:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「友への手紙」 =インドの旅から=

2020-07-30 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙 (1)

=インドの旅から=

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ベトナム戦争当時のサイゴンのカテドラル 片方の塔の先端は砲弾で吹き飛ばされていた

 

これは東京オリンピック開会式の日(1964年10月10日、後に「体育の日」となった)の夜、横浜港から日本を脱出してインドに旅した青春の記録です。

25歳のとき書いた、気負った、青臭い、気恥ずかしい文章ですが、80歳になったいま、「終活」の一環として、若干の解説を加えながらブログに再録してみたいと思いました。ではお読みください。

 

   

 船はみんなが帰ってから、夜中の十二時を過ぎてやっと出航しました。僕は肌寒い10月の潮風にコートの襟を立てて、ついさっきまでみんなの立っていた波止場と、灯台の明かりが見えなくなるまで、じっと甲板に立ち尽くしていました。船の波に活気づいた夜光虫が、距離感を欺いて、まるで海底の銀河のようでした。

 午後5時の出航が延びたので、ぼくたちは横浜の中華街へお別れのパーティーをしに行きましたね。それは出航まで残って見送れない人たちのことを思ってのことでした。

 実は、あのとき少々不安でした。というのも、見送りに来てくれた人たちの多くが、互いに初対面だったからです。でも、それは余計な心配でした。何故なら、ぼくにとってかけがえのない親友たちは、それぞれに何かしらぼくと同じ価値観を分け持っていたからです。その証拠に、年も立場も違う初対面のみんなが、たちまち幼友達のようななつかしさで溶け合って行くのを見ました。

 しかし、ぼくたちは本当に同じ姿勢だろうか。厳密に同じ基盤の上に立ち、同じものを求めているだろうか。ぼくらは確かに一脈通じ合うものを持っている。けれど、重要な点で意見の分かれることもあるのではないだろうか。 

 A君、君は確かこんなことを言ったことがあった。

 「一度問題を見てしまった以上、その問題から逃れることはできない。一度、我々は人類の重荷を負わされているのだということに気付いてしまった以上、その重荷を降ろすことは出来ない。一度貧しい人たち、現代社会の欺瞞のかげに疎外されている人々の顔の中に自分自身の顔を見てしまった以上、負い目の意識無しに一瞬も生きられない。自分はもう広い舗装道路を楽々と行くことは出来ない。溶岩だらけの荒れ地に倒れ死ぬまで新しい道を開き続けるほかは無い。それが自分たちの宿命だ。」と。小さな自分の世界の平和を守りながら、社会の進歩を妨げ、大きな世界の矛盾の拡大に協力して暮らしている小市民たち、プティ・ブルたちの主観的幸福をうらやみながらも、自分自身のプティ・ブル性を憎んでいる君の気持は、ぼくにもよくわかる。同感だ。新左翼の仲間にはそういう考えの人が多かった

 ぼくはこう思う。ひと頃「うっかりしているとバスに乗り遅れる」という言葉がはやったが、今じゃ時すでに移って、「うっかりすると、とんでもないエスカレーターに乗せられてしまう」時代になっているということだ。ぼくだって、不本意にも、うわっすべりに滑らされて、望みもしなければ拒むこともできないエスカレーターに乗せられて、気がついた時には既成の高みに吐き出されて、足萎えてうずくまっていたなんて言うのはごめんだ。

 しかし、だからと言って、溶岩の荒れ地に死ななければならないだろうか。それで問題の解決になるだろうか。

 むしろぼくは、これらのエスカレーターからそっと退いて、昔からつつましい聖人たちが静かに踏みしめた苔むした隠された石段を探したいと思う。険しいかも知れない、自分の足を使って登るのは楽ではないかもしれない。けれども他に道は無いように思う。課題として与えられているのは、新しいぼくが、新たな松明(たいまつ)をかかげてその道を駆け上るということだ。

 ぼくがインドに行くのは、無論、初めてヨーロッパの外に旅する教皇に会うためにボンベイの聖体大会の参加するのが目的だ。少なくとも大義名分としては。だが、本当のことを言うと、ぼくはこの隠された石段を捜しに行こうとしているのだ。いや、もっと正確に言うと、ぼくは観念的にはもうそれを見出しているのかもしれないのであって、それを知りながら勇敢に踏み入ることが出来ないでいる自分の不徹底さに苛立って、その自己分裂を止揚するカギを捜しに旅行に出たのかもしれない。どこに行くにしても所詮は同じ自分を運んで行くことになるのだし、インドの真昼の、それこそ煙突の底まで差し通す強烈な太陽の下に行っても、結局は自分の影は飛び越えられないことを知りながら・・・。

しかしまあ、とにかく僕は行く。きっと何か具体的なものをつかまえて帰って来るだろう。旅の先々からは、もっと楽しい便りを寄せるこが出来たらいいと思う。

Kさんに会ったら言ってほしい。僕が帰る頃には、彼女はもう修道院の中だから。

「あの晩、港で歌ってくれた歌はすばらしかった」と。あれは、彼女が祝日に贈ってくれた詩に僕がメロディーをつけたものだ。僕が足立区のクリスマスビレッジに住み込んで、一緒に社会事業に精出していた頃の生活の中から生まれた曲だ。

見送ってくれたみんなにはくれぐれもよろしく。

もうすぐ最初の朝食。海は静かで、甲板にはどうやら夏が逆戻りです。

何という未熟な、気負った書きぶりだろう。

A君は無神論者。彼は全共闘革マル派の理論家で、上智大学生会の代議員会の副議長だった。そして、私はイエズス会を飛び出したばかりだが、なお密かに神父になる野望を捨てきれないカトリック信者で、代議員会の議長だった。二人して8000人の学生の頂点に立っていた。A君と私は、大学の、社会の、世界の、改革について夜を徹して熱く語り合う仲だった。(そう言えば、最近清水で、当時機動隊に逮捕されて留置所の臭い飯を喰らったことがあるという「英雄」に出会った。今は売れない自称ジャーナリストだが、大いに血を沸かした青春の甘酸っぱい日々のことを懐かしく思い出させてくれた。)

K子は、いわば我々の仲間の女性版だった。馬鹿に文才があった。Aも、Kも、もう何十年も音信が無い。まだどこかで生きているのだろうか。

「聖人」を目指す?気恥ずかしくて穴があったら入りたい。しかし、それが55年前の自分の正味の姿だった。私だけではない。当時イエズス会の志願者だった数名の仲間たちも、多かれ少なかれ同じ意気込みを共有していたように思う。青春とはそういうものだ。だが、今は神父になりたい若者などほとんどいない。割の合わない、廃れた生業(なりわい)だからだ。

さて、その成れの果てのお前の今の姿はどうだ。見る影もない体たらくではないか。すっかり妥協して、世間に飼いならされてしまっている。振り返れば、だれしも忸怩(じくじ)たるものがあるにちがいない。あの大言壮語のひとかけらも実現できないまま馬齢を重ね、いまは罪にまみれた老いぼれ神父の生き恥をさらしている。腰の抜けた汚ならしい野良犬のように。

最近、縁あって、須賀敦子というカトリック作家の大部な全集をむさぼるように読んだ。ちょうど10歳年上の須賀敦子と私は、神戸、東京、パリ、ローマ、ミラノ、東京、と、まるで追いかけっこをするように10年の時差と共に同じ空間に生き、多くの共通の知人を持ちながら、常にすれ違って、ついにめぐり合うことがなかった。

一例をあげれば、須賀敦子が「聖心(みこころ)の使徒」というカトリックの宣教雑誌にミラノから盛んに原稿を送っていた同じころ、私も毎月その同じ雑誌に「布教の意向」というコラム記事を書いていた。しかも、その編集者のチースリク神父と秘書の須山緑さんという共通の親しい知人を介して繋がっていながら、ついに互いに知り合うことなく、今彼女はもうこの世に居ない。

「須賀敦子の旅路」を書いた大竹昭子という作家は、須賀について「聖心女子大を卒業するとき、そのまま大学院に進んで英文学を続けるように先生に言われても、それだけはいやだ、と既成のレールに乗るのを拒否する抵抗心も強かった。」と書いているが、既成のエスカレーターを本能的に忌避してイエズス会を出て、自分の道を捜しはじめた私と、どこか共通するところがあったのかもしれない。それが彼女をパリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア・・・へと突き動かし、私はまずインドへと旅立った。

須賀敦子は聖心女子大の1期生で、30人の卒業生の中には、後の国連難民高等弁務官の緒方貞子もいた。私のまわりからは名を成したものは一人も出ていない。

当時の日本は外貨不足で、1ドル360円の固定レート。旅行者は確か500ドルしか持ち出しが許されなかった。私は、イエズス会の総会計のビッター神父から闇ドルを買った。ビッター神父と言えば、外為法違反で有罪になり、臭い飯を喰った豪の者だった。

須賀敦子は芦屋の須賀商会社長のお嬢さんだったから、海外でもそんなに貧しい生活はしなかったようだ。

フルブライトの奨学金を射当ててアメリカに渡った小田実(まこと)が、帰国後「何でも見てやろう」という本を書くと、海外旅行など夢のまた夢だった日本の若者たちの間で、羨望を込めて爆発的に読まれた時代だった。無名で文無しの私が海外旅行を企てるなど、身の程知らずにも程があった。父は、行きたければ勝手に行けばいい、俺は知らんぞ!と吐き捨てるように言ったものだ。

蛇(じゃ)の道は蛇(へび)と言うが、貧乏学生なりに浅知恵を働かせて、最初の寄港地香港で、虎の子の闇ドルを香港の掃き溜めにダブついていた紙屑同然のインド通貨ルピーと闇で交換して何倍もの価値を得た。後に国際金融業で生き延びる潜在的本能をすでに発揮していたのかもしれない。

国際金融業という華やかだがあまりにも虚飾に満ちた生活から一転して、しがない貧乏神父の道に入った私には、いまさらこの世に残すものなど何も無いが、半世紀前に同じ雑誌に、同じ時期に、一緒に記事を書いていた須賀敦子に触発されて、上智大学の聖三木図書館の書庫の片隅に紐で束ねて転がしてあった古い「聖心の使徒」の埃を払って読み返しながら、25歳の大学院生だった頃の若気の至りの粋がりと、今の老いさらばえた姿を重ね合わせて、あらためて現実を直視してみようという気になったのだ。

(つづく)

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★ 創造と進化 ⑦ =7日目以降も続く神の創造の御業=

2020-07-25 00:00:10 | ★ 創造と進化

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創造と進化 ⑦

7日目以降も続く神の創造の御業=

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コロナの話題やホイヴェルス師の追悼ミサ関連が続いたが、「創造と進化」の哲学的考察をやめたわけではない。これは哲学者ホイヴェルス師の愛弟子を自任する私の最後で最大のテーマだからやめるわけにはいかない。

31日にアップした《「創造と進化」⑤=ビッグバン=やっと本題の入口へ》や、313日のシリーズ⑥ の「時計職人のたとえ話」の次は、「創造と進化」シリーズ第 ⑦ 弾として、旧約聖書の創世神話「神様は無から天地万物を創造され、6日目にご自分の姿に似せて知的生物≪人間≫を作り、7日目に休息に入られた」というところから始めたい。

 

 

バチカンのシスチーナ礼拝堂の天井画。ミケランジェロによって描かれた『アダムの創造』。父なる神の手がアダムに生命を吹き込む図像。

 

人間が知り得る神様の創造の御業の最初の瞬間は、いわゆるビッグバンだ。というのは、それ以前に何かあったとしても、この時空に住む我々の経験と想像力がそれ以前の状態にまでは届かないからだ。

ビッグバンを起点として神様の無からの創造の意思は、宇宙の神羅万象の存在を維持し進化を導く仕事を神様はお一人で孤独に進めてこられた。そして、進化の頂点に人間を創造すると、その人間の手に宇宙を託し、自らは安息に入られた。

では皆さんは、神様は宇宙の創造から手を引いてしまったと思われるだろうか。

どっこいそうはいかない。このシリーズの一つ前の ⑥「時計職人のたとえ話」をとっくり読み直していただきたい。時計職人は時計を完成すると、ねじを巻いて、時計がコチコチと時を刻み始めると、時刻を合わせて仕事台の上に完成したばかりの時計を残して、工房のはす向かいのカフェに行って一休み。コーヒーをすすりながらカフェの主人と世間話に時を過ごし、しばし自分の作ったばかりの時計のことを意識の外に置き忘れるかもしれない。それでも、時計は仕事台の上で忠実にコチコチと時を刻み続けている。

宇宙の場合はどうか?宇宙の場合はそうはいかない。なぜか?職人の作った懐中時計の場合、その素材まで職人が作ったわけではなかった。材料と部品は職人の手の届く範囲に存在していたものを調達してきたものだった。

神様は宇宙を無から呼び出された。つまり、神様はご自分と無関係に存在した宇宙の素材に依存することなく、全てを、素材ごとご、自分の創造の意思によって無から創造界に呼び出されたのだ。だから、宇宙が存在し続けるためには、神様の持続的創造の意思によって、一瞬、一瞬無から存在へ呼び出し続けられなければならないのだ。

言葉を変えて言えば、もし神様が被造物をご自分の意識の中に保つことをやめ、一瞬、一瞬存在へ呼び出し続けることをやめられたら、被造物はその瞬間に元の素材、つまり無に還ってしまうことになるのだ。

神様は一旦宇宙を創造し、存在を与えたら、その宇宙を存在界に置き去りにして、どこか別の場所に行って、そこで天使たちと面白い話にうち興じて、しばし自分の創造した宇宙のことを忘れて意識の外に置いてくつろぐことは出来ない。何故なら、もし宇宙が神様の持続的創造の意思の外に置かれたら、その瞬間に宇宙は元の素材の「無」に還ってしまって、その痕跡すら残らないことになるからだ。

そして、この持続的創造の意思を別の言葉に置き換えれば、それを神の「愛」ということが出来る。しかしこの愛については多くのことを語らなければならないので、今は深入りしない方がいいだろう。

宇宙の最高のマジシャン、創造主なる神様は、世界よ、在れ!と叫ばれれば世界は忽然と存在界に姿を現わし、神様の創造的意思が持続する限り世界は存在し、その意志がと切れた時、世界は忽然と元の素材、つまり、「無」に帰ってしまうのだ。

さて、神様は被造物の頂点に人間を創られた。まるで、 蒔かれた種が芽を出し、茎を伸ばし、葉を茂らせ、蕾をつけ、ついに花を開かせたように、宇宙は神様のご計画の通りに成長し、その進化の頂点に咲く花のように人間を生み出した。そして神様はその人間に神様の命の秘密、神様の存在原理である「理性」と「自由意思」のひとかけらを贈られた。その時人間は「小さな神」になった。

聖書には、神様は6日目に人を創り、7日目に休まれた、とあるが、正確に言えば、7日目からは進化をご自分一人で導かれることをやめられた、というべきではないか。

人間は神様の秘密の能力、「理性」と「自由意思」をいただいて,小さな神となって、「私」であること、つまり、自我に目覚めたものとなった。神様は人間に、「お前は私の産んだ子、私の愛の果実」と呼ぶことが出来、人間は神様に向かって「神様、あなたは私の創り主、私の父」と呼ぶことが出来るようになったのだ。

神様は人間に、今後、私は宇宙の創造的進化を一人で導くことはやめた。これからはお前と手を取り合って一緒に宇宙の進化を導こう、と招かれた。

ホイヴェルス神父様が、「歴史は神様の営みと人間の営みの 二本の紐を撚り合わせたもの」という意味のことを言われたが、それは、人間の出現以降の宇宙の創造的進化の過程の仕組みを言い当てたものと考えることもできるだろう。

 

 

いかがですか?頭の芯が疲れましたか?それとも、息切れしないで、ここまで私の論旨にすらすらと付いてくることが出来ましたか?

頭が疲れましたか?ではひと休みしましょうか。私は何も難しいこと、変なことは言っていません。ただ、皆さんがこういう思考パターンに馴れていないだけです。わかりにくかったら、落ち着いて、頭を冷やして、もう一度最初からゆっくり読んでみてください。そのうち、なるほど、と納得されるに違いありません。

 

 

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★ このままでは明日の日本は香港並みか?

2020-07-15 00:00:01 | ★ 日本の社会

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このままでは明日の日本も香港並みか?

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密かな電話盗聴。スマホのSMSやパソコンメールの監視。ブログの検閲。など、プライバシーにかかわる情報がどんどんチェックされ、削除されていく。日本の社会は既にそういう怖い世界になっているのか、と背筋の寒くなるような名誉な事態が、ついにわが身にも起こった。

今朝、ブログの編集画面を立ち上げたら、上の方に見慣れない赤い文字が並んでいた。何気なく目を落とすと:

アフィリエイト、商用利用、公序良俗等の規約違反により、又は、法令上規定された手続により現在、1件の記事を公開停止させていただいております。

  • 該当記事を確認する

記事の再表示をご希望の場合は、該当箇所の修正(テキスト・リンク・画像削除等)をしていただき、gooID・該当記事URLを明記の上、info@goo.ne.jpまでご連絡ください。修正の確認が取れた場合のみ、再表示いたします。
非表示理由は上記「該当記事を確認する」をクリックするか、ブログが表示されなくなったらをご覧ください。

とあった。

グーグルによって「公開停止」の処分を受けた記事を自分で読み返してみたが、テキストの内容に公序良俗や法令に触れるような不適切なものがあったと思い当たる箇所はなかった。ではリンクだろうか。しかし、問題の記事にリンクは一つも存在しない。では、画像だろうか。画像としては写真が4枚貼りつけられているが、もしかしてそれが原因なのだろうか。まさか!

法令上規定された手続により非表示にした理由は「ブログが表示されなくなったら」をご覧ください、とあるので、そこをクリックしたら、驚くなかれ、全4章60条、各条に1~11項、平均4~5項として、合計250項以上の長大な規定が延々と続く。いずれも表現は抽象的で、私のブログの何がどの規定に反したために公開停止処分になったのか、ちょっと目には全く見当がつかない。

私は、卑屈になって、処分側の意向を忖度して、当たり障りのないテキストに書き直してまで、ブログの再表示の許可を求める気はない。よく見れば、2017年7月8日にアップした古い記事で、今頃公開停止処分を受けても何の痛痒も感じない。多くの人に読まれてすでに過去のものとなったブログではないか。

ただ、私のブログの愛読者の皆様には、どんなブログが公開停止処分の対象になったのかを知っておいていただきたいとは思う。皆さんの目から見て、なるほど、それは仕方がない、という内容のものと判断されるか、あるいはこの処分は理由が分からないと思われるか、改めて読んで判定していただきたいと思った。

それで、取り敢えず写真が問題であったかもしれないという想定の下に、そのブログで使用した4枚の写真は削除して、再表示としてではなく、新規のブログとして、類似の論旨をあらためて構築してみようと思った。

 

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1位は本当に癌なのか? 日本人の死亡原因

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私は或る目的でインターネットを検索中に、偶然一つの漫画と出会った。

「透明なゆりかご」 沖田X華(おきたばっか)著(15巻)

 

【ここに一枚目の写真を入れよう】

(マンガ透明なゆりかごの表紙を私が写真に撮って貼りつける)

 

副題に「産婦人科医院 看護師見習い日記」とある以外には著者情報のない謎の女性マンガ家の作品だ。

日本では、中卒で准看護学校に入ったものは高卒の年齢で准看護士の資格を得て医療の現場に入ることが出来る。正看護師より一段低く見られながら医療の現場の底辺を支えているのだが、正看より実技に長け、医師や正看の上からの目線が見落としている看護の現場の現実を赤裸々に見つめている者も少なくない。バッカ嬢はそのような女性の一人なのだろうか。

個性的と言えばそれまでだが、この稚拙な絵のマンガの第1巻は215万部突破、第2220万部、34巻と続いて、第5巻に至っては260万部突破と、その売れ行きは半端ではない。俗物の計算だが、1400円の本の印税が40円とすれば、第5260万部のX華嬢の収入は単純計算で1400万円、シリーズ全5巻で合計約5億円になる?まさに「たかがマンガ、されど・・・」と言う他はない。

ではなぜこの漫画がそんなに売れるのか?それはバッカ嬢の堕胎の現実に対する優しい、暖かい、前向きの視点が、日本全国に何百万といる堕胎経験女性のハートを捉え、良心の疼きに触れたからではないだろうか。

 

【ここに第2枚目の写真】

羊水の中の生きる胎児の平和な横顔。親指を口で吸っているように見える。

(この種の画像はどこにでもある。どこから借用した写真だったか記憶しないが・・・)

 

 准看護士バッカさんの語録をいくつか拾ってみよう。

〇 不思議だ、毎日中絶している場所なのに新しい命が生まれるんだ。(1P.21

〇 産婦人科って毎日が喜びにあふれている場所だと思っていた。このバイトをするまでは。(同P.26

〇 「ねえ、見える?あれが外の世界だよ。山バッカだけどキレイでしょ」バラバラにされた胎児の残骸に山の景色を見せてやる場面)

〇 ムダなことと分かっていたけど、日の光も見ないで暗い所に入れるのはかわいそうだったから・・・そして、いつものようにお別れを言いながら棺を持って歩く(業者に火葬のために渡すまで)P.2526

〇 マニュアル通り流産、中絶した胎児の処理をする、これが私の仕事だった(同P.79) 

〇 男は逃げることが出来るけど 女は 全て背負わなければならない たとえ心の準備が出来ていなくても・・・(同P.87

〇 (堕ろされた)胎児はエタノールにはいると鮮やかな朱色になって光り輝く(同P.98

〇 何もしゃべれないのに・・・その存在だけで人の命を救うなんて 赤ちゃんてすごいなあ 生きようとする力で みんなに希望を与える 赤ちゃんは「生きるかたまり」 命そのものなんだ・・・(2巻P.24) 

〇 (捨て子) よくぞ この子を殺さず 捨ててくれたと思った この子は 置き去りにされたから 生き残ることが出来たって・・・ 逆に親に感謝したい気持ちになった・・・ きーよしー こーのよーる ほーしは ひーかりー 3巻P.66

〇 命に代えてもやりとげたいことって 人生にどれぐらいあるんだろう

  「子供を産むこと」は そのひとつかもしれない(同P.99) 

〇 何故「透明な子」は出来るのだろう

  一度「透明な子」になったら子供達には過酷な運命が待って居る

  でもその中で子供は 色々な夢や希望を思い描き

  必死で自分が絶望に引き込まれないようにしている

  その願いが届きますように 救われますように 少しでも幸せになりますように

  私は祈ってしまうのです。(4P.40) 

〇 授かった命には死産でも中絶でも皆意味と役割がある5巻表紙)

 

では日本の中絶件数は公式統計ではどうなっているのだろうか。(公式統計に表れない数はどれほどだろうか?無視していいほど少なくはないはずだが・・・)

国の統計が把握した日本人女性の中絶件数は、 1955年 117万件 だった。

件数は減少に転ずるが、その後も6年間は100万件の大台を維持した。

100万件を割ったのは                1962年 98.5万件

1963年以後も中絶件数は減少を続け、      1993年 38.7万件

何故1993年の数字が大事かと言うと、それはこの年の妊娠中絶件数が最近の日本の死亡原因第1位とされるの癌による死亡者数、37.0万人を超える最後の年だったからだ。つまり、1933年以前の日本では、常に堕胎が日本人の死亡原因の第1位であって、癌は2位だったことを意味する。

人は言うかもしれない。胎児は人間には数えない、出生して初めて日本人の数に入る、と。もしかしたら、あなたもそう思っている一人かもしれない。しかし、沖田X華(おきたバッカ)著のマンガ「透明なゆりかご」を密かにむさぼり読んで涙した大勢の中絶経験者の女性たちは、その意見に同意しないだろう。 

因みに、最近の厚生労働省の統計「日本人の死亡原因」201662日)によれば、その順位は:

           癌    28.7%  37.0万人

        心臓病 15.2%  19.6万人

          肺炎   9.4%  12.1万人

          脳卒中  8.7     11.2万人

          老衰   6.6%    8.5万人

          事故   3.0%    3.9万人

          自殺   1.8%    2.3万人

          その他 26.6%  34.3万人

となっている。 

もし、老衰、事故、自殺が日本人の死亡原因の中に数えられるのなら、老人以上に弱い立場にある無抵抗の胎児の他殺(しかも母親の決断による)はどうして死亡原因として挙げてはならないのだろうか。

堕胎した女性はそれが9週目であれ、それ以前の小さい命であれ、自分が堕したのは紛れもない自分の子供であり、一人の人間であることを本能的に知っている。

 

【ここに第3枚目の写真】

片腕と頭部と右腕がちぎれて横に置かれ、首のない胴に続く股は大きく開いてお腹からは太くねじれたヘソの緒が長くくねっている。思わず目を背けたくなるような写真。

【続いて第4枚目の写真】

胴のところで上下真っ二つにちぎれ、胸には左腕、右腕と頭部は別々に離れ、部位の分からない肉塊と共にバラバラになった胎児の写真。

いずれも堕胎の際に掻把で破壊され殺された胎児の無残な姿だ

(この2枚ともアメリカのカトリック司教協議会傘下の反堕胎運動 “Prolife” の日本版「プロライフ」のクレディットの入った写真だ)

この2枚の写真を見ていただきたい。アウス(掻把)されてズタズタになった命のカケラをガラスのシリンダーに集めるのも、准看護婦見習いバッカちゃんの毎日の仕事だが、業者は病院を回ってそれを集め、マニュアル通り火葬に付す。と言うことは、日本の社会もそこに人間の生命の尊厳を認めている証拠ではないだろうか。 

胎児も500グラムほどになると、野蛮な掻把の対象とするのは母体に危険なのだろうか。人工的に強制分娩で取り出すが、呼吸して弱々しい産声を上げるのもいるそうだ。放置すればすぐ死ぬとしても、その気になれば、今の医療は滅菌保育器の中で未熟児として生き永らえさせ、哺乳して育て上げる技術を確立している。だから出生前の胎児は人間ではないと強弁することにはどうしても無理がある。だとすれば、堕胎もれっきとした日本人の死因の一つだと言うほかはない。

では、かつて日本人の死亡原因のトップだった堕胎の直近の数字はどうか。2009年には22.3万件だったが2017年は約20万件だそうだ。つまり、癌に次いで第2位、そして、心臓病19.6万人が第3位でそれに続く。

ふーん、今はそういうこと。堕胎が1位でなくなってひとまず良かったね、と妙な安ど感で話はお終いなのだろうか。バッカちゃんの「透明なゆりかご」はそこまでで一区切りつけて、それ以上追及していない。

と言うことは、過去はともかく、やはり今日の日本の死亡原因の第1位は「癌」の37万人と言うことか。そして第2位が「堕胎」の20万人、第3位が「心臓病」の19.6万人・・・と続くのだろうか?それでは当たり前すぎて、このブログ面白くもなんともないことになってしまう。それでいいのか?いいわけがない!

私はこの際、乗りかけた船で、なお隠されている真実に向き合わずにはいられないのだ。だから・・・(私はこの後2回にわたって、ブログを通して、どっこいそうではない、やはり堕胎が1位だという話を展開した。)

(続く)

さて、ブログ愛読者の皆さん。上の記事を見てどう思われましたか。これのどこが公序良俗に反し、あるいは法令に触れる「公開停止処分」に該当するのでしょうか。「1位は本当に癌なのか? 日本人の死亡原因」という設問自体が厚生省かどこかの意向に沿わなかったのか。さもなくば、ただ出典不明の写真(羊水の中を漂う胎児)が一枚混ざっていたことが法に触れたのか。写真を外して再構築したこの新しいブログが、再び「公開停止処分」を受けるかどうかで、問題の本質が消去法的に明らかになるのではないでしょうか。

なお、2017年7月21には「日本人の死因はやはり癌ではなかった」と、同年7月25日には「=反響=癌は死因の第1位ではなかった」という二つのフォロー記事が今も「公開停止」処分を受けずに残っているので、興味のある方は併せてご覧ください。

 

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★ タイガーロック女史=ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

2020-07-01 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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タイガー・ロック女史

ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

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ある日、携帯が鳴った。わたくし、トライワと申します。タイガー・ロックでございます。

初めての電話で開口一番、自分の名前を名乗り、漢字で何と書くかを英語で言ってのけたこのご婦人に特別な興味を抱いた。

彼女の名前は、ホイヴェルス師の追悼ミサの参加者名簿にあって、今年の追悼ミサの案内には私の携帯番号があったのを見て、電話してこられたのだ。

 

 

94歳。清瀬の老人ホームに入っている。以前は時々ホームから片道1万円以上かけてタクシーを飛ばして目白のカテドラルまでミサに与かりに行っていたそうだが、最近は施設の職員が一人外出を制限して、出してくれなくなった。訪ねてくれる司祭もいなくて孤立していた。

ホイヴェルス神父様の追悼ミサには是非とも出席したいが、一人では出してもらえないと言うので、往き帰りは私が車で同伴するからと言えば許可が下りるかもしれませんね、と言ったが、それでもやはりだめだった。

69日の第43回追悼ミサは、万全なコロナ対策のもとで、四谷の主婦会館の広い会場を使ってつつがなく行われた。

ミサ後の懇親会では、94歳の虎岩さんと言うご婦人が強く出席を望まれたが、施設側の許可が得られなくて断念されました。皆さんによろしくとのことでした、と報告すると、あら、虎岩さん?まだお元気かしら?と、彼女のことを知っている人がおられた。

数日後、私は追悼ミサの様子を伝え、彼女の告白を聴き、ミサの時に聖別しておいたご聖体を届けるために彼女をホームに訪れた。

 

聖家族ホームの入り口わきの聖母子像

 

コロナ対策で私はホームの玄関から中へは一歩も入れてもらえなかった。

外の車寄せで待つほどに、虎岩女史は職員に導かれて私の前に現れた。広場のベンチに並んで腰をおろすと、問わず語りに彼女は自分の歴史を語り始めた。

 

ベンチの後ろの植え込みの紫陽花

 

大正15年、虎岩冨美子は京橋に8人兄弟の末から二人目として生まれた。帝国海軍の軍艦の電気系統の艤装に特化した虎岩電機は、当時は新橋に大きな店を構えていたが、彼女が10歳のころに倒産。母親の衣装箪笥にまで差し押さえの札が貼られたことを子供心におぼえていた。

大崎の島津山で空襲に遭い、足を怪我した。友達がホイヴェルス神父さまに引き合わせてくれた。神父様は「こんな時代、何があるか分からないから貴女も洗礼を受けなさい」と言われてその気になった。イエズス会の建物(上智大キャンパスの中に今もある木造洋館のクルトゥールハイム)二階のチャペルの薄暗い香部屋で、長身のホイヴェルス神父様から洗礼を受けた。「私の他にもう一人大学の先生の男性が一緒だった。その先生が洗礼を受けるとき滂沱の涙を流しておられたのを見て、私も何もわからないまま、生まれ変わるような気がして思わず泣いた」と言った。

空襲警報が鳴るとホイヴェルス神父様は二階の部屋に逃げなさいと言われた。犬飼道子さんがいつも一緒で二人して机の下にもぐりこんだ。5.15事件で青年将校に殺された昭和の宰相犬養毅の孫でカトリック作家になった犬飼道子は冨美子さんの友達だった。

空襲の後、聖路加病院に入院していた兄を見舞いに行くときは、そこここに転がる死骸を跨ぐようにして行った。

当時冨美子は東大の地震研究所に勤めていたが、ホイヴェルス神父様は東大生を相手にカトリック研究会を開いていて、彼女も参加した。

終戦の日、皇居前の広場で玉音を聴いて泣いた。割腹自殺をした将校もいた。終戦の日彼女は20歳だった。

兄たちは優秀な一中、一高、東大生で、長兄は朝鮮の三菱製鋼に、次男は地質学者に、三男は化学者に、四男は哲学者に、だが5男は健康に恵まれず一高を落ちて水戸の高校に進んだ。兄たちはみな病弱で、当時流行っていた結核で、若くして相次いで病死し、冨美子は彼らの看病に青春を捧げた。 

30台で修道女になった。ホイヴェルス神父様に修道院に入ることになりましたと報告に行くと、どの修道会に入るのかね、と問われたので、「藤沢のみその」の修道会に入りますと答えると、神父様はひと言「有難う」と言われた。

「御園の聖心愛子会」と言えば、ホイヴェルス神父様と同郷のウエストファーレン出身の女性、御園のテレジアが創立した修道会で、神父とテレジアは特別に親密な関係だったから、彼女がその会に入ることを知って、神父は自分のことのように喜ばれたのだろう。

 

タイガーロックこと虎岩冨美子さん

 

御園の会のシスターになった冨美子は、藤沢の本部から広島の呉に、また秋田に宣教に派遣されるが、1964年に豊島区関口に東京カテドラル・マリア大聖堂が丹下健三の設計で建てられると、そこの香部屋係(聖堂の祭壇世話係)に選ばれ、以来45年間そこで働く。

宮様か誰かの葬儀がカテドラルであった時、テレビのカメラが入って、私は嫌だったのに、隅っこに映ってしまったとか、脇祭壇のところには美智子妃殿下の実家の正田家の皆さんの姿がしばしばあったとか、同世代の白柳枢機卿とは一緒に食事に行くなど、親しく付き合わせてもらったなどの思い出を、懐かし気に話してくれた。

カテドラルでの奉仕を終えたとき、彼女はみそのの修道会を退会して今の清瀬市の聖家族ホームに入ったということだった。

さらに、冨美子さんはまだ人に話したことはないが、と断って、私にホイヴェルス神父様に関わる秘密のエピソードを語ってくれた。

ある日、彼女が上智のクルトゥールハイムの二階の聖堂の窓から、イエズス会の修道院の中庭を見るともなく見下ろしていると、ホイヴェルス神父様がひと気のない庭に入って来られた。庭の中ほどまで進んだ時、何かに躓いてばったりと倒れられた。よっぽど打ちどころが悪かったか、しばらく立ち上がれず、ようやく身を起こして、自分をいたわりながらゆっくりと庭の別の方角に姿を消された。

翌日、ホイちゃん(と皆に親しみを込めてそう呼ばれていた)は彼女に会ったが、怪我のことは何も話されなかった。彼女も転んだのを見てしまったことをホイちゃんに言えなかった。

そして、心の中で思った。ああ、ホイちゃんも日本での長い宣教生活の間に、時には仕事の上で、あるいは信仰生活の中で、また人間関係で、人知れず孤独に躓き、ばったり倒れることもあっただろうに、いつも一人で立ち上がり、誰にも告げず、再び黙々と今日まで歩み続けてこられたのだな、と思うと、その後ろ姿が何とも神々しく有難かった。

 

冨美子さんに洗礼を授けてホイちゃん

 

彼女の最期の望みは自叙伝を書くことだが、私の見立てでは、もうそれだけのエネルギーと時間は彼女に残されていないように思われる。

 

 

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