:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因? そのー2

2016-09-29 00:33:49 | ★ WYD(世界青年大会...

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

モスクワの出会いパソコン盗難事件の遠因? そのー2

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

次の日、トレチャコフ美術館に行った。英語で案内するロシア人のガイド嬢がバスごとについた。それを若い神父たちが、バスごとに日本語やベトナム語やイタリア語に訳しながら館内の絵画を見て歩くことになるのだが、色んな言葉が同時に錯綜して混沌とした場面になることは想像に難くない。ガイドさんは一般的な説明をしようとするが、訳する神父は宗教的に興味のあるロシアのイコン画の、それもお目当ての有名な一枚を、皆にゆっくり見せたくて先を急ごうとする。テレジアは―そして、実は私も―ガイドさんの説明にはほとんど興味がない。また、貴重なイコン画にもさほどご執心ではない。むしろグループが急いで素通りする各部屋の逸品にこそ興味がある。しかし、脇の部屋の名画に一人で見とれていると、テレジアを視野から失うか、最悪グループの最後尾を見失って自分自身が迷子になる恐れがあった。何しろ、静かな鑑賞にはおよそ適さない人混みで、まるで渋谷のスクランブル交差点か新宿の西口広場のような騒ぎだ。そして、やっとの思いで本隊に追いつくと、皆は一枚の有名なイコン画の前で熱心に絵の説明に聞き入っていた。

  

    「三位一体」これは見るべきもの  「ウラジミールの聖母」これもぜひ見るべきもの  

しかし、その陰で「見知らぬ女」を見損なった

「ヴォルガの船曳」、これも見られなかった、そしてほかのたくさんの名画も・・・

別の日、一行は私がかつて円卓会議の機会に訪れたザゴルスクの修道院に行った。そこでも、若い牧者(LZ神父)の指示通り、私はテレジア番の牧羊犬の任務を忠実に果たした。

その私はと言えば、日本から持ち込んだ夏風邪の名残がぶり返して、しつこい咳と気管支の右側からぞろぞろ上がってくる大量の痰に悩まされていた。

セルギエフ・ポサードの遠望

ソ連時代にザゴルスクと改名されたこの町は、今はまたセルギエフ・ポサードという元の聖人の名前に戻っていた。北の都レニングラードがセント・ピータースブルグの名に戻ったのと同じ要領だ。ロシア人は共産主義時代の記憶を消そうとしているのだろうか。

修道院には、ロシアのこの地に初めてキリスト教を伝えた聖人セルギエフの遺体が今も腐敗を免れてあって、人々の信心を集めている。

 

クレムリンの中の教会 クレムリン宮殿の中央の突き出た屋根の下にプーチンの執務室が

クレムリンの中にも入った。立派なロシア正教の寺院が幾つもあったが、あの政府の建物の中央の屋根の下にプーチン大統領の執務室がある、という説明が妙に耳に残った。冷戦時代にはクレムリンの中は、観光客など一歩も近寄れない聖域だったことを思えば、隔世の感がある。

さて、テレジアの異変に気が付いたのはポーランドのワルシャワ空港に着いた頃だったかと思う。

尋ねると、数日前から足が痛んでいたという。どれ見せてごらんというと、靴を脱いで足を出した。なるほど、甲のあたりが長径6-7センチほど厚く硬く腫れあがって、ピンク色に火照っている。軽く指で触れるだけで飛び上がるほどの痛みを訴えた。

原因を特定しようと質問を重ねると、どうやら虫に噛まれたところが痒くて引っ搔いているうちに、ばい菌が入って炎症をおこして根をはり、腫れあがったらしいことが彼女のたどたどしい日本語から分かってきた。私はたまたま風邪熱を下げるための抗生物質を4日分持っていたが、さて、与えていいものか自信がなく、さりとて、ほかに施す術もなかった。仕方なく薬局に連れて行って、何とか通じたドイツ語で症状を訴えて薬を二種類手に入れたが、顕著な変化は認められなかった。

幸い、110人の中に看護士の資格のある若い娘たちが3人もいることがわかった。さっそく協力を求めたが、彼女たちはさすがにプロだった。腫れの部分が熱を帯びていることがわかると、厨房から氷を詰めたビニール袋を持ってきて私に冷してやるようにと言った。しかし、その氷はどんどん融けていった。冷やす他にしてやれる名案がなかったので、スーパーやカフェーに手あたり次第氷を求めて走り回ったが、どこにも売ってくれなかった。そこでふと思いついて、ジェラート屋さんでアイスクリームを買い求め、ビニール袋に詰めて氷の代わりにそれで患部を冷やした。しかし、ジェラートは固い氷より解けるのが早く、すぐ生暖かい甘い香りの汁に変わったが、今さら食べられたものではなかった。とにかくできることはおよそ何でもやってみた。そして、自分で言うのもおかしいが、いつの間にかすっかり孫娘の身を按ずる孝行爺になっていた。

しかし、心配の甲斐もなく、症状はその後も一向に改善される気配がなかった。次の日、ビッコをひく彼女は、痛む足の靴のカカトを惜しげもなく踏みつぶして、スリッパのようにしてつっかけていた。靴が足の甲を圧迫すると歩けないのだった。

その次の日、彼女はもう靴を履くこと自体をあきらめていた。ベトナム人の女の子から安いゴム草履を借りて裸足にそれを履いていた。これならハナオが腫れた部分に触れないので少しは楽なのだそうだ。

そうこうするうちに、この巡礼の旅もクライマックスに近づいた。

明日はフランシスコ教皇による野外ミサに向けて、朝からバスで会場に向かい、バスの駐車場からされに10キロ余りの道のりを徒歩で会場に入ることになっていると聞いた。会場のそばには200万人分ものバス(単純計算で約5万台)の駐車場などあるはずもないからだ。遠方の駐車場から徒歩で来て、早めに良い場所を陣取り、前夜祭にあずかり、そのまま野宿して翌朝の教皇ミサを待つという手はずになっていた。

とにかく、テレジアの状態は、誰の目にもこの日程への参加は不可能に思われた。彼女はもう何日も痛む足をかばい、無理して歩き続け、反対の足に大きな負担をかけながら何とかついてきた。その結果、腫れていない方の足の関節まで負荷に耐えかねて痛み始めていたのだ。

総責任者のG神父は、彼女の教皇ミサへの参加は無理と見て、会場には行かず現地の共同体の仲間の家に泊まって休む手筈を密かに整えていた。

 

だから、それがどうしたって言うの? パソコンの置き引き事件とどう関係があるの? もうじれったいな! という声が聞こえてきそうですね。ごもっとも!ご尤も! しかし、どうか今しばらくのご辛抱!

経験値から言うと、A4の紙2枚以上の文字原稿は、すでに読者をつなぎとめるには長すぎる。それなのに、この話の落ちまで行くのに、まだあと2枚ほどは必要なのです。だから一旦ここで切るしかありません。

必ず次のブログで落とし前を付けます。しかも、読者の推理が絶対に届かないような奇想天外な落ちを付けますので、どうか今しばらくのご辛抱を!

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ モスクワの出会い=パソコン盗難事件の遠因?

2016-09-15 23:29:37 | ★ WYD(世界青年大会...

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

モスクワでの出会いパソコン盗難事件の遠因?

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

モスクワに入って2日目に本隊が追い付いてきた。ベトナムからの参加者10数名とローマから我々日本人と一緒に行動する部隊も加わって、総勢110名ほどに膨れ上がった。それが3台のバスに分乗して行動する。私は若いLZ神父が責任者を務める2台目のバスに補佐格で乗ることになった。

初日、赤の広場に向かった。大勢の観光客でごった返していたが、特に中国人の多さが目を引いた。広場は110人が一緒に行動するには適さない。決められた時間にバスを降りた場所に再結集して、そこからバスが待機する大駐車場まで一緒にあるいて移動する手はずが周知されたのち、自由解散した。

赤の広場の一角にあるワリシー寺院 その奥はグムデパート

広場は、レーニン廟やワシリー寺院や土産物屋など、気を引くスポットには事欠かないが、時間は限られているので各人が行く先を選択しなければならない。

時間になると、日本人の多くはほぼ間に合って戻ってくる。日本育ちのイタリアやスペインの宣教家族の子たちも決められた時間の10分過ぎぐらいには三々五々集まっている。点呼して一人でも戻っていないと、全員が足止めを食う。さっそく数名の捜索隊が放たれるのだが、浜辺に落とした真珠を探すようなものだ。

赤の広場ではテレジアが戻ってこなかった。東京の共同体のメンバーだというが、私は顔を知らなかった。幸い、一人が彼女を見つけて連れ戻ってきた。よかった、みんな助かった!

そのとき、LZ神父がそっと私にささやいた。「テレジアは日本人のような顔をしているが、実は中国人留学生で、来てまだ1年にもならない。日本語は勉強中だが、たどたどしくまだよくわかっていないところがあるようだ。それに、どこかポーっとしていて、成田からここまでの間もハラハラさせられた。これから先うまくついていけるか心配だ。彼女が迷子になると全員が困ることになる。だから、それとなく目を離さないでいてくれないか。」

なるほど。了解!

責任者は要所要所で大声を枯らして次の行動の指示をするのだが、周りのざわめきにかき消されてよく聞きとれないことが多い。私など、老人が迷惑をかけては申し訳ないと、責任者のそばに寄って耳をそばだてるのだが、あの子は遠いところであさってのほうを向いてぼんやり立っている。日本語が不十分でどうせ耳を傾けても要点が正確に呑み込めないのかもしれない、とも思えた。

そこで私は彼女に「テレジア。今日からわたしがあなたの世話をすることになった。あなたも迷子にならないようしっかり私についていらっしゃい」と言った。

彼女は素直にうなずいて、その後は互いを見失わないほどの距離を保って行動することになった。

さて、皆がバスで移動する場面になった。大型バス3台に110人だから、どのバスも座席には余裕がある。平均20歳台前半の若者集団にとって、リーダーの若い神父たちはお兄さんかお父さん格だが、76歳の私は彼らの「ジージ」(お爺ちゃん)の世代だ。だから、普通は敬遠されて誰もあえて私の隣に座ろうとはしない。早々にがらんとした車内に乗り込んで、前から3列目ぐらいの窓際に陣取っていても、若者たちは私には目もくれず仲良しと一緒にどんどん空いた席を埋めていく。

そこにテレジアが一人で乗り込んできた。まだ日本語が不十分な彼女は、日本人の女の子の仲間にすっかり溶け込んでいる風ではないように思えた。かといって、イタリア人やスペイン人の顔をしていながら日本語がペラペラの宣教家族の子供達の群れにも属していない。暇さえあれば一人離れて海の向こうの母親と中国語でスマホ会話に夢中になる様子も見えて、どこかはかなくソリタリーな空気を漂わせている。

私の横を通り過ぎて後ろの若い女の子たちの中に席を見つけてくれるならそれが一番だと思った。どうせ閉じた空間の中では目を離しても迷子になる心配もないし・・・。ところが、彼女は何となくもじもじ通路に佇んでいるから、つい「よかったら隣に座ってもいいんだよ」と声をかけてしまった。かけてから内心「しまった!」と思ったが、もう手遅れ。彼女は何のためらいもなく私の隣の席に納まった。

団体バス旅行では、たまたま座った席の居心地が特に悪くない限り、乗り降りのたびに毎度席を変え回ることを人はあまりしないものだ。たちまち、どこも馴染みの組み合わせで落ち着いてしまうからだ。

そんな中で、神父というものは、中性的にすべての信者と等距離にいることが期待され、またそう身を処するのが安全というものだ。それなのに、76歳のお爺ちゃんと18歳の孫ほど年の離れた中国人の女の子が巡礼中ずっとくっついて座っていたらきっと目立つことになるぞ、というアラームが頭の隅で鳴っていたが、もう手遅れかもしれない。エイ、ままよ、と開き直る思いもあった。

案の定、最初の一日、二日は、おせっかいな何人かが二人を引き離そうとやっきになって工作したのだが、いつもその場限りで功を奏さない。口実を設けて彼女を別の席に移しても、次の機会には磁石が引き合ってピタッとくっつくように、また僕の隣にいる。みないい加減あきらめて、以来その状態が維持されることになった。

バスの車内で彼女ははいろんな話をしてくれた。語彙が圧倒的に不足する中、漢字の筆談も加えて懸命に話そうとする姿に好感が持てた。中国では自営業の富裕層の両親のもとで恵まれた生活をしているようだった。アメリカやヨーロッパには行かず、日本の私立の美大でデザイン科に入りたいと夢を語った。日本で ≪ダーイスキ≫ なのは、どこへ行ってもトイレがきれいなこと。とか、小動物など生き物なら何を見ても、日本人の女の子がきっと ≪ワー、カーワイイ!≫ と言いそうな場面で、思わず ≪オイシソー!≫ と正直に言ってのける意外性など、まだ見ぬ中国の生きたしたたかな姿が私の眼前にイメージされて、私の興味を大いにそそるものがあった。

バスを降りると、なるべく遠くから見失わないように気を付ける程度に距離を置くのだが、あらかじめバスに積み込まれていたビニール袋入りの昼弁当のサンドイッチと水が配られて食事の時間になると、目が合って、あの磁石の原理が作用してピタッとくっつくように、自然に一緒に木陰に腰をおろすことが多くなり、いつの間にかすっかり仲のいいお爺ちゃんと孫娘のカップルのようにになってしまった。

 

だが、これがまさかポーランドでのパソコンとカメラの盗難事件につながる遠因になっていたとは、その時わたしは夢にも思っていなかった。

では、なぜそうなったのか?

それは、次のブログで順を追って詳しく説明することにしよう。

(つづく) 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 2016 年世界青年大会 (WYD) モスクワの文学巡礼

2016-09-07 00:14:55 | ★ WYD(世界青年大会...

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2016年 (WYD) モスクワの文学巡礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 フヨードル・ドストエフスキー

長時間のバスの移動に耐え、夜は床の上に寝袋で寝る。若者向けの過酷な巡礼は3年前のリオの世界青年大会(WYD)を最後と心に決めていた。

それなのに、ポーランドで開かれる今年のWYDには、ロシアのモスクワとその周辺も巡礼のコースに含まれると聞いて、76歳の心がまた動いた。

モスクワと言えば、ソ連崩壊前夜に「日ソ円卓会議」の正式メンバーとして何度か訪れたことのある懐かしい場所。新生ロシアが今どんな状況か、強く興味をそそられるものがあった。

若者81人からなる日本グループより2日早く成田を発った。本隊を待つ束の間のモスクワの休日は、一人で文学巡礼としゃれこんだ。私はなぜかロシア語のアルファベットが読める。地下鉄の駅名、街の通りの名前が発音できるので、地図があれば一人で地下鉄を乗り継いで、街を歩けるのだ。

ドストエフスキーの家を訪れた。次いでトルストイの住んだ家も訪ねた。入り口で200ルーブルずつ払って写真撮り放題の許可証を首から下げ、それぞれ200枚余り撮ったが、前のブログに述べた通り、数日後ポーランドの盗難騒ぎでカメラとパソコンと共に貴重な画像をすべて失ってしまった。

レフ・トルストイ

プーシキン美術館は彼の生家とは関係がないが、とても見ごたえのある絵画・彫刻の一大コレクションだった。特にミロのヴィーナスやロゼッタストーン、バチカンのラオコーンなど、世界中の逸品の多くの精密なコピーがそろっているのが教育的に思えた。

アレクサンドル・S・プーシキン

美術館の近くには、キリスト降誕2000年に再建されたロシア最大の大聖堂「救世主キリスト」(ハリストス)教会があった。19世紀末に建てられた大聖堂はスターリンの命により爆破されたが、ソ連崩壊後に再建が進められたものだ。高さ103メートルはバチカンの聖ペトロ大聖堂のドームにわずかに及ばないが、1万人が礼拝できる新聖堂はロシア正教会の中心的存在だ。その内部の壮麗さもさることながら、延々と続く儀式の中で途切れることなく流れる音楽が素晴らしかった。ロシア正教ではパイプオルガンを使わない。その他の楽器も一切使わない。混声ポリフォニーの美しくも荘厳なコーラスの響きを専らとする。私はその天上の音楽を1時間ほど聞いてなお飽きなかった。

       

  革命前の救世主キリスト大聖堂    スターリンにより爆破される大聖堂

 

16年前に再建されたばかりの救世主キリスト(ハリストス)大聖堂

 

モスクワ川の遊覧船の旅もロマンチックだった。

私が乗ったのはもう少し小型で船上のデッキで風にあたれた

夜は、かつてグルジア共和国のトビリシで見たダンスが懐かしく、ロシア各地の民族舞踊を楽しめるフォルクローレを見たいと思ってホテルのコンシエージュに助言を求めた。やっているのはホテルコスモス付属の劇場だけということだった。ホテルコスモスと言えば、ソ連がモスクワオリンピックに向けてアメリカの技術者を入れて国威をかけて建設した豪華な巨大ホテル。日ソ円卓会議の宿舎として私も泊まった懐かしい場所だった。しかし、あいにくその夜は既に満席だった。それならボリショイサーカスは、と訊いたが、そこもその夜は席が取れなかった。

  

1980年前後、ソ連の末期に「日ソ円卓会議」がモスクワと東京で交互に開催された時期があった。北方領土問題は今もって解決されていないが、そのために「日ソ平和友好条約」が締結されていないことは、両国の経済・文化交流にとって何かと不都合が多い。その不利益を少しでも減らすために、民間の任意の企画を装って、両国政府は「日ソ円卓会議」なるものを開催した。ソ連側は露骨に政府機関が全面に出てくるし、日本側も自民党から社会党までほとんど全会派が相乗りし、政治、経済、文化、スポーツ、映画、宗教、etc. およそ考えうるあらゆる分野が日ソのパイプを求め、利益を期待して群がっていた。当時、日本側の団長は自民党の禿げ頭の桜内幹事長が務め、事務局は親ソ派の社会党が固めるという節操のない相乗りだった。宗教の分科会についていえば、ソ連側はロシア正教会のモスクワ総主教以下が前面に出て、日本側は伝統仏教の大宗派、天理教や立正佼成会などの新宗教各派、キリスト教もプロテスタント教派のほとんどが相乗りしていた。ところ日本のカトリック教会は参加していなかった。どうやら日本のカトリックは、ロシア革命のときアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係があって、モスクワのロシア正教会とは切れているというのが理由のようだった。

しかし、宗教業界最大手のカトリックさんが参加しないのでは「臥竜点睛を欠く」ということになったらしい。そこで、当時それなりに人権問題の共闘を通じて日本社会党国際局長の川上民雄議員や土井たか子女史など社会党系のプロテスタント議員の側近に顔を知られていた国際金融マンの私に白羽の矢が当たり、ある日突然正式招待状とモスクワ行きのアエロフロートファーストクラスのチケットが送られてくる羽目になったのだった。

この手の国際会議には、公式日程のあとに、お楽しみの接待観光ツアーがつきものだ。おかげで、ある年はロシア正教の大修道院のあるザゴルスクへ、別の年にはレニングラードへ、またウクライナのキエフへ、コーカサスのトビリシへ、とお殿様ツアーに参加する役得があった。

当時の体験で脳裏に焼き付いている数々のエピソードから、一つだけ紹介してこのブログを締めくくろう。

円卓会議がまだ会期中のことだった。川上民雄議員の秘書譲とつるんで、共産主義下のソ連の庶民のありのままの生活を見に行こうということで意気投合した。セッションの間隙をぬって長距離バスターミナルに行った。

行先はどこでもよかった。ただモスクワの市街地を抜けて普段着のロシア人の生活に触れてみたかっただけだった。確か冬だったような気がする。バスの窓の外は十数階建てのアパート群はやがて姿を消し、白樺の林が続く郊外は寂しく憂鬱そうだった。車窓の景色に見とれる若い恋人たちのようにも見える日本人カップルのおしゃべり姿を、乗客たちは無表情に眺めながら押し黙っていた。時々村に差し掛かるとバス停では人が乗り降りをする。モスクワ市内のアパートは全て国営で、土地と建物の私有は認められていないが、田舎の木造平屋建ての小さな傾いた小家は私有物だろうか。あっという間に1時間以上も走っただろうか。突然最後部の座席から銃を担いだ若い兵士が現れた。曰く。事前に許可を取っていない外国人はモスクワから60キロ以遠に行くことを許されていない。次の停留所で降りてまっすぐ引き返すか、或いは…(ご同行戴いて収監されたいか・・・)という意味だろう。きれいな英語であくまで慇懃な口調だが、一歩も退かない断固たる響きがあった。

そうか、表向きは国賓のように丁重にもてなされていても、私たちは常に監視され、ホテルを出れば尾行されていたのだ。日本の政府の保護が届かない、ここは共産主義社会のど真ん中だった。上気した旅の気分は一度に冷めた。言われるままにホテルに帰って、ウオッカを生であおって気分直しをした。

2016年のモスクワを当時と比べれば、まさに夏と冬の違いだった。

だが待てよ、外国人旅行者に監視や尾行が付きまとっていた共産主義下のソ連・東欧では、カメラやパソコンの置き引きが横行していただろうか。これも自由の代償か、と思うと被害者としては何とも複雑な思いがする。現に、自由なローマなどは東欧よりはるかに物騒ではないか。盗難騒ぎについては、前のブログ「あなたは天使を見たか」の後半に詳しく書いたので、見落とした方は改めてお読みください。)

(つづく)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする