:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 悲しいお知らせ

2018-05-29 00:19:09 | ★ ホイヴェルス師

~~~~~~~~

悲しいお知らせ

~~~~~~~~

 去る5月21日、私は《「ごあいさつ」―ホイヴェルス師第41回目追悼ミサへのお招き―》という題のブログをアップしました。すると、間髪を入れず同じ5月21日付でイグナチオ教会の主任司祭から、以下のような文面のお手紙を頂戴しました。

谷口幸紀神父様                        2018年5月21日

+主の平安 

 先日いただいたホイヴェルス神父様41回目追悼ミサの件のお手紙を拝見しました。

 長年にわたり、ホイヴェルス神父様のために、追悼ミサに係わっていただき誠にありがとうございます。

 私は、今年4月からイエズス会の人事異動により佐々木良晴神父に代わり、麹町教会の主任司祭に就任いたしました。諸事情がよく分からず、教会の諸活動について検討を進めているところです。

 本件のホイヴェルス神父様の追悼ミサについてですが、信徒の高齢化や神父様時代の方々が少なくなったことなど諸事情を鑑み、今後の在り方を関係者と話し合った結果、麹町教会ではホイヴェルス神父様の追悼ミサを今後行わないことに致しました。

 連絡が遅れて申し訳ありませんでした。

 ホイヴェルス神父様は初代の主任司祭であり、麹町教会内外の方々に大変慕われておられました。これからも、どうぞ神父様のためにお祈りください。

麹町聖イグナチオ教会 主任司祭

英隆一郎、S.J.

 私は、昨年6月9日の追悼ミサのあと、それまでの追悼ミサの責任者と一緒に今年分の申し込み手続きをして、同17日付けで教会印を押した正式の聖堂・ホール使用許可書を受け取っていました。それが、この手紙によって開催直前に突然取り消されてしまいました。

 しかし、現主任神父様といえば、36回目か37回目かのホイヴェルス師の追悼ミサを司式され、私が共同司式し、茶話会では和やかにご一緒した間柄でしたから、今回の突然の教会施設使用禁止が神父様の本意ではないことは私には明白です。よほどの苦しい事情がおありなのだろうと察して、黙って引き下がります。

 それにしても、この追悼ミサへの参加を呼び掛けた最初の手紙は4月17日付で発送され、着任後の新主任司祭宛てにも送られているので、その内容は1か月以上前にすでに目に触れていたはずですが、その後も何ら問題なく時間が経過していたのに、私が21日の昼頃にブログをアップしたまさにその21日付で、上の使用禁止の手紙が書かれたのは、ただの偶然の一致だったのか、それともブログに触発された何らかの強い力が外部から働いたのか、それは闇の中です。

 

 それはとにかく、2年前から心の中で温め、1年前に皆さんに祝福され一任されてスタートして以来、構想を練り、準備を進めてきた私にとっては、まさに晴天の霹靂でした。

 すでに、私の手元には予想をはるかに超える枚数の出席希望の葉書が集まっており、欠席の葉書も、「残念ながら今年は都合がつかず欠席するが、来年は必ず出席する」とか、「老齢で(あるいは、遠隔地のため)、参加は叶わないが心を合わせて祈っています、ホイヴェルス神父様の追悼ミサを継続してくださってありがとうございます」、というものがほとんどでした。それらの期待を一身に背負って、私は、今さら引くに引けない窮地に立たされ、あと10日でどうしろというのかと、天を仰いで途方に暮れた次第です。 

 とりあえず、代わりの場所をもとめ、聖イグナチオ教会の向かいの双葉女学校のチャペルを打診したところ、幸い事情を聴いて快く受け入れられ、翌日に正式の使用申し込み用紙に記入して提出するようにという親切な言葉に、ホッと胸をなでおろしました。

 ところが、翌日受付を訪れると、窓口の方が、申し訳なさそうに、「昨日は申し出を一旦はお受けしたが、今日になって上から不許可の指示があったのでお貸しできなくなりました」という話でした。「院長様に会ってお話したい」と言っても「今、来客中で会わせられない」と言う事でした。私の落胆ぶりをお察しください。

 6月9日の当日まで、もう時間がありません。それまでに然るべき場所に必要なスペースを確保できなければ、ホイヴェルス師の41回目の追悼ミサは中止に追い込まれます。

 私は天を仰いでホイヴェルス師に祈りました。もし、あなたのお心に叶うことなら、どうか場所が見つかる奇跡を起こして下さい。お望みでなければ、場所を与えないで下さい、と。

 

 今の段階ではっきりしていることは、「来る6月9日のホイヴェルス師のミサは、師の思い出の詰まった聖イグナチオ教会では開かれない」と言う事です。

 しかし、もし天国のホイヴェルス師が望まれるなら、きっとふさわしい場所が奇跡的に見つかるに違いないと、私はまだ最後の希望を捨てていません。とは言え、経済的理由から、ザベリオ聖堂や双葉のチャペルのような広い場所が確保できるとは到底思えません。せめて、いま出席の意思を明らかにしている人数だけは収容できる広さを念頭に、場所探しを続けています。

 従って、追加で参加を希望される方を全員受け入れられるかどうかまでは自信がありません。それで、これから参加したいと思われる方には、是非前もってメールでお申し込み頂きたいと思います。可能な限りお受けしますが、溢れて混乱する事態を避けるために、止むを得ずお断りする場合もあり得ますので、あらかじめご了承ください。その代り、来年は必ずご案内いたします。

 尚、追加でお入りいただける方には、折り返しメールで会場とその詳細をお知らせいたします。今のところ、場所としては同じ四谷界隈を考えています。

以上、取り急ぎお知らせまで。

お申し込み・お問い合わせ先メールアドレス: john.taniguchi@nifty.com谷口幸紀)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ごあいさつ -ホイヴェルス師第41回目追悼ミサー

2018-05-21 14:19:31 | ★ ホイヴェルス師

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ご あ い さ つ

- ホイヴェルス師第41回目追悼ミサへのお招き ー

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

人が亡くなってから、40年間もの長きにわたって、その故人を忍んで毎年大勢の人が集り、祈り、思い出を語りあうと言うような話を、私はかつて聞いたことがない。

東京オリンピックの年=1964年=に、教皇パウロ6世がインドのボンベイ(今はムンバイと呼ぶ)に来られ、世界聖体大会を開かれた機会に、ホイヴェルス師と私はボンベイに旅をした。このペン画は、かつて彼の地で教鞭をとっておられた師が教え子たちに会われた様子を、私がスケッチしたもの。

私は一昨日(5月19日)ホイヴェルス師の追悼ミサにかつて参加したことのある人たちの名簿を頼りに、次のような手紙を郵送した:

ご あ い さ つ

 このたび、不肖わたくしが師と仰ぐホイヴェルス神父様の追悼ミサの事務方をお引き受けするに至った経緯は、先のお手紙で詳しく記した通りです。

 18才で神戸の六甲学院からイエズス会の志願者として上京し、当時の学生寮「上智会館」で後に東京補佐司教になられた森一弘神学生とたまたま同室になり、一緒に毎朝ホイヴェルス神父様のミサ答えをするようになったのが師との最初の出会いでした。

その後、森兄はカルメル会へ移られ、私は3年目に広島の修練院に送られましたが、半年もしないうちに「私はこのまま修道者になるべきか、もっと世間を知った上ではいけないのか」という迷いに入り、ホイヴェルス師に手紙で正直に打ち明けました。

すると、神父様は、私のためにわざわざ広島までおいでになり、修練院の墓地の丘を二人で散歩しながら、こんこんと諭されました。それは、「お前は将来のイエズス会にとって必要な人間だから、決して早まってやめてはいけない」という有難いお言葉でした。しかし、わたしは愚かにも従順することができず、一年目に修練院を飛び出して東京に舞い戻りました。

神父様はそんな私を見捨てず、当時の都電通りを挟んでイグナチオ教会の向かいの、主婦会館の裏の河野宅に四畳半の下宿を借りて待っておられ、そこに住んで毎朝神父様のミサ答えをするように、と言われました。

その後、国際金融業で世界を渡り歩き、放蕩の限りを尽くした私が、ローマで勉強して、今このように曲りなりにもカトリックの司祭として奉仕することができるまでに至ったのは、全てホイヴェルス神父様の愛の賜物です。

直近の10年間のローマでの任務を終えて日本に帰って来たのを機会に、残された人生を神父様への恩返しに捧げつくしたいと思っています。

具体的には:

①    毎年の記念ミサを継続し、

②    ホイヴェルス師の偉大な「信仰の遺産」を、師を知らない世代の人々に受け渡すため、年間を通して様々な広報活動を行い、

③    今のうちに師の生前の面影を知る人々の証言を集め、

④    絶版になって久しい師の著作を復刻出版し、

⑤    師の遺徳を顕彰し、― もし神様がお望みなら ― 師の 「列福運動」 を立ち上げたい、

などの具体的な目標を掲げて進めてまいりたいと思っています。

 そのためには、思いを同じくする協力者を募り、幅広い連帯の輪を広げ、共同作業をしていく必要があります。

今すでに78歳のわたしに、神様があとどれだけの時間を下さるか分かりませんが、理解ある人々の協力を得て、出来るところまでやってみたいと思っています。ただし、無理は避け、一歩、一歩、出来ることから始め、志を継ぐ人々に受け渡していければ幸いです。

 6月9日(土曜日)、イグナチオ教会でお目にかかれるのを楽しみにしています。

谷口幸紀拝

同封の二枚目には:

ホイヴェルス神父様 41回目の追悼ミサについて

去る4月17日付のお手紙ですでに趣旨はご案内申し上げましたが、日時が近づいてまいりましたので、あらためてお便りを差し上げます。

準備のため、あらかじめおよその参加者の人数が把握できればと思います。

1.      ご出欠のご意向は

  〇 通信費と時間の節約のため、もしe-メールをなさる方は下記のアドレスまで。(以後、ご連絡はメールでさせていただきます。)

  〇 e-メールをなさらない方は、恐れ入りますが同封のハガキに62円切手を貼ってお出しください。

2.      ホイヴェルス神父様との繋がり、思い出、感想、もしあればご提案など・・・

    メールの方は何なりとご自由にお書きくだい。ハガキのかたは余白をご利用ください。

 

ホイヴェルス神父様41回目の追悼ミサ

日 時: 6月9日(土曜日)   3時00分~4時00分(ミサ)  4時05分~5時30分 (茶話会)

場 所: 四谷聖イグナチオ教会      ミサ(ザべリオ聖堂)  茶話会(テレジアホール)

司 式: 谷口 幸紀 神父

お返事・お問い合わせ:    e‐メール 〈john.taniguchi@nifty.com

今回のブログは、あの偉大なホイヴェルス師を直接知らない世代の人々に、この新しい動きをお知らせし、心惹かれた方、好奇心に駆られた方を、上の追悼ミサと小さな集いにお誘いするのが目的です。前もってのお申し込みは不要です。都心の交通至便のイグナチオ教会に、フラリと気軽にお運びください。お待ち申し上げます。

 

 

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ スペイン旅行(その-1)「カルメンの墓」「キコの家」

2018-05-19 03:32:51 | ★ 旅行

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

スペイン旅行(その-1)「カルメンの墓」「キコの家」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(実はこのブログ、5月14日のスペイン旅行(そのー2)》より先にアップするはずのものだった)

4月27日に日本から新求道共同体の一団がローマにやってきた。5月5日の共同体の活動50周年記念の大集会に合わせて、はるばるやってきたのだ。

私は次の日に合流して、一緒にスペインに発った。ライアンの格安航空で。

ローマとマドリッドを直線で結ぶと、ちょうどマジョルカ島のポルト・ダ・ポリェンサの上を飛ぶことになる。

着いたらまずカルメンの墓のあるマドリッドのレデンプトーリス・マーテル神学院に向かった。

カルメンの墓。1930年生まれはキコや私より9歳年上だ。2016年に86歳で逝ったことになる。

白い大理石の簡素な墓だ。

私も日本語とローマ字で記帳した。カルメンの右隣りの空の墓はキコのためだろう。そして、二人の奥の横向きの墓はマリオ神父のものと思われる。

この時点で35人?そのほかに1歳未満の乳飲み子を含む3人のおチビちゃんたちがどこかに隠れているはず。

ゼロ歳から83歳までの男女の不思議な集団。 

キコの生家に着いた。 ぼさぼさの街路樹の後ろが入口。

入り口のドアのは教区立新求道共同体センターとあるが、教区立とは?

キコが住んでいた頃の室内の調度や雰囲気を保存すると言うよりは、人が集まって使い勝手がいいように改装されている感じ。

広さとしては一家族には十分すぎるものがある。

集会場として天上に手を加え、壁には新しくキコが壁画を描いている。

 キコの初期の画風の絵が数舞壁を飾っている。いずれもオリジナルと思われる。

キコは現代に相応しい宗教画のスタイルを創出しようと試行錯誤を重ねてきた。

20歳台の美術アカデミーの学生時代のキコの寝室と思われる部屋は意外と狭く、4帖半の変形ぐらいしかなかった。

壁は落書きだらけ。

釘打たれたキリストの手だろうか。キコも釘は手のひらに打たれたと考えているようだが、それは史実と違うのではないか。聖骸布によれば釘は手首を貫いている。

初期の人の顔は写実的。キコのデッサン力は一定水準を越えている。

これは数少ないキコの自画像だ

父親のポートレートもこの部屋の壁に直接描かれている。

抽象的な図柄もある。それに署名を大書している。

彩色された落書きも

ドアにまで絵を描いている

外に出ると通りの向かえの建物が自然に目に入った。

次の日は日曜日だった。スペインにいる間この日だけ雨に降られた。ユニクロの薄いダウンの上着が肩のあたりは肌着まで水が通ったが、午後にはいつの間にか乾いていた。

団体用のバスの停まれる場所からマドリッドのカテドラルまでの途中に公園があった。痩せ馬にまたがったドン・キホーテとロバに乗ったお供のサンチョパンサの銅像を、作者のセルバンテスが上から見下ろしている。

カテドラルは日曜のミサに与る信者と、中を見物しようと押し掛けた観光客が鉢合わせして、行列してのろのろと中に入ることになった。中は礼拝が挙行中で、ミサにあずかって祈るために動かない信者と、動き回りたい見物客の間に緊張があった。正面祭壇を取り囲む内陣にはキコの壁画とステンドグラスがあるのだが、それを見える位置にはとても潜り込めなくて断念。側廊の柱の間にはキコの壁画に囲まれて、彼のマドンナの絵の本物が安置されていた。鉄の格子の間にレンズを差し込んで撮ったのがこれだ。石の厨子の中央に金色の枠と宝石に囲まれているのが、キコのマドンナの絵。元々はキコのお母さんの寝室の枕元にあったものだ。

保護のためにはめたガラスが反射して絵が見えにくいが、このコピーは世界中に広まっている。マドリッドの大司教区も、キコとその運動を受け入れている。

(終わり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ スペインの旅(そのー2) 「マドリッドのミサ」「ハビエル城」「テレサの終生誓願」

2018-05-14 06:28:53 | ★ 旅行

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

スペインの旅(そのー2) 

「マドリッドのミサ」「ハビエル城」「テレサの終生誓願」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日本からの一行は土曜日の夜マドリッドのある教会でミサを祝った。

イタリア人のアントネロ神父が日本語は当然だが、スペイン語も堪能なので司式することになった。

共同体のミサの形式は基本的に世界中で同じ。言葉も流れもローマ典礼を厳格に守りながら、歌や所作にいろいろな工夫がなされている。アントネロ神父の正面が日本からのグループ。

宣教家族のコルデロ家の未亡人マイテさんが、苦労の多かった日本での生活について証言した。

夫が早くに癌で他界した後は、大勢の子供を抱えて心配の絶えない生活だった。しかし今、その多くは結婚し、息子の一人ホアンは司祭職を目指してローマの神学院におり、娘の一人テレサは3日後にフエスカの街で終生誓願(生涯をキリストの浄配=花嫁として捧げる誓い)の式をすることになっている。日本からの50人余りの団体の多くはテレサの式に出るのが旅の大切な目的の一つなのだ。

マドリッドの共同体の兄弟たちの一部。

ミサの終わりに広島の K 夫妻の結婚記念の祝福が、

つづいて、スペインの共同体の臨月の姉妹が、アントネロの祝福を受ける。

ミサの終わりには、もうお馴染みの踊りが始まる。祭壇を囲んで、旧約の時代のユダヤ人の過ぎ越しの祭りのように。手拍子も、単純なステップも、オリエンタルなメロディーも、信仰における「兄」にあたるユダヤ教徒から正しく受け継いだもの。

ミサ後、外へ出て空を仰いだ。ほとんど満月だった。

 翌朝、テレサのいるフエスカの街に向かってバスで移動。川は雪解けの水で流れが速い。

スペインでは菜の花を多く栽培して菜種油を収穫する。遠くの山は雪を頂いている。

マドリッドから東北へ280キロ余りでサラゴサ。そこからさらに東北へ80キロでフエスカ。フエスカの北西にハビエル城がある。ハビエル城は聖フランシスコザビエルの生誕の地だ。どうやら着いたらしい。

広島の K さん夫妻と 

城内の一窒。1506年4月7日フランシスコ・ザビエルここに誕生す、とある。日本のキリスト教宣教の始まりと、その後の鎖国と、激しい迫害と殉教の歴史の展開の原点がここにあった。 

お城の前の広場でお弁当。バケットにソーセージを挟んだのをアルミホイールで包んだ質素なもの。

道に真鍮のホタテ貝がはめられていた。気を付けているとフランス、ドイツあたりからすでに始まって、ヨーロッパ中に何万個か、数十万個の真鍮の貝が歩道に埋められている。この貝の示す方(ここでは右)に歩いて、次々と貝を辿って歩いていくと、800キロ以上西のサンチャゴ・デ・コンポステッラの巡礼聖地にたどり着く仕組みになっている。フランス・ドイツ・スイス、イタリアなどを起点に様々のルートがある。

 

 翌日テレサの修道院のチャペルの前庭で昼食があった。焼きソーセージ食べ放題の感じだった。一度宿に帰って、晴れ着に着替えて式に臨む。

調理はいとも簡単。地面に無造作に広げた燃えた炭火の上に、直に置いて火が通るのを待つだけ。

式を待つ会衆。あらゆる隙間の椅子が並べられ、立錐の余地もない。

祭壇の両脇には一階も、二階にも広い部屋があって聖堂は T の字型になっている。ただし、両脇の部屋と中心の部屋との間は鉄の格子で仕切られている。ここは厳格な禁域を守るカルメル会の女子修道院だ。一度この会に入会したものは、終生誓願と共に、二度とこの禁域の外に出ることはない。敷地はシスターたちの散歩の場所と自給自足のわずかな菜園があるがそれほど広いわけではない。周囲は監獄のように高い塀で囲まれていて、世俗社会とは完全に遮断されている。司祭がやってきてミサをし、信者一般も参列できる聖堂は俗人と修道女が空間を共有する唯一の場所だが、祭壇の正面の信者席と姉妹たちが預かる左右の部屋は鉄格子で区切られていて、格子の奥にいる修道女の姿は一般信者席からは見えにくい死角の位置にある。私は祭服をまとって祭壇の後ろの司式者の列に居るから、横を向けば修道女の部屋はのぞき込める。しかも、カメラのズームは居ながらにして肉眼よりも大きく彼女らの姿を捉えることができるのだ。

祭服の盛装にカメラはどうにもなじまないのだが、私だけは例外を決め込んでいる。左の格子の奥の脇部屋にテレサの姿があった。10名ほどの平均年齢の高いシスターたちがその後ろに控えてていた。彼女のヴェールは有期誓願者を意味する白だ。これから、そのヴェールが黒になる終生誓願式が始まる。

中央の司式者はフエスカの司教。その向こうの白髪はフエスカの教会の主任司祭だ。

誓願式そのものは格子の向こうで行われる。院長の前でテレサが自筆の誓願の言葉を読み上げている。

その請願書にいまテレサが、次に院長が署名する。

誓願のあと着衣が変わる。ベールの色は黒に、その頭には白いバラの冠が載せられる。お盆の上にバラの冠を載せて、母親のマイテが司教にそれを渡す。

黒いベールとバラの冠を戴いたテレサ。キリストの浄配、彼の花嫁としてこの禁域に世俗から身をひそめ、天国に旅立って地上に遺した亡き骸が棺桶に入って墓地に向かう日まで、生涯一歩も外に出ることなく、祈りと労働と苦行に身を捧げる。

聖体拝領の時だけ格子に小さな窓が開く。司教さんが持っている特別な器の真ん中にはキリストのおん血(ブドー酒)、その周りにはキリストのおん体(薄い小さなパン)が載っている。パンをブドー酒に浸して頂くとき、テレサとキリストの婚姻は成就する。

聖体拝領後のテレサの至福の表情。

テレサが去った場所にはバラの花びらの雨のあとが・・・、しかしその情景も他のエピソードも詳述しなかった。儀式の全てを中継してたら、長い長いブログになってしまうのだから。

テレサが神様へ、天の浄配キリストへの愛をこめて手書きした誓願文。

最後の院長のシスターとテレサの署名がある。

テレサの喜びに満ちた顔を、皆さん忘れないでください。

神父の更衣室の姿見の鏡の前で。この格好で黒い目立つカメラをもって祭壇に上がり不審な挙動を続けたら、日本の教会では不真面目の誹りで完全に降ろされるだろう、が・・・

* * * * *

纏めに一言解説したい。今のカトリックの世界で、純粋に神様オンリーになって、青春も才能も一切捨てて、厳しい禁域の中の祈りと労働と苦行の生活に身を投じる女性は少ない。テレサは宣教師になった親にくっついてスペインから日本に来て、神様に呼ばれ、日本のカルメル会に入った。しかし、厳しい戒律と日本の湿気の多い気候の組み合わせが彼女の体に合わなかった。それで、乾燥したフエスカに転院したわけ。日本から来た多くは彼女の親友だった。私のことも彼女はよく覚えていてくれた。式のあと、格子越しに一人一人と一秒でも長く話していたかった。私自身、彼女と話していて、涙が止まらなかった。彼女がここにいる誰よりも幸せであることは見るだけで分かったからだ。

もう一つ。私はすっかり大きな錯覚の虜になった。式が進むにつれて、彼女たちシスターと、祭壇の上の聖職者や聖堂を満たした信者たちの間を遮る鉄格子が耐え難いほど邪魔に思えてきた。こちらから向こうに自由に渡れないことが息苦しくなった。それは、この狭い聖堂の中にひしめき合っている我々が、世俗という籠の中、鉄格子の牢獄の中の囚人で、テレサたちが天上の自由を味わっている人たちのように思えてきたからだった。金銭欲、肉欲、傲慢、嘘八百の二枚舌、嫉妬、エトセトラ、の奴隷として鉄格子の中に自由を奪われて捕らわれているのは実は我々の方で、テレサたちは自我と我欲を完全に神様に捧げつくした、天上の自由を先取りした羨ましい人々であることを、この式を通して徹底的に思い知らされたのだった。

 (旅はまだ続く)

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー2)

2018-05-08 00:23:26 | ★ ローマの日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー2)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この日は幸い車が自由に使えて行動範囲が広くなった。ローマの南東約60キロのネミ湖に向かった。ローマ時代からローマの飲料水は市内を流れるテベレ川からではなくこの湖から引かれていた。湖水面からローマの七つの丘までのわずかな高低差を利用して、一分の狂いもなく一定の傾斜で水道橋を建設したローマ人の土木技術に脱帽する。この技術はローマ帝国の版図が及んだ全地方に伝えられて。今もその遺構はヨーロッパ中に見られる。

途中でラ・フォレスタ(森)という名の高級レストランに寄って昼食をとった。ここはシスターになった姉を一度連れてきたことのある思い出の場所だ。立派な門構えから奥まったところにあるホテル・レストランまで、車で森の中を行く。

昼の12時過ぎはイタリア人の昼食時としては早すぎる。食事客はまだ一人もいなかった。まるで高級レストランを借り切った気分だ。

偉そうなウエイターがサービスしてくれる。

前菜も何も抜きで、いきなり仔羊の炭火焼きと温野菜、それと赤ワインだけで食事とした。デザートにはこの地方の特産の野生のイチゴにレモン汁と砂糖をかけたもの、そしてコーヒー。それでも日本のこのクラスのレストランと比べれば、値段は半額以下だ。

食後にネミ湖に着いた。古い、古い死火山の火口湖だ。これがローマの水道の原点。火口丘の上に指輪の宝石のようなネミの町がある。

ネミの特産はサラミ、ソーセージ、生ハム、イノシシの肉などで、店の中はより取り見取り。

もう一つの特産は、先ほどラ・フォレスタで食べたデザートの森の果実、野イチゴやブルーベリー、ブラックベリー、ラーズベリー等々。

その他、ラベンダーの香水やハーブ酒、ハーブ入りの石鹸など。店頭の飾りの自転車もラベンダー色。

湖を見下ろすテラスで野イチゴのデザートとコーヒーが一番の御馳走。私は日本からのお客さんを何度ここに案内したことだろう。

レストランやカフェーの上の階の住居では洗濯物が万国旗のように干されている。 

ネミ湖からロ―マに帰って、ジャニコロの丘に登った。ローマの町のパノラマを一望するのにこれ以上適した場所は他にない。丘にはイタリアの統一と近代国家成立に貢献した大勢の士官や兵士の像が点在している。

丘の頂きにはジュゼッペ・ガリバルディの騎馬像の巨大なモニュメントがある。彼はまずベネチアを落とし、最後に教皇領を奪取してイタリア統一を完成した男だ。イタリア全土にわたった広大な教皇領は小さなバチカンに立てこもり独立国家となった。

ガリバルディのモニュメントの台座には、定規とコンパスをあしらったフリーメーソンの銘板があり、その上に「ローマ(を落とす)か(みずから)死するか」と刻まれている。フリーメーソンはカトリックと絶対に相いれない結社で、旧教会法ではカトリック信者が秘密裏に加入しても、伴事的に(その事実自体によって)破門状態に陥ると言う厳しい制裁が定められていた。

ジャニコロの丘からローマの街を越えて反対側のピンチョの丘を見ると白い2本の塔が小さく見える。2000ミリのズームで引き寄せると、スペイン階段の上のトリニダード・モンテの教会であることが分かった。

夕方ローマ市内に戻ってサンジョバンニ・ラテラノ教会に行った。 残念ながらすでに閉まっていた。この教会は4世紀末にキリスト教がローマ帝国における非合法宗教、皇帝による迫害の対象から、ローマ帝国の国教の座に就く過程で、皇帝の精神的後ろ盾の地位に180度立場が変わった後、最初に皇帝によって建てられた教会だ。すべての教会の母教会と呼ばれ、この正面の入り口を入ってすぐ左側には教会の保護者コンスタンチン大帝の堂々たる騎馬像がある事に気付いている人は少ない。

生前イエスは、「神の物は神に、皇帝の物は皇帝に返せ!」と弟子たちに命じ、天の「神の国」と地上の「皇帝の国」とが馴れあう事を厳しく禁じた。それが、イエスの帰天後300年で教会はキリストの命令の真逆のことを見事にやってのけた。キリストの浄配、「妻」だった教会は、皇帝に囲われ、その「妾」になってしまったかのようだ。教会はこのラテラノ教会を世界中の教会の母教会と呼び、12使徒の頭の聖ペトロ、最初のローマの司教、ローマ教皇の座をこのラテラノ教会に置いた。今でも教皇の「玉座」は聖ペトロ大聖堂ではなくこのラテラノ教会に置かれている。私は司祭の一つ手前の身分、助祭になる叙階式を、この由緒あるラテラノ大聖堂で盛大に受けた。

しかし、17世紀間にわたった教会と皇帝の蜜月は1965年に終わった。第二バチカン公会議は教会と皇帝の決別を決定づけた。公会議を発議したヨハネス23世から、パウロ6世、一か月で謎の死を遂げたヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、今も存命のベネディクト16世、そして現教皇フランシスコまで、全員がこの公会議の決定を支持し、教会と皇帝の決別、聖と俗の分離を支持している。

トラステベレの聖セシリアの教会はまだ開いていた。広い前庭と噴水の周りにはバラの花が咲き乱れていた。

聖堂の中はひっそりと静まり返っていた。内陣の上の半球形の天井には最盛期を思わせる美しいモザイクで飾られている。

祭壇の下には2世紀の殉教者、聖セシリアの遺体が葬られ、その上に美しいセシリアの像が横たわっている。彼女の亡骸がローマ郊外のカタコンベ(地下埋葬所)で発見され1599年に墓が開けられた時、聖女の遺体は千数百年を経てなお腐敗を免れ生々しく保存されていた。その姿を写実的に写したのがこの大理石像だと言われている。ちなみに、聖セシリアは音楽の保護の聖人として慕われている。

トラステベレと言えば、ローマの胃袋、レストラン街で有名だ。ローマでの最後の日々を、是非カンツオーネレストランで祝いたかった。ダ・メオ・パタッカはお手ごろだ。30年前は同じトラステベレでももう少し高級なラ・チステルナというレストランが行きつけだった。ローマ時代からワインの量り売りをしていたと言う店の地下室には、古色蒼然とした井戸があり、今でもテベレ川の水面と同じ高さに井戸水を湛えている。そこのカンツォーネのテノールはパバロッティの再臨かと思われるほど豊かな声量だった。ある年の大晦日、元NHKの磯村さん御一家と新年のカウントダウンをして踊った思い出があるが、その後、齢と共に歌手の声が衰えていくのを聞くのがつらくてこちらの店に鞍替えした。

食事よりもワインとカンツォーネがお目当てだ。

次々とテーブルを回って歌ってくれる。夜はこうして更けていく。ローマに居ると、ブログの種は尽きない。が、散歩の話はここで終わりとしよう。

(終わり) 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー1)

2018-05-07 00:46:44 | ★ ローマの日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー1)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私がローマに住み始めたのは1989年だから、もうかれこれ29年になる。

その間数年間は日本で司祭として働いたが、直近の10年間はローマの「日本のための神学院」の仕事をしていたので、正味延べ20数年のローマ生活になった。正直、こんなに長くなるとは夢にも思わなかった。

しかし、その長かったローマ生活もようやく終わりを迎えることになった。ベネディクト16世教皇の粋な計らいで、日本での閉鎖・消滅を免れてローマに移植された旧高松の神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名のもとに、ローマで生き永らえることができた。ローマに移ってからも毎年2-3人ずつ司祭を生み出し、その多くはベネディクト16世に続いてフランシスコ教皇によって司祭に叙階された。最近では、去る4月22日にユライ君とファビオ君が叙階されたことは既にブログに書いた。延べ人数は35人ほどになる。

今回のローマ滞在は、住み慣れたローマの神学校の自室を片付けて明け渡すのが主たる目的だ。ローマ生活の最後に、時間を見つけて思い出深い街をひとり散策した。アルバム風に辿ってみよう。

足は自然にグレゴリアーナ大学に向かった。カトリックの最高学府と言われるところだ。正門の上には黄色と白の教皇に旗が風に揺らめいていた。私が日本に帰ることになったのは、ローマで務めていた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院が」が日本に帰ることが決まったからだ。それも、聞き及ぶところでは、教皇庁立として、「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名前で東京に帰ると言う話のようだ。もしそうだとしたら、その神学校の入り口にも常時教皇の旗が掲げられることになるのだろうか。

30年ほど前に神学生として毎日通った懐かしい建物の一階にカフェテリアがあった。ローマの思い出にと覗いてコーヒーを一杯飲んだ。当時の古色蒼然としたカフェテリアは、明るく近代的なインテリアに変わっていた。女子学生の数も増えているように思った。当時、神学生の心をとらえていた美人のレジのお姉さんは、もちろんもう居ない。

 大学から100メートルほどでトレビの泉。泉から緩やかに下がったあたりに焼き栗屋が今も香ばしい香りと共に客を待っている。私はよくそれを買って、皮を無造作に足元に投げ捨てながら歩くのが好きだった。

坂を左に曲がるとサンタ・リタの教会がある。そこの権司教のモンセニョール・モリナリ師と組んで、毎年3.11の頃になると、福島の犠牲者の追悼のミサを捧げ続けてきたことはブログに書いた。そして、モリナリ師のお葬式のこともブログに書いているので読んでいただきたい。

今はモリナリ師のいないこの祭壇で、かつて私たちは歌ミサを捧げたことがあった。イタリア人と日本人のプロの歌手たちの合唱で、NHKも協賛した。そして、日・伊の参列者全員で復興ソング「花は咲く」も歌った。このこともブログに書いた。

サンタ・リタ 教会からコルソ通りに出て左に折れると、突き当りはベネチア広場だ。正面には過去の戦争で死んだ兵士たちを祀る巨大なモニュメントがある。日本の靖国神社のような政治性も宗教性もない。明るい記念碑で中を見学に訪れることができる。

モニュメントを背に広場の左を見ると、ベネチア宮殿がある。長くカトリックのローマ教皇の宮殿でだったことのあるこの建物は、第2次大戦中はファシスト独裁者ムッソリーニの住居となり、二階の真ん中の窓から広場を埋めた群衆にアジ演説をしたことで有名だが、今は美術館になっている。観光馬車の後ろの緑の陰までその宮殿は続いているが、

その宮殿に取り込まれるように一体となって、サンマルコ教会がある。この教会の歴史は古く、この教会の地下の発掘現場から、紀元1世紀の裕福なキリスト教徒の屋敷跡が見つかった。そこで信者たちは礼拝し、福音史家聖マルコはこの屋敷に逗留してマルコの福音書を書いたことが知られている。私は、司祭になってからもグレゴリアーナ大学で教授資格を取るために学生神父としてこの教会に寄食していたが、古くて綺麗で市のど真ん中とあって、土日、祭日には何組もの結婚式があった。私は映画俳優と女優のような見栄えのする若いカップルの結婚式を何度も司式したが、場違いのような足の短いアジア人の神父が、沢山の結婚記念アルバムに姿を残していることを、何となく申し訳なく思ったものだ。だからと言って、たっぷり金をかけて作ったがアルバムが、数年後の離婚と共に捨てられることのないようにと祈らずにはいられないが・・・。

サンマルコ教会のわきの角のところにはギリシャ神話の女神の像がある。アンデルセン作、森鴎外訳の「即興詩人」によれば、この像は元はコルソ通りに面してあったようだ。大理石の彫刻も2000年以上の風雨の前には、次第に融けて形が崩れていくものだ。そして、この壁の左側には国連の事務所があり、その隣には教皇やムッソリーニの召使たちの住まいがある。いまその一部が教会の司祭館として使われているが、私が住んだ部屋は、ムッソリーニのお抱え床屋さんの住まいだったと言う。その真偽のほどはわからない。

ベネチア広場から、古代ローマの遺跡群のフォロロマーノを左右に見ながら15分歩くとコロッセオにたどり着く。ローマ市民の娯楽の中心だったが、剣闘士同士の戦いや、皇帝から迫害されていたたくさんのキリスト教徒が、ここでライオンなどの猛獣の餌食となって殺されるのを見世物として楽しんだ血なまぐさい歴史がある。

当時の衣装をまとってローマ兵に扮した男たちが観光客と写真に納まり小銭を稼いでいる。私もこの写真を撮らせてもらうために、子供たちの親の了解を得て、男たちには2ユーロをはずんだ。

 

コロッセオからバスを乗り継いでナボーナ広場に向かった。ローマで一番美しい広場と言われている。広場には3つの泉の彫刻があり、中央のは昔4つの大河として知られていた、ナイル川、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川だったかな?を象徴する彫刻から水が流れ出る仕組みになっている。

広場の片隅では、カッコいい憲兵さんがスマホで彼女とメール交換中。

サングラスに豊かなブロンドの髪がよくて、気付かれないように遥か彼方から望遠で捕えた。若い頃はきっとほっそりしていたに違いないと勝手に思う。やや厳しい顔つきからどんな人生だったろうか、と思いを致した。

ナボーナ広場にはたくさんのレストランがある。これは「4大河」という名のお店だ。

カフェ・レストランの前の若い服装のご婦人。左の初老の紳士のお連れさんらしい。彼女のことをバックシャンというが今の若い人には意味不明かも。大正か昭和のはじめに旧制高校の書生さんが作った言葉ではないか。バックは英語の「うしろ」だが、シャンはドイツ語の「シェーン」、つまり「美しい」という単語が訛ってくっついた造語だ。要は「後ろ姿美人」と言う意味。撮ってから好奇心を抑えきれずさり気なく顔を覗き込んでみたら、皺を刻んだ醜いおばあちゃんだった。

ここらで小休止と、一人ワインを注文した。「アリベデルチ・ローマ」のお散歩だもの、これぐらいはいいだろう。

4大河の泉の正面に、殉教者聖女アグネスの教会がある。お墓には聖女のシャレコウベ(頭蓋骨)が聖遺物として安置されている。そういう趣味は私の感性に合わない。入り口の階段のわきにいつもいる物貰いさん。新宿西口広場など、この手の物乞いの姿を日本ではほとんど見ない。毎日誰かに連れてきてもらうのだろうか?帽子に2ユーロほりこんで、写真の許可を貰った。どんな悲惨な事故に遭ったのだろうか。意外と表情に暗い影がない。

わきの泉の半人半漁の彫刻

ナボーナ広場から東に5分歩くと、パンテオンがある。ローマ時代から2000年余り、ずっと現役で使われ続けたローマでも数少ない建造物。今はイタリア王家の墳墓教会で、画家ラファエロの墓もあるが、写真は省略。広場いっぱいにリヤカーに積んだスピーカーから美声で弾き語るお姉さん。

パンテオンの隣に、「ミネルバの神殿上の聖母マリア教会」がある。中世にローマを捨てて落ちのびた教皇を叱咤激励してローマに呼び戻した女傑聖女シエナのカタリナの遺体が祭壇の下に葬られている。後ろのローズウインドウのステンドグラスがきれいだ。

聖女カタリナのお棺の上の彫刻は30年前は彩色されていたから木彫かと思っていたが、今は絵の具を落として白大理石の生地が出ている。私にはこの方がいい。

このセンチメンタルな散歩はまだ続くが、一回分の長さとしてはこの辺が限度かと思う。

(つづく) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする