:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第15信 ボンベイの街角(b)カラスと乞食の子供たち

2021-01-16 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

第15信 ボンベイの街角 

 (b)カラスと乞食の子供たち

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ボンベイの街角 ホイヴェルス神父と道端の三匹のやぎ

 

 ボンベイにはカラスが実に多い。カラスと言えば、人はすぐイソップ物語に出てくる真っ黒で大きなずるがしこい鳥を思い出すかもしれないが、ボンベイのカラスはその点ずっと愛すべき姿をしている。それは、日本のカラスより一回り半ぐらい小さくて、首や背中はむしろグレーに近い色をしているからだ。

 木の枝と言わず、屋根の上と言わず、道と言わず、畑と言わず、はては駅のレールの上までも、カー、カー、クロワ、クロワ、と飛び回る。それが朝からやってきて、窓の外の木の枝で、五羽も十羽も鳴きだすと、もうおちおち寝てはいられない。窓から寝ぼけ顔を突き出して、「うるさーい!」と怒鳴りつけると、さすがにドキンとしたらしく、二分か三分だけ黙っていた。

 しかし、あるインド人の若い神学生の告白によれば、彼がスペインで勉強していたころ、カラスの鳴き声が聞こえないのが寂しくて、ノイローゼになりかけたそうだから、慣れと言うものは恐ろしいものだ。

 そのカラス君、天上天下誰にも制約されず、勝手な時に勝手な所へ飛んで行って、何かしら見つけて食べている。そこにはフクロウ君のような哲学的な趣はなく、鶏の勤勉さもなく、また、白鳥のような気品にも欠けている。どう見ても生きてゆくことの深い真面目さが見あたらない。

 ところが、人間と言うものは憐れなもので、どうかするとこのカラスたちのように生きて見たがる。その模範的なたとえがボンベイの小さな乞食たちだ。

 十四、五歳にしてはえらく老(ふ)けて見える女乞食が、駅のホームで、まだ目も開いていない裸の嬰児(えいじ)をコンクリートの上に直(じか)に横たえて、物を乞うていた。見ていると、憐れを通り越して訳もなく腹立たしくなった。

 考えようによっては、か細い泣き声で存在を主張しているこの嬰児が、すでに最年少の乞食の仲間なのかもしれない。この子も運よく生き続ければ、五歳にして独立して稼ぎはじめるだろう。時には、人の哀れを買うために、親の手で目を潰されたり、手足をかたわにされることもあるという。彼らは寺院の門前に、市場に、街頭に、駅に、そして、電車の中にまで入ってくる。彼らのやることは決まっている。側ににじり寄ってきて、右手をまず自分の額へ持ってゆき、それからその手を差し伸べて「ジー・パイサ」と言う。「旦那さん、お金を」と言う意味だ。黙って知らん顔していると、人の足元にうずくまって、額を僕の靴に擦り付けて、また「ジー・パイサ」とやる。気味が悪くなるほどやさしく人の足を抱くこともある。そこでうっかり小銭をやると、腐肉に群がるカラスのように、他の子供までやってくる。知らん顔を続けると諦めて別の人をつかまえて、同じ事をはじめる。「シッ!」と言って足を鳴らせば、カラスのようにパッとさがる。今はまだどこかに可愛さを残しているこの子たちも、やがて「もらい」の一部で極端に質の悪いタバコを吸いはじめ、非行を覚える。そして、そこからまた、新しい不幸な子供たちが生まれる。大抵は早死にする。長く生き延びても早晩野垂れ死には免れない。それでも、三日やるとやめられないのがこの商売。仕事を与えても受け付けない。施設に入れても脱走する。カラスのように自由に生きたいからだ。

 では、どうしてこんなにたくさんの乞食たちがいるのだろう?それはインドが貧しいからだ。

 では、貧しい社会がどうしてこんなに多くの乞食を養えるのだろう?それはインドが富んでいるからだ。

 事実、ぼくが一番おどろいたのは、どれだけ多くのお金が施しとしてばら撒かれているかと言うことだった。これはカースト制度を裏付けている輪廻の思想を別にしては理解できないのではないか。

「回り回って、俺は今乞食に生まれついた。だから貰うのが当然」と言うものがいる。よい乞食に徹すれば来世では運よく高いカーストに生まれるかもしれない。社会秩序を乱すような向上心はむしろ罪でもあろう。

 そして他方では、「今余っているものを施して、それで来世で乞食に生まれずに済むのなら、こんないい話はない」と考えている者がいる。こうした思いが無意識のうちにこの酷い社会悪を支えているのだ。これは愛ではなく、利己主義のあらわれにしか過ぎない。金持ちも同じカラスの化身だ。乞食の一日のもらいが底辺労働者の一日の汗の値より多いことは何ら問題にはされない。乞食の長者もインドではあり得ない話ではないのかもしれない。

 さて、インドのカラスより、イソップのカラスより、もっと狡く欺瞞にみちたカラスの群れがいると言ったら、あなたはそれを信じますか。それが現代の資本主義社会の中でうごめいているぼくたち自身の姿であるとしたら・・・。

 ぼくたちが「ジー・パイサ!」と言って手を差し伸べる相手は、太った旦那さんでも、カメラを肩にした金持ちの観光客でもない。それは、自分の利益を追求してやまないブルジョワ社会それ自身だ。そのなかに住む人間の心は多かれ少なかれみんなカラスに成り下がっている。

 一方では、「運命に逆らってはいけない。向上心を持ち、社会変革を意図し行動するものは弾圧される。親に迷惑がかかる。家族を養っていけなくなる」と言う者がおり、他方では「要求されたときは気が進まなくても分けてやるのが身のためだ。うっかりするとあの世を待たず、この世で革命にひっくり返されてしまうから」と言うものもいる。彼らの輪廻はこの世の次元で親子の世代で展開される。しかし、誰もカーストの制度が、輪廻の思想が、虚妄であり悪である現実を見ようとはしない。愛のない盲目の利己主義者だからだ。

しかし、この現代のずるがしこいカラスたち、何と上手な弁明で自分を誤魔化していることか。キリスト者までがそんな社会を是認する。修道者までも聖なる従順をその弁明の盾とする。

 貧しいと自称する黒いカラスたち。富と言う粉をふりかけた白いカラスたち、羽に十字架を染め抜いた敬虔なカラスたち・・・。

 カラスは自由を欲しがる。それも放縦な自由を。彼らは真理と正義と愛の軛(くびき)からも自由になりたがっている。彼らは勝手な時に、望むところで、好きなだけ欲望を満たす以外には何一つしようとはしない。

 それでいて、彼らは自分たちが正しいものであると「信じている!」

 シャルル・ペギーであったか、フランス語で痛烈なことばを吐いた人がいた。

 Je crois.  Crois croire.   Crois!  Crois!  Crois!   Saro!

(ジュクロワ  クロワ クロワール  クロワ!  クロワ!  クロワ! サロー!)

  我は信ず。 信じていると信ず。 信ず!  クロワ!  カー!  馬鹿野郎!

 

ホイヴェルス神父とかつての同僚 インドでは、人は早く老けこむ

 

 上の一文は、半世紀以上前に上智大の中世哲学研究室の助手をしていた26歳の全共闘シンパの作文だ。今読み返すと、全く耳が赤くなるような何とも気負った生煮えの妄言に思える。今のインドの人がこれを読んだら怒るかもしれない。

 しかし、新型コロナウイルスのパンデミックを前にした日本人の対応、特に政治家たちの醜態を見れば、私が予感したことは見事に当たっていると言えるのではないだろうか。

 なぜすべての国民にPCR検査を徹底し(安倍のマスクに無駄なお金を捨てるくらいなら、これは安いものだ。)、そして陽性者の全員を必要期間ホテルに隔離し、陰性者には皆、安心して生産活動に精を出して経済を支えてもらう、と言うシナリオを選べないのか。これが一番早道で、一番安上がりで、一番効果的に経済を支える道だとどうして思わないのか。道行く人の誰が陽性者か分からない状態が放置されるから、疑心と恐れと混乱が生まれて、全てが麻痺してしまうのではないか。

 危機管理で決断を求められている立場の者が、全員優柔不断で、全員責任を回避している。みんな火事場泥棒的に目先の自分の利益だけを考えている。このままでは、日本もイギリスの破綻の二の舞に向かって転げ落ちていくことになるのではないか。

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★ 友への手紙 インドの旅から 第14信 ボンベイの街角

2021-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

第14信 ボンベイの街角

a) 懐かしの学校

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 四谷の聖イグナチオ教会で数年にわたりホイヴェルス神父様の早朝ミサの祭壇奉仕者を毎日勤めてきたわたしは、東京から直線距離で7000キロ離れたインドのボンベイ(今の名をムンバイと言う)で再会して、孤独で緊張に満ちた初めての海外旅行の後に、まるで放蕩息子が父親に再会したような安堵感と幸福感に浸った。(以下、当時の記事)

ホイヴェルス神父様と昔の教え子たち

 

 お着きになった翌日、ホイヴェルス神父様は懐かしげにバンダラの町を散策された。

 まず、半世紀前に教鞭をとられた学校とセント・ピータース教会へ。外回りの塀と、一、二の建物がまだ昔のまま残っていた。教会の前の墓地も昔の面影をとどめている。昔のカトリックの習慣で、教会の入り口には有力者の信者の墓があり、地面に大理石の板がはめ込まれていて、教会を訪れる人はみなその上を踏んで通ることになる。神父様はこの習慣をお嫌いになった。

 聖堂の中の右手には、この教会で亡くなったイエズス会士の名が壁に刻まれていた。

 「この人を知っている。ああ、この人も良く知っている・・・」と、一人一人の名を読み上げながら、「私もインドの激しい気候のもとに働いていたら、この人達のように早く死んでいたでしょう」と、感慨深げであった。当時の人はもうほとんどここに残っていなかった。

 グラウンド。そこには昔、ココナツの林が良く茂り、水牛の群れが昼寝していたものだそうだ。今は広い芝生となり、朝夕、人夫が水を撒いている。人件費が高い日本では考えられないほどの労働が何の不思議もなく広い芝生の中に注ぎ込まれている。

 カトリックの学校では、カーストの身分差別はどう処理されているのだろうか。とにかく、大体は上流階級の子供達である。明るくて元気よく、実に屈託がない。神父様も、かつてはこんな良い子たちと一緒にクリケットやホッケーに打ち興じられていたに違いない。

 インドはホイヴェルス神父様の初恋の国である。

ホイヴェルス神父と再会を果たして

 布教雑誌「聖心の使徒」に載った第14信もたったこれだけの短いものだった。しかし、その背景には多くのことがあった。

 ホイヴェルス神父は1914年7月、24歳の神学生の頃、未来の宣教師の実習活動として、インドのバンダラの聖スタニスラオ・カレッジで教壇に立った。当時彼は黒い髭をたくわえていた。ある日、インド人の少年たちとグラウンドでスポーツに興じている間に、気候に慣れない北欧人の体は強い太陽を浴びて日射病にかかって倒れてしまい、実習を中断してドイツに送還されてしまった。

 イエズス会のドイツ管区長は、優秀で将来を嘱望されていたホイヴェルスが帰ってきたことを大いに喜び、管区の将来を担う逸材としてずっと国内の要職につけ、二度と宣教地に出さないことを決め、本人にもそう言い含めた。

 ところが、若いホイヴェルスは、いったん宣教地の味をしめた後では、もはやドイツ国内で会の上長、管理職で一生を終わるなどと言うことはとても考えられず、東洋の使徒フランシスコザビエルのようにアジアの宣教の夢を捨てることは出来なかった。

 1920年ハンブルグで司祭に叙階されたころ、日本の中国地方5県の宣教がドイツのイエズス会に委託されることが決まり、ホイヴェルス神父の修道院の掲示板にも宣教志願者の募集が張り出され、彼の同僚の若い神父が応募して採用された。

 ところが、出発の間際になって、その同僚が急に病気で倒れドクターストップがかかった。時あたかも、当時の管区長の任期が終了して新しい人が就任したばかりだった。ホイヴェルス神父は、彼の扱いに関する前任者からの引き継ぎが終わっていない間隙を縫って日本行きの代役を申し出、新任の管区長はホイヴェルス神父の言葉をあっさりと受理してしまった。こうして、まんまとドイツ脱出に成功したホイヴェルス神父は、1923年6月29日にハンブルグを発って8月25日に横浜に入港した。

 関東大震災が東京を襲ったのは、その一週間後のことだった。

 「日本は地震国」としっかり学習してきたホイヴェルス神父は、慌てず騒がず、片手で本箱の本を護り、もう一方の手でドイツからわざわざ持ってきた戸棚の上のトップハット(シルクハットとも言うが、要はタキシードを着た手品師がウサギをとり出して子供たちを喜ばせるあの黒い筒形の帽子)を後生大事に護っていたのだった。

 大地震でパニックになって外に飛び出して震えていた先輩の宣教師たちは、地震がおさまったのを見極めて自室から悠然と現れた神父の口から、皆さん、何をうろたえているのですか?日本は地震国ではありませんか?という言葉を聞いてショックを受けた、と言うのは有名な話だ。

 その後40年以上日本を離れず、頑として里帰りも拒んできたホイヴェルス師が、突然インドに行くと言い出されたのは、神学生時代1年余り教鞭をとったムンバイ(ボンベイ)のハイスクールが懐かしかったからだけではなかった。

 キリスト教2000年の歴史を大きく3分割する二つ目の重大な節目に際して、ホイヴェルス師はその大変革の印を直接肌で体験したかったからに違いない。

 一つ目の変革は、紀元312年前後に訪れた。

 生前イエスは弟子たちに「聖と俗」、「神の国と地上の帝国」を互いに相容れない世界として峻別し、教会が世俗の覇者と慣れ合い癒着することを厳しく禁じられた。聖書にはこう書かれている:

 人々はイエスに言った。「先生、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ:13-17)

 このイエスの教えは、ローマ帝国の最底辺の貧しい庶民たちの間で急速に広まり、ひたすら神に寄り縋って生きはじめた。

 これは皇帝にとっては極めて面白くない現象だった。皇帝にとって帝国の底辺の庶民は生かすも殺すも皇帝の意のままの、いわば「奴隷女」のような存在だった。ところが、気がついたら、自分のものだと思っていた女奴隷たちが、キリストと言う色男の花嫁になって自分を捨てはじめた。プライドを痛く傷つけられて怒り狂った皇帝は、自分を裏切った女奴隷は皆殺しだとばかりに、キリスト教徒を迫害し、捕えた信者をライオンに食わせる見世物として楽しんだ。しかし、殺しても、殺しても、殉教者は聖者として崇められ、改宗者はあとを絶たず増えるばかりだった。

 そんな時、権力者はどうするか。戦術を180度転換し、迫害をやめて懐柔に転ずる。まず、皇帝自身がキリスト教を受け容れ、キリストが弟子にしたガリラヤの無学な漁師の後継者たちには、皇帝の庇護のもとに元老院の会堂のような豪壮な建物(バジリカ)で元老院の議員の華麗な式服を身にまとってミサや祭儀を行わせ、宮殿での優雅な生活と自由な宣教活動が許される。さらに、皇帝の軍隊が教会を護り、その見返りに、教会は皇帝に神のご加護を祈ることで手を打つことにした。

 キリストの弟子たちはこの誘惑的な処遇に、コロッと魂を売り渡した。その結果、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教化していく。皇帝と教会の利害が見事に一致し、迫害は止み、パックス・ロマーナ(ローマの平和)が訪れた。

 こうして、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」というキリストの厳しい教えを守り、迫害にめげず、血の代償を払いながら永遠の命の源であるキリストに恋して、「キリストの浄配」、「キリストの花嫁」となった貧しいながら誇り高い帝国の最底辺の人々は、教会指導者たちの変節で、皇帝の女奴隷よりももっとひどい皇帝の「妾」、「娼婦」に成り下がってしまった。

 結果は地上的には大成功に見えた。しかし、皇帝の宗教になったキリスト教になだれ込んできた民衆は、それまで皇帝を神とし、皇帝が拝んできたギリシャローマの神々を信心していたときと全く同じレベルの宗教心のままキリスト教徒を名乗ることになった。

 キリストは「回心して福音を信じなさい」と言われたが、人々は「回心」とは何か、「福音」が何であるかを全く理解しないまま、ただ言われるままに洗礼を受けているにすぎなかった。それはそうだろう、昨日までキリスト教を信じるのは命がけだったが、いまやローマ帝国で出世したければ、急いでキリスト者にならざるべからずの時代に入ったのだから。

 イエスの「神のものは神へ、皇帝のものは皇帝へ」の教えは、僅か300年で反故(ほご)にされ、「神の民=キリスト教会」と「この世の覇者=皇帝」との政教一致の時代に突入した。そして神聖ローマ帝国に象徴されるような「皇帝」とその「娼婦(教会)」の蜜月時代は、中世を越え、宗教改革の時代も超えて、植民地支配者の船に乗って宣教師が日本に渡来した時代以降も、さらに、第二次世界大戦後まで綿々と続いた。「キリスト教民主同盟」などの保守政党はその名残と言うべきものであっただろう。

 しかし、1964年、第1回東京オリンピックの前後に、コンスタンチン体制の時代が終わろうとしていた。いや、実質的には既に終わっていた。そして、その事に気付いたのが第二バチカン公会議を提唱した教皇ヨハネス23世だった。その後を受けて公会議を主催中のパウロ6世教皇が、今インドのボンベイ(ムンバイ)にやって来ている。

 ホイヴェルス神父様は、キリスト教の歴史が第3期に入ったこの「時の印」を敏感に受け止め、教会の大変革の空気を肌で感じようとしてインドに旅されたのではなかったか。

 313年に皇帝の妾として囲われた「キリストの花嫁」(教会)は、すでに年老いて醜くなり、皇帝から疎まれていた現実にようやく目覚め、未練たらしく地上の覇者に縋りつくのをやめて、コンスタンチン体制ときっぱり決別して、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返す」と言うキリストの教えの原点に立ち返る大変革がまさに始まったばかりのときだった。

 だが、始まったばかりのキリスト教の第3期に、日本の教会はまだ十分に溶け込んでいるとは言えないのではないか。

 

聖スタニスラオ学校のスタッフとの遠足

 

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