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百の広場 (その-3) 《三位の天使》
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前回の「広場での宣教」の次の日曜日は、教皇による司祭の叙階式と重なったために私は参加できなかった。
そして、その次の日曜日も晴天にめぐまれた。
初回よりは遥かに整備された様子で、参加者も多かった。
私の同僚のレバノン人のエリア神父が司祭の白衣を着て司式していた。
話に聞き入る聴衆の数は確実に増えていた。初回、2回目からのリピーターもそこそこいるということか。
もちろん、身内のメンバーの参加者も充実している感じだった。
この写真に子供が何人写っているかわかりますか?3人。正解!
キティーちゃんの白シャツの後ろ乳母車に一人。そして、お母さんのお腹の中に3人目が。
小学生も
新求道共同体の集まるところ、子供の数には事欠かない。
望んでも生まれないゼロ人のケースも平均5人の中に数えると、8人、10人、13人も別に驚くに値しない。
さらに、子宝に恵まれない夫婦は、往々にして2人、3人と養子を迎えるケースが多い。
それがまた平均を押し上げる要因になっている。養子は白人とは限らない。白人の子供は例が少ないので、
いきおい黒人、中南米の原住民系、アジア人の子供が多くなる。
この子沢山は神様の祝福の印。そういう宗教こそが明日の世界を制することになるだろう。
朝の祈りで始まり、詩編や歌が終ると、例によって兄弟姉妹の有志が自分の信仰体験、回心の軌跡を証言する。
その信仰告白は携帯スピーカーから流れ、通行人を包む。しかし、今回は一回目と大幅に様子が違った。
結構なボリュームで広場に広がり、誰もの耳に届くかと思いきや、今回に限り、全く効き目がないのだ。
それもそのはず、広い道を隔てて向こうのサンジョヴァンニ・ラテラノ教会のすぐ前の芝生の広場には、白いテントが
軒を連ね、「フェスタ・デイ・ポポリ」、直訳すれば「民衆のお祭り」だが、
その実は、ローマに住む外国人労働者の祭典が開かれているのだ。
バジリカは観光スポットの一つでもあり、教会前の広場は人寄せの絶好の場所なのに、我々が
宣教のために求めても下りなかった市当局の使用許可が、外国人労働者の申請に対してはあっさりと下りている。
非合法就労者、不法入国者の外国人もこの日ばかりは公然とお祭りに参加している。
その彼らの権利を主張する政治的アジ演説や、アトラクション、物品販売のアナウンスなどが、
大容量の本格的アンプとスピーカーを使って、こちらの声をかき消す勢いで迫ってくる。
5人が奏でるギターの音も、みんなで歌う歌声も、お祭り騒ぎの前には全く精彩を欠く。
しかも、悪いときには悪いことが重なるものだ、弱々しい我々のスピーカーのバッテリーが上がってきた。
声が割れ、途切れ途切れになり、やがて沈黙してしまった。
マイクなしでも話の内容が聞こえるようにと、輪を小さくした。それでも内容を聞き取るのがやっとのことだった。
しかし、そんなことで怯む我々ではない。カテキスタ(教理指導者)のリーダーは、声を枯らしながらも、
人類の罪と救いの歴史のメカニズムについて、諄々(じゅんじゅん)と話し始めた。
このドクロTシャツの青年たち、一回目には顔がなかった。新顔か、二度目か・・・
人祖アダムとエヴァの前に一位の天使が現れた。彼は天使の中で一番輝く光の天使だったが、神の如くになりたい、
という、神の被造物の身分を弁えない野望を抱き、神に反逆し、堕落して悪魔、それも悪魔の頭目(ルシファー)になった。
彼は、神に愛される人類の幸福を妬み、人間を神に背かせようと誘惑した。
蛇に姿をやつした悪魔は、「楽園に生えている木の実はどれも食べてはいけないと神様は言ったのか?」と訊ねた。
「いいえ、どの木の実を食べてもいいが、園の真ん中に生えている善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない
と神様は言われました。」(その時人祖は初めてこの禁止事項のあったことにあらためて気付かされた)。
蛇が枝からぶら下がって人祖に語りかけた木は、たまたまその善悪の知識の木だった。
「神様は嘘つきだ。本当は、お前たちがその実を食べると、神のようになるのを知っていたから、それを禁じたのだ。
死んだりはしない。食べたら神になれるのだぞ!」 (これこそが真っ赤な嘘だ!)
神のようになりたい、というのはそもそも悪い天使自身の野望だった。そのことで彼は堕ちて悪魔になった。
不幸にも同じ欲望が人間の心にも芽生えた。木の実はいかにも美味しそうに思われた。
神の警告を忘れ、エヴァは思わすその実を手に取り食べてしまった。そして、伴侶のアダムにも食べさせた。
神に背いた不従順な人間は、自らの選択で神の命から自分を切り離した。
命から切り離された結果は、命の無い状態、すなわち死だった。こうして人は死すべき運命を招きよせた。
死は恐ろしいことであり、死を恐れる者はもはや人を無条件に愛することは出来なくなった。
愛の無い世界は地獄だ。
第二の天使、善い天使ガブリエルは、第2のエヴァ、マリアに言った。
「おめでとう、マリア。神の霊があなたに降り、あなたは身ごもって幼子を産む。その名はイエスと呼ばれる。
彼は、人類を罪から解放し、死ぬべき運命を取り除き、永遠の復活の命を与えるだろう。」
マリアから生まれたイエスは、第2のアダムとなり、第1のアダムの不従順の罪を、十字架の木の上で、
苦しみに満ちた死に至るまでの天の御父への従順で死を打ち滅ぼし、
復活して人類に永遠の命を取り戻した。
各人は自然な生物学的生命には死ぬが、キリストと共に復活して永遠の命をいただく。
死を恐れず、人のために命を与えるまで人を愛することが可能になった。
第3の天使は私だ!とカテキスタは叫ぶ。第3のアダムはあなたです(と目の前の男性に言う)。
第3のエヴァはあなたです(と、そのわきの女性に向って言う)。
あなたが今日ここで、この時この三位の天使の話を聴いたのは只の偶然ではない。
神様が、永遠の昔からこの瞬間の出会いを予見しておられた。世の中に偶然は無い。
神様が私を天使として(汚い醜い天使でごめんなさい)あなたにさし向けられたのです。
私の話を聴いて、受け入れて、信じるなら、あなたは今日永遠の命を手に入れることが出来ます。
回心して、死の恐れから、お金の神様の奴隷になる偶像崇拝から解放されて、
自由になり、愛に目覚めましょう。
ここまで一気に大声で叫ぶと、さすがのカテキスタも力尽きた。だが、騒音の中、マイクとスピーカーなしにやり通した。
「この3位の天使の話に心を触れられた人は、どうか来週の火曜日の夜、近くのナティビタの教会に集まってください。
私たちが待っています。共に信仰の道を歩みませんか。」
と5回目の日曜の宣教の後カテキスタは言うだろう。
そして、約束の火曜日の晩、ひとり、またひとり、そしてまた一人、3人の人がためらいがちにやってくるだろう。
5回の日曜日の街頭宣教に足を止めて耳を傾けた人は延べ600人だったろうか、1000人だったろうか。
私がまだウオールストリートや丸の内で銀行業界にいた頃、「千三つ」という言葉があった。
1000件の商談の内3件が実れば大成功という意味だ。
ローマの100の広場で街頭宣教をやって、
合計400人から500人の人が信仰に立ちかえったとしたら、
天の天使たちの間でどれほど大きな喜びがあることだろう。
教皇フランシスコは、今年から全世界のカトリック信者に、このような宣教をする事を正式に求めた。
日本の教会に教皇の願いは届いているのだろうか?
期待に満ちた今日の宣教活動も、お祭りの騒音とマイクの故障の最悪の条件のなかでも何とか無事に終わった。
最後は、祈りと、歌と、そしていつもの踊りで締めくくられた。
無心に踊る大人も子供も
(百広場 おわり)