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インドの旅から
ー 第2信 奇跡のような話 -
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夜のラオス号のスケッチ M.M 社の社旗
第二信 は横浜を出てホンコンに着くまでの最初の洋上で書いたものです。
わたしが乗った船の名前はラオス号。船会社はフランスの商船会社メッサージュリー・マリティム Messageries Maritimes(M.M) の貨客船でした。当時は同型の貨客船4隻が、片道1ヶ月をかけて横浜とフランスのマルセイユを往復していたから、横浜からは1週間おき、月に二回の頻度で4隻のどれかがマルセイユに向けて横浜を出港していたことになります。
JALがアンカレッジ経由でロンドンなどにジェット機を飛ばし始めたのが1960年代のはじめ。1964年の東京オリンピックを境に海外旅行が増え始めたとはいえ、庶民の海外旅行はまだ圧倒的に船の旅でした。
懐かしくて、56年前のパスポートをとり出して見ました。今のよりやや大判縦長の黒いなめし革の表紙に金文字で「日本国旅券」と“PASSPORT OF JAPAN”の文字に菊の紋章が荘厳に極印されていました。黒革に本物の金箔を圧したと思われる威厳と風格を備えたパスポートでした。当時、外交官や政府要人らに発給されていたのと同じ気品に満ちた希少な「旅券」を庶民も手にすることができたのでした。ちなみに、私の2冊目のパスポートは、基本的には今のものと同じビニール表紙に替わりましたが・・・。
第2信は短い手紙で、Tさんという上智の女子学生に宛てたものです。今読むと、よくもまあ、あんな私的な手紙が、恥ずかしげもなくカトリックの布教誌に載ったものだと驚くのですが、1960年代の社会全体が、まだ学生たちのその種の感性を許容する空気の中にあったということでしょうか。
今の時代のひとがそれを何の予備知識もなしに読めば、きっと「なにこれ!馬鹿じゃないの?」と軽蔑を込めて一蹴されそうな文章ですから、せめてそのショックを少しでも和らげるために、前もって少々背景を紹介しておこうと思います。
Tさんというのは土屋佳澄さん(仮名)のことで、その出身高校は山梨東洋英和学園。メソジスト派のプロテスタントのミッションスクールです。彼女は上智大学では文学部教育学科の学生で、ボン大学で博士号を取りフランクルの「夜と霧」というナチスの強制収容所を描いた本の翻訳者として知られていた霜山徳爾教授の講義で一緒になりました。彼女はプロテスタントの洗礼を受けていました。
私は、日曜の朝、四谷のイグナチオ教会でホイヴェルス神父の9時の歌ミサに与かり、短い説教を聞いて、それが終わると、急いでひと駅となりの信濃町教会の福田牧師の説教を聴きに行ったものでした。
カトリックとは対照的に、プロテスタントの教会の礼拝の中心は牧師さんの説教で、福田牧師の説教は東京の大学教授、外交官、海外生活経験者などプロテスタント信者のインテリ層を魅了して定評がありました。私は四谷の歌ミサで情操を満たし、信濃町の説教で知的満足を得ていましたが、Tさんの通う教会であることも付加価値ではありました。
一方、Mさんは持田杏子(これも仮称)と言って、ドイツ語を第一外国語とする近代ドイツ哲学が専攻でした。彼女はホイヴェルス神父のカトリック研究会(「紀尾井会」と言った)に話を聴きに来てはいましたが、心は唯物史観と実存哲学、キリスト教ならプロテスタントの方に傾いていました。カトリックが説教よりは儀式と洗礼や告白(懺悔)などの「印」(秘跡=サクラメント)を大切にすることに彼女は問題を見ていました。
しかし、その後の展開を先に明かすと、Mさんはある日突然カトリックの洗礼を受け、その後結婚しました。相手は崇教真光教団の熱心な信者の清水章介君(仮名)でした。すぐ子供に恵まれ幸せなスタートを切ったかに思われたが、章介君がALS(筋萎縮性硬化症)の難病にかかっていることが分かりました。天才宇宙物理学者ホーキング博士と同じ病気です。Mさんは彼の復活を信じ最後まで看取りました。
自宅での臨終の床に私も居合わせたが、彼が息を引き取った瞬間、Mさんはすっくと枕辺に屹立して、「章介さん、起きなさい!立ち上がりなさい!!」と厳しい口調で繰り返し、大声で絶叫しました。居合わせた者たちはこの壮烈な出来事に仰天しましたが、彼女は、真光を信仰する彼に寄り添いながら、自らはキリスト者として彼の復活を信じ、弱り衰えていく彼を彼女の信仰の力で死から蘇らせる奇跡を起こすことが出来ると普段から確信して疑わなかったのでした。
その後、彼女は欝というか、とにかく、正常な日常生活が困難になっていきました。幼い女の子は章介さんの妹が引き取って育てたと聞いています。そんな、悲しい展開が待ち受けているとも知らず、以下の「第2信」は東シナ海の洋上で書かれたのでした。
ラオス号と同型船と思われる
インドの旅から
第二信 奇跡のような話
Tさん、お元気ですか。発つまえにMさんという人のことで考え合ってみたかったのですが、ついにその機会が得られなかったので、明日香港に着いたらすぐポストに入れられるようにと、ペンをとりました。
ぼくが初めてMさんに会ったのは、学生会の本栖湖のキャンプの時でした。それから美学や、芸術学や、西洋文化史などの講義で一緒でした。キャンプの時は病人が出て、ぼくと救護係のMさんが病人に付き添って、L神父の車で東京までは5時間のドライブだった。L神父は道々スパイ・ゾルゲの話で楽しませてくれた。あの頃のMさんは熱心なプロテスタントだった。大学の講義の後などよく話し合ったけど、どこか一致出来ないものがあった。
そのうちにMさんはニーチェや、フォイエルバッハや、マルクスの方へ傾き、卒業後は山谷の社会事業に身を投じていった。そして、彼女なりに問いかけながら苦しんで、ギリギリまで自分を追いつめていたようだ。それからも折に触れて会って話したが、そんなときの彼女は、心身の疲労で髪が茶けて薄くさえなっていたし、頬のバラ色は消えてはいなかったが、整った顔立ちの目じりには、年に似合わぬ皺など出来て、痛々しかった。
そんな彼女が、ぼくの発つ直前のある日、突然消耗しきった姿で現れて、「私はやはり秘跡なしにはもう進めません」と言い出したのだ。思わず「奇跡のような・・・」と心の中でつぶやいた。
「やっぱり僕らの神様はまだ生きていた」と思った。
お互いに共鳴し合いながら、思想的にどんどん遠ざかって行くように見えた彼女が、突然カトリックの秘跡に飢え渇いて現れたのだから、とても嬉しかった。そのために祈ってきたとはとてもおこがましくて言えないが、この日のために祈り続けてきた彼女の母親の姿が目に浮かんだ。
ぼくは、こんな時いつもするように、彼女を伴ってホイヴェルス神父を訪れた。というのは、ぼくたちは洗礼を急いでいたし、「洗礼を受けても私はマルクシストであり続けたい」などと言う彼女の心を理解してくれる神父を他に思いあたらなかったからだ。
Tさん。あなたならわかるだろう。あなたは現在の時点ではプロテスタントの立場に立つものとして、別の表現をとるかもしれないが、やはり思いは同じなのではないだろうか。旅から帰ったら、この点についてゆっくり話し合いたいと思う。それまで考えておいてほしい。
明日は香港。48時間停泊の予定。初めての外国です。ではお元気で。
この手紙を書いてたときには、Mさんのその後の人生の悲劇的な展開をまだ誰も予想できませんでした。
Mさんは今どこにいる?もうこの世にはいないのではないか?その魂はどこで眠っている?
復活の日、彼女も、章介君も、私もみんな蘇り、肉体を取り戻して、再会して永遠に生きるに違いありません。神様は歴史のなかで一瞬の生を受け死んでいった何十億、何十億の何十億倍の数の魂を、世の終わりにすべて蘇らせ、肉体を返して完全な人間として永遠に生きるように世界を設計され、創造されました。
無駄な命、無意味な人生など一つもありません。どの人生もドラマに満ち、神様にとってかけがえのない愛すべきものとして生を得たのです。
そう言えば、仲間の一人に三木君(仮名)がいました。医科歯科大全共闘(ブント)だったが、戦いが負けに傾いていたころ、古参のリーダーたちが賢く身を引いていく中で、責任感の強いお人よしの彼がセクトのリーダーに担ぎ出されました。総括の過程で行き詰った彼は、自宅の風呂場で焼身自殺を遂げました。私はその黒く焼け焦げた浴槽を見に行きました。
彼の家族は両親も兄弟たちも全員東大でした。その中でひとりだけ医科歯科大だった彼には、もともとこの世にいる場所を見出せない孤独な存在でした。三木君は本当に好青年でした。今の若者はどんな人種かしりませんが、当時はMさんや三木君のように純粋で繊細すぎたために、早く花を開いて人知れず萎(しおれ)ていった若い群像が確かにありました。
甘酸っぱい感傷を込めて青春時代を振り返ると、インターネットなどのまだ存在しなかった戦後の若者には、なにか思いつめた真剣なものがあったような気がします。哲学的な苦悩あり、失恋あり、文学の中に没入するものあり、革命を夢想するものも、あえて自分を死に追い詰める者もいた。
気がついたら、不徹底で嘘っぽかった人間だけが、80才までも生き恥を晒してるのかもしれません。