:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 久しぶりの野尻湖の遅い春

2023-04-21 00:00:01 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~~~~~

久しぶりの野尻湖  遅い

~~~~~~~~~~~~~

 

 

 4月16日日曜日、今年初めて野尻湖の山の家を開けに行く。窓の下の斜面にはやや遠くコブシの樹が花盛りだった。望遠で引き寄せると花の形までわかる。

 

ベランダのわきの山桜は風にはらはらと花吹雪。

 

と思ったら、霧が出てきた。山の天気は変わりやすい。

 

きっと今夜は雨だろう。降り出す前に水辺におりてみた。

 

晴れていれば、正面に雪を頂く妙高の勇姿がそびえていているはずなのだが・・・

 

 4月17日 薪割りをしたり、スーパーに買い物に行ったり、県境を越えて新潟県の赤倉温泉に入りに行ったり。

 

4月18日 朝までに雨は止んで、水芭蕉を見に戸隠の奥社へ。修験道の山はのこぎり状の尾根に薄いガスをまとっていた。

 

 

足元にはまだ消え残った雪が。あと何日で姿を消すのだろう?

 

戸隠神社の奥社はこの鳥居からまだ30分の道のり。最後は険しい石段だ。

 

鳥居の足元には下馬とあり、昔はどこかに女人禁制の札もあったか・・・

 

 

 トレッキングコースは長・短お好み次第。水芭蕉の群生地も道しるべが教えてくれる。真っ盛りを期待したのに、まだ白い蕾が湿原からやっと顔をのぞかせたたばかりで寂しかった。緑の葉はまだ出ていない。やはり盛りは初夏を待たねばならないか。

 若いころには、夏の「はるかな尾瀬♬♪」に何度も行ったものだった。

 

 寒いと思ったら、季節はずれのボタン雪が降り始めた。83年の人生で、ふとすれ違った素敵なお嬢さまたち。 さっき戸隠の峰がかすんで見えたのは雪だったのか?

 

 

 池塘の水芭蕉の花もこれでは首を引っ込めたくなるわけだ。今日のトレッキングは雪のため中断。最短コースで車に戻って暖をとる。

 

4月18日 夜通しの雨が朝は濃い霧に変わった。霧が晴れると初めて青空になった。昼はリッチに山の上のレストランを予約して出かけた。森の道を行くこと30分。このアクセス道路は私のお気に入りだ。小さな峠を越えて田畑や農家を眺めながら、ゆっくりと食欲を準備するドライブになる。あたりにはあらゆる花が一斉に咲きそろう。

 

どの木もみんな若々しく装う。秋にはもう一度紅葉で目を慰めてくれるのだ。

 

この木は梅でも桜でもない。さりとて、リンゴでもナシでもない。はて、何の花?

 

路傍には道祖神石仏

 

この木、遠目には枝ぶりがリンゴに見えたが、花が違う。だが、果樹特有の剪定をほどこされた枝ぶりは、絶対に桜ではないと思う。

 ようやく丘の上のレストランにたどり着く。2代目で先代の社長の奥さんはプロテスタントの牧師さんだった。だからチャペルがある。そこで結婚式を挙げて、こちらで披露宴という流れになる。私も日本人の花嫁とアメリカ人のカトリックのカップルの結婚披露宴をこのレストランで祝ったことがある。そこには、タンザニアから嫁いできたフィディアさんという小柄な女性がウエイトレスをしている。彼女は働きながら故郷に学校を建てるなど、明るく優しく素晴らしい活躍をしている。彼女の数奇な人生を描いた絵本も売っている。たまたまカトリック信者で神父の僕とはもう長いお付き合いだ。

 この会社はワインとリンゴ酒で世界的に有名だが、農場のリンゴの樹もブドウの樹もまだ葉も花もつけてはいない。

 

 レストランの窓の外に急に雲がわいてきた。遠い山が海に浮かぶ島のようになった。

 

レストランの周りには色とりどりの草花が

 

 

 その夜、100年前にプロテスタントのドイツ人牧師が、日本人の大工さんを指導して建てたこの小さな山小屋には、どっしりした暖炉がある。太いマキを燃やし、ワインを味わいながら夜更けまで音楽を聴く。至福の時だ。明日は山を下りて、またシャバに戻ることになる。

 4月19日、峠を二つ超える近道で長野盆地に下るのだが、その前に、念のため秘密の花園をチェックしに林に入る。実は、家のすぐ目と鼻の先の思いがけない場所に、水芭蕉の小さな群生地があるはずなのだが・・・。

 

あった!戸隠の森よりも圧倒的に緑の葉が育っている。戸隠の森より野尻湖は300-400メートル標高が低いからだろうか。

 

長野盆地に下りきるあたりにりんごの果樹園があった。

 やっと出会ったりんごの花。初めて見たのはドイツだった。その後ヨーロッパの各地で。そして今信州で。白い花だが、蕾の時はほのかにピンク色をしているのがなんとも愛らしい。

 帰りの新幹線は昼過ぎなのに少々混んでいた。缶ビールいっぱいで昼寝をしているうちに東京に着いた。神様がお許しなら、今年もまた何度か山の隠れ家に篭りたいものだ。

 天候に恵まれたのか、恵まれなかったと言うべきか、実に目まぐるしく天気の変わる3日間だった。

(終わり!ただそれだけ)

 

 

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ (2018) ふた月遅れの 「中秋の名月」 野尻湖

2018-10-28 00:01:00 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(2018) ふた月遅れの「中秋の名月」野尻湖

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いつの頃からか、秋になると野尻湖の満月が恋しくなる。寸暇を惜しんで足を運ぶのだが、満月の夜晴天に恵まれる確率は1/2以下だろうか。今年10月25日が満月で、水平線に月が昇るのは長野で5時37分方位77.05度を参考に野尻湖の桟橋に陣取って斑尾山の右肩に見当を付けて待ち構えた。幸いこの夜は晴天に恵まれた。

待つことしばし。空が明るくなり湖面にかすかに照り映えた。

 

やがてのことに、光の点が現れた。あとは、ただ夢中でシャッタ―をきるばかり。

 

ヌッと現れた月の頭は露出が合わなくて、ハレーションを起こして白飛びしてしまった。

 

ETを配すればSFの一画面のような趣の世界だ。

 

昇る月の速さは尋常ではない。

 

望遠で捕える月は白銀に輝くお盆ではなく、怪しく赤身を帯びた黄色い球だ。

 

 

肉眼で見る月の模様はお餅を搗くウサギに見えるのかもしれないが、ズームで引き寄せると、クレーターを配したただの明暗のまだら模様であることがわかる。

 

再び広角 実に明るい 湖面を煌々と照らしている。

 

紅葉はあと1週間で盛りだろう。しかし夜はモノクロのシルエットのみ。

 

仕舞い残されたヨット。雪までにはこの場所から移されねばならない。

 

車のヘッドライトを点けてみた。すると、急にカラーの世界が蘇ってきた。

 

すっかり満足して小屋に戻る。気温は10度ぐらいだろうか。暖炉の火が冷えたからだに有難い。

 

翌朝見ると、薪はあらかた灰になっていた。左のドアは客室へ。右のドアは風呂場、トイレ、納戸、ロフトに通じる階段につながっている。左のドアの上は尾瀬のパステル画。若い頃はよくスケッチをしたものだ。尾瀬にはもう50年近く登っていない。暖炉の上には何枚かの写真と額が。

 

 

暖炉の左上の額は、この小屋をわたしにタダで譲って下さった山尾百合子夫人の鉛筆画スケッチ。彼女は最晩年を医療付きの有料老人ホームで過ごした。見舞いに行った時、ふと見るとベッド脇の小卓の上に、5センチほどのチビた鉛筆が目に止まった。できごころでかばんの中を探ると、人からのメールをプリントしたA4の紙が見つかった。裏返して彼女のポートレートを描き始めた。ポーズを決めながら彼女は、早く見せろ、早く見せろと催促したが、わざとじらしてから、10分ほどして紙をくるりと返して見せると、彼女は思わずニヤリと笑った。80年以上鏡の中に見慣れた自分の顔に似ていたからだろうか。大きなほくろが彼女のトレードマークだ。Yuriko Yamao の字のあたりには、メールの文字列のインキが裏に透けて見えている。この日が生前の彼女に会った最後となった。

彼女には東大の理科から慶応の医学部に進んだ自慢の秀才の一人息子がいた。山尾俊司君。学生仲間からは「俊ちゃん」と呼ばれ、百合子夫人には「おしゅん」と呼ばれて皆に愛されていた。多感な優れた知性の持ち主だったが、その俊ちゃんが24歳の若さで世を去った。自死だった。百合子夫人の悲嘆はいかばかりだったろう。同じ1939生まれの私はその頃百合子さんの視野の中、毎夏を3軒となりの叔父の家で過ごしていた。私が国際金融業に従事していた頃は、忙しくて野尻に足を向ける暇がなかった。54歳で司祭になって、ローマから久々に日本に戻った夏、懐かしさに引かれて野尻を訪れ、百合子未亡人と四半世紀ぶりに再会した。午後のお茶の時間、俊ちゃんの思い出がいっぱい詰まったこの家で、2人きりでひと時を過ごした。

ローマに戻ってのある日、一通の手紙が届いた。百合子夫人からだった。「決心がついた。お俊の思いでの別荘をあなたにプレゼントしたい。」と言う趣旨のものだった。当時の上司、深堀敏司教様は、きっとあなたの役に立つから、遠慮なくいただいておきなさい、と言う判断だった。その言葉は預言的だった。深堀司教様没後、2年間この家が私を護ってくれた。冬、1.5メートルの根雪と0度前後の気温は、非情に厳しかった。特に一冬目は凍え死ぬかと思った。しかし、おかげで今日がある。

暖炉の上の左の写真は生前の母、私を産んだ頃のものか。まだ二十歳を過ぎたばかり。右は4歳ぐらいの私を中心に左は姉、母の膝には1歳に満たない妹が。内務省勅任官の父は、たしか新潟県の警察部長だった。警察部長の奥方が、戦後まもなく栄養失調から肺結核を患い、20歳台の後半に他界するなど、常識では有り得ない話だが、そこにはピュア―なプロテスタントの信仰を生きた彼女の貧しい人達への愛があったことは、悲しい生涯を辿ることになる妹の運命とともに、私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)に詳しく書いた。

 

昼は3年ぶりぐらいに広大な農園の中にあるサンクゼールのレストランに行った。たまには贅沢したって、神様きっと赦して下さるだろう。プロテスタントのカップルが始めたビジネスだと聞いている。手広く事業を拡大し、今ではそのワインや食品は全国のデパートでも売られている。

 

ワインの原料の葡萄の木も紅葉している

 

 サンクゼールの果樹園。たわわに実をつけたリンゴの古木。

 

白いバラ

 

赤い八重のコスモス

妙高山の登山口の燕温泉への道は、すでに紅葉が真っ盛りだった。

来年も野尻湖の満月を見ることができるだろうか。もう来年がわからない年になった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ウサギ姫に恋して=野尻湖、忘れ得ぬひと夏の思い出

2016-10-20 00:20:22 | ★ 野尻湖・国際村

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ウサギ姫に恋して

野尻湖、忘れ得ぬひと夏の思い出

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

盗まれたパソコンと共に多くの貴重なデータを失った。何か回復できるデータはないかと、古いパソコンを久々に起動してみたり、振り返ることもなく、かといって捨てることもしなかった古いCDの束を再生したりして、かなりのものをリカバーすることができた。中には、久しい以前に間違って削除したと思ってあきらめていたファイルが見つかるという嬉しい発見もあった。以下に再現してみよう。

2005年の夏、野尻湖の家で不思議な事件があった。数日前から、家の周りで何か小動物の気配があった。用心深く姿は隠しているが、確かに何かが家の近くに出没しているように思われた。そして、数日後、ついにその姿を見たときは、心の準備がなくカメラも手元になかったが、草むらの陰に早く動くものを確かに見た。カメラを用意してなお忍耐強く待って、ついにその姿を捉えた。

これ、何だと思われますか?わからない?これだけでは無理ですね。

では、これは?

走る姿。もうお分かりですね!地面が横に流れているのがわかりますか?そう、流し撮りです。

臆病に葉陰からこちらを窺がっているが、耳の特徴は野兎と思われる。

こちらが見ているのを意識しながら、どうも危害がおよぶ気配がないと思ったか、だんだん大胆になってきた。耳に黄色い花をつけてお洒落に気取っているところを見ると、おそらくメスではないか?

と思ったら、花を口元に持って行った。

そして、次の瞬間、むしゃむしゃと食べ始めたではないか。

ハイ、ご馳走様!ウサギが花を好んで食べるとは知らなかった。

後ろを見せた。なんと可愛い尻尾をつけているではないか。

ウサギにこんな立派な尻尾なんてあったかな?

見物人の前で寝そべったりして、このリラックスぶり。スーパーで買ってきたニンジンを投げた。こちらに近いところに落としたら、警戒して知らんぷり。サンダルを履いて降りてニンジンを拾いに行ったら、パット飛び下がって距離をあける。今度は、こちらからは十分遠く、ウサギには十分近くに投げたら、そろそろと近づいて、食いついた。そんなことを2-3日繰り返しながら、だんだん近くにニンジンを落とすようにして、しまいには僕の足元に置いても安心して食べるようになった。さらに、僕の姿を見ると、ニンジンをねだってすり寄ってくるようになった。

ついに、僕の手から直接食べるようにまでなついてきた。

後足で立って食べる時のそろえた前足がなんとも可愛いではないか。

もうなりふり構わずって感じになってきた。

近所の別荘の知り合いのお嬢ちゃんにもなついた。

もう我が家の一員のようなものだ。

上の女の子のお爺ちゃんとおばあちゃんも噂を聞いてやってきた。この写真は2005年の夏のもの。もう11年も前の失われたと思った写真が、ひょっこりCDの束の中から見つかったものだ。このご主人はもう亡くなられて久しい。

おばあちゃん(今は未亡人)が置いたリンゴ。食べるかな?

ニンジンほど好きではないが、どうやら食べる気はあるらしい。

もう、だれかれ構わずなついてニンジンをねだる。

ニンジンを食べる時には、人間のように何にもつかまらずに後足二本で立つことができる。

噂が噂を呼んで、我が家にはお客が多くなった。この日は当時まだ日本の高松にあった神学校の里親たちが中心に集まった。神学校もローマに疎開して早8年余りになる。

里親たちは皆まだ若かった。みんな仲良しで元気だったあの頃が懐かしい。私の左は平家残存五家の交野家の当主。私のキャビンから見ると野尻湖を挟んで対岸の丘の上に別荘がある。帆船模型を組み立てるのは王者の趣味と言われるが、交野氏は途中まで組み立てた帆船を私に預けて、残りを完成してほしいと言われた。

その奥方のジャネットは日米夫人同盟の会長を務めた方だが、彼女はもう天国だ。

ホイヴェルス神父様門下では私の兄弟子の加藤先生も、東大の哲学の教授を退官されて、夏は野尻湖に近い学者村にご婦人と過ごされていたが、私のあばら家にも来て下さった記録が、同じ写真ファイルに残っていた。お元気にしておられるだろうか。しばらく音信がない。

また、同じファイルに新潟の宣教家族の一家の写真もあった。

あれから11年も経った。この子達そろそろ結婚適齢期に差し掛かっている。

この夏、私のキャビンには私の恋人のウサギ姫を一目見たくて普段より大勢の人がやってきた。秋、紅葉の頃に、冬の豪雪対策をして家を閉め、私は野尻湖を後にした。ウサギ姫を思うと後ろ髪をひかれる思いだったが、来年の春また会おうねと言い残して山を下りた。

明けて2006年初夏、再び野尻湖の家を開けて、うさちゃんの現れるのを待った。ニンジンを用意して何日も待った。しかし、彼女は二度と現れなかった。冬の寒さに負けて飢えて凍え死んだのだろうか。私は癒し系のあの小さな命のことを生涯忘れることができない。私だけではない、この小さな命に出会ったすべての人が、彼女に癒され、彼女に恋して、ひと夏の淡い思い出を心に刻んだに違いなかった。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 2015年 4月の野尻はまだ雪だった

2015-04-13 23:17:51 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~~~~~~~~~

2015年 4月の野尻はまだ雪だった

~~~~~~~~~~~~~~~~~

住民票の移動と 地方選挙の期日前投票を兼ねて 初春の野尻に行った

長野新幹線は北陸新幹線と名を改めていた

長野駅も通過駅になり 駅舎も大きく綺麗になっていた

 

レンタカーで国道18号を渡るとこの雪の絶壁は何だ?高さ6メートルは優にあるぞ!

 

国際村への道端にも消え残った雪が

 

この立札の向こうは湖畔まで国際村 急な坂の細道を3軒下ると私の113番の家

 

113番の家までの100メートルの道の両側にも消え残った雪が

 

この雪の小山を超えないと家に入れない

 

一夜明けると どうやら夜中に雪が降ったらしい 気温0度C

庭の山桜の古木の幹が ネジリンボウになっているのは 雪が薄くついて初めて気が付いた

 

近くの針の木の池の佇まい 沼と言った方がいいような小さな池だ

 

温泉を浴びようと山道を行くと 樹々には霧氷が着いていた

 

カラーで撮っているのに まるでモノクロ写真のよう

モノクロだから 梢(こずえ)についたヤドリギが黒い点になって見えるのだ

 

(おしまい)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 野尻湖の夏 2014 今年も神学生と共に・・・

2014-09-07 00:01:00 | ★ 野尻湖・国際村

 

~~~~~~~~~~~

野尻湖の夏 2014

  今年も神学生たちと共に・・・

~~~~~~~~~~~

 

今年も野尻湖の山荘に神学生たちがやってきた。

 

 

 東京と奈良の小さな家に住みながら日本語学校に通っている予備神学生の一部と、ローマで哲学や神学を勉強している上級生で夏休みを日本で過ごす者たちの一部だ。今年は例年より多く一度に8人もやってきて、わが家の寝部屋は満杯だ。

 

 

副院長アンヘル神父のお得意のパエリア。一人分これぐらいでもみなぺろりと食べる。

 四国の三本松にあった高松教区立の「レデンプトーリスマーテル神学院」が、ベネディクト16世教皇の粋な計らいでローマに移されて以来、私もローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」に居を移したが、長い日本の夏季休暇をくつろいで過ごせる場所は、この野尻湖国際村以外にないのだ。

 木々の間から湖面が見え隠れする斜面に建つこの家は、緑と静寂につつまれた楽園だ。神学生たちもここで勉強を離れて英気を養う。

 野尻湖の国際村は、NLAノジリ・レイク・アソシエーション)と呼ばれ、90年以上前に、当時日本全国に散って盛んに活動をしていたプロテスタントの宣教師たちが、年に一度、夏のひと時を共に過ごすための別荘地として拓いた村だ。将来軽井沢は必ず俗化すると見越して、この辺鄙な信の地に場所を求めた宣教師たちの先見の明に脱帽する。

 小さいながら選挙で選ばれた大統領と議会を備え、半ば独立国の体裁を整えたこの共同体は、もともとは、ほぼ100%が青い目と金髪の欧米人プロテスタント牧師家族の集団で、戦時中は逆に外国人を収容して監視するゲットーとしても使われた。戦後は少しずつ日本人のメンバーが増えたとはいえ、今でも公式共通言語は英語で、中に入るとまるで外国に来たような錯覚に襲われる。この共同体を支えているのは、今もキリスト教とボランティア精神だ。

毎週火曜日の午前は燃えないゴミの収集日。雨の中でゴミの分別に励むボランティアーの神学生たち。

 メンバーとゲストは、タダでゴルフやテニスをし、湖上ではセーリングに興じることができる自由で開放的な空気がいい。

 私の大叔父は、アメリカ帰りのちょっとした成功者だったのだが、帰国の船の中で知り合った宣教師との縁でNLAの湖畔に面した21Bの家を手に入れた。私は大学に進んだころから、毎夏そこに遊びに来ていたのだった。

 21Bから少し斜面を上った3軒目の113のキャビンに山尾さんという日本人の一家が住んでいた。第2次世界大戦中は、ご主人が三井物産はベルリン駐在の単身赴任だったので、ゆり子夫人と一粒種の俊ちゃんが世田谷から野尻湖に疎開していたのが縁のようだった。

 東大理科から慶応医学部に転進した俊ちゃんは、たまたま私と同じ昭和14年生まれで、学生仲間から愛された秀才だったが、多感な彼は希望に満ちた未来を自殺で断ってしまった。

 最愛の息子を失い悲嘆に暮れた母親のゆり子夫人は、心の支えを信仰に求めた。それも、プロテスタント一色のNLAに居ながら、何故かカトリックで洗礼を受けたのだった。

 わたしが彼女の視野の中をうろうろしていたのは、イエズス会の志願者時代であったが、国際金融マンになってからは仕事に夢中で野尻には全く足が向かず、その結果、彼女の視界から私は忽然と消えていたのだった。

 それが、四半世紀後のある夏、「ぼくはカトリックの神父になりました」と言ってひょっこり野尻に現れたのだから、彼女はびっくりするやら、喜ぶやらで、113のベランダでのお紅茶のひと時はあっという間に過ぎていった。

ベランダには私が土産に持ち帰ったカプリ島の陶器のハウスナンバーが。

 神学の教授ライセンスを取りにローマに戻ったある日、彼女から一通の手紙が追っかけてきて曰く、「年老いて、世田谷の屋敷も何もかも整理して、東京ではケアー付きのマンションに住んでいるが、春から秋までは懐かしい野尻で過ごしている。息子の思い出が詰まった野尻の家だけはどうしても手放せなかったからだ。それが、今回あなたに会って、ようやく決心がついた。あの家をあなたにあげる。だから、私が生きている間は夏休みをそこで一緒に過ごしてくれないか?」という文面だった。若々しい俊ちゃんのイメージが、中年男の私と重なったのだろうか。

   

追悼記念の文集に集められた写真の一枚。みんなから愛された医学生の俊ちゃん。

  

俊ちゃんと同じ齢の私がまだ若かったころの写真

 出家する前に、リーマン時代からの身辺の垢 -家も何もかも- をさっぱりと整理して無一物になったつもりの私だったから、今さら家などもらっていいものだろうかと戸惑い、当時の上司の深堀司教様にお伺いを立てた。すると、「将来きっとあなたの役に立つから、ありがたく頂いておきなさい。」というお返事だった。

 ローマから夏休みに帰国して彼女と野尻で一緒に住んだのが二夏だったろうか。その次の夏には彼女はすでに車いす生活だった。そして、どんなに誘っても、「人様に迷惑をかけてまで、私は参りません!」と頑なに断った。

 娘時代にイギリスに留学し、馬に乗り、双葉の飛行機の操縦席にも座った明治の才女のプライドが、急な野尻の坂道を私に車椅子を押されて行くことを許さなかったのだろう。

 私が最後に見舞ったとき、老人ホームのベッド脇の小灯台の上にメモ用紙と5センチほどにちびた鉛筆が一本ポツンとあった。咄嗟に私は鞄の中から人のメールをプリントしたA4の紙を取り出して、その裏に、その短い鉛筆でスケッチを始めた、5分と経たないうちに、せっかちの彼女は早く見せろとせがむのをわざとじらして、これ以上待たせにたら怒り出すぞという頃合いに、クルリと紙をひっくり返して見せたら、彼女は思わずニヤリと笑った。毎朝化粧鏡の中に見慣れた自分の顔とよく似ていたからだろうか。

 

 Yuriko Yamao      John K. Taniguchi       2000.5.30.

たまたま持ち合わせた紙は人のメールをプリントしたもので、左下のあたりには表のテキストがうっすらと透けて見える。

 

 そして私はローマに帰った。その後まもなく、彼女も天国に帰って行った。そして、下手なスケッチが彼女の最後の形見として、今も113のキャビンの暖炉の上を飾っている。

 彼女の私への口頭の遺言は、「幸紀ちゃん、113の家は神様のために役立ててくださいね!」だった。

 今こうして神学生たちがやってきて、毎日ベランダで朝夕の祈りを唱え、夕べには居間に掲げたあのスケッチの前でミサを奉げる姿を見守って、ゆり子さんもさぞ満足していることだろう。

 

神学生の里親さんたちを迎えてミサを奉げるアンヘル副院長

  

 ミサの後の夕食のひと時 里親さんたちの差し入れのお料理で

夕食後はベランダで神学生たちの歌を里親さんたちと聴くのも慣例になっている

  

別の夜、神学生の里親で92のキャビンのオーナーの S.T.夫人とそのお友達に夕食に招かれた。食事の後はここでも

K.M.嬢はS.T.夫人と私の共通の知人。私の母の形見のギターに合わせて、イタリア語やスペイン語の歌で夜が更ける。

 湖面にはキャビンと一緒に譲り受けた俊ちゃんの愛用のヨットが浮かんでいる。神学生にせがまれると一緒にセーリングに出る。ゆり子さんが80歳でも一人で乗って、野尻湖村までお買い物に行ったという伝説のヨットだ。

私はヨットのセーリングを中学3年の時に琵琶湖でおぼえた。まさか、棚ボタでもらった別荘にヨットまでついてくるとは思わなかった。神学生の中には、いつの間にか風を読む勘を覚え始める者もいる。

 

  

ある日、東京や奈良から神父たちもやってきた。頭が重なって陰になっている者も数えて、これで総勢16人。明日の日本の福音宣教の情熱に燃えた連中だ。さすがの我が家もこれがキャパシティーの限界。

 

「ゆり子さん、あなたの遺産は神様のために役立っていますよ。」そして、「深堀司教様、あなたの予言は的中しましたね。」

もしこの家を貰っていなかったら、私は日本の夏をどこで過ごせばよかったのだろう、と思わずにはいられない。

  宣教司祭の養成には8~10年ほどの時間がかかります。その養成費もバカになりません。その多くの部分が里親たちの寄付に依存しています。神学校が高松からローマに移されて以来、新しい里親の参加が伸び悩んでいます。そして、以前からの里親たちも高齢化して、支えてきた神学生が目出度く司祭になったのを機会に、里親をやめる人も増えてきました。新しい里親の参加が切に期待されています。

 瞳の輝いた、日本での宣教活動の熱意に燃えた若者たちを、一人前の司祭になるまで祈りと献金で支えて下さる里親になることを決意される方は、是非私のブログのコメント欄にお申し出ください。もちろんいただいたコメントは非公開状態のまま残り、個人情報は私が責任をもって管理いたします。そして、その方には一人の神学生が霊的子供として与えられ、信仰に裏付けられた個人的な親子の交流が始まります。それは実に恵み豊かな体験です。ぜひよろしくお願いいたします。

(おわり)

追伸:

上の里親の呼びかけに対して、早速反応の第一号が届きました。コメント欄にはすぐお礼のコメントを書きましたが、コメント欄を見る人は意外に少ないので、ブログ本文の追伸として採録します。

 Y.Y.さま
早速の里親のお申込みありがとうございました。
すぐに一人の神学生を本人の氏名、誕生日、国籍、人物紹介などを写真とともにあなたの里子紹介として送らせていただきます。
末永く見守り育ててやってください。
あなたのお祈りと経済的支援に神様が豊かに報いてくださいますように。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 中秋の名月=2013年9月19日の場合=

2013-09-20 23:50:11 | ★ 野尻湖・国際村

初秋の夕暮れに 野尻湖から望む斑尾の山波

 

~~~~~~~~~~~~~~

中秋の名月

= 2013年9月19日の場合 =

 ~~~~~~~~~~~~~~

 

秋晴れで中秋の名月が見られる確率は約50%ぐらいなものだそうです

私は9月か ひょっとしてひと月後れの満月を 毎年のように信州の空に探すのですが

晴れてブログに載せるほどの月を撮れたことは稀です

それが 今年は台風一過の絶好の月見日和でした

野尻湖の国際村の桟橋に陣取り 今や遅しと月の出を待ちました

 

 

磁石で東を探しレンズを向けて待ち受けていると

出ました!

斑尾山の裾野の稜線に 突然 ヌッと頭をもたげた中秋の名月です

 

 

赤い陽が沈むのも速いが 黄色い月の出も思いの他速く あっと言う間にもう半分が顔を出しました

 

 

お盆のような丸い月が 今まさにその全身を現そうとする瞬間です

 

 

湖面に映える中秋の名月の明るさ

 

 

雲一つない空に 今夜は一晩中満月が見られそう

 

 

満足しきって 早々と家路につきました

来年も 秋の満月が見られるだろうか・・・

(終わり)

 

 

 

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 雪の野尻湖( 国際村)

2011-02-10 22:45:06 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~

本格的な冬到来

~~~~~~~

 

わたしの野尻湖のキャビンを我が家のように思ってくれている人がいる。嬉しいこと。有り難いこと!

しかし、その冬は厳しいです。これは今年の写真ではありませんが、今年も同じ景色が繰り返されているに違いありません。

国際村113の別荘の窓から望む野尻湖はしろ一色の中に沈んでいます。風もなく、音もなく、人の気配はさらになく・・・・ 

 

同じ窓から目を右に振ると、枝一杯に重そうに雪をつけた山桜の古木(推定樹齢100年以上)が。もっと雪が付くと、重さで枝が折れることがある。


 

蟷螂(カマキリ)が高いところに卵を産む年は雪が多いと土地の古老は言いますが、あんな小さな虫の何処にそんな予知能力が潜んでいるのでしょう?長期お天気予報のスーパーコンピューターより大きい演算機能があの体内に?一匹ずつみんなに? 嘘でしょう???

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ フリージアは母の思い出

2011-02-05 10:23:02 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~~

フリージアは母の思い出

~~~~~~~~~~

野尻湖国際村 No.113 のキャビンはすっぽりと雪の中。車を置いた道までの
ラッセルも楽ではない。ひどく春が待たれる日々が続く。(2008年2月現在)

 


昨夜のうちに50センチは積もった。一人立てこもったNLA(国際村)113番のキャビンは一階部分が半分以上雪に埋もれている。
重いテーマの合間に、一休みしようと、軽い気持ちで写真を並べるだけのブログを書いたら、フリージアの花が好評でした。
それで、気を良くして、どんどん花開く窓辺のフリージアの写真をまた貼り付けます。

 



フリージアの花、それは私の場合、少年時代から「母の花」でした。そのことについて、私は自分の本の中で次のような一文を書いています。

* * * *


( 第1章 「神から遠ざかる」-少年時代-P.50 より )

私は、1939年12月15日に大阪府の警察病院で生まれた。
カラーの静止画像のようにはっきりと覚えている最初の記憶は、ブルーの細首ガラスの花瓶に黄色いフリージアの花が無造作に生けてあって、その前の床にあぐらをかいて座った母が、水彩画でそれを描いていた。その母のあぐらの中にわたしがスポンと納まってなにやらクレヨンで描こうとしている、そういう情景であった。自分のお尻が母の内股に触れている暖かい皮膚感覚の記憶と言ってもいい。3歳ぐらいの時の記憶ではなかったかと思う。その日以来、今日に至るまで、黄色いフリージアの甘い香りは、母の香りである・・・。 ( 「バンカー、そして神父」 -ウオールストリートからバチカンへ- 谷口幸紀著 《亜紀書房》 2200円+税 ) (まだ読んでいらっしゃらない方は、是非ご一読下さい。アマゾンか楽天を通して簡単に手にはいります。)

 

「バンカー、そして神父」(亜紀書房)→ http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

 

 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 冬の歌

2008-10-05 14:33:45 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~

 冬 の 歌

~~~~~~~~~
 
 
 

 

湖の岸辺に下りてみた。
冬は妙高がいちばん輝くとき。
 
 
ワカサギ釣りの船が、一艘、二艘・・・・
 
 
赤倉観光ホテルへ上がってみた。
目の下に、野尻湖が・・・・
 
 
ゲレンデでは2歳?と4歳?ぐらいの仲良しが・・・
 
 
帰りに、あのグアムのカップルの結婚式の教会を覗いてみた。
すっぽり雪の綿入れににくるまっていた。
 

 

~~~~~~~~~

えっ! なんで! 「うさぎ」 君は今ローマのはずじゃなかったけ? はい、その通り。今、彼は「奇跡」または「教皇ヨハネ・パウロ2世の狙撃事件」の研究に夢中で忙しいようです。ブログにアップ出来るところまで、納得するまで、ちょっと時間がかかるみたいです。それで、間を持たせるために、第一次「ウサギの日記」が 「炎上」 以前に書いた古いブログの中から、季節に合ったあたりさわりのないのを焼き直して再録するわけです。あの貧乏ウサギ、なぜか野尻湖に自分の家を持っているそうです。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 貧しさについて (その-2)

2008-07-15 12:23:30 | ★ 野尻湖・国際村

~~~~~~~~~~~~~~

貧しさについて(その-2)

~~~~~~~~~~~~~~

(私の隠れ家のあるNLA国際村から、野尻湖の向こうにそびえる妙高山)



(前回、今年のクリスマスパーティーから脱線して、以前に同じテーマで話し合った時のやり取りに言及しましたが、その時の反響として一通のE-メールを受け取ったのを大事に保存していましたので、再録します。)

以下、引用:

私の投げた小石の波紋がユリカモメさんの心の岸辺に反射して、折りたたまれ、掘り下げられて、素晴らしい模様になって広がった感じがしました。これを私が独り占めにして、そのまま受信トレイに埋もれさせるのは、いかにも勿体無いと感じました。
幸い、ご本人の了解が得られましたので、以下に引用させていただくことにします。


* * * * * * * * *

ユリカモメです。
usagi さんのブログを読みました。

かなり登場人物も集約化しているのでしょうが、B さんというのは私の発言が主たるものだとおもいます。
で、意が伝わっていない(もともと言いたいことが完結していなかった)ので、ちょっと書きます。
まずE夫人の「文字通りの空中楼閣(集まった会場は東京の都心のデラックスな高層マンション上層階で実に素晴らしい眺望)で、おいしいご馳走の数々とアルコールを頂きつつ、貧困を論じるのには、なんだか後味が悪く空しく感じました」にはなんの反論もできませんし、私自身も同じ感情を持ちます。が、それでもあの話題はやってよかったとどこかで思っていました。
なぜかと考えたら、「後味悪く空しく感じる」のは、それはY子さんや、北九州市のような個別のケース(=貧困)を話すときに感じることで、政治問題としてとらえたとき(=格差)は、話をすることは有効だと思いました。
なぜなら、格差問題は個人の問題(努力不足とかではなく)ではなく、明らかに政治によって引き起こされる社会問題と思うからです。(私は社会的なことを話して何になるという人の意見には同意できません。)
私は、基本的に政治に皆が関心をもつことにより社会は良くなると信じています。(とはいえ民主主義が誤った決定をすることもあるとは思う。)
で、格差問題にも関心を持つべきです。
私は、所得差が生じるのはやむを得ないが、制度によってできる格差(例えば派遣業による賃金の格差)はなくすべきで、弱者を救うシステムはもっと充実すべきと考えます。
格差拡大がよくないと思うのは、心情的なことも大いにありますが、社会不安が生じると困るというエゴも理由です。
以上が私の基本的スタンスです。

次に、小泉改革ですが、中途半端と官僚にしてやられたというのが私の見方です。
確かに、いろいろな問題が噴出しています。それを理由に小泉改革は間違っていたという既得権益者の巻き返しが始まっているのです。
小泉改革は全く緒に就いたばかりで、まだまだ進めなくてはなりません。いくつか生じた問題を改革そのもののせいにしてはいけないのです。
とはいえ、大きな疑問もあります。
郵政の民営化、道路公団の民営化とは、市場化から退出すべきメカニズムが無くてはいけません。民営化とは旨く行くストーリーではなく、退出させられる道(=倒産)社員の失職の道があるということです。でも、これらにはそれが見えないのです。こうして考えると、小泉改革は、方向は示したもののほとんど実態は無いのではないかとも思います。結局官僚の焼け太りに終わりそうです。

この官僚エゴが国家をだめにしたのが共産国家だったのではないでしょうか?
共産主義にはロジックとして格差はないのでしょうが、実際は官僚と一般国民との間の格差はとてつもなくあったのではないでしょうか?(当日話にでたキューバは違うようだが。脱キューバを認めていたので米国からの送金で成り立った=庶民へ入金=との話ある。)

さて、格差問題はどうしたらいいかですが、政治としてなすべきは再配分システムを強化することに尽きるでしょう。私は例えば道路よりこれを優先すべきと思います。再配分システムは単にばら撒くのではなく、付加価値のある労働につけるような教育とか、さらには住所をもてるようにとか本人努力で浮揚できるまでのベースをつくるようにすべきです。(勿論老人には年金などの見直しも必要かも)

政府ではなく経済的余裕のある人達はどうすべきでしょうか?
再配分システムのひとつに寄付がありますが、キリスト教の弱体のせいか、米国に比べ日本はわずか1%程度とのことです。(数年前ですが、寄付先の格付け会社設立に関し相談されたが、その時、年間寄付金は4兆対400億と聞いた:未確認)、日本においては機能していないようです。
もうひとつ血縁同士の助け合いもありますが、これも核家族化や少子化で昔のようには期待できないでしょう。
これに関しては、私としては、国民や地域住民としての最低限の義務は果たすべきという以上の意見はありません。

usagi さんの案もありかもしれませんが、所詮経済問題だけでは成り立たないのではないでしょうか?
生活共同体的宗教団体は経済での結びつきより、寂しさからくるものではないかと思います。
魅力的中心人物がいれば、小さな共同体は成立するかもしれませんが、おおきな共同体は権力を持たない限り(結局は国家=10%より大きく徴収)成立しないのではないでしょうか?
一般的に組織が大きくなると間接部門が急増します。
組織を三角形で考えると底辺が2倍になると面積(つまり支えられるべき組織)は4倍になります。これを防ぐには生産性を挙げるか組織形態を変えるかしかありませんが、生産性向上はこの場合ないですよね。組織形態のひとつとしての鍋蓋型の場合は組織の増大とともに、中心人物の能力が飛躍的に求められるようになると思われます。ネットワーク型の場合は何か強力な共通理念が必要と思われます。(以上を含め単に思い付きです。)
某有力宗教団体が10%召し上げていたとおもいますが、おそらく学校運営や聖堂つくりに使われているのではないか(再配分ではない)と推測します。

ただ、再配分システムとしての機能はなくても、貧困にめげず生きる強さをこうした宗教は与えられると思います。
六本木ヒルズでいつ落ちるかわからない恐怖や、電話ひとつ無い寂しさとともに生活しているのと、貧しい食事(でも今はひもじくはない)でも大勢と共同で暮すのとどっちが幸せなんでしょうね。

最後にひとつ。格差という言葉自体が問題と思っています。単なる所得差で、上下はないと思います。ついでに勝ち組負け組み、底辺(やむ終えずつかったが)もやな言葉です。所得差はなんら恥じることないし、この社会で存在していること自体が価値あること(これを説明すると長くなる)なので、再配分されるものは当然の権利として受取ればいいと思いますし、公平な形で徴収もすべきでしょう。そうしたことを説くのも宗教の役割のように思えるのですが。(神を信じなくても通じる話のように思うのですが。)

ここまで書いたものを読みなおして、やはり空虚に感じます。E婦人の言葉には重みを感じます。
そして、このメールをもっと単純化したメール、貧困や精神に関しても触れたメール、合計3つのメールを作りました。
もっと書き足そうかとも思いました。
さらに、何も送らないという事も考えました。
貧困に関して意見をいうのはやはり気が重いのでやめ、まあ、この程度はせっかく書いたんだから送信しちゃおうと思いました。

* * * * * * * * *

如何でしたか? 素晴らしいコメントでしょう? 私はこんなにインテルジェンスの豊かな人とキャッチボールが出来るのを、いつも楽しみにしています。(usagi)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする