も生活態度も全く変わらないごく普通の多感な若者にすぎなかった。洗礼は主観的には私の本質を何も変えなかった。洗礼が人間の生き方の根底を覆すほど重大なことだということは、ずっと後になってやっと気が付いた。

 

手に入る画像の中でイエスの全身がヨルダン川の水に沈むのを比較的忠実に再現しているのはこれだろうか

本当は洗礼者ヨハネも左の岸辺にではなく、イエスと一緒に水に入っているはずだが・・・

 

 そもそも、洗礼式の本来の形が、全身水に沈む「浸しの洗礼」であることに注意が向いたのも、1965年前後、カトリック教会の歴史上2度しか起きなかった180度の大転換点に当たる第2バチカン公会議の後だった。

 聖書によれば、確かにナザレのイエスはヨルダン川に入り、全身頭までしっかり水に沈んで、洗礼者聖ヨハネから「罪の許しを得させる悔い改めの洗礼」を受けたとある。それは、私が受けた教会の建物の中で額にチョロリと水を流してもらう「注ぎの洗礼」とは、形も意味も全く別ものであることを知らなかった。また、その洗礼の本質が回心に伴う「罪の赦し」であることも意識していなかった。そもそも、洗礼を受けたときの私は、自分が赦しを受けなければならない罪人であるという自覚すらほとんどなかった。洗礼はただ、キリスト教会への入信式にすぎず、それ以後は信者として未信者と区別されるだけのことだった。

 

イエスの洗礼

洗礼が額にチョロリと水を注ぐだけのものとしてイメージされるようになったのは、おそらく4世紀頃からではなかったか

 

 話をがらりと変えよう。魚は鰓(えら)で水中の酸素をとって生きている。だから水から揚げるとすぐ死んでしまう。反対に、猿や人間は肺呼吸して空気中の酸素を吸って生きているから、水に15分も沈められれば溺れて死んでしまう。

 その意味で、人が水に沈むことは昔から「死」を象徴している。つまり、洗礼で頭まで水に沈むと言うことは、「お前は溺死した」ということを意味していた。何に死んだのか。古い人間に生きる罪人-に死に、古い人間の屍(しかばね)とともにすべての罪を水中に残して、キリストの復活の命を身にまとった新しい光の子に生まれ変わって水から立ち上がり、聖なる人として信仰の光の中で新たな命を生き始めることを象徴しているのだった。

 だから、肉体の目には満員電車の中のサラリーマンは皆同じビジネススーツに身を包んだ同じ人間に見えるが、霊的な目で透視すればクリスチャンとノングリスチャンとの間には人間とチンパンジーほどの違いがあるはずなのだ。

 知れば愕然とするほど大きなこの霊的変化を、洗礼は人間にもたらしたはずだった。頭まで水に沈む「浸しの洗礼」を受けた人なら、その宗教儀式が象徴する重大な意味、即ち、人は洗礼とともにキリストの死と復活に与るという事実を説明してもらったかもしれないが、「注ぎの洗礼」を受けた人も、授けた人も、その重大な信仰の神秘をほとんど意識していなかったのではないか、と今にしてわたしは疑う。

 少なくとも、中学二年生の私はもちろんのこと、恐らく私に洗礼を授けたクノール神父さんもそんなこと深く考えてはいなかったのではないか。洗礼の前と後で何も変わらなかったのはそのためだった。そして、日本でカトリックの洗礼を受けた人達も、みなほとんどは同じだったに違いない。

 つまり、洗礼を受ける前の私は神道や仏教を信じていた自然宗教の人たちと同じだったし、洗礼を受けた後も自然宗教の信者たちと変わらないレベルの宗教心を生きていたにすぎない。それはただ自然宗教の仏教バージョン神道バージョンから、同じ自然宗教のキリスト教バージョンに外面的な装いが変わっただけだった。バージョンは違っても自然宗教はあくまで自然宗教だ。煎じ詰めればどれもこれも「ご利益宗教」であることに変わりはない。

 ところで、マタイの福音書には10人の乙女たちのたとえ話がある(25.1-13)。賢い五人は灯火(ともしび)と一緒に油を入れた壺に持っていた。愚かな五人は灯火はもっていたが、油を用意していなかった。

 この話が洗礼を受けたとき私が持たされた火の灯ったローソクと関係があることに、私は長い間気が付かなかった。それはそうだろう、2000年前のともし火と現代のローソクは、目的は同じでも全くの別物だからだ。

 キリストの時代のともし火は油の入った陶器のランプが普通で、一度燈心の火を消してしまったら、もう一度火をつけるのは容易ではなかった。シュッ!と擦れば簡単に火が付くマッチは19世紀以降のものだから、キリストの時代には火の点ったランプを用意したら、実際に使う本番までずっと点したままにするしかない。だから、万一それを必要とするタイミングが遅れる場合に備えて、別の壺に予備の油を用意しておく必要があったのだ。

 聖書のともし火の話を、現代の注ぎの洗礼の時のように、安価なパラフィンのローソクにガスライターで火をつけたり消したり自在にできる現代の感覚で読んだら、意味を取り違えることになる。

 洗礼のとき、水に沈んで罪にまみれた古い人間の屍を水中に残し、キリストの復活にあずかる新しい人間として水から立ち上がった受洗者は、真新しい白衣を着せられる。それは、受洗者がすべての罪を赦されて新しい人間に生まれ変わり、聖なるものとなったことを象徴する。端的に言えば、人は洗礼を受けた時、みな罪を知らぬ聖人になったことになる。そして、この白い衣服は復活後に天国の宴に連なるときに着る晴れ着を意味する。だから、洗礼を受けたすぐ後に死ねば、人はみな聖人として天国に直行すること疑いなしだった。

 ところが、普通は洗礼後もしばらくこの世で生きていかなければならない。この浮世の生活を生きるということは、いやでも日々罪にまみれることになる。嘘をつかない人はいないだろう。性欲にまみれ、淫らな思いにふけり異性に近づくこともあるだろう。傲慢や嫉妬や憎悪に駆られ、物欲に溺れ、金銭に執着しその奴隷にもなるだろう。だから、人はみな日々初心に帰り回心の業に励まなければならない。そのためにカトリック教には「懺悔」とか「告解」とか「赦しの秘跡」などという便利なものがある。神父のところに行って自分の罪を正直に告白すれば全て許され、洗礼の時にいただいた白い衣は、罪によごれて汚くなっても再び元の純白に戻ることが出来る。懺悔は第二、第三・・・の洗礼のようなものだ。人はこうして死ぬまで絶えず「回心」を繰り返しながら天国に入るにふさわしい聖人の境地に近づくことになっている。これこそ超自然宗教であるキリスト教の生きざまであるはずだ。超自然宗教である真のキリスト教は、一切の現世利益(りやく)を売らないことになっているが、その代わりに死からの復活と永遠の命を確約する。

 ところが現実はどうか。人はとどまることも後戻りすることもできない回心の旅路を一直線に自分の終末である死に向かって進むことなく、四季がめぐる様に同じ場所でぐるぐる回るマンネリズムの惰眠に落ちていないだろうか。前者が超自然宗教の救済への道で、後者は自然宗教の始めも終わりもない迷妄の中を堂々巡りする道なのだ。

 色々脱線したが、今改めて、私たちはキリスト教の洗礼の本当の意味を再発見し、生活を再点検し、回心と深くリンクしたキリスト者本来の生き方を考えなおす必要がありそうだ。回心は洗礼の前に緒についていなければならなかった重大事だが、後、先は構わない。今からでも遅くはない。死が突然襲い掛かってくるまでに、まだ「回心」の油を買いに行くしばしの暇はあるのだから。今ならまだ間に合う。これを終活と言わないで、何が終活だろうか。

  あと一つ寝るとクリスマスイヴ!あなたの今年のクリスマスと去年のクリスマスは同じですか?同じならヤバイ!来年のクリスマスこそは洗礼の回心の実を結ぶクリスマスになりますように!

メリークリスマス!

(つづく)

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★ 福音書の中の自然宗教的要素

2024-10-22 00:00:01 | ★ 神学的考察

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福音書の中の自然宗教的要素

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キリストの写真 

聖骸布に残されたキリスト本人の顔

 

 また、変なことを言う、などと思わないでください。最初に断っておきますが、キリスト教 が天地万物の創造主であり、自然を超越して永遠に存在しておられる唯一の神を信じる「超自然宗教」であることは言うまでもありません。

 それは、疑いもなく真実であり、もちろん私自身もそれを固く信じています。

 しかし、福音書を読んでいると、おや?ここには自然宗教のことが書かれているのではないか、と思わせる箇所があちこちに顔をのぞかせているのが気がかりです。

 早速一つの例を引きましょう。

 マタイの福音書の20章には、「ヤコブとヨハネの母の願い」というくだりがあります。

 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」・・・すると、「他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 これって、今の衆議院選挙の時期に実にふさわしいテーマではありませんか。誰が王座に着くか?つまり誰が総理大臣の地位に登るかは、代議士たちの最大の関心事だったでしょう。今回は、結果的に石破がなりましたが、決まる直前までは、高市がなるか?小泉になるか?自分にとって今だれ誰に擦り寄っていくのが一番の得策か、と皆真剣に考えていたに違いありません。

 お目当ての候補が総理、総裁になった暁には、自分もきっと大臣の要職につけるだろう、しかし外れたまた当分は冷や飯喰らいと、皆が地位と権力と金の欲にまみれて必死で皮算用していたに違いありません。 

 イエス・キリストの弟子たちも、似たような野心に駆られてイエスの後についていただろうことは、出しゃばりの母親に抜け駆けをされた他の十人の者が皆「これを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と言うくだりから見え見えです。

 昔風に言えば右大臣、左大臣。今風には幹事長、政調会長、外務大臣、財務大臣、防衛大臣、等々。誰もがいいポストを求めてせめぎ合っているのです。

 そこへ、息子の出世を願って母親が出てくるあたりは、ママゴンと言うか、マザコンと言うか、世の中は今も昔も全く変わりありません。そして、それに腹を立てたということは、ほかの10人の弟子たちも五十歩百歩の同じ穴のムジナであることを白状しているようなものです。

 このような話から、超自然宗教の創始者であるキリストに召し出されたのに、付き従った12人の弟子たちは皆、多かれ少なかれイエス・キリストをこの世の権力者、覇者としてのメシアになるべき人だと当て込んで、ひたすら世俗的な野心と下心で付き従っていたに違いないことが透けて見えます。これこそ現生ご利益をあてにした自然宗教的メンタリティーでなくて何でしょうか。

 

イエスが5つのパンと2匹の魚を5000人に食べさせた奇跡

 

 イエスが5000人の群衆に5つのパンと2匹の魚を分けて皆を満足させた奇跡譚の後でも、イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6、26)と図星の言葉を吐かれましたが、これなども、イエスの人気が現生ご利益求める群衆心理から生まれたものであることを鋭く見抜いておられたことを物語っています。

 続いて浮かんでくるのが、次の場面です。(マルコ8.31-37)

「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

 と聖書にあります。それはそうでしょう、ペトロがイエスをいさめるのは無理もありません。なぜって、我が主イエスには、これから立派にメシアとしての華々しいキャリアーを上り詰めて権力の座に着いてもらわねば、付き従った甲斐がない。その暁には、自分も相応の地位に就き、偉くなって多くの利権に与るはずではないか。その主が長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、多くの苦しみを受けて殺されてしまうなんてとんでもない話です。イエスには是非とも有力者たちから全面的支持を集めて頂点に上り詰めてもらわなければならない。あてにしたご利益がふいになるなんて考えたくもない、というのが弟子たちの本音です。 

 だから、イエスをいさめたペトロにしてみれば、当前のことを言ったまでのことではなかったでしょうか。

 それなのに、イエスはペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と一蹴して言われた。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と。しかし、この言葉は当時の弟子たちの理解力をはるかに超えていたのです。

 ここに、イエスの説く魂の救いの道としての 超自然宗教 と、現世利益を求める弟子たちの思惑の 自然宗教 との決定的すれ違いが歴然と現れています。

 そう考えると、イエスが振り返って弟子たちを見ながら、ペトロを叱って『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われたくだりは、ペトロの 自然宗教 的な考え方を厳しく咎められた言葉として理解することができます。

 さらに決定的なのは、夜のゲッセマネの園で繰り広げっれたイエスの捕縛劇の場面でしょう(マルコ14.43-50)。

 

接吻でイエスを売ったユダ

 

 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

 それを見た弟子たちは皆、イエスの道連れになって十字架に架けられてはたまらないと、イエスを見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。

 彼らは、夢と野望を抱いて3年間イエスと寝食を共にしましたが、イエスがあっけなく捕らえられ、犯罪者として十字架に処刑され悲惨な死を遂げたのを見て、自分たちの期待が当て外れに終わったことを悟り、失意に打ちひしがれて故郷のガリレアに帰り、みんな元の貧しい漁師の生活に戻ってしまったのです。

 すべてはとんだ当て外れに終わってしまった。逃げ遅れて捕まり、巻き添えを喰らって一緒に十字架につけられる危険を辛くも逃れて生き延びたことをせめてもの幸いと、胸をなでおろしたことでしょう。まさに一巻の終わりです。歴史には、無数の新興宗教の教祖が現れ、弟子を集め、しばらく大衆を惹きつけ、やがてまた消え去り、忘れられていきました。イエスの宗教もその一つとして教祖イエスの大失敗の死で終わり、消滅するはずではなかったでしょうか。

 それにしても、もし本当にこれで話が終わりだったとしたら、キリスト教が超自然宗教として確立され、2000年余りの歴史の荒波に耐えて、いま現在、世界の大宗教として実在している事実をどう説明すればいいのでしょうか。一体何があったのでしょうか。この問いに答えを出さなければ、今の世にまだキリスト教が生きながらえている事実をどう理解すればいいのからないではありませんか。

(つづく)

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★ 聖人の死に方について(そのー3)

2024-09-23 00:00:01 | ★ 神学的考察

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聖人の死に方について(そのー3)

ー映画「セントオブウーマン」(夢の香り)に触発されてー

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 野良犬のように自由な国際放浪生活にすっかり慣れていた私は、いつの間にか日本全国に羊を抱える広域牧者にもなっていた。

 昨年神奈川県のホームで洗礼を授けた老人が亡くなられ、その遺骨が岩国市のお姉さんの家に帰ってきたのを機会に、追悼ミサを捧げるために神戸から出向くといった具合だ。

 岩国まで行けば、元米軍兵士で、半世紀たった今もベトナム戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている親友に会わなければならない。聖書のたとえ話ではないが、神戸中央教会のおとなしい99匹の羊をおいて、一匹の迷える子羊を追わなければ私は本物の善き牧者にはなれない、というプロの神父の本能のなせる業だ。

 間もなく90歳の大台に乗ろうという彼は、今も20トン積みの大型トラックの現役運転手をしている。年齢からいえば実に無謀な話で、このままいけばいつか運転中に事故って死ぬと私は恐れるが、彼にしてみれば、無心にハンドルを握っている時だけPTSDの嵐から逃れられる救いの時間なのだ。彼には無意識のうちにそういう死を願望している気配がある。私はといえば、仕事を終えた彼と温泉に入り背中を流しあう以外に、なすすべを知らない。私のキリスト教の話など、彼の恐ろしい記憶の前には羽毛よりも軽いのかもしれないのだ。

 時には彼の助手席に乗ることもあるが、たいていは彼が走り回っている日中は常宿の会社社長(いや、今や会長)夫妻の家でパソコンに向かうのが私のパターンなのだが、今回は朝から会長夫人と二人だけになり、「たまには映画でもいかが?」と誘われて、居間の特大の液晶画面に映し出された映画が「セントオブウーマン」(直訳すれば「女の香り」)だった。

 

 

 この映画、彼女のお勧めの一本だけあって、私の心に深く突き刺さり、万年故障気味の私の涙腺からは涙があふれ出たが、その感動の内容をうまく伝えるのは私の能力を超えているので、インターネットからの引用に任せることにしよう。

 孤独な盲目の退役軍人と心優しい青年の心の交流を描き、アル・パチーノがアカデミー主演男優賞に輝いたヒューマンドラマ。「カッコーの巣の上で」の脚本家ボー・ゴールドマンが自身の経験を加えて脚色、「ビバリーヒルズ・コップ」のマーティン・ブレスト監督がメガホンをとった。

【あらすじ】

アメリカボストンにある全寮制名門高校に奨学金で入学した苦学生チャーリーは、裕福な家庭の子息ばかりの級友たちとの齟齬を感じつつも無難に学校生活を過ごしていた。感謝祭の週末、クリスマスに故郷オレゴンへ帰るための旅費を稼ぐためチャーリーはアルバイトに出ることになっていた。そのアルバイトとは姪一家の休暇旅行への同伴を拒否する盲目の退役軍人フランク・スレード中佐の世話をすること。とてつもなく気難しく、周囲の誰をも拒絶し、離れで一人生活する毒舌家でエキセントリックなフランクにチャーリーは困惑するが、報酬の割の良さと中佐の姪カレンの熱心な懇願もあり、引き受けることにする。

感謝祭の前日、チャーリーは同級生のハヴァマイヤーたちによる校長の愛車ジャガー・XJSに対するイタズラの準備に遭遇。生徒たちのイタズラに激怒した校長から犯人たちの名前を明かすなら超一流大学(ハーバード)への推薦、断れば退学の二者択一を迫られ、感謝祭休暇後の回答を要求される。チャーリーは同級生を売りハーバードへ進学するか、黙秘して退学するかで苦悩しながら休暇に入ることになった。

中佐はそんなチャーリーをニューヨークに強引に連れ出し、アストリアホテルに泊まり、“計画”の手助けをしろ、という。チャーリーはニューヨークで、中佐の突拍子もない豪遊に付き合わされるはめになる。高級レストランで食事をし、スーツも新調し、美しい女性(ドナ)とティーラウンジで見事にタンゴのステップを披露したかと思うと、夜は高級娼婦を抱く。だがチャーリーは、共に過ごすうちに中佐の人間的な魅力とその裏にある孤独を知り、徐々に信頼と友情を育んでいく。

旅行の終りが迫ったころ、中佐は絶望に突き動かされて、“計画”―拳銃での自殺―を実行しようとするが、チャーリーは必死に中佐を引き止め、思いとどまらせる。ふたりは心通わせた実感を胸に帰途につくことができた。

しかし、休暇開けのチャーリーには、校長の諮問による公開懲戒委員会の試練が待っていた。チャーリーは、全校生徒の前で校長の追及によって窮地に立たされるが、そこに中佐が現れ、チャーリーの「保護者」として彼の高潔さを主張する大演説を打ち、見事にチャーリーを救うのだった。満場の拍手の中、中佐はチャーリーを引き連れ会場を後にする。

再び人生に希望を見いだした中佐と、これから人生に踏み出すチャーリーのふたりは、また新しい日常を歩み始めるのだった。

 

         

チャーリー役のクリス・オドネル   ドナ役のガブリエル・アンウオー 

 私はこの映画を見終えて、ふと、清水の女次郎長さんのことを思い出した。美しい清水教会の建物を守ろうとして捨て身で声を上げた彼女のひたむきな姿が、若いチャーリーの不利益を恐れず、真実と魂の純粋さを守ろうとする姿勢と重なって見えたからだ。

 

 外国人宣教師の残した業績は負の遺産だから教会の建物も含めて歴史から消し去れなければならない、というような無茶苦茶なインカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーが背景にあるのかどうかは知らないが、信者さんたちや地元の住民の反対を無視して、美しい教会の取り壊しに走る教会の姿勢に異を唱えた信者を「破門も辞さない」と大勢の信者たちの面前で威嚇し、鬱状態に追い込んだ高位聖職者を相手取って、パワハラ訴訟が始まったことを、彼女の支援者から送られてきた小さな朝日新聞の記事と傍聴者の一人が描いた法廷のスケッチが告げていた。

 

朝日新聞の記事

 

 同時に80人以上の面前で発せられた「破門を考えている」という言葉を聞いた信者たちの誰一人として、その事実を法廷で証言する勇気を持った人が現れないという危機的な状況も伝わってきた。

 それはそうだろう、巻き添えを喰らって「破門」されたら、信者生命に対する死刑宣言にも等しい。信頼していた親しい信者さんたちが一斉に彼女に背を向けて去っていったのも無理はない。「2000年前、イエス・キリストが十字架の上で惨(むご)たらしい最期を遂げたときも、主から愛し抜かれた弟子たちは皆同じ運命になることを恐れて散々(ちりぢり)に逃げ去ってしまったではないか。」と女次郎長さんは彼らの裏切りを赦している。

 

  

 32人の傍聴者の一人が描いたスケッチ        傍聴の支援者  原告 その弁護士

 

 聖人たちは皆、キリストと同じように遺棄と孤独を体験する運命にあるのだろうか。

 世俗の裁判の勝敗は金(かね)次第の面もある。金に糸目をつけず、優秀な弁護士団を揃えて受けて立つ教会側が勝つことも多い。しかし、証言台に立つ勇気を持った証人が現れなくても、「破門」をちらつかせたパワハラ発言を目撃した人が100人近くも存在する事実を否定できるものではない。神様の目から見て明らかな不義がまかり通った事実だけは、世に広く知られ語り継がれなければならないと思う。

 映画「セントオブウーマン」の主人公チャーリーが、自分の良心の声に忠実であろうとしたために、あわや名門校退学処分の判決を受けようとしたとき、スレード中佐が父親代わりに現れて高潔なチャーリーを救ったように、キリストとその天の御父は清水の女次郎長さんの魂を救い上げ、復活の栄光のうちに聖人として迎えてくださるに違いないと私は信じて疑わない。

* * * * *

清水教会問題に関する私の過去のブログもご参照ください(下のタイトルをクリックすると飛べます):

★ 清水の女次郎長がまた吠えた

★ 清水の女次郎長さんの地味な運動を知ってください - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

★ 【号外】「清水の女次郎長」さんが久しぶりにつぶやいた

★ 《清水の女次郎長さんがまた動き出したようです》

 

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★ コメントの世界

2024-09-10 00:00:01 | ★ 神学的考察

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コメントの世界

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 長年ブログを書いていると、いろいろなことが見えてくるものです。

 

谷口幸紀神父2020-01-13・jpg-2_1248.JPG

 

 最近つくづく思うことは、ブログを書いているのは私ですが、それを支えているのは読者のみなさまだということです。読んでくださる皆さんがいるから、また次を書く元気が湧いてくるのです。

 今どれぐらいの数の人が読んでくださっているのか、私の書くどんなことに興味を示してくださっているかは、自分のブログの「編集画面」を開けば、そこにリアルタイムで反映されています。

 編集画面の項目の中でも、私が特に注目して毎朝チェックしているのは、「アクセス解析」「コメント管理」です。

「アクセス解析」の中には、「過去の日別ランキング」があって、前日までの一週間の日別ランキングが出ています。

 例えば、昨日(2024.09.08)現在、グーグルの無料ブログ編集サイトを使って日本語でブログを書いている人は全国に3,190,231人、何と3百万人以上もいます。そして、私の場合、ブログを更新した当日はその3百万人のうち2104位(8月20日)、3585位(8月3日)、2962位(7月13日)、1755位(6月27日)、1449位(5月4日)と、だいたい1000位台から3000位台の間で推移しています。そして、ブログを書き始めてからの「トータルアクセス数」は 1,897,244回と、200万回の大台に近づきつつあります。

 また、今までに書いてきたブログの中で、過去のどのテーマのどのブログが今改めて読者の注目を惹きつけて読まれているかも特定できるようになっています。

 目立たないけど意外と面白いのが、「コメント欄」です。私のブログには、コメントを度々くださる方もおられれば、一回限りの方もおられますが、ほぼ全員がイニシャルやペンネームの匿名の方です。多くが好意的で建設的なコメントですが、中には、書き手はもしかして「悪魔」本人か?と疑いたくなるような棘のある悪意に満ちた悍(おぞ)ましコメントが届くこともあります。そんな場合、読者を不快にさせないためにブログのオーナーの意思で敢えて公開しません。

 中には稀に、ちょっと面映ゆくなるような、手放しの賛辞や励ましの言葉をいただくこともあります。そのような身に余るコメントは公開しないで、自分だけがいただいて記憶にとどめたいという衝動と、さりげなく公開するだけにとどめず、コメント者への私の気持ちも込めて「こんな勿体ないコメントをいただきました」と敢えてブログ本文でお披露目したい衝動との間で心が揺れ動くこともあります。

 今回の「聖人の死に方について」(そのー2)に対して戴いた(GM)というイニシャルの匿名の方からのコメントなどは、その後者の典型で、コメント欄を見落とされた方にもあらためて知っていただきたくて、積極的に本文の中で開示することにしました。以下はその引用です。

 

【コメント】 公開中 

 ★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024/08/24 22:58:03

(MG)

 キリスト教2千年の歴史は、生きてる時にボロクソ言われていた人ほど聖人だということを教えてくれています。その筆頭は言うまでもなくイエスです。アシジのフランシスコなんて人も今でこそ大聖人ですが、生きてた時はどうだったのか、鳥に説教してる姿を見たらたいていの人はひきますから、実際はかなり変人扱いされていたのではないかと思います。逆に、生きてる時に聖人君子と崇められていた人ほど俗物であったりします。

 最近で言えばフランスのピエール神父、ラルシュのジャン・バニエ、イエズス会のマルコ・ルプニク神父。フランシスコ教皇は、画家としてはキコよりもルプニクの方を高く買っていたのではないでしょうか。それが今やイエズス会を追放される身とは・・・人を見る目のなさも含めて今の教皇さんはとても欠点が多く、これまたボロクソ言われる人です。

 信者の手を引っ叩いてみたり、同性愛者に対する差別的な発言をしてみたり、説教は10分でいいと言ってみたり(笑)でも、わたしはそんな人間的な教皇さんが好きですし、あれこれ批判される人だからこそむしろ信用できるような気がします。

 キコさんもまた異端だのなんだのって散々言われ続けてきた人です。特に日本では、かつてはその名を出すことすらはばかれるほどアンタッチャブルな存在だったということを今の若い人たちは知らないと思います。(もっとも、今の教会に若い人などいやしませんけど・・・)

 それと、谷口幸紀神父様という方。日本の教会でこのお方ほどこき下ろされた司祭もいないと思います。でも、最初に言いましたようにボロクソ言われる人ほど聖人です。キコさんのような老い方もありかもしれませんが、谷口神父様にはこれからもますますお元気で、変わらず教会に波風を立てていただきたいと思っております。わたしたちは心から神父様をお慕い申し上げております。神父様を置いて、誰のところに行きましょうか!

 

(影の声):  舞台の「お能」のように重く長大なブログの合間に、こんな「狂言」のように短かく軽いブログも許されるでしょうか?

 

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★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024-08-20 00:00:01 | ★ 神学的考察

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聖人の死に方について(そのー2)

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 この6月、私は8年ぶりにイタリアでキコと1週間時空を共有した。再会した彼はコロナ期を挟んで見る影もなく変わっていた。

 彼は聖職者ではないが独身で、同じく独身のカルメンという女性と、マリオ神父の三人で一貫して共同生活を続けてきた。キコより年上だったカルメンの死後、その後継者として若いアスンシオンというスペイン人の女性が新たにチームに加わったのだが、今回目にした彼の様子は、2016年に東日本大震災、津波、原発事故の5周年に当たって彼が作曲した「罪のない人々の苦しみ」と題するシンフォニーのツアーを組んで一緒に精力的に活動した頃の彼とはすっかり様子が変わっていた。

 まず、足元がおぼつかなく、アスンシオンの肩に手を置いてゆっくり歩く。

 かつての彼は、1週間ほどの集いの間、毎日、朝から最後まで出ずっぱりで集会を引っ張っていたが、今は一日のプログラムのうち3-4時間を皆と共にして、後は弟子たちに任せて部屋に退いて休む。

 かつては自ら壇上でギターをかき鳴らし、渋い張りのある声で歌って集会を盛り上げていたが、今は時々人の弾くギターに合わせて脇に座ったままマイクに向かって歌うのみ。

 かつては、立って話し始めれば一時間でも雄弁に力強く聴衆を魅了していたが、今は演壇の後ろの高い椅子に浅く腰かけて、渡された原稿を淡々と読む。そのかたわらにはアスンシオンが常に付き添って、原稿のページをめくる。私は彼が何を読んでいるのか気になった。分かったことは、過去50年間、何百という集会で原稿なしに火を吐くような言葉で語った彼のはなしのすべてが録音され、文字に起こされ、整理・保存されていたことだ。今回の集いでは、弟子たちがその中から予定のプログラムにふさわしい内容のものを選び出し、それをキコに読ませているようだ。だから、キコの話には違いないが二番煎じで以前の迫力がないことも納得がいく。

かつて自分が話した内容を淡々と読むキコ

 集会が短い休憩に入ると、ファンの若い神父たちがキコを目指して押し寄せ、握手を求めスマホでツーショットを撮ろうとひしめくが、私も交じって挨拶をしに近づいた。しかし、キコの隣にいるマリオ神父はすぐに私と気付き声をかけてくれたが、キコは目が合っても私が誰かわからない様子だった。

 大勢の中ではそれもありか・・・と思って、一計を案じ、彼が100メートルと離れていない宿舎から車で会場に来て降り立ったところを捕えて声をかけ挨拶した。他に人の群れは無い。しかし、福島やサントリーホールのコンサートツアーで一緒に忙しく働いた私をじっと見つめても、目の前の私が誰か思い出せない風だった。とっさに、ああ、認知症が始まったな、と思った。

 

車から降りたキコは私の肩に軽く手を置いたが

私が誰であるかは思い出せていないようだった

 

 衰えで彼の出番が減った集いの日々、弟子たちは主人公不在のプログラムを仕切って生き生きと活動していた。キコの面前では控えて自分を抑えていた彼らだが、今は自身が主役の座について自由に伸び伸びと振る舞っている。話が弾むと軽い冗談を飛ばして会衆を沸かせるなど、キコの目が光っているときには考えられないような情景が展開する。

 それを見て、ああ、これでいいのだ、と私は内心深く納得した。このまま進めば、表われ方は違っても、彼もイエスキリストやアシジの聖フランシスコのように、惨めな最後を迎えるだろうと胸をなでおろした。キリストの場合のような十字架の上の凄惨な拷問死でなくても、アシジの聖フランシスコのような病気でぼろぼろになった孤独な死でなくても、現代風の、ある意味で最も残酷な、老いて痴呆で人の世話に頼らなければ生きられない物体のように処理されていくのでちょうどいい。それが本物の聖人の現代風の末路だ、と思って、私は妙に納得した。

 

ヘッドホーンをつけてたばこを手に集いの進行を見守るキコ

 

 キリストは復活し、その復活祭は世界で永久に祝われ続ける。アシジのフランシスコも、生前からキリストの再臨ではないかと噂され、死後間もなく大聖堂が建ち、今も大勢の巡礼が集まっている。キコも一旦はひっそりと痴呆で死んだ後、きっと第二バチカン公会議後の特別な聖人として高く評価され末永く顕彰されるに違いない。

 私は正直なところ、キコのパートナーのカルメンとマリオ神父にはあまり興味がなかった。キコが太陽なら、カルメンもマリオもその太陽の光を反射する惑星ぐらいにしか思っていなかった。だから、キコが聖人かどうかには関心があるが、カルメンやマリオのことはとりあえずどうでもよかった。

 ところが、現実には、キコより先に死んだカルメンについて、今バチカンで列聖調査が順調に進んでいるという。もしかしたら、キコに先立って、まず同志のカルメンが聖人として顕彰される日がそう遠くないのかもしれない。もしそれが現実のことになれば、当然キコも聖人に、それもアシジのフランシスコ並みの8百年ぶりの大聖人として顕彰されることになるかもしれない。そうなれば、20歳の時の私が密かに願った「どうか聖人に巡り合わせてください」という祈りが成就することになる。

 16世紀に書かれた伝記「画家・彫刻家・建築家列伝」にも名が残っておりアシジのフランシスコのバジリカに巨大なフレスコ画の連作を残したジオットや、聖ヨハネ・パウロ2世が福者の位に挙げたフラアンジェリコや、ルネサンス期のミケランジェロ、「万能の人」レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術的巨匠の系譜にキコが属することは疑いないが、彼の重要性はそれにとどまらない。

 

キコはあらゆるところに壁画を描く 私の後ろもそのひとつ  ローマの神学校の聖堂の壁画は 

ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の最後の審判よりも大きい

 

 コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにしたことの最大の弊害は、イエスの説いた純粋キリスト教の中に、当時の地中海世界を支配していた自然宗教の要素が大量に流入する結果を招いたことだった。当時のローマ帝国の自然宗教と言えば、第一義的にはギリシャ・ローマの神話の神々だが、その本質はすべて偶像崇拝であり、その行き着くところはお金の神様=マンモンの神への隷属だった。

 生前のナザレのイエスは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」とか、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」とか厳しく言って、キリスト教と自然宗教が全く相容れないものであることを強調したが、コンスタンチン大帝のキリスト教公認は、ローマ帝国の急速なキリスト教化には貢献したが、その弊害も大きかった。

 それは、急速な帝国のキリスト教化の結果、ラディカルな改心を伴わない自然宗教のメンタリティーのままの大衆が教会に大量にになだれ込んでくることを許したからだ。以来、教会は皇帝に神のご加護を保証し皇帝はその軍隊で教会を守る相思相愛の蜜月関係に入ることになる。そして、その陰で、キリストが命を懸けて残した遺言、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」や、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」は空文化され、キリストの教えは骨抜きになってしまったのだ。名ばかりの信者たちの多くは、口では神の名を唱えながら、心では自然宗教の神、お金の神様=マンモンの偶像崇拝のまま残った。

 もちろん、それを善(よし)としない少数派もいた。あるものは世俗化した教会に見切りをつけ砂漠の隠遁者となった。聖ベネディクトに代表されるような囲いの中に大修道院を経営し、世俗を絶って祈りと労働の生活の中でキリストの回心と福音の教えを生きようとするものも現れた。しかし、そこにも大土地経営と小作人制度のもとで自然宗教の神=マンモンの影響は容赦なく忍び込んできた。そして、大修道院長は世俗の封建領主と変わらぬ富と権力を手に入れた。

 そこにアシジの聖フランシスコが彗星のように現れ、托鉢乞食僧団の新しい清貧運動を始めた。この世の富と財産に拠り所を求めず、神の摂理だけに信頼を置き、マンモンの神ときっぱりと決別してキリストの説いた「超自然宗教」の理想に生きる「小さい兄弟会」の革命を断行した。しかし、「小さい兄弟会」が予想を超えて発展し肥大化するにつれて、悪魔はそこにも巧妙に忍び入り、個人の「清貧」の誓いと僧団=修道会組織=の「集団的な富の蓄積」(マンモンの神への従属)を巧みに両立させる新たな自然宗教化をやってのけた。

 悪いジョークに「全知の神様にもご存知ないことが3つある。(その1)清貧のフランシスコ会の全財産がいくらあるか。(その2)世界中に女子修道会がいくつあるか。(女は3人寄ると修道会を作りたがる、を茶化したもの)。(その3)〇X〇X。」(この3番目の 〇X〇X は、例えば「イエズス会の神父が何を考えているか、神様も知らない」など、状況によっていろいろに言われるが、1位のフランシスコ会の座は揺るがない。) 

 もしキコが私の見込み通りの歴史に名を残す大聖人だとすれば、それは彼が絵画・建築・音楽などの分野にわたるルネサンス期の巨匠のような存在であるからだけではなく、キリスト教の信仰の歴史に名を残す偉大な宗教改革者としてでなければならない。

 それは、コンスタンチン大帝のキリスト教の国教化の弊害として生じたキリスト教の自然宗教化に歯止めをかけ、キリスト教を再びイエスの教え通りの純粋な初代教会の信仰へ復帰することに先鞭をつけた最初の大改革者としてだ。

 キコの試みが可能になったのは、もちろんコンスタンチン体制の逆改革を意味する第2バチカン公会議と聖ヨハネ・パウロ2世教皇のお陰だった。キコは、コンスタンチン体制下で徹底した「回心」を経験しないまま自然宗教的キリスト教を生きてきた信者たちに、初代教会にあった求道者共同体の回心の「道」を、洗礼の前か後かを問わず徹底的に歩む機会を提供した。そして、そのキコに聖ヨハネ・パウロ2世教皇は強いて「新求道期間の道」の「規約」を作らせたが、その第4条「物質的財産」第1項には「新求道期間の道は教区において無償奉仕するカトリック養成の道程である以上、固有の財産を所有しない。」と高らかに謳っている。

 その意味するところは何か。それは、コンスタンチン体制下では、ベネディクト会の戒律を手本として設立されたすべての修道会、そして、アシジの聖フランシスコの托鉢僧団の系譜に連なる後代のすべての修道会で、各修道者が個人としては清貧の誓願を立てて無所有を約束するが、彼の属する修道会は土地・建物の不動産のみならず、あらゆる動産と巨万の富を所有し、清貧を約束したはずの修道者が組織の富と安定の恩恵を豊かに享受するというからくりの上に安寧をむさぼるという欺瞞の構造から抜け出せず、結果的に他の自然宗教と同じ体質に堕し、キリストの「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方と親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)という戒めに背き続けてきた。ここで言う富とはもちろんマンモンの神、自然宗教の偶像=「お金」のことである。

 キコはコンスタンチン体制以降のキリスト教の根底的矛盾、「キリスト教の自然宗教化」という決定的な欺瞞にメスを入れた最初の聖人だと私は思う。それがどういうことを意味するか、私の痛みを伴った個人的経験に基づいて簡単に説明しよう。

 満50歳を迎えようとしていた私が神学生として東京の大神学校に入ることを許されず、最後の望みをつないでローマに送られたのが、聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって設立されたばかりの新しいローマ教区立神学校だった。私が54歳で司祭になって高松に錦を飾った頃には、私が学んだローマの新しい神学校の7番目の姉妹校が高松教区立としてすでに誕生していた。しかし、まだ自前の建物はなく、毎年家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。設立者の深堀司教の時代はまだ何とか赤字の補填がなされていたが、綱渡り状態だった。そこで、私は銀行マン時代の経験を駆使して、一億円余りの寄付を集め、神学校の建物を建て、赤字を消し、「道」の規約第4条1項に従って神学校の土地と建物をそっくり司教様に寄付した。

 ところが、設立者の司教が引退すると、後任の司教はそんな神学校はいらないと言い出した。そして、お前たちが建てた神学校は司教のもの(教区の財産)だから、お前たちは出ていけ、と言い渡された。私たちはもちろん黙って退去した。これが新求道期間の道は固有の財産を持たない、という規定が具体的に意味するところである。その神学校がその後に辿った数奇な運命については、すでにたっぷりブログに書いたので、それを読んでいただきたい。 

 言いたいことは、キコは教会にコンスタンチン体制以前のキリストの教えの本来の姿、「回心して福音を信じなさい」の原点に戻る道を開いた最初の聖人として歴史に名を残すに違いない、と言うことだ。

 教会は2000年の歴史を通して無数の修道会を産み出し、それぞれ時代の要請に応えて栄枯盛衰を繰り返してきた。しかし、キコの組織としての無所有という実験を思いついて敢行した者は今まで一人もいなかった。アシジのフランシスコはそれを夢見たかもしれないが、それをフランシスコ会運動の基礎にしっかりと据えることには見事に失敗し、その結果、変質した会から捨てられ惨めな失敗者として死んでいった。

 これからの歴史が見物だ。キコの後に同じ実験を試みる勇気あるカリスマが、そして組織が、続くかどうか、是非とも楽しみに見極めたいものだ。とにかく、この一点だけでも、キコが教会の歴史の中でも例外的に偉大な聖人として記憶される値打ちがあると私は考える。

 私は、今回のブログの冒頭に書いたキコとの再会から得た印象によって、彼が本物の聖人にふさわしい惨めな人生の終わり方に向かって突き進んでいる印象を強くした。そのキコに私はぜひともホイヴェルス師の言葉を贈りたい。

 

                                      在りし日のホイヴェルス神父

 

 大げさに言えば、キコはコンスタンチン大帝と並んで、教会の2000年の歴史を3分割する決定的な2つの転機の一つとなる可能性を秘めていると言いたい。即ち、キリストからコンスタンチン大帝までの300年余りは、超自然宗教としてのキリスト教がその純粋性を保って花開いた時代。コンスタンチン大帝からキコまでの1700年間はキリスト教の自然宗教化が支配的であった時代。そしてキコから後のこれからの時代は、自然宗教化したキリスト教が他の自然宗教とともに次第に滅び行き、キコが試みた超自然宗教としてのキリスト教再興につながる部分だけが辛くも生き延びる可能性を秘めた時代という区分である。

 私は、キコの最も円熟した時期に彼の近くで親しく接する機会を得たことを神様に感謝したいと思う。彼と私が同じ1939年生まれ、というのも偶然ではないような気がする。とにかく、彼よりちょっとでも長生きして、彼の最後をこの目で見届けたいものだと思う。

 彼は、教会史に残る特別な聖人だろう。因みに、コンスタンチン大帝もカトリックの教会では聖人として認められているらしい。

薔薇.jpg

 

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★ 聖人の死に方について

2024-08-03 00:00:01 | ★ 神学的考察

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聖人の死に方について

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 ナザレのイエス、イエス・キリストは天地万物の創造主である「神」を父と呼び、天の御父の「ひとり子」としてこの世に誕生したが、自分のことを好んで「人の子」と呼ばれた文字通り聖者の中の聖者であった。

 人の子イエスは、生前、妥協の余地のない回心の教えを説き、多くの奇蹟を行い、最晩年は群衆からダビデ王の裔(すえ)とかメシア(救世主)とかの歓呼の声で迎えられたが、その直後には一転してローマ帝国への反逆者の濡れ衣を着せられて二人の重罪人とともにむごたらしい十字架刑に処せられ、見るに堪えない姿で孤独のうちにに死んで葬られていった。彼の愛した弟子たちはみな逃げ去り、十字架の下に残ったのは若いヨハネと母マリアと数人の敬虔な婦人たちだけだった。

 

キリストのデスマスク?(聖骸布)

 

 12世紀末に彗星のごとくに現れた清貧の聖者、アシジの聖フランシスコは、神様の声に促されて、軒の傾いた当時のカトリック教会を建て直し、清貧の托鉢僧団の先駆者として、教会の改革に輝かしい実績を残し、生前はキリストの再臨ではないかと噂されるほど人々から愛された。

 しかし、そのフランシスコの運動は、短期間に目覚ましく発展し、その過程で早くも大きく変質していった。そして、聖者が掲げた清貧の理想とは裏腹に、彼の興した修道会は、土地を所有し、大きな修道院の建物を持ち、富を集め、大勢の学者を輩出し、世俗的にも教会の中でも権力者、支配者となるものが現れた。素朴で貧しい「小さな兄弟」たちの清らかな貧しい会は、創始者フランシスコの意に反してどんどん肥大化し富み世俗化していったのだった。そして、組織は独り歩きを始め、ついには「師父聖フランシスコの理想」は会の更なる発展を阻む疎ましい足枷と見做されるに至った。

 晩年のフランシスコは、結核を病み、ほとんど失明して弱りはて、失意のうちに修道会の主流からは疎外されていった。彼は、裸で生まれたのだから裸で土に帰ると言って、最初に与えられたポルチウンクラ(ちっぽけな土地)に横たえられ、最後まで彼に忠実だった4人の同志たちとローマの貴婦人ジャコマだけに見守られて、ひっそりと惨めに死んでいった。私はそこに失意の悲惨な敗残者イエスの十字架上の最後に共通する姿を見る。

 

アシジのフランシスコに最も似ているといわれる肖像画

 

 私の敬愛するイエズス会士、ヘルマンホイヴェルス神父様は、東京の目玉教会、聖イグナチオ教会の初代主任司祭であり、生涯名誉主任司祭であったが、四谷周辺に鳴り響く鐘楼を備えた最初の教会堂を建て、その司祭生活を通じで3000人以上に洗礼を授けるというギネスブックものの数字を残し、外国人が受けられる最高の勲章を日本の国家から授与されるなど、日本語を美しく操り、随筆家、演劇や映画の作家・演出家であり、詩人、哲学者として輝かしい生涯を終えられた。私は彼が聖人であったことを疑わない。

 最晩年の2度目の帰国の時には、故郷のウエストファーレン州ドライエルヴァルデ村の生家で、当時ドイツの銀行で働いていた私と二人きり、ホイヴェルス少年の勉強部屋で食事をいただきながら、来年は細川ガラシャの歌舞伎を引き連れてドイツ巡業をするから、お前に現地マネジャーの仕事を託する、と言われた。しかし、その言葉はかなわず、帰国後のホイヴェルス師は急速に容体が悪化し、最後のころは、昼食後の午後2時すぎに再び2階から降りてきて、お昼ご飯はまだですかと言われれるなど痴呆が進み、教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って入院し、退院後は療養生活を送っていたが、ある日、車椅子でミサに与っている最中に急性心不全で死去された。

 

DSCN9378-2_880.JPG

私が撮影してホイヴェルス師

 

 外面上は、師の最後はただの老衰した痴呆老人だったが、樹木希林さんが広めてくれたおかげもあって、師の残された散文詩「最上のわざ」は教会の内外で広く知られている。

 

          

            樹木希林

 

     ヘルマンホイヴェルス神父の

     「最上のわざ」

     この世の最上のわざは何?
     楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み
     しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し
     従順に、平静におのれの十字架をになう
     若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけても妬まず
     人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
     弱って、もはや人のために役たたずとも 親切で柔和であること。
     老いの重荷は神の賜物
     古びた心に、これで最後の磨きをかける
     まことの故郷へ行くために
     おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。
     こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。
     神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
     手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
     愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
     すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
     「子よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」との。

 ホイヴェルス師の命日には、コロナ期の最中も途切れることなく、今年も6月9日、第47回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」が ー最近は師の生前の姿を知らない若い世代も加えてー 四谷で開かれた。一人の宣教師を偲んで半世紀近くも人々がその遺徳を慕って集うというような例が、他にあっただろうか。

 話は変わるが、私が長年探し求めてついに巡り合った導師のキコ・アルグエイオは、聖フランシスコから800年遅れて現れた稀に見る巨大な聖人だと私は信じて疑わない。ちなみに、「キコ」はスペイン語で「フランシスコ」の愛称、短縮型とされ、いわば「フランシスコちゃん」とでも訳すべきものであるらしいが、キコは聖フランシスコ没後800年ぶりに現れた大型聖人として後世に語り継がれるに違いないと私は考えている。

 

フランシスコ教皇とキコ

 

 そのキコは聖教皇ヨハネ・パウロ2世と手を携えて、第2バチカン公会議の決定を実際の教会の日常に、信徒の生活の中に、生かし実践する一大実験に打って出た。コンスタンチン大帝の時代に教会に大量に雪崩れ込んできた自然宗教の要素を脱ぎ捨て、再び西暦およそ300年代までの初代教会の純粋な信仰の原点に復帰するために、第2バチカン公会議の決定を誠実に生きる大事業に手を染めた。キコは、キリストが洗礼の前提とした「回心」(改心)のわざを、洗礼の前か後かを問わず、忠実に信仰生活に生きる「道」を切り開いた。そして、彼の「道」は世界中で花開き、いま多くの豊かな実を結びつつある。

 キコが聖人だとすれば、彼は歴史に前例のない型破りの聖人だ。もともとは画家で、素晴らしい絵を多数残した。マドリードの新しい司教座聖堂の内陣の壁画を始め、聖画家ジオットのように多数の教会に壁画を残している。ロマネスクやゴシック様式に並ぶ新しい教会建築様式の創造にも野心的なチャレンジをした。民衆に歌われる数えきれない宗教音楽を作曲し、自らギターを爪弾き歌って聞かせた。ついには、フルオーケストラとコーラスのためのシンフォニーを2曲も作曲し、東日本大震災の5周年には200人の演奏家集団を引き連れて来日し、地震、津波、原発事故の三重苦に見舞われた被災地で、「罪のない人々の苦しみ」という一作目のシンフォニーのチャリティーコンサートツアーを実施し、福島、郡山に続いて、東京ではサントリーホールで大成功をおさめた。私は現場の企画を一手に引き受け、キコと共に働いた。彼はルネッサンス期の巨匠たちの系譜に連なる現代の天才的総合芸術家と言っても過言ではないだろう。

 キコはまた、毎年宣教のために忙しく旅行し、敬虔な富豪の申し出があればプライベートジェット機で世界中を飛び回ることも厭わなかった。彼は煙草を吸い、葡萄酒をたしなみ、結構な美食家でもある精力的な活動家だと言える。もし彼が聖人なら、従来の固定観念が当てはまらない型破りの聖人と言えるだろう。

 私は彼と同じ1939年生まれだが、彼は私の何倍も激しく密度の高い生き方をしているから、私よりも早く老いが進んでいるのは当然と言えば言えなくもない。私は何とかしぶとく彼よりも長生きして、彼がどのような死に様を見せるか、自分の目で見届けたいと願っている。彼が名声と隆盛の絶頂で、お釈迦様のように泣きわめく弟子の500羅漢たちに惜しまれながら格好よく大往生を遂げるのか、それとも、キリストや聖フランシスコヤホイヴェルス師のように格好悪い惨めなぼろぼろの最後を迎えてひっそりとこの世を去るのか、それが気になって仕方がない。

 スターダムの絶頂で死なれたら、がっかりだ。私が期待した大聖人ではなかったかもしてないという苦い後味が残るからだ。

(つづく)

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