:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「むさし野のひばり」 H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」よりー(7)

2022-04-28 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

 

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むさし野のひばり

H・ホイヴェルス師随筆集「時間の流れに」よりー(7)

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 毎年三月はじめごろ、私はむさし野に出かけ、伸び育つ麦畑の間を通って歩きます。それはひばりの声をきくためです。嬉しいことは、むさし野のひばりも私の故郷のひばりそっくりな歌をうたいます。麦畑の中から舞い上がり tirilirili と玉をころがすように歌っています。絶え間なくやすみなく、どこまでも高く昇りながら。そしてその姿は青空の中の一点となって、やがて見えなくなってしまいますが、さえずり声だけは露の玉のように空から下の方へなおも垂れてきます。この声をきくたびに私は幼いころの感激をまた新たにするのです。ひばりはどうしてこんなに歌うことができるのでしょうか?一生けんめい翼をはばたかせてそのからだを高いところに運び、声をかぎりにうたって少しも疲れを知らないのです。喜びのあまりに息がとぎれることもありません。こんなに嬉しそうに明るく清らかに自分の創造主に向かって感謝の歌をうたうのはひばりのほかにあるでしょうか?

 子供のとき自分もひばりのように飛べるかどうか試してみましたが、いくら両腕をばたばたさせても、すぐ足が地についてしまいました。ひばりのように歌いたいと思って、飛べないままに駆け出しながら歌ってみましたが、まもなく息切れがしてしまいました。

 二年前の春、むさし野でそのときまできいたことのないようなとても美しいひばりの鳴き声をききました。その歌を始めから終わりまできいていました。私はひばりがどうして息を継ぐのかその秘密をさぐってみたかったのです。ひばりは数分間のあいだ(たしかにそれは五分間ぐらいつづいていました)驚くほどの力で、あふれるような豊かさでさえずっていました。しかしどうしても息継ぎの間を発見することができません。でもいくらひばりだって息をしないで歌えないでしょう。私は鳥の専門家にたずねてみました。さすがに専門家でした。ひばりの歌い方について少しも驚きの様子をみせません。むろんひばりだって歌いながら息を継ぐ、人間ののろまな耳にはそれがほとんど感じられないだけだ、息を継がなければそれは自然の法則に適っていないですからな、とその人はさりげなくいいました。

 専門家はひばりの歌に感心しなくとも、ほかのいろんな人は私と同じように驚嘆しました。どんな人がいるか思い出してみましょう。

 まず英国詩人シェリーの「ひばりに寄する」詩があります。これはひばりについての最もすぐれた讃美です。ひばりの歌のように喜びにみちた長い詩です。同時にまたこれは、かような小鳥にあれほどの息の力を与えられた神をほめる歌でもあります。

 私の郷土、ウエストファリアの女流詩人ドロステ・ヒュルスホフは死んだひばりの詩を作りました。思いきり歌いつづけて死んでしまったひばりを彼女は観察しました。そのひばりは空からまっさかさまに自分が作り上げた巣のかたわらに落ちたのでした。

 ゲーテもまたファウストの中で、とにかくこの頭の上で、蒼々とした空間に隠れて告天使が人を扇動するような歌を歌うとき、感情が上の方へ、前の方へと推し進められるのは、人間の生まれつきだと述べています。

 古いラテン語の格言はひばりに関するすべてを簡潔に表しています。

 Laudat alauda Deum, dum sese tollit in altum,

  Dum cadit in terram, Laudat alauda Deum.

 (大意——ひばりは神を讃めたたえる、高く高く昇りながら、地面に向けて低く、低く落ちながらも、ひばりは神を讃めたたえる)

 また、私が日本に来て明治天皇の御製を知るようになってから、天皇の数万首を超える和歌の中にやはりひばりが忘れられていないことがわかってたいへん嬉しく思いました。

     つぎつぎにあがるをみれば雲の上に

       入りしひばりや友をよぶらん

X    X    X

 今年の春、武蔵野にひばりの声をきいての帰り道、私は混んでいる省線電車中で乗客の顔を見廻しました。このうちで誰が今朝ひばりの声に耳を傾けたでしょうか、と考えてみました。人びとの顔は新聞や雑誌や書物にうずまっています。競馬やセンセーショナルな新刊書や、学生募集や新築落成や経済書などの広告です。たしかにこれらのうちのあるものは役に立つ良いものもあります。人間の生活には相当な幅が許されていなければなりません。しかしひばりについての広告があったら私はなおさら嬉しかったと思います。人びとの顔は神妙で無言です。それぞれの人生の重荷を、いろいろな心配を家から勤め先へと運んでゆきます。人生の重荷を負うている人びとがどうして歌などをよろこぶでしょうか?借金で首が廻らない人にひばりの歌をききなさいといっても、それはかえって自分の苦境を一そう辛く感じさせるだけでしょう。友達と仲たがいしたひとはどうしてひばりの声を味わうことができましょう。愛するものから裏切られた人は全世界のひばりの声でも慰めることはできません。また哲学的な、わけても実存哲学のような問題に悩んでいる人、その人のためにもひばりは無駄にうたっています。すがすがしい初夏のある夕べ、私はこの種の哲学者と一しょに、むさし野の麦畑を通っていきました。うつくしい金色に輝いた森の畑に眼をはせていました。まったく故郷のような景色でした。ところがそばを歩いている道ずれは、埃っぽい街道ばかりみつめたまま、難しい言葉でキエルケゴールの問題を解決しようと努めていました。私はこの夕暮れの美しさにたまらなくなって言いました。

「眼を上げて、世の美しさを飲みなさい。不信仰なゴットフリート・ケラーでさえも、美しい世界について美しく歌ったではありませんか。とくに、

  眼よ、まつげのふくむほど

  世のあふるる美を飲めよ!

と、世の美をすくいとる柄杓の眼を賛美したではありませんか!」

「ああ、そう」

 と実存哲学者はいいました。ちょっとだけ眼を上げて、それからまた街道の埃を眺めています。そしてなおも冒涜の言葉で人間存在の矛盾を論じています。その矛盾は自分はこう解決すると力んでいます。私は耳に二重の栓をかって心の中でエマヌエル・ガイベルの「五月は来ぬ」を歌いました。

  小川はひびき、樹々はざわめき、

  わが心ひばりのごとく

  讃美の歌をうたう。

X     X     X

このひばりの歌についての結論は何でしょうか?私が生きているあいだ、足の丈夫なあいだは毎年むさし野にでかけましょう。舞い上がるひばりを眺め、彼らとともに神を讃えましょう——力の限り、心を尽し、霊を尽して。

“Laudabo Deum meum in vita mea” 生きているかぎり神をたたえましょう。“Solang noch mein Stimm erschallt” 声のひびく間中(アイヒエンドルフ) 。眼の前には明るい教会とそのうしろには大学が見えます。この二十五年間私は教室で学生にいろいろ教えました。文法までも教えました。文法は学科の中で一番無趣味なものでしょう。それをうるおいあるものにするために、私はよく歌をうたいました。学生たちは戦場に出てゆき、まもなく文法を忘れてしまったことでしょう。私がもらった手紙には、歌はよく憶えていて戦友とともに歌った、そのために自分も戦友たちも人間らしい気持ちを失わなかった、と書いてありました。まことに人間らしい気持ち、人間の心こそ、この世で最もすぐれた宝であります。

 

 

  ホイヴェルス師の「ひばり」の小品はここで終わりです。

 ここらで本物のひばりの声を聴いてみませんか?私はホイヴェルス師の弟子だから、日本でも、ドイツでも、イタリアでも、こころにかけてひばりの声を聴く機会を逃さないように気を配りましたが、今の時代に都会に生まれ育った人には、ひばりの声を一度も聞いたことのない人がいてもおかしくはありませんから。

(177) ヒバリのさえずり急降下(パラボラ集音マイク使用) - YouTube

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  このような文章を読むたびに、師の高貴な文学者の魂にふれる思いにこころ打たれるのはわたしだけだろうか、という思いを深くする。私のような卑俗な人間の取っ散らかった心の世界とは次元のちがう「高貴」という言葉以外に適当な表現が見つからない魅力が師の短編から感じられてならない。

 自ら詩人の魂を持ち、幅広く文学に造詣の深いホイヴェルス師と出会ったさいわいを、齢八十を超えてあらためてかみしめている。師のような優れた宣教者をいただいた日本の国の幸せを、私は一人でも多くの日本人に知って記憶にとどめてもらいたいと思う。

 今年も6月9日に師のご命日を迎える。特に、今年は第45回目の節目の追悼ミサを予定している。時間が取れる方はぜひお集まりください。

 いくら頑張っても、もうその日には間に合わないが、せめて今年中には、今は絶版になっている師の随筆集「時の流れに」を中心に、一冊の復刻版の出版にこぎつけたいものだと思う。不遜にも師の愛弟子を自認するもののせめてもの恩返しの思いをこめて・・・・。

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★ 野心を知らない子供 H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より-(6)

2022-04-20 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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野心を知らない子供 

H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より-(6)

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 少し前のことでした。一人のおばあさんが孫娘の手を引いて私をたずねてきました。そして言いました。

「あのう、この子はちっとも欲がなくて困ります。何とかしていただけないでしょうか。」

 わたしはびっくりしてたずねました。

「それはどういうことなのです」

 おばあさんは言葉をつづけて

「もう十歳にもなるのですが、父は戦死し、私の娘にあたるこの子の母も死んでしまいました。それで私がめんどうをみることになったのです。ともかく評判の学校へやっと通わせるようになり、何とかしてこの子を立派に育て上げたいと、そのことばかりに私は生き甲斐を感じていたのです。ところが学校では先生方お憶えがよくないのでして…… 」

 それもわけをきくと、別に才能が足りないというのではなく、欲がたりない野心がないというのです。

「欲が足りないのですって!」わたしは感激して叫びました。——これはかえって羨ましいことではありませんか。人間はみなこの大悪に悩んでいるというのに。欲がありすぎて他人を押しのけても自分の我を通そうとしているのに。そして私は心の中で、

「なんというよい子だろう。ねたましい心が少しもないのだ。天国にいる天使のように他人のよいところを眺め認めることができるのだ。厭な性質は少しもない」と思いました。

 なるほどちょっと顔を見ただけでもそれがわかります。あんなに大きな眼でおばあちゃんの方を見上げています。ただ「欲がない」「野心がない」という言葉が出てくるとき、女の子は困ったように顔をふせていました。いままでこの言葉がどれほどこの子を苦しめてきたことでしょう。それからもう一度おばあさんにたずねました。

「お嬢さんにちっとも欲がないんですか。ほう、こんな結構なことはないではありませんか。ほかの子供たちもみなそうでなければならないのにね」

「結構なことかどうか私にはわかりませんが……、とにかく、この子のためにとても困っているのです。どうも成績がよくないので先生がたの受けが悪く、このぶんでは退学しなければ……と学校の方ではおどかすのです。今まで子供に欲を出させようといろいろやって見たのですが、さっぱり…… 」

 私は子供に

「勉強は好き?」

 とたずねると、その子は、

「はい」

 と答えながら、まるで天使のようにやさしくほおえみました。

「では宿題など家でやっていないのですか」

 と私は今度はおばあさんに聞いてみました。

「いいえ、むろん勉強しますし毎晩私も手伝ってやります。でも、それだけでは足りないのです。ほかの子供には欲がありますが、この子にはないので、それでついていけないのです」

「ねえ、おばあさまのためと思ってもっと一生けんめいやらなくちゃ…… 」

 するとこどもの眼には涙がうかび、おばあさんもいっしょにそっと泣きました。二人が声も立てずに泣いている間、私は自分で考えてみました。

 …… この二人は人もあろうにどうして私の所へ来たのだろう。欲を出すように子供をたきつけてほしいなどと。私はやはり子供のときだった。あまり芳しくない通信簿をもって家の帰って来ると、父母は私以上に心配した。そのとき兄がやはりこのおばあさんが孫娘に言ったと同じように「野心がないからだ」と言ったことがある。そこで私は目の前で今泣いているふたりに、

「私だって中学校のときに『野心がないからだ』といわれましたよ、しかしね、あんまり欲がありすぎるのはもっと困ったことですよ。何しろものごとそのもののためではなく、両親を思う心からでもなく、ただ他人よりも一番偉い者になろうという野心のためにがちがちの点取り虫になるのですからね、なんだか、料理の焦げついたような厭なにおいがする感じですね」

 こういうと二人は少し安心したようでした。私はさらにつづけて、「もともと神には欲や野心はありませんね、限りなく豊かなお方ですから、ただ一人ぬきんでていらっしゃるお方です。誰も足もとには及びません。けれどもわれわれ人間の間では、ちょうど若い森のようなものです。たくさんの若樹が肩を並べています。どれもこれも何とかして光や空気を存分に吸おうとし、狭い土地でできるだけ根を張ろうと競争しています」

「それはその通りかもしれませんが……でも私はこの子をどうしたらよいのでしょう。何かお知恵はないでしょうか?」

とおばあさんは言いました。

 このおばあさんはほんとにやさしい物静かな婦人でした。孫娘は同情たっぷりにおばあさんを見上げ、その眼は「おばあさんのために、こんどこそ野心があるようにやってみます」と語っているようでした。

 そこで私は子供に言いました。「神があなたにこれほどめずらしい立派な心を下さったことを私は喜びます。ではおばあさんの心配そうな顔つきを見てごらんなさい。あなたは今までよりももっと心を引きしめて宿題をやらなくてはいけませんね。今は夏です。ハンブルク大学のフローレンツ先生は私たちにおっしゃいましたっけ、日本の夏はとてもむし暑くて北ヨーロッパにいるほどよく勉強はできませんよって。けれども秋がくれば元気よく勉強にとりかかれます。学校の帰り道にここへ寄っておいでなさい、そして勉強がどんなにできたか見せて下さい。どうしてもよい成績をとらなくてはなりませんよ、でないとおばあ様が泣きます、そして悲しくて死んじゃうかもしれません。そしたら誰が宿題を手伝ってくれるでしょう」——「はい」と子供は顔中を輝かせて答えました。

 うまくこの子が成功しますように! しかもそのときに野心などと言うことはつゆほども考えませんように喜びと愛と義務のゆえに一生けんめい勉強してこの無作法な世の中に負けることなく、すくすくと育っていけますように。

 

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 「放課後にいらっしゃい。私が勉強みてあげよう。」

 おばあちゃんの相談に具体的にこたえて、10歳の女の子にこういう言葉をかえす主任司祭がかつて他にいただろうか、と私は今もこのエッセイを驚きをもって読む。それも、どこか地方都市の小さな教会のひまなお人よしの神父さんならともかく、東京でもだん突の信徒数を誇る大教会の多忙を極める主任司祭の対応なのだから・・・。

 ホイヴェルス師は私に言われたことがある。

「乗り物は小さいほど大きな音を立てる。」

 オートバイや、今はとっくの昔に姿を消したバタバタと大きな音を立てて走る三輪トラックなどの騒音と、静かに滑るように行く黒塗りの大きな乗用車とをくらべられたのではないかと思うが、私の眼には師は悠然と浮かぶ巨大クルーズ船のように別格に思えた。

 戦時中、ホイヴェルス師は上智大学の学長を軍部の圧力で降ろされ、戦後は日本のカトリックの看板教会のような東京・四谷の聖イグナチオ教会の主任司祭を長年勤め、毎日のミサや冠婚葬祭や信徒の司牧の傍ら、東大で講義し、歌舞伎座で細川ガラシャ夫人の歌舞伎公演を一か月打ち、宝生流の能舞台での復活能の上演し、外国人に授けられる最高位の勲章を受け、幾つもの戯曲を書き、自ら演出し、大勢の弟子を育て、広範囲の活動に休む暇のない生活を送りながら、「ああ忙しい、忙しい!」と言って立ち働く師の姿を私はついぞ見たことが無い。

 米軍払い下げのかまぼこ型兵舎を改造した質素な主任司祭室に朝から夕方までじっと座って来訪者の相談に応じる。私のような学生が入り浸っても追い出されない。おばあちゃんが孫を連れて来て悩みを打ち明ければ、10歳の女の子の勉強見る約束までしてくださる。

 まるで聖林寺の十一面観音菩薩のように、すべての人の求め常に対応する余裕を残していつも泰然としておられ、小さなことにも丁寧に応じてくださる。

 54歳でやっと司祭になりおおせた私にとって、決して手の届くことのない永遠の模範だった。

 

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6月9日 が近づいてきました。

今年は、ホイヴェルス神父様の 45回目 の節目の追悼ミサの日です。

偉大な師の面影をしのんで集い、学び、受け継いでいきましょう。

老いも、若きも!

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★ シュロの木に登った私 H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(5)

2022-04-09 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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シュロの木に登った私

H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より-(5)

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 十二歳の時でした。お母さんが「ヘルマンや、ピアノをならいたくはないかね」、とおっしゃいました。私は、ピアノってとてもなんぶつだし、それに毎日おけいこ、おけいことめんどうくさくてしょうがない、と考えましたから、「ぼくやりたくありません。でも笛なら吹いてみたいのです」と答えました。お母さんはそれならそうなさいとおっしゃいました。

 それからすこしたって、町へ買い物に出たとき、お母さんは私をある店につれていって、笛を一ちょう買ってくださいました。

 さあ、私はうれしくてたまりません。家へかえってからピーピープープーと毎日のように練習しました。そして、しばらくすると、自分の知っているいろいろなふしを上手に吹きこなせるようになりました。

 ところで、私はまえから木のぼりがすきでした。家のまわりにある木でまずだいすきになったのは東側にあるリンゴの木でした。(クリスマスにはこのリンゴをどっさりいただいたものです) それからすぐ隣の梨の木、南側にあった桜の木、子供部屋の窓の栗の木、それから西側にあった菩提樹でした。いつか学校で図画の時間に菩提樹をかきました。そのほか西側には広い牧場のまわりに大きなかしの木がたくさんありました。このかしの木にひそんでいる意味と美しさがほんとうにわたったのは、私がふるさとのあのウエストファリアの歌をならってからでした。その歌の文句に

    庭の番人さながらに

    いかめしくそびゆるかしの木

とありました。

 あるとき、私はかしのなみ木にそってあゆみ、なかでもあまり太くない木をさがしました。ちょうど良さそうなのをみつけると、私はおのを革帯にさしてよじのぼっていきました。てっぺんのこんもりとしたところへくると、あたりの枝をきりはらい、腰かけるのにぐあいよくしました。

 それからやがておとずれる五月六月の明るい静かな、日永の宵をまっていたのです。そのような夕方がやってきました。私はだいすきな笛をもってかしの木の上にのぼり、四方をみまわしながら、じっと耳をそばだてました。

 なんとしずかな夕べでしょう。それはちょうど

    おちこちの峰にいこいあり

    なべての梢には

    そよとの風もなく

    小鳥は森にしずもりて

    …………

の詩そっくりの気分でした。遠くから水車のめぐる音だけがきこえてきました。

 このしずけさを乱してよいものでしょうか。——私はおそるおそる笛を口にあててそっとあの「夜なきうぐいすのふし」をふきはじめました。こんな美しい宵にまだ足りないものがあるとすれば、これはこの笛のおとだけだという気さえしたのです。そこでいよいよ力をこめて吹きました。

 その笛の音は水のせせらぐ川のかなたまでひびいていきました。そると、その音にさそわれてか、あちらこちらでうぐいすが目をさまし、私と、きそってうたい始めました。人びとにも気にいったのでしょう。やがて水車小屋から幾人かでて来てやはり夜なきうぐいすの歌を四部にわかれて合唱しました。こうして、私は知っている歌を次々にふきました。

 アイヒエンドルフの「水車の歌」「美しきライン」の歌、故郷ウエストファリアの「かしの木をたたえる歌」シューベルトの「菩提樹」など。うぐいすはちっともつかれを知りませんでした。私はもうじゅうぶんにふいたので木から降りてしまったときにも、うぐいすはあいかわらずさえずりつづけていました。——夜通しあくる朝までも。

 お母さんは「どこにいたの。まるで天から聞こえてきたようだったよ」とたずねました。

 「ええ天に近いかしの木のてっぺんです」と私はこたえました。次の日ふとしたとき、近所の人がはなしているのを聞きました。「きのうの晩はあれは何です。だれだかとてもきれいな音楽をやっていたようです。どこから聞こえてきたのでしょう」

 こうして、私は毎年五月と六月には夕方になるとかしの木にのぼって笛をふいていました。かれこれ18歳の頃までつづいたでしょうか。

 1909年4月19日、いまでもよくおぼえていますが、あけがたの3時に私は故郷に別れをつげました。荷物の中に笛をしのばせて、かしの木には最後の挨拶をして——。どこもみなひっそりとしていました。はるか遠い川岸から水車をまわす水音だけが聞こえていました。

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 それから六年たって、私はインドで学校の先生をしていました。そこでは生徒たちがたいこや笛の楽団を作っていました。私たちは、ある日遠足をして小高い山にのぼり、そこでとてもめずらしい、しゅろの木をみつけたのです。これはおそらく世界に二つとないもので、おもしろい格好で弓なりにまがって生えていました。

 「この木の写真をとろう。みんな木の前にあつまりなさい」と英語の先生が言いました。「だれか生徒がのぼったら、もっとよい写真になります」と私が言いました。ところが生徒はだれもシャツやズボンのことを心配してのぼろうとしないのです。「みんなどうしたのですか」と叫んで私は自分からのぼりはじめました。丘の上のしゅろの木からは、インド洋をみはるかすすばらしい眺めでした。その時、私が故郷のあのかしの木を思い出したことはいうまでもありません。

 

 

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 白い長いスータン=当時のイエズス会士の僧服——冬は黒なのだが師を連想する時はなぜかいつも白——を着た、肩から上だけ日本人より背の高いホイヴェルス師が、まだ紅顔の少年で、皮の半ズボンをはいて、なたと笛を革帯に差して、するするとかしの木のてっぺんまでよじ登っていく姿は、想像するだけで楽しくありませんか?

 白夜の北欧世界に近い北ドイツの初夏の宵、少年の笛の音と「夜鳴きウグイス」(ナイチンゲールは<ホーホケキョ>と鳴いては沈黙する日本の鶯とはまったく異なり、美しい歌声でころがすように鳴き続ける小鳥)の競演、水車小屋の人たちの四部合唱、・・・・シューベルトの歌曲の世界に引き込まれるのは私だけでしょうか?

 私がインドのムンバイ(ボンベイ)の郊外、バンダラのハイスクールにホイヴェルス師と共に投宿したのは、1964年(第1回東京オリンピックの年)の秋でした。

 しゅろの木の写真から49年。私たちはその木を探しに行く機会をみつけなかったが、半世紀ぶりに会った生き残りの師の同僚は、一様によぼよぼのおじいちゃんだった。付属のチャペルの壁の物故者の名前を辿りながら、ああ、この人も覚えている、あの人ももう亡くなったかと感慨ぶかげでした。

 

  

ホイヴェルス師は、ここは東京よりも環境が厳しいから、とポツンと言われた

 面白いのはしゅろの木の前で写真を撮る時に、ホイヴェルス神父に促されても、生徒が誰ひとり木にのぼろうとしなかったことだ。

 ムンバイ郊外の上流社会の裕福な家庭の子供たちは、召使いが洗濯し、のりをきかせアイロンをかけた制服の胸やズボンが汚れるのを嫌ったからだろう。まずもって、生まれてこのかた木登りなど経験したことのない子供たちばかりだったのかもしれない。

 そこへいくと、ホイヴェルス少年はドイツの森のゆたかな自然のなかで天真爛漫に情操を開花させたのだったろう。私も、山岳部員と称して神戸の六甲山の尾根や沢をサルのように駆け巡った環境をいまは有難く懐かしく思い出す。

 師がムンバイのハイスクールの記念として持っていたたった一枚のしゅろの木の記念写真を、惜しげもなく私に下さった神父様のことを、今なつかしく思い出す。戴いた写真の現物は長い年月の間に遺失してしまったが、そのピンボケの複写が一枚古い手紙の束から見つかった。当時の若いホイヴェルス師がひげ—多分ブロンドか褐色の—を生やしていたことがこの写真からうかがえる。・・・ふと、中世の騎士のことを思った。

 

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★ 「こねこ」 H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より -(4)

2022-04-04 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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「こ ね こ」

H・ホイヴェルス随筆集「時間の流れに」より-(4)

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 この間一匹の仔猫が、み教えの深いところを、神学の講義や説教などよりも、ずっとよく教えてくれました。

 それは教会の中でありました。私たちはちょうどメイラン神父様の司祭叙品六十年のダイヤモンド祝祭のため、そろそろ聖堂の中で荘厳なごミサを始めようとしておりました。もう準備はすべて出来上がり祭壇の後ろのえんじの幕に黄菊や白菊が照りはえていました。

 その時突然聖堂の中で猫の声がひびきました。いや猫ではない。子供の声、泣き声です。びっくりしました。子供の洗礼が定まっていたのに私はそれを忘れていたのでしょうか。いいえ、そんなことは何も覚えていません。泣き声は子供ではなく猫です。その時私は「犬が聖堂にはいるのを決してゆるしてはいけない」という私たちの修道会則の一つを思い出しました。

 犬が一匹聖堂の中に入ってしまったのは昨日のことです。吠えずに静かに走る足の爪の音だけ聞こえたのでしたが、この動物を追い出すのに学生がどんなに骨を折ったか、まだはっきり覚えています。けれど今、この猫はもっとひどいことをしている。神の家であのように遠慮なく鳴き声をだしたりなどして、猫を追い出さなくてはならない。私は聖堂の中でゆるされる速さで猫の所に急ぎました。見ると仔猫です。私はすぐ足で聖堂の外にほうりだしました。けれどそこは猫の天性で、四足を宙にのばしながら事もなく聖堂の玄関の地面におり、逃げもせずに立ち止まって私を大きな目で眺めました。その目つきは私の心を貫き、私の足をとめました。

 

 

 仔猫は私のしうちに急いで逃げるだろうと予期していましたのに、心からの深い信頼をこめて私を仰いだのです。でも仕方ありません。猫は教会から出さなくてはならないのですから、おびやかしたり、足であちこち突きのけたりしました。私のすることなすこと、何でも仔猫は赦して、おとなしく身をかばいました。そして小さい声で鳴きながら、何度も信頼の目つきで私を仰ぎました。私はがっかりして、しようもなく仔猫の上にかがみ手でなでながらドイツ語でわけを聞かせてみました。「教会は猫のいる所ではありません。猫はお前のように善良であっても、聖堂にいてはならないのです。なぜなら Vom lieben Gott(なつかしい愛すべき神について)何もわからないのですから、さあ家に帰りなさい」だめでした。仔猫はまた大きな目で私を見ると、ドイツ語がわからないような顔をして、もう一ぺん聖堂の中に入ろうとしました。

 その間にメイラン神父様のダイヤモンド記念のミサが始まる時間は迫ってきて、非常に困りましたところへ、幸い小学生が一人来ました。この子供が猫に事情を説明して先に走りますと、猫はなれた仔犬のように、従順にその後から帰って行きました。

 ミサの間、私はずっと猫について考えました。どうしてあの仔猫はあれほど善良なものになったのでしょうか。あの良さは普通の猫の性質とは違っています。私が子供の時から出会った猫は、おびやかすふりを見せると、きっと逃げました。あの仔猫が善良なのは人がいつも親切にしてくれるからに違いありません。なるほど首にはきれいな赤いリボンがついていました。悪いことを一度も経験しなかったあの仔猫は、こうして今朝はじめて足でほうり出されても、悪意からではなく、むしろ親切な人のたわむれに過ぎないと思ったのでしょう。そしてこの善良さには私も無力になってしまいました。

 いまでも神が、この動物をつかって私に教え下さったことについては、ひそかに驚きを感じております。神は常に私に対して親切にして下さいました。あの仔猫の赤いリボンより多くの賜物で私を飾り給い、常に必要以上のものをお与え下さいました。ですから私もあの仔猫のように善良な者にならなければなりません。

 悪というものを信ぜず、人が悪意をいだいて万一私に背いてもそれも好意だと思うほど善良な心にならなければなりません。

X     X     X

 中世の著者がその物語を終える時のようにして、私もこの子猫の報告を終えたいと思います。すなわち———

 もし誰かが私に対して悪意をもって立ち上がるとしても、わが主イエズス・キリストのお恵みによって、私はそれを栄光と思うことができますように。みあるじに賛美とほまれ世々に至るまで。

 

 いかがでしたか? ホイヴェルス神父様は、人間に対してだけでなく、子供に対してだけでなく、小さな動物たちに対しても、そして自然の神羅万象にたいしても、とてもやさしいデリケートな心をお持ちでした。

 それでいて、ーいまは J R と言いますがーむかし、省線電車のベンチ席に並んで座って、ご一緒に病人訪問に出かけたときなど、若い私が短い脚を組んで腰かけていると、パンと私の足をはらって、ちゃんとお座りなさい、とたしなめるような厳しい一面もありました。

 あの時代のイエズス会士ですから、聖トマス・アクイナスのスコラ哲学の教えが神父様の生活の隅々にまで行き届いていました。人間は理性と自由意思を備えたペルソナ(人格的存在)であるのに対して、どんなに可愛くても犬や猫のような動物は、人格(わたし)としての自我の自覚と不滅の魂を備えていないのだから、彼らなりに戴いた本能から絶え間なく神様を賛美しているとは言え、神を自覚的に知り、自由に礼拝を捧げる能力を備えているとは言えないのだから、神の家、祈りの家に入って信仰者として席を得る資格はない、とお考えでした。だから、ペットも家やレストランまではいいとして、聖堂にはいる資格はないのです。

 しかし、その犬・猫からも、神様の慈しみを愛とみ教えをくみ取る師の感性はまことに私の鑑でした。

 そこえいくと、ホイヴェルス師の弟子を自認する私は、その後の生活の中で、スコラ哲学の教えと日本人の感性の間で揺れ動き、師のようにすっきりと割り切ることに困難を感じました。

 例えば、四国の高松の教会で私から洗礼を受けた高校出の OL さんが、子供か恋人のように溺愛していた猫やリスなどのペットが死ぬと、神父のわたしに丁重にキリスト教式に葬ってやってほしいとねだります。そして、復活したらクララちゃんーそれが猫のなまえだったーと天国で再開できると言ってくれ、と保証を求めます。これにはホトホト困りました。上智大学のスコラ哲学の講義をうけていない彼女には、動物の生命をつかさどる魂と人間の人格の原理である不滅の霊魂との区別は、その理解力をはるかに越えてしまっているのですから・・・。

 仕方なく、わたしはその小さな躯(むくろ)を車に乗せて、一緒に瀬戸内海の見晴らしのいい丘の人が踏み入らないような場所に、キツネや狸に掘り返されないほど深く穴を掘って埋葬し、クララちゃんの永福のために祈りを唱え、讃美歌を歌って彼女の気持ちに沿う羽目になるのでした。

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 ところで、去る3月25日の午後五時(ローマ時間)に教皇フランシスコはロシアとウクライナを天の元后(女王)マリア様に奉献する祈りの式を聖ペトロ大聖堂で行うと宣言されました。

 早速、私はブログでカトリックもプロテスタントも仏教徒も無神論者も、教皇と心を一つにしてウクライナの平和のために時を合せて(日本では26日の午前1時に)目覚めて祈りましょう、と招きました。そして、やや長い、しかし意味深い教皇の祈りのテキストを訳してそのブログに添えました。

 そしたら、翌朝本井幸子さんという方から実名でコメントがありました。

「1時に起きていて、クリスチャンではないのですが、法皇様の祈りの言葉をなぞり、声に出して祈っていると涙で時々字が読めなくなりました。一刻も早く戦争が終わることを願うばかりです。」

 ああ、ブログに書いて皆さんを祈りに招いて良かったな、と思いました。そして、このお祈りは天に届いたと確信しました。皆さま、この不条理な戦争で命を落とす人が一人でも少なくあるようにと、心を一つにして引き続き祈りを篤くしましょう。

 

  

 

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