★ 新春の初夢にかえて贈ります。
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WYD 〔秘話〕 リオの再会
- ホイヴェルス師の結ぶ縁 -
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2008年秋、私は見知らぬご婦人から初めての手紙を頂いた。ブラジルからだった。彼女は私の本の書評を見て、わざわざ日本から取り寄せて読んだのだそうだ。
そのお手紙はこう始まる。 「今、ブラジルは8月13日、午后2時半。 《バンカー、そして神父》 を読み終わりました。感動!そして激しい歓喜の涙!今の私の気持ちをどう表現していいのか、術を知りません。こんなに感動して読んだ本は今までありません。こう書きながら涙がとめどなく流れます。有り難うございました。・・・」 さすが情熱の国、ブラジルからのお手紙だ。
読み進むうち、戦後、写真見合いだけで決意して、単身ブラジルに渡り、リオで獣医をしていた青年と結婚し、2男、1女を授かり、幸せな生涯を送り、数年前にご主人を亡くされたことが解ってきた。ご主人はまじめを絵に描いたようなカトリック信者で、彼女にも結婚式の前に洗礼を受けることを求め、それまでシスターの修道院に預けられたのだそうだ。
愛するご主人の遺影に添えられた彼女の最初の手紙
ご主人は、日本ではある著名な政治家の秘書になったが、酒が飲めなくては政界での出世は難しいだろうということになり、獣医として新天地に夢を賭けたのだとも書いてあった。そして、そのご主人を信仰に導いたのが、当時麹町教会の主任司祭だったヘルマン・ホイヴェルス神父だった。
ホイヴェルス神父と言えば、私の青年時代を通しての霊的指導司祭で、ある時期、このご主人と私は面識こそなかったが、四谷の聖イグナチオ教会の境内で間違いなく空間を共にしていたのだった。そして、いつも師の側にいる私を年上の彼が見知っていた可能性は高い。
1964年にインドのボンベイでローマ教皇が史上初めてヨーロッパの外に出る記念すべきイヴェントがあった。
ホイヴェルス神父は司祭になる直前、ボンベイ郊外のハイスクールで教鞭を執ったことがある。
教皇パウロ6世が国際聖体大会のために来ると言うので、ホイヴェルス神父も行くことになった。
弟子の中では私ただ一人、カトリック新聞の臨時特派員の肩書で参加し、会期中は行動を共にした。
上のペン画は、私が神父とその昔の教え子たちをスケッチしたもので、カトリック月刊誌の片隅を飾った。
「生来の筆不精で、めったに手紙など書いたことがなかった私が、一体どうしたことでしょう?」、と自分でも驚きながら、それ以來彼女から毎月一通以上の手紙が届くようになり、私もまめに、長男のHさん宛のメールの添付ファイルでせっせとお返事を送り続けた。
その後の手紙には、結婚のために横浜を船で発った時の写真や、ウエディングドレスの初々しい写真など、時代を感じさせる白黒の写真数枚と、ご主人がホイヴェルス神父からもらった神父直筆のドイツ語の詩までいただいた。私はそれを大事に額に入れて野尻湖の家においている。
恐らくホイヴェルス師の自筆の詩とは別に、もう一枚の紙に縦書きの訳があったのだろう。
彼女のご主人はその訳文をばらばらに切って、原文の余白に糊で横向きに貼り付けたものと思われる。
カッコの中に「古いドイツのことわざ」とあり、日付はH師と私がインドに行った3年後だ。
その彼女が、2009年5月末に私に会うためにわざわざブラジルからの巡礼団に便乗してローマにやって来た。私は、彼女を神学校に案内し、聖ペトロ大聖堂に伴い、郊外のネミ湖までドライブして野イチゴのトルタを一緒に食べた。
そのときだったか、ご主人の形見のア・ケンピス著「キリストに倣ひて」(光明社刊)を私に託した。ビニールとセロテープで表紙はしっかり補強されていたが、紙はぼろぼろに黄ばみ、ページもばらばらにはずれた、書き込みで一杯の小さな一冊だ。彼は1951年に第一回目の通読を終えている。その後も読むたびに表紙裏に記録して、2001年6月15日に80歳で18回目の通読を終えるまで、実に半世紀にわたって肌身離さず持ち歩いていたのだ。当時の日本人男性にとっては、新約聖書以外では数少ない信仰書の古典だった。
彼女とは正味1日半の短いローマの休日だったが、「次は貴男がブラジルに会いに来る番よ」と言い遺して帰っていった。
あれから4年、WYDの野外ミサの会場、コパカバーナの浜辺は、彼女の家から歩いてものの3分とかからない至近距離だった。キコの召命の集いが終ると、彼女が予約してくれていたホテルに移った。彼女の家には独身の長男と孫娘二人が同居していて、私のために部屋が無かったからだ。ホテルは彼女のマンションからは歩いて1分のところだった。
それから4日間、彼女はリオをゆっくりと案内してくれた。 息子のHさんの運転でドライブにも出かけた。
あとは、その時の写真アルバムだ。
ミニストロ・ヴィヴェイロス・デ・カストロ通りを右に行くとすぐ彼女の家。直角に左手前が私のホテルかな?
朝、暗いうちに申し合わせてコパカバーナの砂浜を2人で散歩。汗ばむ頃に太陽が昇ると、真冬とは思えない日差しになる。
教皇フランシスコの370万人ミサのステージも、はや取り壊しにかかっていた。 南大西洋はアフリカから打ち寄せる波。
のどが渇いた。 あのキオスクでヤシのミルクを飲もう。 ストローをさすばかりにカットしてもらう。 商品は頭上で量産中。
おや?早朝から浜で衛星中継? 教皇はもう居ないよ!
秘密警察に消された活動家の死に抗議するパーフォーマンスだと聞かされた。
行方不明のアマリルドは今どこに?
左の岩に髪の毛ほどの白い線が縦に。 命知らずのロッククライマーたちだ。 私ももと山岳部員で多少の心得はあるが・・・
・・・やらないね! こんな危ないことは!!
クライマーを尻目に、一足先にロープウエーで頂上に。左の写真のゆるくカーブしたところがコパカバーナのビーチ。
目の下をリオの空港に降りる飛行機が通り過ぎた。
着陸して羽を休めているのは、まさか? コンドル!?! 毛のない頭、少なくともその一種らしい??
広げた翼は3メートルを優に超えているだろう!
イパネマの浜辺に行った
見つけたぞ! トム・ジョビン作曲のボサノバ 「イパネマの娘」 の現物を!!!
リオのカーニバルのサンバ祭りは、もとは市内の金融街の目抜き通りで踊られていたそうだが、弊害もあって
今では年に一度のお祭りのために、このような特設巨大スタンドが設けられている。左の M が終点。
この右ずっと、対のスタンドが5-6組、遠くまで直線状にずらっと連なっている。審査員たちはどこで観るのか?
阿波踊りとはまるでスケールが違う。
スタンドの裏の急斜面を這い上がる貧民窟。道もなく下水管も埋設されていない。電気はあるようだが、飲み水は?
不動産業者が商品とは見做さない急斜面に夜中にブロックを積んで小さな一間でも建てて8年(だったかな?)
住み続ければ居住権が生まれるのだそうだ。カーニバルのサンバの女王はこんな極貧の場所から生まれる!
教皇フランシスコはリオに数多くあるこの手のスラム、犯罪と麻薬とセックスの巣窟、の一つを訪れた。
彼女の娘、つまり同居する二人の孫の母親は、リオからバスで1時間の高原、テレソポリスの町に住んでいる。
リオの街にも巨大な奇岩が多く、ランドマークの十字架像も海を見下ろしているが、ここも負けてはいない。
私の後ろは「神様の指」の岩。 左手の親指を握りこんで人差し指を立てるとこの形になる。
右は「横たわる乙女」。西日に照らされた胸のあたりにはまだ固い乳房がつんと立っている。
遠くだからよく解らないが、頂上のすぐそばまで車で登れるほどの大きな岩山だそうだ。
じつは彼女のご主人の遺骨はこの乳房に先、岩山のてっぺんに葬られている。
だから彼女は私をここまで案内したかったのだ。最初の写真、追悼のしおりの
浴衣姿のご主人の左上の写真、真っ赤な朝焼けの黒いシルエットが
この岩山であることに気付いて私は感動した。
リオに戻った。 コンドルを見た岩山から望遠で撮った十字架像の岩に登った。ロープウエーで行くものだとばかり思っていたら、
歯車でレールを咬みつつ登るアブト式自走登山電車で頂上直下まで、最後はエレベーターで十字架の足元に出た。
突然日本語で僕の名を呼ぶ者が。振り向くと、なんとアルバロ神父ではないか。何年ぶり?実に奇遇だ。
彼は高松教区立のレデンプトーリスマーテル神学院を出て神父になった若者の一人。
しかし、今は自分の教区で働けないので、アフリカの宣教に旅立って久しい。
かれの後ろには数人のアフリカ人の青年がついてきていた。
彼は私に、早く日本に帰って宣教したい、と言った。
これも、もう一つの「リオの再会」だった。
植物園にも案内してもらった。 日本庭園があった。 池に睡蓮の花も咲いていた。 見ると葉っぱにはギザギザ、トゲトゲがあった。
木の幹にへばりついた奴、一体何者? 手足の間に膜が無いから、ムササビでもモモンガ―でもないらしい。
しかしまあ、なんと立派な腰だこと、と感心していたら、ひょいと枝に移った姿は、なんだ、ただのリス君だった。
蜥蜴(とかげ) の夫妻に見送られて、日本に帰ることにした。
〔後日談〕
リオから日本に帰り、今またローマに来ているが、その後、彼女からの手紙がピタリと途絶えた。
心配して電話したら、「昔の筆不精に戻ったみたい」 だとさ。
彼女との出会いのきっかけになったわたしの一冊目の本。
「バンカー、そして神父」(亜紀書房)
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(WYD は本当に お・し・ま・い)