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《必読》 美しすぎる話 = 母の愛
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シカゴからロンドン経由でローマに帰った
東京=ローマと同じ7時間の時差に いささかボーっとした頭で 溜まっていた仕事に向かった
バチカン花見の常連の日本料理店の女将の息子から
福島の原発被災地の情報を読んでほしい フェースブックに書いているから と言うメールがあった
本音で言えば ブログとメールとツイッターだけで手一杯で これ以上広げるつもりはなかったのだが・・・
おっかなびっくり 始めてみたら さあたいへん
日本語だけではない 英語も イタリア語も コンタクト希望が一気に殺到した
中には イタリアのお友達も少なくなかった
その中で 私と親しい一人の女性の書き込みが目に止まった
趣旨に感動して 訳してお披露目する気になった どうせ時差ボケですぐには眠れないのだから
そんなわけで アメリカ日記は 次までお預け 話はまず以下の通り
絶望的な思いで一人の若い女性が産婦人科の医師を訪れて言った: 先生どうか助けてください。私は深刻な、非常に深刻な問題にぶつかっています・・・息子がまだ満一歳にもならないのに、私はまた妊娠してしまいました。こんなに続けさまに子供を欲しくはありません。せめて2-3年の間をおいてからと思っていましたのに・・・。
そこで医師は言いました: わかりました。で、私に何をして欲しいのですか?
婦人は答えました: この妊娠を中絶したいのです、それであなたの助けてが必要なのです。
すると医者は深く考え込んで、長い沈黙ののちに口を開いた: あなたの問題を解決するために、母体に危険が少ないいい方法が見付かったと思います。
婦人は医師が彼女の希望を容れてくれたものと思って微笑んだ・・・。
すると医師は話を続けた: では奥さん、こんなに年の近い新生児を二人も抱え込まないようにと言うあなたの願いをかなえるために、貴女が今腕に抱いている赤ちゃんを殺すことにしましょう。そうすれば、貴女は次の子が生まれるまで9か月間ゆっくり休めるでしょう? もしどうしても殺さなければならないとしたら、この子にするかあの子にするか、別に違いはないでしょう? だとすれば、貴女の腕の中の子を犠牲にした方が、ずっと簡単でしょう?その方があなたの体の負担なしにすませられるのですから。
婦人はもう絶望を通り越して叫んだ: ダメ―!先生、それだけは絶対にダメです! 赤ん坊を殺すなんて、それは犯罪です!!! 。
医師は応えた: 私も貴女に同感です。けれども、貴女は私があなたを助けてくれると信じたのではなかったのですか?
医師はしばらく様子をうかがっていたが、どうやら自分の話が効果をもたらしたらしいことを悟った。彼女は、とうとう自分の腕の中にいる子供と、自分の胎内に宿った子供の間に、全く差異がないことを悟ったようだった・・・。
彼女は微笑んで言った: 先生、一週間後にエコーグラフのためにまたお会いしましょう。ちっちゃな弟の心音を聞いてみたいものですわ・・・。
この話、気に入っていただけましたか?
小さなもう一つの命を救うために、よかったらこの小話を 周りの人にも広めてくださいませんでしょうか。
カトリックでは 堕胎を犯罪 殺人とみなして認めない
現在世界で年間6千万の胎児が堕胎され 闇に葬られている
私は最近のブログ「インカルチュレーション そのー2」の中で、ある老司教との会話として 「ピルが解禁されるまでに
戦後日本で行われた人口妊娠中絶(堕胎=殺人)の数は約6000万件だった」と聞いた、と書きました。
キコのシンフォニーのテーマ「無垢な者たちの苦しみ」は、この堕胎の問題とも深くかかわっている
キコと教皇ヨハネパウロ2世の呼びかけにしたがう新求道期間の道を歩む若い夫婦は
この教えに忠実で その結果平均で5人の子どもを産むし 10人 13人の子沢山も例外ではない
(つづく)
(コメントも届いています。右下のコメントをクリックして読んでください。)
女の人、母親でさえまだ生まれる前の胎児と生まれた赤ちゃんへの意識に違いがあるのに、男は更に胎児に対する意識が低いかも知れません。ハッとする話です。
周りの人たちに仕えたいと思います。
谷口くん
もし、中国がカトリック教国になったら
世界の人口はバクハツするぞ。
カトリックの神さんは避妊はOKなんかね?
それで、次のように返事しました。
カトリックの神さん、頑固やから 避妊もあかんやとさ!
神さん曰く:人口爆発、食料危機と愚かな人間どもは喧しく言うが、わたし(神)が地上の人間みなが食べ飽きるに足るだけの食料を用意しなかったことが歴史上一度でもあったか?と。
国連食糧機構の本部はたまたまローマ市内にあるが、そこの高等スポークスマンは、神様の仰ることは本当です、と告白している。
要は、金持ち個人と金持ちの国の食料の囲い込みと、食料の投棄、および、高利益を当て込んだ食用外目的への転用にある。
地球がパンクするころには、人の子の種は広い新天地を求めて宇宙に自由に拡散しているさ。ワハハ、と神様は笑う。
食料をいくら十分に用意しても、人間は欲に目がくらんでそれを正しく分配せず、その結果人類は永遠に飢え続けねばならぬ。人間の業だ。
避妊しても、堕胎しても飢えは減らない。絶対に減らない。問題の所在から目を逸らした解決にならない対策だ。
そうと分かっていても、人間は絶対に学習しないところが悲しいね。
谷口
このことについては、神父さまのブログを通していろいろ教えていただきました。最近の日本の教会ではあまり聞く機会がないように思います。
"Der Gott Jesu Christi イエス・キリストの神 ー 三位一体の神についての省察 教皇ベネディクト 16 世 ヨゼフ・ラッツィンガー (Benedict XVI) 春秋社(2011)ドイツ語初版 1976 年 里野泰昭(先生)訳" の、第 1 章 神、の、 3 「創造主なる神」、を読むと、最後は良心(人の心に本来あるはずの)に辿り着いています。この記事の女性は、心が痛くなって、直ぐに本当のことに気がついたように感じます。医師が具体的なことば(下の Benedict XVI のような神学に基づいた話明ではなく)で女性に気付かせたことがよかったように思います。しかし神学も大切だと思います。
「 自然は、それが神の創造であるがゆえに、『法(正義)』の源泉であるのです。自然は、越えてはならない限界を示します。
この問題の今日的な意味合いは明らかです。罪のない生命の殺害が正しいと宣言されるところでは、不正義が正義とされているのです。(ここでは妊娠中絶の問題が取り上げられている。)正義が人間の生命を守らないところでは、正義は疑問に付されます。これは、現代の多元的な社会において、キリスト教の特殊な道徳観をすべての人に押し付けようとすることではありません。これは人間性の問題であり、人間の人間らしさがそこにかかっているのです。人間は、自分自身を深いところで欺くことなしには、神の創造を踏みにじる行為を、自己の解放、自己の自由と宣言することはできません。・・・。キリスト者は、教会の道徳律が一般の考えによって指示されていない
という言い訳によって、この問題から逃げることはできません。・・・。この問題は、キリスト教徒に限定された道徳観の問題に留まるものではなく、人間である以上守らなくてはならない人間としての責任の問題です。まさにこのことが、救世主が創造主と同一のものであるということの帰結なのです。
・・・。できるだけ目立たない、そして確実な方法で、新たに生まれてくる生命の道を塞いでしまおうという不安に満ちた慎重さには、未来に対する深い恐れが隠されているのではないでしょうか。そこには二つの事があるように思えます。一つには、人生に意味があるとする根拠が消えてしまったので、生まれて来る相手の意見を聞く前に生命を与えることの意味が見えなくなってしまったということがあります。・・・。それと並んで、単純に競争者に対する恐れ、相手が自分の可能性を制御するに違いないという恐れがあるのは明らかです。・・・わたしたちはいつまでも自分でありたいのです。自分の生命を出来る限り完全に、邪魔されることなく享受したいのです。・・・
こうして、意味関連の最後のつながりが見えてきました。・・・。創造主である神に対する信仰告白の全く個人的な内容が明らかになります。良心は法律を越えています。良心は、『法』を体現する正義の法律と、不正義である法律とを区別します。・・・。良心とは、人間が心の奥深くで真理を知っているという神秘に対する信仰の表現なのです。・・・」 cf. pp. 49-52.
医師の人柄と話し方も大切だと思います。良心の呵責を、古語では、心の鬼、で表す事もあるようです。
いつも貴重なコメントありがとうございます。