:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「福島異聞」 そのー3 伝聞だけではなく実体験も

2016-12-30 21:33:02 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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「フクシマ異聞」 そのー3 

伝聞だけではなく実体験も

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「伝聞だけで物を言うな」と文句を言う人もいるが、気にしない。情報源の秘密と安全を護りながら、リスクを承知の上で、自分が信頼できると思った大切な情報を拡散することは、民主社会に生きる市民の義務ではないかとさえ思う。とは言え、たまには自分の生の体験を交えて書くのも悪くはない。

しかし、その前に一つ挟んでおきたい投稿がある。

 

〔投稿ー4〕

(福島のレイプ事件)読み返す度に、残酷さが・・・そして心痛みます・・・こんな酷い状態が、まかり通っているなんて・・・ 

この夏、中学一年生の まだ幼さが残る男の子と女の子が、夜中から未明にかけて、商店街を徘徊し、その後行方不明となり、遺体で発見され、大騒ぎとなりました。大阪の寝屋川だったと思います。 

その後犯人が逮捕されましたが、大騒ぎになった事件でしたが、犯人逮捕と同時に報道は、あっけなくおさまりました・・・なんとなく違和感でした。 

勘というか 第六感でしょうか・・・犯人が 福島の除染作業員ということで、あまり大きな騒ぎになってほしくない人たちがいるのでは? と感じました!!!(夏の休みで、福島から大阪に帰っている間の凶行で、福島に再びかえって、逮捕されたようです。) 

除染の作業は きつい仕事で、命がけでしょう。ストレスが とても溜ることは、想像できますが、だからといって、殺人・婦女暴行は、絶対に許されないことです。 

身も心も 深く傷つき、自死を選んだ女性を想うと、たまりません・・・どうしてこんな状況が 許されているのでしょうか・・・考えるほどに 憤りが 湧きあがります・・・ 

勇気ある 発信をされておられる神父さまに敬服いたしますが、神父さまが、なんらかの迫害を受けるのでは? と 心配です!!!大丈夫でしょうか? 主がお守りくださいますように!!!

〔匿名〕

 この投稿は、私が「福島異聞」そのー3 を書き上げてアップしようとした約2時間前に私の目に留まった。

「ウン???」と私の神経に引っかかるものがあった。夏の休みで、福島から大阪に帰っている間の凶行で、福島に再びかえって、逮捕されたようです。」と言うくだりが私の心の中で警鐘をならした。私は、情報ソースの人柄を熟知していても、投稿を拡散する前に必ず「情報」そのものの内容を吟味する。それでなければやられるのは私だからだ。

既に出来上ってアップ寸前の「福島異聞」そのー3 を一時棚上げして、数時間、猛烈な裏付け捜査に没頭した。インターネットで「寝屋川事件」をキーワードの検索をかけるだけで十分だった。今だに50件以上がヒットする。この夏私は日本にいた。毎日くどいほどテレビに映る防犯カメラの映像をみた。中一の星野りょうと君と平田奈津美ちゃんが深夜の繁華街を行き来する姿が網膜に焼き付いた。その後の報道から、犯人の山田浩二容疑者(45歳)が8月21日8時22分に逮捕されたことも報じられた。犯人の顔写真や生い立ちや・・・あらゆる詳細が今もネットで再見できる。

しかし、何かしっくりこない犯人逮捕と同時に報道は、あっけなくおさまりました・・・と言う印象に同意するものが私の中にもある。匿名」さんの「なんとなく違和感」「第六感でしょうか」と言う言葉が気にかかる。ふつうの凶悪事件の報道では、テレビ、新聞、週刊誌、などの各社は、事件の詳細スクープで競い合うものだ。逮捕状況として、8月21日8時22分に逮捕されたと詳細に時間を報じるのなら、どこで、どのような状態で逮捕されたか、犯行から逮捕場所までの犯人の足取りはどうだったか、も同じ詳しさで報じられるのが自然ではないのか。普通の事件の報道は必ずと言ってもいいほど、それらの点を詳しく書いている。ではなぜ「寝屋川事件」に限ってその情報が、私の一覧した50件近い記事の全てに、すっぽり欠落しているのか。

もう一つこの事件に特徴的なことがある。それは、「新聞の大チョンボ―」という記事にまとめられているからありがたい「・・・とあるのは誤りでした。お詫びして削除します。」(毎日新聞)「中日、毎日、朝日の各紙が22日から23日にかけて相次いで・・・したと報じたのですが、これが事実誤認だったのです。」「25日になって様相が一変。・・・とあるのは誤りで、この事件に無関係でした。お詫びして削除します。」(毎日新聞)など、報道各社があたふたと一斉に訂正に動いたのだ。私は、削除された内容に逮捕場所の情報が含まれていた、とか、犯人の足取りを詳しく書いたのを削除したに違いない、などと言う憶測で物を言い、このブログを面白く創作する意図はさらさらない。削除された部分は今となっては知る由もない。私はそれと断定できる痕跡をそれらの訂正・削除との関連で何一つ見出しえなかった。

私の知る限り、私に「逮捕場所と、犯行から逮捕までの犯人の足取り」をきわめて具体的に教えてくれたのは、〔投稿―4〕「匿名」さん、ただ一人だ。世の中には、同じ情報を個々別々に得て記憶する人がほかにもおられるかどうかは知らない。しかし、私が知っている関西在住の「匿名」さんは、もうかなりの年輩のご婦人で、ご主人の介護に専念しておられる敬虔なクリスチャン。私のブログ記事に口裏合わせて、でっち上げの嘘を投稿することなど、120%、絶対にありえない正直で単純でまっすぐな人柄だ。彼女が犯人逮捕の直後に信頼できるソースから逮捕劇の顛末を何らかの方法で知り得たからとしか、私には思えない。彼女が関西在住であることを思えば、言論統制でテレビ新聞大手各社が右へ倣えして訂正削除し沈黙を決め込んだとき、統制の網から漏れた関西のメディア、消息通がいち早く真実を流し、その後も撤回しなかったから、関西の一部の人々で共有された真実を彼女も知っていたのかもしれない。

私は、二十歳代の前半を、ラテン語を第一外国語として学ぶ日本では極めて例外的な学生として過ごした。死語であるラテン語の勉強の手段として、たくさんの意味深いことわざをラテン語で丸暗記したものだ。その中に、日本語に訳すと:

「人は理由なしには決して嘘をつかない!」

と言うのがあった。誠に知恵に満ちた永遠の真理だと思いませんか?神様は人間の心をそのように造られた。私は、「寝屋川事件」に関して、嘘を捏造するような大それたことをする動機(理由)を「匿名」さんの中に見出さない。

私の中の結論はただ一つ。彼女の話は本当だ。何らかの強烈な言論統制の力が、あらゆる報道から、犯人の職業と、逃走経路と、逮捕場所、に関する情報を消し去った。一流紙があたふたと「誤報でした。お詫びして削除します。」と書いたことと関係があるともないとも私は断定しない。多分ないかもしれない。しかし、そのあたふたぶりはお粗末と言うか、普通ではない。報道の意図的誘導と、情報のかく乱が裏にあったことだけは強く匂ってくるが・・・。

なぜこんなことになったのか。それは、犯人の山田浩二が福島の現役の除染作業員であったこと、逮捕現場が福島県下であったこと、以外に考えられるだろうか。

なぜそこまでして「フクシマ」を隠すのか?

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〔投稿―4〕にかかわっていて、思いがけず長くなってしまった「福島異聞」そのー3 の本文は割愛して、次の機会に回すほかはない。皆さん、良いお正月を! 谷口幸紀 敬白

(新年もこのシリーズまだまだ続きます)

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★ 「福島異聞」 ただいま 「連鎖反応中」

2016-12-28 22:12:59 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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「福島異聞」ただいま連鎖反応中」

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〔投稿―1〕

はい!!!

私のコメント、もしご迷惑がかからないなら、ブログに、適当に使ってください。

情報操作や、意図的な隠ぺいは、戦前の日本のようです。(まだ生まれてなかったけれど・・・)

日本人は過去の過ちを、学習しないか、忘れてしまうのか?

それとも、経済優先・・・人命よりも 人権よりも、何よりも経済優先の、お金の亡者になってしまったのでしょうか?

そのしっぺ返しを 受ける時が 来たようです・・・自分の蒔いた種は、自分で刈り取るのですから・・・

 

〔投稿ー2〕 

拝見したブログに違和感はなく、自然のこととして 受け止めていました!!!

奇形児とか、障害児(障害者)とは、決して差別ではない。差別だと思う方が、神経質になりすぎていると思うのです・・・

障害(不自由)があっても なくても、一人ひとり、その人らしく、生き切ること!!!

私のコミュニティーに ダウン症のお嬢さんがおられますが、とっても純粋で優しく 天使のようで、心なごみます。何事にも一生懸命です・・・すてきな女性です・・・大江光氏のように 特別な才能が開花する方も おられます・・・

もし、障害があるかも、と中絶していたら・・・ 認知症の高齢者は、抹殺せよ・・という発想になるのでは? と思うと ぞっとします!!! 

気温差が激しい日本です。ローマは いかがでしょうか・・・お元気で よい新年をお迎えください!!! 

 

〔投稿―3〕

ほんとうに、日本人は(私も含めて)無責任で忘れっぽい!!!

原発事故の後、秘かに、「小魚は食べるな」(大きな魚は 放射能の蓄積は骨の部分だけど、小魚は 全体に蓄積するから・・・)とか言われたけれど、カルシウムのためには 食べないわけにはいかず・・・

嘘かほんとうか 真偽のほどはわからないが、「福島産の野菜やお米は、外食産業や給食に使うよう 全国に出回っている。それは、癌が 福島に集中しないで、他府県にも癌は発生している と言いたいために」 とか・・・一切公には されないが・・・

何より、政府は 信じられない。マスメディアも・・・との政治不信も いつしか忘れているかも・・・

原子炉の爆発も 予想できていたのに、公表せず、福島の人々を、危険にさらしたことも 日本人は忘れているかのようです・・・

もんじゅ を廃炉に・・・ほとんど使用できなかった「もんじゅ」を 失敗と認めない政府!!!

造るにも 廃炉にするにも 巨額の費用がかかり、事故処理に、必ず除染できる との確証もないのに、外国に売りつける 無神経・無責任な日本人・・・

垂れ流しの汚染水は、やがて世界中の海を汚染するでしょう・・・除染した土は、やがて日本中に溢れ、住居区域にも進出するでしょう・・・

すべての情報は 歪められ、真実は、隠されたままでしょう・・・

「福島の子供たちは、福島から 逃げろ」 という本を書いた人は、書店での販売は禁じられ、

ネットでの通販も 妨害されたそうです・・・

戦前のように、情報操作されて、気付かぬうちに、とりかえしのつかぬ事態になってしまうのでしょうか?

 

 

イタリアの新聞によれば、福島第一原発の事故が引き起こした被害額は

推定2.76兆ユーロ=約337兆円

これは、日本の2016年度の国家予算のなんと3.5倍に相当することになる。

 

「福島異聞」 その-2

地震、津波、福島第一原発の過酷事故、から5年半余り。いま、現地はどうなっている?巷の話題を拾ってみた。

 、あたりに人気のない証明写真用のボックスから裸足の足先が覗いて動かないのを、通行人が見咎めた。不審に思ってカーテンを開けてビックリ。全裸の若い女性が倒れていた。息はあったが、魂は抜けていた。たちまち人だかりになった。気丈な女性が急いで毛布を持ってきて彼女の体を包んで、猟奇的な視線から彼女のからだを救った。

またも、レイプ事件が起きた。この日本に、おばあちゃんでも夜は一人歩きの危ない地帯がある。女性であれば年齢を問わないのだろうか。加害者は全国から流れ着いた「除染作業員」や「廃炉作業員」と大体相場が決まっている。新聞には報道されない。

肉親も保護者も名乗り出なかったのだろうか。被害者の女性は、親切な人に保護されたが、必死の慰めも励ましも、犯され壊れてしまった彼女の心には届かなかった。結局、ちょっと目を離した隙に、誰にも気づかれないところで、誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと自死していた。死だけが彼女を優しく解放し、救うことが出来る唯一の道だったのだろう。

これが首都圏の深夜の歌舞伎町あたりの事件なら、マスコミが見逃すわけがない。朝のお茶の間の時間帯にパネル解説入りでにぎやかに犯人像の推理で盛り上がっているはずだった。しかし、こと「福島」の事件とあっては、テレビも、新聞も、週刊誌も申し合わせたように固く沈黙して、一切取り上げられることがない。警察は立件して、真面目に捜査して、犯人を検挙するまで頑張る気があるのだろうか。病院も、役場も、国も挙げて、この種の事件は闇に葬り去り、隠蔽するつもりではないのか。やり得の犯人は、野放しのままだ。このような暗黙の統制に異を唱える医者は、薬剤師は、個人病院は、職を失い、経営が破たんし、県外に出ても前科が付きまとい、日本に絶望して海外に活路を求める人もいる。

為政者は、福島は「アンダーザパーフェクトコントロール」と世界に豪語して恥じず、オリンピックの呼び込みに血道をあげている。今「フクシマ」に何かコントロールできていない問題があることが知れては困るのだ。なんとしても「問題なし」で口裏を合わせなければならない。奇形児は生まれない。癌は発症していない。治安は完全に保たれている。避難解除地区には人々が粛々と帰還している・・・。もちろん、米、生鮮食品、果実、漁獲物からは放射線は検出されず、食べても「直ちに」健康被害が出ることは「絶対に」ない。(それは確かにそうだろう。健康被害は必ず時間差を置いて現れるからだ。そして、続々と被害報告が上がってくる頃には、保証した彼らは現役を退いていて、責任の追及を免れることだろう。)

何が「アンダーザコントロール」だ。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。炉心溶融は起きていないと最初に真っ赤な大嘘」をついた。無責任な保守的良識派(大多数の日本人)は、一旦はそれを素朴に信じた。(最初から異を唱えた私など、被害妄想のヒステリー扱いされた。)だが、嘘がばれて5年以上たっても、融け落ちた超高放射性核燃料の裸の溶融塊が、今どこにどのうような形状でどれほどの高温で放射能をばら撒き続けているのかという最も基本的な実態でさえ、全く把握できていない。アンダーザコントロールとは、聞いてあきれる。今頃やっとそれを探し当てようと探査ロボットを用意して、炉の中心部に挿入しようと小さな穴をあけたら、高濃度の放射能が噴出して慌てて穴をふさぎ、この先どうしたらいいかわからず、また途方に暮れている段階ではないか。答えてほしい。情報」と「言論」以外にコントロールできているものがあるなら、具体的に言ってほしい。少なくとも溶融した核燃料のデブリは所在不明のままコントロールできていない。

チャイナシンドロームと言う言葉がある。原発事故を扱ったアメリカ映画の題名だ。溶融した炉心の核燃料の塊は、金より重いウランでできているから、高温の火の玉は下にある鉄もコンクリートも土壌も岩も溶かしながらじりじりとメルトスルーして、アメリカの事故現場からチャイナ(中国)を目指して進んでいく、というシナリオだ。(本当は地球の中心で重力の方向が逆転するからそこでストップ。東京から井戸に飛び込んだら、リオのオリンピック閉会式の場にポンと踊り出るということにはならないのだが・・・)

スリーマイル島の事故でも、チェルノブイリでも、幸か不幸か、実際にはチャイナシンドロームは起きなかった。起きていれば今頃地中深く沈んで放射能をばらまくこともなくなるはずだったのに。今でも高放射能を空中にまき続けているからには地中浅くとどまった証拠だ。それを封じ込めるのに巨大な石棺が必要になった。一代目の石棺は(放射能被ばくで劣化して?)ボロボロになった。安全に封じ込め続けるために、それを包み込むより巨大な二代目石棺が最近完成した。しかし、それも劣化したらどうなる?3代目、5代目・・・マトリューシュカのロシア人形のように次々重なって、〇〇代目の石棺は古代エジプトのピラミッドの数倍の高さでロシアの大地にそびえるのだろうか。

そのためにどれだけの血税が注がれるのだろうか?国家予算ほどの額を注ぎ込んでも、融けた核デブリを掘り出して処理できなければ、福島にも巨大な墓、現代のピラミッドが聳えることになるのだろうか。

つづく、手元のメモにはまだ7つのエピソードが残っている。)

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★ 「福島異聞」そのー1 に対する反響

2016-12-25 23:26:22 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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「福島異聞」そのー1 に対する反響 

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はクリスマスのメッセージとしてこのブログの内容はちょっと重すぎるかなと初めから懸念していました。人々はクリスマスのメッセージとしては、もっと明るく、軽く、楽しく、希望のある話を好むと思われるからです。

案の定、早速いくつかの反応が届きました。皆さんとシェアーして考えてもいいかなと思った点を拾って、私の考えと共に紹介します。そして、元々短すぎて書き足りなかった重大な点を、この機会に補足したいと思います。

 

1 番目のコメント: 更新されたブログ拝読しました。内容のすさまじさにびっくりです。しかし、伝聞だけでこれだけのことを書かれるのはどうなんでしょう。

私の考え: 私が伝聞だけをもとに書いていることは、読む人にもはっきりわかると思います。私は伝聞のソースの人物の人柄、考え方を長い付き合いから知っていて信用しています。だからソースの秘密を護りながら敢えて書きます誰かが書かなければ重大なことがいつまでも闇の中に閉ざされ、人々の知るところとならないからです。第三者がそれをどう読むかは自由です。その伝聞を拡散した私の人格をどう評価されるかも自由です。

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2 番目のコメント: 読む人の中にもし当事者がいたらさぞや辛い思いをされるだろうと思います。「奇形児」という文字自体も(言葉狩りをする気はありませんが)極めて慎重に使われるべきだと思うのです。

 

私の考え: 曽野綾子さんを盾にする気はありませんが、多くの新聞を敵に回しても、日本語を大切にする主義を貫く人が居てもいいと思います。言葉狩りに気を使いすぎたら日本語が貧しくなります。言葉狩りで金儲けしている人を挑発するつもりは更々ありませんが、どうせ私ごとき貧乏神父に言いがかりをつけるほど暇人でもないでしょう。

世界中の聖書がライ病者を一律に癩病者(英:leper)と訳しているとき、日本の共同訳聖書だけが言葉狩りに気を使って「重い皮膚病を患った人」と訳しているのはがっかりです。まさに茶番です。

「癩病」のままでどこが悪い?

要は言葉の問題ではなく、暖かい繊細な寄り添う心の問題です。言葉を慇懃無礼に選ぶ人に限って、心の奥に根深い差別心を宿していることが多いのも厳しい現実です。そういう人のさり気ない言動こそ、もっと深く人を傷つけるのではないでしょうか。

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3 番目のコメント: だからと言って「場」を弁えることが悪ということでもないと思います。正に「暖かい繊細な寄り添う心の問題」です。そして大切なことは、暖かいと感じるか否かは言葉を発する側ではなく、受け取る側の感覚だということです。そいう子供を持つ家庭を長きにわたり身近に見てきたこともありまして・・・。

 

私の考え: 福島の放射線被曝のために奇形で生まれた子供を持つ家庭を長きにわたって身近に見てこられたのではないでしょう?福島の被曝が原因ならまだ3-4年のことで「長く見てきた」とは言えないし、生きて生まれてこられたからには奇形ではない何か他の障害を持ったお子さんのことではないでしょうか。ここははっきり区別しないと、話がおかしくなります。

そもそも「奇形」と言う言葉は「言葉狩りの対象」「差別用語」でしょうか。角川の必携「国語辞典」には

「奇形」:動植物で、ふつうとちがった、不完全な形をしているもの

とあります。それ以上でも、それ以下でもありません。卑下や蔑視を含む差別用語のカテゴリーには元来属していないと思われます。精神障害者や、まして、身体障害者ともカテゴリーが微妙に違います。

本来事実を伝えるだけの言葉に、敢えて差別や蔑視を込めようとするのは、人の心の在り方だと思います。

大江 光(おおえ ひかり)氏は日本の作曲家。(ノーベル賞)作家の大江健三郎氏は父。映画監督の伊丹十三は伯父。光氏は頭の上に大きなこぶのある奇形児として生まれました。脳の一部が頭骸骨の外にはみ出した?のではなかったかと思います。(ローマの手元にいま大江氏の本はないので正確な引用は出来ませんが・・・。)

直ちに大きな手術をしなければ命が危ぶまれたが、手術をして生き延びても、重度の知的障害が残ると診断されました。若い大江夫妻は奇形の息子の命を闇に葬らず、救う道を選びました。光氏のことは大江健三郎氏の作品に大きな影を落とし、ノーベル賞の受賞とも少なからぬ関係があっただろうと思います。

成長した光氏は、知的障害があっても、その鈍重な肉体に包まれた魂はモーツァルトの再来を思わせる光を放ち、そのCDは世界中で聞かれています。

大江健三郎氏は光氏が奇形で生まれたこと、知的障害者であることを隠さず、それを恥ともしていません。確か、ノーベル賞の授賞式にも伴って行かれたのではなかったでしょうか。

奇形児の親が子を恥じ、辛い思いをするのは、その親自身が世の差別心に呪縛されているからであり、その点を気遣ってに触れないように心を砕く周囲の人もまた、思いやりを装って問題から目を背ける差別主義者なのではないでしょうか。 

肉親が、身近な人が、差別し卑下し隠すなら、子は、本人は、一体誰に救いを求めればいい?

「暖かい繊細な寄り添う心」は、寄り添われた人の肉親、知人の中にある差別心との日々の戦いなしには伝わらないと思います。おっしゃる通り、要は受け取る側の問題です。

 

経験から、文字が多すぎるブログは敬遠され読まれません。読者の忍耐力に限界があるからです。だから、〔福島異聞そのー1〕を短く収めるために端折った(次回以降に割愛した)大切なことを一緒に書きませんでした。そのために、私の真意がよく伝わっていないことが上のコメントからわかりました。

だから、いま敢えて続けます。

「読む人のなかにもし当事者がいたら・・・」まさにおっしゃる通り、その通りです。それこそ本質的な問題です。

この場合「当事者」とは誰でしょうか。「親」にも、「生んでもらえなかった子供」にも、何の罪も咎もなかったのに、突然「診断によればあなたの子供は奇形児です」「福島の放射能被ばくが原因と思われます」「堕胎することを強くお勧めします」と突然告げられた母親のショックと悲嘆はいか程でしょう?医師の有無を言わさぬ言葉の背後に、冷酷な国家の意思、東電の意思、の重い威圧を感じ取った密室に孤立した心弱い母親が、誰にも相談できず、支えられることもなく、決断を急かされて心ならずも堕胎承諾書に署名させられてしまったた母親の、術後の悲嘆、後悔、罪悪感はいか程だったでしょう。誰にも知られていない、誰にも告げられない、もしかしたら、愛する夫にも言えていない、絶望的な孤独感と恐ろしい良心の呵責を思うと私の心は震え、張り裂けます。

もし、神父である私がその当事者に出会い、その心の苦しみを知ったら-相手がたまたまカトリック信者なら、告白(懺悔)の秘密のもとに知ることが実際にあり得る-、言葉を失い、ただ強く抱きしめてともに涙を流す以外になす術を知らないだろうと思います。たとえ「奇形児」でも生みたかった母の心を踏みにじった「国」と「東電」の残酷な仕打ちを一緒に恨み呪う意外に何か思いつくでしょうか。私たちは巨悪の前に全く無力なのです。

いいですか、これは国のせいでも、東電のせいでもありません。五体の形状にふつうと違ったところのあるお子さんは(私は「奇形」なんて差別的な言葉は絶対使いませんよ!)自然界の中で一定の確率で常にあるものです。その場合は、お子さんのためにも、社会のためにも、生まれない方がいいのです。良心の呵責なんか感じる必要はありません。こんな場合たいていみんな堕胎するのです。呪いたければ「神」を呪いなさい。国も東電も決して悪くありません。

母性本能はこんなまやかしの洗脳でごまかし切れるものではない。彼女の悲嘆、罪障感の地獄の苦しみに対する慰めがあるとすれば、それは唯一キコのシンフォニーのテーマ、「罪のない人々の苦しみ」意外にはないでしょう

キリスト教徒ではない、600万人以上の家族を、同胞を、ナチスのガス室で失ったユダヤ人の生き残りが、その慰めに敏感に反応しました。奇形児の親となる十字架を背負わされた母親たちも、本能的、直感的にこの曲の中にその真実を理解するでしょう。

生まれてこなかった「奇形児」の魂と、その魂を心ならずも闇に葬ってしまった母親の苦しむ魂の救済は、全てを赦し、全ての魂を愛し、復活の永遠の命と喜びに迎え入れようと手を広げる創造主なる神の愛以外にない、と私は信じます。「罪の無い人々の苦しみ」には人類の巨悪に打ち勝つ救済的神秘が隠されています。それは復活と永遠の命の希望と無限の喜びによってのみ埋め合わせがつく神秘な「苦しみ」なのです。

成長して十字架の上で壮絶な最後を遂げるイエスと、その十字架のもとに一人佇んで我が子の肉体を極限まで追い込む拷問死の苦痛を自分の魂の中でそっくり味わう宿命のもとに生きた母マリアの、ベトレヘムの町から打ち捨てられ家畜の間でなされたひそやかな出産のドラマを祝うクリスマスに、結果として実にふさわしいテーマとなったブログだった、と自分では思っています。

 神学校の馬小屋の風景

(つづく)

                                          

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★ メリークリスマス 福島異聞 そのー1

2016-12-21 19:54:02 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

 

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メリークリスマス 「福島異聞」(そのー1)

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 ローマの神学校の広いロビーには毎年この季節に大がかりな飾り付けがなされる。我こそは、今年こそは、と自信のある神学生の創意の力作だ。テーマはいつもキリストの降誕の場面。

歩数で測ったら15歩、端から端まで約9メートルある。

後ろの窓はブルーの羅紗紙で塞がれ、発光ダイオードで満天の星。左側はエルサレムの街と圧政者ヘロデ王のお城。右はベトレヘムの町と幼子イエスの誕生の馬小屋の場面。彗星は三次元に馬小屋の真上に飛び出ている。

ベトレヘムの洞窟の中は特に明るく作られている。

その中に母マリアと父ヨゼフ。そして飼い葉おけの中に救世主幼子イエスの像が。

今日の夕方までに100人ほどの神学生が一斉に休暇先へ散っていった。広い建物に平山司教(93歳)と私(77歳)の日本人「老々介護組」が残って、台所ネズミをしながらのサバイバルゲームが始まった。

幸い、時間がたっぷりあるので、日本を去る前のあわただしさの中でいろいろ拾った福島の話をまとめてみよう。

① まず北海道のE.M.さんからのメールについて。

私なりにそれを解釈すると、要するに、チェルノブイリでは原発事故後に沢山の奇形児が生まれたが、福島では奇形児出産の報告がないようだ。だから、チェルノブイリは重大な放射能汚染事故だったが、福島の第一原発の場合は、こと放射能汚染に関しては軽い事故だったのだろうか?本当にそうならいいのだが・・・。 

ところが、彼は違う書き方をしている。曰く、「こちらで古くから泊まり原発反対を闘っている方の話によると、福島では胎児のうちに奇形児を中絶している。しかし、この件をマスコミは一切報道していない、とのことでした。それで、あるマスコミ記者にそのことを話したら、そんなことどうやって裏付けるのか、と凄まれました。普段は反原発集会に来る記者でしたが、あちらの人だったようです。」と。

「あちらの人」とは、もちろん東電の側に立って報道している「御用記者」の意味です。

チェルノブイリのロシア人は、敬虔なロシア正教徒で、神を信じるから、堕胎中絶は神の意志に反する殺人行為であり、重大な「罪」だと考えて堕さない。また、医療検査が進んでいないから、どの胎児が奇形でどの胎児が正常かは生まれるまで分からない、と言う事情もあるだろう。しかし、日本は、そして福島は、胎児の奇形を敏感に識別して、神を信じないから良心の呵責もなく、母親がいとも安易に自分の愛の果実、胎の子、を殺すのだろうか。奇形児は人間ではなく、抹殺すべき有害な怪物なのだろうか。600万人のユダヤ人をガス室で殺害したヒットラーと同じ論理ではないか。背筋が凍るような奇形児出産のない福島の不気味な現実。実際には福島の汚染はチェルノブイリ同等かそれ以上かもしれないのに・・・。

同じ現実でも、観点を変えればこんなにも違う話になってしまうのだと思い知った。

マリアの子イエスも当時の政治指導者にとっては「奇形児」以上に疎ましく危険な存在だった。それは、やがて為政者の欺瞞と犯罪を暴く聖者、世界の罪を一身に背負って贖い、貧しい人々、虐げられた人々を開放する聖者、となる筈の赤子だったからだ。ヘロデ王はどの子がイエスか特定できないことに苛立って、一群の兵隊を差し向け、ベトレヘムの町一帯の嬰児をすべて、泣き叫ぶ母親の手から奪い取って、殺害した。だが、マリアとヨゼフは幼子イエスに迫る危険を察知して、タッチの差でエジプトに逃れ、ヘロデの魔手からイエスを救った。(マタイ2章1節以下)

この嬰児たちを、カトリック教会は最初の殉教者として記念し、その日を祝日と定めた。

(つづく)

 

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★(イタリア発=福島原発事故)あなたは富岡町を知っているか? 

2016-12-19 18:19:28 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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イタリア発=福島原発事故

あなたは富岡町を知っているか?

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昨夜ローマに着いて、今朝なにげなく新聞を開いて驚いた。

12月19日付のラ・スタンパ紙の第1面に「福島の亡霊たちの中に」と言う見出しと写真が踊っていた。その本文と写真は、第10面と11面の見開き2ページの全面に展開されていた。日本の新聞、例えば「読売」「日経」「朝日」などのどの新聞に、5年前の原発過酷事故について、このようなまじめな大特集が期待出るだろうか? 

事故原発を背にする放射線防御服の男女。私はレンタカーでこの辺りまで行ったことがある。

上下の写真は富岡町の廃墟の家と、そこから避難したタナコさん(68歳)

私は夫と富岡町に住んでいました。波々(複数形=つまり津波による原発事故を含む?)は、私たちからすべてを奪いました。

福島の廃墟の中の富岡町 放射線が時を止めた亡霊の町 と、見出しは言う

日本と核 原発49基のうち稼働中3基 再稼働待機中3基

電力依存度

        福島事故前   福島事故後

原子力     29%     2% 

天然ガス    29%     48%

etc.     

富岡町は双葉町の南側 福島第一原発事故現場から南南西16キロ

18万人が避難

福島の核の大惨事の結果、半径20キロ以内は生活不可能な高濃度汚染地域

福島第一原発の事故が引き起こした被害額は推定2.76兆ユーロ=約337兆円

これは、日本の2016年度の国家予算96.7兆円のなんと3.5倍に相当することになる。

そして、これは国民一人当たり265万円強に当たる。これをすべての日本人が大人も子供も負担するのだ。

原子力エネルギーが一番安いエネルギーだなんて、どのお口が言ったのでしょう。

ああ、神様!どうか私の計算違いでありますように!

3.11地震と津波の直接死者は15,894人だったが、放射能被ばく者の癌死は今後それにいくら上乗せされるのだろうか?考えるだけでも気が遠くなる。

芸能人のスキャンダルもいいだろう。小池劇場もいいだろう。オリンピックのお祭り騒ぎもいいだろう。

しかし、2020年のお祭りが終わって日が暮れた後、日本の経済と社会の一大凋落が待ち受けていることを忘れてはならないのではないだろうか。

イタリアの普段ドオッテコトない新聞がこれだけのことを書けるのに、日本の新聞は、テレビは、週刊誌は、インターネットは、一体どこへ国民の目を向けようとしているのだろうか?

イタリア人は富岡町の名を覚えた。日本人は双葉町や大熊町は知っていても、富岡町の名を知る人はまだほとんどいないのではないか。いい機会だと思ってイタリアの新聞記事を紹介した。

  

 

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★ 〔修正版〕シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」郡山公演

2016-12-12 08:33:42 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

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〔修正版〕シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」郡山公演

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昨夜このブログをアップした時には単純な、しかし重大な変換ミスを見落としていました。今朝、12月12日朝読み直して愕然!慌てて修正版を載せます。赤字が訂正した箇所です。

今年もあと3週間。今年はいろいろな出来事がありました。中でも、去る5月6日の郡山公演は、結果的には非常に出来が良かったという内外の評判が定着したようです。しかし、その声は実際に郡山の県民文化センター(2004席)をほぼ満員にした聴衆の皆さましかわからないことでした。

私は、ふと思ってインターネットで "The Suffering of the Innocents" というキーワードを使って検索をかけてみました。そしたらどうでしょう?まず2013年6月27日のブダペストのオペラ座での演奏が目に飛び込んできました。再生回数は19,629回。指揮者はまだキコの最初の専属指揮者、若いスペイン人パウのおとなしい控えめな指揮によるものでした。

2012年5月8日のニューヨークフィルの本拠地、リンカーンセンターのエーブリーフィッシャーホールでの演奏は再生回数165,319回。この時も私は現場に居ました。(当時のブログ参照)

ユーチューブには、他にも432,528回などと言うのもあります。とにかくたくさんの会場の演奏が、何万、何十万と言う再生回数で自由に見られることに意を強くしました。

それなら、郡山のDVDもこのブログで見られるようにしても叱られることはなさそうです。皆さん、百聞は一見にしかずです。新しい指揮者、トーマス・ハヌスのダイナミックな指揮で別の音楽のように生まれ変わったキコの「罪のない人々の苦しみ」を聴き比べてみてください。

きっと、これまでの私のブログの紹介が、あながち的をはずしてはいなかったことを、ご納得いただけるのではないでしょうか。

https://drive.google.com/file/d/0B1k0_H6yYMJvVnJjdTc4VmI2cjQ/view?usp=sharing 

上のURLをクリックしてください。簡単に見られるはずです。

 

 

 

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★ シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」を語り合う会(郡山)

2016-12-07 14:38:48 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

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シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」を語り合う会(郡山)

(2016年12月5日)

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師走の朝早く江戸川の家を出て、車は一路常磐道を北上した。

行く先は郡山市のビューホテル。

今年の5月5日、郡山市民文化センター(2004席)の素晴らしいホールで演奏されたキコのシンフォニーを聞いた人々が集まって、感想を語り合う会に私たちは招かれた。

どんな集まりが待っているのだろうかと思い巡らしながら、小春日和の常磐道のドライブは快適だった。

用意された部屋の広さに釣り合った13人の男女が私たちを待っていた。私たちとは、グレゴリオ、ピラル、若いサムエルに私の4人。私たちは似たような会を東京でも、広島でもその他の都市でもすでにいくつか経験している。しかし、郡山の場合は特に印象的だった。私たちがお膳立てしたのではなく、招かれた形になったことがまず違った。昼食が準備されていた。

 

写真はお開きの前にテーブルの一辺に集まって集合写真を撮った

食事と懇談が終わると、あのコンサートの日の感動と、感想が時間をかけて語り合われた郡山市は日本の「楽都」と呼ばれる音楽のきわめて盛んな都市だ。海外から数十人のオーケストラが来たことも、有名な指揮者が来たことも、クラシックの名曲が演奏されたことも珍しくなかった。しかし、コーラスも含めて200人を超える海外からの大音楽集団が市民文化センターのステージを埋めたのはホール開闢以来のことだそうだ。

福島から東京への移動日を使っての追加公演企画が持ち上がったのが上演一か月前、ポスターが出来てPR活動が始動したのが僅か2週間ほど前だった。地元の音楽専門家は、経験から客席が空っぽの悲惨な大失敗に終わることを確信して、思いとどまるように真剣に助言してくれたのに・・・。それなのに、蓋を開けてみたらウイークデーの真昼間の1時半に2000席がほぼ満席になったのはまさしく奇跡だった。杉並区の人口の半分にも満たない郡山市(33.5万人)で、2週間のPRで2000席を満たすことは、人間的に考えて絶対に不可能でなければならなかった。このホールの歴史で今後2度と再び起こらないだろうと断言してもいい不思議な出来事だった。

演奏の最中、たくさんの人が感動の涙を流していたことを、出席者たちが証言した。(ベートーヴェンを聴いても、モーツァルトを聴いても、カラヤンが棒を振っても、こんなに大勢が涙を流す現象は起きない。)感情表現の控えめな日本人が、演奏が終わるやいなや、1階も2階も3階も割れるような拍手とスタンディングオベーションだった。前日の福島でも、次の日のサントリーホールも、満席にこそなったものの、これほどの熱気はなかった。オーケストラとコーラスの出来栄えも3会場のうち郡山が最上だった。

地震、津波、放射能汚染の3重苦は福島も同じなのに、郡山の場合「罪のない人々の苦しみ」への共感はなぜそんなに強かったのだろうか?

世界中を巡業しているキコのオーケストラとコーラスの団員も、「日本ツアーは良かった!!」、という点で皆の意見が一致している。指揮者のトーマス・ハヌスも、作曲者のキコ自身も大満足だった。「日本だったらまた行きたい!」、と言う声が彼らに会うたびに私の耳に届く。誰言うともなく、「次は広島と長崎だ」と、いうことになっているらしい。

あの苦労をまたするのかと思うと、立ちすくんでしまう私を、後ろから押し出すようにその声が迫ってくる。私は12月18日にまたローマに戻る予定だが、キコはこの年末年始私のいるローマの神学院に住み込んで、改築なった聖堂の正面の壁に壁画を描くことになっている。その壁面の広さ、バチカンのコンクラーベ(教皇選挙)が行われるシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの大壁画「最後の晩餐」のそれよりもさらに広いという。なんというスケールの怪物かと、同じ1939年生まれの私はただ舌を巻くばかり。

 

     足場の組まれているのが増築部分。   

 

この壁面はシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」の絵よりも大きい

同じ屋根の下に居れば顔を合わす機会も多かろう。そうだ、キコに会ったら言おう。「あなたに本気で行く気があるのなら、私は2018年5月に長崎、広島(もしかしたら関西でもう1か所)のツアーの日程を組む用意がある!」と。

その時、郡山ではこのブログの読者の皆さんの想定外の「まさかのサプライズ」があるかもしれないと言う漠たる予感が私を包む。(私はハラハラ、ドキドキしながらその日を待ちわびている。)

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