:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

2017-01-27 16:41:31 | ★ ローマの日記

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《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

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M・スコセッシ監督の映画「サイレンス(Silence)」が今ローマではブームです。日本人のわたしは「サイレンスを見たか?」「お前はどう思ったか?」と、しつこく聞かれます。見なければ答えようもないので、実に久しぶりにイタリアの映画館に行くことにしました。

昼間は忙しい。夕食後に郊外の大型レジャー施設に行きました。ポーリング場も、ステーキレストランも、バーも、子供の遊技場も、うるさいBGMの中、満員の熱気に包まれていました。初老のカップルも若者に負けじ!と、手を繋いだりキスしたり、子供が数人でロビーを走り回ったり・・・。私はビールの大瓶をテーブルにドンと載せて、10時の最終回を待つ間ゆっくり現代ローマ人の生態を観察しました。教会に人が来なくなったと思ったら、こんなところに集まっているのですね。

「沈黙」は10ほどあるマルチ映写室の7番目でやっていました。客の入りは半分ほど。青年も、初老もほとんどが男女のカップル。一人ボッチは神父の私ぐらいなものでした。

さて、ここからずばり私の感想を書くはずですが、写真がない、どうしよう?ネット上に散見する写真は借用を許される?ソースからご注意あればすぐ謝って削除するとして-営利目的でもなし-ひとまずお借りいたします。

  

1966年に遠藤周作の「沈黙」が出ると、日本では大評判になり、海外でももてはやされました。しかし、中世哲学研究室の助手の耳目に勝手に飛び込んでくる論評はなんとなく胡散臭く、読む気になりませんでした。ただ、最後の長編の「深い河」(1993年)だけは読み、95年の映画も見ました。そして、フーン?!これが遠藤の辿り着いた世界かと、別に感慨もなくそのまま忘れていました。 

当時、私は私なりに、自分の信仰と生きる道を真面目に考えていて、東京オリンピックの開会式を白黒テレビで見た夜の12時に、密かに横浜港から貨客船に乗って日本を脱出しました。25歳のときでした。

半年ほどかけてインドを放浪し、旅の終わりにはガンジス川のほとりの町や村を巡って色々な体験をしていたので、深い河の映像は見慣れた世界でした。 

私をうろたえさせたのは、そこそこ教養を身につけたカトリック信者のイタリア人たちが、遠藤の「沈黙」を優れた作品として持ち上げ、私にも同意を求めるそぶりを見せたことでした。わたしには「棄教を肯定し美化するなんて・・・!」と言って怒る単純なご婦人方のほうが、よっぽど正直に思えました。

ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。

遠藤が、迫害の極限状態における神の「見かけ上の沈黙」は、実は神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだと言う都合のいい解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、つまり、「神は存在しない」と言っているのと同じではないでしょうか。

「沈黙」をもてはやすカトリックの高位聖職者や神学者らの論評に接するほどに、読む気が失せていった裏には、そんな思いがあったような気がします。

今回、スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。

映画「サイレンス」に深い感銘を覚たと言って、私に同意を求めるイタリアの紳士淑女の心の中にも、「ナザレのイエスの天の父なる神」はすでにいないのではないか、と不安になりました。これは文化や風土の違いではなく、信仰内容の質の問題でしょう。

鍵を握っている概念は「復活」です。ザックリ言って紀元前2000年ごろに、ユダヤ人の祖先アブラハムに「アブラハム!アブラハムよ!」と人類に初めてはっきりと語りかけた神を信じる一神教には、「復活」「永遠の命」の概念が根底にあります。と言うか、日本に限らず、キリスト教以外の宗教にはそれが欠落しています。(同じアブラハムから派生したユダヤ教や回教においてさえそれは曖昧で希薄です。)

日本人は、キリスト教の様々な祝い事や外国のお祭りを上手に取り入れて、何でも金儲けの機会に利用します。クリスマス商戦が典型だが、バレンタインデーも万聖節やハロウィーンなどもその中に入ります。ところが、キリスト教にとって最大のお祭りである「復活祭」だけは、どうもしっくりと馴染まないようです。「復活祭記念バーゲンセール」も銀座のクラブでは政治家の「復活祭パーティー」も聞いたことがありません。

しかし、この「復活」の信仰なしに「殉教」もあり得ません。私が今回数枚の写真をお借りしたサイト

https://www.fashion-press.net/news/25736

は、「サイレンス」のあらすじを:

17世紀江戸初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の⻑崎で、棄教したとされる宣教師フェレイラの真実を確かめるために日本にたどり着いた若き司祭ロドリゴとガルペ。⻑崎に潜⼊した彼らが⽬撃したのは、⻑崎奉⾏による想像を絶する弾圧の現状だった。
次々と犠牲になる⼈々。守るべきは⼤いなる信念か、⽬の前の弱々しい命か。⼼に迷いが⽣じた事でわかった、強いと疑わなかった⾃分⾃⾝の弱さ。追い詰められた彼の決断とはー。

と言う言葉で始めています。

フェレイラ神父はすでに穴釣りの拷問に耐えかねて棄教していました。神父のガルペは「むしろ巻き」にされて海に投げ込まれた美しい村娘(小松菜奈)を助けようと飛び込んで溺れ死にました(これは一種の殉教と言えるでしょう)。問題のロドリゴは、棄教し妻子のある役人になっていたフェレイラに会い、穴吊りの拷問に苦しみもだえる信者たちの姿を見て、穴吊を待たずに踏み絵を踏んで転び、妻を得ます。

小松菜奈

素朴な日本の信者たちは、神は人類を不死のものとして創造したのに、人間は傲慢の罪で命の源である神から自らを切り離し、当然の結果として死ぬべき運命を引き寄せてしまった。その人類を憐み、罪と死の影から救い出すために、神の子キリストは「十字架上の死」を通して「死」を打ち滅ぼし、「復活の命」と永遠の幸せの国、キリシタン用語で「ハライソ(パラダイス=天国)」を取り返して下さった、と教えられた。パードレ(フェレイラやロドリゴ)から「ハライソ」の信仰を植え付けられた彼らは、その言葉を信じて天国にあこがれて殉教していった。捕えられ拷問を受けることを恐れながらも、殉教者たちの姿に励まされ、自分も殉教しようと覚悟を固めていた矢先、その信仰を教えてくれたパードレが踏み絵を踏んで転んでしまうとは、なんという残酷な裏切りだろう。

パードレたちは自分が頭で信じていた教えを信者たちに植え付けたが、彼ら自身はその神の存在を心では信じていなかったということか。17世紀のパードレの不信仰は、遠藤によって共有され、その神の非存在は60年代、70年代の日本のカトリックのインテリに感染し、今や、イタリアの自称カトリック信者の中に広く蔓延して行きつつあるのだろうか。

パラダイスの存在を固く信じず、それに憧れることのない信者は、心底では神を信じてはいない。だから、神が沈黙すれば彼らは踏み絵を踏み、転ぶ道を選ぶ。遠藤がたどり着き、スコセッシ監督が台湾の美しい自然に託して描写した「ころびキリシタン」の運命はイタリア人をふくむ「我々人間の限界」の発見を意味するのだろうか。

しかし、ここで忘れてはいけないのは、「神がいる」ことへの信仰と、それに基づく「殉教」は、神の一方的な恵みのよるものであって、人間が自らの力で獲得できるものではないということだろう。人間にはできなくても、神が居るなら、神が一緒ならできることがある。

もし、世界を-そして人間を-愛をもって創造した神が居るなら、天国は確かにある。その天国にあこがれる人には、殉教を成し遂げうる力が神の恵みとして与えられる、と信じることは今日でも可能なはずではないだろうか。私はとんでもない罪深い人生を送ってきたという自覚があるから、手の届きそうにない殉教に敢えて憧れる。殉教者は無条件に「ハライソ(天国)」に入れると教えられ、キリシタンはそれを信じた。私ごとき罪人には、そうでもしなければ救われないのではないか、という思いがある。死は一瞬の通過儀礼に過ぎず、人は「復活」して永遠に生き続ける。これがキリスト者の「信仰告白」、殉教者の「証し」ではないか。

それにしてもこれほど多くの日本人俳優がそろい踏みしたハリウッド映画は、過去に例が無かったように思った。日本人はハリウッドまで占領するつもりなのだろうか?

 

中央はスコセッシ監督 

 【ワシントン時事】 トランプ米大統領は25日放送されたABCテレビのインタビューで、テロ容疑者の尋問に関して、拷問に当たる水責めなどの手法は「機能する」と主張した。さらに、治安当局に求められれば、法律の範囲内で復活に尽力すると明言した(オバマは拷問を禁じていたのに・・・)

〔陰の声〕 トランプさん!拷問なら日本人が発明した「穴吊り」が最もよく「機能」しますよ。レシピは以下の通りです。

穴吊りは、1メートルほどの穴の中に上半身が入るよう逆さに吊す。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がって早く死なないようにする。頭に充血して死なないようにこめかみや耳に小さな穴を開けて血を抜く。二枚の板を半月形にくりぬき、腰のあたりを挟みつけて穴の中を暗黒にする。穴の中に糞尿などの汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛む。足から吊されたまま放置すれば、身体全体の耐えられぬほどの激痛に加え、孤独、無力、助けと励ましになるものもなく、時間はゆっくり流れていく。あとは苦しもうともがこうと捨て置くだけ。転ぶ意志を示して信仰を棄てるか死ぬまでそのままかのどちらかであった。
この刑罰は実に効果的で、外国人の宣教師達もこれで何人も『転んだ』が、中浦ジュリアンは棄教せずに死を選んだ。

しかし、転ばせることを念頭に置かないなら、ローマ人が発明しキリストがその犠牲になった十字架刑よりも残酷な処刑方法はない。ゲテモノ食いの物好きさんは私の本「バンカー、そして神父」その実態がいかなるものかをリアルに詳述したのでご照覧あれ。http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

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★ トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

2017-01-20 21:29:01 | ★ ローマの日記

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トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

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ローマ時間夕方の5時半は、日本の深夜の1時半だろう。

アメリカの大統領就任式を最初から最後まで、日本のどこかのチャンネルが全部生中継したかどうかは知らないが、されたとしても、徹夜でそれを見た日本人は少なかろう。

ところが、ここローマでは、沢山の市民が、この時代を画する大イベントを見ようと、テレビの前に釘付けになっていたのだ。私たちのリーダーのキコは、増改築なった神学校の聖堂に巨大壁画を描くためにここに居合わせた。彼は数名のアシスタントの画家と一緒にこのテレビ中継を見るために神学校の応接間に陣取った。たまたま彼と打ち合わせすることがあった私も、誘われて一緒に見ることになった。今どきのハイヴィジョンの画面はきれいで、写真に撮っても画質は何とか保たれる。

実況中継を見損なった皆さんに何枚か写真を選んでお伝えしよう。

 

就任式場はワシントンの米連邦議事堂の前で行われた

 

ファンファーレが広場に響き渡っていよいよ就任式が始まった

 

テレビの画面の下には、赤のストライプの中に「トランプ、ホワイトハウスに就任する日」とあって、その下の黄色いストライプには、イタリア山岳地方で雪崩が直撃したホテルの速報「少なくとも10人生存、3人の子供・・・バランガホテル」とある。

 

議事堂前広場を埋めた群衆 遠くにオベリスクが聳える

 

就任式で聖書に手を置いて宣誓するトランプ新大統領

 

宣誓が終わると祝砲が轟く

 

応接間でテレビを見守るキコと画家集団

 

キコは新しい時代の幕開けをどう受け止めているのだろうか 時代の変化を敏感に感じ取っていることだけは確かだ

 

議事堂のドームの上の星条旗の下に見える宣誓式の壇

 

就任演説をする新大統領 相変わらずのトランプ節が展開された アメリカ第一主義!

 

トランプの演説を聞く敗れたヒラリー夫人と 退くオバマ前大統領 その胸の裡は・・・?

 

演説を終えてガッツポーズのトランプ

 

トランプの演説のあと 宗教代表者の挨拶があった 日本の国会では有り得ない光景

最初が前列右端のユダヤ教の教師(ラビ) その次が右から3人目の空色のネクタイのプロテスタントの牧師 最後がマイクの前にいる青紫のシャツに白いカラーを付けた黒人牧師 そして神妙に聞くトランプ

カトリックの高位聖職者の姿はこの場面にはなかった。

 

アメリカの国歌を独唱する美人のソプラノ

 

式典終了後退席するクリントン夫妻 ヒラリーの心の整理はついたのだろうか 意外とさわやかな顔に見えた

 

 

見終えて感想はいろいろあるが、一言では言えない。トランプに核のボタンをゆだねたのは狂人に刃物、と言うひともいるだろう。トランプの就任は第3次世界大戦の不吉な前触れと言う人もいるかもしれない。アメリカ人はこの男に権力をゆだねたが、狂犬を巷に放ったことにならなければいいが。果たして彼は任期を全う出来るのだろうか?ケネディーは暗殺された。プロの殺し屋の凶弾二発を腹部に受けたローマ法王聖ヨハネパウロ2世は、絶対に死ぬはずだったのに奇跡的に生きながらえた。ヒットラー暗殺の試みはことごとく失敗して多数の処刑者を出した。歴史とは不思議なものだ。これから何が起こるか分からなくなった。祈るしかないように思う。

(おわり)

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★ 「福島異聞」 (そのー4)

2017-01-09 00:01:50 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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「福島異聞」 そのー4

チェルノブイリリング

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舞台で重々しい「能」の演目ばかり続いたら、好きな人でも途中で疲れてしまうだろう

だからその合間に「狂言」を挟むのが 日本人の知恵だ

私は「ある神父の告白」と言う「狂言」を一つ挟んだ

だから「福島異聞」のまじめな「能」に戻るのを許していただきたい

 

 

 発事故現場からあまり遠くない土地(しかし、避難指定地区の外)に住むわたしとお友達のある小学生に甲状腺異常と数個の膿疱(この字で正しいかな?)が見つかった。汚染した生活環境からの放射線被ばく(特に内部被ばく)を疑った若い母親から、SOSが届いた。自分の人脈の中から九州の某施設に話をつないで、転地療養の手はずを整えた。それなのに、いざとなったら、親はなかなか実行に移さない。特別にお願いして受け入れ態勢を整えてもらった手前もある。「何をもたもたしているの?」と不審に思って尋ねたら、学校が必要な手続きに協力してくれないという。学校の言い分は、「福島の子供が、放射能被ばくで転地してきたことが知られたら、行った先で社会問題になるから」という理由のようだった。福島には「放射線被ばく児」はいないことになっているらしい。自然の甲状腺ホルモン異常の子」は大勢いるのだが・・・。

日本は国として世界に向かって胸を張って公言してはばからない

「エブリシングアンダーコントロール!」

「ノーデンジャー」「プリーズカムトゥーザオリンピックゲーム!」

日本にもやがて「チェルノブイリリング」(首に月の輪熊みたいな甲状腺手術の痕)のある子供たちが続出しなければいいのだが・・・。 

ここまでが私の短い話だ。

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以下の文章は、もっと怖くて説得力がある。少し長いが、我慢してお読みいただきたい。2011年7月11日といえば、3.11からわずか4か月のきわめて早い時期の予言的な記事だった。

ニューヨークタイムズの記事
チェルノブイリのネックレス(傷跡のリング)

これは、チェルノブイリ原発事故が、よく知られているベラルーシやウクライ
ナだけではなく、はるかに遠く離れたポーランド北部に、大量の被爆者を作った
実例です。そして、そのようなことがいかに無視され続け、事実を調べもせず
に「無関係」とされてきたのかということへの痛烈な告発でもありま す。

おそらく日本でも今から、子どもたちに鼻血が出ようが皮下出血があろうが、
甲状腺が腫れようが癌が増えようが、「フクシマとは無関係」と言い張る似非学
者・似非医者と似非ジャーナリストたちが跳梁跋扈する時代が 訪れるでしょう。

このNYタイムズ記事は、そういった時代への警告ということができます。

そんな時代に、それぞれの立ち位置から、いったい何をなすべきか、この記事
は鋭く問いかけているようです。

童子丸開 拝

=======以下転載・転送歓迎=======

ニューヨークタイムズ記事:全文和訳(暫定訳)

《チェルノブイリのネックレス(傷跡のリング)》


【訳者より】
 これは2011年7月11日付のニューヨークタイムズ紙に掲載された、
ジョー・ノシーラによるコラム記事の和訳(暫定訳)である。
記事原文は、和訳の後ろに貼り付けておくことにする。


 まずは訳文の全てをお読みいただきたいのだが、この中で私が注目したいの
は、25年前のチェルノブイリ核(原子力)発電所事故の後に、東ヨーロッパで
拡大している膨大な数の健康障害について、まともな「疫学的な研究が全く始
められなかった」と作者が述べている点である。当時のソ連当局が十分 なデー
タを出 さな かったせいもあるのだろうが、何よりも、顕著にそして膨大に現れ
てきた事実を研究しようともせずに、癌についてすら「欠陥のある研究の方
法」と語ってこの 問題を「かなりの論理的な難問」と話をすり替える頑迷な専
門家たち、そしてせいぜい動物の異常出産に注目する程度のジャーナリズムにこ
そ、最もその責 任を問うべきものだろう。

 今から後、福島のみならず日本の各地で発生する様々な健康への被害に対し
ても、チェルノブイリに関して行われてきたのと同様に、この種の専門家たちや
ジャー ナリズムによる無視と矮小化とすり替えが始まることだろう。いやもう
すでに始まっている。インターネット上で各地から報告される鼻血、下痢、皮
下出血などをまともに調べてデータを集めている研究者が何人いることだろう
か。そしてそれをまともに知らせようとする報道機関がいくつあることだ ろうか。

 まともな研究がいまだに行われていないのだから、「科学的」も「非科学
的」もあったものではあるまいが、やがて日本人の中に甲状腺障害や白血病など
の事実が現れてきたときに、いくつかの明白な態度が出てくる だろう。

 それらの事実に対して「福島事故との関係性は認められない」と言いなが
ら、関係性を指摘する声を「非科学的」として否定し非難する専門家、およびそ
の取り巻きたち…、彼らの声を単に垂れ流しにして事実に蓋をする報道機関…。
下部の医療機関に調査をしないように圧力をかける上級の機関、下部の研究者
に調査と分析を行わないように圧力をかける上級の研究者や機関…。おそらく
我々は、そういった様々な醜い者たちの姿が事実の前に立ちふさがるのを、
しっかりと目撃することだ ろう。

 もちろん最初から福島事故と健康障害の事実との関係を追及する専門家たち
もいるし、いままでの態度はともかくも途中で事実に気づいて態度を変える人も
いると思う。そのような人々が一人でも多いことを祈りたい。

 しかしその前に、何よりも、過去にあったチェルノブイリ事故の影響につい
て、世界中の良心的な研究者と支援団体によって数々になされた研究成果が報道
機関によって正当に幅広く伝えられ、多くの人が事実を知り、また研究機関の
間で大きな話題として議論されなければなるまい。我々は、チェルノブ イリに
ついて、そしていずれ日本人の上に迫り来る大災厄について、どこの誰が、い
つ、どのように語っているのか…、それを克明に記録し、正確に伝えなければな
らな い。そういった一般の多数の非専門家による作業が、日本国とそこに住む
人々を破滅に導く者と救おうとする者の区別を、白日の下にさらすことだろう。

 さらに大切なことは報道に対するチェックだろうと思う。頑迷な専門家たち
の声を垂れ流しにして事実を覆い隠す報道機関はどれか…。これに対し て、大規
模なボイコット(新聞や雑誌の不買運動、テレビやラジオの不視聴運動、それ
ら のスポンサーとなる企業に対する不買運動、等々)が組織される必要があ
る。また その 逆に、事実を収集し正確に伝え、専門家たちに正直で価値ある調
査と研究を促そうとする報道機関があれば、それへの推奨運動(新聞や雑誌を
買って経営を支える、視聴率を上げてその番組や出演者を応援する、等々)の
動きが、是が非でも必要となってくるだろう。

 このような種類の全国規模の巨大な動きが、強大な権力を動かし政治を動か
し、世界を破滅に導く者たちの歩みにストップをかけていくことになる。我々日
本人こそがその当事者なのだ。

 最後に、この報告を書いたジョー・ノシーラ氏とこれを掲載したニューヨー
クタイムズ紙に感謝を捧げたい。

2011年7月13日 バルセロナにて 童子丸開

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 
 *    
【和訳】

《チェルノブイリのリング状の傷跡》
     ジョー・ノシーラ
    2011年7月11日 

 実に奇妙なことだが、史上最悪の核事故の25周年にジャーナリズムが注目
したのは動物に関してであった。二つの雑誌 Wired と Harper's は、ウ クライナ
にあるチェルノブイリ原子力発電所付近の、いわゆる避難地域での、動物の新生
児について長ったらしい記事を発表したのである。

 まあそれはそれで結構なのだが、しかし最近起こった日本での核事故を考え
るならば、あなた方はむしろ…、チェルノブ イリで被災した人々に何が起こって
きたのかを知るほうが良いのではないだろうか。

 私はそういった人を知っている。彼女の名はマリア・ガウロンスカ。30歳
で賢く魅力的な女性のマリアは、2004年にニューヨークに移り住んだポーラ
ン ド人である。私は4年前に私の婚約者の紹介で彼女を知った。彼女はいつも
タートルネックの服を着ていた。どんな暑い日でもだ。

 マリアが生まれた町オルスチンはポーランド北部にあり、チェルノブイリか
ら400マイル(約644km)も離れている。その原子炉がメルトダウンし膨
大な量の放射能を空高く吹き上げた1986年4月に、彼女は5歳だった。そ
の事故で放射能はウクライナやベラルーシをこえて、そう、ポーランド 北部に
まで広がったのである。

 「最初は」と彼女は言った。「爆発だけど危険じゃないと言われたんで
す」。しかし数日のうちに、ソビエト連邦はそれが事故であることをしぶしぶ認
めた。マリ アは、みんながヨウ素の錠剤を渡され、屋内に留まるように命令さ
れたことを思い出す。彼女は続く2週の間自宅内に留まった。

 同時にまた彼女は、その事故の健康への影響をポーランド人たちが知るのに
何年もかかるだろうと言っていた人々の声を覚えている。何にもまして放射線は
甲状腺の重大な障害を引き起こす。それが、人々がヨウ素剤を飲む理由なの
だ。甲状腺が吸収する放射性のヨウ素の量をできる限り減らすためである。

 案の定、この四半世紀を通して、オルスチンでは甲状腺障害が爆発的に増え
てきている。あらゆる病院の病棟がいま甲状腺疾患に充てられているとマリアは
私に語った。これは決して大げさではない。オルスチンの甲状腺外科医アル
ツール・ザレウスキ博士は、1990年代初期以来、莫大に増加する甲状腺の
手術に携わってきたと断言した。一部の人々は甲状腺ガンを患うが、多くは甲
状腺の肥大、あるいは正常な機能を失った甲状腺に悩んでいる。

 しかしザレウスキ博士は同時に、甲状腺の疾患とチェルノブイリとを結びつ
ける科学的な証明は無いのだと私に注意した。一部にはソビエト連邦の頑迷な態
度のため、また一部には、ランセット【注】が「かなりの論理的な難問」と述
べるかも知れないもののために、チェルノブイリの大災害とポーランド におけ
る甲状腺の問題とを結びつけるのに役立ったかもしれない疫学的な研究が全く
始められなかったのだ。
【訳注:「ランセット」は週刊で発行される査読制の医学雑誌。こちらを参照
のこと】

 いままでになされてきた研究は癌に焦点を当てたものだ。ランセットによれ
ば、ベラルーシとウクライナでの小児白血病と乳がんの増加はチェルノブイリに
起因しうるが、「欠陥のある研究の方法」のためにこれらの研究は決定的なも
のではない。

 しかし、私がマリアの母親のバーバラ・ガウロンスカ-コザクにeメールを送
ると、彼女は頑として譲らなかった。「私はチェルノブ イリが甲状腺障害を増
やしたのだと確信します。」バーバラは自身が(疫学者ではないものの)科学
者であり、これが「平均的なポーランド国民」の信じていることだと私に語っ
た。彼女自身、あの事故の10年後に甲状腺手術をしなければならなかった。
彼女の母親は2回の甲状腺手術を受けた。彼女の親友は甲状腺手術を1度受け
た。高校時代の古い友人は甲状腺腫瘍の摘出手術を受けた。父親が甲状腺の障
害を持たなかった唯一の家族だと、マリアは私に語った。

 5年ほど前にマリアの番が来た。徐々にだが、彼女の甲状腺は気管を圧迫す
るまでに膨れ上がり、姿勢によっては呼吸が困難になっていった。もちろんだ
が、 その 醜い成長こそ彼女がタートルネックの服を着る理由だった。ニュー
ヨークのある専門家は彼女に、こんなものはいままで見たことがない、その矯
正の手術はきわめて危険でありおそらく声帯を痛めるだろうと彼女に言った。
だからマリアはポーランドに戻り彼女の故郷の町で手術を受ける決心をしたの
だ。今年に入ってすぐ、彼女は手術を受けた。

 チェルノブイリで起こったことと全く同じように、福島第一原子力発電所の
事故が近隣に住んでいた人々の健康にどんな影響を及ぼすのかを我々が知るまで
に、 何年もかかるだろう。漏れた量がずっと少ないにもかかわらず、放射能は
海に流れ込んだのだ。そしてその跡は食料の中で発見されている。どのように
核力(原子力)を取り扱うべきか考えこまされる。それはクリーン・エネル
ギーの見通しが立たない苛立たしさを与えるものだ。いままでに存在している
災厄の危険性と相まって事態は悪化していくに違いないという…。これらは単
純な疑問ではない。我々が福島第一のような、またはチェルノブイリのような事
故が起こるときには必ず思い起こすはずのものだからである。

 少なくともマリアにとってこの話はハッピーエンドになっている。彼女を手
術したザレウスキ博士はその甲状腺の大きさを見たときにひるまなかった。手術
は成功した。彼女の声帯は良好なままである。彼女はいままでにも増してエネ
ルギッシュになっている。
 マリアは私に、オルスチンにいた間に旧友たちを探し出したと語った。故郷
に戻った理由を彼女らが聞いたときに「みんな笑って自分たちの傷跡を指さしま
した」と彼女は言った。

 彼女がニューヨークに戻ってからほどなく、私が彼女に会ったとき、彼女自
身の小さな傷跡に気づかざるを得なかった。タートルネックを着ていなかったの
である。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

【原文】
http://www.nytimes.com/2011/07/12/opinion/12nocera.html?_r=2&emc=tnt&tntemail0=y

Chernobyl’s Lingering Scars
JOE NOCERA
Published: July 11, 2011

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★ ある神父の告白

2017-01-06 21:27:40 | ★ ローマの日記

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 ある神父の告白

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「福島」のテーマばかりでは飽きられてしまう。ここらが話題を変える潮時ではなかろうか。

 

 

信者の告白

カトリックの神父は、信者の告白(懺悔)を聴くことになっている。今の教皇フランシスコも、聴罪司祭に一定のリズムで告白して、神に罪の赦しを願っているはずだ。聖教皇ヨハネパウロ2世は確かにそうしていた。

 

 

人は日に何度罪を犯す?

聖人でも日に7度罪を犯す、と昔の人は言う。では、我々凡人はいか程だろうか?70回?まさかそれ程でもあるまい。凡人も日に7度なのだそうだ。では違わないではないか?いや、そうでもない。聖人は自分が7度罪を犯したことを反省して神に赦しを願ってから床に就く。凡人は罪を犯したことにさえ気付かず、さっさといびきをかいて寝る。良心の鋭敏さの違いだ。

アンドレオッティ元イタリア首相もカトリック信者だった。だから懺悔をして見せていた。彼の聴罪司祭は神学校で私の同級生のホセ・カサス神父だった。大悪党の罪の聴き役にふさわしい聖なる若者だった。彼の謙遜な物腰と内面を見透かすような澄んだ瞳に、私は嫉妬を感じたものだった。

 

 

場末の教会の告解場(懺悔部屋)

神父になったばかりの頃、ローマの場末の教会で、論文を書きながら学生神父をしていたことがある。日曜の午前中は窮屈な薄暗いブースの中で、信者たちの懺悔をひたすら聴き続けるのが仕事だった。聖堂の反対側のブースにはイタリア人のベテラン神父が座っているのだが、私の人気は抜群で、男たちの多くは私のところにやってくる。アジア人の新米神父はイタリア語に弱いから、難しい言葉で遠回しに告白すればわからないだろう、という浅はかな計算だ。ところがどっこい、人間の犯す罪は7つのカテゴリーのどれかと相場が決まっている。どんな言い回しで煙に巻こうとしても、すぐばれることに気付かないのだろうか。この酔っ払いの、女たらしの、盗人の、噓つきの愚か者めが!

しかし、そういう私は「やれやれ、やっと俺より罪深い男の懺悔を聴いたわい!」と密かに溜飲を下げたことがまだ一度もない。この善良な人たち、なんと些細な罪を正直に告白するものか、とひたすら感じ入ってその日のお勤めを終える毎日だった。

 

 

「共同告解」または「集団懺悔式」

特別な仲間内の信者の共同体では、頻繁に共同告解(集団懺悔式)をやる。薄暗いブースの中で格子越しにヒソヒソやるのではない。

四角い部屋で、司式司祭と2-3人の手伝いの神父を一辺にして、一同は壁を背にしてコの字型に席に着く。聖書の朗読や説教や祈りが終わると、司祭は互いに距離を置いて部屋の中心にばらばらと立つ。信者たちはその司祭の一人に近づいて立ったまま対面で罪の告白をして、終えると司祭に前に跪いて赦しを受けてから席に戻る。衆人環視の中の告白だが、見ている側はギターに合わせて讃美歌を歌い続けるので、告白の内容はかき消されて聞き取れないように工夫されている。

 

 

 

私はこの共同告解式が大の苦手だ。私には人の懺悔を聴きながら、突然涙を流し始めるという、実にバツの悪い癖があるからだ。みんなの見ている前で、初老の神父に、若いきれいなお嬢さんが、肩触れ合うほどの距離で耳元に何かささやくと、私の目からツーッと涙が流れ落ちる。その娘もつられてポロポロ泣き始める。二人の間に何が起こったのか。悪い神父が彼女をいじめたのではないか。見守る周りの信者たちはそのスキャンダラスな光景に気が気ではない。

 

 

この突然の涙腺故障のメカニズムは、およそ次の通りだ。 

ふつう、人の良心の奥深い聖域はプライドと羞恥心に固くガードされていて、他人の前に曝されることはない。それが、私の前で、まるで神の前におけるかのように、彼女の良心の秘密、隠された罪があからさまになることがある。神父の服を着ているが、私はただの俗物にすぎない。その厳かで神聖な出来事を前にして畏怖の念に打たれる。その瞬間、神の霊が下ってその蔭が司祭と信者を覆うのを感じる。見えない神の手が、私と彼女に触れている、と言う確かな感触に感極まって私の涙腺が壊れてしまうのだ。 

彼女の魂もこの瞬間に神の恵みに満たされて、悪魔の呪縛から解かれて、涙と歓喜に包まれる回心の厳粛な瞬間だ。無限の憐みと、赦しと、愛である神の現存に触れ得た時のおののきと言えば伝わるだろうか。

誠に神父冥利に尽きる瞬間なのだが、人の懺悔を聴きながら神父が泣いているなんて、何が起きているのか見当もつかない傍観者を前にして、現象としてこんなにテレ臭い、絵にならない話もないものだ。

  

 

ある神父の告白

ところで、表題で「ある神父の告白」と言いながら、人の告白のことばかり書いていては片手落ちではないか?そろそろ自分の罪を告白して話を終わらせねばなるまい。

わたしがローマで老々介護をしていることは以前にもブログに書いた。私は77歳。相手は92歳の老司教様。普段100人からの若い学生で賑わう神学校に、クリスマス・正月休暇中は二人きりで籠城する。不便だが、冬場に高齢で足の弱った司教様の環境を大きく変えることはリスクを伴う。広い幽霊屋敷で3度の食事の世話は私の仕事。買い出しから皿洗いまで、主婦(夫)業の大変さが身に染みる。

食事の他に午後のお茶の時間も欠かせないセレモニーだ。司教様は一日中私以外に口を利く相手がいない。日本茶と羊羹でしばらく間を持たせる。たいていは私が司教様の思い出話の聴き役で時が流れる。実に心楽しいひと時なのだ。

だが、この冬、一度だけ、外出を理由にそのお茶の時間に失礼したことがあった。彼は何処へ何しに?とは尋ねなかったが、私が何か秘密を持ったことを感じたに違いない。以来、彼と一緒に居て、良心にとがめるところがあるが、今さら面と向って白状するわけにもいかない。だから、ブログの読者に告白しようと思う。

 

実はあの日、私はサーカスを見に行ったのだった。

たまたま、車で食料の買い出しに普段より遠出したとき、偶然サーカスのテントを見てしまった。私はこの手の誘惑に対しては並外れた弱さを自覚している。しかし、司教様にサーカスに行くからお茶の時間に付き合えないとはどうしても言えなかった。彼は自分の年齢と体力を忘れて、好奇心と負けん気だけは人一倍強い。自分もぜひ見たいと思ったら我慢が出来ない人なのだ。だからと言って連れて行くのは危険だ。杖にすがって立ち続けるのは5分が限界なのだが、車椅子は断固拒否するから始末が悪い。子供連れの母親やお爺ちゃんたちと一緒におしゃべりで暇をつぶしながら、切符を求めてのんびり冷たい風の中で長蛇の列に並べば、彼は5分と立っていられないし、慢性気管支拡張症で咳と痰の切れない彼は、痰を詰まらせて急性肺炎を起こしかねない。また、そのあと2時間もテントの中に座り続ければ疲労困憊して命取りになる危険性が現実にある。そんな彼を暖かい部屋に一人残して、行く先を告げずに私は出かけた。サーカスのテントの中で子供たちに交じって孤独にショーを眺めながら、良心は疼いた。司教様ゴメンナサイ。ああ、神様ゴメンナサイ!

 ( お・わ・り )

 

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★ 仕切り直し 「福島異聞」そのー3

2017-01-02 17:56:59 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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仕切り直し 「福島異聞」そのー3

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明けましておめでとうございます。本年もよろしく!

前回は割愛したが、「伝聞ではなく、自分の生の体験を書くのも悪くはない」、 

そう思ってアップしかけたのが以下の短い記事でした。

割合に最近のこと、寸暇を惜しんで汚染地帯にレンタカーを駆ってきた。そして、除染作業員などが長期滞在していると思われるあちらこちのプレハブ簡易宿舎の一つに泊まってみた。私が70年代に山谷や釜ヶ崎で泊まっていたドヤ街の畳一帖ほどの蚤がいそうな安い部屋とは大違い。糊のきいたシーツのベッドにユニットバス付で素泊まり6千円。貧しい神父の一泊代としては高額な宿だが、作業員は月18万円の宿泊費を払う余裕があるということだ。

夜は居酒屋が大繁盛。一人黙って冷酒をちびりとやりながら、それとなく場の空気を観察した。大声で話し合っている。広い店の中はひどく騒がしい。板さんと注文を取りに来る男は日本人だが、給仕やカウンターの中で働く手伝いの若い女性たちは全員東南アジア系だった。空間線量が常態的に高いこの地域で働く日本女性はいないということか?直感的にベトナム人ではないと思った。かといって、フィリッピン人でもないようだ。タイか、ビルマか?

客が外から連れてきたのか、はじめから店に居たのかは知らないが、あちこちに交じって座って一緒に飲み食いしている若い女性たちも、皆例外なく東南アジア系だった。除染作業員や原発の廃炉作業員は、ここでは本名や身元が不詳でも、働きさえすればまとまった金を手にできる日本では他に例のない特異な地帯ではないか。被曝を恐れない-或いは被曝について無知な-ワケアリの男たちが、無法の天国で稼いでいる。

この店では客はみんな日本人だった。では、日本人でない男はいないのか? 除染作業員、廃炉作業員の中に外国人が目立つようになって久しいという話も聞いていた(これはまさに伝聞として)が、彼らは何処にいる?

思い返せば、私が山谷で日雇い労働者をしていた頃 ―それは30年以上も前のことになるが― ひょんなことで私の仮住いに一人のイラン人の青年が居付いたことがあった。政治亡命者で、国に帰れば殺される。日本にも多分不法滞在だろうが私は意に介さなかった。困っている異邦人を助けるのは人道的な義務だ。居たいだけ居てくれればいいさ。不法滞在者をかくまうのは犯罪ではないかと目くじらを立てる人がいるかもしれないが、それはユダヤ人を命がけでかくまったドイツ人がナチス政権下では犯罪人扱いされたのと同じ意味でだろう。命からがら日本に逃れてきた寄る辺のない異邦人を庇護するのは、神を信じる者の務めではないかと思う。

イラン人は色白で、ハンサムだ。昼まで寝ていて午後になるとフイと出かけていく。身なりは山谷には似つかわしくないほど、清潔でダンディーに決めている。流暢な英語と、下手ながら丁寧な日本語を話す。何をしているのかと聞いたら、ー銀座ではなくー上野公園あたりで、婚期を逸した女性がターゲットなのだそうだ。結婚願望が強く、愛にかわいて焦っている彼女に言葉をかけて、あわよくば結婚に漕ぎつけて日本に住みたい、と。そのために死ぬほどの空腹に耐えても、身なりには金をかける。彼のやっていることは悪いことといえるだろうか。

ある日、予告なしに私のもとからフッと消えた。念願のお相手をついに見つけたのだろうか?

話を戻そう。聞き違いでなければ、廃炉作業員にはけっこうトルコ系が多いらしいということだった。イラン人と違い、トルコ人は浅黒く、一目でヨーロッパ人と区別がつく。彼らには私のもとに居たイラン人のような芸当は出来ない。どうせ一時的な闇の出稼ぎだろう。もしかしたら海をまたいで呼び寄せ手配師が介在しているのかもしれない。福島の仕事が彼らの目的と肌の色に合っている。危険な高放射能に身を晒す命知らずの作業員がいないと廃炉作業は進まない。彼らが無知なら好都合だ。需要と供給が絶妙にバランスしていると言うべきか。

彼らに被ばく限度が守られているだろうか。彼らが身に着ける線量計の目盛りは細工されていないだろうか。疑い始めたらキリがないが、それは余計なお世話か?「直ちに健康被害が出る量ではない」と言うかもしれないが、時間差を置いて高い確率で深刻な被ばく症状が現れる、と言っているのと同じように聞こえる。もっとも、その頃には彼らは日本にはいないだろう。金を握ってさっさと帰ってくれれば、あとは野となれ山となれ。後腐れが無くて都合のいい使い捨てだ。そんな環境に色んな国籍の作業員がいるらしい。

わたしが冷酒を飲んだ店の客はみんな日本人の男性だった。客にまじっている東南アジア人の女性たちは、彼らのパラサイトだろう。

では、外国人の廃炉作業員たちは何処に群れ、溜まっているのだろう。そんな飯屋、居酒屋が別にあるのかどうか確かめそこなった。もしあったとして、そこに寄生する日本人女性がいるとも思えないが・・・。

原発汚染地帯、廃炉作業の現場周辺が無法のレイプ街道であることには必然性がある。そして、潜在的加害者としては日本人も例外ではない。 現に「寝屋川事件」の犯人山田浩二もこんなところにいたのだろう。

(まだ つづく

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