:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 地震と津波で亡くなった人たちへの鎮魂歌

2011-03-23 09:49:36 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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地震と津波で亡くなった人たちへの鎮魂歌

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ひとは、天災や、戦争の悲惨などを前にして、どうしてこんなひどいことが?と問うでしょう。今回も、大地震、巨大津波、そして原発事故と三重の災難に圧倒され、どうして?・・・と言葉を失います。 

被災して生き残った人は、何故自分たちが?と思い、不幸を免れた人も、もしこれが首都直下型、東海沖、南海沖だったら?と思い悩むかもしれません。愛する人を失って、不条理だと神に詰め寄りたくなる気持ちもわかります。 

普段は、他人のことに冷淡で無関心のように思えた人たちが、隣人愛に満ちた自己犠牲に目覚め、連帯の輪が広がるなど、目頭が熱くなるような美談が無数に生まれつつあることを知らされて、人間に対する信頼を回復した人も少なくないでしょう。

それでも、なぜ苦しみはあるのか、と言う実存的な問いと、無垢な魂が忍ばねばならない苦しみにはどんな意味があるのか、という深い謎が残ります。

そんな時、私は欧文のある文章に触れました。カトリック信者でないと理解しにくい固有の表現はなるべく省いて、其処ここを自由に翻訳して、自分の言葉に織り交ぜてお届けしたいと思います。


 

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無垢なものたちの苦しみ

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 ニーチェは言った:「神が存在するとして、その神が苦しむ人を助けないなら、それは化け物だ。もし助け得ないのなら、神など存在しはしない」と。

極限状態にある人たち。家を失って凍え死ぬ人。親に捨てられ、孤児院に収容されて虐待を受ける子供たち。夫に捨てられ、精神を病む息子に棒で叩かれ、物乞いを強いられているパーキンソンを患ったあの女・・・。彼らの中に、また他の、実にたくさんの人々の姿の中に、十字架の上で死んだイエスが現存する。

他の人間たちの罪を背負わされた数多くの無垢な魂たちの苦しみは、何と言う神秘だろう。あまりの不条理さに、人は躓く。

近親相姦。聞くに堪えない恐ろしい暴行。ガス室に向かって列をなして行進する裸の女たちと子供たち。そして、それを見ているうちに、心の中に響いた「その列に入って彼らと一緒に行きなさい」という、何処から来るのか分からない声に促され、発作的に自分の衣服を脱ぎ棄て、死の行列に加わった一人の看守が味わった、あの恐ろしい苦しみ・・・。

アウシュヴィッツの恐怖を経験した後では、もはや神を信じることなどできるものではない、と人は言う。

違う! それは嘘だ。神は、全ての無垢なものたちの苦しみを自分自身の上に引き受けるために人となられた。口を開くことなく屠所に曳かれる子羊のように全く無垢な彼が、全ての人の罪を背負った。

無垢なものたちの苦しみの躓きは、わが子の十字架のもとに佇む処女マリア自身の肉の中に、その姿を現す。わが子の苦しみに寄り添う彼女の魂を、苦しみの剣が刺し貫いた時、天使たちが「ああ、何という苦しみ!」と悲しげに歌う。

神がご自分の民の罪のために用意された処女マリア。罪を知らぬ心臓を剣で刺し貫かれた可哀そうな婦人。マリア、マリア!神のひとり子イエスの母!神の母!

今は四旬節-カーニバルのあとから復活祭までの40日-信者たちはキリストの受難と死を黙想しながら、回心の業に励む。主の復活の喜びをよりふさわしく祝うために。

日本が、この受難の日々を乗り越えて、不死鳥のように再び蘇る時の来るのを信じつつ・・・・。

 

お断り: 中世以来、キリスト教音楽の中に「スタバト・マーテル」(十字架のもとに佇む悲しみの聖母)というラテン語の歌があります。ペルゴレ-ジをはじめ、数多くの作曲家が旋律を付けています。冒頭でも書いた通り、この文章の核をなすアイディアは私のものではありません。全く違うコンテクストで書かれた長い文章にヒントを得て、日本の今の状況下で、キリスト教を信じない人の心にも届くようにと翻案しました。


 

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★ 母の形見

2011-03-20 22:51:57 | ★ 日記 ・ 小話

 「教皇暗殺事件」 には、実はまだ後日談があります。それは、1983年12月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を狙撃した犯人アリ・アグサを獄中に訪ねた時、アリが最初に発した 「あなたはなぜ死ななかったのか?」 という言葉についてです。それに関してはまだ書くことがあります。

また、ヒットラーやカダフィのような男ならともかく、一体 「何故ローマ法王が暗殺の対象にならなければならないのか」 、と言う根本的な疑問にも答えを出さなければなりません。

そして、このシリーズを書いている時に、日本で 「巨大地震と津波と原発事故が起きた」 ことにも、偶然では片付けられない因縁を感じています。そこのところも繋げなければなりません。

しかし、私のブログを訪問して下さる方の多くにとっては、「カトリックの教皇」 の話など、それほど興味をそそられない話題かもしれません。それで、一休みというか、息抜きと言うか、全く関係のない話題を一つ間に挟むことにしました。


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母 の 形 見 

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 これは、ジャズピアニストの叔父が4年ほど前に他界して、母の形見のギターがひょっこりとわたしの手元に届いた時の話です。 

 叔父は平凡なサラリーマンでしたが、大の音楽好きで、戦後は米軍キャンプ内のクラブでピアノを弾いて生活の足しにしていました。 

 母が亡くなったとき、わたしはまだ8歳だったので、母の愛用のギターは、その叔父が形見分けで引き取っていったのでした。

 私は、「リーマン」などの銀行業で忙しかった間はもちろん、またその後、神父を目指してローマで勉強に明け暮れていた間も、この母の遺品を省みる気持の余裕など全くありませんでした。

 ところが、2007年から2009 年にかけて、ある事情があって、わたしは神父でありながら野尻湖の別荘に蟄居することになり、思いがけず時間だけはたっぷりある生活が始まったのです。それで、この機会に母のギターを弾いてみたいと思いました。

 ところが、何年かぶりにケースを開けてみて、愕然としました。ギターの首の部分と言うか、竿の部分と言うか、が根元のところで手前にがっくりと折れて、つなぎ目は割れたりはがれたりしてぐちゃぐちゃ、赤錆びた弦もだらしなくたるんで見る影もなくなっていたのです。

 母が使っていた時のままのギター、と言うことは、弦は戦時中の粗悪品です。伸縮性ゼロの鉄の弦を強く張ったまま保管されていたらしく、長い時間の流れの中で木製の竿や胴が負けてしまったのだとわかりました。全く予想だにしなかった悲惨な状態でした。

 情けないと言うか、悔しいと言うか・・・、このアクシデントを回避できなかった自分の無知をひたすら恨めしく思いました。

 ところが、すっかりしょげかえって諦めようとしていたところに、思いがけず励ましてくれる人が現れました。彼は、専門家に頼めば、まだ修復してもらえるかもしれない、と言ったのです。

 さっそく新大久保の黒澤楽器店に持ち込みました。

 応対に出た若い店員は、わたしがギターのことを何にも分かっていないのを察し、また古めかしい戦前の粗末なハードケースの外観を見、さらに中身の無残な状態を見て、「直しても無駄だ、悪いことは言わないから新しいのを買ったほうがいい」と言い張って、まったく取り合ってくれませんでした。

 ところが、ちょうどそこへ、奥からベテランのギター職人が偶然現れました。未練顔の私を見て、若者の店員を退けた彼は、壊れたギターを手にとってしばらくじっと眺めてから、まるで独り言のように 「なるほど、1938年のカラーチェですね」、とつぶやきました。

 それが何を意味するのか分からない顔をしていると、かれは、ナポリの名の知れたギター職人の作品だと教えてくれました。そして「うちにもひとつ有りますよ」、と店内のガラスケースに目をやりました。そばに寄ってみると、なるほど、30年ぐらい前のカラーチェ工房の中古ギターに40万円余りの値段が付いていました。70年前のもので、もし状態がよかったら、いくらぐらいの値段のものか、素人でもおよそ見当が付くと言うものです。

 実は、母の形見で・・・・、と来歴を語り、是非自分で弾いてみたいのだが、と言うと、半年の時間と、新品の上等のギターが買えるほどの修理費がかかるが、それでもいいのか、ときました。

 ざっと見積もって20万円の修理費は、自分の支払い能力をはるかに超えていることはわかっていましたが、「神様、今回も助けくださいね」、と心に念じて、そのまま置いてきてしまいました。

 半年をはるかに過ぎても、楽器屋からは何の連絡もありませんでした。10ヶ月ほどして、偶然のように天からお金が降ってきました。そのお金を握って、勇気を出して、黒澤楽器に行ってみました。そしたら、応対に出た若い店員が、それならもう出来てますよ、と言いながら、奥に取りに行きました。

 入れ替わりに、直してくれたベテランの職人が出てきて、「どうだ!」と言わんばかりにケースから取り出して見せてくれました。錆びた鉄の弦の替わりに、しなやかなま新しいナイロン弦が張ってありました。

 これが、あの首が折れ、胴にひびか入って見る影もなかった母のギターかと、目を疑うような見事な出来栄えでした。破れた胴や、折れた竿の傷は跡形もなく消え去っていました。素材から全く新しいものを作るより手間がかかった、と言うことでした。

 長野市内にいいクラシックギターの先生を見つけ、その春から習い始めましたが、ちょっと味見をしたばかりのところで、その先生ともお別れになってしまいました。さて、四国に帰って続ける暇を見つけられるだろうか、とその時すでに不安に思ったのですが、心配した通り、結局続けて習うことは出来ませんでした。

 その夏は休暇を得てまた野尻湖に舞い戻りました。私の家が属するNLA (Nojiri Lake Association) は80年余り前に全国に散って伝道しているプロテスタントの牧師さん達の家族が、年に一度集まって交流するために開墾した別荘村です。7-8月は Official Season の真っ最中で、毎日多彩なプログラムが組まれています。

 ある昼下がり、手慰みに何気なくフルートを吹いていたら、窓ガラスを叩く人がいました。見知らぬアメリカ人の牧師夫人が、自分はこの土曜日、19時~22時に催される “Poetry Music Caffee” のプログラムの責任者だが、貴方も笛を持ってきて貢献するように、と言いました。

 四十の手習いで、人さまに聞かせるほどのものではない。だいいち、小品一曲吹き終えるのに、3度は音をはずすかつっかえるかするが、それでもいいのか、と言ったら、何でもいいから参加せよ、とのことでした。約束の日の夜、その責めを果たして冷たいビールで冷や汗をおさめてほっとした事を、いまも鮮明に思い出します。

 その次の朝は、NLAの住民の一家がやってきたので、そよ風の通るベランダでミサをしました。三世代、大人4人、小さい子供4人の楽しい家族ミサになりました。

 

 

写真は、野尻湖の小屋の居間の暖炉の前、母のギターと私のフルート、それに母の若い頃(写真裏の父の筆跡の撮影日を見るとわたしがちょうどお腹の中にいた時)の写真を並べてみました。ギターの胴の底には、名匠カラーチェの写真と自筆のサインと製造年、製造番号が見えます。

 

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★ 教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

2011-03-18 19:10:43 | ★ 教皇暗殺事件

ローマの新聞に出た福島の原子力発電所第3号基の爆発の瞬間の写真。

わたしは同様の映像をNHKのインターネットニュース速報でも、日本の新聞の記事の中でも

見なかった。これを見て私はショックを受けた。最初に頭に浮かんだのはニューヨークの9.11の

世界貿易センタービルの姿、ついで広島の原爆のきのこ雲だった。

これがただの水素爆発?

 

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教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

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突然の大地震、続く大津波、さらに、まるでとどめを刺すかのような深刻な原発事故・・・。海外にいながら、日々のルーティーンを上の空でこなす他は何も手につかず、ひたすらインターネット版NHKニュースやイタリアの新聞に釘付けになって、茫然自失していました。自分のブログが実にチンケなものに見えて、書く手が萎えていました。今ごろになって、ようやくのろのろとキーボードに向かう次第です。さて: 

ファティマにおいて1917年7月17日に明らかにされた秘密の第3部は、教皇庁教理省の「最終公文書」に記載されている1944年1月3日付けの「ルチアの手記」によれば次の通りでした: 

「既に述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。この剣は、まるで世界を火で焼き尽くさんばかりに、火花を散らして光り輝いていました。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。『悔い改め、悔い改め、悔い改め』。それからわたしたちには、はかりしれない光-それは神です-の中に、『なにか鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで』白い衣をまとった一人の司教が見えました。『それは教皇だという感じでした。』そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到達なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到達し、大十字架のもとにひざまづいてひれ伏されたとき、一団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが、次々に殺されていきました。 

 これが1917年5月13日に10歳のルチアに聖母マリアから託されたメッセージの第三部の核心部分です。 

第二のメッセージに第一次大戦の終結が予言されていましたが、予言通り、その翌年1918年に終結しました。 

しかし、その予言の中では、「もう一つのもっとひどい戦争」、つまり、第二次世界大戦の勃発と、その予兆として不思議な光の現象に言及されていました。そして、予言の通り、「1938年1月26日夜9-11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝きました。これは説明のつかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた」と言う記録もあります。 

その翌年の1939年に、ヒトラーのポーランド侵攻とともに第二次世界大戦は始まり、世界中を悲惨な戦乱に巻き込んだ後、1945年に広島と長崎の二発の原爆の悲劇でようやく幕を閉じました。 

さらに、第二の予言はロシアの問題に及んでいます。

ファティマの予言があったのと同じ年、ロシアでは2月革命と10月革命が起こっていましたが、1922年の内戦終結とともに、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立されました。

1945年に第二次世界大戦が終わるやいなや、戦後処理を巡って東西が対立し、いわゆる「冷戦」(武力衝突を伴わない戦争)に突入した。それは核軍拡競争と大陸間弾道ミサイルの開発、核戦争のための宇宙開発にまで発展しました。冷戦は1989年のマルタ島におけるブッシュとゴルバチョフによる終結宣言までつづきます。

ウイキぺディアの記述によれば、「教皇ヨハネ・パウロ2世は、2005年4に発表された遺言において核戦争なしに冷戦が終結したことを神の摂理として感謝している。」また、「2006年1月に機密解除されたポーランド政府の秘密文書によると、1960年代から1980年代にかけて、ソ連とその同盟国は西ドイツやオランダを大量の核兵器で攻撃する態勢にあった。犠牲者は、ポーランドだけでも最大200万人と試算されていた」と言う話もあります。

ファティマの第二の予言の末尾には、「もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」。と言うマリア様の言葉がありました。 

 

大規模な核戦争が回避され、冷戦が無事終結した陰には、教皇ヨハネ・パウロ2世の熱い祈りと、無数の隠れた小さい魂たちの祈りと犠牲があったと考えるべきでしょう。また、それと同時に、ポーランド出身の教皇の卓越した人柄と手腕に負うところが大きかったと思われます。 

ここまで、前置きが実に長くなってしまいました。いよいよ問題の核心に入ります。それは、ファティマの第三の予言と教皇暗殺未遂事件との関係をどう理解するべきかと言う点です。 

教皇狙撃事件の9年後の2000年4月19日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は第3の秘密に関して、その秘密を書き残したシスター・ルチアに幾つかの質問をするために、ベルトーネ大司教(現在の国務長官ベルトーネ枢機卿)を送りました。 

「第三部の中心人物は教皇ですか」と言う質問に対して、シスター・ルチアは「はい」と答えました。ルチアは続いて、「教皇の名前は分かりませんでした。マリアは、教皇の名前をおっしゃいませんでした。ベネディクト15世カ、ピオ12世か、パウロ6世か、ヨハネ・パウロ2世か、わたしたちには分かりませんでした。しかし、自ら非常に苦しみ、わたしたちをも苦しみに誘うのは教皇でした」と説明しています。また、こうも付け加えました。「わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく教皇です。」と。 

(つづく) 

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★ 教皇暗殺事件-5 (完結編)その-4

2011-03-18 19:08:56 | ★ 教皇暗殺事件

(つづき) 

その教皇たち。ルチアがマリアのお告げを受けた時既に教皇であったベネディクト15世から、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネス23世までは、教皇が生命を狙われたというような記録はありません。 

第3の秘密の封印が解かれた1960年後に教皇になったパウロ6世は、その秘密を読んで「内容の重大さにショックを受けて卒倒し、『これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持って行く』と言って、発表を差し止めてしまった」と言うような話がありますが、もしそうだとすれば、パウロ6世教皇は、自分が暗殺の犠牲者だと早飲込みして、自分の殺される時にこの秘密を一緒に葬ろうと考えたとも受け止められます。しかし、当の教皇は81歳まで在位して何事もなく亡くなり、第3の予言はそのままバチカンの奥に保管されたまま残りました。 

その次に教皇に選ばれたのが、ヨハネ・パウロ1世でした。彼は教皇在位33日目に突然不審の死を遂げます。第二バチカン公会議の決議事項の実施やマネーロンダリングの温床と目されたいわゆる「バチカン銀行」の改革などで、大幅な人事異動を発表する前夜に死亡したということで、司法解剖もせずそそくさと葬ったリして、謀殺説や証拠隠滅の疑いが囁かれています。これは、ファティマの第3の予言と無関係だったでしょうか。 

無念の死を遂げたヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐかのように、ヨハネ・パウロ2世は、東欧の民主化、反共のために働くとともに、回勅で妊娠中絶や安楽死を「死の文化」と呼び、それに対して「生命の文化」を提唱するなど、世俗化した現代社会に対して厳しく警鐘を鳴らしました。彼は、2005年2月23日に著作「記憶とアイデンティティー」においてファティマのメッセージの全容に関する解釈を開示し、「1981年5月13日の狙撃事件の背後には、20世紀に生まれた暴力的なイデオロギーに属するしっかりした組織があった」と述べていますが、具体的には、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャを使ったKGBによる組織的犯行だったとされています。

教皇庁の「最終公文書」によれば、当時の国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿はその声明のなかで、教皇の暗殺未遂事件とファティマの予言との関係について、「ファティマの『秘密』の第3部に関わると思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思える」と語っています。

果たしてそうなのでしょうか。

 ルチアの設けた1960年までと言う封印期限が過ぎて初めて読んだパウロ6世は、予言通り死ぬ運命にある教皇は自分だと思い込んだふしがあるが、実際には何も起きませんでした。

謀殺された可能性が高いヨハネ・パウロ1世は、ルチアの予言にあるように銃弾によるものではなく、毒殺の可能性が指摘されています。しかし、「白い衣を着た司教」(教皇)が殺されたのだとしたら、ファチマの予言と無関係とは言えないのではないでしょうか。

2発の銃弾を受けて致死的重傷を負ったヨハネ・パウロ2世は、奇跡的に一命を取り留めました。狙撃事件のあと、ジェメリ病院に入院中だった教皇自身が、「瀕死の教皇が死の際に」とどまるよう、「銃弾の軌道を導く母の手」のあったことを認めました。一命を取り留めたということは、別の見方をすれば「未遂」に終わったということでもあります。未遂なら、まだこれからもあるかも知れないでしょう。現に、あまり知られていないようですが、狙撃事件から満一年目の1982年5月、ファティマの記念日にその地を訪れたヨハネ・パウロ2世は、再び刃物で襲われて怪我を負っています。

前述の国務省長官ソダーノ枢機卿の表現を注意して読むと、「1989年に相次いで起きた事件(注:ペルリンの壁崩壊など)は、ソビエト連邦においても東欧諸国においても、無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は、心の底から聖なる乙女マリアに感謝しておられます。しかし、世界の他の地域における、苦しみの重荷を負う教会とキリスト者に対する攻撃は、残念ながらまだ終わっていません。ファティマの『秘密』の第三部に関わると思われるいろいろな出来事は、最早過去のことに思えるとしても、聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけられた回心と償いへの招きは、今日もなお時代性と緊急性を残しています。」と記されています。

 と言うことは、状況はまだ変わっていない、第3に秘密は今も有効であるということではないでしょうか。ソダーノ枢機卿は「教皇たちに導かれた一つの終わりのない『十字架の道』です」と言う表現を使っていますが、それも同じ解釈に道を開くものではないのでしょうか。聖ペトロ広場でのヨハネ・パウロ2世の狙撃事件は、背後に大組織があったことは知られていますが、撃ったのは一人のテロリストで、発射された銃弾は2発だけでしたが、ルチアの「秘密」によれば、教皇は「一団の兵士たちによって殺され」、「彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました」とある。これはあくまで象徴的なヴィジョンであって、殺されるのがどの教皇か特定されていないように、犯人は一人か、複数か、ピストルかライフルか、また2発だけか多数の銃弾か、ナイフか矢か・・・、はたまた毒殺か、などの詳細も示されていないのかもしれません。既に二人の教皇が標的になり、一人は実際に殺された、とすれば、3人目は絶対に無いと、誰が断言し切れるでしょうか。

 わたしは、この2年余りの間ローマにいて、何度も教皇ベネディクト16世の姿を間近に見る機会に恵まれてきましたが、ブログにそのことを報告する時は、ほとんど毎回、教皇の警備が目立って厳しくなっていることを指摘し続けてきました。それぞれの教皇の個人的んキャラクターの違いによる面もあるでしょうが、ヨハネ・パウロ2世の場合は、全く無防備と言ってもいいほど群衆に身をさらし、人々に積極的に近づき、セキュリティーの人間がめざわりになることもなかったのに、今の教皇の場合は、もうなりふり構わず安全第一主義の警備体制をひいています。まず、謁見の会場のみならず、聖ペトロ大聖堂に入るためだけにも空港並みにX線による所持品チェック、ボディーチェックに始まり、教皇が大勢の人に接する場所には何十人のボディーガード、セキュリティーマンが、ダークスーツに身を固め、湧きの下にはピストル、耳にはイヤホーン、袖口には隠しマイクを忍ばせたいかつい男たちが、実に目障りなほどうようよしています。

新しいパパモビレ。秘書などの側近は乗せず、運転手は低い位置に。その周りを、大勢のセキュティーが取り囲んでいる。

 膨大な経費のかかるこのような警護は、1981年5月13日にヨハネ・パウロ2世を襲った狙撃事件を上回る攻撃を想定してのことでなければほとんど説明がつきません。

 第三の「秘密」の「最終公文書」の半分近いページ数を費やして、当時教理省長官だったラッツィンガー枢機卿(現教皇)自らが、ファティマの出来事に関する「神学的考察」を書いていますが、そのことからも、同教皇が如何にこのファティマの秘密を重く真面目に受け止めているかを示しているものとわたしは考えています。

そして、教皇になった今、恐らく彼は自分自身が次のターゲットであることを強く意識しているのではないかとわたしは考えています。

近くに彼を見、また遠くから彼の表情をカメラの望遠レンズにとらえて見る度に、わたしはついそのような想念の虜になるのです。

だからと言って、現教皇が襲われ、死ぬと断言しているわけではありません。そんなことがあってはならないし、避けることも可能でしょう。避けるためには、マリア様の警告を自分に向けられたものとして真摯に受け止めて、各自が、そして全ての信仰者が、回心に努め、償いの技に励む以外に無いでしょう。歴史のコースは人間が選ぶもので、人間はそれを変えることができる。

  (おわり)

    

教皇ヨハネ・パウロ2世の脇腹を貫通しジープの床にころがった銃弾は、ファティマのマリア像の冠の中に埋めこまれた。水色の玉の下に見えるのがそれだろうか。

 

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★ 大地震

2011-03-11 12:27:41 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

地震被災者の皆様にはお見舞いを、

 亡くなられた方にはお悔やみを申し上げます。

                               ローマにて、谷口

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★ 教皇暗殺事件 (完結編)その-2

2011-03-09 23:15:32 | ★ 教皇暗殺事件

 

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教皇暗殺事件 (完結編)その-2

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前回、話しの落ちを期待して読まれた方には、とんだ肩透かしになってしまって申し訳ありませんでした。でも、大分煮詰まってきた感があります。 

いわゆる「ファチマの予言」と呼ばれるものについて、インターネット上では日本語だけでも様々な情報があふれています。  

例えば: 1917年、ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の幼女の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
  第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
  そこで人々は、第三の予言の発表を待ち望んだ。なぜかこの予言だけは、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
  だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
  第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。
  その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、今も厳重に秘匿されており、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれている。 

などという、如何にもジャーナリスティックな記事がありますが、これなども、事実と筆者の自由な解釈が混在する恣意的な作文であった、とても額面通りに全てを受け取るわけにはいきません。

 教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件の真相を彼の秘書のスタニスラオ枢機卿の記録に求めたように、ファティマの秘密についても、信用できる原資料によらなければ、説得力のある話にはならないのです。そこで私は以下の文献に専ら依拠することにしました。



写真は、教皇庁発表によるファティマ「第三の秘密」に関する最終公文書の表紙です。

私は、この一連のブログの結論をこの資料を参照しながら書きたいと思います。

 

 その資料によれば、「秘密」の第一部及び第二部の核心は以下の通りです(ルチアの書いたことばの文字通りの引用。ただし、原文はポルトガル語で、日本語の訳される段階で既に多少のバイアスがかかっていることは避けられませんが):

 

第一は、地獄のビジョンでした。

マリアは、私たちに広大な火の海をお見せになりました。それはまさに、地の下にあるもののようでした。この火の中に、サタンと人間の形をした魂とが閉じ込められていました。この魂は、透き通るように燃え上がる燃えさしのようで、全ては黒く、あるいは光り輝く青銅色をしていて、大きな炎の中に漂っていました。彼らは自分の中から放つ炎によって、巨大な煙の雲と共に空中に吹き上げられ、ぞっとするような、しかも恐怖に震えあがるような苦痛と失望の悲鳴とうめき声を上げながら、重さもバランスも失って、火花のように大火の中を四方八方に飛び散っていました。サタンは、見たこともない奇怪な動物の形をしていたのでそれと分かりましたが、戦慄を覚えさせるような気味の悪い形相をしており、透明で黒い色をしていました。このビジョンは、本の一瞬の間続いただけでした。天の母マリアが、最初のご出現の時に私たちを天に連れていくことを前もって約束してくださっていたことに、私たちはどれほど感謝したことでしょう。もしそうでなければ、わたしたちは恐怖のあまり死んでしまったと思います。

第二は、いわゆる予言の部分です。

その後、マリアに目を上げると、優しいけれど悲しそうに、こうおっしゃいました。

「あなたたちは、あわれな罪人の魂が落ちていく地獄を見ました。罪人を救うために、神は、わたしの汚れない心に対する信心を世に定着させるよう望んでおられます。もし、私があなたたちに言うことを人々が実行するなら、多くの魂は救われ、平和を得るでしょう。戦争がもうすぐ終わろうとしています。しかし、もし人々が神に背くのをやめないなら、ピオ十一世が教皇である間に、もう一つの、もっとひどい戦争が始まるでしょう。ある夜、まだ見たこともない光が闇を照らすのを見たなら、それは、戦争や飢餓、教会と教皇に対する迫害による世の罪のために今まさに神が、世を滅ぼそうとしておられる大いなるしるしであると悟りなさい。それを防ぐために、私の汚れない心にロシアを奉献することと、償いのために毎月初めの土曜日に聖体拝領をするよう、わたしはお願いにまいります。もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」。

引用が十分長くなりました。不本意ながら、またここで一休みです。

一つだけ注意を喚起しておきたいことがあります。それは、これが、10歳の時、ルチアが見、理解したことそのままだということです。地獄のヴィジョンは、見たのなら見た通り彼女らの素朴な語彙を駆使して描写することはそれほど難しくないかもしれません。しかし、ロシアという国があるのか、何処にあるのかも知るはずのない田舎の無知な牧童が、貴婦人から告げられなければ、どうしてそれについて語ることができたでしょうか。第一次世界大戦が起こっていたということすら知る由もなかった素朴な子供たちが、どうしてその終結や、その後の世界情勢について語り得たでしょうか。人々が神に背くとか、罪と滅びの関係とか、宗教的、神学的概念が羊の後を追うこと以外に何も知らない牧童の頭に如何して勝手に浮かぶことがあり得たでしょうか。また、ヒットラーのナチスが戦争に突入する前夜に、ヨーロッパ中に不思議な光が夜空を照らした現象は、どうやら客観的史実であるらしいことをどう説明したらいいでしょうか。

冒頭の三人の牧童の写真をもう一度見ながら、よく考えて見て下さい。また、いわゆる「予言」の部分は、ジャーナリスティックに書きたてられているものとはかなり趣を異にしていると思いませんか。

次回は、一回分のスペースで、第三の秘密の原文と私の結論をカバーできることを期待しつつ、ひとまずここで区切ります。 (つづく)

 

 

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★ ローマに雪が降った?

2011-03-07 06:27:21 | ★ ローマの日記

 

 

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ローマに雪が降った?

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昨日の日曜は、冷たい寒の戻りの雨もやんで、美しく晴れ渡った。信者さん達の月に一度の集いのために、カステロ・ロマーノ(ローマ南東60キロほどの丘陵地)の修道院に出かけた。

広い庭を見て、ハッと息をのんだ。緑の芝生のはずのところが、一面真っ白なのだ。雪???? まさか!

太陽の日が燦々と降り注いでいるのに、それはないだろう。

 


 

レンズをスーパーマクロに切り替えて足元を映すと、それは直径1.5―2.0センチの小さな白い花の群生だった。

 

イタリア人はいい加減だから、これもマーガレットと呼ぶが、果たしてそうか、私は疑っている。日本で知っているマーガレットは、地面にへばりついて一面に展開することはない。株として固まって高さも50センチ程の茂みを作る。花の直径も4センチ以上あるだろう。ところがこれは背丈は5センチがせいぜいで、タンポポのような雑草状に地面に敷きつめているのだから。

では、ローマでは雪は降らないのか。いや、たまに降る。去年の今ごろに珍しく降った。その時書いたものを、ツイッターでこのブログを知った皆様には初公開だから、あらためてお披露目するとしよう。

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「暗殺事件」-(完結編) が難産で、苦し紛れの時間稼ぎと言われるなかれ!これも無関係ではないのだから。》

 

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白は雪の色、教皇の色

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朝起きてみたら雪だった
(一年前の話)

カトリック教会では、我々ヒラの神父は黒、司教は紫、枢機卿は赤、そして、教皇ただ一人白と、それぞれ身分に応じて式服の色が決まっている。

今日はローマの4つの神学校の関係者が教皇ベネディクト16世と食事をする日だ。
真っ白な雪はそんな日に相応しい。
私のローマ10年余りの生活の中でも、雪は過去に1―2度しか経験したことがない。




神学校のロビーから中庭を見ると、うっすらと雪が積もっていた。

庭に出てみると、咲き始めたミモザの花も雪にかすんでいる。



アーモンドの花も雪があると無いでは趣が違う。

 


中南米やアフリカ、東南アジアからの神学生たちの多くは、生まれて初めて降る雪を見、その冷たさに触れたに違いない。
彼らは、もう少年のように雪合戦に夢中になっていた。


 

その向こうを、右手にステッキ、左手のロザリオをしっかり握った日本の神学院の院長平山司教様がお散歩をしておられた。足取りは、病気された昨年よりしっかりしているように見受けられる。




お寒かったでしょうと、お部屋に誘導して、景気付けに薬草入りグラッパをキュッと一杯。五臓六腑に沁み渡る。
これは数日前、聖ベネディクトのゆかりの地、スビアコのサンタ・スコラスティかの修道院で仕入れてきたもの。



夕方には、教皇様との夕食会が待っている。これはローマ教区の歴史でも初めての試み。
ラテラノ教会に隣接するコレジオ・ロマーノにローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」を含む4つの大神学校の神学生と養成者が一堂に会し、パパ・ベネデットと出会うことになった。


私のもとにも立派な招待状が届いた。



会場の聖堂にはテレパチェのニュースカメラが入った。その夜遅く、信者たちの集まりに出たら、
私もしっかり映っていたとの話だった。



教皇は一同を前にして、たっぷり30分ほど力を込めて、司祭の使命について、心構えについて、話をした。
原稿は手元にあったようだが、それを読むことはなく、しっかり一同を見渡して自由に話す姿は珍しい。


 

その後、場所を移して晩さん会となった。



「神学校院長秘書」と言う肩書は、こんなときに威力を発揮する。教皇の直ぐ斜め前のテーブルで、ローマのツチア補佐司教と平山司教と、写真には手しか映っていないがローマ教区の会計総責任者のモンセニョールが一緒だった。



食事も無事終わって退出する教皇ベネディクト16世。教皇とこんなにま近に接する機会は珍しいが、
セキュリティーは思いのほか厳重だった。前のヨハネ・パウロ2世教皇の時とは全く雰囲気が違った。
あの時は、まだ神学生だった私は、近寄って握手することも許されたのだが・・・



                     
 (1枚だけ給仕に撮ってもらったのを除いて写真は全て谷口

 

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こうして一年前を振り返ってみると、私が同じ出来事に対して、すでに同じ思いで受け止めていたことがあらためてよく分かる。 教皇暗殺事件 について、以前から心に引っかかっていたことを、次回こそははっきりと言葉にしてみたい。

 
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★ 教皇暗殺事件-5 (完結編)

2011-03-06 21:57:26 | ★ 教皇暗殺事件

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教皇暗殺事件-5 (完結編)

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この出来事の私なりのコメントをどう締めくくればいいものか苦慮しています。あらかじめ、一つのはっきりした結論があります。しかし、そこへどう辿っていけばいいのか悩んでいるのです。 

前回は、ヨハネ・パウロ2世がファティマの秘密に拘った話で終わっています。このブログを読む方のうちの、カトリックでない現代日本人の皆さんには、なんの話だか全く馴染みがないかもしれませんので、かいつまんで申しましょう。


その全ては、この3人のポルトガルの片田舎の牧童たちから始まります。1917年ごろの写真です。時代がかった写真の空気から、小学校もまともに行っていないような全く無名の無知で純朴な子供たちが、世界を震撼とさせるような大きな出来事の主人公となったのです。カメラの前で眉根を寄せて固まっている子供たち、服装も100年前のもの、日本では大正8年のことです。当時の、鉄道も通わぬ東北のド田舎の鼻たれ小僧たちを想像して見て下さい。 

真ん中の9歳のフランシスコと右側の一番小さいヤチンタは間もなく病気で夭逝しています。しかし、その二人は教皇ヨハネ・パウロ2世によって2000年に列福されました。当時10歳だった左側のルチア・ドス・サントスは、後にカルメル会の修道女となり、2005年2月13日に97歳の高齢で死去しています。ルチアのその後の生涯はひとまずおくとして、100年前のポルトガルの片田舎の幼い無名の牧童達が、その後の世界史の重大な出来事に決定的な関わりを持ったという異常な事態を、まず頭にしっかり刻んで頂きたいと思います。 

 そして何が起こったのか? 

 これについては、ローマにいて、私がかつて読んだ日本語の信頼できる文献が手元にないので、ちょっと手抜きの感を免れませんが、インターネットで検索して得た資料の中から、私の記憶とあまりかけ離れていない記事を借用して紹介したいと思います。

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事件の発端は、ヨーロッパの西、ポルトガルの真ん中にある小さな村ファティマ。主役は羊飼いの家の末娘で、10歳になった女の子。名をルシアという。脇役はルシアのいとこにあたる9歳のフランシスコとヤシンタ。とりたてて特徴のある子たちではない。

事件は1917年5月13日、快晴の昼日中に起こった。ルシアたち3人は羊を連れて、村から2キロ先のコバ・ダ・イリアという窪地にやって来た。正午を過ぎたころ、突如、空中に強烈な閃光がきらめいた。少女たちは輝く光にとらえられ、目がくらみそうになった。

光の中心に、小さな美しい貴婦人が出現した。彼女は子供たちに、毎月13日のこの時刻に、6回続けてこの場所に来るように告げられた。

3人は秘密にすることを約束したが、一番小さなヤシンタは母親に問い詰められて話してしまった。そのため3人は村中の笑い者になった。

2回目の6月13日には、それでも噂を聞いた村人が6~70名現場に来た。彼らはルシアが目に見えない存在に話しかけている様子を、まるで別の世界に引き込まれて行くような気持ちで観察した。

ブーンという蜂の羽音のようなものが聞こえた者もいた。


ルシアの対話が終わったとき、目撃者全員が爆発音を聞き、小さな雲がヒイラギの木のそばから昇って行くのを目にした。
3回目の7月13日には、目撃者は5千人にふくれあがった。この3度目のコンタクトでは、時期が来るまでは口外してはならないという命令とともに、重要なメッセージが預言された。

内容は25年後に、バチカン当局から次のように発表された。

1 第一次大戦は終わりに近づいたが、このままでは次の法王(ピオ11世)のときに大きな不幸が起こる。
2 次の大きな不幸の前に、夜間に不思議な光が見える。これは神の警告のしるしである。
3 ロシアは誤りを世界にまき散らし、戦争をあおりたて、多くの国が滅びる(この後に重要な「第三の予言」が続くのだが、徹底した秘密となっている)。

第二の予言は、1938年1月26日の夜9~11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝いた。これは説明つかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた。
この不気味な光に呼応するかのように、ドイツではヒトラーが台頭し、まもなく第二次世界大戦の火ぶたが切られた。…4回目の8月13日、今度は2万人の群衆が現場に集まった。しかし、ルシアたち3人は姿を見せなかった。世間を惑わすという理由で、官憲によって投獄されていたからだ。

だが、子供たちの不在のまま、雷鳴がとどろき、閃光がきらめき、ヒイラギの木のそばに小さな白雲が出現、数分後青空に上昇して溶け去った。

5回目になると、群衆は3万人にふくれあがった。その中には、奇跡をあばこうと目を光らせている3人のカソリック司祭もいた。

正午、明るく輝いていた太陽が急に光を失い、周囲は黄金色に包まれた。青空のかなたから銀白色に輝く卵型の物体が現れ、ゆっくり東から西へと飛びながら、子供たちのいるヒイラギの木の上に静止すると、白雲が生じて物体を包みこんで見えなくなった。

人々がこの奇妙な光景に目をこらしていると、白い綿状のものが空から降ってきた。人々が手を伸ばしてつかんだり、帽子で受けると溶け去ってしまった。

貴婦人とルシアの間で会話が始まり、10月13日の奇跡の再現が繰り返された。15分後、「お帰りです」というルシアの声が響いたとたん、また銀白色の卵型物体が出現し、青空にゆっくりと上昇して消えていった。
一部始終を目撃した司祭は、銀白色の球体を「あれは天国の乗り物で、聖母を王座からこの荒野に運んできた」と語った。以来、貴婦人を「聖母マリア」、卵型物体は「聖母の乗り物」といわれるようになった。

最後の6回目の出現は、予告どおり10月13日に起こった。その日は老若男女、あらゆる階層の人々が現地につめかけ、その数は7万から10万人に達したという。中にはヨーロッパの主要新聞の記者や科学者なども含まれていた。その日の奇跡現象は今も語り継がれるように、さすがに凄い。

聖母の出現に先立って閃光がきらめき、付近一帯にはバラの花のような不思議な甘い芳香がただよった。子供たちとの対話が始まったが、群衆には聖母の姿は見えず、声も聞こえなかった。ただ、子供たちの顔が、うっとりとなっていく変化を目にしただけだった。

聖母が子供たちと話し終え、コバ・ダ・イリアを去って行くとき、予告されていた奇跡現象が起こった。その日は、あいにくの土砂降りの雨だったが、突然ピタリと止み、厚い黒い雲が割れて青空が見えた。と、そこから銀色に輝く見慣れぬ太陽が出現したのである。周囲にはさまざまな色光が放射され、火の車のように回転している。

かがやく太陽のようなものは回転を中止すると、水平に移動、また元の位置に戻ると再び回転を始め、凄まじい色光を発する、という行動を3回くりかえした。

と、突如として赤く輝いたと思うと、今度は群衆の図上に稲妻のようにジグザグに落下してきた。群衆は恐れおののき、ほとんどの人は最後の時がきたと思い込み、自分の犯した罪状を告白し始めた。しかし、太陽は再びジグザグに上昇し、青空に納まって行った。

見慣れぬ太陽が消え去り、本物の太陽が輝き始め、我に返った群衆は仰天した。自分たちの衣服をはじめ、木々も地面も完全に乾燥していることに気づいたからである。

この奇跡は、ファティマから数10キロ離れた場所でも大勢の人に観察された。

ともかく予告どおりに大奇跡は起こり、事件はポルトガルだけではなく、全ヨーロッパに大反響を巻き起こした。日本(大正8年)の新聞にも、ヨーロッパにマリア様が出現して大奇跡が起こったと報道されている。

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私が50年前にこのような記事を読んだ時は、このような大袈裟な異常現象の記述は、私の若いころの理性偏重の信仰とは全く調和しない迷惑千万な雑音としか思えなかった。いま突然、私がこのような記事を引用しても、ツイッターで私のブログを知った大方の皆さんも、真偽の判断のしようもない厄介な話としか映らなくてむしろ当然、それが健全な反応だと私は思います。

私はこの話を信じて下さいとは言いません。むしろ、こんな話がなかったらどんなに気が楽かと自分でも思います。しかし、10キロ離れたところからも異常現象は目撃されたとか、無神論者も懐疑主義者も科学者もいる目の前の天空で、極端な異常現象が7万から10万の人々に同じように目撃され、世界中の新聞に大きく書きたてられ、大正時代の新聞が今も見られるなら、日本のマスコミにも取り上げられた事実があったということだけは、どうか心に留めて頂きたいと思います。

これだけの規模で人々を集団催眠にかけることは、現代の技術をもってしても不可能であるに違いない、そういう意味で客観的事実と言わざるを得ないのではないでしょうか。

私は教皇暗殺事件を今回で締めくくるつもりでいましたが、不本意にも前置きが長くなりすぎました。そこで、ひとまずここで区切って、次につなげたいと思います。

 

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★ 教皇様の晩餐会にご招待-①

2011-03-05 16:52:11 | ★ 教皇ベネディクト16世

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教皇様の晩餐会にご招待-①

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ローマ法王からから招待状が届いた。日本の天皇がただの庶民を招いて会食をすることがあるだろうか。数百人しか住民のいない皇居程の広さしかない世界最小の国家の元首とはいえ、世界中に住む10億4千万のカトリック信者を国民に準じて考えるなら、中国の13億、インドの12億には及ばないにしても、アメリカ合衆国3億人の3倍、ロシア1億4千万の7倍以上の大国に匹敵する。それが、どこの馬の骨とも分からない神父達や若い神学生達と会食をする。国民、いや、信者とできる限り近しくいたいとう教皇の思いのあらわれだろうか。ブログ読者の皆さんをも、この晩餐に招待したいと思って多数の写真貼り付ける次第です。教皇暗殺事件の締めくくりのブログの仕上がりが遅れている間のつなぎではありますが、実は、これもあの事件を解き明かすうえで重要なヒントを秘めていることは、このブログの末尾に触れたいと思います。


 

ローマ市内の中心にあるラテラノ宮殿(元教皇の館)に付属するラテラノ大学の聖堂に、招待客は集まった。晩の祈りで心を準備した一同の中に教皇が入って来てまず跪いて祈りを捧げる。

 

聖堂に集う一同の前で挨拶をする教皇。


   

聖堂の中にカメラが何台も入るのは如何なものかと思うが、わたしがこの写真を撮った理由は別にある。左の写真の右端の男と右側の写真の遠くの男に注目して頂きたい。写真では良く分からないかもしれないが、まず体格と人相の悪さ、耳にはさんだイヤホーン、襟元の小型マイク、セキュリティーの典型的な姿だ。これが聖堂の中に5人や10人では効かないのだ。目ざわり極まりない。(後で聞いた話だが、教皇の周りには遠く近く影のように60人のセキュリティーがいるそうな。)(イタリアのテレビには、これらのカメラから同時中継で放映があり、写真を撮りまくっていたわたしの姿がアップで出ていたそうな、いや参ったな!)


      

聖堂からダイニングルームに場所を移し、食事が始まった。左の写真は食卓を祝福する教皇。(食事を食べている教皇の写真撮影は禁じられた。) 教皇の左側は1週間前に神学校で認定式を行ったヴァリーニ枢機卿。 

右の写真はその隣のわたしたちのテーブル。左がローマの東区のディトーラ補佐司教、右が同北区のマルチアンテ補佐司教。パスタの皿に手をかけているのが平山司教。


   

平山司教とのツーショット。デザートの苺となんだか名前の分からぬ甘いもの。ワインはまろやかな得上の白。メインは魚料理だった(金曜だから?)が写真を撮るのを忘れた。


食事も終わって退出前に挨拶する教皇。


外の風は涼しく、中庭の噴水が美しい。


   

しかし、宮殿の門の内側には準乱闘服の機動隊が、外には、あちこちに機動隊の装甲車がライトをつけたまま待機している。この、宮殿の中のセキュリティーと言い、外の警備と言い、おとなしくて善良な(?)神父や神学生を招いた晩餐会の警備としては、ちょっとやり過ぎではないのか?そう言えば、皿洗いで先に入った10名の神学生も、老齢の平山司教も、この日は車で構内に入ることが許されず、離れたところから徒歩で近づくことを求められた。招待客も空港でのような機械によるチェックこそなかったものの、顔を知っているものによる面通しなしには門から一歩も入ることができなかった。(これも後から聞いた話だが、ラテラノ宮殿の周りはその日朝から交通規制、駐車規制がひかれていたそうな。)

前の教皇ヨハネ・パウロ2世の時にはこのようなことはなかったのに何故?このような物々しい体制は、いま扱っている教皇暗殺事件と何か関係があるのだろうか?


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★ 神学院の認定式

2011-03-03 23:31:01 | ★ 神学校の日記

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神学院の認定式

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「教皇暗殺事件-5」の準備に手間取っている間に、報告事項が生じました。アルバム形式でお伝えします。

去る2月26日(土)の夕方、神学校の聖堂に教皇の代理、ローマ司教であるヴァリーニ枢機卿を迎えて、5人の神学生が認定式を受けました。認定式とは、通常2~3年間の試しの期間の後、正式に未来の司祭の卵として認定され、その印に黒い背広とローマンカラーを付けることを赦される式のことです。


 荘厳に式が始まる


認定される5人の候補者

中の3人がローマの 「レデンプトーリスマーテル」の神学生

両端の2人が日本のための 「レデンプトーリスマーテル」 の神学生


認定式の後半、ミサの中で手焼きの種なしパンを割く司祭達


ミサの後、復活の喜びに包まれて祭壇を囲んで踊る参列者たち

ギター、ヴァイオリン、フルート、トランペット、ボンゴ、チャランゴ、

もちろんパイプオルガンも、など様々な楽器の伴奏で


ジーンズを脱いで、認定式を終えて黒くなった日本のための神学生

左がアルフォンソ君(サッカーの名手)、右がロピート君(神学院のベテラン看護師)

ロピート君は数日前にサッカーで怪我をした


元高松の神学院は、今もローマで健在

皿洗いや、旅人の実習や、日本での語学研修でここに写っていない者を加えると20数名になる


お疲れ様。院長の平山司教様、元院長のスアレス神父様、そして私。


式後の食卓でご満悦のヴァリーニ枢機卿

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尚、5月14日には聖ペトロ大聖堂で教皇様司式の司祭叙階式が行われる。

前回の田中君、サミュエル君に続いて、この度はヨーゼフ助祭が

日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院から司祭に叙階される。


 


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