:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ こんな素敵なコメントを頂きました

2016-06-19 00:00:05 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

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シンフォニー

こんな素敵なコメントを頂きました

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3.11 東日本大震災の記念チャリティー音楽会

頂いたコメント

5月7日の東京公演では感激しました。CDとケリグマを買い求め、翌週から私の所属する教会でCD観賞会やケリグマ講読を行い信徒みんなで感激を分かち合いました。(「ケリグマ」はキコの自伝的処女作)

残念なのは、合唱団のコーラスの歌詞があれば、もっと感激したと思います。何処かで調達できないでしょうか。

機会あるごとに他の会合でも同じような分かち合いをしたいと思います。

そこで、こんな返事を書きました:

〇✖さま
    素敵なコメントありがとうございました。
    さっそく作曲者のキコに歌詞を請求して訳してご披露いたしましょう。
    少々時間を要するかもしれませんが、ご忍耐ください。

                              谷口幸紀拝

 

いきなり東京のサントリーホールでの日本初演で、シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」全5楽章は、会場をほぼ満席に埋めた人々から大好評を博した。作曲者のキコ・アルグエイヨ(スペイン人)自身も、もちろん日本初デビュー。

1700席の福島会場、県文化センターは満席を超えて人が会場に溢れるという見通しになって、演奏家の着替えの控室に借りていた400席の小ホールを急遽開放し、巨大ディスプレーを舞台に設置して大ホールの演奏を同時中継する準備までした。

それだけではない、福島県下で一回だけの公演はもったいないということで、当初東京への移動と東京観光に予定していた6日を潰して、午後1時半という異例の時間帯に、緊急追加公演が決まったのがわずか1か月前のことだった。2000人収容の大ホールでクラシック調のコンサートを計画して満員にするのは、長い時間かけて慎重に準備をしても容易なことではないというのが、プロの常識だ。それをゼロから1か月前にホールを予約てし、それからポスターやチラシの印刷に入り、正味2週間の宣伝でやろうというのは、常識ある専門家100人が100人とも、それは無理だ、不可能だ、絶対にやめるべきだという忠告の大合唱の中で敢行された。結果はほぼ満員になり、演奏後は万雷の拍手とスタンディングオベーションで熱気に包まれ、ある意味で東京のサントリーホール以上の盛り上がりになったことは、ただただ奇跡という他はなかった。歴史には3日で城を築いたという伝説があるが、まさにそれに匹敵すると私自身が驚いている。

東京のサントリーホールも無事に無難に乗り越えた。

6月4日にはKFB(福島朝日テレビ)制作の1時間物のドキュメンタリー番組が完成して放映されたが、私はあとでそのDVDを見せてもらって、その番組の質の高さに脱帽した。

とどめを刺すように、キコのシンフォニーのオーケストラ用の楽譜の要望が舞い込んだ。キコのシンフォニ-『罪のない人々の苦しみ」が日本のオーケストラによって演奏されるかもしれない可能性が見えてきた。キコもその求めを快諾して、私はいまPDFのファイルにまとめた総楽譜の届くのを首を長くして待っている。

 

 

 

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★ キリストと姦通の女

2016-06-06 07:57:04 | ★ 聖書のたとえ話

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キリストと姦通の女-2

一つ前のブログ「独裁と魔女狩り?」の続き

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キコのシンフォ二-も無事盛会に終わり、久しぶりに「キリストと姦通の女」をテーマにブログを更新したら、たちまち両極の反応があった。「品がない!」と叫ぶ人がいた一方で、冷静に「同感だ、その通りだ!」と言う人もいた。反応の二極分解は私の話が痛い問題の核心を衝いた証拠だと受け止めている。

それで調子に乗るわけでもないが、「キリストと姦通の女」の話しをもう一歩掘り下げてみよう。

舛添さん降ろしに血道を挙げているマスコミと世論については前のブログで書いた通りだが、そこに引用した聖書の言葉はこう始まっていた。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」そして続く)
         イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。

キリストの火を吐くような真理の言葉と、貧しい大衆からの圧倒的な人気に、恐れと嫉妬を抱いた当時のユダヤ教の指導者たちは、イエスを亡きものにしようと企み、執拗に付きまとって次々と罠を仕掛けていたのだ。今回のこの質問もそんな罠の一つだった。

モーセの律法は絶対だから、そんな女は律法通りに石殺しにするべし」、と答えたら、「聞いたか皆さん!この男は血も涙もない律法主義者だ!憐れみのかけらもない!そんなことを言ったら世の中から娼婦たちがみな消えてしまい、たちまち困るのは男たちだ。近所の人妻だって軒並みやられるかもしれない!」そんなイエスは亡きものにしよう!」と煽り立て、大衆の集団ヒステリーに火が着いたら最後、イエスの命は風前の灯になる。

では、憐れみをかけて「可哀想だからその女を赦してやりなさい」と言えばどうか?今度も「聞いたか皆さん!イエスはモーセの律法をないがしろにする、神をも畏れぬ異端者だ!亡きものにしなければならない!」となる。もはやこの質問の罠から逃れる術はない。「YES! と答えても地獄」、「NO! と答えても地獄」なのだ。

しかしイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石をなげなさい」と答えて、見事に難局をすり抜けた。

舛添さんの場合はどうか? 

 

マスコミの質問も悪意の罠に満ちている。具体的に答えなければ、「説明責任を果たしていないから辞めろ」となる。公私混同がありました、申し訳ありません、と答えれば、「みずから非を認めたのだから責任を取って辞めろ」。法に触れるようなことはしていません、と言えば、「違法性の問題ではない、ここまで世間を騒がせたことに対して責任を取って辞めろ」、となる。何を言っても「辞めろ」、言わなくても「辞めろ」の四面楚歌の罠。

では、イエスに倣って舛添さんも「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、私に石を投げなさい。」と言ってみたらどうか?数分後に彼は血だらけの死体になって転がっているだろう。現代の日本人には2000年前のユダヤ人社会のようなモラルも抑制心もないからだ。神を畏れることを知らぬ集団はなんと恐ろしいことか!

わたくし的に言えば、舛添さんは、上の絵で言えば、「姦通の女」ではなく「イエス」の立場に置かれた人のように思われてならない。

イエスの場合と同じように、邪な意志を抱いた人たちから抹殺のターゲットにされた犠牲者に共通の窮地の構図だ。

「姦通の女」の場を、そして他のいくつもの窮地を切り抜けたイエス・キリストでさえも、最後には最もエスカレートした同様の構図に呑まれて、十字架上の磔刑死という壮絶な最期を遂げることになった。この世の正邪の戦いでは、常に邪悪なものが勝利をおさめるように定められているのだろうか。

しかし、キリストは「復活」した! 夜明けの太陽のように復活したイエスは、邪悪の闇を打ち払い、死を打ち滅ぼして信じる人に永遠の命を与えた。これがキリスト信者の信仰告白だ。わたしはイエスの復活と人間の魂の不滅性と終末の日のわたしの肉体の復活を信じる。

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★ 独裁と魔女狩り?

2016-06-03 00:20:05 | ★ 聖書のたとえ話

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独裁と魔女狩り?

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磐梯熱海の温泉宿「永楽館」でキコのシンフォニーの郡山実行委員会の「反省会」兼「ご苦労さん会」があった。明けて宿のテレビをつけたら、どのチャンネルも舛添都知事引きずり下ろしの大合唱でうんざりした。新聞に目を移すと、消費税の延期決定の記事だらけで、もっとうんざりした。

 このやり場のない嫌な気分はどこから来る?

新訳聖書 にはこんなエピソードが記されている。

人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネ8章3節以下)

注:モーゼの律法による石殺しの刑とは、死刑の判決を受けた者を群衆が遠巻きに囲み、その者にに向かって皆が力いっぱい大小の石を投げつけ、死ぬまで投げ続けるという残酷な刑のこと。キリスト教の最初の殉教者ステファノはこの方法で殺された。

舛添さんは「姦通の現場で捉えられた女」か ?

毎日、毎日、テレビに出演して舛添おろしを煽るキャスター、街角でインタビューに応えてその火に油を注ぐ「したり顔」の市民たちに対して、イエスの答えは痛烈だ。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、舛添さんに石を投げなさい。」

しかし、聖書のエピソードは良心の欠けらをどこかに置き忘れてきた現代日本人には当てはまらない。そのイエスの声を聞いても、現代のマスコミは、また、それに踊らされて叫ぶ愚かな庶民たちは、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ろう」とする気配は全くないように見受けられる。狂ったように、憑かれたように、非難の石つぶてを投げ続け、ターゲットの政治生命を断つまで、まるで坂道を行くブレーキの壊れた欠陥自動車のように抑制がきかない。

法で裁けるほどの罪のない人を無理やり葬り去るる手段となったマスコミのヒステリー。中世の「魔女狩り」が思い出されて、おぞましさに身の毛がよだつ。道理が引っ込み、集団ヒステリーが勝ちを占める。背後でそれを操っているのは誰か。胸に手を当てて冷静に考えるならば、「あの立場にあっての舛添さんは、私やあなたほどにも悪くはない」、と言って彼を擁護する声は新聞にも、週刊誌にも、テレビにも全く現れないのは何故か。

さんざん国会で審議し、必用性が論証され、決議され、公約もされた「消費税増税」が、自分の延命を図る首相の鶴の一声で無責任にも簡単にひっくり返される。側近もそれを阻止できない。民主主義はどこへ行ってしまったのか。新しい専制独裁者の出現でなくてなんだろう。彼に導かれて平和憲法はやすやすと空洞化され、自衛隊員が海外で民間人を殺戮し、みずからも戦死することに道が開かれたのはつい先日のこではなかったか。 

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