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聖人の死に方について(そのー3)
ー映画「セントオブウーマン」(夢の香り)に触発されてー
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野良犬のように自由な国際放浪生活にすっかり慣れていた私は、いつの間にか日本全国に羊を抱える広域牧者にもなっていた。
昨年神奈川県のホームで洗礼を授けた老人が亡くなられ、その遺骨が岩国市のお姉さんの家に帰ってきたのを機会に、追悼ミサを捧げるために神戸から出向くといった具合だ。
岩国まで行けば、元米軍兵士で、半世紀たった今もベトナム戦争のPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされている親友に会わなければならない。聖書のたとえ話ではないが、神戸中央教会のおとなしい99匹の羊をおいて、一匹の迷える子羊を追わなければ私は本物の善き牧者にはなれない、というプロの神父の本能のなせる業だ。
間もなく90歳の大台に乗ろうという彼は、今も20トン積みの大型トラックの現役運転手をしている。年齢からいえば実に無謀な話で、このままいけばいつか運転中に事故って死ぬと私は恐れるが、彼にしてみれば、無心にハンドルを握っている時だけPTSDの嵐から逃れられる救いの時間なのだ。彼には無意識のうちにそういう死を願望している気配がある。私はといえば、仕事を終えた彼と温泉に入り背中を流しあう以外に、なすすべを知らない。私のキリスト教の話など、彼の恐ろしい記憶の前には羽毛よりも軽いのかもしれないのだ。
時には彼の助手席に乗ることもあるが、たいていは彼が走り回っている日中は常宿の会社社長(いや、今や会長)夫妻の家でパソコンに向かうのが私のパターンなのだが、今回は朝から会長夫人と二人だけになり、「たまには映画でもいかが?」と誘われて、居間の特大の液晶画面に映し出された映画が「セントオブウーマン」(直訳すれば「女の香り」)だった。
この映画、彼女のお勧めの一本だけあって、私の心に深く突き刺さり、万年故障気味の私の涙腺からは涙があふれ出たが、その感動の内容をうまく伝えるのは私の能力を超えているので、インターネットからの引用に任せることにしよう。
孤独な盲目の退役軍人と心優しい青年の心の交流を描き、アル・パチーノがアカデミー主演男優賞に輝いたヒューマンドラマ。「カッコーの巣の上で」の脚本家ボー・ゴールドマンが自身の経験を加えて脚色、「ビバリーヒルズ・コップ」のマーティン・ブレスト監督がメガホンをとった。
【あらすじ】
アメリカのボストンにある全寮制名門高校に奨学金で入学した苦学生チャーリーは、裕福な家庭の子息ばかりの級友たちとの齟齬を感じつつも無難に学校生活を過ごしていた。感謝祭の週末、クリスマスに故郷オレゴンへ帰るための旅費を稼ぐためチャーリーはアルバイトに出ることになっていた。そのアルバイトとは姪一家の休暇旅行への同伴を拒否する盲目の退役軍人フランク・スレード中佐の世話をすること。とてつもなく気難しく、周囲の誰をも拒絶し、離れで一人生活する毒舌家でエキセントリックなフランクにチャーリーは困惑するが、報酬の割の良さと中佐の姪カレンの熱心な懇願もあり、引き受けることにする。
感謝祭の前日、チャーリーは同級生のハヴァマイヤーたちによる校長の愛車ジャガー・XJSに対するイタズラの準備に遭遇。生徒たちのイタズラに激怒した校長から犯人たちの名前を明かすなら超一流大学(ハーバード)への推薦、断れば退学の二者択一を迫られ、感謝祭休暇後の回答を要求される。チャーリーは同級生を売りハーバードへ進学するか、黙秘して退学するかで苦悩しながら休暇に入ることになった。
中佐はそんなチャーリーをニューヨークに強引に連れ出し、アストリアホテルに泊まり、“計画”の手助けをしろ、という。チャーリーはニューヨークで、中佐の突拍子もない豪遊に付き合わされるはめになる。高級レストランで食事をし、スーツも新調し、美しい女性(ドナ)とティーラウンジで見事にタンゴのステップを披露したかと思うと、夜は高級娼婦を抱く。だがチャーリーは、共に過ごすうちに中佐の人間的な魅力とその裏にある孤独を知り、徐々に信頼と友情を育んでいく。
旅行の終りが迫ったころ、中佐は絶望に突き動かされて、“計画”―拳銃での自殺―を実行しようとするが、チャーリーは必死に中佐を引き止め、思いとどまらせる。ふたりは心通わせた実感を胸に帰途につくことができた。
しかし、休暇開けのチャーリーには、校長の諮問による公開懲戒委員会の試練が待っていた。チャーリーは、全校生徒の前で校長の追及によって窮地に立たされるが、そこに中佐が現れ、チャーリーの「保護者」として彼の高潔さを主張する大演説を打ち、見事にチャーリーを救うのだった。満場の拍手の中、中佐はチャーリーを引き連れ会場を後にする。
再び人生に希望を見いだした中佐と、これから人生に踏み出すチャーリーのふたりは、また新しい日常を歩み始めるのだった。
チャーリー役のクリス・オドネル ドナ役のガブリエル・アンウオー
私はこの映画を見終えて、ふと、清水の女次郎長さんのことを思い出した。美しい清水教会の建物を守ろうとして捨て身で声を上げた彼女のひたむきな姿が、若いチャーリーの不利益を恐れず、真実と魂の純粋さを守ろうとする姿勢と重なって見えたからだ。
外国人宣教師の残した業績は負の遺産だから教会の建物も含めて歴史から消し去れなければならない、というような無茶苦茶なインカルチュレーション(キリスト教の土着化)のイデオロギーが背景にあるのかどうかは知らないが、信者さんたちや地元の住民の反対を無視して、美しい教会の取り壊しに走る教会の姿勢に異を唱えた信者を「破門も辞さない」と大勢の信者たちの面前で威嚇し、鬱状態に追い込んだ高位聖職者を相手取って、パワハラ訴訟が始まったことを、彼女の支援者から送られてきた小さな朝日新聞の記事と傍聴者の一人が描いた法廷のスケッチが告げていた。
朝日新聞の記事
同時に80人以上の面前で発せられた「破門を考えている」という言葉を聞いた信者たちの誰一人として、その事実を法廷で証言する勇気を持った人が現れないという危機的な状況も伝わってきた。
それはそうだろう、巻き添えを喰らって「破門」されたら、信者生命に対する死刑宣言にも等しい。信頼していた親しい信者さんたちが一斉に彼女に背を向けて去っていったのも無理はない。「2000年前、イエス・キリストが十字架の上で惨(むご)たらしい最期を遂げたときも、主から愛し抜かれた弟子たちは皆、同じ運命になることを恐れて散々(ちりぢり)に逃げ去ってしまったではないか。」と女次郎長さんは彼らの裏切りを赦している。
32人の傍聴者の一人が描いたスケッチ 傍聴の支援者 原告 その弁護士
聖人たちは皆、キリストと同じように遺棄と孤独を体験する運命にあるのだろうか。
世俗の裁判の勝敗は金(かね)次第の面もある。金に糸目をつけず、優秀な弁護士団を揃えて受けて立つ教会側が勝つことも多い。しかし、証言台に立つ勇気を持った証人が現れなくても、「破門」をちらつかせたパワハラ発言を目撃した人が100人近くも存在する事実を否定できるものではない。神様の目から見て明らかな不義がまかり通った事実だけは、世に広く知られ語り継がれなければならないと思う。
映画「セントオブウーマン」の主人公チャーリーが、自分の良心の声に忠実であろうとしたために、あわや名門校退学処分の判決を受けようとしたとき、スレード中佐が父親代わりに現れて高潔なチャーリーを救ったように、キリストとその天の御父は清水の女次郎長さんの魂を救い上げ、復活の栄光のうちに聖人として迎えてくださるに違いないと私は信じて疑わない。
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清水教会問題に関する私の過去のブログもご参照ください(下のタイトルをクリックすると飛べます):
★ 清水の女次郎長がまた吠えた
★ 清水の女次郎長さんの地味な運動を知ってください - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)
★ 【号外】「清水の女次郎長」さんが久しぶりにつぶやいた
★ 《清水の女次郎長さんがまた動き出したようです》