:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

2021-12-24 00:00:01 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 私の母は熱心なプロテスタントの信者でした。

 彼女は空襲が激しくなった灯火管制下でも、12月には1辺40センチほどの大きな桐の箱から色とりどりのガラスの玉や、小さなサンタクロースの人形や、天使たちや、煙突のある小さなお家や、ローソクや星の飾りと、キラキラ輝く長いモールや、雪を表す白い綿を取り出し、父がどこからか切ってきた子供の背丈よりも高い松の木に、母と私と姉はワクワクしながらクリスマスツリーの飾りつけをしたものです。そして、クリスマスの讃美歌を歌って聖夜が来るのを待つのでした。これは厳しい戦局の中では,非国民の誹りに値する英雄的な行為だったろうと今思います。

 クリスマスの祝い日、12月25日の朝目覚めると、枕元にはサンタクロースからのプレゼントが置かれていました。

 国際金融マンをやめて、50才になってローマで神学生になり、以来、延べ20年近くもイタリアに住んで、イタリア人のクリスマスの習慣もよく観察しました。そして、4歳、5歳ぐらいまでの子供たちが、バッボ・ナターレ(Babbo Natale)、つまりサンタクロースに一生けんめいお祈りして今年プレゼントとして欲しいものをお願いすると、クリスマスの朝目覚めたときにそれが枕元に届いているのでした。子供たちは3歳か4歳ぐらいまでは、サンタクロースが願いの祈りを聞き入れて持ってきてくれたと本気で信じているようでした。

 しかし、4歳か5歳ぐらいになると、実はお父さんやお母さんが自分のサンタの叔父さんにしている祈りを聞いていて、家計をやりくりしてプレゼントを用意して、寝ている間においてくれたらしいことに、うすうす気づいているようでした。しかし、気付いてもすぐにはプレゼントを買ってくれたのはサンタさんではなく、本当はお父さんでしょう?とは訊ねません。そのからくりを見破ったことを告白してしまったら、もう来年はプレゼントが枕元にないかもしれないと思うからでしょう。

 さて、カトリックの教会には数多くの聖人たちがいます。聖人に執り成しの祈りをすると、聖人はそれを聞き入れて、願い事を叶えてくれるという信心が今も教会の中に広く行き渡っています。

 聖アントニオ様は失せもの専門の聖人で、何かを失くして出てこないときにはアントニオ様にお祈りをすると見つかる、とか、この病気はこの聖人に、あの病気はあの聖人にお祈りすると、治していただける、とかです。

 ところで、生前から聖人の噂の高かった人が亡くなると、その人を教会によって聖人として認めてもらおうという、いわゆる列聖運動が起こります。日本でも、長崎で殉教した26聖人も、そのような列聖運動の賜物でした。

 中世ヨーロッパ、例えばイタリアでは、教会が聖人と認定した模範的信者の墓に巡礼をして懺悔や一定の祈りをした者には、"いわゆる“「免罪符」、厳密には罪の償いの義務を免除する「全贖宥」を与えるとローマ教皇庁が宣言することが頻繁に行われました。たとえば、日本でも有名なアシジの聖フランシスコが死ぬと、アシジの町と隣のより勢力のある町ペルージアが、その遺骸争奪の暗闘を繰り広げた、などという騒ぎです。それもそのはず、聖者の墓に詣でてローマから「全贖宥」をいただこうと善男善女が巡礼に押し寄せると、その町は経済的に大いに潤うことになるからです。教会も儲かる、町も繁栄する。ここにお金の神様、マンモンの論理が見え隠れします。

 さて、教会が聖人と認定するためには、その人の取次によって2つ以上の奇跡が起こったことが教会によって確認されなければなりません。だから、列聖運動の推進団体は、取次を求める祈りのチラシを配って、亡くなった聖人候補者にお祈りをして、奇跡を求めるよう人々に勧めます。

 しかし、聖人候補の死者は自分が聖人として認められるために奇跡を行うでしょうか。奇跡が自然法則に例外をもうけることだとすれば、それが出来るのは自然法則の立法者の神様だけではないでしょうか。死者である聖人候補が、神に代わって自らの意思で自然法則に手を加えることが許されるかどうか、ちょっと考えればすぐわかりそうなものです。奇跡は神様の専権事項で人間の立ち入るべき領域ではありません。

 この一連のちぐはぐな考察から、私は大きな疑問を抱き、叫びました。

 チョーっと待った!キリスト教は旧約聖書の時代から、人は死んだら一巻の終わりではなく、体が滅んで土に帰ろうとも、火葬されて灰と水蒸気になって消えようとも、死んだ人の魂は深い眠りに落ちて、世の終わりの日には再び肉体を取り戻して復活し、長い眠りから目覚めてまた生きはじめる、と教えられています。これは信仰箇条、ドグマです。信者はそれを毎日曜日のミサで信仰宣言として高らかに唱えます。この教義を信じない人は正統なキリスト教信者とは認められません。

 ところで、私は若い頃ドイツで一回、そして中年を過ぎて日本で二回、全身麻酔を経験しています。麻酔が効いてきて、ドクターと看護婦さんの会話がふっと聞こえなくなってから、「○○さん、目覚めましたか?」というナースの声を聞くまで、私にとって、それは一瞬の出来事でした。私が麻酔にかかって意識を失っている間に、1時間経過したのか、2時間だったのか、複雑なオペで5時間もかかったのか知りませんが、その間、わたしは完全に深い眠りに入り、時間の経過も、私の身に、また回りで何が起こっていたかも、一切知ることはありませんでした。

 人が死んで、体が土に返り、あるいは煙と灰になって、五感も、五感が備わった肉体そのものも壊れて失われた後は、人は全身麻酔よりもはるかに深い眠りに入って、時間の流れも、周囲の出来事も、文明の進化も世界の歴史も、何も感じることがないはずではないでしょうか。

 人間の魂、霊魂は、物質的な存在ではなく、いわば霊的な現実ですから、時空の世界のどこにも、位置や場所を占めず、この世の私たちにとっては全くつかみどころのない、どこにもいないのと同じような存在になります。確かに懐かしい母の想い出は今も私の心の中に生きているし、墓石にはその名が刻まれています。しかし、経験的には彼女の肉体の消滅と共にまるで宇宙から消えてしまったかのごとくです。

 5歳、6歳以上の子供たちにとって、サンタクロースはすでに消えてなくなって、存在しないように、天国で罪人のために執り成しでいそがしい姿の聖人たちの魂も、実は深い眠りの中で、この世とかかわりのない世界に消えてしまっているはずです。私たちが麻酔から覚める時に感じたように、聖人たちも目覚め、意識を取り戻し、人や世界とのかかわりを取り戻すのは、「終わりの日」、つまり、終末の復活の日に肉体を取り戻した時ではないでしょうか。

 死んで、肉体が滅んで、そのあとに残された人間の「霊魂」は、思考も、知覚も、外界の認識も、意思の疎通も、完全に停止するのですから、深い、深い眠りの闇に生きる者として以外に存在の可能性はあり得ません。

 それとも、聖人たちだけは、世の終わりの復活を待たずに、死んですぐまた肉体を取り戻し、聖人たちのためだけに特権的にしつらえられた別の宇宙空間に意識を持って生きているのでしょうか。そして、聖人たちが生前に生き、私たちが今生きているこの宇宙と、聖人たちのためだけに用意されたもう一つの宇宙の間に、聖人だけに特権的に与えられた通信手段で交流する可能性があるとでもいうのでしょうか。

 「それはあり得ない」、と私は大声で断言します。すると、私のまわりの信者たちや神父たちは動揺して、騒然となって、まるで異端者を見るような目で私を見ます。

 彼らは激しく反論するでしょう。では、教会が聖人たちの祝日を定め、諸聖人の通功を信じさせ、とりなしの祈願をするよう盛んに勧めてきたのに、それは一体どうなるのか?もし、聖人たちがほかの凡人たちと同様に、復活の日まで完全な眠りに就いて、この世で執り成しを願う信心深い罪人たちの祈りに気付くことも聞きとることも出来ないとしたら、彼らはどうやって我々と神様との間を取り持ち、仲介することが出来るのか。教会は長年にわたって信者を騙し、ペテンにかけてきたのか、と怒りを爆発させる人がいるかもしれません。

 教会が数年に一握りの人数の死者を聖人として認定し、荘厳に列聖し、人々に彼らを尊崇しその模範に倣って清い生活を送り、毅然として信仰を証しせよ、と言ってハッパをかけたからと言ってどこが悪い?教会は何も間違ったことをしていない、と、わたしは逆に開き直りたい。

 また、教会が勝手に聖人と認定して定めた祝日を祝い、盛んに取次の願いをし、それが叶った、まだ叶わない、何故?などと言って、人々が一喜一憂している間も、その聖人たちの霊魂は深い眠りの中にあり、彼らを廻るこの世の騒ぎをよそに、安らかに復活の日を待っている、としても何の不都合がある?と、反論したい。

 善良なクリスチャンの両親が、3歳、4歳の子供たちに、実在しないサンタクロースの話をし、子供たちはそれを信じて、いい子でいるように努め、サンタのおじさんに向かって可愛いお祈りをして欲しいプレゼントを願い、両親はその品をそっと用意して枕元に置き、クリスマスの朝、「よかったね、いい子にしていたからサンタのおじさんが届けてくれたのよ」、とほほ笑んで、子供がそのとおり信じても、どこに問題がある?

 親がサンタクロースの実在をハナから信じていなくても、それはそれ、別にかまわないではないですか。

 5歳、6歳の曖昧な時期を過ぎたころ、学校の少し大人びた同級生から、「お前、まだサンタクロースなんか信じているのか?バーカ!」と言われて、ハット気がついたら、それは子供の成長として喜ばしいことではないですか。

 しかし、もし死んで聖人に挙げられた人の霊魂が深い眠りに落ちているのなら、どうやって私たちの願いに気付き、聞き取ることが出来たのか、また、私たちの祈りと願いをどうやって神様にとりなすことができたのか、希にだが、願ったことが叶えられたのはどうしてか?やっぱり聖人たちは眠ってなんかいない!そう言う人がいるかもしれない。

 しかし、その人は忘れています。子供の両親は、サンタさんに教えられなくても、またサンタさんの宅配に頼らなくても、自分たちで子供の欲しがる贈り物を買ってきて枕元に置くことが出来るのです。神様も同じことをなさっているに過ぎません。

 神様は私たち一人ひとりをこよなく愛しておられることを忘れてはいけない。また、神様は、死んだ聖人が眠っていて、あなたの願いを聞き、それを神様に取り次ぐことができなくても、神様ご自身がそれをちゃんと聞き取り、直接にかなえて下さることを。

 神様はあなたの願いを知るために聖人からの報告を待つ必要がない、あなたの願いをかなえるために聖人の力を借りる必要もない方ではなかったでしょうか。

 教会から晴れがましく聖人の位に挙げられた少数の聖人たちも、人知れずこの世を去った無数のより偉大な聖人たちも、無限大の数の平凡な死者たちと同列に、クリスマスの夜も静かに深く眠らせておいてあげようではありませんか。

 世界のキリスト者が、3歳児、4歳児レベルの幼稚な信仰を脱ぎ捨て、今年のクリスマスこそ、大人の背丈に合った理性的でより強固な信仰に目覚めることを願って、クリスマスプレゼントとしてこのブログを書きました。

 蛇足ながら、この点に関しては、プロテスタントの兄弟達はカトリックの大衆よりいささか大人だといえるかもしれません(笑)。(注)

 今日24日はクリスマスイヴ。わたしは、オミクロン騒ぎにも拘わらず、降誕祭の前晩のミサを共同体と一緒に荘厳に祝います。

(注) 私はカトリックの信仰箇条(クレド)の中に「聖徒の交わり」という一句があるのを知らないわけではない。「カトリック教会のカテキズム」という本の中には「この箇条(『聖徒の交わり』)は、いわば前節(第4節、『キリスト信者』——聖職位階、信徒、奉献生活)の説明です。」とあり、それは専らこの世の教会の様々な立場のキリスト者の交わりについてであった。だが、付帯的には死者のこと、聖人たちのことにもわずかに触れている。しかし、それらはわたしを納得させるものではなかった。

 また、三つの教会ー①地上を旅する教会 ②すでにこの世を去って清めを受けている教会 ③栄光を受けている教会ーは、全く違う条件の人間、①この世に今現在体をもって生きる私たち ②死んで体を失って眠っている人間たち ③世の終わりに目覚めて復活して新しい天と地に体をもって蘇る人間、という質的にも時系列的にも全く存在条件の違う様態の人間を、同一条件で並列した3つのグループに共生しているかのように捉える実態にそぐわない観念的な仕分けは、私には説得力がない。

 私の学生時代には、日本にも「煉獄援助姉妹会」という女子修道会があって、神戸の六甲でも修道院を開いて社会福祉活動をしていた。しかし、第二バチカン公会議後は会の名前から「煉獄」の2文字が消え、単に「援助修道会」と改めた。なぜ? また、私が神学を学んだローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学は、カトリックの最高学府の名を博しているが、わたしは、この種の問題に正面から積極的に取り組んだ科目(講義)について何も、一度も聞いたことがない。

 何れにしても、第2バチカン公会議以後の教会では、死者の魂のあり様の従来の捉え方は全否定はされてはいないものの、意図的にそっと脇に置かれ、なるべく触れないよう、議論されないようにしている感がある。そして、死者の魂が、また、教会によって選ばれ聖人に認定された魂が、それぞれ死後どのような状態にあるのかについては、曖昧なまま何も積極的に語られていない。

 その一方で、死者は復活して肉体を回復する日まで「眠りに就く」という固い事実は、新・旧約聖書に度々書かれていて、誤りのない確かな真実として教会は最初から堅持してきた

 

★ 右下に目立たない小さな字で コメント(3) という文字があります。「新米信者」さんから、私の上のブログの書き足りない点を鋭く指摘したコメントが入り、それに、私が必要な補足と弁明をしています。是非合わせてお読みください。→ ーーー下の コメント(3) をクリック! →

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ちょっとした小話 森元総理の失言

2021-02-19 00:00:01 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~

ちょっとした小話 

森元総理の大失言

~~~~~~~~~~

森先生

 普段ツイートしない私が、ツイッターに写真も何もつけずに以下のようなツイートをしましたが、反響はほぼゼロ。拍子抜けしました。説明不足だったのでしょうか?

 

Mori said: Who are you?

Clinton answered: I'm Hillary's husband.

Mori said: Me too!   

Clinton remained silent. ????

(Mori should have to say: "How are you?" Expecting an answer: "I'm fine, and you?")

 

クリントン大統領

 

 たまたま今日の午後、ヨーロッパの名門銀行の元東京代表だった友だちの女性(森さん、こんな女性もいますよ)から電話がありました。フェイスブックにAPUの学長さんが入院していると出ていたから電話してみてくれないか、という依頼でした。(私たちは、昔、渋谷の小さなサロンの常連でした。)

 その電話のついでに、軽い冗談のつもりで上の話をしたら、彼女、一応 (⌒▽⌒) アハハ!とお義理で笑ってくれましたが、「それって有名な話よね!」と言われて、またがっくり。なんだ、特ダネかと思ったら知らなかったのは僕だけ?人口に膾炙した古い話だったのか。さては、そのころ私は日本に居なかったか?

 

ヒラリー夫人 

「私もこの女性の夫です」と本物の夫の目の前で堂々と見栄を切った総理大臣がいる

 

 実は、今日、覚悟を決めてかかりつけの歯医者さんのところに行きました。ちょっとした大工事になりそうな気配に緊張していたら、麻酔を打つ前にリラックスさせようとしてか、先生がこの笑い話をしてくれて、痛く感動したのでした。先生に勧められて、喜び勇んでツイッターに書いたのに、古いネタを蒸し返してまた赤恥をかいたかと、さらに落ち込みました・・・

 しかし、私の世代のお爺さん、御婆さんには、まだ初耳の人もおられるかもしれないと気を取り直して、こうしてブログに解説する次第です。

 

事の真実を証言した日本語ペラペラのスリランカ人タレント、ウイッキーさん 

森総理の英語の家庭教師だったとか・・・

 

 私の敬愛する優秀な技術を持った若いデンタルドクターは、上のスキャンダルが流行ったころ、ご自身は出来すぎた話だと思って、事の真偽を疑っていたそうです。こんな話、ふだん私もそう軽くは信じません。まして、大勢が知っている古い話とわかっていたら、わざわざブログに書いたりしません。

 ところが、先生がスリランカから帰国の時、たまたま機内の隣の席に乗り合わせた人が、タレントのアントン・ウイッキーさん―森元首相の英語の家庭教師―だったので、この時とばかり「あの話はほんとうのことですか?」と聞いたところ、「あれは本当の話ですよ」と言われたので、先生は本当の話に違いないと確信した、と言うことでした。だから、私もまじめを絵に描いたような先生の話を信じます。この点に新し味を感じたもので・・・つい。

 

まだ話に霧がかかった感じの人のために、蛇足ながら、上の会話を翻訳すると、

森元総理は(クリントン大統領に向かって)「あなたは誰ですか?」(Who are you?) と聞いたとさ。

クリントン氏は、これは凄い冗談だと思って、「私はヒラリーの夫です」とウイットを効かせて答えた。すると、森氏は "Me too!" と言った!「私も (ヒラリーの夫です) !」と言う意味になる。

クリントン氏、絶句して、ユーモアで切り返す余裕を失って固まってしまったのだろう。無礼に対する怒りを超えた絶望がそこにあったに違いない。これが日本を代表する総理大臣の正味の姿か、と改めて日本に対する認識を新たにしたことだろう。

 これは悪い冗談を通り越して、クリントン氏に対する最大の侮辱でなくて何だろう。クリントン氏は森氏が何故、どういう意図を込めて、そんな酷いことを言ったのか全く理解できなかったにちがいない。

 しかし、日本人の我々は森氏がなぜそんな馬鹿馬鹿しい誤りを、何の意図もなく犯したかよくわかる。その無教養ぶりが露呈した瞬間だった。これは、今回の女性蔑視発言と同根だと言わざるを得ない。森氏の外交的な大失敗を通り越して、米国に対する侮辱、日本の赤恥、日本国民に対しても弁解の余地のない大失態だった。

 ウイッキーさんは、森氏は英語がからっきしダメだから、今どき幼稚園児でも知っているような最も簡単な英語だけを教えたのだろう。

 クリントン氏に会ったら、ただ、”How are you?”(ご機嫌いかがですか?) とだけ言いなさい。そうすれば、”Fine, thank you. And you?”お陰様で!あなたは?)と返って来るから”Me too!” 「私も!(元気です)」と答えればいい。もうそれ以外のことはしゃべっちゃダメ。すぐ襤褸が出るから・・・。

 これがウイッキーさんの森総理に対するアドバイスだったのだろう。

 それが、あろうことか、初っ端から "How are you?" "Who are you?" に化けてしまった。とっさに、頓智をきかせて、クリントンがユーモアたっぷりに「私はヒラリーの夫ですが」と切り返したのに、森氏の耳にその意味が入らない。 そして、鸚鵡返しに “Me too!” (私も彼女の夫です)とやってしまったものだから・・・!この時、失態の引責で総理を辞めていたら、今頃JOCの会長を辞めなくても済んでいたかもしれないのに・・・、と思うと、悔やまれてならない。恥の上塗りとはまさにこのことか。

***

どうです、この小話、笑えましたか?

それとも、顔が引きつりましたか?

***

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ はじめての中国の旅 -パンダの里を訪ねてー

2019-02-07 00:05:00 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

はじめての中国の旅

ーパンダの里を訪ねてー

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

パンダの赤ちゃんを抱っこしませんか? そう言われたらあなたならどう返事しますか?

私の好奇心は動いた。

思えば、ヨーロッパは東欧も含めて何度も何度も旅をしたので、大抵の国は知っている。アジアもインドを含めてかなり念入りに旅をした。しかし、中国と韓国は何故か縁遠く、今まで空港のトランジット以外では足を踏み入れたことがなかった。

昨年の晩秋、不思議なご縁である中国の紳士に誘われて、北京と成都を訪ねた。その方の奥様が私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)を読んで興味を持たれ、会いたいと言われたこともその要因の一つだったかと思う。(この本、自分で言うのもなんですが、けっこう面白いと評判で、今でもそこそこ出ていく隠れたミニ・ベストセラーらしいです。カトリックの書店の棚にはありませんが、まだ読まれていない方は書籍のネット通販で簡単に手に入りますから、是非ご一読ください。)

北京と言えば、PM2.5(大気中の微小粒子物質)のことを第一に思う。北京空港へ降下し始めると、地上の街並みは見えず、工場の煙がまず目に入った。

市内の交通警官も、一般市民も、ガッチリとマスクで自衛している人が少なくない。日本のスーパーやドラックストアーにある安価な白いマスクではない。口の脇の位置に小さな丸いフィルターのついた防毒マスクのような形のゴッツイ奴だ。

 

北京でまず私の目を引いたのは高層ビルだった。中でも高さ528メートルを誇るチャイナ・ズン(中国尊)は圧巻だ。放送塔としては世界一の東京のスカイツリーは、武蔵野に因んで634メートルだが、ただ針のように細長いだけ。人が入れる上層の展望台でも450メートル止まりだが、こちらは中層階よりも上層階の方が床面積が広い鼓型で、最上階まで人が利用している。地震国の日本では有り得ない設計だ。PM2.5で霞んではいるが、その存在感はスカイツリーの比ではない。

イメージとしてはこれだが、

実際はこのように見える。

天安門広場に向かう途中、治安部隊の車両を何台も見た。

呼称によって役割が違うのだろうか。

 

 

天安門広場には大勢の人がいたが、私たちは車を降りなかった。午後、「故宮」を観に行く予定だったが、彼の家で話し込んで遅くなり、最終入場時間に遅れてしまった。しかし、入り口まで行って分かったことは、故宮は大きすぎて、午後の1-2時間でどうなるものでもないということだった。朝からたっぷり1日かけて、さあ、どこまで見られるか、という規模に思えた。これを見るためだけに、また北京に出直して来たいものだと思った。

故宮とそれを囲む堀との間には柳の木の並木がある。どれも大きな樹で、銀座のひょろひょろの柳など柳の名に値しないと思った。

故宮のまわりを散策する。

どこまでも城壁が続き、その広さの見当さえつかない。

日本では久しい以前から全員隔離されて、すでに過去の病気になっているが、中国では、そして北京でも、癩病は現在進行形の伝染病であることが分かった。

東京四谷の迎賓館は、私が上智の学生だった1960年代は、まだ戦後の廃墟で、門は壊れ、庭は草ぼうぼう、建物の中まで自由に入れて、上智大の学生の恋人たちの講義をさぼってのデートには格好の場所だった。それが今は修復され、国賓のために整備され、昔のように自由に出入りは出来なくなった。しかし、北京の「釣魚臺迎賓館」では、その中をゆっくりと見せてもらうことができた。

ここは最近習近平国家主席と金正恩朝鮮労働党委員長の中朝首脳会談が開かれた舞台だ。

晩餐会のテーブル。 

 

秋の日は早く暮れる。

車窓から立派な教会が見えた。十字架の下の大きなエンブレムからカトリックの教会と分かったが、多分、中国共産主義政府と折り合いのいい所謂「愛国教会」のものではないか。バチカンのローマ教皇と一致している教会は、非合法の地下教会として今も厳しい状況のもとにある。フランシスコ教皇は関係改善に努力しているようだが、習近平さんもなかなかのしたたか者とお見受けする。

夜は立派な飯店で北京ダックをメインとしたご馳走を堪能した。

壁には伝統芸能「早替わり」のお面がいっぱい飾ってあった。

翌日は万里の長城だった。

入場チケット35元(約570円)

現存する人口壁の延長は6259.5キロメートル。日本列島の延長が約3500キロというから、2倍近くに及ぶ。

トランプ大統領もケチな了見を捨てるか、どうせやるならこれ以上のことをやってみたらどうだろう。

次の日、四川省の成都に飛んだ。3時間半ぐらいのフライトだったか?札幌―福岡以上の距離だ。

 

成都の郊外。車で2時間ほど走って、パンダの飼育研究センターについた。センターの中は電気自動車で移動する。

 

 何頭ものパンダがのんびりと生活している。私は生まれて初めてパンダを目のあたりにする。

では、なぜこんなに贅沢な旅をすることができたのか?面倒だから深く詮索するのはよしにした。私は何者でもないただの年寄りの神父に過ぎないのに、実に不思議なことがあるものだ・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 3日遅れのクリスマスメッセージ

2018-12-30 00:05:00 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~

三日遅れのクリスマスメッセージ

~~~~~~~~~~~~~~~~

カトリック教会の主の降誕(夜半)のミサを私たちは24日の夕方に祝った。

聖書の第一朗読は、旧約聖書のイザヤの予言からで次の言葉で始まる:

  闇のなかを歩む民は、大いなる光を見

  死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。

或る宣教家族の家では、イタリア語の先生をしている主人の生徒さんたちを中心に、30人近くの人が招かれて楽しいパーティーが開かれた。

パーティーはまず参加者の自己紹介から始まったのだが、皆さんかなり流暢なイタリア語で挨拶をされたのにまず驚かされた。

男性の多くは私と同じ70歳台の終わりから80歳を超えた人だったが、高度成長期の勝ち組で、成功し、安定した余生を謳歌しているように思われた。

イタリア語の先生は、この機会に参加者にクリスマスの意味について説明を試みた。リビングルームには幅1間奥行き半間ほどの降誕の場面の箱庭が飾られ、青い空には星がちりばめられていた。

室内の明かりを暗くして、上のイザヤ書の言葉どおり、私たちの心の闇を照らす光として救い主イエスが嬰児の姿でベトレヘムの馬屋の飼い葉桶の中に寝かされているところへ、羊飼いたちと東方の博士たちが礼拝に来たことなどが語られた。

それを聞いたひとりの紳士が神父である私に近づいて、「先生からこの闇に輝く光の話を聞くのはこれで2度目だが、闇の意味がもう一つピンと来ないんですよね」と率直に言われた。

私は、その人の上品な物腰を見て、堪能な英語の他に趣味でイタリア語を習っている教養のあるお金持ちという印象を受けた。

私の世代の成功者で何不自由なく快適に老後を謳歌している人に、人生の闇がピンと来ないのは当然と言えば当然だ。例えその人の心の奥に深い闇が潜んでいても、本人に気付く感性が欠けていたとしても不思議はない。

屋敷にはセコムのシステムをめぐらし、駐車場にはベンツがあるような、無意識のうちに生活の誇りという目に見えないゼリー状の被膜でしっかりと身を護っている人達は、「貧しい人に良い便りが告げられた」というような福音の言葉とは縁遠い存在なのだろうか。だから、サロン的なレッスンやパーティーには喜んで参加するが、キリスト教の信仰の話になると、はじめはお付き合いで聞いてくれても、自分が心の中に闇を抱えたメクラであることに気づかされたり、罪人であることを思い知らせる福音を聞くと、ひとり、またひとりとノーサンキューの反応を示して離れていくのは自然の成り行きだ。

私は昨夜も、福島県の浜通りのある町に、同じよい便りを伝えに行ってきた。しばらく前からほとんど毎週のように通い続けている。初めは若い姉妹と小学生の子供二人、それに身寄りのない若い女性の5人が聞いてくれた。そこへ、妹さんのご主人が加わるようになり、今回はもう一人男性があらたに加わった。彼らは福音の言葉を乾いたスポンジが水を吸い込むように受け入れていく。

上のグループとの違いは何だろう。

彼らは日本の国が遺棄した放射能の被曝地で、貧しく困難な生活を生きている。先の見えない闇の中に喘いでおり、希望の光のメッセージに飢えているのだ。そこには、神様の救いのことばを跳ね返す生活の驕りの皮下脂肪などまとっていない剥き出しの心の貧しさがある。

国を挙げて2020年のオリンピックで浮かれている陰で、福島第一原発の世界最悪の核暴走事故の被災地は切り捨てられ忘れられている。そこに住む人々こそ、福音(ケリグマ)を受け取る心の準備の出来た貧しい人たちなのだ。

 

粉雪がちらほら舞う常磐道を行くと、道端に点々と放射線量をリアルタイムで知らせる表示盤が設置されている。初めは0.1マイクローベルト/時だが、原子力発電所の廃墟のある双葉・大熊あたりを通るとき、その数値は数十倍の2~3マイクロシーベルトを指している。帰路は、高速道路の一部が夜間工事で通行止めになると、国道6号線を迂回して、福島第一原発の至近距離を通過することになる。道の両側は無人地帯で明かりが全く灯っていないのが不気味だ。どの十字路も左折も右折もできないように鉄柵で封鎖されている。鉄板とガラスで室内が護られている車が走り抜けることは許されるが、汚染された外気に身を晒すバイクの通行は許されていない。何とも殺風景な地帯だ。

強制疎開させられ、慣れない土地で政府の支給する補助金を頼りに細々と生活していた老人たちは、突然立ち入り禁止が解除され補助金が打ち切られると、避難生活が維持できなくなり、持ち家のある汚染地帯に帰らざるを得ない状況に追い込まれる。しかし、遠目に懐かしい立派な我が家の中は、ネズミや、ハクビシンや、イノシシなどに見る影もなく荒らされて、とても住める状態にはなかった。すると政府は家を取り壊してサラ地にする費用は補助するが、住む家は自前で建てろと突き放す。借金する能力もない老人たちには仮設住宅にも劣るバラックを建てるのがせいぜいではないか。病院もマーケットも郵便局もないところでどうやって生きていけというのだろうか。人気のない道は、娘であろうが年増であろうが、女とみればお構いなしに除染・廃炉作業員の飢えた荒くれ男たちのレイプの対象にされるので、暗くなったら怖くて外は歩けない。そんな荒廃した土地に子の世代も孫の世代も帰って来る筈がない。人口稠密な日本の国土にポッカリと無人の砂漠が出現するのに2世代の時間を要しないだろう。どうせ人が住まないのなら、全国50数か所の原発の放射性廃棄物を集めて、その捨て場にすればいいという乱暴な話すら出る。

 

往路5時間、帰路4時間半で深夜12時を過ぎて東京に帰り着く。往きはしんどい思いで頑張って行っても、帰りは受け入れられ福音が伝わった大きな喜びを貰って家路につく。疲れは吹き飛ぶ。

*****

クリスマスイヴにある友達に書いた:

神が人となって我らの間にお生まれになった。

ベトレヘムの飼い葉桶の中に見えない神が降られた、と、信仰は言う。そこに居るのは見えない神。人間の目に見えない神を可視化する魔法のスプレイをかけたら、嬰児の姿が現れた。わたしの信仰はその嬰児のなかに引き続き見えない神を礼拝する。

ガリレア湖の北西岸の丘の上で見えない神が山上の垂訓を説いている。魔法のスプレイをかけたら、魅力的な若いイエスの姿が見えた。その姿の中に見えない神を礼拝する。

ゴルゴタの丘の上の十字架に見えない神が磔けられている。魔法のスプレイをかけたら、むごたらしい血だらけの苦しみ喘ぐイエスが現れた。その姿の中に見えない神を見る。

クリスマスイヴに福島県の浜通りの暗い道で、女が原発廃炉作業員にレイプさらた。魂が壊れて放心する女に魔法のスプレイを消すスプレイ」をかけたら、そこに見えない神が居た。

さあ、二本のスプレイ缶をズボンのポケットに押し込んで、場末に、精神病院に、養老院に、孤児院に、繁華街に見えない神を探しに行こう。

父と子と聖霊の三位一体の神を礼拝する、賛美する、感謝する、愛する。復活したイエスは、貧しいうち捨てられた人々に身をやつして至る所に隠れて居る。

神は三位一体の神とキリスト教はいう。しかし、父も聖霊も見えない神。見えるのは御子だけ。

御子を見るものは、御父も聖霊も見ている。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 姉の葬儀ミサの説教(下)

2018-08-30 01:27:17 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~

姉の葬儀ミサの説教(下)

~~~~~~~~~~~~~

姉の葬儀ミサの説教は、大体以下のような言葉で結んだように記憶する。

私はイエスのたとえ話の放蕩息子を地で行くような人生を歩んだが、私の姉は、そのたとえ話の兄のように、まじめに忠実に父の家で働いて過ごしたと言える。

聖書に描かれたたとえ話では、兄は父の弟への深い愛に全く気付かず、父をも、弟をも愛していなかった。彼はただ義務の観念と恐れや打算のために、喜びも誇りもなくひたすら召使のように父の命令に従って働いていた。

ところが、姉の場合は、自分が父に愛されていること、そして父が弟をも深く愛していることを知っていたし、父の家で働くことは-つらいこともあっただろうけど-召使のようにではなく、自由な子のプライドをもって働いていたに違いないと私は信じている。 

その証拠に、姉は弟のわたしが、放蕩息子の兄のような生き方をしている多くの人たちからの反発を買い、誹謗、中傷に囲まれて生きてきたのを目の当たりにしても、雑音に耳を貸さず、世間の波風に対して私を弁護し、守ってくれた。

私が身を投じた「新求道共同期間の道」に対しても、旺盛な好奇心と共感を示し、私を信じ、見守り励ましてくれた。そして、私がその建設に深く関わり、その後逆風の中で閉鎖され、追放されてローマに行って辛酸をなめた四国の小さな神学校が、ちょうど青虫が蛹(さなぎ)になり、蛹が脱皮して美しい蝶になるように、高松の小さな「教区立」神学院が「教皇預かり」の神学院になり、さらにはアジアのための「教皇庁立」レデンプトーリス・マーテル神学院として東京に上陸する展望が見えた時、姉はそれを我が事のように喜んでくれた。まだ人々が「またオオカミ少年が、あり得ないホラを吹いている」と冷笑していたころの話だ。

彼女の弟への愛は、時々見当はずれで滑稽な形をとることもあった。清貧のシスターが自由にできる僅かなお金をはたいて「幸紀ちゃん!バザーでいいズボンを見つけたからはいて頂戴」という。ところがそのズボン、ウエストが10センチも足りないから前のジッパーはYの字に開いたままで締まらない。すると、「あら、あなたもうちょっとお痩せなさい!」でおしまい。どこか生活感覚からずれた可愛いところがあった。

あるときなど、「幸紀ちゃん、あなたは私の知っている神父さんたちの中で、一番格好いいわよ!」とポロリと言ってのけた。唐突な物言いに、「この僕が?姉さん、あなたの目は節穴か?」と返したいところだったが、今ごろ天国で「あら、私そんなこと言ったかしら?」ととぼけているに違いない。それが私の姉だった。

姉のお通夜は、聖母病院の地下の霊安室で、シスターたちが三々五々集まって開かれ、部外者は私一人だけだった。姉についての思い出話やエピソードに耳を傾けたが、姉が弟のわたしのことを気遣ってよく話題にしていたという複数の証言を聞くにつけても、放蕩息子の姉である彼女が、父の設けた宴席に無事入ったと言う確信を一層深くした。

姉は放蕩息子に対する父親の愛に気付いていた。彼女も家を出て行った弟のことを気遣い、父親同様にその帰還を待ちわびていた。だから、仕事から帰ったとき家の中から予期せぬざわめきが聞こえ、それが行方不明だった弟の帰還の祝宴だと知らされると、野良仕事の道具を放り投げて、宴席に飛んでいって弟を抱きしめただろうと想像できる。

父親も、右側の上席に姉を座らせ、帰ってきたダメ息子は自分の左に座らせて、ぶどう酒と歌と踊りで宴は夜更けまで続いたに違いない。

これが天国に凱旋した姉に当てはまるたとえ話のシナリオではないか。そして、このバージョンこそ、姉への花向けに相応しいと思った。

 

このあたりまでが私のお説教の内容である。だが、時間が気になって、話の後半をかなり端折ったので、うまくこの落ちが参列者の心に届いたか、一抹の不安を感じている。

そして、さらにもっと大きな問題が残る。

もし姉のようなケースがどこにでもありそうな平凡な話だとすれれば、イエスは何のためにあのようなたとえ話を聖書の中に残したのだろう。

この疑問に対して、イエスは「答えは聖書の中に十分に記した。よく読んで学びなさい」と言うかもしれない。だが、ここで私は長々と聖書の講釈をするつもりはない。ただ、聖書から読み取れることは、私のような放蕩息子や、姉のように真面目で善良でちょっと抜けたところのある子どもたちが、何とか救いの網に引っかかって天国にたどり着くのはいいとして、問題は、世の中にはレンブラントの絵の中の兄のように、確信犯として地獄の亡びを選び取る真面目で立派な大人たちが世の中には思いのほか大勢いるらしいと言う現実ではないだろうか。

聖書を読むと、父に愛された神の独り子イエス-非の打ちどころがなく、付け入る隙の無い、正しく聖なる人-を目の前にして、苛立ちを感じ、執拗につけ狙い、イエスを亡き者にするまで、しかも、十字架上の屈辱に満ちた死に追いつめるまでは決して心の安らぎを得られない確信犯たちのことが記されている。そして、同じ部類の人間がいつの時代にも少なからずいる、という動かしがたい現実が見えてくる。

また、聖書に描かれた放蕩息子が特異な筋金入りの悪(わる)だということも忘れてはならない。そもそも、遺産とは父親が死んだ後で分けられるものと決まっている。それなのに「お父さん、あなたからもらう筈の遺産を今すぐ分けて下さい」と言うのは、「お父さん、今すぐ死んでください」というにも等しい「父殺し」の大悪党のせりふだ。息子が息子なら、その要求にやすやすと応じた父親も父親だ。

聖書はこの現実にはあり得ないような二人の配役を軸にたとえ話を構成し、私たちに重大なメッセージを伝えようとしているのではないだろうか。

レンブラントの「放蕩息子の帰還」の絵の中で、私の目をクギ付けにしたのは兄の姿だ。

 

左下に息子を抱く父親を描き、暗い影の部分を挟んで、右側にまっすぐに立つストイックな長身の兄を配している。端正な身なりの兄は、厳しく冷ややかな面持ちで高いところから二人を見下ろしている。その目は「お父さん、このとおり私は召使や奴隷のように何年もお父さんにお仕えしてきました。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、小山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。あなたは不公平だ。納得がいきません。そんな宴席はまっぴらです。絶対に入りません。」と語っている。

私はかつてあるサロンで、上流社会の奥様方にこのたとえ話を解説したことがある。その時、「あら。わたし、お兄さんの気持ちがよくわかるは!」と何の屈託もなく漏らしたご婦人たちの本音に、ショックを受けたことを思い出す。貞淑で従順で、優雅な奥方の座にありながら、適当に遊び、浮気している夫に対して「赦せない!」と唇を噛み、さりとて別れもせずに耐えてきた女性たちの正直な本音を聞く思いがした。

聖書には、ナザレのイエスと厳しく対立し、イエスからは「蝮(まむし)の末よ!」と一喝されて公衆の面前でプライドの鼻をへし折られたファリサイ人、律法学者、大祭司たち-ひと口で言えば「偽善者」たち-が登場する。彼らは、正しく威厳に満ちてつけ入る隙のない聖者を見ると苛立ち、彼を十字架の上で血祭りに上げて殺すまでは、ひと時も心が休まらなかった。そして、その種の人間が今の世の中にも大勢いるのではないかと思われる。しかも、往々にしてそういう人たちが高い地位に着き、世間の尊敬を集め、自らも正しい人間だと信じ込んで社会を牛耳っている。宗教家一般、従ってカトリックの聖職者や修道女にもそういう人がいないとは限らない。(私自身、厳に自戒しなければならないのだが・・・。)

「放蕩息子の例え話」は、そういう人たちに向かって、「気を付けなさい、あなた達偽善者こそ、天国に入らない道を自ら進んで選び取る危険な可能性を帯びている。」と厳しく警告しているのではないだろうか。

私はこのブログの中で愛する姉をいささか美化して描いたことを告白する。お許しいただきたい。現実の姉も私もただの凡俗な人間であることは先刻承知の上だ。一皮むけば恥ずかしい陰の部分がいっぱいあるただの罪人に決まっている。神様の正義と憐れみがどちらも完全で均衡がとれていたならば、私たちに天国に入る救いのチャンスは絶対にない。

しかし、放蕩息子のたとえ話は、神様の本性、すなわち、溢れる憐みと自分の子に対する盲目の愛が神様の正義を凌駕していることを示している。神様の特性のこのアンバランスにこそ、私たちは救いを期待することができる。

しかし、そういう神を高いところから批判し、バランスの取れた自分の正義をその上に置く人間は、自ら選んで神の愛と憐れみも届かない暗い淵=「地獄」=に、雪が降るように落ちていく・・・。キリストの十字架の贖いも、神が差し伸べる救いの手も、その魂たちには届かないと言うことだろうか。放蕩息子のたとえ話の裏には、この神秘な怖さが潜んでいる。

後に、故人の尊厳とプライバシーに関するデリケートな問題で、書くべきか書くべきでないかギリギリまで迷った話が残っている。

姉の最後の日、私は徹夜で彼女を見守った。個室の枕辺には、名を知らない若いシスターと私と二人しかいなかった。深夜の2時か3時ごろ、姉は私に握られていないもう一方の手の指を一本立てて何か言った。わたしには聞き取れなかった。シスターが気を利かして、弟さんと二人きりになりたいのですか?と訊ねると、彼女は首を横に振り、二人とも出て行って、自分を一人にしてほしいと言った。私たちはベッドを囲むカーテンの外に、そして、ドアを開けて外の廊下に出た。

やがてのことに、病室から叫びとも喘ぎとも取れる声が漏れてきた。不測の事態を思ってドアをそっと開けて中に忍び込んだが、厳粛なものに打たれたように足がすくんでカーテンの中までは入れなかった。5分続いたか、15分も続いたかはっきり覚えないが、ほぼ収まってから枕辺に戻り、また手を取った。それからあとは、私たちの声掛けは届いているようだったが、彼女自身はもう意味のある言葉を発しなかったように思う。空が白むころ、モニターのグラフは心拍数も、血圧も、呼吸も、酸素も明らかに死期が迫っていることを示しはじめた。浅くなった呼吸が止まり、続いて私の手に伝わる心拍が止まったのは朝の7時37分だったが、駆け付けたドクターは「40分に死亡」と宣告した。実に静かな最期だった。

そして、私の耳には姉の深夜の孤独な叫び声がずっと鳴り響いていた。そこには絶望の響きがあった。葬儀ミサの最中もそれをどう理解すべきか思い悩んでいたが、説教ではそれに触れなかった。

あとで悩みながら聖書を開いた。そこには、イエスの死の場面が描かれていた。

《さて、昼の12時には、全地は暗くなり、それが3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言う意味である。》(マタイ書45-46節)

私はこの個所を読んで得心し、慰められた。生前ご自分の死について弟子たちに語るとき必ず復活の話をされていたイエスが、死のぎりぎりの瞬間に、父なる神から完全に見捨てられた絶望を体験をされたのなら、姉が絶望の叫びをあげたのは当たり前だと思った。姉がキリストの絶望を共有したのなら、イエスの復活をも共有するに違いないと思ったからだ。

長文にお付き合いいただき、有難うございました

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 姉の葬儀ミサの説教(上)

2018-08-23 00:00:11 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~

姉の葬儀ミサの説教(上) 

~~~~~~~~~~~~~

 私は7月23日の姉の告別式のミサの福音朗読個所として、ルカの15章の「放蕩息子のたとえ話」の全文を読んだ。やや異例な選択ではあったが、私は姉の天国への花向けとして是非それを読み、説教ではそのたとえ話に新しい解釈を試みたかった。

若かりし頃の姉の姿 

その「放蕩息子のたとえ話」は次のように始まる。

  ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を下さい」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、又お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」と。そして、彼はそこを発ち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。(ルカ15章11節-24節)

 私の説教はこのたとえ話を土台にして始まったのだが、いざ改めて当日の説教を再現しようとすると、自分がどんな表現を用いてどのように展開したか、記憶が薄れてよく思い出せない。録音したものを文字に起こすような具合にはいかないものだ。そこで、私が言ったつもりのことを自由に再構築してみようと思う。

 姉は、私と正反対の性格で、「真面目」を絵にかいたようなところがあった。若くして修道会に入り、会の規律を忠実に守り、上長の命令に従って勉強のためにパリに送られれば、言われた通り勉強しかしなかった。何年もパリにいて、修道院と大学と図書館の3点以外のところには足を運んだことがないというから開いた口が塞がらない。私だったら、勉強はほどほどに、与えられたチャンスを最大限に利用して、パリの面白いところを貪欲に体験しつくしたに違いなかった。

 聞くところによれば、いつの間にかフランス語、英語、イタリア語、スペイン語などを身に着け、アフリカに送られては、現地の若い修道女の養成指導などに当たっていたと思われる。日本に帰ると、一時は横浜の修道院にもいたが、最後は中落合の聖母病院で外国人患者の受付やドクターの問診の通訳をしながら、80歳の誕生日を目前にこの春まで現役で働いていた。たとえて言えば、ルカの福音書の放蕩息子の兄のような生き方を生涯にわたり貫いたと言ってもいい。

 私はと言えば、父親に逆らい、家族の平和を乱して出奔し、好きなことは何でもしたが、好きなこと以外は何もしてこなかったように思う。世界中を渡り歩き、放蕩の限りを尽くしてやっと我に返り、遠ざかっていた教会の門を叩き、54歳で辛くも神父になりおおせた。

 しかし、聖書のたとえ話によれば、私のような人間でも心を入れ替えて父親の家に帰ってくると、全ての罪は許され、父親の愛に抱かれて天国の宴に迎え入れられることになるというから、有り難くももったいない話だが、すべては神の愛と憐みの業であって、自分には何ら誇るところがないことを知っている。

 ところが、ルカの福音書のたとえ話によれば、生涯を忠実に、まじめに勤め上げた兄は、天の御父の弟に対する偏愛を目の前にして、憤然として宴席に入ることを拒んで外にとどまり、天国の宴に入りそこなうことになっている。放蕩息子のたとえ話の後半にそのあたりのことが描かれている。曰く:

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたと言うので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、小山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして返って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しむのはあたりまえではないか。」(ルカ15章25節-32節)

 ロシアのエルミタージュ美術館で見た巨匠レンブラント晩年の代表的宗教画「放蕩息子の帰還」

父が憐れな息子を抱く場面には、まだ野良で働いているはずの長兄がなぜかそこに居合わせて、きあう父と弟を高い位置から厳しい面持ちで冷ややかに見下している。たとえ話の前半と後半を一枚に描いている。これがレンブラントの理解した兄の姿なのだ。

 弟が出奔して以来、ひと時も彼のことを忘れることのなかった父親の愛を、兄は生涯父のそばにいながら全く理解していなかった。兄にとっての父は、長男とは名ばかりの自分を、召使や奴隷と変わりなく義務と労働に縛り付ける厳しい主人のような存在だった。心のどこかでは、財産を手にして出て行った弟の身勝手と自由をうらやみ嫉んでさえいたかもしれない。つまり、彼はずっと父のそばにいながら、そんな父を愛してはいなかったし、弟のことも愛してはいなかったと思われる。

  言い換えれば、兄は義務の観念から父のそばを離れず、忠実に自分の務めを果たしてはいたが、日々喜びをもって生きていたわけではなく、ただ辛抱して父に忠実に仕えてさえいれば、いつか父の家督を継げることを期待し、あの不埒な放蕩者の弟は遠い土地で野垂れ死にでもすればいい、くらいに思って自分を納得させていたに過ぎなかった。

 だから、兄は父の弟に対する処遇に納得できず、弟のために父が開いた宴席に頑として入ろうとはしなかった。 

 父は説得をあきらめ宴席に戻り、その後、日没が迫ると召使はいつも通り家の門を閉じた。外では空腹と寒さが襲ってきたが、何よりも耐え難いのは暗闇の中の孤独と寂寥だった。夜遅くまで続く祝宴が天国ならば、これはまさに地獄そのものではないか。

 そして、翌朝召使が門を開けると、そこにはもう誰もいなかった。

 聖書の中の数あるたとえ話の中の最高傑作と私が考えるこの「放蕩息子のたとえ話」が、人間の生き方のパターンをこの兄と弟の二人のどちらかに振り分けるものだとしたら、私は姉の死を前にして大きな戸惑いを禁じ得ない。私のようなダメ人間が、父の愛と憐れみに救われるのは、もったいない話だが有難いことだ。しかし、あの愛すべき忠実な姉が、たとえ話の兄のような運命を自分で選び取ることにならざるを得ないのだとすれば、それはどうしても納得がいかない。もしそれ以外に落としどころが無いのだとすれば、聖書の記述は間違っていると言いたい。

 私は告別式ミサの説教の中でこの問題に対する納得のいく答えをきちんと出して締めくくったつもりだが、火葬場の時間厳守の制約を受け、自分の思いのたけを十分に展開するだけの余裕を与えられなかったので、列席者の心に果たしてどこまで私の真意を伝え得たか心もとない。

 今回はここで一区切りつけ、次回では結論の部分をもう一段掘り下げて、説得力をもって展開してみたいと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 姉が天国に凱旋しました

2018-07-21 10:46:54 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~

姉が天国に凱旋しました

 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 

若かりし頃

私の2歳年上の姉、クララ谷口和子は、去る7月19日午前7時40分に、まことに安らかに息を引き取り、天に召されました。この28日の満81歳の誕生日を目前にしていました。

キリストの花嫁としてマリアの宣教者フランシスコ修道会に身を捧げ、パリ、ローマに留学し、アフリカのブルキナファソに宣教に行き、晩年は東京中落合の聖母病院で外国人外来の受付や外国人患者とドクターの間の問診の通訳などをしていました。

働き盛りの頃

今年の春まで現役で働き、5月21日に胃癌の手術を受け、なお肝臓癌との戦いが続きました。私は毎日のように見舞いました。

7月18日夜容態が悪化し翌朝息を引き取るまで、夜を徹して枕辺で見守ることができたのは、お恵みに満ちた時間でした。最後まで意識があり、対話ができました。復活の希望を共有できました。

しっかり死を受け入れる心の準備ができた尊厳に満ちた最期でした。

 

80歳のおばあちゃん 死の1月カ月半前に私が撮影

お通夜は修道会の姉妹たちに囲まれ内輪で行われます。

 

 告別式(葬儀ミサ)

   日時: 7月23日(月曜日)  14時(午後2時)から 

             どなたでもご自由にご参列ください 弟のわたしが司式します

   場所: 聖母病院付属チャペル

       新宿区中落合2-5-1 電話: 03-3951-1111(聖母病院代表)

       最寄り駅:西武新宿線 下落合駅下車 徒歩7分

            西部池袋線 椎名町駅下車 徒歩10分

       バ ス: 新宿駅より関東バス丸山営業所行 聖母病院前下車

           JR目白駅より都バス池65・白61練馬方面行き 聖母病院入口下車

     タクシー: 暑さの中ですので、タクシーが一つの現実的選択肢です。

           新宿駅西口から約15分で着きます。目白駅からは約5分でしょう。

 

     出棺:   15時 落合斎場へ (希望者にはマイクロバスの用意があるそうですが、

                     自家用車、タクシーでも数分の至近距離です)

 

(以上、新聞等による死亡広告に代えて。)

薔薇.jpg

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 〔速報〕 カトリック東京新大司教着座

2017-12-17 11:44:46 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~

〔速報〕 新時代の到来

カトリック東京大司教着座

~~~~~~~~~~~~~~~

スライドショーで・・・

2017年12月16日(土)東京カテドラルの空は快晴

定刻11時に式は始まった

実に大勢の司祭たちが共同司式に集まった。私の同僚たちもその中に居るが、私は写真を撮ることを優先して、敢えてこの列には加わらなかった。 

高松の神学校を出たラウル神父は、新潟教区の菊地司教のもとで司教座聖堂(カテドラル)の主任司祭を長く勤めている。教区内での新求道共同体の活動は菊地司教のもとでは自由だった。

川村神父様も東京教区の司祭でありながら、私たちの共同体の祭儀の司式を長年支えて下さった。

ミトラ(司教の帽子)の数を数えると、現役の日本の全司教が集まったこらしいとがわかる。

高松の諏訪司教様はこの写真を撮っているのが誰か分かったみたい。

駐日バチカン大使は今日大役を担って式に参加する

バクルス(司教の杖)を持っているのが今日までの岡田大司教。司教の列の最後が今日東京大司教として着座する菊地功司教

長い行列はいまカテドラルに吸い込まれていく

カテドラルの内部は通勤電車並みの超満員だった

バチカン大使が教皇フランシスコの勅書を日本語で読み上げ、それが祭壇脇のモニターに映し出される。

岡田大司教の退任と菊地司教の着座が告げられる。

菊地司教は新潟教区の司教の任を解かれ、東京の大司教に任じられる

教皇フランシスコの菊池司教への任務の委託が述べられ、

続いて教皇の任命書が読み上げられた。

読み終わると聖堂は割れるような拍手で満たされた。

岡田前大司教から牧者の権威の象徴である杖が菊地新大司教に渡される瞬間

杖は新しい牧者の手に入った。新しい時代の幕開けの瞬間だ。

菊地功大司教様、着座おめでとうございます!

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 久しぶりに九州横断 もし富士山が噴火したら? 阿蘇は噴火を警戒して草千里から先は立ち入り禁止でした

2015-11-03 20:07:23 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

久しぶりに九州横断

もし富士山が 噴火したら?

阿蘇は噴火を警戒して草千里から先は立ち入り禁止でした

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このブログはただの旅日記です。面倒くさい話は一切ありません!安心して読み進んでください!

東京から大分までの一番安い移動手段は格安航空券でしょう。

ジェットスターで1時間50分7,800円ポッキリ。富士山を左に見ながら往きは陸の上を飛びました。

富士山の北斜面はもううっすらと雪化粧 この山が噴火したら大ごとだぞ!

大阪湾では関空が、神戸では世界一の吊り橋「明石大橋」が、瀬戸内海に入ると「しまなみ海道」が目の下に見えました。

大分には私のボス、ローマの「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」院長、91歳の平山司教様を、一人住まいの明野のご自宅に見舞うのが第一の目的。

大腸癌の大手術を克服して退院し、今は午前に1時間、午後に2時間のお散歩で、腸の動きを活発にするのだそうです。日本食で楽しく(司教様は私より健啖)お昼を共にした後は、気を使わせて疲れさせてはいけないと思い、泊めてくださるというお言葉を辞退して、知人の家に向かう。

アメリカ人のトムとゆかりさんと一粒種のショーン君、1歳半、の家の二階に宿を取った。

ショーン君とはすぐ仲良しのお友達になった。

夜は大人の時間で、カラオケに

 

 

上を向いたところはどことなくトラさんの渥美清に似ていないか?このマスター自身が大のカラオケ通で、島原のキリシタンの歌をすばらしい喉で歌ってくれた。

 ほかのお客も、NHKののど自慢に出たら鐘三つ鳴ること請け合いの名人芸だった。このカラオケは120%日本人のこころの小宇宙で、七面倒くさいキリスト教なんて全くお呼びでない世界に、言い知れぬ郷愁をおぼえた。歌うことを強いられるでもなく―事実私は一曲も歌わずー、歌と美味いつきだしを肴に、焼酎のお湯割りを何杯おかわりしても、帰るとき2000円ポッキリという不思議なお店だった。今どき珍しい酔っ払い天国だ。私はキリスト教に汚染されていないむき出しの日本の庶民文化の空気に酔いそうになった。

とは言え、キリストの福音を時なるも、時ならざるも告げ知らせねば、という使命感を忘れているわけではないのだが・・・。

臼杵(うすき)の磨崖仏を見せてもらった。

何とも優しい童顔の仏様ではないか。誰がいつごろ彫ったものか、パンフレットを置いてきたので忘れてしまったが、確か平安時代のものではないか、このあたりだけでこんなのがゴロゴロ数十体あった。

   

臼杵といえば竹灯籠で有名な街でもあるそうだ。地震被災地などでよく見かける、太い青竹を斜めに切っただけの素朴なものが基本だが、こんな芸術的なものも売っていた。

信州黒姫のコスモス園は、スキー場の準備があるから、10月中に早々と閉園になったが、九州ではまだ見事に咲き誇っていた。

野上弥生子の文学記念館にも立ち寄った。臼杵出身とは知らなかった。「日本国天皇は野上ヤエに文化勲章を授与する。内閣総理大臣佐藤栄作」の賞状が勲章と共にあった。昭和46年のものだった。

大分で借りたレンタカーで熊本まで九州を横断する途中に、JR阿蘇駅があった。ちょっと東京の原宿駅を大きくした感じだ。ホームには何やら豪華な車両が停車していた。アガサ・クリスティのオリエント急行を思った。

阿蘇の火口を目指して登っていくと、

広々とした牧草地に牛が寝そべっていた。

親子の馬もいた ここが草千里だ

草千里の先は不意の噴火に備えて立ち入り禁止になっていた。3.11東日本大震災以来、日本中の火山が活発化しているように思われてならない。

熊本では元朝日新聞本社の重役、熊本朝日テレビの名物社長、今は引退して悠々自適の I.K. 氏を訪ね、一晩彼の家で彼の手料理と美味しい赤ワインですっかりいい気分になり、そのまま泊めていただいた。キコのシンフォニーを成功させるための貴重なアドバイスを頂いた。ボローニャでの「イッビー朝日賞」授与式で彼の通訳をしたのがご縁だった。

成田への帰途、ふと窓の下を見ると、海面をバックにもう一機の旅客機が殆ど同じ速度で同じ方向に飛んでいるではないか。私は1965年、東京オリンピックの翌年の25歳の時に、インドのカルカッタから羽田まで、国際線を飛び始めたばかりの日本航空機に初めて乗って以来、数えきれないほど世界の空を飛んできたが、同じ方向に並行して飛ぶ旅客機を間直に見たのは今回がはじめてだった。普通は窓の向こう遠くを白い飛行機雲を引きながら、反対方向に矢のようにすれ違うのばかりだった。航空法ではこんなのもありか、と何とも不思議な目を疑いたくなるような光景だった。

待てよ? 空の回廊は一車線で十分な幅の分離帯を取った対面交通が鉄則ではないのか?

 

 

帰りはずっと海の上を飛んで、伊豆大島の上空で機首を成田に向け、間もなく高度を下げ始めた。

伊豆大島は阿蘇山同様にカルデラを持つ活火山島で、中央火口丘の三原山は1957年の噴火で死者を1名出している。

(おしまい)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 原宿に本格「ピンサ屋」ーピザ屋ではありませんーオープン(日本初)

2015-10-08 00:58:10 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

原宿に本格「ピンサ屋」ー「ピザ屋」ではありません オープン(日本初)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

フェースブックでジュリアーノから「ピンサ屋」オープンの案内をもらったのは小一か月前だったか?

ジュリアーノのお母さんは、私のブログにも何度か登場した、いまやローマのナンバーワン日本料理屋「寿司千」の女将(おかみ)の千香子さんだ。ローマで日本料理屋さんが成功したら、次は日本にイタリア料理をもって逆上陸するのが千香子さんとジュリア―ノの夢だった。

原宿の駅を出ると、竹下通りに向かう。左にセブンイレブンを見て、そこを右に折れて枝道を行くと、ものの2分でお目当ての「ピンサ・デ・ローマ」の店はすぐ見つかった。

        

道々いろんな店の明るい照明が目を楽しませてくれる。クレープ屋さんのショーケースにはとんでもない種類の見本が並んでいた。

ブティックではウサギ首のマネキンが人目を引いている

   

オープンお祝いの花が入り口の両側にいっぱい並んでいて、ローマの剣闘士が出迎えてくれた。見ると、なーんだ、私の奉仕するナティビタの教会の信徒でマッサージ師のロッコではないか。どうやらローマの舞台衣装やさんから借りてきて、今日のイヴェントに花を添えるために飛んできたらしい。今夜チーフウエイトレスのような役で目を光らせているのはなかなかのイタリア美人だ。

通りに面した大きなガラスには文字が裏返って「マーロ デ サンピ」と読める。店のロゴはどうやらコロッセオか。  

   

  

「ピンサ」はなるほど「ピザ」とは見るからに違う。一番違うの生地のようだ。普通のイタリアンピザは粉をこねてすぐ伸ばして焼くが、ピンサはしっかりこねて4-5日ゆっくり寝かせ、よく熟成させてからトッピングして窯に入れるらしい。

  

ピンサ作りの裏方さんも半分は若いイタリア人だ。こんな大きなシャンパンのビンが実用に供されrのを初めて見た。

ローマでお馴染みのオペラ歌手藤井やすこさんに原宿でお目にかかれるとは光栄だ。

この中世のお姫様のような装束のお嬢さんは誰か知らないが、いずれジュリアーノのお友達が扮したものだろう。

     

前イタリア大使も駆け付けた。大使館のパーティーには「寿司千」のケータリングが不可欠だったから当然といえば当然。女将の千香子さんは挨拶を読み上げた。藤井やすこさんの美声のイタリア・アリアが華を添える。スタイルも抜群。私が5キロ痩せたといったら、せいぜい頑張ってね、と励まされた。

今日の主役のジュリアーノは、お父さんの血を引いてダンディーな紳士に成長したが、初めて会った時はまだ学生だった。今やローマ大学で博士号を取って、立派な経営者、母親のよき右腕になった。そして今夜は終始ご満悦。

おや、ロッコと話しているのは飯坂温泉の老舗旅館「吉川屋」の大女将(おおおかみ)ではないか。千香子さんが福島出身で、ローマの「寿司千」を開くとき、いろいろ助言をして下さったという。今回わたしはキコのシンフォニー「罪のない人々の苦しみ」の一団を引き連れて、宮内庁ご用達のこの温泉宿に泊めていただくことになっている。

パーティー開場から一時間、レストランは立錐の余地もないほどに込み合ってきたので、私は静かにフェードアウトした。

「ピンサ」の故事来歴は下の URL を御照覧あれ。ピッツァ・ナポリターナなどよりはるかに古い、ローマ時代からのイタリア人の食文化で、チェーンストアのピザ出前屋さんの商品とはものが違う。世界で流行し始めているらしい。

「ピンサ・デ・ローマ」

東京都渋谷区神宮前1-9-8 KI438ビル1F

Open 11:00 - 21:00

Tel 03-6455-5883

www.pinsaderoma.com

一度ご来店下さい !

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする