:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ (2018) ふた月遅れの 「中秋の名月」 野尻湖

2018-10-28 00:01:00 | ★ 野尻湖・国際村

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(2018) ふた月遅れの「中秋の名月」野尻湖

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 いつの頃からか、秋になると野尻湖の満月が恋しくなる。寸暇を惜しんで足を運ぶのだが、満月の夜晴天に恵まれる確率は1/2以下だろうか。今年10月25日が満月で、水平線に月が昇るのは長野で5時37分方位77.05度を参考に野尻湖の桟橋に陣取って斑尾山の右肩に見当を付けて待ち構えた。幸いこの夜は晴天に恵まれた。

待つことしばし。空が明るくなり湖面にかすかに照り映えた。

 

やがてのことに、光の点が現れた。あとは、ただ夢中でシャッタ―をきるばかり。

 

ヌッと現れた月の頭は露出が合わなくて、ハレーションを起こして白飛びしてしまった。

 

ETを配すればSFの一画面のような趣の世界だ。

 

昇る月の速さは尋常ではない。

 

望遠で捕える月は白銀に輝くお盆ではなく、怪しく赤身を帯びた黄色い球だ。

 

 

肉眼で見る月の模様はお餅を搗くウサギに見えるのかもしれないが、ズームで引き寄せると、クレーターを配したただの明暗のまだら模様であることがわかる。

 

再び広角 実に明るい 湖面を煌々と照らしている。

 

紅葉はあと1週間で盛りだろう。しかし夜はモノクロのシルエットのみ。

 

仕舞い残されたヨット。雪までにはこの場所から移されねばならない。

 

車のヘッドライトを点けてみた。すると、急にカラーの世界が蘇ってきた。

 

すっかり満足して小屋に戻る。気温は10度ぐらいだろうか。暖炉の火が冷えたからだに有難い。

 

翌朝見ると、薪はあらかた灰になっていた。左のドアは客室へ。右のドアは風呂場、トイレ、納戸、ロフトに通じる階段につながっている。左のドアの上は尾瀬のパステル画。若い頃はよくスケッチをしたものだ。尾瀬にはもう50年近く登っていない。暖炉の上には何枚かの写真と額が。

 

 

暖炉の左上の額は、この小屋をわたしにタダで譲って下さった山尾百合子夫人の鉛筆画スケッチ。彼女は最晩年を医療付きの有料老人ホームで過ごした。見舞いに行った時、ふと見るとベッド脇の小卓の上に、5センチほどのチビた鉛筆が目に止まった。できごころでかばんの中を探ると、人からのメールをプリントしたA4の紙が見つかった。裏返して彼女のポートレートを描き始めた。ポーズを決めながら彼女は、早く見せろ、早く見せろと催促したが、わざとじらしてから、10分ほどして紙をくるりと返して見せると、彼女は思わずニヤリと笑った。80年以上鏡の中に見慣れた自分の顔に似ていたからだろうか。大きなほくろが彼女のトレードマークだ。Yuriko Yamao の字のあたりには、メールの文字列のインキが裏に透けて見えている。この日が生前の彼女に会った最後となった。

彼女には東大の理科から慶応の医学部に進んだ自慢の秀才の一人息子がいた。山尾俊司君。学生仲間からは「俊ちゃん」と呼ばれ、百合子夫人には「おしゅん」と呼ばれて皆に愛されていた。多感な優れた知性の持ち主だったが、その俊ちゃんが24歳の若さで世を去った。自死だった。百合子夫人の悲嘆はいかばかりだったろう。同じ1939生まれの私はその頃百合子さんの視野の中、毎夏を3軒となりの叔父の家で過ごしていた。私が国際金融業に従事していた頃は、忙しくて野尻に足を向ける暇がなかった。54歳で司祭になって、ローマから久々に日本に戻った夏、懐かしさに引かれて野尻を訪れ、百合子未亡人と四半世紀ぶりに再会した。午後のお茶の時間、俊ちゃんの思い出がいっぱい詰まったこの家で、2人きりでひと時を過ごした。

ローマに戻ってのある日、一通の手紙が届いた。百合子夫人からだった。「決心がついた。お俊の思いでの別荘をあなたにプレゼントしたい。」と言う趣旨のものだった。当時の上司、深堀敏司教様は、きっとあなたの役に立つから、遠慮なくいただいておきなさい、と言う判断だった。その言葉は預言的だった。深堀司教様没後、2年間この家が私を護ってくれた。冬、1.5メートルの根雪と0度前後の気温は、非情に厳しかった。特に一冬目は凍え死ぬかと思った。しかし、おかげで今日がある。

暖炉の上の左の写真は生前の母、私を産んだ頃のものか。まだ二十歳を過ぎたばかり。右は4歳ぐらいの私を中心に左は姉、母の膝には1歳に満たない妹が。内務省勅任官の父は、たしか新潟県の警察部長だった。警察部長の奥方が、戦後まもなく栄養失調から肺結核を患い、20歳台の後半に他界するなど、常識では有り得ない話だが、そこにはピュア―なプロテスタントの信仰を生きた彼女の貧しい人達への愛があったことは、悲しい生涯を辿ることになる妹の運命とともに、私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)に詳しく書いた。

 

昼は3年ぶりぐらいに広大な農園の中にあるサンクゼールのレストランに行った。たまには贅沢したって、神様きっと赦して下さるだろう。プロテスタントのカップルが始めたビジネスだと聞いている。手広く事業を拡大し、今ではそのワインや食品は全国のデパートでも売られている。

 

ワインの原料の葡萄の木も紅葉している

 

 サンクゼールの果樹園。たわわに実をつけたリンゴの古木。

 

白いバラ

 

赤い八重のコスモス

妙高山の登山口の燕温泉への道は、すでに紅葉が真っ盛りだった。

来年も野尻湖の満月を見ることができるだろうか。もう来年がわからない年になった。

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会 =「紀尾井会」再開の夢 =

2018-10-23 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会

=「紀尾井会」再開の夢 =

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6月9日のホイヴェルス神父の41回目の追悼ミサの記念日が半年先に見えてきた。そろそろ準備に着手しなければならない。

生前のホイヴェルス神父を記憶するものは、今70歳台の世代がほとんど最後に近い。師の思い出を次の世代に受け継ぐ努力がなされなければならない時期に入ってきた。それで、手始めにホイヴェルス師の面影を綴るシリーズのブログをアップすることにした。

改築前の四谷聖イグナチオ教会でホイヴェルス師から洗礼を受ける持田梅子さん。代母の右後ろは上智大学の臨床心理学の霜山徳爾教授の姿があった

ホイヴェルス師とはいかなる人物か?それを知るよすがとして最も重要なのは、師が残された文章ではないだろうか。数多くの随筆は詩的にも哲学的にも深く、日本語としての完成度も、文学的香りも、外国人宣教師のものとしては秀逸の輝きを放っている。

論より証拠。まずは読んで味わってみよう。

 

「美しき生家」

1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。そのとき、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!と言う見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。勿論学生時代には自分の生家を懐かしく思っていましたし、いくどか生家を写生したことおありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。

そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。程よく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。

どうしてそのような感じのよい家ができたのか?と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだと分かりました。私の少年時代のふるさとは、カシの木の森のなかに、まだ中世のねむりをひっそりとねむっておりました。今でも、秋の森で聞いた嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。

父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、そのいちばん人間らしい年ごろ(新婚時代)この生家について計画したのです。まず家のまわりにもっと光を入れたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ――これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、非情に心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談をしたのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。

随想集 「人生の秋に」 ヘルマン・ホイヴェルス著(春秋社)、1969年より。

 

1969年12月にドイツのコメルツバンクに入社した私は、確か1973年にデュッセルドルフの本店に転勤し、1975年の夏の世界一周旅行の途中に東京に1か月いて、ホイヴェルス神父様にお会いしました。すると師は、来年は2度目の帰郷をするからウエストファーレンの故郷のドライエルワルデ(三森村)の生家で会おうと言われた。

翌年私は車でドライエルワルデにホイヴェルス師を訪ねた。

少年ホイヴェルスが革の半ズボンをはいて登ったカシの木や、大きな農家のたたずまいは昔と同じだっただろうと思った。生家の二階にはホイヴェルス少年とお兄さんの勉強部屋があった。私は、懐かしいその部屋で、タンテ・アンナ(アンナおばさん)と呼ばれる姪ごさんが私たちのために用意してくださった昼食をふたり差し向かいでいただいた。

師はその席で、来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をもって来るから、ドイツ公演の現地マネジャーはお前に任せる、と言われた。

しかし、その計画は実現しなかった。

師が1977年3月3日に教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って聖母病院に入院し、退院後は上智大学内のSJハウスで療養生活を送っていたが、同年6月9日のミサに車椅子で与っている最中に容態が急変、急性心不全で死去されていたことは、その翌年にドイツ勤務を終えて東京に戻った時に初めて知った。師と私の親密な関係を知っていた人たちは、私に訃報を知らせることを思いつかなかったのだろうか。当時の世相では、仮に知ったとしても、葬儀に間に合って一時帰国が可能だったかどうかはわからないが・・・。

話は最初に戻って、今の若い世代に、ホイヴェルス師を紹介し興味を喚起するにはどうしたらいいかを思案している。

私が外資系の銀行に勤めるようになるまでは、上智大学の大学院から中世哲学研究室の助手をしていた頃まで、ホイヴェルス師とは毎朝のイグナチオ教会のミサで侍者としてお仕えしていたし、師が何十年も続けておられた大学生向けのキリスト教入門講座、通称「紀尾井会」にはほとんど毎週欠かさず出席していた。場所は、当時まだ米軍払い下げのカマボコ兵舎の司祭館の主任司祭室だった。昨年の追悼ミサに出席された斎藤恵子さんや、元春秋社の林幹雄氏などは、長く「紀尾井会」でご一緒だった。毎週火曜の午後3時ごろからだったろうか。

今また四谷界隈で往年の「紀尾井会」を復活できないものかと思案している。

米軍払い下げのカマボコ型兵舎で出来ていた司祭館の一室。紀尾井会のメンバーと楽しくクリスマスパーティーを祝うホイヴェルス師。興が乗ると師は幾つも懐かしい故郷の歌をドイツ語で歌ってくださったものだ。師の右には石炭ストーブの煙突。煙突のそばにはアルミの薬缶が写っている。右手前の横顔は若き日の私。

私は中学生の頃からカメラ小僧で、最初はパカンと開くと黒い蛇腹が飛び出す骨董カメラから始めたが、ドライエルヴァルデの写真も捨てずに取っている膨大なネガフィルムのどれかにあるのだろうが、整理が悪く、見つけ出してブログを飾ることができないのはまことに残念だ。

 

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★ 【新発見】 「日本26聖人」 世界最古の壁画

2018-10-14 00:01:00 | ★ ローマの日記

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【新発見】 「日本26聖人」 世界最古の壁画

シエナの聖ベルナルディーノ修道院(イタリア)

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地中海に面したローマから、アドリア海側に出るためには、イタリア半島の背骨にあたるアペニン山脈の最高峰グランサッソ(巨岩山)の真下の長いトンネルを通り抜けなければならない。

アドリア海側から見たグランサッソの威容

トンネルを過ぎてしばらく行くと、高速道路の左手にテラモの町があり、その郊外にすっかり朽ち果てたシエナの聖ベルナルディーノ修道院の廃墟がある。

ある日、ローマのレデンプトーリス・マーテル神学院にテラモから2人の修道女が訪ねてきた。ベネディクト会のシスターたちだった。

彼女たちの修道院は、今どき珍しく、志願者が多く活気にあふれていた。彼女たちは県の文化財保護委員会から上記の廃墟を引き取り、修復して自分たちの新しい修道の場とすると言う壮大な計画を持った。長い時間と膨大な資金を要する計画だ。

院長のシスターは言った。この修道院の崩れ落ちた聖堂の壁には、世界最古と思われる「日本26聖人」の壁画が残っている。いま修復すればまだ救えるだろうが、このまま放置されればやがて劣化して失われてしまうことが目に見えている。このかけがえのない歴史的文化遺産の存在を広く世に知らせて、保存のために国際的協力を仰ぎたいが力になっていただけないだろうか、と言う相談だった。

応対に出たのは、ローマに亡命中だった「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の院長の平山司教様と私だった。司教様はいたく感心され、私にできるだけの協力を惜しまないようにと指示された。

司教様は健康上の理由から現地視察に行くことを思いとどまられたが、私には早速現地を訪れ、写真を撮ってくるようにと言われた。

私は、修道院の修復への協力を求める日本語のDVDの作成にも関わった。テラモの地元のジャーナリストと一緒に作ったDVDが今手元にある。しかし、それをこのブログでお見せするためには私の編集能力が不足している。どなたかの協力が必要だが、いずれは実現したいと思っている。興味をそそられた方は申し出ていただきたい。

修道院の廃墟に向かう道を羊飼いに連れられた羊の群れが下りてきた。

 

今回は、まず手始めに、DVDの字幕に使った原稿と、私の素人写真を組み合わせて紹介しよう。

協力を約束してから早くも5年の歳月が過ぎてしまったが、日本に神学校が戻ることが本決まりになって帰国するまで、落ち着いてこの件に取り組むことができなくて、いつも気がかりだった。これから何が出来るか全く自信はないが、地道に周知の努力を重ね、支援の輪を広げていきたいと思っている。

日本のテレビ局による現地取材や篤志家の資金協力が得られれば、シスターたちの期待に少しは応えることもできるのだが・・・。 

ここからはDVDのナレーションの原稿を使って話を進めよう

丘に向かう道端に車を残し、高台のカシの森とオリーブの林の境を行くと、こぬか雨に午後の大気はけぶり、聞こえるのはただ、風にそよぐかすかな葉擦れと、小鳥の羽ばたき、雨垂れの音ばかり。

 

テラモの町から谷を隔てて遠望する廃墟の聖ベルナルディーノ修道院 

DVDのナレーションの気取った文体と、有り合わせの写真とはぴったりは合わないが、そのアンバランスを楽しんで読んでいただきたい。

威厳をまとった僧院は古色蒼然とし、痛ましく壊れ、うち捨てられていた。回廊の近くには野生化したぶどうの棚が、幾つかのしおれた甘い房をつけている。その実を田舎のパンと食べ合わせると、いにしえの質素な食卓の味わいが甦り、尊い歴史の遺産と自然の価値が、記念碑的建物の遺棄され崩れゆく姿と、際立ったコントラストを白日の下に曝す。

 

入り口の半月形の見事な壁画は、私たちを15世紀の教会の中に誘い入れる。 

 

略奪でキリスト教的シンボルの殆どを失っているのに、なお圧倒的な神聖さを保つこの秘められた場所で、打ち砕かれた祭壇と消え残るフレスコ画が、偉大な感動を呼び覚ます雰囲気をかもしている。

 

聖堂の壁一面に描かれた日本の聖殉教者たちの十字架像、その雄々しくも痛ましい姿は、広く世界に語り継がれるにふさわしい。

説明には「日本の殉教者。聖ペトロ・バプティスタと22人の仲間たち、私たちのために祈り給え!」とあるが、26人のうちフランシスコ会系でない3人は省かれた計算か?

画はあくまでも素朴なタッチで描かれている

 

 

 

回廊に囲まれた棘の生い茂った中庭。ここはもと菜園だったに違いない。しばし目を細く閉じ、想像力を廻らせば、香りに満ちた色とりどりの野菜が眼底に甦り、うっとりするようなエデンの園の情景に、思いを馳せることが出来るだろう。

台所を通って広い食堂に入ると、二つの高い窓から降りそそぐ光につつまれて、しばしの瞑想にこころを引き込まれる。精神と肉体のバランスとハーモニーの中で、自然と大地の産物に結ばれて営まれた、あの質素な修道生活を思って・・・

上の階へ通じる広い階段は、昼間のほのかな光に柔らかくつつまれ、壁の色を映して黄金色に染まり、中庭を見下ろす回廊の強い日差しと好対称をなしている。

窓と柱が織りなす光と蔭のリズムからは、幾世紀にもわたり住んでいた修道士たちの人型が見え隠れする思いがする。聖者の残り香は強く漂い、歴史を知るものには、フランシスコ運動と15世紀ヨーロッパの公的生活における最も偉大な人物の一人、この僧院を建て、ここにひと時を生きたカペストラーノの聖ヨハネの現存が感じられる。

案内の 3人のシスターたちとともに

サンタ・ルチアのフレスコ画

日本26聖人の壁画は正面の砲弾型の壁の左右と、祭壇向かって左の側壁面にある

何百年廃墟のままだったのだろうか

 

今、この僧院は本来の姿に戻ろうとしている。オッフィダのベネディクト会修道女たちの手に渡り、修復と改修に費やされる多くの時間と汗の後に、彼女たちの祈りと働きの場として甦るために。

盗まれた址に新しい鐘が釣られ、再び谷を越えてテラモの町にその音を響かせる日が来るだろうか

谷の向こうにはテラモの町の教会の塔が見える

ベネディクト会の修道女たちは知っている:「どんなに小さな寄付も神様の目には尊く、そのすべては《命の書》に記されることを。私たちの支援者は皆、恩人として永久に記憶され、祈りによる援助に欠けることがないことを。また、恵みを与えることに寛大な神様は、全ての厚意にご自身で豊かにお報いになることを。」 

             

 

次世代の若い修道女たちに古い歴史の遺産を残そうとする姉妹たちの願いが届きますように

 

役所の修復事業の公告

 

 

 

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