:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「はねてゆく小娘」 H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(3)

2022-03-29 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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はねてゆく小娘

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H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(3)

 

 

 都会の屋根の上は春の空です。朝6時、夜の雨で清らかに洗われた小路を、私は歩いてゆきました。

 向こうから一人の小娘が飛んできます。一足一足飛び上がり、ぴょんぴょんはねはねくるのです。飛び上がるごとに、髪の毛も、左右にさしのべた可愛いい手も、春風のなかに快げに、ふり動いています。ほんとに巣立ったばかりの小鳥のよう――黒い髪、明るい顔、生き生きした真顔で飛んでくるのです。

 五歩ばかりに近づいたとき、小娘は急に私を見つめました。と、子供の顔に美しい朝のほおえみが浮かびました。はねながらのご挨拶です。とても愛らしくひらひらする顔をさげて、はねながら通り過ぎました。

 私も急いでお辞儀をしてほおえみました。このお辞儀もほおえみも子供が受けとっていけるように――すると心の中に、四方山の望みが湧き出てきて、これも急いで子供の方におくるのでした。幸福に暮らしなさい! 私のこの望みを受けとって、子供は嬉しげに道を飛んでいきました。足音も、ずっと元気になって――。私も前より嬉しくなり、朝のさなかに歩んでいくのでありました。

 とびはねなさい、ほおえみなさい、小さな者よ。お前が挨拶してほおえんだことを感謝します。また私のほおえみも挨拶もいっしょに受けとってくれたのは有難いことです。お前は私を知らない、私もお前を知らないのに。また知らない人には挨拶する習慣もないのでしょう。いま私は自分が悪い人でないことがわかりました。なぜなら、お前が先に笑いかけたのですから。で、私は心の底からお前の上に望みをかけています。

 ほおえみなさい、とび上がりなさい、いつまでも。

 お父さんとお母さんを喜ばせてあげなさい。また年がたつにつれてお前の歩き方が重々しくなっても、心の喜びは減らないように。今快く髪の毛をふり上げる頭を、人生の軛(くびき)の下にかがめなければならない時、今春風の中に、あんなに自由にはばたいているその手がたくさんの退屈な仕事でいっぱいで、他人から受けとるより他人にたくさん与えねばならない時に、足もまた毎日の生活のたまらない用事のために走りまわらねばならない時でも――それもやはりしかたのないことですが――その時に、なつかしい創造主 der liebe Gott が、お前に豊かなみ光りを下さるように。それによってお前の子供の中の一人が十歳ともなれば、今朝ほどお前がしていた通り、はねたり、ほおえんだりするように!

 

 

 いかがでしたか。

 はねてゆく小娘に対するホイヴェルス神父様の愛といつくしみに溢れた一編でした。

 人生の重荷の現実をじっと受け止めながら、世代を超えてよみがえる生命の輝きを見つめるホイヴェルス神父様のやさしい観察眼を、私たちも――余裕をなくして固くなっている心をほぐして――シェアーできたらいいな、と思いました。

 

 

  

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★ 今夜午前1時に起きてみんな世界平和のために祈りましょう!

2022-03-25 17:59:31 | ★ ウクライナ戦争

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今夜午前1時に起きてみんな世界平和のために祈りましょう!

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いま、3月25日(金曜日)の夕方7時前です。今日、ローマ時間夕方5時(日本時間、今晩午前1時)に教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、ウクライナの戦争のために聖母マリアに祈りをささげます。教皇は世界中のひとびとに、ともに祈るように招いておられます。

これは、核兵器の投げ合いによって戦われる第3次世界戦争の回避のための決定的な祈りになります。私たちが、平和ボケして、今夜もいつものように惰眠をむさぼって過ごすなら、終末戦争を阻止する最期のチャンスを逃してしまうかもしれません。クリスチャンも、ノンクリスチャンも、カトリックもプロテスタントもロシア正教徒も、仏教徒も無神論者も、不可知論者も区別なく、プーチンが絶望的な蛮行として核のボタンを押す手を止めるための決定的な、もしかして最後のチャンスかもしれません。

危機感を持って、緊張して、いままで祈ったことのない人も夜中に目覚めて祈ってください。

フランシスコ教皇は私たちのために祈りのことばを準備してくれました。一つの例としてこれを使って祈ってみて下さい。

天地万物の創造主、人類をこよなく愛してくださっている天の御父なる神は、きっとこの祈りを聴きいれて下さるでしょう。そう信じて祈りましょう!

 

この戦争を予告したと考えられる秋田のマリア像

 

ロシアとウクライナをマリアの汚れなきみ心に奉献する祈り

 神の母、わたしたちの母マリアよ、この苦難の時、あなたにより頼みます。母であるあなたは、わたしたちを愛し、わたしたちのことをご存じです。わたしたちが心に抱くことは、何一つあなたに隠されていません。いつくしみ深い母よ、わたしたちはあなたの優しい計らいと、平和をもたらすあなたの存在をたびたび経験してきました。あなたはいつも、わたしたちを平和の君であるイエスのもとに導いてくださるからです。

 しかし、わたしたちは平和の道を見失いました。わたしたちは前の世紀の悲劇の教訓を忘れ、世界大戦の犠牲となった数えきれないほどの死者のことを忘れてしまいました。国際的な共同体として交わした約束を無視し、人々の平和への夢と若者たちの希望を裏切りました。わたしたちは欲望に取りつかれ、国益の中に閉じこもり、心は無関心によって渇き、利己主義によって麻痺してしまいました。神を無視し、偽りとともに生き、攻撃する心をかき立て、いのちを消し去り、武器を蓄えることを選び、隣人と共通の家を守るべき者であることを忘れてしまいました。戦争によって地球の庭を荒廃させ、わたしたちが兄弟姉妹として生きることを望まれる御父のみ心を、罪によって傷つけてしまいました。わたしたちは、自分以外のすべての人や物事に無関心になってしまいました。そして、恥ずかしながらこう叫びます。「主よ、おゆるしください!」

 聖なる母よ、悲惨な罪の中で、疲れと弱さの中で、悪と戦争という理解しがたい不条理の中で、神はわたしたちを見捨てることなく、愛のまなざしを注ぎ続け、わたしたちをゆるし、再び立ち上がらせようと望んでおられることを、あなたは思い出させてくださいます。神はあなたをわたしたちにお与えになり、あなたの汚れなきみ心を教会と人類のよりどころとしてくださいました。神の恵みによって、あなたはわたしたちとともにいて、歴史の最も厳しい曲がり角においてもわたしたちを優しく導いてくださいます。

 わたしたちはあなたにより頼み、あなたのみ心の扉をたたきます。あなたは、愛する子であるわたしたちをいつも見守り、回心へと招いてくださいます。この暗闇の時、わたしたちを救い、慰めに来てください。わたしたち一人ひとりに繰り返し語ってください。「あなたの母であるわたしが、ここにいないことがありましょうか」と。あなたは、わたしたちの心と時代のもつれを解くことがおできになります。わたしたちはあなたに信頼を寄せています。とくに試練の時、あなたはわたしたちの願いを軽んじることなく、助けに来てくださると確信しています。

 ガリラヤのカナで、あなたはイエスの執り成しを促し、イエスの最初のしるしを世界にもたらしてくださいました。婚宴の祝いが悲しみに変わった時、あなたはイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2・3)と言われました。御母よ、神にそのことばをもう一度繰り返してください。今日、わたしたちに希望のぶどう酒はなくなり、喜びは消え去り、きょうだい愛は水を差されてしまったからです。わたしたちは人間性を見失い、平和を壊してしまいました。あらゆる暴力と破壊を可能にしてしまいました。わたしたちは、あなたの母なる助けを直ちに必要としています。

母マリアよ、わたしたちの願いを聞き入れてください。
海の星であるマリアよ、戦争の嵐の中でわたしたちを難破させないでください。
新しい契約の櫃であるマリアよ、和解への計画と歩みを奮い立たせてください。
「天の大地」1であるマリアよ、神の調和を世界にもたらしてください。
憎しみを消し、復讐をしずめ、ゆるしを教えてください。
わたしたちを戦争から解放し、核の脅威から世界を守ってください。
ロザリオの元后、祈り愛することが必要であることを呼び覚ましてください。
人類家族の元后、人々にきょうだい愛の道を示してください。
平和の元后、世界に平和をお与えください。

 わたしたちの母よ、あなたの嘆きが、わたしたちの頑な心を動かしますように。あなたがわたしたちのために流した涙が、憎しみで涸れる谷に再び花を咲かせますように。武器の音が鳴りやまない中で、あなたの祈りがわたしたちを平和に向かわせますように。あなたの母なる手が、度重なる爆撃によって苦しみ、逃げまどう人々に優しく触れますように。あなたの母なる抱擁が、家と祖国を追われた人々に慰めを与えますように。あなたの苦しむみ心が、わたしたちのあわれみの心を動かし、扉を開き、傷つき見捨てられた人々のために尽くす者となりますように。

 聖なる神の母よ、あなたが十字架の下におられたとき、イエスはあなたのそばにいる弟子を見て、「御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19・26)と言われました。こうしてイエスは、わたしたち一人ひとりをあなたにゆだねられました。そして、イエスは弟子に、すなわちわたしたち一人ひとりに、「見なさい。あなたの母です」(同19・27)と言われました。御母よ、わたしたちは今、あなたをわたしたちの人生と歴史の中にお迎えしたいと願っています。今この時、疲れ果て、動揺した人類は、あなたとともに十字架の下に立っています。そして、あなたに信頼し、あなたを通してキリストに自らを奉献したいと望んでいます。愛をもってあなたを崇敬するウクライナとロシアの民は、あなたにより頼んでいます。あなたのみ心は、彼らのために、そして戦争、飢餓、不正義、貧困によって殺されたすべての人のために鼓動しています。

 神の母、わたしたちの母よ、あなたの汚れなきみ心に、わたしたち自身を、教会を、全人類を、とくにロシアとウクライナを厳かにゆだね、奉献いたします。わたしたちが信頼と愛を込めて唱えるこの祈りを聞き入れてください。戦争を終わらせ、世界に平和をもたらしてください。あなたのみ心からあふれ出た「はい」ということばは、歴史の扉を平和の君に開きました。あなたのみ心を通して、再び平和が訪れると信じています。あなたに全人類の未来と、人々の必要と期待、世界の苦悩と希望を奉献いたします。

 あなたを通して、神のいつくしみが地上に注がれ、平和の穏やかな鼓動がわたしたちの 日常に再び響きますように。「はい」と答えたおとめよ、聖霊はあなたの上にくだりました。わたしたちの間に神の調和を再びもたらしてください。「ほとばしる希望の泉」であるマリアよ、渇いたわたしたちの心を潤してください。人類をイエスに織り込んだマリアよ、わたしたちを、交わりを作り出す者としてください。わたしたちの道を歩まれたマリアよ、平和の道へと導いてください。アーメン。

わたしも今夜、午前1時に目覚めて祈るつもりです。皆さんもこの祈りに加わって下さい。お願いします。

日本に来たフランシスコ教皇(東京ドームにて)

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【速報】ついにフランシスコ教皇が動いた =私のウクライナと懐かしのキエフ -(2)=

2022-03-23 00:38:10 | ★ ウクライナ戦争

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【速報】ついにフランシスコ教皇が動いた

私のウクライナと懐かしのキエフ -(2)

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 教皇フランシスコは、3月25日(金)にロシアとウクライナを聖母マリアの穢れなき聖心に奉献するに際して、全世界の司教らを自分と一致するように招いた。

 先日15日に発表されたように、教皇は、イタリア時間3月25日17時(日本時間3月26日午前1時)より、バチカンの聖ペトロ大聖堂で執り行われる共同回心式の中で、ロシアとウクライナを聖母マリアの穢れなき御心に奉献する。

 同日、教皇のバチカンでの儀式にあわせ、ポルトガルの聖母巡礼地ファチマにおいても、教皇特使、コンラート・クライエフスキ枢機卿によって、聖母の穢れ鳴き御心への封建が執り行われる。(バチカンニュースより)

 

  

 

 わたしが「私のウクライナと懐かしのキエフ -(1)」で書いた通り、第1次世界大戦、第2次世界大戦、冷戦時代、そして今回のロシアによるウクライナ侵略とそこから派生する恐れのある第3次世界大戦(核戦争による世界の終末戦争)に関して、ポルトガルのファチマの3人の幼い牧童に託されたメッセージの中に、このロシアの奉献と回心への招きが含まれていた。しかし、この招きは米ソの冷戦下では刺激的すぎるとして、実行を先送りされてきた経緯があった。

 いま、ロシアのウクライナ侵略が現実のものとなった緊迫した時期に、ファチマのマリアの招きが急遽実行に移されることになった。全世会の司教たちが、それぞれの国の時間帯でイタリアの25日17時に合わせて行われるか、前後の日中に行われるかは別として、同じ奉献の儀式を10億の信徒と心を一つにしておこない、祈りを一つにしてロシアとウクライナを聖母の御心に奉献することになれば、それはそれなりのインパクトがあると期待したい。

 日本の16人の司教たちも、教皇の招きを断ることなく、全信徒に呼びかけて衆知をはかり、真剣にロシアとウクライナの聖母マリアへの奉献の儀式を執り行うものと信じたい。

 わたし的には、穏当な表現を選んだ厳かな奉献ではなく、はっきりと巨悪プーチンを名指しして、彼の回心のために祈るような式であってくれたらと思うが、カトリック教会というものは、角の取れたオブラートに包んだような表現に終始するのが精一杯ではないかと思われる。

25日後に、実際にどう展開したか、さらにフォローします。

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★ 私のウクライナ と 懐かしのキエフ

2022-03-18 00:00:01 | ★ ウクライナ戦争

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私の ウクライナ と 懐かしの キエフ

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ゼレンスキー大統領

 1980年のある日、アエロフロートのロゴのある分厚い封筒がポストに入っていた。???! 全く思い当らない。だが、不審に思いながらも封を切って目を通すうち、どうやらモスクワ旅行に招待されているらしいことが見えてきた。

 どうして私が選ばれた?という疑問はさておき、――そこは若さと好奇心――試しに招待受諾の返事を出してみたら、瓢箪から駒、本当に行けることになった。なぜか?

 当時――今もだが――北方領土問題が未解決のため、いつまでも日ソ平和友好条約が締結されない。だが、そのままでは万事ぎくしゃくして双方に不利益が多い。そこで、少しでも風通しを良くしようと、民間交流を装った「日ソ円卓会議」なるものの第一回が、すでに前年に東京のホテルニューオータニで開かれていたことは、あとで知った。相手側はソ連の政府機関があからさまに露出している。対する日本側は、あくまでも民間の建前を堅持しながら、実態は政・財界、文化、芸術、報道、学術、スポーツなど、オールジャパンのあらゆる種類の人間が、美味しい汁を吸いたくて群がっていた。

日ソ円卓会議モスクワ会場コスモスホテル 1980年にモスクワオリンピックのために建てられた 

 モスクワ開催の「第2回円卓会議」からは文化部門に「宗教交流」という分科会が加えられた。ソ連側からはロシア正教会がドンと前面にでてくるのだが、日本からは伝統仏教の各宗派をはじめ、神道、プロテスタント各派、各種新宗教が軒なみ名を連ねていた。

 それなのに、カトリックの名がない。多分、日本の司教団とモスクワが切れていて、アメリカに亡命中のロシア正教と繋がっていたからではないかと勘ぐった。カトリックは日本でこそマイナーな存在だが、グローバルには世界最大の宗教だから、分科会に日本のカトリック代表が不参加では、臥竜点睛を欠くことになるらしい。

 そこで、モスクワの組織委員会はNCC(日本キリスト教協議会)と相談して、誰でもいいから適当なカトリック信者を推薦しろと言うことになったのではないか。そして、ベトナム反戦運動以来、NCCと仲良くしていた私に目をつけて一本釣りしたと言うのが大体のストーリーだろう。

 では、どこで私とウクライナ、キエフが繋がるのか。

 恥ずかしげもなく、日本のカトリック教会の正式代表の肩書を頂戴した私は、第2回から第6回まで、モスクワ・東京で交互に開催される会議の全てに出席した。堂々とロシアのテレビのインタビューにも応じた。

 日本側の団長は自民党の桜内幹事長という禿げ頭のおじさんだった。それが社会党の河上民雄国際局長(河上丈太郎社会党委員長の息子)と手を組んでいるのだからまさに呉越同舟だ。加えて、私が日本のカトリック教会の正式代表として混ざっているのだから、もうメチャクチャもいいところだった。

 モスクワ会議の後には、必ず何コースかのオプションツアーのご招待があった。第2回の時は《赤い矢》の夜行特急でレニングラードに行くコースをわたしは選んだ。そして、トレチャコフ美術館をはじめ、主なところを全部みせてもらった。第4回は近場のザゴルスクに、6回目はウクライナの首都キエフとグルジア共和国の首都トビリシへの旅という豪華版を選んだ。

 飛行場でキエフ行きに乗るときからソ連ならではの光景にぶつかった。このオプションツアーの御一行様は、搭乗を待つモスクワ市民を有無を言わせず押しのけて機内に案内され、割りを喰らって乗り損ねた乗客を尻目に、飛行機は悠々と離陸したのだった。

 ヨーロッパ最大の穀倉地帯を遠く見遥かしながらキエフの空港に降り立つと、まずロシア正教の主教さまにご挨拶に行くことになった。黒い僧服に独特の頭巾をかぶった主教様は宮殿さながらの主教館の執務室で威厳を漂わせて我々を歓迎した。そして、最後に「ひと休みなさったら、今夜はキエフのオペラ座でまたお会いしましょう」と言われた。

キエフと全ウクライナの現在の府主教さま。 私が40年前に会った人のと頭巾が違うような気がする。 確か黒ではなかっただろうか? それとも私がお会いしたかたは身分が微妙に違ったのか?

 5つ星のホテルでひと息入れて、めかし込んでオペラ座に着くと、美しい夫人と凛々しい息子たちを引き連れた背広の紳士が、にこやかに「ゆっくりお休みになれましたか」と言いながら、これが妻の○○です、こちらが息子たち・・・と紹介し始めた。私は一瞬キツネにつままれた思いがしたが、よくよく見ると、その紳士は先ほど宮殿で会ったばかりのキエフの主教様その人ではないか。

 だが待てよ?カトリックの聖職者はみな独身でなければならないが、ロシア正教では司祭に叙階される前に、結婚するか、生涯独身を通すか、自由に選択することが出来ると聞いていた。ただし、結婚の道を選んだ司祭には、主教、大主教などの高位聖職者になる道が閉ざされる建前ではなかったか?この夜のことは、今もって謎として私の胸に残っている。

 オペラの出し物はいま思い出さない。だが、ウクライナの古都の佇まいは、歴史と文化の結晶そのものという印象と共に、私の心に刻まれた。平和だった。そして豊かでもあった。

 そのウクライナがいま戦場と化し、美しいキエフの街の破壊が目前に迫っていると言う事実は、絶対に受け入れられない不条理だ。

 かつての夜、わたしが父に手を引かれて外に飛び出した時には、住んでいた仙台の警察部長官舎にはもう火の手がまわっていた。この日に備えて官舎の裏手に公費で掘られた巨大な防火用水池など、肝心の時には何の役にも立たなかった。

 アメリカのB29の大編隊は、地上の炎を翼に反射しながら、先ず悠々と市の周辺部をひと回り焼夷弾で焼き払い、さらに市の中心部にご丁寧にも十文字に焼夷弾の雨を浴びせながら飛び去っていった。市民の大量死を承知の上で、都市をまるごと焼き尽くす無慈悲な絨毯爆撃の凄さが子供心に焼き付いた。広島、長崎はただその延長線上のジェノサイドすぎなかったのではないか。日本を無条件降伏に追い込むために必要・有効な作戦だった、とアメリカ人が言うなら、プーチンが同じ論理でウクライナに核兵器を使ったとしても、バイデンに、そしてアメリカ人に、それを非難する資格があるだろうか。アメリカ人もプーチンもやることは同じだ。相手が降伏するまで際限なく殺人と破壊行為をエスカレートし続けるのだ。

 それがいま77年後にまさにウクライナで再び現実のものとなりつつある。

 世界は、核による第三次世界大戦の破局を恐れるあまり、ウクライナを生贄(いけにえ)として差し出し、歴史を誇る美しいキエフの街を廃墟にすることに手を貸すというのか。それは、共犯でしかない。

 プーチンは今やヒットラーと同じ手負いの獅子だ。彼にはもう失うものがない。核のボタンを押すことに何の躊躇があるだろうか。自殺志願者が、どうせ死ぬなら、いっそのこと一人でも多く道連れに、と満席の旅客機で墜落自殺を遂げる狂気だってあり得る。プーチンにとって、核のボタンを押した結果、核戦争の第3次世界大戦になって人類が滅亡したからと言って、どうせ死んで無になる彼の身にとっては同じこと。地獄などありはしないし、と思うのだろうか。

 しかし、待った!後述するファチマの予言では、聖母マリアは戦争の話のついでに地獄の実在を牧童ルチアにはっきりと幻視で示している。そして、プーチンの狂気を止めるために持てる影響力を行使しなかった者も同罪で、彼らを地獄が口をあけて待ち受けているだろう。その咎めはバイデンにも、G7のメンバーにもローマ教皇フランシスコにも、自分の小さな持ち分で責任を果たさなかった世界中のすべての小市民たちにも、致死量の放射線の形で平等に覆いかぶさってくるという地獄が待ち受けているのだ。

 わたしの敬愛するホイヴェルス師は、神父になる前にドイツ陸軍の衛生兵として志願し、戦場に立たれた。人を殺さない主義のぎりぎりの参戦だった。いま、ウクライナには、私たちが高松に誘致した「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の姉妹校が3つある。そこの神学生たちも、総出で市民の避難を助け、ロケット弾の被爆者の救援に命を懸けている。 

 ウクライナのチェルノブイリは人災事故だった。福島の第1原発暴発も津波によるただの天災として片付けられない。原発をめぐる危険な火遊びは絶対に許されない。偶発的不測の事態を招くリスクが高すぎる。プーチンによるウクライナの原発への攻撃は、日本に対する大きな警告となっている。

 ある日、ロシアと、北朝鮮と、中国と、あるいは、考えたくないがアメリカとの関係が険悪化したとき、日本の津々浦々にある原発は、一転して全ての日本人に対する一大脅威と化すことになる。訓練を積んだ特殊工作兵士の5人もいれば、夜陰に紛れてゴムボートで潜入し、敦賀原発を次々と暴発させて、日本列島を高放射能レベルの無人の荒野に変えることが簡単に出来るのだ。北朝鮮の大陸間弾道核爆弾のような大げさなものは必要ない。

 島国日本は周囲を海で護られている反面、攻撃する側からすれば原発を破壊して日本を人の住めない島にしても、海のおかげで致命的影響は自分たち中国にも朝鮮半島にも、ロシアにも直ちに跳ね返ってくる心配はない。だから、海の存在はかえって日本に核攻撃を仕掛ける誘因にさえなるだろう。

 第2次世界大戦の時のアメリカには、まだ古都京都、奈良への無差別爆撃を控えるだけの余裕と良心のかけらが残っていたが、手負いのプーチンにはそのような自制心を期待することはできない。美しい古都キエフもトビリシもどこも同じことだ。

 話を日ソ円卓会議に戻そう。参加してみて、日本の代表団には身内の親近感のようなものを感じた。それは、日本の代表団の取りまとめをしている人たちに社会党系のクリスチャンが多かったからではなかったか。そもそも社会党の初代党首片山哲からしてクリスチャンだった。代表団のリーダー格の河上民雄社会党国際局長もその父親の丈太郎社会党委員長も世に知られたクリスチャンだった。当時の委員長の土居たか子(通称おたかさん)も隠してはいたが知る人ぞ知るクリスチャンだった。私は議員会館のおたかさんや河上民雄の部屋にも出入りしたことがあって、お二人の秘書嬢たちとはそこそこ親しい面識のある関係だった。彼女たちもみな円卓会議に連なっていた。

 だから、当時の社会党にはキリスト教精神の香りがそこはかとなく漂っていた。円卓会議では積極的役割を担っていたが、ソ連が崩壊したのと軌を一にして凋落していったことから後付けで考えると、政治資金が流れていたかどうかは別にして、ソ連と当時の日本の社会党は深く繋がっていたのではないかと複雑な気分で思いかえす。

 そこへ行くと、日本のカトリック教会は政治の世界では全く腰が引けている。どっちみち、戦中も戦後も常に軍部や保守政権の顔色を窺って生き延びてきた宗教だ。日本だけではない。第2次世界大戦中、独立国バチカンの領土である聖ペトロ広場でユダヤ人がナチスのSSに連行されても、ピオ12世教皇は見て見ぬふりをした。

 アウシュビッツの実情をどの国の諜報機関よりも詳しく知る立場にあった教皇が、世界の信者に向かってヒットラーの蛮行を名指しで糾弾しなかったことによって、600万とも800万とも言われるユダヤ人がホロコーストの犠牲者として見殺しにされた。

 その点、ポーランド人の聖教皇ヨハネパウロ2世がソ連の崩壊に決定的役割を果たしたことは特筆に値する。それに比して、今のフランシスコ教皇はウクライナのことでロシアに有効な働きかけをしているとはまだ言えない。

 先にちょっと触れたが、世にファチマの予言というのがある。ポルトガルの片田舎の3人の牧童に聖母マリア様が現われ、俗にいう「三つの予言」を託したと言われるが、その内容は戦争の終結、新しい戦争の始まり、教皇の暗殺に加え、ソ連の崩壊や、ロシアの回心のために祈ることの必要性などが含まれていたようだ。果たしてその予言は的中したのだろうか。

 先ず戦争の終結。ファチマの聖母の出現は第1次世界大戦のさ中の1917年5月23日だったが、予言通り戦争は翌年1918年に終結した。予言された新しい戦争、つまり、第2次世界大戦は1939年に始まって、1945年に終わったが、引き続き東西冷戦の時代に移行し、無神論的唯物論を国是とする独裁政権下のソ連(ロシア)の存在は自由主義世界の脅威となっていた。ファチマの聖母がロシアの回心のために祈れと言われて久しく、ポーランド人の教皇ヨハネパウロ2世が誕生した。

 1979年、同教皇はソ連の衛星国として圧政に喘いでいた祖国ポーランドを初めて訪問し、連帯労組のワレサ議長を励まし、アメリカからの活動資金をバチカン銀行を介してワレサに届け、民主化を積極的に支援した。

 1981年、ソ連は最大の脅威である皇ヨハネパウロ2世を排除するために、プロの暗殺者を差し向け、バチカンの聖ペトロ広場で一般謁見の最中に至近距離から教皇の腹部に2発の銃弾をあびせて暗殺を実行した。それは5月13日でファチマに聖母の祝日のことだった。失敗することは絶対にあり得ないプロの暗殺者によって、絶対確実な致命傷を負わされたにもかかわらず、教皇は死を免れた。それは神様の介入による正真正銘の奇跡と言うほかはない。そしてこの奇跡を境に世界情勢は急展開を遂げる。

 1983年6月、教皇ヨハネパウロ2世の第2回目ポーランド訪問。

 1984年10月19日、連帯と関係のあったポピエウシュコ神父が秘密警察によって殺害された。

 1987年6月16―23日、教皇ヨハネパウロ2世3回目のポーランド訪問。

 1989年6月18日、ついにポーランドに非共産党政府生まれ、やがて駐留していたソ連軍は撤退した。

 1989年11月9日、ベルリンの壁の崩壊。東西ドイツの統一。

 1991年12月25日、ソ連の崩壊を受けて、ロシアの誕生とともに、ウクライナを含むすべての連邦構成共和国が主権国家として独立。ここまでファチマの予言通りに歴史は展開した。

 戦後、秋田の湯沢台には、3人の姉妹たちによって聖体奉仕会という女子修道会がつくられた。そこに後から加わった笹川シスターに聖母マリア様が出現し、現代の世相を憂い、人々が回心しなければ人類に恐ろしい災厄が下ると警告された。

 それを時代錯誤の迷信と笑って片付けるのは簡単だが、極めて真面目な話だったので、かいつまんで紹介しよう。

   

クリスチャンではない日本人の仏師に彫られた十字架を背負った珍しい形の秋田の聖母像

 重度の障害者手帳を持った聾者のシスター笹川は聖母像の方向から、えも言われぬ美しい声のお告げを聞いた。一度目の1973年7月6日には、修道女への同情と耳の不自由の治癒の予告が、二度目の8月3日には、人類への警告と勧めが告げられた。具体的には、世の多くの罪人や忘恩者が神を悲しませているので、彼らに代わって苦しみ、貧しさを捧げて償う霊魂を聖母は求めているというもの。また神の怒りを知らせる為に、人類の上に大いなる罰が下されようとしているが、祈りや犠牲的行為を通じて改心して祈ることによって、主の怒りを和らげ罰を遠ざけることができる、という趣旨であった。

  1973年10月13日には、「もし人類が悔い改めないなら、御父は全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。その時御父は大洪水よりも重い、今までにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。」という三度目の聖母からのお告げがあった。そして、この一連のお告げのあいだ、湯沢台の修道院の木彫りのマリア像は101回にわたって涙を流した。秋田大学の法医学部は、その涙が人間の体液であることを確認している。

 また、修道女は天使を何度も目撃し、6月29日には天使は彼女にロザリオの祈りの区切り目に、ファチマの祈りを付け加えるようにと指導した。この祈りは、聖母が1917年にファチマで3人牧童たちに教えたものだった。

 ここに、ファチマの聖母の予言と秋田の聖母のお告げとの連続性がみられる。これについては、秋田の故伊藤司教とベネディクト16世教皇を除けば、日本の司教たちは冷ややかな無視の姿勢を保っているが、海外からはファチマ同様に巡礼が集まっている。

 わたしは、湯沢台の修道院の三人の創立者もシスター笹川も個人的によく知っていたし、聖母の涙の不思議な出来事の目撃者の一人でもある。ちなみに、シスター笹川は奇跡的聴覚治癒の後、秋田の保健所に障害者手帳を返納している。そして、その時以来わたしは彼女と長距離電話で話せるようになった。

 ファチマの予言に含まれるロシアの回心のための祈りの勧めと、秋田の聖母の「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう」は結びついて、今のロシアのウクライナへの侵略と、核爆弾投下の可能性を示唆しているものとわたしは考えている。

 その可能性が現実とならないために、世界の10憶のカトリック信者は、自分たちの罪を悔い改め、ウクライナでのロシアの残虐行為を終わらせるために真剣に祈らなければならない。フランシスコ教皇はバチカンから全世界のキリスト者に向かって、ロシアと旧ソ連邦諸国における戦争、第三次世界核大戦回避と平和のために祈るよう求めなければならない。そして、日本の司教たちはそれぞれの教区の信者たちにプーチンの回心と侵略戦争の即時終結のために教会に集まって一緒に祈るよう指導しなければならない。コロナを恐れて信者が教会に集まるのを禁止している場合ではないのだ。

 みんなが回心して平和のために結集して祈るなら、その祈りは必ず神に届き、世界の破滅を伴う第3次世界大戦の終末的核戦争は回避されると私は信じる。

プーチンは神を畏れないのか

 しかし、世界のキリスト者の無関心の結果、もしウクライナがロシアに併呑されれば、次はバルト三国やジョージアが同じ運命を辿ることになるし、そうなれば、終末論的核戦争も現実のものとなるだろう。だからどうしても今止めるしかないのだ。

 教皇フランシスコは、また世界の司教たちは、何故声をあげないのか?日本の司教たちも何もしないで手をこまねいているつもりか。たとえそうであっても、心ある信者は自発的に集って祈らなければならない。

 わたしは、黒海とカスピ海を繋ぐコーカサス山脈の雄大な自然に抱かれたジョージアの首都トビリシの街を懐かしく想い出す。とくに、民族衣装に身を包んだ美しい乙女たちの、タンバリンを手に優雅に踊る夢のような姿を決して忘れることができない。ロシアの圧政に何世紀にもわたって苦しめられながらも、たくましく生きてきた彼女たちの伝統と平和が時代錯誤な侵略戦争によって破壊されないことをわたしは心から祈る。

グルジア共和国の美しい古都トビリシはこのコーカサス山脈の麓にある

 教皇ヨハネパウロ2世の暗殺事件については、私のブログのカテゴリー「教皇暗殺事件」(10編)―2011年2月3日~6月6日―に詳しく書いているのでぜひご参照下さい。

 尚、「日ソ円卓会議」の頃はまだ私のブログが始まっていなかったので、残念ながら記録がありません。

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★ 「母の愛馬」 ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(2)

2022-03-13 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

「母の愛馬」

H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(2)

 私の手元にユニヴァーサル文庫の「時間の流れに」という一冊がある。H・ホイヴェルス著、戸川敬一編で「ときのながれに」と読む。ネットの古書マーケットでも恐らくもう手に入るまい。

 初版の出た昭和34(1959)年4月20日は、私の20歳の年で、ホイヴェルス師からサイン入りで頂いたものはもうないが、その後買った第6版(昭和42年)定価200円のものが手元にある

 さり気ない文章だが、その味わいは尽きない。今の世の人に、こんな本があることを知ってもらいたい思いで、前回の「光りの園」に続いて、これから逐次、ブログに転載することにした。

 

H・ホイヴェルス神父 四谷のイグナチオ教会で 写真は私が撮影

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母 の 愛 馬

~~~~~~

 まだ石油ランプの時代でした。冬の夜暖かい部屋で兄と私がギリシャやローマの古典の勉強を一通り終えた頃、母は妹たちをつれてその部屋へはいって来て、母の幼い頃の話をよく聞かせてくれたものでした。私たちはそれを聴くのが大好きでした。母が可愛がっていた馬ハンスについての話もそうした折に聞いたのです。

 でも、その前にちょっと私の母をご紹介しておきましょう。そうすれば、このお話もずっとわかりやすいでしょうから。母の里は生粋のウエストファリア地方の農家でした。母は一番年下で、姉が四人、兄が三人いました。名前はヨゼフィナといいましたが、家では兄たちから、いつまでたっても「フィーンケン」、つまり小さなヨゼフィンとよばれていました。末っ子だったからです。

 では、思い出すままに、そのとき聞いたお話を母が語ってくれた通りにしてみましょう。

✕     ✕     ✕

『・・・・・兄さんたちがとても自慢していたのは、家の馬でした。何びきかの中に「王さま」というあだ名の元気のいい馬がいました。ハンス――これがその馬の本当の名ですが、このハンスは私によくなついていました。

 その頃私は十才位でしたろうね。午前中は学校へ行き、午後はお天気が良ければ忠犬カロをつれて牛の群を番するのが私の日課となっていました。牧場を歩いて、そう、二十分位のところにあって、まわりは畑や森でぐるりと囲まれていました。兄さんたちはその間、馬と一緒に畑の仕事をしておりました。けれどもハンスは退屈な畑の仕事が大嫌いでした。まあそれほどきかんぼうの馬だったのです。

 ある日のこと、私が牛の群れを追って帰って来ますと、遠くの方で兄さんが、「ハンス!ハンス!」と声高く叫んでいるではありませんか。ひづめの音が高くひびいています。私は、まあ、なんて不注意な兄さんたちでしょう。あの馬が兄さんたちのいる中にあばれて入ったのでしょうか。だれかがひづめにかかってけがでもしたら大変です。それに馬がいきり立って道の方につっ走ったらほかの人たちをふみ倒すかもしれないのに、と心配でなりません。

 私は大急ぎで、カロと一緒に家の方へ牛を追って行きました。囲の門のところまで来ますと、牛がどうしても中にはいろうとしません。それもそのはずです。囲いの中ではあばれ馬のハンスがひっきりなしに早駈けでかけまわっています。手綱も馬具もつけていません。はだか馬のハンスです。見ていても勇ましく痛快な光景です。馬の目はらんらんとかがやき耳はうしろにぴったりとくっつけています。これは何か悪いことを考えているしるしです。たてがみは大波のようにゆれています。

 しかし、しっぽは――ハンスのように立派なしっぽをもっている馬はほかに一度も見たことはありません――そのしっぽが旗のようにまっすぐなびいて進んでいくのです。まあすばらしい馬だこと、と私は大喜びでした。でも、お母さんはそうではありませんでした。心配そうに、はらはらしながら北側の門のところに立って、幾度も「ハンス!ハンス!」と呼んでいました。

 けれどもハンスは一向に耳を立てようとはしません。相変わらずうしろ側に耳をくっつけたまま、ひづめの音も高く、土をけたてて、ぐるぐる駆け廻っています。兄さんたちがやっとそこへ駆けつけて来ました。馬のはみを持って中へとびこもうとしました。お母さんははげしくそれを止めさせました。

 その時私はこう考えたのです。ハンスは私ならよく知っている、私がハンスを止めてみよう、そう思いました。私は少しも恐れずひらりと柵を乗りこえて中庭の真ん中にかけてゆきました。ハンスはすさまじい勢いで走り廻っています。兄さんたちは「フィーンケン!フィーンケン!」と叫びました。でも叫ぶだけがせい一杯で何もすることができません。そこで私は大きな声を出して「ハンス!ハンス!こっちへおいで」と呼びよせました。

ハンスは耳をぴんと立てました。早がけはだく足に変りました。私はこれなら大丈夫、うまく止められると思いました。もう一度「ハンスどう!どう!」と呼びかけました。そして横側から馬に向かっていき、その旗のようなしっぽのはしっこをつかまえました。するとハンスは別にさからいません。私が馬といっしょに五、六歩あるきますと、やっとハンスは止まりました。もう動きませんでしたが、今まであんなに早く駈けていたので息苦しいのでしょう、おおきな体をふるわせていました。「ハンスよ!ハンスよ!」と私はなだめながら、恐がらずにその首の方に近よりました。手を上にのばすと、馬は首を下げて私の手をかぎました。あいにくのことにパンがありません。

 「パンをください、パンを!」と私は兄さんたちの方に向かって叫びました。すぐ持ってきてくれました。私がそれをハンスにやりました。パンを口の中へ入れると馬は私の前でおじぎをして、ほんとに小羊のようにおとなしくなりました。もう耳をうしろにつけたりせずに、ちゃんと手綱をつけさせました。一番上の兄が私をだいて馬にのせてくれました。私はうれしくてたまらずにこにこしなたら北側の門をぬけ家の中まで乗っていきました。

 ハンスはその後も二、三度こんないたずらをやりました。そのときにはいつも兄さんたちが「フィーンケン!フィーンケン!」と私を呼びました。いつも私はすぐハンスの所へ飛んでいって「ハンス!ハンス!といいながら、しっぽをつかまえました。すると馬はすぐに止まってしまうのでした・・・・」

 母はお話のおしまいに

『この私の好きなハンスはもういません。ですから世の中がなにかさびしくなってしまいましたね。』といいました。

わたしがドライエルヴァルデの生家に師を訊ねたとき撮ったフイルム写真で唯一残っているのがこの一枚。農機具と収穫物を納める大きな倉庫前の広場で戯れる姪子さんの子供たち(1964年当時)。まるで幼年期のホイヴェルス師とそのお兄さんの時代にタイムスリップしたような景色だ。

 

 いかがでしたか。

 わたしは、月並みな言葉でこの美しい水彩画のような小品を汚すことを恐れて、コメントしたくない。これだけ無駄も隙も無い日本語を書ける人は、日本人の間でもすくないとおもう。

  なお、敢えて一言だけ申し述べたい。それは、このような素敵なお母さんに育てられたからこそ、ホイヴェルス神父様のような偉大な宣教師が生まれたのだと言うことだ。

 どうか、ホイヴェルス師のふるさと、ウエストファーレンの農民の伸びやかな魂と語りあっていただきたい。

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 世界の穀倉、ウクライナの平和がいま蹂躙されている。ホイヴェルス師は第一次世界大戦の時、28歳の若さでドイツ陸軍野戦病院の看護兵に志願して前線に立たれた。武器こそ手にされなかったが、じっとしてはいられなかったのだろう。戦後の平和の中で、私には戦争について多くを語られることはなかったが・・・。

 ヒットラーの再来を思わせる狂人プーチンの手を止めさせることは、誰にもーー神様にもーー出来ないのだろうか?

 

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★ 「光の園」 ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」よりー(1)

2022-03-06 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

「光りの園」

「光りの園」の背景に具体的な「Xの園」がモデルとしてあったのかどうか、生前にホイヴェルス神父様にお訊ねしそびれてしまった。今となっては確かめようがない。

 師は生涯東京の四谷、麹町界隈の外にはお住いにならなかったが、旅行としては全国各地にかなり広く足跡を残されている。そして、一緒に行こうよく私を旅に誘われた。丹後の宮津に古いお友達の老宣教師を訊ねる時も一緒で、ついでに天の橋立では二人並んで股のぞきもした。京都の安泰寺には師を澤木興道老師にお引き合わせしにご一緒した。日本に来て四十年ぶりかに故郷ウエストファーレンのドライエルヴァルデ村のご生家に戻られた時などは、姪子さんのタンテ・アンナの手料理を、師の少年時代の勉強部屋のテーブルで二人でいただいた。初めての海外旅行インドの旅は、中でも特別な思い出として私の心に焼き付いている。

 

信州上田の澤木老師の参禅会 くつろいだ縁側のひと時 ホイヴェルス師の右が筆者

 そんなホイヴェルス神父様だから、野のお地蔵さんや、田舎のお寺や、動物たちのことなどは、詩人の感性で、ユーモアをこめて、細かく描かれるのが常だった。師の観察描写と、日本に来てからおぼえられた師の繊細な書き言葉づかいの見事さに注意をはらいながら読みましょう。

 

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「光りの園」

= ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より ー(1)

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 丸いお顔のお地蔵様は、石の台にじっと立ったままでいます。それはある夏の「光りの園」の森の中のことです。お地蔵様のおつむの上の方。松の梢で蝉が勢いよく音楽を奏でています。鍛冶屋が鉄をきたえるように、ガチャガチャ騒ぎ立てるものもあれば、大工さんが家を建てる時のような音を立てて泣くのもあります。独奏者のように透きとおったいい音色で上手にヴァイオリンを弾くのもあり、角笛のような悲し気な震え声で鳴くのもあります。それは、世界の終わりを告げるかと思われるほど憂鬱なメロディーです。ひぐらしが鳴いているのです。そのメロディーは森の木々がおののき震えるほど悲しそうに聞こえます。それでもお地蔵様はじっと立ったまま、暑い夏の陽と快い森の音楽に包まれて、いかにもご機嫌です。

 時々、別の音がお地蔵様のお耳にはいります。それは、ガアガア鳴く家鴨の鳴き声や、メエメエ鳴く山羊の声や、それから親犬を取り巻いて、小さいけれどかん高い声でクンクン鳴く五匹の小犬のかわいらし声です。五匹の小犬がクンクン鳴くと、お地蔵様は、さも嬉しそうに耳をそばだてて聞きます。

「きっと親犬は子犬たちをわたしの所へ連れて来るに違いない。小犬たちは、頭をピョンピョンと下げて、お辞儀をするだろう。そうしたら、私は喜んで、まんまるい月さまのような顔で小犬たちにほほえんでやろう。」

 そして、お地蔵様は精いっぱい横目を使って、小犬たちを見るのです。親犬は、小犬たちを引き連れて森の小道をやって来ないであろうかと。

 その間、お地蔵様は辛抱して待っていなければなりません。そして、ちょっと不機嫌な気持ちで、どんなふうに家鴨や山羊が子供たちを育てるかを考えてみます。この春ごろ、家鴨の雛が卵からかえったとき、それは本当に柔らかな産毛に包まれて、とてもかわいい小さなものでした。家鴨の親はきっと雛を連れて、お地蔵様にご挨拶をさせに来るだろうと待っていましたが、家鴨は一度もそんなことをしませんでした。家鴨は朝から晩までガアガア鳴きたて、雛は声を合わせてピヨピヨ鳴いていましたが、今ではもう母さん家鴨のようにガアガア鳴くことをおぼえたのもあります。それで、お地蔵様はもう自分の所には来ないものとあきらめてしまいました。

 その後、子山羊が五、六匹生まれました。恐らく山羊の親たちは家鴨よりも礼儀を知っているだろうと、お地蔵様は思いました。山羊はかわいいものだから、どんなに悪戯をしても、私の頭に這い上がっても、何とも言わずにさせておこうと思いました。けれども子山羊は一匹もやってきません。ところが、お父さん山羊は、子山羊たちがお地蔵様の所へ行かないのをたいへんすまないと思っていました。ですから憤慨して、いつも厳しくメエメエ鳴くのでした。けれども、彼の威厳などは「光りの園」ではたいしたものではありません。仕方なくお父さん山羊は、小山羊たちの責任を一人で負って、小山羊の不信心を償おうと思いました。それで、山羊は一日中お地蔵様のまわりの笹を食べては、笹がお地蔵様のまわりのお邪魔になるほど伸びないように注意しているのでしょた。夕方になって仕事が終わると、お父さん山羊は、うやうやしくお地蔵様の前にぬかずき、挨拶をすませると、お地蔵様の足下に横になって眠ります。お地蔵様は「まあ、いい」と思いますが、でも年とった山羊より、あのかわいい五匹の小犬と小山羊がきてくれればよいのに、といつも考えるのでした。

 日に三回ずつ、親犬はお地蔵様の側を通り森の小道を抜けて、人家の方へ行きます。そこには食べ物があるからです。お地蔵様は親犬に同情しています。発育ざかりの五匹の小犬に、おなか一杯乳を飲ませられるほどたくさん食べものを探すのは、それだけでもたいへんな骨折ですから。小犬たちは、親犬の回りをとび廻って、一緒に森の小道を登ろうとしたりするときもあります。親犬が食べて帰ると、長いこと留守していたので小犬たちは、あわててとびついたり、あまえて、おこって吠えたり、大きく口をあけて親犬のおなかに顔を突っこみ、後足を思いきりのばして体をささえ大変な勢いで思いっきりお乳を吸うのです。

 お地蔵様は、時々親犬が我慢しきれなくなって、いらいらするのを無理もないことだと思います。手におえなくなると、親犬は飛び上がって、小さな邪魔者どもを払いのけようとしますが、それでも固く吸いついて離れないときは、乱暴な声で吠えたてるので、小犬たちはびっくりして、家の縁の下に逃げこんでしまうのです。

 こんなことを、横目をしては右の目のほんの隅っこで見ながら、お地蔵様は心の中で「なんと親犬は愚か者だ。どうして私の所へ小犬を連れてこないのだろう。もし連れて来たなら優しく迎えて、彼らにほおえみ、生存のあらあらしい欲望を和らげてやるのに・・・。そうしたら、次々に悪いことを重ねることもあるまい。それよりも今度生れ変るときには、一段高い位の人間として生まれ、小坊主になって、この世の一切の欲望から解脱して、安らかな涅槃にはいれるのに・・・」と考えるのです。

 親犬は、お地蔵様の気持ちなど気にもかけず、お地蔵様などは、馬鹿にしてもよいと思っています。なぜなら、森の中にもっともっと、偉大な保護者を見つけたからです。骨の折れる一日が終わると、親犬は自分たちの快い休み場にゆくために、五匹の小犬を引き連れて、巡礼のような行列を作り、庭から森の中へとチョコチョコと先頭に立って歩いてゆきます。子犬たちは充分食べた大きなおなかをして、一匹ずつ勇ましく尾をふりながらついていきます。親犬は脇目もふらず、ちょうど、鳥がねぐらに、蜂が巣に真一文字に帰るように、真直にお釈迦様のみ堂に向かって行きます。

 お釈迦様は、あらゆるものにまさっています。親犬は大きな入り口の扉をくぐり、広いみ堂にはいります。そして歩調をゆるめると、ゆっくりと真中を歩いて行きます。み堂の中では、四方の壁から、五百羅漢がこの夕方の巡礼をいかめしく見下ろしています。この五百人のお釈迦様のみ弟子たちは、お釈迦様のように心の静けさを味わおうと大変に骨折り、その最後の努力で石化してしまったのです。顔も着物もまちまちで、態度も違っています。身体も顔も、人間の最期の心の動きを現わしています。羅漢様の一人はティル・リーメンシュナイダーの彫刻した司教の顔のようです。あの羅漢様は隠遁者聖ヒロニムスのような落着いた顔をしています。しかし、そこにいる羅漢様は、砂漠の中で、誘惑の渦の真只中にいる聖アントニオのように失望したような顔をしています。皆、涅槃を望んではいても、まだ心は何か欲の絆にしばられているようです。

 親犬は、この五百人の得の足りない者には目もくれずに進み、真直ぐに、正面にむかっている完徳に達したお釈迦様の絵の方に進みます。お釈迦様は固い石に彫ったものではなく、軟らかい色で描かれたその絵には、金色の後光がさしています。この五百人の羅漢様が大変な努力をしてえようとした心の平和は、この絵のお釈迦様の顔に、あたかも満月の光りのように輝いています。もう心の動きは少しも顔に現れません。一切の欲望は消え失せ、しかめ顔は満月の光に変わります。

 親犬は、この絵の前の布団の上に横になります。この布団は、昼間、人間の巡礼者が世の中の数えきれないほどたくさんのまよいから逃れるために座った所です。可哀想な親犬は一日の骨の折れる仕事の疲れをここでいやされます。五匹の小犬は一しょに寝ます。もう彼らの欲望はおさえられ、うとうとしながらお乳を飲みます。一切の激しい欲望は消え去って、ぼんやりとなにげなくお乳を飲み、飲みながら眠り込んでしまうのです。

お釈迦様は、高いところから親犬と小犬たちを見下ろしています。いまからおよそ二千五百年も前に、自身の心をおさえ、その後、数え切れぬほど多くの人々の心を和らげたお釈迦様には、この五匹に小犬の欲望を少なくすること、親犬がその重荷の下におしつぶされないように、小犬たちの欲望を少なくすることは、たいしてむずかしいことではないでしょう。

 いかがでしたか?

 まず、日本語の繊細さ、美しさに驚かない人がいるだろうか。お地蔵さんにはホイヴェルス神父様自身が重なる。母犬、小犬、家鴨親子はもちろん神父様のまわりの生活人たちの姿。神父様には心ひそかに信者たちから期待したことが、失望に終わったこともあったでしょう。石の五百羅漢とお釈迦様の絵、お堂の真ん中の座布団を占領する犬の親子も・・・、それぞれ何かを象徴しているのです。

 愛情とユーモアと、時にはちょっとしたアイロニーもこめて、ホイヴェルス師の心の世界が映し出されている。何度読み返しても、味がある。

 私は、ホイヴェルス神父様から宣教への熱意を有難い気持ちで教わり、受け継いだと自負している。 そして、ローマで神学の勉強をして54歳のときやっと司祭になり、さらに数年後、日本に帰国してからは、情熱を込めて宣教に励んだつもりだった。金を集めて、四国の三本松の田舎に私が学んだローマ教区立のレデンプトーリス・マーテル神学院の世界で7番目の姉妹校を誘致した。深堀司教様のもとでは美しく開花して、一気に30人余りの司祭を生んだ、しかし、その後、日本では閉鎖を余儀なくされ、ベネディクト16世に救われてローマに避難し、フランシスコ教皇の訪日に合わせて日本に再上陸するはずだったが、それも最後の最後にかなわなかった。今は、その残り火のような「日本のためのレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」がローマで生き延びてはいるが、もう私の目の黒いうちに日本に帰ってくる日を見ることはないかもしれない。(今は世界中に125以上の姉妹校をかぞえ、文明国でそれを持たない国は日本だけだ)。

 遠藤周作のイデオロギーの「日本の土壌にはキリスト教は根付かない。植えても根が腐って死んでしまう」がフト頭をよぎる。遠藤が正しいか?ホイヴェルス神父様の化身のお地蔵様の悲哀、家鴨の雛も、山羊の子供たちも、小犬たちも自分の所にはついに来なかったと言うお話は、日本での宣教の独特の難しさを言い表されたものだろう。せっせと成人の求道者に洗礼を授けても、その人のこどもたち世代に信仰は受け継がれない場合が多い。やっぱりお釈迦さまの絵の微笑みのほうが犬たちにはいいのだろうか?それともお金の神様の微笑みか?

 しかし、イエス・キリストは死に打ち勝って復活された。コロナの後、日本の教会が自然死を遂げたそのあとに、きっと復活の朝が訪れることを私は知っている。ホイヴェルス神父様の身をけずるような宣教の努力は、必ず実を結ぶと私は確信している。師は葬られて日本の土になった。ヘルマン・ホイヴェルス神父の蒔いた種はもう芽を出している。来日したあまたの宣教師の中で、没後44年間、毎年途切れずに追悼ミサが捧げられ、人が集った例が他にあっただろうか。師が書かれた「キリストの復活能」は最近バチカンで半世紀ぶりにフランシスコ教皇の御前で上演された。伝統を重んじる能の世界で、世界に初めてたった一枚だけ彫られた「復活のキリストの面」をシテが着けて舞った。

 コロナの波も不思議と6月9日の御命日には静かだった。今年の6月9日は、果たしてうまく第6波と第7波の谷底で迎えることができるだろうか。今や、追悼ミサの参加者の中に、生前の師の姿を知らない世代が増えてきた。それもそのはず、師のお葬式のミサに50才で与った人は今年95才に達しているわけだ。それなのに追悼ミサに与かる人の数が激減しないのが、不思議と言えば不思議ではないか。この世俗化の世界で、キリスト教に春が訪れるまで、ホイヴェルス神父様の宣教魂の火をリレーしていかなければならない。

 ホイちゃん(と、信者たちはみな師をそう呼んでいた)なら、すっかり変わってしまった今の世の中、今の教会の姿、野蛮なウクライナへの侵略戦争を、日本で第二次世界大戦の東京大空襲前後を経験されたドイツ人として、いったいどう思われるだろうか。師の目線を借りて思いめぐらさないではいられない。

緊急補足

 プーチンの蛮行を見て、「神父答えろ!神はどこにいる?キリストはどこにいる?」と問う人がいた。

 お答えしたい。神はキリストともに居られる。そして、キリストは、アウシュヴィッツのガス室に送られる裸の女子供たちと共におられたように、いま、ウクライナからの難民の間に、戦場で「ママ」と呼んで泣く19才の童顔のロシア兵のそばに、そして、一秒ごとに命を狙われているウクライナのゼレンスキー大統領とともにおられる。イエスは身内の裏切者の密告で売られ、隠れ家のオリーブの園で捕らえられ、拷問を受け、十字架に架けられて刑死した。ゼレンスキーが引き受けたリスクも同じパターンに終わる可能性がある。しかし、ウクライナは復活する。イエスが復活したように。

P.S. この下のグレーの枠の右端に、目立たない細字で コメント(2) とあります。そこをクリックするとコメント欄に飛べます。貴重なコメントを頂きましたので、良かったら覗いてみてください!

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