:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編 (9)田川批判ー2

2022-01-31 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-2

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あらためて田川建三先生を紹介します

 私は、田川建三という人が、日本の卓越した新約聖書学者者であり、宗教批判を通じて現代批判を試みた優れた著述家だと言うことを知った。

 新約聖書学者であるということは、新約聖書を、文献学的的方法や言語学、考古学等の人文科学的な方法を用いて、原初期の聖書とキリスト教に迫ろうとするものであろう。

 1935年東京生まれは私より4つ年上だから、今87才のはずだ。東京大学大学院西洋古典学科で学び、博士課程3年目の夏にストラスブール大学に留学。1965年に宗教学博士の学位を取得。以来、国際基督教大学で講師を勤めていたが、1970年4月に礼拝のとき講壇から「神は存在しない」「存在しない神に祈る」と説教したこともあってか、「造反教官」として追放されたと言われている。

 田川先生の履歴には、1972年から1974年にゲッティンゲン大学神学部専任講師をしていたとあったが、私もちょうどそのころ、ドイツの銀行に勤めながらゲッティンゲンの中世の古城に置かれたゲーテインスティテュートに住み込んで、ドイツ語の研鑽に励んでいた。東西ドイツの境界線に近い、あの美しい街で、若かった田川先生と、同じく若かった私が、同時に同じ空気を呼吸していた奇遇を思うと、不思議な親近感を覚える。

 20冊を超える膨大な著作の中には、代表作として『新約聖書 訳と註』(全7巻8冊)や『イエスという男 ――逆説的反抗者の生と死――』などがあるが、私は、現在古書マーケットでも手に入りにくい『宗教とは何か』(1984年大和書房)という先生49歳の頃の著作以外はまだ読んでいなかったので、先生について語る以上、せめてものアリバイにと、急いで「新約聖書(訳と注)の第1巻を、ネット通販で注文したのが、十日ほど前に届いた。

 読み進むうちに、その素晴らしさに圧倒された。カトリック神父を名乗る私は、これを全巻座右に置かねば嘘だ、とさえ思った。そして、聖書学の土俵の上では、田川先生を批判する資格など私には全くないこともあらためて深く納得した。

 しかし、「宗教とは何か」の中で遠藤周作批判にめぐり逢って共感し、田川建三という人物に興味を抱き、手探りしているうちに、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、『神とは人間がでっちあげた』ものなので、『神を信じないクリスチャン』こそが真のクリスチャンである」という言葉に接して、つい、ひと言申し述べてみたい思いに駆られた。

 それは、そんな言葉はカトリック信者の口からはまず聞けないだろうな、という素朴な思いとともに、世にこんなに興味深い人物がいたのかという驚きと感動を、まだ彼を知らない人に是非知ってもらいたいという思いもあったからだ。

 東京大学の博士課程から、ストラスブール大学に留学。ドイツの大学でも日本の複数の大学でも講壇に立ち、90才近い今もご健在のようだが、カトリックの遠藤周作のような、いい加減な、不勉強な、ふざけたイデオローグとは異なり、まじめな学究肌で、それだけに、一般社会では遠藤のように広く知られたマスコミの寵児ではないところが、また魅力だ。

 

最初の疑問

 では、よりにもよってその頭脳明晰で博学な新約聖書の超専門家が、なぜ、平凡で取り柄のない私から見ても、全くあり得ないような馬鹿馬鹿しいたわごと、すなわち、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、とか、本当の「クリスチャン」は「神を信じないクリスチャン」だ、などと言われるのだろうか。意味内容が混乱・矛盾していて、正常な理性にインプットすれば必ずエラー信号が出るようなフレーズを、平然と口から吐く田川先生は、どこかが狂っているのではないかとさえ思った。それは、もちろん、田川先生が言う「神」と私が信じている「神」が同じものを指している、と仮定してのことだが・・・。 

 田川さん、あなたは聖書学の博識を駆使して、遠藤周作のいかがわしさを完膚なきまでにこき下ろして、私を共感で満たした。そして、そのあなたは、遠藤のキリスト像を、「お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、『だめ』な自分は『だめ』なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない」と批判した。また、別のコンテクストでは、宗教学者エリアデを「怪しからんいい加減な学者」と呼び、「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」と決めつけた。さらに、「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。」そしてまた、「学問的作業の恐ろしさは、出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」とも批判された。私も、まあ、それはそうだろうな、と同感する。(私はこういう独特の語り口に「田川節」という名を献じたい。)

 しかし、あなたの言っている意味不明のたわごとは、あなた自身の言葉を借りて言えば、「目くそが鼻くそを笑う類いでございまして」、あなたは実は遠藤やエリアデと同根の仲間のくせに、自分のことを棚に上げて「相手の悪口を言っているという構図になるわけです」と、つい私は噛みつきたくなる。 

 田川先生は「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると、勘違いしているのです。」といわれたが、その言葉は、そのまま先生ご自身の上に還ってこないでしょうか。世の宗教学者の先生方は、象徴にすぎない神々が、あたかも実在であるかのごとくに勘違いしているようだが、宗教現象をキリスト教も含めて「宗教」という抽象概念でひとくくりにして、一旦そういう前提を受け容れてしまえば、確かに話は全く違ってきます。 

 つまり、もしキリスト教の神も歴史の中に現れた象徴の一つにすぎないと考えれば、他の神々と同列に置かれても文句を言えないし、「神とは人間がでっちあげたもの」、とか、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」である、と言う主張は、文字通り全く正しいと言わざるを得なくなるからです。

 そのかわり、あなたが批判した遠藤やエリアデとともに、彼らを批判しているあなた自身も、三者三様に、書斎の中の観念の世界で宗教や神を論る、ずぶずぶの観念の亡者になってしまわないでしょうか。

 

悲しき雀 

 実は、この点をもう少し掘り下げるために、私は先に「インドの旅総集編(8)のホイヴェルス師の「悲しき雀」を書いておきました。

 ホイヴェルス神父様の可愛い小鳥ちゃんは、豆粒ほどの脳みそで鏡に映った自分の姿が虚像であることにたやすく気付き、象徴(鏡の中に移った小鳥)と実在(生きている鳥自身)の区別を見破ることができたのに、生物の中で最大の脳みそを誇る人間の、しかも頭脳明晰な哲学者が、存在とその象徴の違いをなかなか悟ろうとしないことを、ホイヴェルス師は、ちょっと皮肉を込めて指摘されたのでした。

 それは何も哲学者に限ったことではありません。文学者も、宗教学者も、聖書学者も、およそ学者先生と呼ばれる人種は、「実在」とその「象徴」、「実物」とその「映像」、「食える餅」と「絵に描いた餅」、の区別をつけることが出来ない存在論的音痴、認識論的色盲ではないかと疑わしいのです。

 ここまで考えを進めたとき、ふとパウロの書簡の一節を思い出しました。

 曰く:「私は知恵あるものの知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1コリント19―24)

 ここでパウロが言っている神は、勿論、書斎の観念論者の象徴としての「神」ではなく、生けるまことの神、自分の名は「わたしはある」である、とみずから名乗り出た天地万物の創造主、自然の中にはいない「超越神」のことです。

 田川先生は、失礼ながら、パウロが言った「学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。」の「学者」「この世の論客」に該当し、カトリック神父の私はパウロの意味での神を信じ、「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おう」としている田舎者だ、ということです。

 私の素朴な常識からすると、「神は存在しない」とか、「神とは人間がでっちあげたもの」とか、さらに「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であるとかは、全くお話にならない馬鹿馬鹿しいたわごとに過ぎませんが、もし田川先生が仮象(シャイン)と実在(ザイン)を混同して、もっぱら「表象としての神」についてのみ語っているのだと考えれば、私はそれらの「妄言」を(同情をこめて)よく理解することができるのです。

 なぜなら、田川先生は私が「インドの旅」総集編(3)「自然宗教発生のメカニズム」で考察したことと全く同じことを言っておられるに過ぎないからです。つまり、自然宗教の神々は、まさしく「人間がでっちあげたもの」であり、でっちあげの「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝」であり、本当の「クリスチャンはそのような神を信じないクリスチャン」だと言うことは、私自身がすでにわかりやすく説明しておいたことに他ならないからです。

 それに対して、「わたしはある」の神を宣べ伝える「宣教の立場」からすれば、田川先生のお説はやはり全くおかしい、完全に狂っている、馬鹿馬鹿しい妄言だ、と言わざるを得ません。

 聖パウロによれば、世は、――つまり学者も、先生も、従って、田川建三もエリアデも、だいぶ落ちるが遠藤周作も――もともと「自分の知恵で神を知ることができない」部類の人たちなのです。なぜなら、彼らが対象としている世界は、この被造物界、自然宗教の世界だけであり、しかも、それを抽象概念化して見るみるかぎりにおいてのことであって、全ては「絵に描いた餅」「ポスターに印刷された火の写真」の類いに過ぎず、「食える餅」でも、「タバコに火がつく燃える炎」でもないからです。

 それだけではない、「食える餅」も「絵に描いた餅」も「学者先生の脳みそ」も、すべて自然の一部を構成し、キリスト教も一緒くたにひとくくりにした「宗教」もその「神々」も、それらを論じている「宗教学者自身」も自然の中に含まれ、主客ともども一切合切が「自然というコップ」の中にあり、すべての議論はそも「コップの中の嵐」にすぎないのに対して、「わたしはある」と名乗る生ける神は、そのコップの中のどこを探しても見つからないもの、自然の総体であるコップの埒外に泰然と生きている神、つまり、「超自然の神」なのです。

 田川先生のような優れた宗教学の知性をもってしても、「わたしはある」を見出すのは、せいぜい聖書という書物の中に言語化された単なる「表象としての『わたしはある』」までであって、いくらそれを腑分けしても、その腑分け作業自体がガラスのコップの中のさざ波に過ぎず、パウロが言うように、自分の知恵では「コップの外にいる神」に触れることも知ることもできないのです。

 

問題の所在

 それでも、田川先生は、「啓示宗教」であり、「超自然宗教」であると自称するキリスト教も、所詮は同じ「宗教」のカテゴリーに含まれるものであって、結局はキリスト教の神を信じるのも、自然宗教を信じるのも「神を想像する偶像崇拝」にほかならない、と反論されるかもしれません。

 その点は確かに私のアキレス腱です。そう言われてしまうと、私には強く反論することが出来ない弱みがある。それは、キリスト教徒の圧倒的多数は自然宗教のメンタリティーで神を信じている、という紛れもない現実があるからです。そして、その面だけに注目すれば、田川先生の自然宗教否定、従って、神否定は、そのままキリスト教否定にもつながらざるを得ないような気がします。

 この問題は、今回の「インドの旅」総集編(5)《「超自然宗教」の「自然宗教化」》の中ですでに詳しく述べたので敢えて繰り返すつもりはないが、要約すれば、次のような話です。

 今日のキリスト教諸派の共通のルーツである初代教会は、4世紀初頭までは、「わたしはある」と名乗る生ける超自然の神を信じ、回心して福音の原初の教えに忠実であろうと務めていました。ところが、312年にコンスタンチン大帝がキリスト教を帝国の国教扱いにして以来、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教一色に塗り替えられていったのです。なぜなら、洗礼を受けて一斉に教会になだれ込んできた大衆は、ギリシャローマの神々を拝んできた自然宗教の信者たちで、イエスが求めた「福音的回心」などお構いなしに、「わたしはある」の生ける超自然の神が何であるかもさっぱりわからず、もとの偶像崇拝のメンタリティーのまま、名前だけキリスト教徒になって教会を満杯にしたからです。そして、そのようなずさんな入信の形態は今日のキリスト教会にまで及んでいます。だから、圧倒的多数のキリスト教徒は、「超自然宗教のキリスト教」と「自然宗教化したキリスト教」との間に横たわる天と地ほどのへだたり、水と油のような相容れなさを知らず、自分が「自然宗教版キリスト教徒」であると言う自覚さえないのです。

 聖パウロに言わせれば、世は、――つまり学者も、この世の論客も、従って、田川先生もエリアデも、大分落ちるが遠藤周作も――、「自分の知恵で神を知ることができない」のです。だから、批判的聖書学者であり、書斎の研究者である田川先生の目には、「わたしはあるの生ける神」は見えていないし、見えるはずもないと私は考えています。

 ホイヴェルス神父様の可愛い雀ちゃんは、生きて躍動している小鳥と鏡の中の虚像の小鳥との間の違いをたやすく理解したのに、哲学者、先生方は、どうしてその違いが分からないのか、と不思議でなりません。学者先生という人種は、およそ虚像の世界にしか関心がなく、実像としての「わたしはある」の神を見たことも触れたこともないだけでなく、その存在など夢想だにできない盲人たちなのかもしれません。

 わたしは、中学生のとき神戸のミッションスクールでお人よしで頑固者のドイツ人のクノール神父さんから洗礼を受けたが、そのとき受けた信仰教育、そして恐らく少年遠藤周作が芦屋教会の神父さんから受けた信仰入門の話は、初代教会が入信希望者に求めた徹底的「回心」にははるかに及ばなかったのは当たり前のことでしょう。私がこの問題と真面目に向き合うようになったのは、やっと50才になってからのころのことでした。

 田川先生が、少年期までに自然宗教バージョンの洗礼を経てプロテスタントの信者になられたのかどうか知りません。しかし、先生が学者として研究の対象とされたのが「自然宗教としてのキリスト教」だったとしたら、たとえ研究の過程で「啓示宗教」とか「超自然宗教」とかいう概念に出会われても、それらは文字の世界の象徴(鏡に映った小鳥)であり、「わたしはあるの神」の命のない抜け殻にすぎなかったに違いないのです。

 人間は、交差点で物陰から突然飛び出してきた車にはねられて事故に巻き込まれたた時のような圧倒的な現実感をもって「生きている『わたしはある』の神」と遭遇しない限り、学問的研究の成果としてそれに到達することは永久にないと思います。

 たとえば、現代のロゼッタストーンのように、聖書をデータ化したチップをロケットに積んで打ち上げ、たまたま、人間かそれ以上の知的宇宙人に拾われ解読されたとしても、「自然宗教」という「象徴」が地球にあることは理解できても、「わたしはある」の生ける神に対する「信仰」がその星で芽生えることは絶対にないと断言できます。(もっとも、この仮定は無意味です。なぜなら、地球の他に人間と同等以上の知的生物など存在しえないからです。それは、「わたしはある」の神のメンタリティーに調和しません。)

 

「ケリグマ=福音の告知」の必要性

 聖パウロの書簡には、「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)とあります。

 パウロの「宣教」の立場から見ると、景色はまた一変します。人は、超自然宗教の信仰を生きている宣教者の肉声によるケリグマ(福音の告知)を自分の耳で直接聞かなければ、超自然宗教の「わたしはある」と鉢合わせすることはない。もっと突きつめて言えば、「生ける神」自身がケリグマを告げる人の口を借りて人に語りかける時以外、誰もその神に出会うことが出来ないのです。

 それは、人間の知恵から湧いてくるものではなく、告げる人の口から告げられる人の耳へ、そして告げられた人の口からそれを聴く人の耳へ、途切れることなく、人から人へ受け継がれるものだからです。

 わたしがまだ若かっらた頃の座禅のお師匠様、澤木興道老師は、達磨大師から道元禅師まで、そして道元禅師からご自身まで、師からその弟子、その弟子から弟子の弟子へと綿々と続いた師弟の系図を、読経のごとく朗々と毎日唱えられました。それは、座禅の奥義が人から人へ、得度・授戒を通して途切れることなく伝えられたものであることの大切さを物語っています。

 「超自然宗教」においても同じで、ケリグマは「わたしはある」と言う名の生ける神から太祖アブラハムへ、アブラハムからイザクへ、イザクからヤコブを経て綿々と受け継がれてダビデの子孫イエスまで、さらに、イエスからその弟子たちの福音宣教という愚かな手段を通して途切れなく、最後には私の如き貧しい信者にまで伝えられてきた秘伝なのです。そして、その秘伝を宣教という愚かな手段に託して次の世代に受け渡していく責任と義務は、すべてのキリスト者に負わされています。

 田川先生にも、エリアデにも、遠藤にも、この出会いはまだ訪れなかったのだと思います。人は、ケリグマ(福音の告知)を聴く機会にめぐり逢う時、超自然宗教への招きに応えて「回心」するか、回心しないで自然宗教のままに残るかを自由に選ぶ決断を迫られることになるでしょう。信仰が人の心に受肉するかしないかの、決定的、神秘的瞬間がそこにあります。

 田川先生は、「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝である」と言われたが、まさにその通り、現代社会では自然宗教の神は一切のヴェールをかなぐり捨てて、「マンモンの神」即ち「お金の神様」としての本性を露わにし、世界中の人々を奴隷状態に陥れています。

 今日ほど回心して「わたしはある」の超自然の神に帰依することが必要とされている時代はないでしょう。

 私はキコの書いた《「ケリグマ」(福音の告知)》(谷口幸紀訳・フリープレス社)と題する一冊を翻訳しました。この問題の答えを見出す一助として、是非読まれることをお薦めしたいと思います。

 

(ネット書籍通販で1000円+税で手に入ります。)

 

 

コメント (52)
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★ 私の「インドの旅」 総集編 (9) 田川批判ー1

2022-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 

(9)田川批判-1

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

      (8)悲しき雀

          (9)田川批判    

       (10)超自然宗教の復権

 

(9)田川批判    

 私は遠藤周作の長編「沈黙」にも「深い河」にも山ほど物申すべきことがあった。そこへ田川建三氏の遠藤批判に出会って、すっかり意気投合し、胸がスカッとして、快哉の叫びをあげた。

 1935年生まれ、4年先輩でご存命中の田川氏には、雑学の私など足元にも及ばない博識と緻密な研究心に敬意を表して、「先生」とお呼びしたいと思う。

 

 田川先生の遠藤周作のイエス像を完膚なきまでにこき下ろした「イエスを描くという行為―歴史記述の課題」には大喝采を送ったが、それは、先生が49歳のときに出版された「宗教とは何か」第四部に収められていた。

同じ著書には、「第一部」として「宗教を越える」という論文が載っている。

そもそも、「宗教とは何か」は、その「まえがき」の中でも述べられている通り、「批判的に宗教と取り組むための視点を提供する」ために書かれたもの、一言で言えば「宗教批判」の書である。

 田川先生は「人間のいとなみの全体が、あるいはそこにはらまれる矛盾、よじれ、断絶、痛みが、宗教と呼ばれるものを時として噴出させるのである」と言われる。宗教は人間が生み出したものであり、裏を返せば、人間のいとなみの全体が、健康的で満ち足りていれば宗教などが出てくるはずがない、と言うことなのだろうか。

 この「宗教」の由来説は、「宗教とは神と人との関係」として捕える私の単純明快な思考回路とは全く観点を異にしている。私の宗教は人間の営みの様態などには左右されない。

 しかし、田川先生は続ける。「『宗教』は克服されるべきものであるが、『宗教』という現象を克服するために先ず必要なことは、『何故、どのようにして人間が宗教を生み出し、維持してしまうのかを知ることである。』そして、批判的に取り組むということは、そのようにして宗教を知る行為が、宗教を必要としてしまうような人間の状態・現実を克服し、変革しようと努める行為に連なる」のである。

 言葉を変えて言えば、宗教批判は宗教が出てくる必要のないような健全な営みを実現することを目標としている、と言うようにも受け止められる。

 「宗教とは何か」という設問に正しく答えることが出来れば、人間は「宗教を越える」ことが出来ると田川先生は考えているのだろう。そのことは「宗教とは何か」という一冊の《第一部》が「宗教を越える」と題されていることからも類推できる。

 そしてその最初の提題は「人は何のためにいきるか」であるが、先生はそれを「人間は何のために生きるか、などと問うこと自体間違っている、と 答えればよい。」とはぐらかす。

 そして、「人間は何のために生きるか」と問う場合も、また設問を変えて「人間は何によって生きるか」と問う場合も、結論的には「人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生みだされる。因と果は分けることできない。そしてこの複雑多岐な働き方の総体が人間の歴史である。」と、人を煙に巻いて話は終わらせようとする。しかし、私に言わせれば、そのように言葉を弄しても何も生産的な回答は生まれてこないのだ。

 私なら、「人間は何のために生きるか」と問われた場合は「神を愛し、隣人をおのれのごとく愛するために生きる」と即座に答え、「人間は何によって生きるか」と問われれば、「神の創造的愛によって生きている」、と、躊躇なく反射的に答える。このように、私と先生の思考回路は、最初から全くすれ違っているように感じる。

 ところで、田川先生には「宗教」のある様態を批判して克服するために用いる一般的論理がある。

(A)の批判として(B)が提示される。

― しかし、(B)(A)の中に最初から含まれていたものを、ただ新しい表現に包んで提示したもの(A’)に過ぎない。

― だから(B)(A’)は元の(A)とくらべて本質的な新味はない。

 と言って(B)(A)に対する批判とした思考を却下して終わる。しかし、先生自身は (B)に代わる自分なりの批判(X)を決して展開することはしない。

 田川先生はこうも言う。

 「人間は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。或いは人間の生の一部を外に投影して、そこから人間の生が生まれて来るかの如くに錯覚したりする」という。しかし、これも、上の(A)(B)の関係性の応用問題である。

 「こういう場合、『根拠』は目的と大差なくなる。『何によって』がいつのまにか『何のために』にすりかえられる。人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部分の抽象、によって人間の生の全体を取り仕切ろうとすれば、人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。そういうゆがみを我慢できる人がいるとすれば、自分自身の食って寝る現実の生活は自分の思想と切り離してある程度円満に充実して営むことができているからである。」

 お言葉を返すようですが、先生が「宗教とは何か」などという悠長な思索に耽っていられるのも、ご自身「食って寝る」ことがかなり余裕をもって確保できているからではないでしょうか。それは、カトリックを売りにして流行作家にのし上がった遠藤周作が、印税で「食って寝る」をしっかり確保して、なお余勢を駆って銀座かどこかのクラブで女性と酒を酌み交わしているのとどう違うでしょうか。

それなのに先生は仰る。

「もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と応える以外にない。それ以外は危険である。以上の点を押さえた上で、なおかつ敢えて鮮明に言い切っておこう。人は何のために生きているか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのように尋ねることが間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて、我々は食って寝るために生きている、と私は言う」と。

 また、別のところで「人間にとって『正しさ』の基準は食って寝ることの確保である」とも言われる。このような語り口を私は田川節と呼ぶ。

 さらに続く。

 「人間が食って寝ることを『たったそれだけのこと』などと呼ぶのは、あきれるべき暴言である。たかが食って寝るだけのこと、などと鼻の先であしらうような奴に出会うと、わたしはぶん殴りたくなる。現在、飢えて死ぬ危険に直接さらされている者は、世界の人口の過半数をしめる。」

 まさに「田川節」の真骨頂である、と私はいいたい。

 「宗教とは何か」の第一部「宗教を越える」の(二)では「『知』をこえる知」が論じられ、そこに「宗教的感性では知性の退廃を救えない」と付言されている。

 曰く、「知に対して宗教を対置させるのは、実は近代のものの考え方の特徴である。近代以前では、むしろ宗教こそが最高の知を与えるものだと考えられたことが多かった。啓蒙主義が出現するまでは、宗教こそが人間の知の最高形態、最も奥深い知、とみなされていたのだ。」

それはまあ、そうかも知れないな、と、私も一応同意しよう。

 だが、「人間の営みの中で宗教がしめている位置がいつも同じということはないので、時代によっては知性を代表し、知の中の知、最高知、とみなされたし、時代によっては宗教が『最も深い感性』を代表するものとみなされる。しかし、宗教がこのように『感性』の側に位置づけられるのは、世界史の大きな流れの中では、近代にのみ見られる特殊な視点なのだ。」

 ああ、そう言うものですかね、と、宗教史に弱い私はうなずくしかない。

 「キリスト教で言えば、生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教の『知』の権威を克服しようとした。当時のユダヤ教においては、『聖書』(旧約)が知の最高かつ絶対的な形態として固定化されていた。そのように『書物』の文字に固定化された『聖なる知』は、当然のことながら、生きた人間の生活を不当に束縛するものとなる。生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教を克服しようとしながらも、なおこの『聖書』の権威主義にとらわれていた。だからこそ、自分を『使徒』と呼んだパウロは、その種の『知』に対して、『霊』の自由な働きを強調したのである (2コリント3・6) 。パウロは他方で、ヘレニズム的な地中海世界の文化・宗教の状態に広く接していた。そしてそちらはそちらで、『知』が人間性の根本として宗教的な憧憬をはらんで主張されていた。それに対してもパウロは、『人間の知』を越えるものとして『福音宣教のおろかさ』を持ち出した。(1コリント1・23)」

 おやおや、田川先生、あなたは「宗教批判」と「宗教の克服」を論じる時の「宗教」は、仏教、回教、キリスト教などの個々の宗教の個別性を捨象して抽象化した「宗教」のみを扱うと言われたのに、思わずご自分の溢れるほど膨大なキリスト教の知識がここにチビリと漏れ出てしまいましたね。それは、まあ許します。

だが、先生はさらに、「この『霊』は宗教的『感性』ではなく、『神の霊』であり、『おろかさ』は『神の賢さ』なのである。」と続ける。

 ここまでくると、先生のキリスト教に関する蘊蓄は、「おチビリ」の抑制を越えて、もうダダ漏れの「お漏らし」の観がありますが・・・!

「本来『神の知』であるはずの『宗教知』が、人間の作った宗教的権威によってだめにされたので、もう一度『神の知』を持ち出して、『人間の知』の限界を越えようとしたのだ。」 

 この辺りは田川先生の十八番(おはこ)の論理が躍動する: (A)(B)が克服したという、しかし(B)(A)を別の言葉で置き換えた(A’)にすぎない。だから(B)(A)の単なる言い換えで、結局、なにか変わったかのように錯覚するだけのことだ。そして、ここでも先生は(B)説をコケにしておきながら、ご自分の独自の批判(X)は一切語らない。ずるいぞ!

 「そもそも、古代の伝統的『宗教知』は、そこに人間性に関するさまざまな真実が内包されているいうものの、同時にさまざまな迷信も含まれ、かつ、それが社会的な権威になればなるほど、体制秩序をゆがんで表現するイデオロギーともなった。」

 この点には私も100パーセント同意できそうだ。自然科学や社会科学の進歩は宗教を迷信から浄化し迷信を駆逐する力を持っており、是非そうあってほしいと私も願う。

 「近代になって、知の領域においては、宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまで宗教のしめていた位置にとって代わった。」

 それは当然の成り行きだと私も言いたい。事実、私自身も「自然宗教」一般について語ったとき、全く同じ主張を展開した記憶がある。

「はじめのうちこそ(18世紀から1960年ごろまで)、最高知の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。」

 えっ?そうなんですか?一体それはどういう意味でしょう?

 「近代合理主義の『知』は。その対立物としての『宗教』をかえって必要としたのである。」

へえー!なるほど、そう言うことですかね。

 「ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのと言う『優秀な』自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。」

 確かにそういう面はありますよね。なるほど。

 「近代的合理主義の方は、『人間性の深み』という虚妄な部分、本当は存在しない虚妄な部分に手をふれなければ全てが許されるので、じっさいには、人間の現実生活のすべての領域において権威をふるい、今もふるい続けている。他方宗教の方は、虚妄の領域において『知性』を批判、克服する『作業』に安住することによって、現実の領域での『合理主義』の横暴を追認する役割を果たしている。」

 皆さん、田川先生の言いたいこと分かりますか?もし、分かりづらかった、もう一度よーく読み返してください。先生は大切なことを言っていますよ!

「けれども人間性の深みは、それだけを取り出して見ることなどできはしないのだ。(中略)『人間性の深み』が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。『人間性の深み』を特別に担当する部門がつくられれば、『深み』が人間性から切り離されて、虚妄になる。」

 お分かりかな?難しければ、読み飛ばしていただいて結構です。

ここから話は(三)「近代の克服としての宗教」批判  ―宗教学という逆立ち― へと進む

「(宗教学は)これも啓蒙主義の申し子として生まれた学問ですけれど、これそのものが一つのイデオロギーです。」

 私も全く同感です。

 「まさに近代科学が行き着くところまで行き着いた現代こそ、近代科学ではつかみきれない、もっと奥深い宗教によって人間の心底に至ろうではないか、という形でもう一度宗教の復興が叫ばれる、というのが『近代の克服としての宗教』と言うことです。」

 実にうまいこと言われますね。田川先生。

「宗教が近代を克服するものとしてしゃしゃり出てくるのは、目くそが鼻くそを笑う類いでございまして、近代宗教は実は近代合理主義と根は同じ仲間のくせに、相手の悪口を言っているという構図になるわけです。」

 ますます面白くなってきました。

「いわゆる宗教学というものは決してすべての宗教をていねいに研究するものでもなければ、個々の宗教を、例えばキリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教といった個々の宗教を、丁寧に研究ものではございません。宗教学は、特にキリスト教とか仏教の研究を意識して避けて通っている学問だ、と言うことをお知りいただいてもいいんじゃないかと思います。」

 だから言ったでしょう?田川先生の「宗教学」とはまさにそういうものなのです。そして、私はひと言付け加えたい。田川先生、貴方もそのイデオロギーの信奉者ですよね、と。

「結局、その中で今日まで生き残っている考え方は何かといいますと、すべての人間に何か宗教的なものがあるんだと、これが、キリスト教社会では、キリスト教という形で表現され、仏教社会では仏教という形で表現され、それぞれのところでいわゆる歴史的宗教として表現されるんだけど、それは歴史社会それぞれに従って表現されているにすぎないのであって、一番根本には『宗教』そのものがあるんだという考え方です。つまり『宗教』の普遍的な本質を抽象するのに、それを何かはっきりしたものとして示さないで、何となく曖昧に『宗教的なもの』としておくわけです。それは、まさに近代科学の発想そのものなのです。」

 先生、これこそ「イデオロギー」の一種ですよね?!

「すべての人間に共通する宗教そのものなるものがあるのだという発想は、啓蒙主義から出てきているという点に、ご注目頂きたいと思います。(中略)ある意味でキリスト教を克服して、近代科学を打ち立てようとした、そこにあるイデオロギーの動きが啓蒙主義だったわけです。ですから啓蒙主義の段階におきましては、これはキリスト教に対する反発として言われていたわけです。」

 ちょっとだけ皮肉をいわせえてください。もしすべての人間に共通する宗教そのもの」があるのなら、現代社会でかくも大勢の人が無神論者、乃至は無宗教者である事実をどう説明されますか?ひょっとして、先生もキリスト教に反発して、キリスト教を越えたいとお考えなのでしょうか?

 しかし、私は言わせていただきたい。すべての宗教をそのイデオロギーの対象として処理されるのは結構です。ただし、どうかキリスト教だけは除いていただきたい。なぜなら、キリスト教の「宗教」は啓蒙主義とは無関係に上から来るもので、キリスト教の宗教的な真理に限っては、人間がみずからつくり出したわけではなく、上から、つまり、「わたしはある」というご自分の名前を名乗られた天地万物(宇宙)を無から存在界に呼び出し、今も呼び出し続けている神から「啓示」として与えられたものだからです。その啓示は一回的な出来事として、「イエス・キリスト」において決定的に示され完成されたのであって、つまり神の側からの選びによって生じた出来事だからです。それは自然の一部にすぎない人間が自分の知恵で考え付くことのできる事柄ではないはずです。

 実は、先生ご自身も、これとそっくりなことを考えておられますよね?私は知っていますよ。

 しかし、そのあとが違います。田川先生は、「ところが、世界のあらゆるところでいろいろな宗教を知ってしまうと、別にキリスト教に全然触れたことない他の諸民族においても似たような宗教的発想は多く創り出されているではないか、と言うことに気がつく」と言われます。

 ちょっと待った!そんなことが簡単に言えるでしょうか。先生は遠藤周作を批判する時、遠藤は聖書を引き合いに出しておきながら、肝心なところで全く真逆の解釈を平然と持ち込む。しかも学問的な外見のもとに!と痛切に批判されたのではなかったでしょうか?今先生ご自身がなさろうとしていることは、それとどこがちがいますか?

 ここで田川先生は、世界のあらゆるところでいろいろな宗教、例えば、ゾロアスター教、ヒンヅー教、イスラム教、神道、などの諸宗教を知ってしまうと、キリスト教と似たような発想が作り出されていることに気付いた、というようなメチャクチャな結論にご自身も達した、と強弁されるおつもりですか?

 私なら、これらの諸宗教を正確に観察しさえすれば、だれでも誤ることなく、キリスト教だけは上からの宗教、啓示宗教、つまり「超自然宗教」であるのに対し、他の宗教はまがいもなく全て「自然宗教」である、という決定的な違いに簡単に気付くはずではないかと考えます。

 私は前のブログでホイヴェルス師の「悲しき雀」の話を書きました。

 僅か5ミリ立方にも満たない脳みその雀でさえ、実像と虚像の区別をたやすく見分けたのに、生物の中で最大の脳みそを備えた人間の学者が「ザイン」(Sein=実在)としての神と、「シャイン」(Shein=虚像)としての神との厳然たる区別をどうして見分けることができないのか不思議でなりません。

 この明白な事実に敢えて目を覆い、白を黒と言いくるめるような大嘘を無理やりに取り込まなければ、啓蒙主義も、それを批判的に克服した近代宗教学も、現代宗教学も成り立たないのでしょうか?

 啓蒙主義は、キリスト教を否定し克服するための科学的イデオロギーであって、「この段階の宗教論は宗教を『上』から引きずり下ろすことにのみ懸命で、その結果逆に、人間性を抽象性の高みへと追い上げてしまったのです。」「これがつまり近代科学の発想です。」と田川先生は言われる。

 しかし、宇宙を無から創造した「わたしはある」超越神をひきずりおろして、無理矢理に自然宗教の神、つまり人間の想像力が自然に投影した神と同列に置くことによってしか近代科学的宗教学が成立しないとすれば、それはキリスト教を否定し、乃至は拒絶するイデオロギー以外の何ものでもありません。私にはそのような歪んだ、誤った、イデオロギーと付き合っている暇はない、と言いたいです。

 啓蒙主義は自然宗教の概念を復権して「要するに、まず宗教と言う基礎がなければならない。(中略)どんな啓示宗教であろうとも、何らかの形で自然宗教の岩の上に建っていると言える」と言うのでしょう。

 百歩ゆずって、「超自然神」が初めてアブラハムに語りかける以前は、アブラハムも確かに自然宗教を信じていたでしょう。たとえば、独り子のイザークを生贄として殺して、祭壇の上で焼き尽くせと神に要求されれば、アブラハムは苦しみながらも自然宗教的なメンタリティーでそれに従おうとしました。しかし、天使に制止され、思いとどまって以来、彼はその意味での自然宗教性から解放されていったのでした。また、4世紀初め、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教として取り立てたときを境に、自然宗教を拝んでいた民衆が自然宗教のメンタリティーのまま圧倒的な勢いでキリスト教になだれ込み、それがキリスト教徒の主たる部分として定着して今日に至っていますから、現代のキリスト教の中に自然宗教的要素を探せば有り余るほど見つかるのは当たり前です。だから、宗教学がその面にのみ着目してキリスト教も自然宗教の一つと見做したければ、出来ないことではありません。しかし、それはキリスト教の本質的部分を捨象することなしにはできないはずです。

 話はミルチャ・エリアデに飛ぶ。

 ルーマニア人の宗教学者だが、田川先生によれば怪しからんいい加減な学者だそうです。私も若いころ注目したことがありますが、よく覚えていません。

 「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると勘違いしているのです。」「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。こういう手品は成功するはずもありません。」「学問的作業のおそろしさはそこにあります。出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」

 この「ずぶずぶの近代主義・・・」とか、「ずぶずぶのイデオロギー・・・」とか、「ずぶずぶの無反省・・・」とかは、私が愛してやまない「田川節」のまさに真骨頂です。この「田川ぶし」を私は先生の遠藤周作批判の中でもすでに何回か聞きました。それが今回は豪華3連発。私はもう大満足で今回のブログを終わりたいと思います。

 ただ、最後にもう一節だけ引用させてください。

「以上、宗教的な『非合理性』をかつぎだして、これこそが近代科学のもたらした退廃状況を克服するものだ、とする立場は、実は近代科学の発想の申し子にすぎない、とい言うことがおわかりいただけたと思います。ただし、最近目立つ現象は、宗教学のことなど全然知らない人も、宗教について何となく同じような考えを持つようになってきております。これは、現代世界の状況が、宗教学を知らなくても、何となく同じことを考えるようになる、と言うことだと思います。イデオロギーとはそういうものです。ブルジョワ的な学問である宗教学と同じ発想が、いまや宗教的庶民層に広くひろがった、ということです。我々に関心があるのは、こういう宗教的庶民層の状況にどのように切り込めるかということです。」

 田川先生の宗教批判はここでひとまず置きますが、鋭い指摘を含む上のパラグラフは次回でいささか重い問題になるでしょう。

 私は、田川先生の鋭い指摘をお借りして遠藤周作をメッタ切りにしましたが、実は、その返す刀で田川批判に切り込もうと企んでいたのです。しかし、結果的には先生の啓蒙主義に基礎を置く宗教理解というイデオロギーを拝聴するだけこんなに長くなってしまいました。

 しかし、「宗教とは何か」という一冊を著した田川先生は、結局、最後まで「宗教とはこれだ」というご自分の結論(X)を出すことから逃げたまま終わっている。

 本当の「田川批判」はこれからです。

コメント (33)
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