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地震と津波で亡くなった人たちへの鎮魂歌
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ひとは、天災や、戦争の悲惨などを前にして、どうしてこんなひどいことが?と問うでしょう。今回も、大地震、巨大津波、そして原発事故と三重の災難に圧倒され、どうして?・・・と言葉を失います。
被災して生き残った人は、何故自分たちが?と思い、不幸を免れた人も、もしこれが首都直下型、東海沖、南海沖だったら?と思い悩むかもしれません。愛する人を失って、不条理だと神に詰め寄りたくなる気持ちもわかります。
普段は、他人のことに冷淡で無関心のように思えた人たちが、隣人愛に満ちた自己犠牲に目覚め、連帯の輪が広がるなど、目頭が熱くなるような美談が無数に生まれつつあることを知らされて、人間に対する信頼を回復した人も少なくないでしょう。
それでも、なぜ苦しみはあるのか、と言う実存的な問いと、無垢な魂が忍ばねばならない苦しみにはどんな意味があるのか、という深い謎が残ります。
そんな時、私は欧文のある文章に触れました。カトリック信者でないと理解しにくい固有の表現はなるべく省いて、其処ここを自由に翻訳して、自分の言葉に織り交ぜてお届けしたいと思います。
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無垢なものたちの苦しみ
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ニーチェは言った:「神が存在するとして、その神が苦しむ人を助けないなら、それは化け物だ。もし助け得ないのなら、神など存在しはしない」と。
極限状態にある人たち。家を失って凍え死ぬ人。親に捨てられ、孤児院に収容されて虐待を受ける子供たち。夫に捨てられ、精神を病む息子に棒で叩かれ、物乞いを強いられているパーキンソンを患ったあの女・・・。彼らの中に、また他の、実にたくさんの人々の姿の中に、十字架の上で死んだイエスが現存する。
他の人間たちの罪を背負わされた数多くの無垢な魂たちの苦しみは、何と言う神秘だろう。あまりの不条理さに、人は躓く。
近親相姦。聞くに堪えない恐ろしい暴行。ガス室に向かって列をなして行進する裸の女たちと子供たち。そして、それを見ているうちに、心の中に響いた「その列に入って彼らと一緒に行きなさい」という、何処から来るのか分からない声に促され、発作的に自分の衣服を脱ぎ棄て、死の行列に加わった一人の看守が味わった、あの恐ろしい苦しみ・・・。
アウシュヴィッツの恐怖を経験した後では、もはや神を信じることなどできるものではない、と人は言う。
違う! それは嘘だ。神は、全ての無垢なものたちの苦しみを自分自身の上に引き受けるために人となられた。口を開くことなく屠所に曳かれる子羊のように全く無垢な彼が、全ての人の罪を背負った。
無垢なものたちの苦しみの躓きは、わが子の十字架のもとに佇む処女マリア自身の肉の中に、その姿を現す。わが子の苦しみに寄り添う彼女の魂を、苦しみの剣が刺し貫いた時、天使たちが「ああ、何という苦しみ!」と悲しげに歌う。
神がご自分の民の罪のために用意された処女マリア。罪を知らぬ心臓を剣で刺し貫かれた可哀そうな婦人。マリア、マリア!神のひとり子イエスの母!神の母!
今は四旬節-カーニバルのあとから復活祭までの40日-信者たちはキリストの受難と死を黙想しながら、回心の業に励む。主の復活の喜びをよりふさわしく祝うために。
日本が、この受難の日々を乗り越えて、不死鳥のように再び蘇る時の来るのを信じつつ・・・・。
お断り: 中世以来、キリスト教音楽の中に「スタバト・マーテル」(十字架のもとに佇む悲しみの聖母)というラテン語の歌があります。ペルゴレ-ジをはじめ、数多くの作曲家が旋律を付けています。冒頭でも書いた通り、この文章の核をなすアイディアは私のものではありません。全く違うコンテクストで書かれた長い文章にヒントを得て、日本の今の状況下で、キリスト教を信じない人の心にも届くようにと翻案しました。