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友への手紙 (1)
=インドの旅から=
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ベトナム戦争当時のサイゴンのカテドラル 片方の塔の先端は砲弾で吹き飛ばされていた
これは東京オリンピック開会式の日(1964年10月10日、後に「体育の日」となった)の夜、横浜港から日本を脱出してインドに旅した青春の記録です。
25歳のとき書いた、気負った、青臭い、気恥ずかしい文章ですが、80歳になったいま、「終活」の一環として、若干の解説を加えながらブログに再録してみたいと思いました。ではお読みください。
船はみんなが帰ってから、夜中の十二時を過ぎてやっと出航しました。僕は肌寒い10月の潮風にコートの襟を立てて、ついさっきまでみんなの立っていた波止場と、灯台の明かりが見えなくなるまで、じっと甲板に立ち尽くしていました。船の波に活気づいた夜光虫が、距離感を欺いて、まるで海底の銀河のようでした。
午後5時の出航が延びたので、ぼくたちは横浜の中華街へお別れのパーティーをしに行きましたね。それは出航まで残って見送れない人たちのことを思ってのことでした。
実は、あのとき少々不安でした。というのも、見送りに来てくれた人たちの多くが、互いに初対面だったからです。でも、それは余計な心配でした。何故なら、ぼくにとってかけがえのない親友たちは、それぞれに何かしらぼくと同じ価値観を分け持っていたからです。その証拠に、年も立場も違う初対面のみんなが、たちまち幼友達のようななつかしさで溶け合って行くのを見ました。
しかし、ぼくたちは本当に同じ姿勢だろうか。厳密に同じ基盤の上に立ち、同じものを求めているだろうか。ぼくらは確かに一脈通じ合うものを持っている。けれど、重要な点で意見の分かれることもあるのではないだろうか。
A君、君は確かこんなことを言ったことがあった。
「一度問題を見てしまった以上、その問題から逃れることはできない。一度、我々は人類の重荷を負わされているのだということに気付いてしまった以上、その重荷を降ろすことは出来ない。一度貧しい人たち、現代社会の欺瞞のかげに疎外されている人々の顔の中に自分自身の顔を見てしまった以上、負い目の意識無しに一瞬も生きられない。自分はもう広い舗装道路を楽々と行くことは出来ない。溶岩だらけの荒れ地に倒れ死ぬまで新しい道を開き続けるほかは無い。それが自分たちの宿命だ。」と。小さな自分の世界の平和を守りながら、社会の進歩を妨げ、大きな世界の矛盾の拡大に協力して暮らしている小市民たち、プティ・ブルたちの主観的幸福をうらやみながらも、自分自身のプティ・ブル性を憎んでいる君の気持は、ぼくにもよくわかる。同感だ。新左翼の仲間にはそういう考えの人が多かった。
ぼくはこう思う。ひと頃「うっかりしているとバスに乗り遅れる」という言葉がはやったが、今じゃ時すでに移って、「うっかりすると、とんでもないエスカレーターに乗せられてしまう」時代になっているということだ。ぼくだって、不本意にも、うわっすべりに滑らされて、望みもしなければ拒むこともできないエスカレーターに乗せられて、気がついた時には既成の高みに吐き出されて、足萎えてうずくまっていたなんて言うのはごめんだ。
しかし、だからと言って、溶岩の荒れ地に死ななければならないだろうか。それで問題の解決になるだろうか。
むしろぼくは、これらのエスカレーターからそっと退いて、昔からつつましい聖人たちが静かに踏みしめた苔むした隠された石段を探したいと思う。険しいかも知れない、自分の足を使って登るのは楽ではないかもしれない。けれども他に道は無いように思う。課題として与えられているのは、新しいぼくが、新たな松明(たいまつ)をかかげてその道を駆け上るということだ。
ぼくがインドに行くのは、無論、初めてヨーロッパの外に旅する教皇に会うためにボンベイの聖体大会の参加するのが目的だ。少なくとも大義名分としては。だが、本当のことを言うと、ぼくはこの隠された石段を捜しに行こうとしているのだ。いや、もっと正確に言うと、ぼくは観念的にはもうそれを見出しているのかもしれないのであって、それを知りながら勇敢に踏み入ることが出来ないでいる自分の不徹底さに苛立って、その自己分裂を止揚するカギを捜しに旅行に出たのかもしれない。どこに行くにしても所詮は同じ自分を運んで行くことになるのだし、インドの真昼の、それこそ煙突の底まで差し通す強烈な太陽の下に行っても、結局は自分の影は飛び越えられないことを知りながら・・・。
しかしまあ、とにかく僕は行く。きっと何か具体的なものをつかまえて帰って来るだろう。旅の先々からは、もっと楽しい便りを寄せるこが出来たらいいと思う。
Kさんに会ったら言ってほしい。僕が帰る頃には、彼女はもう修道院の中だから。
「あの晩、港で歌ってくれた歌はすばらしかった」と。あれは、彼女が祝日に贈ってくれた詩に僕がメロディーをつけたものだ。僕が足立区のクリスマスビレッジに住み込んで、一緒に社会事業に精出していた頃の生活の中から生まれた曲だ。
見送ってくれたみんなにはくれぐれもよろしく。
もうすぐ最初の朝食。海は静かで、甲板にはどうやら夏が逆戻りです。
何という未熟な、気負った書きぶりだろう。
A君は無神論者。彼は全共闘革マル派の理論家で、上智大学生会の代議員会の副議長だった。そして、私はイエズス会を飛び出したばかりだが、なお密かに神父になる野望を捨てきれないカトリック信者で、代議員会の議長だった。二人して8000人の学生の頂点に立っていた。A君と私は、大学の、社会の、世界の、改革について夜を徹して熱く語り合う仲だった。(そう言えば、最近清水で、当時機動隊に逮捕されて留置所の臭い飯を喰らったことがあるという「英雄」に出会った。今は売れない自称ジャーナリストだが、大いに血を沸かした青春の甘酸っぱい日々のことを懐かしく思い出させてくれた。)
K子は、いわば我々の仲間の女性版だった。馬鹿に文才があった。Aも、Kも、もう何十年も音信が無い。まだどこかで生きているのだろうか。
「聖人」を目指す?気恥ずかしくて穴があったら入りたい。しかし、それが55年前の自分の正味の姿だった。私だけではない。当時イエズス会の志願者だった数名の仲間たちも、多かれ少なかれ同じ意気込みを共有していたように思う。青春とはそういうものだ。だが、今は神父になりたい若者などほとんどいない。割の合わない、廃れた生業(なりわい)だからだ。
さて、その成れの果てのお前の今の姿はどうだ。見る影もない体たらくではないか。すっかり妥協して、世間に飼いならされてしまっている。振り返れば、だれしも忸怩(じくじ)たるものがあるにちがいない。あの大言壮語のひとかけらも実現できないまま馬齢を重ね、いまは罪にまみれた老いぼれ神父の生き恥をさらしている。腰の抜けた汚ならしい野良犬のように。
最近、縁あって、須賀敦子というカトリック作家の大部な全集をむさぼるように読んだ。ちょうど10歳年上の須賀敦子と私は、神戸、東京、パリ、ローマ、ミラノ、東京、と、まるで追いかけっこをするように10年の時差と共に同じ空間に生き、多くの共通の知人を持ちながら、常にすれ違って、ついにめぐり合うことがなかった。
一例をあげれば、須賀敦子が「聖心(みこころ)の使徒」というカトリックの宣教雑誌にミラノから盛んに原稿を送っていた同じころ、私も毎月その同じ雑誌に「布教の意向」というコラム記事を書いていた。しかも、その編集者のチースリク神父と秘書の須山緑さんという共通の親しい知人を介して繋がっていながら、ついに互いに知り合うことなく、今彼女はもうこの世に居ない。
「須賀敦子の旅路」を書いた大竹昭子という作家は、須賀について「聖心女子大を卒業するとき、そのまま大学院に進んで英文学を続けるように先生に言われても、それだけはいやだ、と既成のレールに乗るのを拒否する抵抗心も強かった。」と書いているが、既成のエスカレーターを本能的に忌避してイエズス会を出て、自分の道を捜しはじめた私と、どこか共通するところがあったのかもしれない。それが彼女をパリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア・・・へと突き動かし、私はまずインドへと旅立った。
須賀敦子は聖心女子大の1期生で、30人の卒業生の中には、後の国連難民高等弁務官の緒方貞子もいた。私のまわりからは名を成したものは一人も出ていない。
当時の日本は外貨不足で、1ドル360円の固定レート。旅行者は確か500ドルしか持ち出しが許されなかった。私は、イエズス会の総会計のビッター神父から闇ドルを買った。ビッター神父と言えば、外為法違反で有罪になり、臭い飯を喰った豪の者だった。
須賀敦子は芦屋の須賀商会社長のお嬢さんだったから、海外でもそんなに貧しい生活はしなかったようだ。
フルブライトの奨学金を射当ててアメリカに渡った小田実(まこと)が、帰国後「何でも見てやろう」という本を書くと、海外旅行など夢のまた夢だった日本の若者たちの間で、羨望を込めて爆発的に読まれた時代だった。無名で文無しの私が海外旅行を企てるなど、身の程知らずにも程があった。父は、行きたければ勝手に行けばいい、俺は知らんぞ!と吐き捨てるように言ったものだ。
蛇(じゃ)の道は蛇(へび)と言うが、貧乏学生なりに浅知恵を働かせて、最初の寄港地香港で、虎の子の闇ドルを香港の掃き溜めにダブついていた紙屑同然のインド通貨ルピーと闇で交換して何倍もの価値を得た。後に国際金融業で生き延びる潜在的本能をすでに発揮していたのかもしれない。
国際金融業という華やかだがあまりにも虚飾に満ちた生活から一転して、しがない貧乏神父の道に入った私には、いまさらこの世に残すものなど何も無いが、半世紀前に同じ雑誌に、同じ時期に、一緒に記事を書いていた須賀敦子に触発されて、上智大学の聖三木図書館の書庫の片隅に紐で束ねて転がしてあった古い「聖心の使徒」の埃を払って読み返しながら、25歳の大学院生だった頃の若気の至りの粋がりと、今の老いさらばえた姿を重ね合わせて、あらためて現実を直視してみようという気になったのだ。
(つづく)