:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《一部追加》 「キコ」 の世界青年大会

2016-10-16 06:39:26 | ★ WYD(世界青年大会...

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《一部追加》

「キコ」 の世界青年大会 2016

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ワールド・ユース・デイ(WYD)には恒例の「おまけ」の催しがある。

今回も教皇ミサが明けて月曜日、世界から集まった新求道共同体の若者たちは、キコが主催する身内の集いに結集した。

私は1991年にポーランドのブラックマドンナの聖地で催された第3回WYDの160万人集会以来、今回のポーランドのクラカウでの第23回まで、度々参加してきたが、キコはいつも教皇ミサの翌日に巡礼に参加した世界中の新求道共同体の若者と明日の宣教の担い手になる司祭、修道女の志願者を募る集いを開くことにしている。

教皇の300万人ミサ(私は先のブログで200万人と書いたが、あれは私の聞き違いで、ウイキペディアによると300万人とあったので、すでに訂正した)のうち約20万人が新求道共同体の若者たちだったと聞いている。

目的地まであと1キロほどの所でバスは止まった。 

 

バスを降りて会場に近づくとまず目に止まったのは、警察の機動隊車両の多さだった。「キコ」の青年集会にそれほどの警備が必要なのだろうか?

しかしよく見ると、警官の制服は暴徒鎮圧の時の乱闘服ではなく通常勤務のもので、リラックスして友好的だった。

 次に目を引いたのが万里の長城のように会場を取り巻く簡易トイレの列だった。なるほど、若者20万人の需要にこたえるにはこれだけ必要なのだ。1991年、ポーランドのチェストコーバでの青年大会は160万人の青年が集まったが、共産主義から解放されたばかりの東欧ははまだ貧しく、これだけの数のトイレを取り揃えることができなかった。そのため、若者が毛布で囲いを作り、その中で若い女性が用を足すというような光景が随所で見られた。

さらに進むと会場が見えてきた。トイレの壁で囲まれた広場の内部は既に満杯状態で、どうやら割り込む余地はなさそうだった。我々の後にもまだ続々人が到着するのに、みんなトイレの長城の外側の芝生で我慢するしかないのか。 

中央の舞台が視野に入ってきた。鉄パイプ組の柱に支えられた天蓋は巨大の一言に尽きる。しかも舞台は天蓋の下をはるかにはみ出して、上に3000-4000人が乗れる広さがある。なんでそんなバカでかいものが必要かは、この後をお読みになればわかるだろう。

仕方なくそトイレの長城の外側の草原で我慢することにしたが、背丈より高いトイレの壁が視界がさえぎって内部の広場の動静は何も見えなくなる。どうやら、会場を準備した側が参加者の数を少なく読み違えたらしい。

どこの国も自分たちのアイデンティティーを示す旗を持ってきている。

 長城には外部との出入りのためにギャップが設けられている。舞台とギャップを結ぶ直線状の細い帯からは、辛うじて舞台が遠望できる。参加者はおのずからその細い回廊上に集中することになる。空から見れば帝国海軍の旭日旗のように丸から光の帯が八方に伸びているように見えるだろう。

日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院(在ローマ)の神学生の一部と副院長のA.L.神父。彼が私のパソコンの置き引き事件の現場目撃証人だ。

ベトナム人もイタリア人も日本人も中国人もみんな一つの家族に溶け合った巡礼だった。右後ろの竿の上には日の丸とベトナムの国旗が一緒にはためいている。

舞台に近寄るためにトイレの長城の内側に立ち入った。全体のスケールが広大なので広さが実感できないが、舞台の上に立っている黒い人間の背丈を見ると、この舞台に4000人が乗れることはおよそ納得がいくというものだ。

舞台の背後にはキコの描いた巨大な壁画の幕が掛けられ、舞台の前縁に置かれた演台からキコが自作の曲に唱和するように若者たちを招き、今の世俗化し無神論化した世界にキリストのメッセージを伝えることがいかに緊急な課題かを熱く語りかける。

正面舞台の上のキコはどこから見ても豆粒にしか見えない。そこで舞台の左右に巨大なスクリーンが設けられている。それで初めて大スピーカら流れてくる声の主を視認できるのだ。

ともに祈って、ともに歌って、キコの話を聞いて会場の熱気が高揚したところで、しばしの沈黙の後、キコは「神様の呼びかけを感じて、生涯を宣教師として奉げたいと思う若者は立って舞台の上まで来なさい!」と呼びかける。すると、会場から幾筋もの川の流れのように、急ぎ足の若者たちが舞台を目指して進んでいく。20万人の若者が見守る中で、さしもの広い舞台もみるみる人で埋まっていった。彼らは壇上に跪き、来賓の大勢の枢機卿、司教たちから按手をうけ、元いた席に戻っていく。同じような呼びかけが女性にもなされた。一生涯を塀に囲まれた禁域の中で過ごし、世界の福音宣教を祈りと労働で支える厳しい修道生活に若い身を捧げるという、重大な選択に感極まって、滂沱の涙を拭おうともせずに震えながら進んでいく乙女たちの川の流れを見るのはいつも感動的だ。速報ベースでは、約3000人の若者と、約4000人の女性たちが立ったと発表された。

(追加部分)そう、そのほかに2000家族が宣教家族として立ったことも付け加えなければならない。平均子供5人の7人家族ならこれだけで一気に1万4000人が立ったことになる。この狂気の沙汰の宣教熱はどこから来るのだろうか。それは、自分が罪を赦されて死の淵から救われ、永遠の命を戴いたという生きた信仰体験、回心の恵みに応える喜びと熱意のなせる業意外の何物でもない。こんな信仰がカトリック教会の中に生き残っていたなんて、今のご時世にちょっとありえないような話ではないですか?

彼らが、今年新たに開校が決まった8つの神学校を含む世界113のレデンプトーリス・マーテル(贖い主の御母)神学院を満たし、世界中の数百の後継者不足で閉鎖・消滅に追い込まれかけていた女子修道会に活力を与えている。そして、プロテスタントの牧師さん一家のように、カトリックの子だくさんの宣教家族が、宣教の第一線に立つ。

8年前に閉鎖を免れて教皇ベネディクト16世によってローマに移植された世界第7番目の由緒ある元高松の神学校も、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル新学院」として今も健在で、この秋から新たに4人の神学生を迎え、来年5月には3人の司祭が新たに叙階される予定になっている。

その夕方、よくありがちな手違いで出発が大幅に遅れ、もう宿に泊まる時間が無くなり、夜通し走り続けるバスの車中泊でワルシャワの空港に向かった。

空港の朝、ベトナム組、イタリア組、そして日本へ帰る兄弟が次々と発っていった。テレジアとはそれ以来会っていない。

私は一番遅くミュンヘン行のポーランド航空の機内に入った。ミュンヘンでは旧知のマリアンネ神学博士嬢が私を出迎えてくれる約束になっていた。(話はここから話は5つ前のブログ「貴方は天使を見たか?」に戻る。)

(なーんだ!カメラを盗まれたと言っていたのに、ちゃんと写真があるではないか、ですって?これらは気を取り直して、携帯電話のカメラを使って撮った写真でした。iフォンをガラ携並みにしか使えていなかった76歳の目から鱗でした。)

 

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★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因? (完)

2016-10-06 00:03:51 | ★ WYD(世界青年大会...

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モスクワの出会いパソコン盗難事件の遠因? (完)

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話は前後するが、私たちはクラカウの宿を、古い大きな館(居城)に取っていた。それは、共産革命以前は貴族の領地の中にあったが、ソ連政府に接収されたもので、プーチンの時代になってから、その貴族の子孫によって買い戻され、元の姿に再建されつつあるものだった。建物は壮麗で庭園は広大、食事も悪くなかったが、寝るためのベッドがない。夜は110人が男女に別れて、大広間や廊下に寝袋を敷いて潜り込むことになる。

この館での最後の夕食は、屋外のワイルドなバーベキューとビールの飲み放題だった。若者たちの宴は深夜にまで及んだだろうが、私は、その夜激しい下痢に襲われ、夏風邪の咳もぶり返して、最悪の状態で早々に横になった。

翌朝は、その地方で最も古いと言われる教会に巡礼した。(いつもは、絵日記代わりの写真を頼りに、日時や場所、出来事まで詳しく再現できるのだが、今回はカメラをメモリーごとやられたので、不確かな記憶に頼るほかはない。)

さて、その教会に一つのマリア様の石の胸像(いや、絵だったかな?)があった。アーカイックな微笑みをたたえたマリア様だった。 

ガイドさんの話を受けてG神父は、「このマリア様にお願いごとをすると、必ず叶えられるという言い伝えがある。だから皆さんも3つのお願いをしなさい。一つは〇×のため、二つ目は×〇のために願いなさい、そして3つ目は皆さん自分の個人的願いを頼んでください。」といった。

若い巡礼参加者の幾人が、そのような誘い(チャレンジ)に反応し、本当に叶えられると信じて真剣にお願いをしたかは知らないが、私の心にはむらむらと挑戦心が芽生えた。「そうか。もし本当に叶うというのなら、信仰をこめて一つお願いしてみようではないか。」そして、心の中でつぶやいた。「マリア様、もし思し召しに叶うなら、どうかテレジアの足を癒して、教皇フランシスコの野外ミサの会場まで歩けるようにしてやってください。彼女はこのためにこそ、このきつい巡礼に参加したのですから。」

そして、よせばいいのに「もし必要なら、その代償として私から何かをお取り上げになってもかまいませんから」と、余計なことまで付け加えた。

その時の心境をいま思い返すと、言い伝えを心から信じて願ったら、それが文字通り叶えられることをこの目でぜひ確かめたい、という強い衝動を感じたことは確かだった。

わたしは、ロシア、ポーランド各地の巡礼を、この教皇ミサの300万人集会という一大絵巻に向けて心身を高揚させる準備と考えていた。だから、かわいいテレジアには是非そのクライマックスを体験させてやりたいと切望した。

だが、人間的に考えれば、今のテレジアが教皇ミサの前夜祭に向けて10キロ以上の行進に耐えることは不可能で、それを強いるのは無謀と思われた。だから、彼女の足が突然治って参加出来たら、それはちょっとした奇跡ものだと思った。G神父は彼女のために一夜の宿を密かに手配していた。

そして、いよいよ300万人集会に向けて行進する朝を迎えた。総責任者のG神父はテレジアを呼び、「あなたのために今夜泊まる宿は準備されています。無理しなくてもいい、安心して休みなさい」と告げた。(行進が始まってから途中で彼女が落伍したら、110人の行動全体が大きく影響を受ける。彼女のために大会に参加できなくなる人間が出るし、全員の現地到着も確実に遅れるという計算が引率者の頭にあるのは見え見えだった。)

すると、意外にも彼女は、「いいえ、私は行きます。その日のために私は巡礼に参加しました。」ときっぱりと言った。私はそばにいてその心意気に感心した。「でも、足は?」との質問には、「よくなりました。大丈夫です。」と言う。

見ると、腫れは退き、触っても痛みを訴えなかった。G神父は、「最後は自分で決めてください」と突き放し、責任を取ろうとしなかった。

私は内心「やった!マリア様、あなたは私の願いを叶えてくださいましたね」と言って感謝した。だが、その代りかどうか、下痢と咳と痰はますますひどくなり、鼻水も流れっぱなしで、ついに私は参加をあきらめることを余儀なくされた。「マリア様、これがあなたの求められた代償ですか?でも、彼女が参加できることになったのだから、甘んじてそれを受けます。」と言った。しかし、よく自分の内面をのぞいてみると、「彼女にとっては初めての体験だが、私はもう何度も野宿や教皇ミサは経験している。老骨にきつい野宿をするよりも、病気と言う大義名分に甘えてベッドに寝て、集会にはテレビで参加する方が実は楽チンだ、というずるい本音もあった。」そして一行がバスに乗り込んで行進の起点に向かう前に、テレジアが泊まるはずだった宿に、代わりに私が向かうことになった。きつい野宿は性に合わないと言って、初めから宿に泊まることに決めていたA神父が一緒だった。

私はその夜、清潔で柔らかなベッドに入ったが、激しい下痢で一晩中何度もトイレに立った。 

明けて、朝食をとりながらテレビで教皇の300万人ミサを見た。テレジアは無事この群衆の中にいると思うと嬉しかった。

ミサの後、A神父と私は昨日皆と別れた場所に向かった。一行は会場から遠く離れたバス溜まりまで徒歩で戻り、そこから私たちを拾いに来る手筈になっていたからだ。そこにはガソリンスタンドがあり、道を隔てた向かいには木々と緑の芝生の公園風の広がりがあった。我々は人気のないその静かな場所でのんびりと陽を浴びながらバスが着くのを待った。

1時間待った。2時間待った。3時間待っても何も起こらなかった。一人なら心配になっていろいろ手を打つところだが、A神父と一緒で、彼が連絡役だったので、任せて待つことに徹した。心地よい太陽とそよ風の中、下痢でろくに寝ていなかったのも手伝って、つい、うとうとしてしまったのだった。

そして、あの置き引き事件と、天使によるパスポートの返還があった。二つ前のブログを参照のこと。)

4時間ほど待ってやっとバスがやってきた。会場ではいろいろあったらしい。野外ミサで二人の女の子が脱水症状で倒れ、救急処置がとられ、点滴を受けている間、110人がじっと動かずに待っていたらしい。

テレジアはすがすがし顔で私の隣の席に戻ってきた。

 

 

二つの解釈の可能性

①   私はマリア様にテレジアの足を治して下さいと願った。また、よせばいいのに、そのかわり必要なら私から何かお取りになってもいい、とも言った。

彼女の足は一夜にして長距離を歩けるところまで回復した。そして無事300万人集会に参加することができた。代わりに、私は下痢とぶり返した風邪で参加できなかった。さらに、公園でパソコンとカメラを盗られた。しかし、盗られたパスポートと国際運転免許証は戻ってきた。

これらはそれぞれ互いに無関係に自然に起こったことで、マリア様に願掛けしたこととは何の関係もない。マリア様が願いを叶えることなど有り得ない。迷信に過ぎない。天使がパスポートを届けに来たなんて、愚の骨頂だ。

私自身の中に、この意見に賛成する部分がある。

②   しかし、別の解釈もある。マリア様は私の願いを聞かれた。そして、願い通り、あの朝彼女の足を癒して下さった。だが、私がマリア様に挑むような、或いは神を試すような「奇跡をおこなう条件として私から何かをお求めなら、どうぞお取りになって下さい」みたいなことをつぶやいたのを、神様はしっかり聞き咎められて、私が下痢を起こして身代わりに参加できなくするだけでは足りず、私が中毒になっていたインターネットとパソコンに加えて、玩具のように愛着していたカメラをお取り上げになった。それこそ金銭的損失を伴う厳しいお咎めだった。

私の髪の毛の数まで知っておられる神様は、私の心の奥の不遜な思い、わずかな不純な動機までしっかり見抜いておられた。「そして、アイタタ!ゴメンナサイ、私が悪かった!」と思い知らされるやり方で、お咎めになった。しかし、パスポートは天使に託して届けさせ、後半の旅まで台無しになることだけは勘弁して下さった。実に絶妙な采配ではないか、と舌を巻く。

私はテレジアと出会わなければ、教皇ミサに参加し、芝生で置き引きに合わなかったに違いない。不思議な因縁を感じる。

〔教訓〕

汝、神を試みるなかれ!

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★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因? そのー2

2016-09-29 00:33:49 | ★ WYD(世界青年大会...

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モスクワの出会いパソコン盗難事件の遠因? そのー2

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次の日、トレチャコフ美術館に行った。英語で案内するロシア人のガイド嬢がバスごとについた。それを若い神父たちが、バスごとに日本語やベトナム語やイタリア語に訳しながら館内の絵画を見て歩くことになるのだが、色んな言葉が同時に錯綜して混沌とした場面になることは想像に難くない。ガイドさんは一般的な説明をしようとするが、訳する神父は宗教的に興味のあるロシアのイコン画の、それもお目当ての有名な一枚を、皆にゆっくり見せたくて先を急ごうとする。テレジアは―そして、実は私も―ガイドさんの説明にはほとんど興味がない。また、貴重なイコン画にもさほどご執心ではない。むしろグループが急いで素通りする各部屋の逸品にこそ興味がある。しかし、脇の部屋の名画に一人で見とれていると、テレジアを視野から失うか、最悪グループの最後尾を見失って自分自身が迷子になる恐れがあった。何しろ、静かな鑑賞にはおよそ適さない人混みで、まるで渋谷のスクランブル交差点か新宿の西口広場のような騒ぎだ。そして、やっとの思いで本隊に追いつくと、皆は一枚の有名なイコン画の前で熱心に絵の説明に聞き入っていた。

  

    「三位一体」これは見るべきもの  「ウラジミールの聖母」これもぜひ見るべきもの  

しかし、その陰で「見知らぬ女」を見損なった

「ヴォルガの船曳」、これも見られなかった、そしてほかのたくさんの名画も・・・

別の日、一行は私がかつて円卓会議の機会に訪れたザゴルスクの修道院に行った。そこでも、若い牧者(LZ神父)の指示通り、私はテレジア番の牧羊犬の任務を忠実に果たした。

その私はと言えば、日本から持ち込んだ夏風邪の名残がぶり返して、しつこい咳と気管支の右側からぞろぞろ上がってくる大量の痰に悩まされていた。

セルギエフ・ポサードの遠望

ソ連時代にザゴルスクと改名されたこの町は、今はまたセルギエフ・ポサードという元の聖人の名前に戻っていた。北の都レニングラードがセント・ピータースブルグの名に戻ったのと同じ要領だ。ロシア人は共産主義時代の記憶を消そうとしているのだろうか。

修道院には、ロシアのこの地に初めてキリスト教を伝えた聖人セルギエフの遺体が今も腐敗を免れてあって、人々の信心を集めている。

 

クレムリンの中の教会 クレムリン宮殿の中央の突き出た屋根の下にプーチンの執務室が

クレムリンの中にも入った。立派なロシア正教の寺院が幾つもあったが、あの政府の建物の中央の屋根の下にプーチン大統領の執務室がある、という説明が妙に耳に残った。冷戦時代にはクレムリンの中は、観光客など一歩も近寄れない聖域だったことを思えば、隔世の感がある。

さて、テレジアの異変に気が付いたのはポーランドのワルシャワ空港に着いた頃だったかと思う。

尋ねると、数日前から足が痛んでいたという。どれ見せてごらんというと、靴を脱いで足を出した。なるほど、甲のあたりが長径6-7センチほど厚く硬く腫れあがって、ピンク色に火照っている。軽く指で触れるだけで飛び上がるほどの痛みを訴えた。

原因を特定しようと質問を重ねると、どうやら虫に噛まれたところが痒くて引っ搔いているうちに、ばい菌が入って炎症をおこして根をはり、腫れあがったらしいことが彼女のたどたどしい日本語から分かってきた。私はたまたま風邪熱を下げるための抗生物質を4日分持っていたが、さて、与えていいものか自信がなく、さりとて、ほかに施す術もなかった。仕方なく薬局に連れて行って、何とか通じたドイツ語で症状を訴えて薬を二種類手に入れたが、顕著な変化は認められなかった。

幸い、110人の中に看護士の資格のある若い娘たちが3人もいることがわかった。さっそく協力を求めたが、彼女たちはさすがにプロだった。腫れの部分が熱を帯びていることがわかると、厨房から氷を詰めたビニール袋を持ってきて私に冷してやるようにと言った。しかし、その氷はどんどん融けていった。冷やす他にしてやれる名案がなかったので、スーパーやカフェーに手あたり次第氷を求めて走り回ったが、どこにも売ってくれなかった。そこでふと思いついて、ジェラート屋さんでアイスクリームを買い求め、ビニール袋に詰めて氷の代わりにそれで患部を冷やした。しかし、ジェラートは固い氷より解けるのが早く、すぐ生暖かい甘い香りの汁に変わったが、今さら食べられたものではなかった。とにかくできることはおよそ何でもやってみた。そして、自分で言うのもおかしいが、いつの間にかすっかり孫娘の身を按ずる孝行爺になっていた。

しかし、心配の甲斐もなく、症状はその後も一向に改善される気配がなかった。次の日、ビッコをひく彼女は、痛む足の靴のカカトを惜しげもなく踏みつぶして、スリッパのようにしてつっかけていた。靴が足の甲を圧迫すると歩けないのだった。

その次の日、彼女はもう靴を履くこと自体をあきらめていた。ベトナム人の女の子から安いゴム草履を借りて裸足にそれを履いていた。これならハナオが腫れた部分に触れないので少しは楽なのだそうだ。

そうこうするうちに、この巡礼の旅もクライマックスに近づいた。

明日はフランシスコ教皇による野外ミサに向けて、朝からバスで会場に向かい、バスの駐車場からされに10キロ余りの道のりを徒歩で会場に入ることになっていると聞いた。会場のそばには200万人分ものバス(単純計算で約5万台)の駐車場などあるはずもないからだ。遠方の駐車場から徒歩で来て、早めに良い場所を陣取り、前夜祭にあずかり、そのまま野宿して翌朝の教皇ミサを待つという手はずになっていた。

とにかく、テレジアの状態は、誰の目にもこの日程への参加は不可能に思われた。彼女はもう何日も痛む足をかばい、無理して歩き続け、反対の足に大きな負担をかけながら何とかついてきた。その結果、腫れていない方の足の関節まで負荷に耐えかねて痛み始めていたのだ。

総責任者のG神父は、彼女の教皇ミサへの参加は無理と見て、会場には行かず現地の共同体の仲間の家に泊まって休む手筈を密かに整えていた。

 

だから、それがどうしたって言うの? パソコンの置き引き事件とどう関係があるの? もうじれったいな! という声が聞こえてきそうですね。ごもっとも!ご尤も! しかし、どうか今しばらくのご辛抱!

経験値から言うと、A4の紙2枚以上の文字原稿は、すでに読者をつなぎとめるには長すぎる。それなのに、この話の落ちまで行くのに、まだあと2枚ほどは必要なのです。だから一旦ここで切るしかありません。

必ず次のブログで落とし前を付けます。しかも、読者の推理が絶対に届かないような奇想天外な落ちを付けますので、どうか今しばらくのご辛抱を!

(つづく)

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★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因?

2016-09-15 23:29:37 | ★ WYD(世界青年大会...

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モスクワでの出会いパソコン盗難事件の遠因?

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モスクワに入って2日目に本隊が追い付いてきた。ベトナムからの参加者10数名とローマから我々日本人と一緒に行動する部隊も加わって、総勢110名ほどに膨れ上がった。それが3台のバスに分乗して行動する。私は若いLZ神父が責任者を務める2台目のバスに補佐格で乗ることになった。

初日、赤の広場に向かった。大勢の観光客でごった返していたが、特に中国人の多さが目を引いた。広場は110人が一緒に行動するには適さない。決められた時間にバスを降りた場所に再結集して、そこからバスが待機する大駐車場まで一緒にあるいて移動する手はずが周知されたのち、自由解散した。

赤の広場の一角にあるワリシー寺院 その奥はグムデパート

広場は、レーニン廟やワシリー寺院や土産物屋など、気を引くスポットには事欠かないが、時間は限られているので各人が行く先を選択しなければならない。

時間になると、日本人の多くはほぼ間に合って戻ってくる。日本育ちのイタリアやスペインの宣教家族の子たちも決められた時間の10分過ぎぐらいには三々五々集まっている。点呼して一人でも戻っていないと、全員が足止めを食う。さっそく数名の捜索隊が放たれるのだが、浜辺に落とした真珠を探すようなものだ。

赤の広場ではテレジアが戻ってこなかった。東京の共同体のメンバーだというが、私は顔を知らなかった。幸い、一人が彼女を見つけて連れ戻ってきた。よかった、みんな助かった!

そのとき、LZ神父がそっと私にささやいた。「テレジアは日本人のような顔をしているが、実は中国人留学生で、来てまだ1年にもならない。日本語は勉強中だが、たどたどしくまだよくわかっていないところがあるようだ。それに、どこかポーっとしていて、成田からここまでの間もハラハラさせられた。これから先うまくついていけるか心配だ。彼女が迷子になると全員が困ることになる。だから、それとなく目を離さないでいてくれないか。」

なるほど。了解!

責任者は要所要所で大声を枯らして次の行動の指示をするのだが、周りのざわめきにかき消されてよく聞きとれないことが多い。私など、老人が迷惑をかけては申し訳ないと、責任者のそばに寄って耳をそばだてるのだが、あの子は遠いところであさってのほうを向いてぼんやり立っている。日本語が不十分でどうせ耳を傾けても要点が正確に呑み込めないのかもしれない、とも思えた。

そこで私は彼女に「テレジア。今日からわたしがあなたの世話をすることになった。あなたも迷子にならないようしっかり私についていらっしゃい」と言った。

彼女は素直にうなずいて、その後は互いを見失わないほどの距離を保って行動することになった。

さて、皆がバスで移動する場面になった。大型バス3台に110人だから、どのバスも座席には余裕がある。平均20歳台前半の若者集団にとって、リーダーの若い神父たちはお兄さんかお父さん格だが、76歳の私は彼らの「ジージ」(お爺ちゃん)の世代だ。だから、普通は敬遠されて誰もあえて私の隣に座ろうとはしない。早々にがらんとした車内に乗り込んで、前から3列目ぐらいの窓際に陣取っていても、若者たちは私には目もくれず仲良しと一緒にどんどん空いた席を埋めていく。

そこにテレジアが一人で乗り込んできた。まだ日本語が不十分な彼女は、日本人の女の子の仲間にすっかり溶け込んでいる風ではないように思えた。かといって、イタリア人やスペイン人の顔をしていながら日本語がペラペラの宣教家族の子供達の群れにも属していない。暇さえあれば一人離れて海の向こうの母親と中国語でスマホ会話に夢中になる様子も見えて、どこかはかなくソリタリーな空気を漂わせている。

私の横を通り過ぎて後ろの若い女の子たちの中に席を見つけてくれるならそれが一番だと思った。どうせ閉じた空間の中では目を離しても迷子になる心配もないし・・・。ところが、彼女は何となくもじもじ通路に佇んでいるから、つい「よかったら隣に座ってもいいんだよ」と声をかけてしまった。かけてから内心「しまった!」と思ったが、もう手遅れ。彼女は何のためらいもなく私の隣の席に納まった。

団体バス旅行では、たまたま座った席の居心地が特に悪くない限り、乗り降りのたびに毎度席を変え回ることを人はあまりしないものだ。たちまち、どこも馴染みの組み合わせで落ち着いてしまうからだ。

そんな中で、神父というものは、中性的にすべての信者と等距離にいることが期待され、またそう身を処するのが安全というものだ。それなのに、76歳のお爺ちゃんと18歳の孫ほど年の離れた中国人の女の子が巡礼中ずっとくっついて座っていたらきっと目立つことになるぞ、というアラームが頭の隅で鳴っていたが、もう手遅れかもしれない。エイ、ままよ、と開き直る思いもあった。

案の定、最初の一日、二日は、おせっかいな何人かが二人を引き離そうとやっきになって工作したのだが、いつもその場限りで功を奏さない。口実を設けて彼女を別の席に移しても、次の機会には磁石が引き合ってピタッとくっつくように、また僕の隣にいる。みないい加減あきらめて、以来その状態が維持されることになった。

バスの車内で彼女ははいろんな話をしてくれた。語彙が圧倒的に不足する中、漢字の筆談も加えて懸命に話そうとする姿に好感が持てた。中国では自営業の富裕層の両親のもとで恵まれた生活をしているようだった。アメリカやヨーロッパには行かず、日本の私立の美大でデザイン科に入りたいと夢を語った。日本で ≪ダーイスキ≫ なのは、どこへ行ってもトイレがきれいなこと。とか、小動物など生き物なら何を見ても、日本人の女の子がきっと ≪ワー、カーワイイ!≫ と言いそうな場面で、思わず ≪オイシソー!≫ と正直に言ってのける意外性など、まだ見ぬ中国の生きたしたたかな姿が私の眼前にイメージされて、私の興味を大いにそそるものがあった。

バスを降りると、なるべく遠くから見失わないように気を付ける程度に距離を置くのだが、あらかじめバスに積み込まれていたビニール袋入りの昼弁当のサンドイッチと水が配られて食事の時間になると、目が合って、あの磁石の原理が作用してピタッとくっつくように、自然に一緒に木陰に腰をおろすことが多くなり、いつの間にかすっかり仲のいいお爺ちゃんと孫娘のカップルのようにになってしまった。

 

だが、これがまさかポーランドでのパソコンとカメラの盗難事件につながる遠因になっていたとは、その時わたしは夢にも思っていなかった。

では、なぜそうなったのか?

それは、次のブログで順を追って詳しく説明することにしよう。

(つづく) 

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★ 2016 年世界青年大会 (WYD) モスクワの文学巡礼

2016-09-07 00:14:55 | ★ WYD(世界青年大会...

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2016年 (WYD) モスクワの文学巡礼

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 フヨードル・ドストエフスキー

長時間のバスの移動に耐え、夜は床の上に寝袋で寝る。若者向けの過酷な巡礼は3年前のリオの世界青年大会(WYD)を最後と心に決めていた。

それなのに、ポーランドで開かれる今年のWYDには、ロシアのモスクワとその周辺も巡礼のコースに含まれると聞いて、76歳の心がまた動いた。

モスクワと言えば、ソ連崩壊前夜に「日ソ円卓会議」の正式メンバーとして何度か訪れたことのある懐かしい場所。新生ロシアが今どんな状況か、強く興味をそそられるものがあった。

若者81人からなる日本グループより2日早く成田を発った。本隊を待つ束の間のモスクワの休日は、一人で文学巡礼としゃれこんだ。私はなぜかロシア語のアルファベットが読める。地下鉄の駅名、街の通りの名前が発音できるので、地図があれば一人で地下鉄を乗り継いで、街を歩けるのだ。

ドストエフスキーの家を訪れた。次いでトルストイの住んだ家も訪ねた。入り口で200ルーブルずつ払って写真撮り放題の許可証を首から下げ、それぞれ200枚余り撮ったが、前のブログに述べた通り、数日後ポーランドの盗難騒ぎでカメラとパソコンと共に貴重な画像をすべて失ってしまった。

レフ・トルストイ

プーシキン美術館は彼の生家とは関係がないが、とても見ごたえのある絵画・彫刻の一大コレクションだった。特にミロのヴィーナスやロゼッタストーン、バチカンのラオコーンなど、世界中の逸品の多くの精密なコピーがそろっているのが教育的に思えた。

アレクサンドル・S・プーシキン

美術館の近くには、キリスト降誕2000年に再建されたロシア最大の大聖堂「救世主キリスト」(ハリストス)教会があった。19世紀末に建てられた大聖堂はスターリンの命により爆破されたが、ソ連崩壊後に再建が進められたものだ。高さ103メートルはバチカンの聖ペトロ大聖堂のドームにわずかに及ばないが、1万人が礼拝できる新聖堂はロシア正教会の中心的存在だ。その内部の壮麗さもさることながら、延々と続く儀式の中で途切れることなく流れる音楽が素晴らしかった。ロシア正教ではパイプオルガンを使わない。その他の楽器も一切使わない。混声ポリフォニーの美しくも荘厳なコーラスの響きを専らとする。私はその天上の音楽を1時間ほど聞いてなお飽きなかった。

       

  革命前の救世主キリスト大聖堂    スターリンにより爆破される大聖堂

 

16年前に再建されたばかりの救世主キリスト(ハリストス)大聖堂

 

モスクワ川の遊覧船の旅もロマンチックだった。

私が乗ったのはもう少し小型で船上のデッキで風にあたれた

夜は、かつてグルジア共和国のトビリシで見たダンスが懐かしく、ロシア各地の民族舞踊を楽しめるフォルクローレを見たいと思ってホテルのコンシエージュに助言を求めた。やっているのはホテルコスモス付属の劇場だけということだった。ホテルコスモスと言えば、ソ連がモスクワオリンピックに向けてアメリカの技術者を入れて国威をかけて建設した豪華な巨大ホテル。日ソ円卓会議の宿舎として私も泊まった懐かしい場所だった。しかし、あいにくその夜は既に満席だった。それならボリショイサーカスは、と訊いたが、そこもその夜は席が取れなかった。

  

1980年前後、ソ連の末期に「日ソ円卓会議」がモスクワと東京で交互に開催された時期があった。北方領土問題は今もって解決されていないが、そのために「日ソ平和友好条約」が締結されていないことは、両国の経済・文化交流にとって何かと不都合が多い。その不利益を少しでも減らすために、民間の任意の企画を装って、両国政府は「日ソ円卓会議」なるものを開催した。ソ連側は露骨に政府機関が全面に出てくるし、日本側も自民党から社会党までほとんど全会派が相乗りし、政治、経済、文化、スポーツ、映画、宗教、etc. およそ考えうるあらゆる分野が日ソのパイプを求め、利益を期待して群がっていた。当時、日本側の団長は自民党の禿げ頭の桜内幹事長が務め、事務局は親ソ派の社会党が固めるという節操のない相乗りだった。宗教の分科会についていえば、ソ連側はロシア正教会のモスクワ総主教以下が前面に出て、日本側は伝統仏教の大宗派、天理教や立正佼成会などの新宗教各派、キリスト教もプロテスタント教派のほとんどが相乗りしていた。ところ日本のカトリック教会は参加していなかった。どうやら日本のカトリックは、ロシア革命のときアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係があって、モスクワのロシア正教会とは切れているというのが理由のようだった。

しかし、宗教業界最大手のカトリックさんが参加しないのでは「臥竜点睛を欠く」ということになったらしい。そこで、当時それなりに人権問題の共闘を通じて日本社会党国際局長の川上民雄議員や土井たか子女史など社会党系のプロテスタント議員の側近に顔を知られていた国際金融マンの私に白羽の矢が当たり、ある日突然正式招待状とモスクワ行きのアエロフロートファーストクラスのチケットが送られてくる羽目になったのだった。

この手の国際会議には、公式日程のあとに、お楽しみの接待観光ツアーがつきものだ。おかげで、ある年はロシア正教の大修道院のあるザゴルスクへ、別の年にはレニングラードへ、またウクライナのキエフへ、コーカサスのトビリシへ、とお殿様ツアーに参加する役得があった。

当時の体験で脳裏に焼き付いている数々のエピソードから、一つだけ紹介してこのブログを締めくくろう。

円卓会議がまだ会期中のことだった。川上民雄議員の秘書譲とつるんで、共産主義下のソ連の庶民のありのままの生活を見に行こうということで意気投合した。セッションの間隙をぬって長距離バスターミナルに行った。

行先はどこでもよかった。ただモスクワの市街地を抜けて普段着のロシア人の生活に触れてみたかっただけだった。確か冬だったような気がする。バスの窓の外は十数階建てのアパート群はやがて姿を消し、白樺の林が続く郊外は寂しく憂鬱そうだった。車窓の景色に見とれる若い恋人たちのようにも見える日本人カップルのおしゃべり姿を、乗客たちは無表情に眺めながら押し黙っていた。時々村に差し掛かるとバス停では人が乗り降りをする。モスクワ市内のアパートは全て国営で、土地と建物の私有は認められていないが、田舎の木造平屋建ての小さな傾いた小家は私有物だろうか。あっという間に1時間以上も走っただろうか。突然最後部の座席から銃を担いだ若い兵士が現れた。曰く。事前に許可を取っていない外国人はモスクワから60キロ以遠に行くことを許されていない。次の停留所で降りてまっすぐ引き返すか、或いは…(ご同行戴いて収監されたいか・・・)という意味だろう。きれいな英語であくまで慇懃な口調だが、一歩も退かない断固たる響きがあった。

そうか、表向きは国賓のように丁重にもてなされていても、私たちは常に監視され、ホテルを出れば尾行されていたのだ。日本の政府の保護が届かない、ここは共産主義社会のど真ん中だった。上気した旅の気分は一度に冷めた。言われるままにホテルに帰って、ウオッカを生であおって気分直しをした。

2016年のモスクワを当時と比べれば、まさに夏と冬の違いだった。

だが待てよ、外国人旅行者に監視や尾行が付きまとっていた共産主義下のソ連・東欧では、カメラやパソコンの置き引きが横行していただろうか。これも自由の代償か、と思うと被害者としては何とも複雑な思いがする。現に、自由なローマなどは東欧よりはるかに物騒ではないか。盗難騒ぎについては、前のブログ「あなたは天使を見たか」の後半に詳しく書いたので、見落とした方は改めてお読みください。)

(つづく)

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★ あなたは天使を見たか?

2016-08-18 23:52:57 | ★ WYD(世界青年大会...

 

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WYD(世界青年大会)2016 ポーランド(その1)

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あなたは天使を見たか?

 

 

ドナウヴェールトの美しい街並み

南ドイツ、ドナウ川のほとりに「ドナウヴェールト」という絵のように美しい小さな町がある。そこに旧友のマリアンネと、私たちが「ムッティ」(お母さん!)と呼ぶ彼女の母親が住んでいる。

庭の赤いキイチゴを集めるバケツを持っムッティ

ムッティとは10年ぶり以上の再会となった。

ムッティのお家の庭には沢山のキイチゴが実っている

ジャムを作るためにそのキイチゴをせっせと集めるマリアンネ

私はマリアンネに「貴女は天使を見たことがあるか?」と聞いた。

「天使なんて見られるわけないでしょ!? 純粋に霊的な被造物なのだから!」

大学教授で神学博士の彼女からは、言下に予想通りの正解が返ってきた。(だがそんなことは私も知っている。)

「ところが、どうやら僕はまた見てしまったような気がするんだ。」

「実はね、ここに来る直前、ポーランドのクラカウの町で、静かな公園の芝生の上で、つい気持ちよくうたた寝をして、物の気配にふと目覚めて半身を起こすと、目の前に質素な服装の物静かな男が膝をついて恭しく何かを捧げ持って、僕に受け取れと差し出した。彼は終始無言だった。」

見ると、それは、赤とネズミ色の小さな薄い冊子だった。

受け取って検めると、なんと、それは僕のパスポートと国際運転免許証ではないか!

これがなければ旅は続けられない。大切なシロモノだ。

よく届けてくれた。助かった!有り難う!有難う!とさんざん礼を述べながら、「待てよ?」とふと思った。そもそも自分は一体いつの間にどこでそれを無くしたのだろう?この男はどうして僕がその持ち主でここにいると分かったのか?

そこまで思考が進んだ頃には、彼の姿はもうどこに消えたか、影も形も見えなくなってい。

だが、夢ではなかった。3メートルと離れていないところにアンヘル神父が一緒にいて、私とその男とのやり取りの一部始終を確かにその目で見ていたのだから。

パスポートは私のリュックの内側の隠しポケットにしまってあって、そのリュックはいつも手放すことはなかった筈ではないか。

だが、静かな人気のない見晴らしのきく芝生の上で、つい油断して身のそばに置いたままうたた寝をしたようだった。見ると、手の届くほどのところに置いたはずのリュックが、気のせいか少し離れたところにポツンとあった。

引き寄せてみるとチャックはみな閉まっていた。しかし、中を検めると、閉めてあったはずの隠しポケットのチャックが開いていて中は空だった。それもそのはず、中身はたった今その男から受け取って、まだそのまま私の手の中にあるのだから。やっとただならぬ事態に気が付いた。

アレ?!ところでカメラは何処だ? リュックと一緒に置いていたはずなのに。カメラが無い!

それにしても、このリュック、やけに軽いな。ウン?これはヤバいぞ! 最悪の予感に焦って、別のチャックを開けるのももどかしく・・・、・・・ああ、やっぱりやられたか!! 背負うとぴったり背中に沿うあたりにノートパソコン専用の仕切りがリュックにあったが、その中も空だった。

客観的事態はもはや明らかだった。リュックを枕にして寝なかったのが失敗の原因だった。旅慣れた私のことだ。雑踏の中なら手放すわけはないのだが、静かな人気のない明るい開放的な芝生の環境にうかつにも警戒心を緩めたのが日本人の甘さだった。愛用のカメラよりも失われた1000枚近い写真のほうが惜しかった。パソコンとともに失われたデータはもう2度と返ってこない。残念だが、自業自得というものだ。

以上が神様を信じない自分の結論だった。

しかし、神様を信じるもう一人の自分がいる。

なぜ心がこんなに平和なのか?これはきっと神様の御業だからだ。「裸で生まれてきたのだから、裸で死ぬはず」ではなかったか。「76歳にもなって、いい加減に物に執着するのは止めにしなさい。カメラはお前の玩具、お前はパソコンの奴隷、パソコンはお前の偶像だったことをやっと思い知ったか。お前は天に積める宝だけを大切にするはずではなかったか。いい加減に目を覚ましなさい。パスポートは天使に届けさせたし、命には別状なくちゃんと息をしているではないか。私のすることに何か文句があるか?」と神様は言っておられるのだ。

それにしても、あのみすぼらしい身なりの男は誰だったのか?カメラとパソコンを盗んだ本人か?ノコノコ戻ってきたりして、もしとっちめられて警察に突き出されでもしたらどうするつもりだったのか。それとも、泥棒が捨てたものを拾った善意の人か?それなら持ち主がここで昼寝している私だとどうして分かったのか?どう考えてもしっくりと腑に落ちない部分が残る。

私はこう結論付けて、さっさと納得した。

これはきっとお考えがあって神様がなさったこと。パスポートを届けてくれたのは人の姿に身を窶(やつ)した「天使」だったに違いない。アレが戻ってこなければ、日本領事館のないクラカウの町で足止めを喰う筈だった。変更のきかない航空券は失効し、ドイツではムッティに、イタリアの神学校で院長に会う予定もすべてパーになる筈ではなかったか。きっとそこまでは神様の望まれるところではなかったのだろう・・・。

ああ、神様ありがとう!守護の天使様ありがとう!

 

 

そんなわけで 、盗まれたパソコンと共にパックアップを取っていなかった一連のファイルも喪失しました。しっかりセキュリティーがかかっているので、それが破られなければデータの悪用はないでしょう。仮に破られたとしても、大部分日本語のファイルがポーランドの悪党どもに利用価値があるとは思えません。アドレス帳などの重要な情報は、何層か下の日本語のサブファイルにあるので、偶然にもそこにたどり着く可能性はほとんどないでしょう。

この際、念のために私が長年使い慣れたメールアドレスをやめて徐々に新しいアドレスに移行しようと思います。メールアドレスの変更をBCC一斉メールでお伝えしたいところですが、そのアドレス帳自体を失ってしまったので、思うに任せません。

私のこのブログが偶然目に留まった方で、今後も私とお友だちとしてメールで繋がっていきたいと思われる方は、私の従来の 「・・・@nifty.com」 のアドレス宛てにあなたのアドレスから短いメールを送ってください。折り返しの返信で私の新しいメールアドレスをお知らせしたいと思います。またこのメールが目に留まった方は、共通のお友達に私がメールアドレスの変更を意図中であることを知らない方がおられたら、今後も私とメールで繋がっていたいとお考えの方は、一度私に短いメールを送ってくださる必要があることを知らせてあげてください。しばらくの猶予期間をおいて、今までのアドレスは閉じようと思っていますから。

なお、カメラを盗られてしまったので、ここで使った写真はその後に iフォンで撮ったものであることをお断りしておきます。

今後とも、私のblogをご愛顧ください。 (続く)

 

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★ 《今日出発》 ワールド・ユース・デー(WYD世界青年大会)

2013-07-18 00:44:22 | ★ WYD(世界青年大会...

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《今日出発》

ワールド・ユース・デー WYD 世界青年大会)

2013年7月23日-28日

リオ・デ・ジャネイロ、ブラジル 

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あと2時間でアジトを出ます。

成田組、関空組、総勢70人余りの中の最年長参加者(74歳)として、

若者に混ざって、寝袋と、グラウンドシートとリュックサック姿で、野宿も、雑魚寝も

共同体の兄弟姉妹の家庭での分宿もある強行軍に、ご老体がどこまで耐えられるか・・・

これが、このスタイルの巡礼の最後になるかもしれないと言う悲壮感をこめて・・・

19日 サンパウロに着いたら先ず全員の共同告解(懺悔)を聴く。

罪を抱えての巡礼は自己矛盾だから・・・その夜、共同体の家庭に分宿

20日 LONDRINA に行って、午後感謝の祭儀(ミサ)、共同体の家庭に分宿

21日 イグアスの滝の観光、黙想の家に泊まる

22日 イエズス会伝道所(パラグアイ)へ行く、イグアスの滝にもどる

映画「ミッション」の世界、全員出発前にこの映画のヴィデオを見た

23日 LONDRINA に戻る

午後日本人向けの街頭宣教活動、感謝の祭儀(ミサ)

24日 サンパウロに戻り、共同体の兄弟姉妹の家庭での分宿

25日 APARECIDA の大聖堂で感謝の祭儀(ミサ)

観想修道会訪問

26日 サンパウロ観光

27日 リオデジャネイロへ移動して、世界青年大会会場

翌日の教皇フランシスコとの集いと野外ミサに備えて会場の陣取り

そのまま星空の下で野宿 (雨でも野宿?)

28日 教皇との集い(マドリッドの時の300万人を越えるのは確実?)

その夜、初めてホテルに泊まる

29日 新求道共同体の若者達だけでキコと集いを持つ

多くの若者が司祭職を目指して立つだろう、

多くの娘たちが、観想修道会を志願して立つだろう

多くの恋人たちが結婚の決意を固めるだろう・・・


この日のためにアルバイトをしてお金を貯めてきた、借金をした

女の子はイアリングもネックレスも一切のアクセサリーをはずして参加、

パソコンも、I-PADも世俗の入り込むものを一切遮断して霊的な修行として参加する

それだけですでに現代の奇跡だと思う


以下は、前回のWYD(世界青年大会)準備段階の話に戻ります。 

 

2011年5月1日に福者(聖人の一つ前の位)に上げらてた教皇ヨハネパウロ2世は、

1984にローマで最初の青年大会を開かれた。

その福者教皇の取り成しによる2つ目の奇跡が最近確認され、これで福者教皇ヨハネパウロ2世の列聖が早ければ年内、

遅くとも来年には荘厳に執り行われる気配となった。(聖人の位に上げられるためには、少なくとも2つの奇跡が必要なのだ。)


さて、1985年にもローマで同様の青年大会が開かれ、1986年に正式に「第1回世界青年大会」と銘打って催され、

以来、ほゞ2年に1度の割合で世界各地で開かれるようになった。

そして、今年ブラジルのリオで新教皇フランシスコを迎えて南米初の青年大会が真近に迫ってきた。

 

日本からは、毎回かなりの人数の若者が参加してきたが、(その多くが新求道共同体の若者なのだ)

今回もアントネロ神父(上の写真左)の並々ならぬ努力で

遠方であるにもかかわらず、まとまった数の青年が参加できることになった。最大のネックは費用である。

アントネロ神父は、参加する青年たちを中心に

(その多くは日本に来ている宣教家族の子供たちでスペイン人やイタリア人が多い) 

国際色豊かなコーラスを編成して、資金集めのコンサート全国ツアーで盛り上がった。

その勢いを駆って、二日前ローマのホテルでイタリアの支援者を集めて

カクテルパーティーを開き、寄付の呼びかけを行った。

 

教皇フランシスコはアルゼンチン出身。今回のリオの世界青年大会は南米初の記念すべき大会となる。

ラテンアメリカが盛り上がるのも当然の成り行だろう。過去最大の人数になることは疑いない。

 

日本の参加者の夢いっぱいのビデオのあと、一人の参加者の証言があった。

クリスティーナ・コンティ(まだハイティーン)は教皇ヨハネパウロ2世から高松に派遣されてきた宣教家族の次女だ。

彼女は宣教家族の一員として日本に住むことになって、非常に苦しい体験をしたことを淡々と語った、

小学校から日本の学校で勉強し、ギトギトの讃岐弁を話し、ものの考え方も感じ方もしっかり日本人に溶け込んだ。

しかし、同じ世代の日本の子供たちは、決して彼女を日本人としては受け入れない。

イタリア人の間でも目立つ美人の彼女は、周りの日本人の子供たちにとってはあくまで「外人」でしかなかった。

この疎外感に彼女は日々苦しむ。

決意して家族を離れてイタリアに帰った。

当然親戚や友人は彼女をイタリア人として遇するわけだが、彼女の中の自分は「私はイタリア人ではない。私は日本人だ」

と叫ぶ何かがあった。ここにも魂の安らぎは無かった。

美貌と、歌の才能に目を止められて、オーディションを受けてトップ入賞し、プロの歌い手の道に入ったことがあったが、

日本の芸能界の裏のモラルの汚さ、醜悪さに、純粋培養のクリスチャンの彼女はひどく傷ついてすぐに辞めた。

そんな彼女が、自分のアイデンティティーを求め、生き方を探して、

この青年大会に参加する決心をした過程が人の心を打った。

 

高松にあったレデンプトーリスマーテル神学院が、前教皇ベネディクト16世の粋な計らいで、

ローマに移植され、教皇からその院長に指名された平山司教(元大分司教)も、皆様の寛大な支援を訴えて

挨拶をされた。

 

  

どこかまだ子供のあどけなさから抜けきらないクリスチーナを、私は彼女がまだ幼稚園ににもいかない頃から知っている。

 

来賓のコルデス枢機卿(ドイツ人)が挨拶に立たれた。彼はつい最近までバチカンのコル・ウヌムという基金の長官だった。

その前は信徒省の次官だった。

その時、ポーランド人の教皇ヨハネパウロ2世から「新求道期間の道」の保護者・監督者の任務を与えられた人だ。

私にとっては、バチカンの高位聖職者の中でただ一人、

ドイツ語で互いに「ドウ」(「貴方」ではなく「君」の親称)で呼び合う親しい関係にある。

彼は、1984年かその前の年、教皇ヨハネパウロ2世と雑談していて、青年たちを教会に繋ぎとめることの大切さを話し合い、

そこから 青年の集い→青年大会世界青年大会、のアイディアが芽生えたというエピソードを披露してくれた。

始めは、教会、バチカンの内部から色々な抵抗や反対があったという裏話も聞いた。

今や、200万、300万、リオはもしかしたらそれ以上の若者を、

一つのイヴェントに呼び集めることの出来る人気を持った者は、

世界広しと言えども、ローマ教皇を置いて一人もいないという理由で、教皇の地位の確固たる印にもなっている、

と彼は強調した。

 

ヨーロッパの夏至の前後の日の長さを利用して、屋外でカクテルパーティーはいつまでも続く。

どれぐらいの寄付が集まったかは知らない。しかし、

このようなパーティーがローマで日本の若者の青年大会参加を支援して開かれた意義は大きい。

 

歌手になって日本のテレビにデビューすることはなかったが、彼女の奏でる日本語の歌はパーティーに花を添えた。

私は74歳の高齢でこの青年大会に参加する若者と行動を共にする。

寝袋と、その下に敷くマットをもって、野宿も覚悟で巡礼をする。

私は第6回のポーランドのチェストコーワの大会(1991年)にも、

第8回のコロラドのデンバーの大会(1993年)にも、

第12回パリの大会(1997年)にも常に若者たちの中にいた。

2000年には第15回としてイスラエルのガリレア湖のほとりにも居た。

今年のリオが最後になるかもしれない。大きな回心の恵みを戴けたら最高だと思う。


私は、明日からポーランドのアウシュヴィッツでのコンサートに参加するためにローマを離れる。

キコのシンフォニー 「無垢な魂たちの苦しみ」 アウシュヴィッツで演奏される。

大勢のユダヤ人が参加する。その後、ルブリンでも、ハンガリーのブダペストでも行われる。

昨年5月のニューヨーク、ボストン、シカゴのツアーはブログで詳しく紹介した。

今回のポーランド、ハンガリーのツアーも紹介したいと思う。

キコが私を連れて歩くのは、

近い将来日本の広島、長崎、福島などの原爆・原発事故被災地で同じツアーを準備するためでもある。 

(終わり)

 

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