私は、あと2時間ほどしたら、車でネプチューンの町の教会へいって、復活の徹夜祭の準備に入ります。今年は一人で全部仕切るので、呑気にカメラを構えている暇はなさそうです。それで、私がおよそどんなことをするのかのほんの一部分を、別の年にタルクイニアの教会で参加した時の例でお見せしたいと思います。今年の徹夜祭では4人の赤ちゃんの洗礼が予定されています。見てくださいね。
聖土曜日 の 「復活の徹夜祭」 と 復活祭の日曜日
聖週間の土曜日の深夜には、初代教会の伝統によれば、真夜中をまたいで復活の徹夜祭を行うことになっている。
しかし、最近はどこでも《徹夜》祭とは名ばかりの、簡略化された典礼を日暮れに始め、夜が更ける前に早々と家路に着いてお茶を濁す悪習がはびこって、ローマはそれを正すのに苦慮している。
我がタルクイニアの若い主任司祭のアルベルトは、それでも頑張って本格的な徹夜祭を、土曜の夜10時ごろから
深夜の1時過ぎまでかけて、ローマ典礼を何も省略することなく丁寧に行っている。
今回、私も手伝いとして祭服をまとって祭壇に立った手前、大きめのデジカメを振り回すのは、さすがにちょっと憚られた。
だから、式の次第は写真でお伝えできないのがいささか残念ではある。
ここはローマに比べれば田舎だが、それでも怠惰で合理主義的、享楽的な世俗文化に汚染されていることには変わりなく、
信仰の為に睡眠を犠牲にしてまで徹夜する庶民はすっかり減ってしまったのか、聖堂の中は再び私の予想を上回って淋しかった。
しかし、集まってきた信者たちの熱気は、数の問題ではなかった。
列席の信者たちは喜んで長い朗読と祈願と、それに答える讃美歌の連続に耐えた。
深夜を回って説教が終われば、すぐその後に洗礼式が控えている。今夜も一人の赤ちゃんの洗礼が行われるはずだった。
共同司式司祭である私は、主任司祭の説教を上の空で聞きながら、心の中で葛藤していた。聖堂の内陣から抜け出して、寝室にカメラを取りに行こうか、どうしようか、という思いと戦っていたのだ。
誘惑には至って弱い性質の私めは、そっと抜け出して、はしたなくも説教が終わるころには衣の下にカメラを隠して、
素知らぬ顔で元の席に座っていた。そして、いよいよ洗礼が始まった。
主任司祭は、母親から裸の赤ん坊を受け取ると,大声で言った(もちろんイタリア語で):
父とォ~~! ジャブン!
《おっ、やっぱり蒙古班がないぞ!》 -陰の声-
それにしても、若いお母さんの顔!
御子とォ~~! ザッブーン!!
《ウオッ!頭まで沈んだぞ!大丈夫か!!》-陰の声-
でも、お母さんは全く平気!すごいね!!
聖霊のみ名によってェ~~~! ジャッポーン!!!
汝に洗礼をさずけるう~~~ゥ!
《ありゃ!男の子だった~ァ!》 -また余計な陰の声-
白い衣を受けなさい。生涯の終りの日まで、汚さず清く保つように、アーメン!
(白いケープを着せられたの、わかりますか?)
カントーレ(歌手)達は、旧約のイスラエルの民が、エジプト奴隷状態から解放され、奇跡的に開いた海を渡って、
無事に約束の地、パレスチナに辿りついて自由を得るまでの史実を、軽快に歌い上げ、ミサもつつがなく終わって、
一同は洗礼盤の周りを輪になって踊った。
臨席の平山司教も楽しげに踊りの輪に加わった。
式の間、絶えず場面に相応しい音楽を奏でて会衆を歌に誘うカントーレ達も、典礼には欠かせない重要な要素だ。
ギターだけではない、ヴァイオリンもクラリネットも、ドラムも、タンバリンも、できるものがいればフルートもハープも
パイプオルガンも・・・・といった具合だ。
徹夜祭のミサが終わると、参加者はお待ちかねのアガペー(晩餐)の会場に殺到した。
なぜお待ちかねか?
参会者の大部分は、聖金曜日の昼食から、復活の日曜日の未明にミサが終わるまで(延べ34~35時間)
水やジュースの流動物以外は、何も食べずに断食していたのだ。いわば、ラマダン明けの回教徒状態だと思えばいい。
だから、過ぎ越しを祝うユダヤ人のように、満腹するまで子羊の肉やその他の御馳走を食べることになる。
キリスト教原理主義者の奇行と笑うことなかれ。 宗教にはもともとそういう面がつきものなのだ。
明けて、復活祭の日曜日。御前10時に始まったメインのミサは、両サイドと後ろがぎっしり立ち見で埋まるほどの大盛況だった。
人々は、「祭り」と「信仰」の場とを上手に住み分けて生活をしていたのだ。
それはそうと、私ごとき客人司祭の手伝いと言えば、この善良な信者たちの一年分の懺悔を、聖堂片隅の小部屋の中で
何時間も忍耐強く聴くことが中心だった。
普段の日曜日の夕ミサは6時なのに、この日はそれが4時に繰り上がった。
これも、6時にスタートする「祭り」と「信仰」の巧みな住み分けのためだった。
この日は、遠出は無理な平山司教様にも祭りをお見せするために、歩いて行ける近くの病院の正門前に陣取った。
復活したキリストの像が町を練り歩くはずになっていた。
この病院にもやって来る。
そのキリストが、病人たちにも復活の喜びを告げに訪れる、という筋書きなのだ。
待つこと小一時間、何やら遠くで爆竹のような音が聞こえ始めた。そして、次第に近づいてきた。
遠目にまず硝煙がかすんで見えた、頭に横浜の中華街の旧正月がイメージされた。しかし、実際は全く別物だった。
現れたのは、地元の猟師たちだった。仕事道具の猟銃に空砲を詰めては、バン!ドン!バン!と見境なくぶっ放す。
筒先から火花を散らし硝煙が吹きあげる。よく見ると、みんな耳栓や耳当てで自衛している。
それはそうだろう。こんな狂気を2時間も演じれば、耳がパーになるのは当たり前だ!
やがて、先日のブラスバンドがやってきた。聖金曜日の夜とは打って変わって、景気のいい早足の行進曲風だった。
そして、その華やかなマーチに乗ってさっそうと現れたのが、復活のキリストの像だった。
人の頭の波の上を、まるで踊るような足どりで進むかの如く、担ぎ手は像を躍動感あふれるリズムで揺り担いでくる。
拡声器で、病院中の患者に聞こえるように、
大音声でキリストの復活と、死を克服した勝利と、永遠の生命のメッセージを伝えたて満足げな
司教と、タルクイニアの市長と、地元の聖俗の権威を象徴する二人が、
猟師達に囲まれて記念写真に収まった。
長居は無用と、復活のキリストは大群衆が待ち受ける旧市街の祭りの本会場に向けて乱れ撃つ銃声に追い立てられるように
足早に病院を後にした。
聖金曜日にはキリストの骸に影のように寄り添っていた重い十字架も、今日は役を終えたお添え物のように、
花と緑の輪で飾られて、これもキリストの後を追って行った。
付き人の臍の下の大きな革カップは、十字架の下端を受け止めるためのものだが、
担ぐ人のカップがずっしり膝まで下がっているのを見ても、その重さが察せられるというものだ。
輪を含めると優に100キロを超えるものもあるという。
キリスト像が去ったあと、そこには
「復活したキリストは、生前のキリストと同じDNAを有する個体としては二度とふたたび人の前に姿を見せていないのに・・・・」と、
まるで反抗少年のように一人でぶつぶつつぶやく私がいた。
この夕方の祭りに先立つ4時のミサを司式した私は、説教でそのことを神学的に理路整然と説いて見せた。
居合わせた田舎の善男善女たちは、始めて聞くこの異説に、ただ口をあんぐりとさせていた。
私は、キリストの復活の場面を描いた泰西名画は、例外なく史実を裏切っていると言いたい。
そして、信仰深い芸術家たちは、キリストの復活という、イエスの生涯を締めくくる決定的事実を、
全く誤った理解に導く重大な過ちを犯していると、声を大にして言いたいのだ。
私は、その誤謬の典型を、またしてもタルクイニアのこの行列の中に見た思いがした。
大げさに言えば、キリスト教会は、キリストの復活から2000年以上も経った今日においてさえ、
まだその史実の真髄を赤裸々に受け止めかねているのである、と言えるのではないか。
この間の消息は、拙著「バンカー、そして神父」(亜紀書房)の後半に詳しく展開しているから、
興味を惹かれた方は、是非ご参照いただきたい→ http://t.co/pALhrPL 。
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私はこの月曜日からイスラエルのガリレア湖のほとりでの集まりに参加し、エルサレムやナザレを回って5月1日のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式(聖者に挙げられる前の式)に間に合ってローマの戻ります。それまで、ブログ更新も、メールも、ツイッターもお休みです。 復活祭オメデトウ!