:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ バチカン=今年も日本のために宣教師を養成

2016-10-30 17:02:10 | ★ ローマの日記

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バチカン今年も日本のために宣教師を養成

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昨日、10月29日(土)ローマのバジリカ《ラテラノ教会》で助祭叙階式が行われた。

10人の助祭のうち3人がレデンプトーリス・マーテル神学院に属し、その中のアルフォンソ君(メキシコ人)は、元高松の神学院のメンバーで、来春司祭に叙階されれば、やがて、日本に宣教師として派遣される道が開ける。

ラテラノ教会は4世紀初頭にコンスタンチン大帝によって建立されたローマで一番古いバジリカ様式で、16世紀には今の形に出来上っていた。世界中の教会の母教会と呼ばれ、付属のラテラノ宮殿は長く教皇の住居だった。

聖堂の中央にそびえる天蓋の下に祭壇がある。そして、天蓋の上の部分に聖ペトロと聖パウロの聖遺物が収めれれている。

中央祭壇の後ろには広い内陣がある。内陣の奥にある大理石の白い椅子が「教皇座」で、ここが教皇の正式の教会だ。全世界の教会の頂点に立つのがこのラテラノ教会で、バチカンの聖ペトロ大聖堂よりもある意味で格式が高い。

ローマの司教、教皇の座(カテドラ)があるから司教座聖堂をカテドラルと言ういい方はそこから来る。そして、この椅子の後ろに隠し戸と隠し部屋があり、すぐラテラノ宮殿につながっていて、聖堂内に異変があった時教皇はいち早く難を逃れることが出来るようにできているのだ。 

内陣の左側に祭儀の準備室がある。その奥まったところにある小聖堂はこの日は司教たちの更衣室になっていた。日本でキリシタンの迫害が始まった時、カトリックの神父を志して日本を脱出したペトロ・カスイ岐部は、マカオ、ゴアまでは船で、そのあとはインド、ペルシャ、聖地イスラエルを経て単身徒歩で陸路ローマを目指し、大冒険の末ようやくローマにたどり着いた。そして彼はこの部屋で司祭に叙階されたのだった。明かりこそ電気に代わっているが、そのほかの調度装飾は当時のままだと思われる。 

ペトロ・カスイ岐部神父は、苦労して鎖国下の日本に潜入し、やがて東北で捕えら、殉教の死を遂げる。今列聖に向けて調査が進んでいる。

 

私たち司祭はその隣の部屋で祭服に着替える。岐部神父もこの同じ壁画を見たに違いない。

レデンプトーリス・マーテル神学院の同僚の司祭たち

平山司教(92歳)と共に久しぶりに盛装をした。

中央祭壇の前で司式するのは左上の白い帽子をかぶったヴァリーニ枢機卿。教皇代理のローマ司教だ。定刻に叙階式は始まったが、聖堂は満席に人が入っていた。祭服の下に一応カメラを隠していたが、最前列に座る私はさすがに気おくれがして、ほとんど写真が撮れなかった。 式はどんどん進んでいく。

叙階式も無事に終わり、式に参列した司教、司祭は内陣脇の控室に戻ってきた。

司式したヴァリーニ枢機卿と平山司教

右からアンヘル副院長、院長の平山司教、叙階されたばかりの新助祭アルフォンソ君、そして院長秘書の私

式が終わって外に出ると、晩秋の日は早く暮れて、夜のとばりが降りていた。その夜を境に1時間繰り下がる冬時間が始まった。

バチカンは日本の教会の高齢化、司祭の不足を憂慮している。さしあたりこの12月に1人、来年5月に2人、近い将来、日本に派遣される宣教師司祭が新たに誕生することになっている。彼らはしっかり日本語を学び、派遣される準備は既に整っているのだが・・・。

 

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★ ウサギ姫に恋して=野尻湖、忘れ得ぬひと夏の思い出

2016-10-20 00:20:22 | ★ 野尻湖・国際村

 

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 ウサギ姫に恋して

野尻湖、忘れ得ぬひと夏の思い出

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盗まれたパソコンと共に多くの貴重なデータを失った。何か回復できるデータはないかと、古いパソコンを久々に起動してみたり、振り返ることもなく、かといって捨てることもしなかった古いCDの束を再生したりして、かなりのものをリカバーすることができた。中には、久しい以前に間違って削除したと思ってあきらめていたファイルが見つかるという嬉しい発見もあった。以下に再現してみよう。

2005年の夏、野尻湖の家で不思議な事件があった。数日前から、家の周りで何か小動物の気配があった。用心深く姿は隠しているが、確かに何かが家の近くに出没しているように思われた。そして、数日後、ついにその姿を見たときは、心の準備がなくカメラも手元になかったが、草むらの陰に早く動くものを確かに見た。カメラを用意してなお忍耐強く待って、ついにその姿を捉えた。

これ、何だと思われますか?わからない?これだけでは無理ですね。

では、これは?

走る姿。もうお分かりですね!地面が横に流れているのがわかりますか?そう、流し撮りです。

臆病に葉陰からこちらを窺がっているが、耳の特徴は野兎と思われる。

こちらが見ているのを意識しながら、どうも危害がおよぶ気配がないと思ったか、だんだん大胆になってきた。耳に黄色い花をつけてお洒落に気取っているところを見ると、おそらくメスではないか?

と思ったら、花を口元に持って行った。

そして、次の瞬間、むしゃむしゃと食べ始めたではないか。

ハイ、ご馳走様!ウサギが花を好んで食べるとは知らなかった。

後ろを見せた。なんと可愛い尻尾をつけているではないか。

ウサギにこんな立派な尻尾なんてあったかな?

見物人の前で寝そべったりして、このリラックスぶり。スーパーで買ってきたニンジンを投げた。こちらに近いところに落としたら、警戒して知らんぷり。サンダルを履いて降りてニンジンを拾いに行ったら、パット飛び下がって距離をあける。今度は、こちらからは十分遠く、ウサギには十分近くに投げたら、そろそろと近づいて、食いついた。そんなことを2-3日繰り返しながら、だんだん近くにニンジンを落とすようにして、しまいには僕の足元に置いても安心して食べるようになった。さらに、僕の姿を見ると、ニンジンをねだってすり寄ってくるようになった。

ついに、僕の手から直接食べるようにまでなついてきた。

後足で立って食べる時のそろえた前足がなんとも可愛いではないか。

もうなりふり構わずって感じになってきた。

近所の別荘の知り合いのお嬢ちゃんにもなついた。

もう我が家の一員のようなものだ。

上の女の子のお爺ちゃんとおばあちゃんも噂を聞いてやってきた。この写真は2005年の夏のもの。もう11年も前の失われたと思った写真が、ひょっこりCDの束の中から見つかったものだ。このご主人はもう亡くなられて久しい。

おばあちゃん(今は未亡人)が置いたリンゴ。食べるかな?

ニンジンほど好きではないが、どうやら食べる気はあるらしい。

もう、だれかれ構わずなついてニンジンをねだる。

ニンジンを食べる時には、人間のように何にもつかまらずに後足二本で立つことができる。

噂が噂を呼んで、我が家にはお客が多くなった。この日は当時まだ日本の高松にあった神学校の里親たちが中心に集まった。神学校もローマに疎開して早8年余りになる。

里親たちは皆まだ若かった。みんな仲良しで元気だったあの頃が懐かしい。私の左は平家残存五家の交野家の当主。私のキャビンから見ると野尻湖を挟んで対岸の丘の上に別荘がある。帆船模型を組み立てるのは王者の趣味と言われるが、交野氏は途中まで組み立てた帆船を私に預けて、残りを完成してほしいと言われた。

その奥方のジャネットは日米夫人同盟の会長を務めた方だが、彼女はもう天国だ。

ホイヴェルス神父様門下では私の兄弟子の加藤先生も、東大の哲学の教授を退官されて、夏は野尻湖に近い学者村にご婦人と過ごされていたが、私のあばら家にも来て下さった記録が、同じ写真ファイルに残っていた。お元気にしておられるだろうか。しばらく音信がない。

また、同じファイルに新潟の宣教家族の一家の写真もあった。

あれから11年も経った。この子達そろそろ結婚適齢期に差し掛かっている。

この夏、私のキャビンには私の恋人のウサギ姫を一目見たくて普段より大勢の人がやってきた。秋、紅葉の頃に、冬の豪雪対策をして家を閉め、私は野尻湖を後にした。ウサギ姫を思うと後ろ髪をひかれる思いだったが、来年の春また会おうねと言い残して山を下りた。

明けて2006年初夏、再び野尻湖の家を開けて、うさちゃんの現れるのを待った。ニンジンを用意して何日も待った。しかし、彼女は二度と現れなかった。冬の寒さに負けて飢えて凍え死んだのだろうか。私は癒し系のあの小さな命のことを生涯忘れることができない。私だけではない、この小さな命に出会ったすべての人が、彼女に癒され、彼女に恋して、ひと夏の淡い思い出を心に刻んだに違いなかった。

 

 

 

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★ 《一部追加》 「キコ」 の世界青年大会

2016-10-16 06:39:26 | ★ WYD(世界青年大会...

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《一部追加》

「キコ」 の世界青年大会 2016

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ワールド・ユース・デイ(WYD)には恒例の「おまけ」の催しがある。

今回も教皇ミサが明けて月曜日、世界から集まった新求道共同体の若者たちは、キコが主催する身内の集いに結集した。

私は1991年にポーランドのブラックマドンナの聖地で催された第3回WYDの160万人集会以来、今回のポーランドのクラカウでの第23回まで、度々参加してきたが、キコはいつも教皇ミサの翌日に巡礼に参加した世界中の新求道共同体の若者と明日の宣教の担い手になる司祭、修道女の志願者を募る集いを開くことにしている。

教皇の300万人ミサ(私は先のブログで200万人と書いたが、あれは私の聞き違いで、ウイキペディアによると300万人とあったので、すでに訂正した)のうち約20万人が新求道共同体の若者たちだったと聞いている。

目的地まであと1キロほどの所でバスは止まった。 

 

バスを降りて会場に近づくとまず目に止まったのは、警察の機動隊車両の多さだった。「キコ」の青年集会にそれほどの警備が必要なのだろうか?

しかしよく見ると、警官の制服は暴徒鎮圧の時の乱闘服ではなく通常勤務のもので、リラックスして友好的だった。

 次に目を引いたのが万里の長城のように会場を取り巻く簡易トイレの列だった。なるほど、若者20万人の需要にこたえるにはこれだけ必要なのだ。1991年、ポーランドのチェストコーバでの青年大会は160万人の青年が集まったが、共産主義から解放されたばかりの東欧ははまだ貧しく、これだけの数のトイレを取り揃えることができなかった。そのため、若者が毛布で囲いを作り、その中で若い女性が用を足すというような光景が随所で見られた。

さらに進むと会場が見えてきた。トイレの壁で囲まれた広場の内部は既に満杯状態で、どうやら割り込む余地はなさそうだった。我々の後にもまだ続々人が到着するのに、みんなトイレの長城の外側の芝生で我慢するしかないのか。 

中央の舞台が視野に入ってきた。鉄パイプ組の柱に支えられた天蓋は巨大の一言に尽きる。しかも舞台は天蓋の下をはるかにはみ出して、上に3000-4000人が乗れる広さがある。なんでそんなバカでかいものが必要かは、この後をお読みになればわかるだろう。

仕方なくそトイレの長城の外側の草原で我慢することにしたが、背丈より高いトイレの壁が視界がさえぎって内部の広場の動静は何も見えなくなる。どうやら、会場を準備した側が参加者の数を少なく読み違えたらしい。

どこの国も自分たちのアイデンティティーを示す旗を持ってきている。

 長城には外部との出入りのためにギャップが設けられている。舞台とギャップを結ぶ直線状の細い帯からは、辛うじて舞台が遠望できる。参加者はおのずからその細い回廊上に集中することになる。空から見れば帝国海軍の旭日旗のように丸から光の帯が八方に伸びているように見えるだろう。

日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院(在ローマ)の神学生の一部と副院長のA.L.神父。彼が私のパソコンの置き引き事件の現場目撃証人だ。

ベトナム人もイタリア人も日本人も中国人もみんな一つの家族に溶け合った巡礼だった。右後ろの竿の上には日の丸とベトナムの国旗が一緒にはためいている。

舞台に近寄るためにトイレの長城の内側に立ち入った。全体のスケールが広大なので広さが実感できないが、舞台の上に立っている黒い人間の背丈を見ると、この舞台に4000人が乗れることはおよそ納得がいくというものだ。

舞台の背後にはキコの描いた巨大な壁画の幕が掛けられ、舞台の前縁に置かれた演台からキコが自作の曲に唱和するように若者たちを招き、今の世俗化し無神論化した世界にキリストのメッセージを伝えることがいかに緊急な課題かを熱く語りかける。

正面舞台の上のキコはどこから見ても豆粒にしか見えない。そこで舞台の左右に巨大なスクリーンが設けられている。それで初めて大スピーカら流れてくる声の主を視認できるのだ。

ともに祈って、ともに歌って、キコの話を聞いて会場の熱気が高揚したところで、しばしの沈黙の後、キコは「神様の呼びかけを感じて、生涯を宣教師として奉げたいと思う若者は立って舞台の上まで来なさい!」と呼びかける。すると、会場から幾筋もの川の流れのように、急ぎ足の若者たちが舞台を目指して進んでいく。20万人の若者が見守る中で、さしもの広い舞台もみるみる人で埋まっていった。彼らは壇上に跪き、来賓の大勢の枢機卿、司教たちから按手をうけ、元いた席に戻っていく。同じような呼びかけが女性にもなされた。一生涯を塀に囲まれた禁域の中で過ごし、世界の福音宣教を祈りと労働で支える厳しい修道生活に若い身を捧げるという、重大な選択に感極まって、滂沱の涙を拭おうともせずに震えながら進んでいく乙女たちの川の流れを見るのはいつも感動的だ。速報ベースでは、約3000人の若者と、約4000人の女性たちが立ったと発表された。

(追加部分)そう、そのほかに2000家族が宣教家族として立ったことも付け加えなければならない。平均子供5人の7人家族ならこれだけで一気に1万4000人が立ったことになる。この狂気の沙汰の宣教熱はどこから来るのだろうか。それは、自分が罪を赦されて死の淵から救われ、永遠の命を戴いたという生きた信仰体験、回心の恵みに応える喜びと熱意のなせる業意外の何物でもない。こんな信仰がカトリック教会の中に生き残っていたなんて、今のご時世にちょっとありえないような話ではないですか?

彼らが、今年新たに開校が決まった8つの神学校を含む世界113のレデンプトーリス・マーテル(贖い主の御母)神学院を満たし、世界中の数百の後継者不足で閉鎖・消滅に追い込まれかけていた女子修道会に活力を与えている。そして、プロテスタントの牧師さん一家のように、カトリックの子だくさんの宣教家族が、宣教の第一線に立つ。

8年前に閉鎖を免れて教皇ベネディクト16世によってローマに移植された世界第7番目の由緒ある元高松の神学校も、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル新学院」として今も健在で、この秋から新たに4人の神学生を迎え、来年5月には3人の司祭が新たに叙階される予定になっている。

その夕方、よくありがちな手違いで出発が大幅に遅れ、もう宿に泊まる時間が無くなり、夜通し走り続けるバスの車中泊でワルシャワの空港に向かった。

空港の朝、ベトナム組、イタリア組、そして日本へ帰る兄弟が次々と発っていった。テレジアとはそれ以来会っていない。

私は一番遅くミュンヘン行のポーランド航空の機内に入った。ミュンヘンでは旧知のマリアンネ神学博士嬢が私を出迎えてくれる約束になっていた。(話はここから話は5つ前のブログ「貴方は天使を見たか?」に戻る。)

(なーんだ!カメラを盗まれたと言っていたのに、ちゃんと写真があるではないか、ですって?これらは気を取り直して、携帯電話のカメラを使って撮った写真でした。iフォンをガラ携並みにしか使えていなかった76歳の目から鱗でした。)

 

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★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因? (完)

2016-10-06 00:03:51 | ★ WYD(世界青年大会...

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モスクワの出会いパソコン盗難事件の遠因? (完)

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話は前後するが、私たちはクラカウの宿を、古い大きな館(居城)に取っていた。それは、共産革命以前は貴族の領地の中にあったが、ソ連政府に接収されたもので、プーチンの時代になってから、その貴族の子孫によって買い戻され、元の姿に再建されつつあるものだった。建物は壮麗で庭園は広大、食事も悪くなかったが、寝るためのベッドがない。夜は110人が男女に別れて、大広間や廊下に寝袋を敷いて潜り込むことになる。

この館での最後の夕食は、屋外のワイルドなバーベキューとビールの飲み放題だった。若者たちの宴は深夜にまで及んだだろうが、私は、その夜激しい下痢に襲われ、夏風邪の咳もぶり返して、最悪の状態で早々に横になった。

翌朝は、その地方で最も古いと言われる教会に巡礼した。(いつもは、絵日記代わりの写真を頼りに、日時や場所、出来事まで詳しく再現できるのだが、今回はカメラをメモリーごとやられたので、不確かな記憶に頼るほかはない。)

さて、その教会に一つのマリア様の石の胸像(いや、絵だったかな?)があった。アーカイックな微笑みをたたえたマリア様だった。 

ガイドさんの話を受けてG神父は、「このマリア様にお願いごとをすると、必ず叶えられるという言い伝えがある。だから皆さんも3つのお願いをしなさい。一つは〇×のため、二つ目は×〇のために願いなさい、そして3つ目は皆さん自分の個人的願いを頼んでください。」といった。

若い巡礼参加者の幾人が、そのような誘い(チャレンジ)に反応し、本当に叶えられると信じて真剣にお願いをしたかは知らないが、私の心にはむらむらと挑戦心が芽生えた。「そうか。もし本当に叶うというのなら、信仰をこめて一つお願いしてみようではないか。」そして、心の中でつぶやいた。「マリア様、もし思し召しに叶うなら、どうかテレジアの足を癒して、教皇フランシスコの野外ミサの会場まで歩けるようにしてやってください。彼女はこのためにこそ、このきつい巡礼に参加したのですから。」

そして、よせばいいのに「もし必要なら、その代償として私から何かをお取り上げになってもかまいませんから」と、余計なことまで付け加えた。

その時の心境をいま思い返すと、言い伝えを心から信じて願ったら、それが文字通り叶えられることをこの目でぜひ確かめたい、という強い衝動を感じたことは確かだった。

わたしは、ロシア、ポーランド各地の巡礼を、この教皇ミサの300万人集会という一大絵巻に向けて心身を高揚させる準備と考えていた。だから、かわいいテレジアには是非そのクライマックスを体験させてやりたいと切望した。

だが、人間的に考えれば、今のテレジアが教皇ミサの前夜祭に向けて10キロ以上の行進に耐えることは不可能で、それを強いるのは無謀と思われた。だから、彼女の足が突然治って参加出来たら、それはちょっとした奇跡ものだと思った。G神父は彼女のために一夜の宿を密かに手配していた。

そして、いよいよ300万人集会に向けて行進する朝を迎えた。総責任者のG神父はテレジアを呼び、「あなたのために今夜泊まる宿は準備されています。無理しなくてもいい、安心して休みなさい」と告げた。(行進が始まってから途中で彼女が落伍したら、110人の行動全体が大きく影響を受ける。彼女のために大会に参加できなくなる人間が出るし、全員の現地到着も確実に遅れるという計算が引率者の頭にあるのは見え見えだった。)

すると、意外にも彼女は、「いいえ、私は行きます。その日のために私は巡礼に参加しました。」ときっぱりと言った。私はそばにいてその心意気に感心した。「でも、足は?」との質問には、「よくなりました。大丈夫です。」と言う。

見ると、腫れは退き、触っても痛みを訴えなかった。G神父は、「最後は自分で決めてください」と突き放し、責任を取ろうとしなかった。

私は内心「やった!マリア様、あなたは私の願いを叶えてくださいましたね」と言って感謝した。だが、その代りかどうか、下痢と咳と痰はますますひどくなり、鼻水も流れっぱなしで、ついに私は参加をあきらめることを余儀なくされた。「マリア様、これがあなたの求められた代償ですか?でも、彼女が参加できることになったのだから、甘んじてそれを受けます。」と言った。しかし、よく自分の内面をのぞいてみると、「彼女にとっては初めての体験だが、私はもう何度も野宿や教皇ミサは経験している。老骨にきつい野宿をするよりも、病気と言う大義名分に甘えてベッドに寝て、集会にはテレビで参加する方が実は楽チンだ、というずるい本音もあった。」そして一行がバスに乗り込んで行進の起点に向かう前に、テレジアが泊まるはずだった宿に、代わりに私が向かうことになった。きつい野宿は性に合わないと言って、初めから宿に泊まることに決めていたA神父が一緒だった。

私はその夜、清潔で柔らかなベッドに入ったが、激しい下痢で一晩中何度もトイレに立った。 

明けて、朝食をとりながらテレビで教皇の300万人ミサを見た。テレジアは無事この群衆の中にいると思うと嬉しかった。

ミサの後、A神父と私は昨日皆と別れた場所に向かった。一行は会場から遠く離れたバス溜まりまで徒歩で戻り、そこから私たちを拾いに来る手筈になっていたからだ。そこにはガソリンスタンドがあり、道を隔てた向かいには木々と緑の芝生の公園風の広がりがあった。我々は人気のないその静かな場所でのんびりと陽を浴びながらバスが着くのを待った。

1時間待った。2時間待った。3時間待っても何も起こらなかった。一人なら心配になっていろいろ手を打つところだが、A神父と一緒で、彼が連絡役だったので、任せて待つことに徹した。心地よい太陽とそよ風の中、下痢でろくに寝ていなかったのも手伝って、つい、うとうとしてしまったのだった。

そして、あの置き引き事件と、天使によるパスポートの返還があった。二つ前のブログを参照のこと。)

4時間ほど待ってやっとバスがやってきた。会場ではいろいろあったらしい。野外ミサで二人の女の子が脱水症状で倒れ、救急処置がとられ、点滴を受けている間、110人がじっと動かずに待っていたらしい。

テレジアはすがすがし顔で私の隣の席に戻ってきた。

 

 

二つの解釈の可能性

①   私はマリア様にテレジアの足を治して下さいと願った。また、よせばいいのに、そのかわり必要なら私から何かお取りになってもいい、とも言った。

彼女の足は一夜にして長距離を歩けるところまで回復した。そして無事300万人集会に参加することができた。代わりに、私は下痢とぶり返した風邪で参加できなかった。さらに、公園でパソコンとカメラを盗られた。しかし、盗られたパスポートと国際運転免許証は戻ってきた。

これらはそれぞれ互いに無関係に自然に起こったことで、マリア様に願掛けしたこととは何の関係もない。マリア様が願いを叶えることなど有り得ない。迷信に過ぎない。天使がパスポートを届けに来たなんて、愚の骨頂だ。

私自身の中に、この意見に賛成する部分がある。

②   しかし、別の解釈もある。マリア様は私の願いを聞かれた。そして、願い通り、あの朝彼女の足を癒して下さった。だが、私がマリア様に挑むような、或いは神を試すような「奇跡をおこなう条件として私から何かをお求めなら、どうぞお取りになって下さい」みたいなことをつぶやいたのを、神様はしっかり聞き咎められて、私が下痢を起こして身代わりに参加できなくするだけでは足りず、私が中毒になっていたインターネットとパソコンに加えて、玩具のように愛着していたカメラをお取り上げになった。それこそ金銭的損失を伴う厳しいお咎めだった。

私の髪の毛の数まで知っておられる神様は、私の心の奥の不遜な思い、わずかな不純な動機までしっかり見抜いておられた。「そして、アイタタ!ゴメンナサイ、私が悪かった!」と思い知らされるやり方で、お咎めになった。しかし、パスポートは天使に託して届けさせ、後半の旅まで台無しになることだけは勘弁して下さった。実に絶妙な采配ではないか、と舌を巻く。

私はテレジアと出会わなければ、教皇ミサに参加し、芝生で置き引きに合わなかったに違いない。不思議な因縁を感じる。

〔教訓〕

汝、神を試みるなかれ!

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