:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編 (6)ー(b)キリスト教の凋落

2021-10-24 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落

(b) キリスト教の凋落

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

             (10)超自然宗教の復権

 

(b)キリスト教の凋落

 312年のローマ皇帝コンスタンチン体制以来、自然宗教化したキリスト教は、当然のことながら一般の自然宗教と同じ理由で凋落の道を辿ることになる。しかし、キリスト教には最初からそれとは別の凋落の要因が内包されていた。

 

世界の教会の母ラテラノ教会の入り口脇を固めるコンスタンチン大帝の騎馬像

 

 「皇帝」と「キリストの花嫁」の結婚、つまり、皇帝と教会の結合は、当初ローマ帝国の版図拡大と教会の宣教努力とが相まって、キリスト教の教勢拡大に大いに貢献した。しかし、中世をとおして一貫して機能していた政教一致体制のウイン・ウインの関係も、その後の歴史の展開においては最初から内包されていた矛盾が次第に露呈していく運命にあった。

 表現は少しえげつないが、実体を的確に言い表すにはぴったりなので、ご辛抱願いたい。

 皇帝にとって生かすも殺すも意のままの女奴隷ぐらいに軽く見ていた帝国の底辺の貧しい民衆が、ある日、「生き神様」の自分を見限って白いドレスをまとってキリストの花嫁として超自然宗教に走った。その後ろ姿は若々しく美しさと生命力に輝いて魅力的に見えた。皇帝はライバルの色男キリストに嫉妬し、自分を捨てた女を殺そうとしてキリスト教を迫害したが出来なかった。そこで、彼女を取り戻すために手練手管を尽くして篭絡にかかった。女はその甘い誘惑に負けて皇帝とよりを戻し、側女の地位に収まった。その時、教会は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21、マルコ12:17、ルカ20:25)と言って、地上の覇者と馴れ合うことを厳しく禁じたイエスの戒めを破って、神の命令に背いた。

 ドイツの銀行に勤めてデュセルドルフに住んでいた頃、私は車でよくアーヘンの大聖堂を訪れたが、それは不思議な魅力の漂う教会だった。紀元800年にカール大帝は教皇レオ3世によってローマで神聖ローマ皇帝として戴冠されたが、カール大帝によって建造された北ヨーロッパ最古の大聖堂は、その後16世紀まで歴代30人の神聖ローマ皇帝の戴冠式が教皇によってとり行われた場所でもあった。

 

   

アーヘンの大聖堂とカール大帝の胸像

 しかし、そのような皇帝と教皇の蜜月関係はいつまでも続くものではなかった。宮沢賢治の「どんぐりと山猫」の話ではないが、森の中では金色に輝いていたどんぐりが、家に持ち帰ってみたらただの茶色のどんぐりだったように、帝国の底辺の貧しい人たちが超自然宗教に走った姿は若く美しく輝いて見えたが、自分の手に取り戻して自然宗教の光のもとでながめたら、ただの醜女(しこめ)に過ぎなかった。しかも、ローマ皇帝と教会との蜜月関係の下では、この醜女はローマ皇帝の庇護に乗じて、だんだん太って厚かましくなり、皇帝にとって油断ならぬ存在になっていった。皇帝は教会の聖職者人事に手を出すし、教皇はそれを嫌って神の権威を笠に破門も辞さぬ勢いで皇帝を組み伏せようとするなど、皇帝と教皇の間に痴話喧嘩が絶えず、ついには皇帝が教皇を軍隊で脅かすというような由々しい事態にまで発展した。11世紀、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間の「カノッサの屈辱」事件などは、その典型的なエピソードだった。 

 農奴の生産性の上に築かれた封建主義的中世はやがて過ぎ去り、都市の商業活動から生まれる富が社会の世俗化と宗教離れを加速させていく中で、皇帝は教会の後ろ盾や神のご加護などに頼る必要性を感じなくなり、教会と組むメリットは失われつつあった。自然宗教一般の衰退と相俟って、教会は年をとって醜く太っ妾(めかけ)のように疎(うと)ましい存在になっていった、と言えばわかりやすいだろうか。

 しかし、教会は皇帝の寵愛と庇護のもとに好き放題が出来た過去の栄光を忘れられず、キリストの教えに背いていつまでも皇帝の愛人であり続けられるかのような幻想に酔い続けていた。

 自然宗教化した教会は、中世封建社会が終焉を迎えつつあったのに、なお過去の栄光がいつまでも続くような錯覚に溺れて、皇帝の服の裾に縋(すが)りつき、世俗的な権勢を誇示するために富を集めて壮麗な聖堂・伽藍の建設に力を入れた。その最たるものが今日のバチカン市国の聖ペトロ大聖堂だった。当然その建設には膨大な資金が必要だった。それをまかなったのが、神聖ローマ帝国の版図(主としてアルプスの北のドイツ)の教会における「免罪符」の販売だった。「免罪符」は日本語の当て字で、実体は「罪の償いの減免の証書」だったが、これは中世の教会では広く一般に普及していた資金調達の悪習だった。

 

宗教改革の引き金になったバチカンの聖ペトロ大聖堂

 

 信仰心の篤い若い神父さんが、使命感に燃えて「飲んだくれで女たらしだったお前の父(トッ)ちゃんは、いま煉獄の火に焼かれてヒーヒー言っているぞ。孝行息子がこの免償譜を買ってやったら、お前の父(トッ)ちゃんの魂はヒューッと天国に昇っていく。さあ、みんな買った、買った!」と説教しながら、手に持った賽銭箱の中身をガラガラ鳴らすと、孝行息子は涙を流してお札(ふだ)を買う。こんな光景がドイツの農村各地で盛んに見られた。こうして集められた金は馬車に積まれてアルプスを越えローマに運ばれ、延べ何百万人の職人に支払われ、今日見る壮麗なサン・ピエトロ大寺院はめでたく落成した。自然宗教の真骨頂だが、これがイエスの十字架と死と復活に何のかかわりがあるのだろうか。

 このスキャンダルはマルチン・ルッターらによる宗教改革の引き金になった。ルッターの指摘の多くは正しかったし、ルッターは教会の内部改革を願ったが決して教会の分裂を企図するものではなかった。それなのに、当時の教会の指導者はまだ中世の夢醒めやらず、改革者を手荒く破門した。ここに、今見るプロテスタント教会(新教)が誕生することとなった。

 キリスト教的ヨーロッパ社会は二つに分裂し、不幸な30年戦争に突入した。これはキリスト教徒同士の血で血を洗う戦いではあったが、同時にそれは封建主義社会と誕生間もない近代的市民社会の保守・革新の代理戦争でもあった。

 プロテスタントが去った後のキリスト教会は、以後カトリック教会と呼ばれるようになるのだが、その統一のシンボルはもちろんローマ教皇であった。教皇はトリエントの公会議(1545-1563)を開き、体制の引き締めを図った。いわゆる反宗教改革と呼ばれるものである。

 時あたかも、世界は大航海時代を迎え、ポルトガルやスペイン国王は、盛んに新大陸の発見とその植民地化を競い合っていた。カトリック教会はヨーロッパの半分をプロテスタント教会に奪われた失地回復を新大陸に求めたが、教会には自力で宣教師を世界に送り出す資力がなかったので、国王の出資で建造された船に便乗して中南米、アジア、アフリカの各地に宣教師を派遣した。王様も貿易船に宣教師を乗せ、新天地にキリスト教を広めることは、植民地原住民の統治に大いに役立った。ここでも、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せ」というキリストの教えに背く聖・俗の癒着と、同床異夢の「ウィン、ウインゲーム」が展開されることになった。

 遠藤周作の「沈黙」はこの時代に日本に上陸したイエズス会神父の宣教と、その後の迫害と殉教、棄教の物語だが、今は横道に逸れている場合ではない。ただ、フランシスコ・ザビエルが宣教を開始してから秀吉のバテレン追放令とその後の完全鎖国までの僅か半世紀の間に50万人とも70万人とも言われる数のカトリック信者が日本に誕生したが、1854年に鎖国が解かれ宣教が再開してから150年以上たっても、信者の数はついに50万人に達することのないまま、今は目に見えて減少に向かっている。

 その間、世界史は大きな展開を遂げ、第2次世界大戦後は一気に世俗化とグローバリゼーションが進んで、地球規模で価値観が均質化して行った。そして、皇帝と教皇の蜜月関係は遠い過去の想い出となり、近代国家と教会との関係も希薄になって行ったが、教会だけは過去の栄光の夢に浸って時代から取り残されていることに気付かないでいた。

 自然宗教はキリスト教も含めて凋落した。いま我々が見ているのは、長い伝統の上に築かれた莫大な遺産を取り崩しながら、年々惰性で祭りと儀式を踏襲している姿に過ぎない。

 極めつけが現在進行形の新型コロナウイルスだ。緊急事態宣言が発出されるたびに教会は閉鎖され、日曜の礼拝、ミサはリモート(ズーム配信など)になったり、信者をグループ分けして、毎週入れ替わりで少数ずつミサに招いたりが続いている。日曜日に教会に行けなかったり、行かないことが求められたりで、習慣的に来ていた信者の流れがブロックされた結果、宣言が解除されてももう元の流れにもどらなかった。コロナ騒動を期に、高齢者信者と若者の教会離れが一気に加速している。この状態があと数年つづけば、コロナが去った後に何が残るだろう。教会の凋落が最もわかりやすい形で加速度的に進行している。

 

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★ 私の「インドの旅」総集編(6)a) 自然宗教の凋落

2021-10-17 15:06:31 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(6)

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 自然宗教の凋落

今回のテーマはごく手短に終わりたい。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

                    (10)超自然宗教の復

     

(6)神々の凋落       

a)自然宗教の凋落

奈良東大寺のお水取り(修二会)風景

 事柄をごく単純化して言えば、自然宗教の神々、八百万の神々、は原初の素朴な人間が、普段は豊かな恵みをもたらすが、いったん荒ぶると大きな災厄を引き起こす大自然の脅威を前にして、その圧倒的で制御不能な自然の力に畏怖の念を抱いてその背後に神を思い描き、その人間が投影した神と何とか折り合いをつけ、願わくばより多くの恵みをひきだし、禍は極力遠ざけたいという願望が生み出したものだった。言い換えれば、自然に対する人間の無知と、自然を人間の欲望に合わせて制御し支配したいという下心から生まれたものでもあったと言うことができるだろう。

 そこから社寺・神殿が建立され、神の像が刻まれ、神官や祭司という専門職が生まれ、加持・祈禱・歌舞・奏楽などが発展した。そして、制御したい自然の脅威のタイプと手に入れたい恵みの種類に対応して、神々の数は限りなく増えていった。八百万の神とはよく言ったものだ。その神々の系譜は人間の歴史と共に古く、太古からその萌芽はあっただろう。

 しかし、この4-500年の間のに、今日的な意味における「自然科学」が生まれ、今もなお加速度的に進歩しつつある中で、自然界のメカニズムの科学的解明も飛躍的に進んだ。

 今回ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏の地球温暖化の研究は良い例だが、温暖化に伴う様々な脅威が神々の仕業ではなく、科学的に説明のつく自然現象であり、その対処法も神々への祈祷やお供えによってではなく、人間の科学技術で制御・対応できるものであることを証明した。

 その結果、迷信は駆逐され、自然宗教も存在理由の多くを失っていった。こうして、自然宗教の凋落は既に始まり、今も急速に進んでいる。今残っているのは、長い歴史のあいだに蓄積された莫大な遺産の慣性力によって支えられた儀式や祭りの行事として続いている面が大きい。

 その典型的な一例が、コロナ禍退散の儀式として注目を集めた東大寺二月堂の修二会であることは、このインドの旅の総集編(3)「自然宗教発生のメカニズム」(8月24日)に詳しく書いたので、思い出していただきたい。

 b)の「キリスト教の凋落」は、気合を入れて書き始めたが、内容が多岐にわたるので、ひとまずここで区切ることにした。

 (つづく)

 

 

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★ 私の「インドの旅」総集編(5) 「超自然宗教」の「自然宗教」化

2021-10-07 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編(5)

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遅くなりました。今回は「「超自然宗教」の「自然宗教」化」です。

     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

        a)自然宗教の凋落

        b) キリスト教の凋落

        c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

      (10)超自然宗教の復権

 

(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

 

ローマのサンジョバンニ・ラテラノ教会 コンスタンチン大帝によってキリスト教が帝国の国教と認められ、大帝の手で帝妃ファウスタの邸宅の跡地に建てられ、寄進された「世界の教会の母教会。324年に献堂式。14世紀に火災に遭い、16世紀にかつての威容を取り戻す修復が行われた。

 

超自然宗教の系譜

 アブラハムに始まり、モーゼを経て現代に伝わる「超自然宗教」の「自然宗教化」を語るためには、「わたしはある」と名乗る超越神(天地万物の創造神)と人間とのかかわりの長い歴史が、2000年前のナザレのイエスに収斂し、頂点に達し、その後はキリスト教を媒体として今日に至っていることを確認しておかなければならない。

 イスラエルの民の歴史の中で次第に醸成されていったメシア―救世主―の待望感が頂点に達した時に現れたイエスは、「わたしはある」の神を親しみを込めて自分の「天のおん父」と呼んだ。そして、その父の子としての自覚を持ったイエスは、父のみ心を解き明かし、み旨を行い、おん父の救いのみ業を自らの生き様をとおして成し遂げた。

 そのイエスは生前、自分の最期について弟子たちに「人の子—イエスは好んで自分のことをそうと呼んだ—は祭司長たちや律法学士たちに渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人(ローマの支配者)に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。」と話した。(マタイ20:18-19)

 「弟子たちはその言葉が分からなかっが、恐くてその言葉について尋ねられなかった。」(ルカ9:45)とある。弟子の頭のペトロはそんなイエスを「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諫めさえした。(マタイ16:22)

 だが、あってはならない、と心の中で打ち消していた弟子たちの悲痛な思いにも拘らず、民衆の歓呼を浴びて待望のメシアに祭り上げられたイエスは、一転して予言通り捕えられ、ユダヤ人の指導者たちから偽メシアと断罪され、ローマ軍の手を借りて十字架の上で処刑され、金曜日の午後3時ごろ死んだ。

イエスの受難と死

 捕えられた夜、イエスは法廷で鞭打ちの刑を受けた。ローマ時代の鞭打ちは半端ではない。何本もの革紐の先には亜鈴状の鉛玉がついていて、兵士に力任せに打たれた人の肌を容赦なく破り、肉をえぐる。何度も打たれれば、それだけで失血とショックで死ぬこともある。イエスはその鞭打ちを全身に受けてすでに肉体的消耗の極限にあった。その上、自分が磔(はりつけ)になる十字架の重い横木を城外の処刑場の丘まで担いで登らされた。

 刑場では、地に置かれた横木の上で両腕を力いっぱい引っ張られ、太い鉄の釘は手の平ではなく、手首の複雑な骨の隙間に打ち込まれた。指先に向かう神経の束は傷つけられ激痛が走るが、太い動脈は無傷だから急な出血はない。次に刑場にあらかじめ立てられていた縦木の先の臍に、横木の真ん中に彫られた穴を嵌めると、Tの字型の十字架が出来上がる。続いて垂れ下がった両足を押し上げ、ひざが折れ曲がった状態で足の甲を重ね、三本目の釘で縦木に打ち付けて止めると出来上がりだ。(注―1:「T形の十字架が正しいことについて」)

 それからの出来事が凄まじい。両手両足を三本の鉄の釘で木に磔けられたイエスの全体重は、それらの傷だけで支えられ、その痛みは体全体と脳みそを極限までしびれさせる。左右に引っ張られた両腕に全体重がかかると、胸は締め付けられて呼吸が出来ず、見る見る窒息が始まる。すると動物的本能で足の傷に力を込めてひざを伸ばして体をずり上げることになる。一瞬だけ胸が緩んで肺に僅かな空気が入って窒息から救われる。しかし、両足の傷に全体重をかけると、その痛みは極限に達し、たまらず両膝の力が抜けて体はドスンと下に落ちる。そのショックが両手首の傷に伝わるとその痛みで脳みそが爆発しそうになる。そしてまた窒息が容赦なく忍び寄る。また一瞬の呼吸を求めて本能的に膝を伸ばして体をずり上げる。しかし、すぐまた膝が折れて手でぶらさがる・・・。呼吸を確保し生き延びるために、この運動は休むことなく繰り返される。なんという残酷な、しかし効果的な、拷問をイタリア人の先祖は発明したことか。ローマに刃向かうものは、十字架に架けるぞ!という脅しは、反逆者を震え上がらせ、帝国の治安を維持するうえで最高の抑止力となった。

 私は中学生の頃まで昆虫少年だったが、蝶やトンボの他に、幼虫の芋虫も捕えた。いたずらで青虫を虫ピンで刺して木に止めると、可哀そうな幼虫は傷口に緑色の液をにじませながら、ピンで固定された箇所を中心に、右に左に激しく体をねじる運動を力尽きるまで繰り返した。

 憐れなイエスはこの芋虫の運動を十字架の上で何時間も繰り返した。聖書には、「昼の12時に全地は暗くなり(日食でも始まったか?)それが三時ごろまで続いたとある。三時ごろイエスは大声で叫び、息を引き取られた。」(マタイ27章45節以下参照)

 ユダヤ人の暦(こよみ)感覚では、その日の日没から安息日が始まる。「安息日に遺体を十字架の上に残さないために、兵士たちが来て、イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男の足を折った。(芋虫運動を続けている受刑者は、足のすねの骨を折られると、体をずり上げる支えを失って呼吸が出来なくなるから、数分を待たずして確実に窒息死することが分かっていた。)だが、イエスのところに来てみると、すでに死んでおられたので、その足は折らなかった。その代り、兵士の一人が槍でイエスのわき腹にとどめを刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た。それを目撃したものが証ししており、その証は真実である。」と、イエスの年若い弟子のヨハネが書いている。(ヨハネ19章31節以下参照)

 槍の先は右わき腹から斜めに入って心臓に達しただろう。生きている人の血は赤いが、死者の血は血沈検査の時のように、時間と共に透明な液と赤沈とに分離する。激しい運動の後、死んだイエスの体内で血液の分離が既に進んでいたことは、ヨハネの証言からわかる。イエスは十字架の上で確かに死んだ。仮死状態のまま葬られたのではないか?という疑念を差しはさむ余地が全くないほど、確実に死んだ。

 

イエスの埋葬と復活

 日没とともに安息日が始まるというので、イエスは処刑場の側の新しい墓に急いで葬られた。

 二日目の土曜日は何事も起らなかったが、三日目の明け方、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見に行くと、激しい地震が起きた。見ると、石はわきに転がっており、中に入ってみると遺体はなかった。婦人たちは、恐れながらも弟子たちに知らせるために走って行った。(マタイ28章1節以下参照)

 一方、「婦人たちが行き着かないうちに、番兵たちは都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。」祭司長たちと長老たちは、イエスの遺骸が忽然と消えるとい全くあり得ない深刻な事態をすぐに察知した。この事実が明らかになれば、兵士は全員死刑。祭司や長老たちもタダでは済まなかった。怯えた彼らは、「兵士たちに多額の金をあたえて、言った。『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んでいった』と言いなさい。もしこのことがローマ総督の耳に入っても、うまく説得して、あなた達には心配をかけないようにしよう。兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。」(マタイ28章11節以下参照)

 岩に穿たれた横穴にイエスは葬られたが、墓の入り口は大きな円形の厚い石の板で封印され、ローマの兵士たちがその入り口を護っていた。警護の兵士たちは任務遂行に失敗したら、責任を取って自分の命で支払わなければならなかった。イエスの悲惨な最後を目のあたりにして怯え、逃げ隠れしている弟子たちが、屈強な兵士たちが命を張って護っている墓から遺体を奪い取るなど、思いもよらなかった。また、徹夜で墓の警護を命じられた複数の兵士が任務を放棄してそろって寝てしまうなどは、全く論外だった。

 スイスの銀行がアルプスの岩盤をくり貫いて、その奥深く1メートルに余る特殊鋼の扉を閉じて、最高のセキュリティーを施した金庫の中に納められた巨大な金塊が安全である以上に、ローマの兵士の命で護られたこの石の扉の墓に葬られたイエスの遺骸は安全なはずだった。

 それなのに、週の初めの日の未明に兵士たちはイエスの遺骸が置かれた場所にないことに気付いた。これは、原子爆弾でも吹き飛ばせないアルプスの山に穿たれた金庫から、入り口のセキュリティーが破られた形跡もないのに何十トンもの金塊の山が忽然と蒸発したよりもっと不可解な全くあり得ない話だった。イエスの亡き骸が煙のように消えたという「空の墓」の出来事こそ、イエスが復活したことの最も重要な印だった。

 他方、イエスに愛された罪の女マリアは、急いでもどる途中に見知らぬ墓守の男に出会って、その男にイエスの遺体が消えた話をした。するとその男は「マリア」と言った。その瞬間、マリアはその男が復活したイエスだと気付いて、喜びのあまり縋りつこうとしたが、押しとどめられた。(ヨハネ20:14以下参照) 

 また、二人の弟子はキリストの十字架上の悲惨な死の後、失望して故郷に旅立った。気がついたら、見知らぬ旅人が一緒に歩いていた。エマオという村で日が暮れたので、その旅人を強いて誘って一緒に宿に泊まり食事を共にした。そして、その旅人がパンを裂くしぐさを見て、それが復活したイエスだと悟った。しかし、その瞬間旅人の姿は消えていた。(ルカ24:13以下参照)

 最後の晩餐をとった同じ部屋に隠れていた弟子たちにイエスが現れた。しかし、弟子たちは皆それがイエスであることを疑った。釘で貫かれた手と足と、槍で貫かれたわき腹の傷を見せられても、なお疑ったのはなぜか。それは、その人物の容姿が三日前に見たイエスと全く別人のものに見えたからである。(ヨハネ20:19以下参照)

 まだある。失意に打ちのめされたペトロと数名の弟子たちは、イエスの死後、故郷のガリラヤに帰って元の漁師にもどっていた。ある日、夜通し漁をして何も獲れなかった。明け方岸辺に見知らぬ人がいて、「船の右側に網を打ちなさい」と言うのでその通りにしたら、網いっぱいに魚が獲れた。岸に上がって、その見知らぬ人と朝食を共にしたが、「弟子たちは誰も『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」(ヨハネ21:12)(アンダーラインは筆者)

 これらの奇妙な話に共通する点は何か。それは、「空の墓」が確認された後、復活したイエスは確かに弟子たちに現れたが、上のいずれの証言を見ても、イエスは最後の晩餐の日まで3年間寝食を共にした若々しいイエスと同じ目の色、同じ声、同じ背丈と容姿のあの見慣れた懐かしい主の姿では二度と弟子たちの前に現れてはいないということだ。つまり、彼らは、現代の法医学の言葉を借りて言えば、同じDNAの個体としてのイエスには二度と出会っていないということになる。イエスは出現の度にいつも見知らぬ別人の姿で現れる。それにも拘らず、弟子たちは何故かその人の中に復活したイエスが現存していることを確信することができたのである。

 「いや、生前のイエスと同じ姿、形、で現れた例もきっとあっただろう」、という反論に対しては、「残念ながら聖書にはそれを積極的に裏付ける証言は一つもない」とだけ答えておこう。

 これは私たちにとって、実に注目に値する慰めに満ちた事実ではないか。イエスの生前の姿に親しく接した弟子たちでさえそうであるというのなら、あれから2000年隔たった今日、生前のイエスの姿を見たことのない我々にも、復活したイエスに出会うチャンスがあるということではないか。

 現に、私の敬愛するキコ・アルグエヨというスペイン人は、彼の私的な「覚え書き」の中にイエスを見た、と証言している。(注―2) 歴史の中の多くの聖人たちもキコと同じ体験をしている。不肖私も復活した生けるキリストに会っていると敢えて(小さい声で)証言したい衝動にかられる。

 キリストと呼ばれるナザレのイエスの死と復活の顛末を長々と述べたのは、イエスが「わたしはある」と名乗る超越神と「キリスト教」との間に確かなリンクであることを明らかにするためであった。そしてまた、キリストが実際に復活した事実の最初の、そして最も確実な印は「空の墓」だったことを再確認するためでもあった。

 3日目の早朝婦人たちが墓を訪れると、兵士たちはおらず、石の扉は転がしてあり、墓の中は空だった。そして、「空の墓」の事件の直後から、復活したイエスは愛するマグダラのマリアや、イエスの憐れな死に失望して故郷の村へ帰ろうとした弟子たちに(エマオの宿で)現れ、使徒たち大勢の弟子たちに現れた。彼らはイエスに出会って驚き、喜び、その復活を確信した。

 

ラテラノ教会の入り口脇に堂々と立つコンスタンチン大帝の騎馬像 世界の教会が彼のものであるかの如き存在感を誇示している(写真は筆者撮影)

 

キリスト教の「自然宗教化」のプロセス

 やっと本題に入る。イエスの復活を確信した彼らは、まず地中海の港、港、のユダヤ人コロニーに「ナザレのイエスは予言通り復活した」、彼はメシアだった、と言う報せを届け、人々を驚かせた。それもそのはず、「復活」、すなわち、死者が蘇えると言うことは、「超自然の神」の介入なしには起こり得ないことで、自然宗教の範疇を完全に凌駕し、人知の及ぶ範囲を超えた全く新しい出来事だったからだ。

 この全く信じがたい驚くべき「事実」を前にして、「回心して洗礼を受け、キリスト教を信じれば全ての罪を赦されて『永遠の命』が得られる」と告げられた人々、特に、自然宗教のもとではこの世的にも救われることのなかった貧しい人々は、こぞって「天の御父」と復活したキリストを信じ、その数は日を追うにつれて増えていった。

 だが、それまで、ギリシャ・ローマの神々を拝み、民衆には自らを「生き神様」として拝ませてきた皇帝は、ローマ帝国の版図の最下層の貧民など、言わば、生かすも殺すも意のままの女奴隷のよう思っていたのに、その「女奴隷」が、自分を捨てて神の子キリストの「花嫁」となって離れて行くのを見たとき、ナザレのイエスとか言う「色男」に自分の側女を寝取られた思いがして、嫉妬と怒りに狂ったことだろう。彼らは自分に税金を納めなくなるかもしれない、戦のとき敵側に寝返るのではないか、という疑念が頭をよぎったかもしれない。それで、そんな輩は皆殺しにしてしまえと、キリスト教徒を片端から捕え、拷問し、円形競技場に引き出して、ライオンに食い殺される姿を観衆と一緒に眺めながらサディスティックな楽しみに耽った。

 しかし、信仰の光に照らされて神の前に自分の罪の深さを痛感して回心したキリスト教徒は、神の無条件の愛と罪の赦しを信じ、イエスの復活と永遠の命を確信して、自然宗教を捨て、迫害も死も恐れず、弾圧されればされるほど燎原の火のごとく燃え広がり、貴族や上流階級からも相次いで帰依するものが現れた。

 力ではねじ伏せられないと悟った支配者が考えることは、いつでも同じだ。「押して駄目なら、引いてみよう」とばかり、皇帝は手の平を返したようにキリスト教を体制の中に取り込み、懐柔することに熱中する。

 迫害をやめ、皇帝が率先して改宗し、洗礼を受け、キリスト教の祭司を貴族並みに取り立てて、元老院議員の式服を祭服として着せ、元老院の建物(バジリカ)を教会堂として使用することを許し、皇帝の命令で偶像の神殿を壊し、その石材を再利用して教会堂を建て、人々には神々の像に替えて十字架を拝ませた。紀元312年ごろを境に、コンスタンチン大帝の時代以降に実際に起こったことだ。 

 迫害を恐れず従容として死を受け入れていたキリスト教徒も、この誘惑的な皇帝の策略の前には脆かった。ガリレアの貧しい無学な漁師の息子たちにとって、突然ローマの貴族並みのきらびやかな生活が許されると言うのは、現世的に見ればきわめて美味しい話だった。迫害に耐え、日々命がけで、ひたすら死後の永福を希求する厳しい生活より、いま、この世で、富にありつき、人々の上に立てる身分の方が絶対いいに決まっているではないか。だから皇帝の誘惑の手に、教会の指導者たちはたちまち篭絡されていった。

 皇帝にとっても、一旦は「キリストの花嫁」になって自分から去って行った「女奴隷」が、自分の口説きに応じて「娼婦」のように再び身をまかせてきたのを見て、きっと悪い気はしなかっただろう。皇帝はそのようなキリスト教を国教とし取り立て、保護し、ローマ軍によって護った。教会もその見返りとして皇帝の上に神のご加護を祈願する。双方の利害が合致し、ここに目出度く「政教一致」、「聖俗一体化」の新体制が成立した。「神聖ローマ帝国」などと言う歴史用語は、この状態をピッタリと言い当てた言葉だと言う他はない。

 ユダヤ人が中心だった迫害下の初代教会では、異教徒の入信志願者に対して、自然宗教のご利益主義とお金の神様への隷属をきっぱりと捨て、超自然の神様に帰依するための回心の道程を時間をかけてしっかりと歩み、確かな回心の証しを立てたものに対してだけ洗礼と入信を許すという、極めて慎重で厳格な手続きがあった。

 しかし、コンスタンチン大帝の新体制下では、怒涛の如く教会になだれ込んできた異教徒たちに対して、それまで存在していた長い厳格な「回心の道程」があっさりと免除され、形だけの洗礼を受けて即席の信者になることが一般化した。

 皇帝がキリスト教を受け容れ洗礼を受けたのも、無論、心から回心してのことではない。自分を神として拝ませ、自分もギリシャ・ローマの神々を拝んできた自然宗教のメンタリティーはそっくりそのままで、ただ拝む対象を神々から十字架に置き換えただけに過ぎなかった。

 超自然宗教として誕生したはずのキリスト教は「だれも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることはできない。」と言って、神を愛し富を軽んじることを求めたキリストの根本的な教えから完全に離反した。

 また、キリストは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」と言って、「わたしはある」の神とこの世の覇者である「皇帝」に兼ね仕えることを厳しく禁じたのに、その教えも踏みにじって、皇帝と一心同体になった。

 それだけではない。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもしないのに、あなた方の天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは鳥よりも価値のあるものではないか。」「野の花がどのように育つかを見なさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、栄華を極めたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」「なにを食べようか、何を飲もうかと思い悩むな。それらはこの世の『自然宗教』の信者が切に求めているものだ。回心して『超自然宗教』を信じて、ひたすら神の国だけを求めなさい。」そうすれば、あとのことはすべて神が計らって下さる、と言う神の摂理への絶対的委託の原点からも遥かに遠ざかってしまった。

 今や、入信の動機は「洗礼を受けてキリスト教に改宗すれば自分も罪を赦されて永遠の命が得られる」からではなく、「新しいご時世では、キリスト教徒でなければローマ市民として日の当たる身分にあり付いてうまい汁を吸うことができない、取り敢えず洗礼だけは受けておいた方が得だ」という風潮が支配的となった。

 多くの改宗者は、「自然宗教」を信じていたときと全く同じメンタリティーを引きずりながら、「回心」の要件を全く満たすことなく、形だけキリスト教徒になった。いわば、キリスト教を語る巨大な新型「自然宗教」が誕生したと言うべきか・・・。

 迫害の時代には「自然宗教」をきっぱりと捨てて「回心」の証しを立てたものにだけ洗礼と入信が許されたのに、今や、キリスト教の教えの心髄を全く理解しないものたちが、ご利益を求めてうまく立ち回り、教会の要職を占めるようになった。それは、悪貨が良貨を駆逐するように、また、現代風に言えば、より伝染力の強い変異株ウイルスが、あっという間に在来型を駆逐して置き換わっていくように、真正な「超自然宗教」としてのキリスト教は、見る見るうちに俗っぽい「自然宗教バージョンのキリスト教」に置き換わってしまった。

 

私の愛する教会の名誉のためにひと言付け加えよう

 キリスト教は超自然宗教であることをやめて、ただの自然宗教に堕したとは言ったが、まことの回心の意味を理解し、ナザレのイエスの教えの原点に忠実に生きようとする望むキリスト者が全く居なくなったわけではない。だが、あくまでも超自然宗教の本質に忠実であろうとする本物のキリスト者にとって、「自然宗教キリスト派」の大海のなかで生き延びるのは容易なことことではなかった。

 本物のキリスト教を追求しようとする者の多くは、世俗を捨てて砂漠の隠遁者になるか、塀をめぐらした大修道院の中に立てこもって理想を追い求めるか、の道を選んだ。

 しかし、修道院の中にも自然宗教化の誘惑は巧妙に忍び寄る。土地を所有しない農奴の生産を基盤とした中世の封建主義社会では、国王や封建領主たちは、自然宗教化したキリスト教を掲げる皇帝を頂点にした支配体制の中で領民の上に君臨し、富を築いていったように、大荘園を経営する宗教貴族、つまり教皇をはじめ、枢機卿、大司教たちだけではなく、囲いの中の修道院長らまでも、世俗の封建領主と同様に、農奴である領民の上に権力をふるい、収奪し、富を築いて堕落していった。

 せっかく純粋に超自然宗教としてのキリスト教の原点を守ろうとして世俗から退いた修道者たちも、結局は自然宗教に変質したキリスト教の波に呑み込まれまれていった。このようにして、超自然宗教として誕生したキリスト教は、総体としてはギリシャ・ローマの神々を拝んでいたときと全く同じレベルまで堕落してしまった。 

 とは言え、幸いにもイエスの純粋な教えは、ごく早い時期(紀元1世紀の終わりまで) に聖書として文字に固定されて残った。そして、初代教会のキリストの弟子たちの生き様は、回心した信者たちの間で生きた伝承として語り継がれ、いわば、地下水脈のように密かに受け継がれていった。

 だから、自然宗教化したキリスト教体制の中にあっても、本物のキリスト者の生き方を証しする人々が時折り現れ、聖人と呼ばれ、信者の模範として顕彰されてきた。聖人の王様も、聖人の教皇、司教、大修道院長も稀に現われないわけでもなかった。また、その他にも、晴れがましく聖人として尊崇されることのないまま、ひっそりと生きて死んでいった無名の偉大な聖人たちが、実際にはたくさん市井に隠れていたに違いないと私は信じている。

 ともあれ、このコンスタンチン体制以降の自然宗教化したキリスト教は長い時の流れを経て今日にまで及んでいる。

――――

(注―1)「T形十字架が正しいことについて」:泰西名画・宗教画の十字架がほぼ100パーセント十の字形であるが、惑わされてはいけない。聖書が書かれた時代の信者は、みなイエスの架けられた十字架がT字型であることを知っていた。だから敢えて聖書の中で説明する必要性はなかった。

プラス記号の十字架が絵画に登場するのは、300年以上たってキリスト教の迫害が終わり、ローマ帝国の国教化が進んだ後に、ようやく描かれるようになるのだが、もうそのころの画家たちは本物の十字架がどんな形だったかを知らなかったし、皇帝の頭に浮かんだのもTの縦木が上に突き抜けた形だった。

(注―2)「覚え書き」426番「私の心があなたを探し求めているのを感じる。」・・・「罪の無い者たちの苦しみの中にわたしはあなたを見、私はショックを受けた。」(キコ・アルグエヨ著、谷口幸紀訳「覚え書き」1988年―2014年。フリープレス刊。P.276-277。)

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