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「お金=神」の時代をどう生きる? (最終回)
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写真のないベタ文字のブログが敬遠されることは、経験からよく知っている。それで、いつも恐る恐るアクセス解析を見るのだが、驚いたことに今回は逆に続伸している。それで、調子に乗るわけでもないが、もう一回だけ運を試してみようという気になった。
これからする話は、我ながら出来すぎていると言うか、芝居がかっているというか・・・。わたしだって、人がこんなことを言ったら、「嘘だろう。そんなことってあり得ない!」と言って、信じたくない思いが先立ったかもしれないのだ。
だから、現実に起こったこととして信じられない人がいて、谷口の作り話だろうと言うなら、私は敢えてそれに抗弁はしない。しかし、「事実は小説よりも奇なり」なのだ。
振り返れば、この1週間の修練のあいだ、一日として安楽な日はなかった。とは言え、雨でも降らない限り日中は何とかなった。ただ、夜を過ごすのはつらいことが多かった。しかし、それも明日無事に汽車に乗れたら、あとは誰かが何か食べさせてくれるかもしれない。有終の美を飾るために、今日もう一日元気を出そう、と自分を奮い立たせた。
夕闇が迫るころ、都心に帰るにはもう遠くまで来すぎていた。この教会を最後に、あとは橋の下の風の当たらない場所でも探そう。そう心に決めて、戸を叩いた(呼び鈴がなかったからだ)。薄暗がりのなかでも、手入れの行き届かない小さなさびれた貧しい教会であることは歴然としていた。
待つことしばし、疲れた顔をした初老の司祭が、物憂げに現れ「・・・・・」と、彼は無言だった。
だが、こちらはもう慣れたものだったから、お構いなしに、「主の平和が貴方とともにありますように!」「神父さん!神の国は近づきました。回心して福音を信じてください!」と一気にまくし立てた。
すると、その神父はガックリと膝を折って、我々の前に黙って跪き、目に涙を浮かべ、わなわな震える声で言った。
「ああ、やっと来てくれましたね。私は貴方たちが来るのを何年待ったことか!ありがとう。ありがとう、神様・・・。」後はもう言葉にならなかった。彼はさめざめと泣いていた。
この思いがけない展開に、私はただ呆気にとられた。
その夜、遅くまでかかった彼の告白を写実的に展開すれば、興味をそそるブログが3つも4つも書けただろう。だがそれはしない。
神父になって以来、彼の人生はずっとついていなかった。任された教会はもともと小さく貧しかった。説教が下手で人を惹きつけることに成功しなかった。世間の景気が良くなればなるほど、信者は教会を離れ、献金も減って、やり繰りがつかなくなった。神父の身分に強いられた独身生活の淋しさに耐えかねて、愛人をつくり、密かに肉欲に溺れる自分を恥じながら、やめられなかった。酒で良心を麻痺させようとしてアル中になり、わずかなお手当も殆んど酒代に消えるようになった。しらふの時には努めて善人を装ってみても、仮面の下の醜い素顔が魂を苛んだ。神などとっくに信じられなくなっていた。引き裂かれた魂のまま生きているのが辛く、死んだら楽になれると思ったが、いつも未遂に終わった。
そして、信じてもいない神に向かって叫んだ。「神様、もしあなたがいるのなら、人を送って私に回心を勧めさせてください。その印を見たら、もう一度人生をやり直せるかもしれませんから・・・。」
そして、何年も待ったが、誰も来なかった。私は完全に見捨てられたと思って人生を諦めていた。
だが、私は今、神様を再び信じる。彼は私を見捨てなかった。その憐れみと赦しと愛の印を見たからだ。
あなたたちがその印だ!
全てを語り終えて、彼の顔に微笑みが浮かんだ。私たちは抱き合った。私たちも泣いた。甘美な涙だった。彼の家にあったものを一緒に分け合って食べ、飲んだ。それはどんな豪華な食卓よりも素晴らしかった。
彼はもう大丈夫だ。きっと立ち直って再び生きはじめるだろう。
聖書という書物は実に不思議な書物だ。世の中には古典と呼ばれるものが無数にある。しかし、この一冊は全くの例外だ。他をすべて引き離して、ダントツ1位の超ベストセラーだから、だけではない。
それは、聖書に書かれた言葉に-聖書に書かれた言葉だけに-生命が宿っているからだ。聖書に書かれた言葉が死んだ言葉ではなく生きている言葉だというのはどういうことか。それは、その言葉に命があり、その命が活動し、その言葉が生き物として動き、働き、作用して結果を生まずにはおかない、ということだ。聖書のある場面と同等の状況で同じ言葉が告げられると、時間と場所を超えて同じことが起こり、同じ結果を生む、そういう不思議な言葉だと言ってもいい。
人間が(年齢も人種も異なっていても)、同じ状況で(たとえば見知らぬ土地で二人が連れ立って一銭も持たずに)、聖書に書いてある言葉と同じ言葉(たとえば、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」)を吐くと、2000年前にガリレア地方でイエスの弟子たちの身に起こったことと全く同じことが、現代のベルリンの秋の空の下で、私たちにも起こる、ということだ。私にとっては、自分の身に起こったことであり、見て触れたことだから、当然信じて生涯忘れないが、たった6編の私のブログを読んだ読者の皆様も、「ふーん、そうなんだ。そんなこと実際にありなんだ!」という気分になって納得されるのではないだろうか。生きている神の言葉だから、命あるものに固有の働きをして、その作用に見合った反作用を引き出す、と言ってもいいだろうか。
聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)という言葉がある。
今回の正味1週間の修練は、一人の主人(神様)だけに100%仕えたらどうなるかの人体実験だった。実験室の中でもう一人の主人(マンモンの神=お金)を完全に排除した時空を人工的に作りだし、その中で人間はどうなるか、神様はどう働くかを検証した、と言ってもいい。
ローマから1200キロ離れた人口300万人のドイツ最大の都市で、一銭も持たず、頼るべき知人もなく、ただ聖書の言葉を告げるだけで1週間過ごすとどうなるか。まるで広大な砂漠のど真ん中に放り出されたような状態に身を置くと、ふだんはどこに居るのか、居るのか居ないのか、雲をつかむような不確かな存在だった神様が、目にこそ見えないが、ピッタリ寄り添って、まるで召使のように衣食住必要なものすべての面倒を見て下さった、という実体験は、一度それを経験すると生涯決して忘れられるものではない。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6章25-31節)
という言葉は、命のある生きた「神の言葉」だった。言われた通り「回心して福音を信じなさい!」と言ったら、目の前であの神父が回心した。まさに奇跡が起きた。こんなわかりやすい事実はかつて経験したことがなかった。
(おわり)