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友への手紙
ー インドの旅から ー
第16信 ローマの教皇がやってきた
(PART-1)
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その日(1964年11月12日)、ボンベイのサンタクルス飛行場は人でごった返していた。
教皇パウロ6世を乗せたアリタリアの特別機が空港に着くころには、混雑は最高潮に達し、ドイツ人のテレビ記者の中から死者を出すほどになった。聖体大会の会場までの沿道は数十万の人出を見た。アーチに次ぐアーチ、花で飾った教皇の大写真、旗、紙吹雪・・・・。
ボンベイ(ムンバイ)の国際聖体大会を主催したパウロ6世教皇
歓呼の中を会場に着くと、そこにはたった今叙階されたばかりの300人に及ぶ若い新司祭たちが、感激に胸を高鳴らせながら、「見える教会の頭(かしら)」の掩祝を待ちわびていた。
夕陽が落ちて、藍色を深くした空に無数のカラスの声がこだまするころ、若いヒンズー教徒の手になった清楚な祭壇は、聖ペトロの後継者を迎えて強烈なライトの焦点に青白く浮かび上がった。テレビカメラや無数の望遠レンズが、そして100万以上の瞳が見守る中に、意外なほど重く太い声がスピーカーから流れ出た。
きら星のようだった紫の司教団、赤いカルディナール(枢機卿)たちも、白い満月のような教皇の前には輝きをひそめ、大地に跪いて祝福を待った。ぼくはこの大群集劇をじっと見守っていた。同じ弱い人間でありながら、「神の代理人」と言う重すぎる十字架を背負わされている人を目のあたりにして、ぼくは深い感慨に沈まずにはいられなかった。しかし、期待に反して、群衆の祈りの輪から湧き上がってくるような感動を共にすることは出来なかった。
お祭り好きのインド人にとって、これは数多いお祭りの中の一つのイヴェントに過ぎないのではないか。沿道に迎えに出た者の大多数は非キリスト者(主にヒンズー教徒?)であり、ローマ教皇と言う異国のスターの姿を一目でも見たいという物見高い連中のはずである。彼らがどこからか習い覚えてきた「ヴィーヴァ―・パーパ―!」(教皇万歳!)の叫び声も、枝の主日に狂喜して主を迎えたエルサレムの市民たちのどよめき同様に、いつピラトの裁きの庭の「十字架に架けよ!」の大合唱に変わるかわからないものがある。
会場に集まった群衆の中のカトリック信者たちも、聖体に対する素朴な信仰の告白にきたはずなのだが、無意識のうちに、お祭りがそこにあるから、この機会を逃しては一生ローマ法王の顔を見られないから、あるいはまた、大会をめぐって開かれる数多くの催しのどれかに結ばれているからと言うすり替えをやっている。しかし、これだって何もインドだから特にと言うことではあるまい。およそ、人間が集まってなにかを試みようとするときは、いつもこの通りなのである。そして、この転倒の中からも大いなる善はうまれてくる。
インドには、ほとんど世界中のあらゆる宗教が雑居し、ボンベイのような大都会では、創価学会からバビロニアの密教まで、すべての出店がそろっている。だから、彼らの聖体大会に対する態度もいろいろで、寛容からか無関心まで、とにかく外国人の巡礼がやってきて沢山の外貨を落としていくのだから大いに歓迎しようではないか、と言うものもいれば、また、これはインドのキリスト教化促進の野望に燃えた布教的デモンストレーションであるとして、激しく反対する者もいた。だから、そう言う複雑な背景を思えば、大会中のボンベイの街は、非常に良く治安が保たれたと言わなければならない。
では、なぜそのようなことが・・・?
それはつまり、治安当局の多くが親カトリック的であったからだろう。彼らの多くは幼いころからカトリックミッションスクールで高い教育を受けた。彼らがかつて慈父のように慕った教師の多くは宣教師の神父たちだった。彼らが今日あるのはこの教育のたまものだった。だから、彼らが総力をかたむけてこの大会を支持したのは自然の成り行きだったのだ。おかげで、諸結社の不穏な過激分子たちは、大会の期間中を拘置所で過ごすことになった。
しかし、かく言う政府の要人は、そのほとんどが信仰的にはカトリックと何のかかわりもない人たちだ。これは、ぼくが見てきたベトナムの状況とは大いに違うところだ。多くの場合ベトナムでは信仰は学問教養と同時的に受容された。根が仏教国だったからだ。ところが、インドは学問と教養だけを身につけて、信仰は拒み続けた。それは、一つにはヴェーダ以来の固有の伝統に対する誇りから、また他方では、冠婚葬祭はもとより、食事をするから手洗いを使うまで、日常生活の一切をがんじがらめに縛り付けるヒンズー教的迷信が、宗教としてのキリスト教を固く拒んできたからであろう。だから。長い歴史を持ったインドのミッション大学での目に見える布教成績は0%である。若いインド人学徒の改宗は、同時に彼の社会生活の基盤からの完全な追放を意味しているからだ。
他方では、先にフランス占領下のベトナムにおける布教が、大きな失敗に終わったことを語った。それは、国民自らの手で転覆させられたカトリック政権と、憲兵の手で暁の銃殺刑に散ったカトリックの憂国少年の運命のうちに象徴的に語られている。これがベトナムのカトリック教会の数的増加の行きつく先だったのだ。
インドでは数は増えない。しかしその間に聖体大会をあそこまで全面的に支持させるだけの隠れた力を養って生きた。これはむしろ大きな成功だったと言わなければならない。
インドはインカ帝国のように文化的にキリスト教的西欧に征服されることなく、長かった植民地下の忍従の後にも、自分たちの伝統を守りつづけた。いち早くサリーを脱ぎ捨て、ヨーロッパの貴婦人をまねしたのは、主にゴアやボンベイのゲットー的カトリックだった。
インドの教会の歴史はこれからである。彼らは伝統を生かすことによってはじめて、教会史の奔流に合流して、その流れを大きく左右することが出来るに違いない。
日本も仏教の国として、一度はベトナム同様にキリスト教的西欧を信仰と共に全面的に受け入れようとした。あのまま進んでいたら、今頃フィリッピンのように物心両面の植民地化の花を咲き誇っていたに違いない。しかし、鎖国があった。そして一度知った真理を拒み続けた後、300年近い空白とその後に尾を引く根強い偏見とは、日本の開国後100年の布教史の後にも、やっと40万の信者を数えるにとどまった。
宣教師たちは日本の布教は難しいと言ってかこつかもしれない。しかし、ぼくは幸いにして難しいと言いたい。彼らが頭に描いているような、何処の国だか分からないような混ぜ物文化に広がられたのでは、せっかくの自然が台無しになってしまう。それでは日本の教会が、教会全体から期待されているような固有の貢献などありえなくなってします。
大切なことは、カトリック性とともに各肢体の持つ豊かな個性に目を向け、それを生かすことだろう。神様の発明の中て最も驚くべきものの一つは、バラエティー、多様性だと思う。
(ここからは PART-2 として2月6日に別途採録しました)
私は、上の一文を25歳の学生の時に書いて、カトリックの布教雑誌「聖心の使徒」に載せた。いま、81歳になってそれをブログに再録している。
1964年11月のボンベイにおける教皇ミサに直接重なって思い出されるのが、2019年11月に東京ドームでフランシスコ教皇によって挙式された教皇ミサだ。
サンタクルス空港から会場への沿道を満たした大群衆の熱狂ぶりと、水素エンジンを搭載したトヨタ製特別車のパパモビレに乗った教皇が東京ドームのフィールドに現れた瞬間に熱狂的な叫びをあげた群衆に直感的に同質の空気を感じた。それは、毎週水曜日にローマの聖ペトロ大聖堂前の広場で行われる一般謁見の群衆の姿とはどこか一味違うものだった。
飛行場から会場への沿道を満たした大群衆は確かに熱狂していた。しかし、彼らの多くはヒンズー教徒だった。東京ドームを満たした人々の多くは金を払ってでもアイドルの顔を見に行くタイプの群衆だったのではなかったか。確かに大熱狂の空気はあったが、そのエネルギーは、武道館や東京ドームで行われる他のアイドルやスターのイベントのような世俗的なお祭りの盛り上がりに共通するものであったように思う。
半世紀前のインドのボンベイでは、教会の2000年の歴史を通して初めて教皇がヨーロッパの外へ旅した点においても、またカトリックが圧倒的にマイノリティーの異教の地への教皇の旅であったことにおいても画期的だった。
この度の東京ドームの教皇ミサもカトリック信者が全人口のゼロ点数パーセントの絶対的マイノリティーの国への旅であったことは共通している。しかし、インドの場合は、アジア各国から、そしてヨーロッパからも、数多くのカトリック信者の巡礼が国際聖体大会に向けてボンベイに結集した。その中に信心深いがお転婆のスペインの王女様もいた。だから沿道の群衆とは違って、国際聖体大会の会場を埋めたのは、インド中から集まったカトリック信者に海外からの信者の巡礼を加えて、ほぼ100%カトリック信者の集いになったと思われる。その中に、日本からはホイヴェルス神父様と私の他には一般の巡礼者はほとんどいなかったのではないかと思う。
それに対し、フランシスコ教皇の東京ドームに近隣のアジア諸国からのカトリック信者の巡礼団が多数参集した気配を私は感じなかった。それだけではない、長い待ち時間があって待ちわびた頃に、ようやくフランシスコ教皇がドームのフィールドにオープンカーに立って姿を現した時のどよめきは当然だが、大きなスクリーンに映し出された教皇が、身を乗り出して人々と握手し、シークレットサービスが抱き取って差し出した赤ん坊に教皇がキスするごとにキャー!キャー!と、歓声とも絶叫とも知れぬ大合唱がドーム全体に響き渡る。
東京ドームで赤ん坊にキスするフランシスコ教皇
まるで、ビートルズやマイケルジャクソンや和製アイドルグループのパーフォーマンスに熱狂するファンのように、我を忘れて陶酔し絶叫する姿は、使徒の頭である聖ペトロの後継者、神の代理人であるローマ教皇を信仰を込めて見守る信仰者の反応にしては、あまりにも浅薄で品がないと思ったのは私だけだろうか。違和感無しには見ていられなかった。
バチカンの1万人収容のパウロ6世謁見場や、聖ペトロ広場を埋め尽くす10万、20万の巡礼者たちにも、熱い歓喜はあるが、この理性が麻痺したような狂乱はない。私は、聖教皇ヨハネパウロ2世の1981年の日本訪問の時は、ちょうどローマに居て老神学生をやっていたので、現場の雰囲気は想像で推しはかるしかないが、最終日の長崎・殉教者記念ミサ(5万7千人)のイヴェントには全く違った信仰の雰囲気があったに違いないと信じている。
ドームの群衆の中を行く教皇
東京ドームでは聖歌隊のシスターたちや制服姿の生徒たちが目立ったが、彼らは整然としていてキャー、ワーと騒ぎ立てることはなかった。私の知るカトリック信者たちは、どちらかと言えばよい意味で控えめでクールなタイプが多いように思う。むしろ、隣の人が悪乗りして叫び回ったら眉をひそめてたしなめるような人種だ。信者であると言う自負と慎みが、おのずからオーバーな表現を抑制するのだろう。
では、あの大騒ぎの熱狂はどこから来たのか。まるでアイドルの演技に興奮して気絶する若い少女のような乗りだった。オウム返しに叫ぶ「ビーバー!パーパ―!(教皇様、万歳!)」の大合唱も、聖ペトロ大聖堂の広場の毎水曜日の大群衆の中から自然に湧きあがるものとは一味違った。信仰の父に対するこみ上げる愛からではなく、クラシックの音楽会で響くブラボー!の叫びや、歌舞伎座で聞くナリコマヤー!の掛け声のように聞こえた。わたしにはそこに、意図的に演出され、誰かに煽られた人為的なものを直感した。
聞くところによれば、東京ドームの教皇ミサの現場の演出を一手に任されたのは名高い電通だったそうだ。電通は日本の大型イベントを仕切るプロ中のプロだと言うことは誰もが知っている。GO TO キャンペーンにしろ、オリンピックにしろ、裏で深く、深くかかわって、大儲けをしていることは世間の常識だろう。その電通が教皇の東京ドームでのミサを取り仕切ったのであれば、全ての疑問は消える。
私はこの一文分を書く前に、念のためユーチューブで二時間余りの教皇ミサの全てをあらためて見た。最初の15分30秒ほどは、トヨタ特製の白いオープンカーに乗り、ローマから同行した大勢のシークレットサービスに囲まれて、ドームのフィールドを縫うように蛇行しながら、集まった群衆に笑顔をばらまいた。右に左に身を乗り出して、群衆に触れ、シークレットサービスのリーダーがパパモビレを止めると、警護の一人が抱き取って差し出す赤ん坊に教皇がキスをする。そして、それが大スクリーンに映し出されるたびに、スタンドからはあのキャー!ビーバーパーパ―!キャー!という絶叫の嵐が波のように沸き上がるのだった。私がそれを数えたら、15分ほどの移動中に教皇は少なくとも20人の赤ん坊を抱き取ってキスをした。教皇は群衆の強烈な反響に気をよくしたことだろう。現場では確かにそうだった。
しかし、ユーチューブでは違っていた。最初の数秒間は会場の興奮したざわめきが聞こえたが、すぐその音源のチャンネルは絞られて、代わりに映像にかぶせて電通が用意したと思われるプロのコーラスによるミサには場違いに乗りのいい軽い音楽がパパモビレの入場ドラマの最期まで流れた。15分間ずっとあの狂乱のるつぼの騒音を聞くのは、現場にいない人にはさすがに白けて堪えられないと思ったのだろう。
いずれにしろ、入道、退堂はカトリックの典礼では、特に司教司式ミサや、ましてや教皇司式では、ミサの構成部分に含まれる。それを典礼音楽に属さない信仰の香りが感じられない乗りの歌でカバーしたことには一抹の違和感が尾を引いた。
また赤ん坊にキスする教皇 15分間に20人以上にキスした
フランシスコ教皇には生来のスター性があるように思う。テレビのカメラを意識しているときは笑顔を絶やさず、ゼスチャーたっぷりに群衆の歓呼に応え、時折トランプのように親指を立てて見せたりもする。しかし、テレビのカメラを意識していない時の彼は、疲れ切った弱々しい老人の顔をしている。
その点、聖教皇ヨハネパウロ2世は違っていた。彼はテレビカメラに一切媚(こび)を売らない。人やカメラに見られていてもいなくても、彼の顔は常に静かな魂の輝きをたたえていた。彼こそ聖人、だからこそ世界1のスーパースターだった。
聖教皇ヨハネパウロ2世
最初の15分の感動と熱狂でこの日の教皇ミサのハイライトは終わった。その後の1時間45分は、一般の会衆にとっては盛り上がりのない退屈極まりない忍従の時間となった。この1時間半こそ、心が熱くなり魂が霊的に満たされたと言う人は、5万人の観衆の中でも信仰深いカトリック信者の、しかもそのなかほんの一握りの少数者に限られたのではなかったろうか。
それは無理もない、教皇はミサの間、力無くつぶやくような小声でラテン語で祈っている。説教はスペイン語のテキストの棒読みだった。数名の信徒が朗読台から祈願を唱えたが、タガログ語、ハングル語、ベトナム語などで、意味が分かる日本語は式全体でもほんの付け足しのように見えた。ローマで観る教皇ミサでは、ポーイソプラノの清らかな合唱や、歴史と信仰に磨き抜かれたポリフォニーの合唱が豊かに花をそえるが、それに比肩できるような芸術的盛り上がりも乏しかった。日本のお坊さんが多数招かれていたが、祭壇の上で行われる所作の意味はなんのことやらさっぱり分からないまま、1時間45分を我慢されたことだろう。ドームのスタンドを埋め尽くした群衆も、最初の15分の熱狂の後はシンと静まり返っていた。
フランシスコ教皇の訪日は、実は数年前から噂に出たり消えたりしていた。当時の総理が招待したとかしないとか・・・。教会の消息通に聞いたら、当初、教会当局はかなり腰が引けていたようだ。教皇が来て、その費用を日本のカトリック教会が負担するとしたら数億を下らない。聖職者たちの老後資金を考えたら、なるべくお金は使いたくない。
お金もお金だが、それよりももっと深刻な問題は、数万の信徒を動員して恥ずかしくない盛り上がりを演出する自信が教会にはないらしいということだった。1981年の聖教皇ヨハネパウロ2世訪日の頃のカトリック教会にはまだ今よりは活力があった。しかし、公表40万人の信者のうち実際に日曜のミサに与かる者はその4分の1とも5分の1とも言われる今日この頃、タダでもウイークデー(月曜日)の昼間に5万人収容の東京ドームを信者で満杯にするのは容易なことではない。かと言って日当を払って動員をかけるほどの資力はない。まして、数億円以上の経費を分担するために一人1万円ずつ持って来いと言ったら、果たして何千人の信者がそれに応じられるだろうか。ドームはがら空きで、教皇とマスコミの手まえ大恥をかくのは目に見えていた。
そこに、この難問を奇跡的に解決する手品師のように現れたのが、日本一のイベントのプロ、「電通」と言う名の錬金術師だった。
この度のイベントの目玉商品は芸能界のありふれたスターではない。世界の宗教界のトップに立つスーパースター、フランシスコ教皇だ。イベントの成功は最初から保証されているようなもので、電通にとっての興行リスクはゼロに等しい。1億2600万の日本人の中から金を出してでも一目教皇とやらの顔を見ておきたいと言う人間を発掘するのはお手のものだ。傘下の全国の旅行代理店を動員して、「ローマ法王に会いに行こう!ツアー参加費3万5千円。先着順○○名様。」とやったら、さて何万人が集まるか。イベントの直前まで売りまくって、席が余ったら、タダ券を待ちわびているカトリック信者の中から抽選で満席になるまで入れてやればいい。必ずドームは満杯になるという仕組みだ。
旅行代理店を通じて入場券を手に入れた人はさまざまだったろう。抽選で入れる保証のない教会の正式窓口を嫌って、あえて世俗の旅行代理店にお金を払って座席を確保した信者さんたちがいたことも知っている。必要とあらばお金にものを言わせる割り切った考えの信者さんも多かったと思う。
3万5千円のチケットをプレミアムを払って買った人がいたかどうか知らない。3万円よりも安いツアーがあったと言う話も聞いた。値段と付帯サービスは旅行代理店の裁量に任されていたのだろう。そして、イベントにつきもののフランシスコグッズは、飛ぶように売り切れたそうだ。それにインターネットで高値のプレミアムがついていたという話も耳にした。そこでも電通は抜かりなく儲けたに違いない。
経費が何億円かかったか正確な数字を知る立場にはない。しかし、リーマンブラザーズにもいたことのある元国際金融マンの勘で言えば、数億円の経費を賄って、なお電通には億単位の利益があったことを疑わない。それに、普通のイベントなら出演者は契約通りガッポリとギャラを手にして行っただろう。しかし、フランシスコは芸能人ではないから、ギャラなど要求するはずがない。その分は丸々電通の追加ボーナスみたいなものだ。きっと笑いが止まらなかったに違いない。私が電通の人間なら、こんな美味しいイベントを競争入札もなしに発注してくれたカトリック教会様に、たっぷりお礼を包むことを忘れなかっただろう。
だから、東京ドームの教皇イベントは関係者一同、ウイン、ウインの大成功。めでたし、めでたし、と言うことになったはずだ。
しかし、大きな疑問が残った。教皇が東京ドームの熱気からどんな印象を受けてローマにかえったか 知らないが、教皇が去ったあと、私は東京の、また地方の、実に多くの信者さんから、教会から言われた通り事前にネットで申し込んだのに、間際まで待たされた挙句に、抽選漏れで参加できないことを知らされて実にがっかりした、悲しかった、と言う声を聞いたことだ。
幸い私は同じ方法で申し込んで抽選に当たった。司祭だから、希望通り教皇ミサの共同司式もできた。おまけに教皇の式服に染め抜かれたマークと同じデザインの祭服(ローマ製)まで記念に戴いて帰った。
しかし、その蔭で信者として正規のルートで申し込んだ者の多くが、抽選に当たらなかったと言う理由で東京ドームから閉め出されてしまった。ローマまで巡礼に行く余裕のない信者たちにとって、キリストの代理人の姿を目の当たりに見る生涯にただ一度のチャンスを奪われてしまったのだ。それは、電通がぼろ儲けをするために信者ではない一般人にも高値で座席をぎりぎりまで売りまくった結果だ。
イべントの本質は教皇司式のカトリックのミサだった。ミサは、洗礼や告白と並んで教会の7つの秘跡の中でも中心的な儀式だ。以前には毎朝ミサに与かることが勧められ、主日(日曜)のミサは今も信者の義務だ。定められた大祝日にミサに与からないことは罪とされ、懺悔(告白)することが信者に求められている。その代り、ミサが執り行われるところでは、希望する信者は常に無償で与る当然の権利があった。教皇ミサはまさにその典型だ。
教会の定めた様式に沿って事前にネットで申し込んだ全国の信者の数を教会当局は十分早くから把握していたはずだ。その人数を全員収容できる会場を用意するのは教会の責務だ。本来なら入場を希望した信者全員に優先的にもれなく席を解放するべきではなかったのか。もし座席が余ったらーそして必ず余っただろうーそれを買いたい人がいたら高値で売るのも一概に悪いとは言えないかもしれない。しかし、お金で一般に売られる席と、タダで入場を希望する信者の席の優先順序を逆にしてはいけない。それは秘跡としてのミサの本質からも、秘跡とお金の悪しき関係を断つ意味からも決して許されてはならないことだ。
しかし、そこで暗躍したのが電通に姿を宿した「お金の神さま」ーマンモンとも呼ぶー の存在だった。そこには偶像(お金)に対する教会の屈服があったのではないか。この不条理を知りながら電通と手を組んだ教会は、「まことの神」、イエス・キリストの天の父なる神様の前でそれをどう説明するのだろう。教皇の司式するミサに与かる当然の資格と権利を不条理にも奪われた信者たちの嘆き、無念の思いは天に届いている。
ローマに帰ったフランシスコがこのカラクリを知ったら、日本の教会に対する彼の考えは変わるのではないだろうか。
グラウンドスタッフをねぎらって日本を去る教皇
私は最初に、インドの空港から会場までの沿道を埋めた群衆と、東京ドームの群衆との間に同質性を直感したと書いたが、それは前者がほとんどヒンズー教徒でカトリックが少なかったように、ドームでもお金で席を買った人々が多数を占めていたためではなかったかとわたしは思う。