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むさし野のひばり
H・ホイヴェルス師随筆集「時間の流れに」よりー(7)
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毎年三月はじめごろ、私はむさし野に出かけ、伸び育つ麦畑の間を通って歩きます。それはひばりの声をきくためです。嬉しいことは、むさし野のひばりも私の故郷のひばりそっくりな歌をうたいます。麦畑の中から舞い上がり tirilirili と玉をころがすように歌っています。絶え間なくやすみなく、どこまでも高く昇りながら。そしてその姿は青空の中の一点となって、やがて見えなくなってしまいますが、さえずり声だけは露の玉のように空から下の方へなおも垂れてきます。この声をきくたびに私は幼いころの感激をまた新たにするのです。ひばりはどうしてこんなに歌うことができるのでしょうか?一生けんめい翼をはばたかせてそのからだを高いところに運び、声をかぎりにうたって少しも疲れを知らないのです。喜びのあまりに息がとぎれることもありません。こんなに嬉しそうに明るく清らかに自分の創造主に向かって感謝の歌をうたうのはひばりのほかにあるでしょうか?
子供のとき自分もひばりのように飛べるかどうか試してみましたが、いくら両腕をばたばたさせても、すぐ足が地についてしまいました。ひばりのように歌いたいと思って、飛べないままに駆け出しながら歌ってみましたが、まもなく息切れがしてしまいました。
二年前の春、むさし野でそのときまできいたことのないようなとても美しいひばりの鳴き声をききました。その歌を始めから終わりまできいていました。私はひばりがどうして息を継ぐのかその秘密をさぐってみたかったのです。ひばりは数分間のあいだ(たしかにそれは五分間ぐらいつづいていました)驚くほどの力で、あふれるような豊かさでさえずっていました。しかしどうしても息継ぎの間を発見することができません。でもいくらひばりだって息をしないで歌えないでしょう。私は鳥の専門家にたずねてみました。さすがに専門家でした。ひばりの歌い方について少しも驚きの様子をみせません。むろんひばりだって歌いながら息を継ぐ、人間ののろまな耳にはそれがほとんど感じられないだけだ、息を継がなければそれは自然の法則に適っていないですからな、とその人はさりげなくいいました。
専門家はひばりの歌に感心しなくとも、ほかのいろんな人は私と同じように驚嘆しました。どんな人がいるか思い出してみましょう。
まず英国詩人シェリーの「ひばりに寄する」詩があります。これはひばりについての最もすぐれた讃美です。ひばりの歌のように喜びにみちた長い詩です。同時にまたこれは、かような小鳥にあれほどの息の力を与えられた神をほめる歌でもあります。
私の郷土、ウエストファリアの女流詩人ドロステ・ヒュルスホフは死んだひばりの詩を作りました。思いきり歌いつづけて死んでしまったひばりを彼女は観察しました。そのひばりは空からまっさかさまに自分が作り上げた巣のかたわらに落ちたのでした。
ゲーテもまたファウストの中で、とにかくこの頭の上で、蒼々とした空間に隠れて告天使が人を扇動するような歌を歌うとき、感情が上の方へ、前の方へと推し進められるのは、人間の生まれつきだと述べています。
古いラテン語の格言はひばりに関するすべてを簡潔に表しています。
Laudat alauda Deum, dum sese tollit in altum,
Dum cadit in terram, Laudat alauda Deum.
(大意——ひばりは神を讃めたたえる、高く高く昇りながら、地面に向けて低く、低く落ちながらも、ひばりは神を讃めたたえる)
また、私が日本に来て明治天皇の御製を知るようになってから、天皇の数万首を超える和歌の中にやはりひばりが忘れられていないことがわかってたいへん嬉しく思いました。
つぎつぎにあがるをみれば雲の上に
入りしひばりや友をよぶらん
X X X
今年の春、武蔵野にひばりの声をきいての帰り道、私は混んでいる省線電車中で乗客の顔を見廻しました。このうちで誰が今朝ひばりの声に耳を傾けたでしょうか、と考えてみました。人びとの顔は新聞や雑誌や書物にうずまっています。競馬やセンセーショナルな新刊書や、学生募集や新築落成や経済書などの広告です。たしかにこれらのうちのあるものは役に立つ良いものもあります。人間の生活には相当な幅が許されていなければなりません。しかしひばりについての広告があったら私はなおさら嬉しかったと思います。人びとの顔は神妙で無言です。それぞれの人生の重荷を、いろいろな心配を家から勤め先へと運んでゆきます。人生の重荷を負うている人びとがどうして歌などをよろこぶでしょうか?借金で首が廻らない人にひばりの歌をききなさいといっても、それはかえって自分の苦境を一そう辛く感じさせるだけでしょう。友達と仲たがいしたひとはどうしてひばりの声を味わうことができましょう。愛するものから裏切られた人は全世界のひばりの声でも慰めることはできません。また哲学的な、わけても実存哲学のような問題に悩んでいる人、その人のためにもひばりは無駄にうたっています。すがすがしい初夏のある夕べ、私はこの種の哲学者と一しょに、むさし野の麦畑を通っていきました。うつくしい金色に輝いた森の畑に眼をはせていました。まったく故郷のような景色でした。ところがそばを歩いている道ずれは、埃っぽい街道ばかりみつめたまま、難しい言葉でキエルケゴールの問題を解決しようと努めていました。私はこの夕暮れの美しさにたまらなくなって言いました。
「眼を上げて、世の美しさを飲みなさい。不信仰なゴットフリート・ケラーでさえも、美しい世界について美しく歌ったではありませんか。とくに、
眼よ、まつげのふくむほど
世のあふるる美を飲めよ!
と、世の美をすくいとる柄杓の眼を賛美したではありませんか!」
「ああ、そう」
と実存哲学者はいいました。ちょっとだけ眼を上げて、それからまた街道の埃を眺めています。そしてなおも冒涜の言葉で人間存在の矛盾を論じています。その矛盾は自分はこう解決すると力んでいます。私は耳に二重の栓をかって心の中でエマヌエル・ガイベルの「五月は来ぬ」を歌いました。
小川はひびき、樹々はざわめき、
わが心ひばりのごとく
讃美の歌をうたう。
X X X
このひばりの歌についての結論は何でしょうか?私が生きているあいだ、足の丈夫なあいだは毎年むさし野にでかけましょう。舞い上がるひばりを眺め、彼らとともに神を讃えましょう——力の限り、心を尽し、霊を尽して。
“Laudabo Deum meum in vita mea” 生きているかぎり神をたたえましょう。“Solang noch mein Stimm erschallt” 声のひびく間中(アイヒエンドルフ) 。眼の前には明るい教会とそのうしろには大学が見えます。この二十五年間私は教室で学生にいろいろ教えました。文法までも教えました。文法は学科の中で一番無趣味なものでしょう。それをうるおいあるものにするために、私はよく歌をうたいました。学生たちは戦場に出てゆき、まもなく文法を忘れてしまったことでしょう。私がもらった手紙には、歌はよく憶えていて戦友とともに歌った、そのために自分も戦友たちも人間らしい気持ちを失わなかった、と書いてありました。まことに人間らしい気持ち、人間の心こそ、この世で最もすぐれた宝であります。
ホイヴェルス師の「ひばり」の小品はここで終わりです。
ここらで本物のひばりの声を聴いてみませんか?私はホイヴェルス師の弟子だから、日本でも、ドイツでも、イタリアでも、こころにかけてひばりの声を聴く機会を逃さないように気を配りましたが、今の時代に都会に生まれ育った人には、ひばりの声を一度も聞いたことのない人がいてもおかしくはありませんから。
(177) ヒバリのさえずり急降下(パラボラ集音マイク使用) - YouTube
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このような文章を読むたびに、師の高貴な文学者の魂にふれる思いにこころ打たれるのはわたしだけだろうか、という思いを深くする。私のような卑俗な人間の取っ散らかった心の世界とは次元のちがう「高貴」という言葉以外に適当な表現が見つからない魅力が師の短編から感じられてならない。
自ら詩人の魂を持ち、幅広く文学に造詣の深いホイヴェルス師と出会ったさいわいを、齢八十を超えてあらためてかみしめている。師のような優れた宣教者をいただいた日本の国の幸せを、私は一人でも多くの日本人に知って記憶にとどめてもらいたいと思う。
今年も6月9日に師のご命日を迎える。特に、今年は第45回目の節目の追悼ミサを予定している。時間が取れる方はぜひお集まりください。
いくら頑張っても、もうその日には間に合わないが、せめて今年中には、今は絶版になっている師の随筆集「時の流れに」を中心に、一冊の復刻版の出版にこぎつけたいものだと思う。不遜にも師の愛弟子を自認するもののせめてもの恩返しの思いをこめて・・・・。