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友への手紙
インドの旅から
第15信 ボンベイの街角
(b)カラスと乞食の子供たち
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ボンベイの街角 ホイヴェルス神父と道端の三匹のやぎ
ボンベイにはカラスが実に多い。カラスと言えば、人はすぐイソップ物語に出てくる真っ黒で大きなずるがしこい鳥を思い出すかもしれないが、ボンベイのカラスはその点ずっと愛すべき姿をしている。それは、日本のカラスより一回り半ぐらい小さくて、首や背中はむしろグレーに近い色をしているからだ。
木の枝と言わず、屋根の上と言わず、道と言わず、畑と言わず、はては駅のレールの上までも、カー、カー、クロワ、クロワ、と飛び回る。それが朝からやってきて、窓の外の木の枝で、五羽も十羽も鳴きだすと、もうおちおち寝てはいられない。窓から寝ぼけ顔を突き出して、「うるさーい!」と怒鳴りつけると、さすがにドキンとしたらしく、二分か三分だけ黙っていた。
しかし、あるインド人の若い神学生の告白によれば、彼がスペインで勉強していたころ、カラスの鳴き声が聞こえないのが寂しくて、ノイローゼになりかけたそうだから、慣れと言うものは恐ろしいものだ。
そのカラス君、天上天下誰にも制約されず、勝手な時に勝手な所へ飛んで行って、何かしら見つけて食べている。そこにはフクロウ君のような哲学的な趣はなく、鶏の勤勉さもなく、また、白鳥のような気品にも欠けている。どう見ても生きてゆくことの深い真面目さが見あたらない。
ところが、人間と言うものは憐れなもので、どうかするとこのカラスたちのように生きて見たがる。その模範的なたとえがボンベイの小さな乞食たちだ。
十四、五歳にしてはえらく老(ふ)けて見える女乞食が、駅のホームで、まだ目も開いていない裸の嬰児(えいじ)をコンクリートの上に直(じか)に横たえて、物を乞うていた。見ていると、憐れを通り越して訳もなく腹立たしくなった。
考えようによっては、か細い泣き声で存在を主張しているこの嬰児が、すでに最年少の乞食の仲間なのかもしれない。この子も運よく生き続ければ、五歳にして独立して稼ぎはじめるだろう。時には、人の哀れを買うために、親の手で目を潰されたり、手足をかたわにされることもあるという。彼らは寺院の門前に、市場に、街頭に、駅に、そして、電車の中にまで入ってくる。彼らのやることは決まっている。側ににじり寄ってきて、右手をまず自分の額へ持ってゆき、それからその手を差し伸べて「ジー・パイサ」と言う。「旦那さん、お金を」と言う意味だ。黙って知らん顔していると、人の足元にうずくまって、額を僕の靴に擦り付けて、また「ジー・パイサ」とやる。気味が悪くなるほどやさしく人の足を抱くこともある。そこでうっかり小銭をやると、腐肉に群がるカラスのように、他の子供までやってくる。知らん顔を続けると諦めて別の人をつかまえて、同じ事をはじめる。「シッ!」と言って足を鳴らせば、カラスのようにパッとさがる。今はまだどこかに可愛さを残しているこの子たちも、やがて「もらい」の一部で極端に質の悪いタバコを吸いはじめ、非行を覚える。そして、そこからまた、新しい不幸な子供たちが生まれる。大抵は早死にする。長く生き延びても早晩野垂れ死には免れない。それでも、三日やるとやめられないのがこの商売。仕事を与えても受け付けない。施設に入れても脱走する。カラスのように自由に生きたいからだ。
では、どうしてこんなにたくさんの乞食たちがいるのだろう?それはインドが貧しいからだ。
では、貧しい社会がどうしてこんなに多くの乞食を養えるのだろう?それはインドが富んでいるからだ。
事実、ぼくが一番おどろいたのは、どれだけ多くのお金が施しとしてばら撒かれているかと言うことだった。これはカースト制度を裏付けている輪廻の思想を別にしては理解できないのではないか。
「回り回って、俺は今乞食に生まれついた。だから貰うのが当然」と言うものがいる。よい乞食に徹すれば来世では運よく高いカーストに生まれるかもしれない。社会秩序を乱すような向上心はむしろ罪でもあろう。
そして他方では、「今余っているものを施して、それで来世で乞食に生まれずに済むのなら、こんないい話はない」と考えている者がいる。こうした思いが無意識のうちにこの酷い社会悪を支えているのだ。これは愛ではなく、利己主義のあらわれにしか過ぎない。金持ちも同じカラスの化身だ。乞食の一日のもらいが底辺労働者の一日の汗の値より多いことは何ら問題にはされない。乞食の長者もインドではあり得ない話ではないのかもしれない。
さて、インドのカラスより、イソップのカラスより、もっと狡く欺瞞にみちたカラスの群れがいると言ったら、あなたはそれを信じますか。それが現代の資本主義社会の中でうごめいているぼくたち自身の姿であるとしたら・・・。
ぼくたちが「ジー・パイサ!」と言って手を差し伸べる相手は、太った旦那さんでも、カメラを肩にした金持ちの観光客でもない。それは、自分の利益を追求してやまないブルジョワ社会それ自身だ。そのなかに住む人間の心は多かれ少なかれみんなカラスに成り下がっている。
一方では、「運命に逆らってはいけない。向上心を持ち、社会変革を意図し行動するものは弾圧される。親に迷惑がかかる。家族を養っていけなくなる」と言う者がおり、他方では「要求されたときは気が進まなくても分けてやるのが身のためだ。うっかりするとあの世を待たず、この世で革命にひっくり返されてしまうから」と言うものもいる。彼らの輪廻はこの世の次元で親子の世代で展開される。しかし、誰もカーストの制度が、輪廻の思想が、虚妄であり悪である現実を見ようとはしない。愛のない盲目の利己主義者だからだ。
しかし、この現代のずるがしこいカラスたち、何と上手な弁明で自分を誤魔化していることか。キリスト者までがそんな社会を是認する。修道者までも聖なる従順をその弁明の盾とする。
貧しいと自称する黒いカラスたち。富と言う粉をふりかけた白いカラスたち、羽に十字架を染め抜いた敬虔なカラスたち・・・。
カラスは自由を欲しがる。それも放縦な自由を。彼らは真理と正義と愛の軛(くびき)からも自由になりたがっている。彼らは勝手な時に、望むところで、好きなだけ欲望を満たす以外には何一つしようとはしない。
それでいて、彼らは自分たちが正しいものであると「信じている!」
シャルル・ペギーであったか、フランス語で痛烈なことばを吐いた人がいた。
Je crois. Crois croire. Crois! Crois! Crois! Saro!
(ジュクロワ クロワ クロワール クロワ! クロワ! クロワ! サロー!)
我は信ず。 信じていると信ず。 信ず! クロワ! カー! 馬鹿野郎!
ホイヴェルス神父とかつての同僚 インドでは、人は早く老けこむ
上の一文は、半世紀以上前に上智大の中世哲学研究室の助手をしていた26歳の全共闘シンパの作文だ。今読み返すと、全く耳が赤くなるような何とも気負った生煮えの妄言に思える。今のインドの人がこれを読んだら怒るかもしれない。
しかし、新型コロナウイルスのパンデミックを前にした日本人の対応、特に政治家たちの醜態を見れば、私が予感したことは見事に当たっていると言えるのではないだろうか。
なぜすべての国民にPCR検査を徹底し(安倍のマスクに無駄なお金を捨てるくらいなら、これは安いものだ。)、そして陽性者の全員を必要期間ホテルに隔離し、陰性者には皆、安心して生産活動に精を出して経済を支えてもらう、と言うシナリオを選べないのか。これが一番早道で、一番安上がりで、一番効果的に経済を支える道だとどうして思わないのか。道行く人の誰が陽性者か分からない状態が放置されるから、疑心と恐れと混乱が生まれて、全てが麻痺してしまうのではないか。
危機管理で決断を求められている立場の者が、全員優柔不断で、全員責任を回避している。みんな火事場泥棒的に目先の自分の利益だけを考えている。このままでは、日本もイギリスの破綻の二の舞に向かって転げ落ちていくことになるのではないか。