:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇暗殺事件-5(完結編)その-5

2011-05-30 17:47:56 | ★ 教皇暗殺事件

「ガリラヤの風」については、あと2回分ほどの材料があるのだが、ひとまず区切りをつけて、教皇の話に戻りたい。


教皇暗殺事件-5(完結編)その-5 

 

「あなたはなぜ死ななかったのか?」 

 

教皇が訪れたとき、獄中の狙撃犯メハメット・アリ・アグサが口にした最初の言葉はこれだった。

アリは、プロの仕事人として、自分の撃った相手が確実に死ぬことを信じて疑わなかった。彼は鍛え抜かれた殺人マシーンで、これまで一度も仕事に失敗したことは無かった。今回も全く手落ちは無かった。自分が狙った相手が生き延びる可能性は自然的に考えて、絶対にゼロのはずだった。

1983年12月27日、牢獄に彼を見舞い、人間として理解し合い、自分の赦しを彼が受け入れるかもしれない、という教皇の期待を、この最初の質問が完全に打ち砕いた。

和解などキリスト教を信じない彼の眼中になかった。アリの思考の全てを支配し、アリを悩ませ続けてきた唯一の点は、なぜ絶対に不可能なはずのこと、つまり、相手が死を免れて生き延びること、が実際に起こり得たのかと言う謎であった。

教皇はもちろんキリスト教が説く全能の父なる神の存在を信じているが、回教徒のアリもアラーの神を信じている。両者とも超自然的な意思や力の存在を信じて疑わない人種に属する。

その点では、このブログの読者の大部分のような神を信じない人が「不思議」な出来事を前にしたときに、自然現象の範囲内で「偶然」とか「確率」とかいう言葉を駆使して何とか説明し切ろうとするような、そのような無駄な努力を二人ともしない。

自然には起こり得ないはずの「不思議な」出来事を前にして、教皇もアリも、それぞれの世界観、信仰の次元でではあるが、「超自然的な」意思と力の介入があったことをすんなり認めるのである。

教皇の場合は、極めて自然にファティマの予言の時に羊飼いの子供たちに現れたマリア様が介入したと思うのだが、アリの場合はそれとは全く違う力の介入を探したに違いない。

回教の教祖マホメッドにファティマと言う名前の娘がいる。しかし、今回、必殺の銃弾を無力化したのは、マホメッドの娘のファティマではあり得ない。キリスト教の世界には、同じファティマの名で呼ばれ、マホメッドの娘よりも強力な霊能を発揮するもうひとりの「女神=ファティマ」がいるとアリは考えざるを得なかったのだろう。超自然的な力を発揮するファティマという名のキリスト教の「女神」の奇跡的介入によって、彼の完璧な仕事は失敗に終わった。そして、彼はその「力」を前にして恐怖に怯えた。

何故アラーの神より、キリスト教の女神の方が強かったのか?これはアリの頭には何時までも答えの出ない謎のまま残るだろう。

結果として、彼は自分を雇った依頼人から受けた任務の遂行に失敗した。

教皇の側からすれば、ポルトガルのファティマという地名で呼ばれる寒村の無学な牧童に現れたキリストの母マリアに護られ、奇跡的に死を免れたた事は疑う余地のない事実だったのだが・・・。

ではアリ・アグサを雇ったのは誰か?一体何のために?

 

この問いに答えを出さなければ、一枚の写真に発したこの長い考察は終わらない。



J.F. ケネディー を撃ったのはオズワルドではない。あるいはオズワルド独りではない。ケネディーを殺したのは巨大な闇の組織の意思であったことは、今や世界の常識だろう。オズワルドを至近距離から射殺したジャック・ルビーも必殺の一発を彼の腹部を狙って命中させている。アリ・アグサと同じプロの仕業だとわかる。横隔膜から下の腹部の内臓を複雑に損傷すると人間の命は助からない。日本の切腹が確かに死を意図したものであると解されるのもそのためだろう。しかも、ご丁寧なことに、オズワルドを撃ったルビーもその後まもなく不可解な病死を遂げている。もはや死人に口無しである。

そして、いわゆる「ウオーレン報告書」の「公式見解」によれば、ケネディー暗殺はあくまでオズワルドの単独犯となっている。

今日では、ユーチューブで誰でも何時でも何度でも見られるのだが、ケネディーの頭部を砕いた銃弾は顔の前から入って、脳味噌は後頭部からオープンカーの後部座席の後ろに飛び散った。ジャックリーヌが車の後ろに這い登ってそれを手でかき集める姿は痛ましい。

 


オズワルドが陣取った教科書ビルの窓からは、遠ざかっていくケネディーの後頭部がライフルのスコープに見えていたはずだ。彼の発した銃弾は一旦車をやり過ごしてUターンしてケネディーの顔面を前から直撃したとでも言うつもりだろうか。

ウオーレン報告は半世紀もしないうちに、世界中の人が自由にその瞬間の映像動画を見て自分で判断できる時代が来るとは夢にも予測せず、あのようなでたらめを書いたとしか思えない。


9.11 の場合だっておかしい。アメリカ政府の「公式見解」の通り、プロペラ機の操縦を何十時間か習っただけのアラブの「神風」ゲリラたちが、乗っ取ったばかりの最新式のジェット旅客機操縦席の計器を初めて前にして、それを手動で操縦してツインタワーに確実に突っ込むことは、常識的には不可能に近いというベテランパイロットの証言がある。私もセスナの操縦かんを握ったことがあるが、あの数倍のスピードでワールドトレードセンタービルの真ん中に、左に逸れれば右にかじを切り、切りすぎたら戻し、高度が下がれば機首を引き上げ、忙しく右往左往しながら、結果的に運良くぴったりのところで突っ込むのは、近眼が眼鏡なしに針の耳に糸を通そうとするようなものではないか。

 


しかし、空軍基地の滑走路に高速グライダーのようなスペースシャトルを無事帰還させ(宇宙飛行士はベテランのパイロットとは限らない)、霧の空港に大型旅客機を安全に着陸させる電子誘導装置を使えば、失敗なく正確に衝突されることは容易に出来ただろう。しかし、アフガンの山岳奇襲には抜群にたけていても、そのような大がかりな最新鋭の電子的仕掛けをニューヨークのマンハッタンのど真ん中に用意することは、オサマ・ビン・ラーディン一派には絶対に不可能なことだ。実際には、その背後に全く別個の巨悪の意思と巨大な最新鋭のシステムが存在したことを我々が知る日絶対に来ないとは限らない。

ところで、不思議なことに、教皇暗殺(未遂)事件に関しては、それを狂信者アリ・アグサの個人的犯行であるという公式見解で事件の幕引きを図ろうとする「当局」のキャンペーンそのものが存在しない。変ではないか?

いや、変ではない。今回に限って言えば、誰かが「公式見解」を発表したら、その主体自体が疑われることが目に見えているからではないか。だから、関係者総すくみで、組織の「犯行声明」も出なければ、「単独犯行」との決めつけも何処からも敢えて出て来ないのだ。

何はともあれ、あれをアリ・アグサが一人で思いついて、一人でやったというようなことは、客観的に考えて、全くあり得ない。

だとすれば、一体誰が世界の平和を説く宗教家である教皇を殺そうと考えるだろうか。

教皇の生涯にわたる秘書のスタニスラオ枢機卿の回想録によれば、結論から言うと、それは「KGB」以外にあり得ない、と書かれている。以下、同回想録の記述を抄訳する。

アリ・アグサは完ぺきなキラーだった。彼は教皇が危険で面倒な存在だと判断した者たちによって差し向けられた。ヨハネ・パウロ2世を恐れた者によって送りこまれたのだ。ポーランド人が教皇に選ばれた事が発表された瞬間から、ギクリとし、恐怖の戦慄を覚えた者たちによって・・・。

枢機卿カルロ・ヴォイティワが教皇に選ばれた事実は、東欧各国の首都で、互いに相反する混乱を呼び醒ましたことは間違いない。3週間後には、共産主義諸国において生じうる影響に関する最初の分析が出来ていたと思われる。1年を経過すると、ソ連共産党の理論家ススロフの署名による、「ポーランド人教皇の国際的影響に対抗するための具体的対策」を記した「極秘文書」が、ゴルバチョフを含む中央委員会書記局の全員の承認を得ている。

その後で、ブレジネフ書記長が個人的に最後まで阻止しようと努力して成功しなかったヨハネ・パウロ2世の最初のポーランド訪問が実現した。その1年後に共産主義帝国における最初の労働者による大革命とも言うべき「連帯労組」がポーランドに誕生した。すでに、1981年には、「連帯」は単にその存在自体によってマルクス主義イデオロギーに一連の致命的打撃を与え続けたのみならず、その中のより過激なグループは、強烈な反ソビエト的姿勢を示した。

そこには、共産主義の指導者たちの恐れを増幅するのに十分すぎるほどの理由があった。従って、秘密諜報機関の内部では(少なくともそうした機関の狂信的な下部要員の間では)、必要とあれば人を雇ってでもポーランド人教皇を抹殺するという決定に到達することは十分考えられることであった。

このようなシナリオを描くには、関連する全ての要素を考慮にいれる必要がある。クレムリンに嫌われた教皇の選出、彼の初めての祖国訪問、「連帯労組」の爆発。その他にも、ちょうどこのとき、ポーランドの教会は、すでに生涯を閉じようとしていた偉大な最長老のヴィシンスキー枢機卿を失おうとしていたことを忘れてはいけない。これら全ては、KGBの犯行に結び付かないだろうか?

さらに、もしあの5月13日にブローニング・カリバー9から発射された2発の銃弾が「標的」を倒していたら何が起こりえたか、と言うことも考えてみなければならない。

 


 

もし聖母マリアの手が弾を逸らさなかったら、世界の未来はどうなっていたであろうか。ポーランド人の教皇の精神的後ろ盾を失ったら、「連帯労組」の革命路線が生きながらえることは殆ど不可能だっただろう。「連帯」は血なまぐさい弾圧の後に完全に制圧されて行ったに違いない。その結果、中東ヨーロッパの歴史は恐らく全く違う方向に展開しただろう。

教皇が生きながらえたのは運命(信仰者はそれを奇跡的な「神の摂理」と呼ぶだろうが)だったのだ。だから、アリ・アグサは自分が殺すために撃った相手に「いったいなぜあなたは死ななかったのか」と問わなければならなかったのだ。

アリは教皇に赦しを願わなかった。それより先に、ヨハネ・パウロ2世は一通の手紙を書いていた。その中に「親愛なる兄弟よ、もしこの世で互いに赦しあわなければ、我々はどうして神の前に立つことが出来ようか?」と言うくだりがある。しかし、この手紙は結局彼に送られることはなかった。アリ・アグサがそれを自分に都合よく利用する恐れがあったからだ。教皇はむしろ直接彼に会う道を選んだ。自分の赦しの意思を伝え、自分を撃ったその手を握り締めるために。

しかし、彼は全く教皇の思いに応えなかった。彼の興味を引いた唯一のことは、ファティマの啓示のことだった。誰が何故この男を殺すことを妨げたのか、そのことだけに興味があった。赦しを求めることなど、全く関心の外だった。

アリ・アグサが1981年5月13日ファティマの聖母の祝日にヨハネ・パウロ2世野暗殺に成功し、ポーランド人の教皇が死んでいたら、連帯労組は血なまぐさい弾圧のもとにあえなく壊滅していただろう。ポーランドの民主化が失敗に終わっていたら、ベルリンの壁は崩壊しなかっただろう。ソビエト連邦と中・東欧社会主義諸国も生きながらえ、冷戦はさらに継続しただろう。核の使用も除外されない東西間の戦争が起こり得たかも知れない。多くの人々が再び戦争の惨禍で殺され、或いは悲惨な苦しみを味わうことになったかもしれなかったのだ。

この歴史を分ける重大な事件において、決定的な役割を演じたのは何か。それは、神を信じない日本のインテリが頼りにする「確率」の問題や「偶然」の仕業では決して説明がつかない、自然的には絶対に起こり得ないはずの不思議な出来事だった。繰り返して言うが、超自然的な意思と力の介入によると確信する点において、ヨハネ・パウロ2世もアリ・アグサ自身も期せずして意見の一致をみるのであるが、違いは、それを教皇は「聖母マリアの手」の働きと理解し、アリ・アグサは恐ろしいキリスト教の「ファティマの女神」の力と理解した点にある。

神は、一般論としては、人類の歴史を人間の自由な選択に委ねられた。しかし、神は人類の歴史の展開について、全く無関心に放任されているわけではない。

人間の自由意思の邪悪な濫用が、人類に過大な悲惨を呼び寄せ、あまりにも多くの無垢な魂が苦しみを負わされることに神は耐えられない。神は、よほどの場合には、人間の歴史のコースに対して超自然的、直接的介入を行い、それを矯正する自由を常に留保している。

一連の歴史的出来事に先立って、ファティマの寒村の無学な牧童達にマリア様が現れ、歴史の未来について予言を行い、その予言の通りにその後に歴史が導かれていったのがその具体的な実例である。

ファティマの第3の秘密では、教皇が銃弾で斃されるとあった。そして、予言通り事件が起きた。しかし、そのぎりぎりのところで、ファティマの聖母は教皇を死から奇跡的に救い、それを通して歴所を明るい方向に展開されたと私は考える。そして、10億の信者を擁するカトリック教会は考える。

 ~~~~~~~~~~~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 【号外】 「新求道期間の道」の 公式ウエヴサイトに「日本語版」が加わりました。

2011-05-26 05:25:14 | ★ 新求道共同体

 

【号外】 

 

 「新求道共同体」又は、正式には「新求道期間の道」の 

公式ウエヴサイトに

「日本語版」が加わりました。



まだ試行錯誤の段階で、訳が間に合っていない部分も多く、

イタリアの編集元が取りあえず自動翻訳に頼ったために

脈絡や意味が分かりにくい日本語の部分もあって、

読みづらいかもしれませんが、しばらくご忍耐ください。

次第に整備していきたいと思います。

このサイトに入るためには

http://www.camminoneocatecumenale.it/new/default.asp?lang=jp

をクリックするか、または

Cammino Neocatedumenale

をコピーして貼り付け検索してください。

Sito Web Ufficiale del Cammino neocatecumenale

を探してクリックすると入れます。

いきなり日本語で出ればよし、

さもなければ左上の言語選択のバーをクリックして

9カ国語の中から“Japanese” (日本語)を選んでください。

何れの場合も、あとはお気に入りに加えるだけで、何時でも簡単に入れます。

尚、当分は試行錯誤と追加・拡充が続きますので、

時々進化のあとを確認してください。

  

  「歴史」 の部分は私が最近あらたに訳しました。どのようにして新求道共同体が始まったかが分かります。

  「出来事」 では動画が幾つか見られます。付いている日本語は、どうやら自動翻訳によるものらしく、ぎこちない、乃至は意味不明のところもあります。なおさなければなりません。キコの交響曲でファゴットを吹いている2人のうちの1人は、日本のための神学院出身のマヌエル助祭です。11月に司祭になります。

  「ドームスガリレア」 は、私の最近の一連のブログ「ガリラヤの風薫る丘で」の舞台になった場所です。

  「道に関する教皇の言葉」 は1.5センチほどの厚さの本になっている部分で、今後長い時間をかけて訳していかなければなりません。

~~~~~~~~~~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 改訂増補版 【速報】 ローマでまた日本のための新司祭誕生(写真アルバム)

2011-05-22 15:36:55 | ★ ローマの日記

(改訂増補版)

【速報】 ローマでまた日本のための新司祭誕生(写真アルバム)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

私は、このブログをカトリック教会の外の人たちを強く意識して書いています。ローマに居て、わずかな時間を見つけた時、それも私の仕事の一つと心得ているのです。

しかし、私を知っている教会の信者さんの一部も読んでいて、ときどき注文してきます。今回は、ヨーゼフ神学生の司祭叙階式の写真を見せて欲しい、と言うのがそれでした。まあ、玉石混交と言うところでしょうか?

”Josef who?” そんなの関心無いね、

と言う方は、今回のは見ないでパスして頂いて結構ですよ。

~~~~~~~~~~~~~

今回の叙階式はローマ教皇の司教座があるラテラノ教会で


私も実は18年前にこのサン・ジョバンニ・ラテラノ教会で、当時の教皇代理であったルイニ枢機卿から助祭の叙階式を受けた。近年、ローマの4大バジリカが宗教儀式で満員御礼になるのは極めて珍しい。教皇司式の復活祭やクリスマスの聖ペトロ大聖堂を別にすれば、その他のこのラテラノ教会も、サンタ・マリア・マッジョーレも、城外の聖パウロバジリカも、大概は信者が十分集まらず大祝日でもがらんとしたものだ。それをヨーゼフたち5人の若者が満杯にするのだから、彼らに対する人々の期待の大きさが分かる。



4大バジリカを4つとも連続して全て満員にした最近の例として記憶するのは、病気で倒れる前の小澤征爾がウイーンフィルをひきつれてやって来て一連のチャリティーコンサートの棒を振った時ぐらいだ。カトリック教会は、教会堂はあくまで宗教儀式を行う信仰の場であるから、どこかの国のお寺さんのように入り口で拝観料を申し受けることを決してしない。だから、教会関係の団体が催すチャリティーコンサートの場合も、切符は売らず、お涙頂戴ほどの人数(と言っても200~300席はあるが)の無料席を後ろの方に用意してあるほかは、前の方のいい席は寄付の額に応じて順番に良い席が割り振られた招待状を受け取った客に限られる。(ちょっと手の込んだトリックで、偽善的な匂いがしないわけでもない。)

その日、私はたまたまローマに来ていた信者さん母娘を伴って、その少数の席を当てにして殺到した貧しい音楽ファンの中に紛れ込んだ。一杯になったら、はいそれまで。あとはすごすごと家路につく他は無いのだが・・・。だから、まるで宝くじを引くようなものだが。

ところが、運良く整理のボランティアーが私のローマンカラーに目を止めて、「神父さんですね、どうぞ」と優先的に入れてくれた。もちろん、一人の神父を入れたつもりが、手をつないで母も娘も芋蔓よろしくぞろぞろとなだれ込んだのは言うまでもない。私たちがいい目を見たために割を食った無名の3人には「ごめん!」と後ろをふり向いて手を合わせた。

さあて、一旦中に入ったらもうしめたもの。ローマンカラーにものを言わせて、まるで年の暮れのアメ横を進む時の要領で、「チョイと御免なすって!(イタリア語で何と言ったかは忘れたが)」と言って前へ、前へと進む。指定席ではないから、うまく3つ並んでいる空席を見付けて、高額の寄付をした社交界のお歴々の間に澄ましこんですわった。

話はそれだけではない、教会だから、オーケストラは聴衆と同じ床の高さに居て、間に仕切りがない。休憩時間には、枢機卿や上流の紳士、ドレスの淑女が近寄り、世界の「OZAWA」と握手を交わし歓談している。2メートルまで近寄って写真を撮ったのだから、ついでにしようと思えば小澤と握手も出来たのだが、そこがなんとも奥ゆかしく引っ込み思案の私なのでありました。


飛んだ話の脱線でした。そうです、今日の主役はもちろん「ヨーゼフ君」です。わかってます。

ヨーゼフは北出身のベトナム人だが、長く高松のレデンプトーリスマーテル神学院で養成を受けた。いろいろ辛いこともあっただろうが、今はようやく晴れてローマで司祭になるところまで辿りついた。お目出とう。今どんな思いだろうか。



今年のローマ教区の叙階式は、教区の主たる神学校であるコレジオ・ロマーノには一人も該当者がなく、レデンプトーリスマーテル神学院からの5人だけと言う異例な形となった。その為か、バチカンの大聖堂での教皇ベネディクト16世による司式ではなく、教皇代理のヴァリーニ枢機卿による司式となった。

 

   


ヴァリーニ枢機卿の前に立つ5人。両端の介助者の間の5人のうち一番小さいのがヨーゼフ。

世俗の生活に死んで、聖職に生きるためにひれ伏す5人。


   

感慨深く息子の晴れ姿を見守るヨーゼフの両親。お母さんは今回初めて飛行機に乗って国外に出た。

ヴァリーニ枢機卿の前で司祭がミサで用いる盃を受けるヨーゼフ。

 

 

晴れて司祭になった。今天を仰ぐ彼の心にはどんな思いが、どんな祈りが宿っているのだろう?

 

 

叙階式が終わって、控室で記念写真の関係者。前列真ん中の祭服を引きずるようにしているのが、ヨーゼフ

 

 

翌日の夕方、初ミサの後に控室で。後列十字架の左がヨーゼフ。前列右端は高松の神学校からベトナムの旅人に転身したスペイン人のマヌエル君。マヌはこの3日前にスペインのムルシアの司教様から助祭に叙階されたばかり。今年の11月には故郷で司祭に叙階される予定。司教様は助祭の叙階式の日の説教で、マヌエルは司祭になったら宣教師として旅立つ自由をもっていると明言された。早く日本に帰って来て欲しいな。前列、マヌエルの左の二人が、最近ローマで司祭になったばかりの田中裕人君とサムエル君の二人の新司祭。

 

ささやかな手作りの祝賀パーティーで祈りを捧げるヨーゼフ新司祭

その右にはお母さん、お父さん、彼の弟

左には平山司教様、スアレス元高松神学院院長、アンヘル・ルイス現副院長


チョコレート文字の DON GIUSEPPE はイタリア語でヨーゼフ神父様の意味

本当にオメデトウ!

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~

 

(ローマの今朝、ブログを公開した時には、変換間違いの誤字・脱字が目立ちました。合宿中の朝食前に急いでアップしたものですから。大変失礼しました。)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ガリラヤの風薫る丘で-4

2011-05-17 17:43:46 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

~~~~~~~~~~~

ガリラヤの風薫る丘で-4 

~~~~~~~~~~~

 

前二回のブログで、普段は常識派、どちらかと言えば世俗的な仮面を被っている神父が、とんだ狂信的、原理主義的な本性を暴露してしまった。 実に面目ない!

そこで、バランスを回復するために、少しトーンを変えて、このドームスと言う場所がどういう位置付けにあるのか、クールにもう一度振り返ることにする。


 

 

ガリレア湖に向かう斜面に這うように展開する「ドームス・ガリレア」はれっきとしたカトリックの施設である。それなのに、どこから見ても十字架らしきものが見えない。同じ系列(同じキコ氏の設計)の施設で、イタリアのアドリア海に面したポルトサンジオルジオの丘にある建物には、巨大な十字架が建っているのとは好対照だ。


  

嫌でも目に飛び込んでくる巨大十字架                   向こうの質素な宿泊施設の上にも小さな十字架が

 

それは、この建物がイスラエル国内にあって、ユダヤ人を刺激しないためと言うような単なる消極的な理由からだけのことなのだろうか。

実は、この建物の中にはヘブライ語の文字、旧約聖書の聖句などがあふれ、まるでどこかのユダヤ教の施設かと錯覚するような雰囲気さえ一部に漂っている。

 


その極め付きが図書館だ。図書館の中心を占領するこのモダンな構造。

               

撮影位置が悪くて左右歪んで見えるが、実際はサッカーボールを半分に切ったような半球形

左の奥が白く見えるのは外の壁に窓としてはみ出しているからだ

 


それは、外側にも一部はみ出して全体で半球形をなしている。これは一体何の意味?

 

図書館の明かりとりを兼ねた半球の一部

 

その答えはこれだ。なんだかお判りかな。 

日本に居る日本人でユダヤ教の会堂の中に入った人は少ないかもしれない。私は、ローマのテベレ川の岸辺、昔ユダヤ人ゲットーがあったところにある巨大なユダヤ教の会堂に何度か入ったかことがある。かつて、アラブの過激派の爆破テロがあって、この会堂で多くのユダヤ人児童が犠牲になって以来、イタリアの軍隊によって24時間物々しく警備されているが、その地下にはユダヤ教の様々な祭具や衣服を展示した博物館がある。そこに行くとこれに似たものがたくさん並んでいる。それは、巻物、旧約聖書の巻きもので、ヘブライ語で「トラー」と呼ばれる。

 

モロッコで発見された貴重なトラー


この一巻のトラーがこの図書館の中心の半球形の大空間を占領している。それもそのはず、これは何処にでもあるありふれたトラーではなく、モロッコで発見された4世紀の希少品だという。そもそも、ユダヤ教で旧約聖書の聖典が確定したのは西暦紀元1世紀末のヤムニア会議でのことだそうだから、4世紀のモロッコの写本はその古さから言っても非常に貴重なものだ。ユダヤ人にとっては、のどから手が出るほど欲しいものに違いない。だから、ユダヤ教の信者やラビ(教師)たちが、わざわざバスを連ねてそれを見にこの建物を訪ねてくるのもわかるような気がする。聞き違いでなければ、この10年ほどの間にすでに10数万人が訪れたということだった。

偉大だった前教皇ヨハネ・パウロ2世の人柄のお陰も大きかったが(私のブログの 「ちょっと爽やかなお話」 を参照のこと)近年、ユダヤ教とキリスト教の関係は非常に友好的になっている。

キリスト教の中に伝わるある種の予言めいた伝承によれば、この世の終わりはユダヤ教とキリスト教が和解・融合した時に来ると言われる。キリスト教側からの解釈は、ユダヤ教徒が2000年前に偽メシヤとして十字架にかけたナザレのイエスが、実は彼らが今も待望している本物のメシアその人だったと認めることだと言うが、そこへ向けての遠い道のりの第一歩が、このドームス・ガリレアで始まろうとしているのかもしれない。

確かに、キリストはユダヤ教徒でありユダヤ教の先生とも呼ばれたが、その彼は同じユダヤ人たちの手で十字架に追いやられ、殺された。キリストの弟子たちもユダヤ人によって迫害された。しかし、キリスト教は、ユダヤ人やローマ帝国の迫害を受けながらも、次第に地中海世界に広がり、4世紀にはついに帝国の唯一公認の宗教の座についた。

その間に、ユダヤ人の国は西暦70年にローマ帝国によって滅ぼされ、エルサレムのユダヤ教の神殿は徹底的に破壊され、ユダヤ人は中世ヨーロッパ各地に離散してディアスポラと呼ばれ、キリスト教支配者からはキリスト殺した神殺しの民として差別されゲットーに収容されてきた。

復活祭にはローマの教会において金で買収された貧しいユダヤ人のキリスト教への改宗式が行われるというような忌まわしい習慣が横行したと言う話も聞いたことがある。先のアウシュヴィッツのホロコーストなども、単なるヒットラー個人の狂信的蛮行であっただけでは済まされない、キリスト教的ヨーロッパ人の深層心理に広くあったユダヤ人への差別・憎悪が、優秀民族である彼らに対する劣等感や嫉妬心とともにあったことも否定できないのではないか。

考えて見ると、ユダヤ人と言うのは実に不思議な民族だ。旧約聖書によれば、イスラエルの国はエジプトとバビロニアという二つの大国の間に挟まれた地中海沿いの豊かな回廊に位置する小国で、両者から入れ替わり立ち替わり絶えず蹂躙され、時にはバビロニアに国ごと捕囚になったりしながら、また、過去2000年近くの長きにわたり、祖国を失って世界中に離散しながら、常に、言語、文化、宗教、民族のアイデンティティーを失うことなく、ついにイスラエルの国を元の場所に再建した。その歴史は神秘に満ちている。

それが、日本民族ならどうだろう。大地殻変動で4つの島が太平洋の藻屑として沈んだり、原発事故による核汚染で何処も住めなくなったりして、世界中に散り散りのディアスポラ状態になったりしようものなら、数世代を経ずして、散った先々で同化し、日本語も、文化も、民族のアイデンティティーも、種族としての純潔も、すべて失って溶けて消えてなくなってしまうに違いない。

私がまだ学生だった頃、良く可愛がって下さった元上智大学の学長のヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス会士)は、2000年間国も無く世界をさ迷ったユダヤ人が民族と宗教のアイデンティティーを失わなかったのは、キリスト教が真正な宗教であることを示すためにユダヤ人の神ヤ―ウエが行っている「奇跡」だという意味のことを言われた事を思い出す。ホロコースト等の過酷な運命と併わせ考える時、この年になってなるほどと頷くものがある。(このパラグラフはローマ時間5月18日午前7時03分加筆)

ユダヤ人が再び祖国を建設することも世の終わりに先立つ印の一つなのだそうだが、そこに建てられたドームス・ガリレアは、何か不思議な象徴的建造物のような気がしてならない。


ところで、話はあらぬ方角に展開するのだが、「ガリラヤの風・・・-1」でちょっと触れた、音楽と歌で我々一行を歓迎してくれた奇妙な若者集団のことにもひと言触れておきたい。


ドームスを訪れたわれわれを歌で迎えてくれた若者たち


ドームス・ガリレアはイスラエル政府の例外的な許可のもとに建設された会議場・宿泊施設等を備えた複合建造物だ。政府はこのような建物には建設許可条件として核シェルターを作ることを義務付けている。敵対するパレスチナやアラブ諸国との核戦争を想定しての話だ。

      

      シェルターの中は野戦病院か蚕棚のようにベッドがズラリ       シェルターの唯一の出入り口の鉄の扉。

私は6年ほど前に、当時まだ未完成だったこのドームスに一カ月ほど滞在したと言ったが、その時はたまたま大きな団体の予約がなく、一人で一室を占領することが許された。国際的なスタンダードで5つ星のホテルにランクするほどの広々としたツインの部屋が80あまりあるようだった。毎日の洗面台・トイレの掃除からベッドメーキングに至るまで、5つ星の名に恥じない行き届いたサービスを受けた。ただ一つ違うところは、その仕事に従事しているのが雇われたおばさんたちではなく、全員若い青年たちだというところだった。そして、その彼らが、今回玄関ホールで歌ってくれたのだった。

彼らは、全員無給のボランティアーたちだ。住んでいるのは、だだっ広い窓のない、例の核シェルターの中だ。どういう素姓の若者たちなのか興味が湧いて訊ねると、彼らは、世界にざっと100万人ぐらいいるかと思われる「新求道期間の道」と言うカトリック教会の新しい流れのメンバーの子弟で、若気の至りでぐれたり、薬物中毒になったり、過ちを犯したりの、いわば熱心なカトリック家庭の頭痛の種のブラックシープたちなのだった。親たちによってここに預けられ、パスポートは取り上げられ、お金は持たされず、親元から遠く離れてイスラエルと言う特殊な外国で、車が無ければ何処にも行けないこのガリラヤの丘の上に隔離され、核シェルターの中に集団で寝起きし、修道院か兵舎の中のような規律のもとに、共同生活をし、毎日祈りをし、黙想をし、給仕、皿洗い、ベッドメーキングとホテルマンのような労働に従事して、更生の道を歩んでいるのだった。


      


そんな中から、一念発起して神父になって世界中に宣教に行こうなどと言う奇特な若者も出ないとは限らない。絶えず巡礼や研修・会議のグループが通り過ぎていくこの施設。近くに労働力を求めてもそれらしい村は一つも無い。シェルターはよほどキナ臭くなるまで用のない無駄な空間だ。タダの労働力確保と、問題児の矯正と、スペースの有効利用と・・・、一石2鳥も3鳥も兼ねた実にうまいやり方だと舌を巻いた。


ガリラヤ湖を見下ろすテラスのオブジェ

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ガリラヤの風薫る丘で-3(再構築版)

2011-05-10 08:47:22 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

お待たせ~! 「再現版」:

~~~~~~~~~~~~~~~

ガリラヤの風邪薫る丘で-3 

~~~~~~~~~~~~~~~ 

ペトロ達の大漁の奇跡の浜辺で野外ミサに与った時、私は司式するウイーンのシェーンボルン枢機卿らの中に、キリストの現存、そしてペトロや他の弟子たちの現存を、2000年の時に隔たりを超えて生々しく体験したと言った。 

しかし、話はそれだけではなかった。私は、この同じ場所でキリストの声を聞くことにもなるのだった。 

野外ミサが行われた半すり鉢型の地形の木陰の傍を、低い生垣に縁取られた小道がガリラヤ湖に向かって緩やかに下りて行く。その生垣越しに、黒い石積の小さな教会が立っている。

いわゆる「ペトロの主位権」の教会


入り口の左右のゴシックアーチ型の窓のところに巣をかけたつがいのツバメが、大きな口を一杯に開けてシリシリと鳴く雛たちにせっせと餌を運んで来て休むことがない。実は、ミサの間中私は-現存するイエス様には申し訳ないが-あたりを忙しく飛び回る燕と、雛と、それからカメラのシャッターチャンスに結構気を散らしていたのであった。母親の腕の中に居る赤ん坊のように、安心感に浸って、気ままにいたずらをする心境であった。

土色の巣のすぐ下に、今まさに飛び立ったツバメの姿がわかりますか?

このシャッターチャンス逃してなるものか!


その教会は、岸辺側からみればこんなたたずまいで、カトリックの教会は「ペトロの首位権の教会」とも呼ぶ。

左側の濃い緑の木陰に、先ほどまでミサをしてい場所がある

私は、大漁の奇跡の湖畔に岸辺を背にして立っている


なぜなら、前回ブログでやや詳しくふれた、ヨハネの福音書の個所、つまり、ペトロが他の兄弟達と漁にでて、一晩何も獲れなかったのに、岸辺の見知らぬ人の言葉に従って網を船の右側に降ろしたら、引き上げられないほどの数の魚が取れたという、大漁の奇跡の話と、その直後、岸辺でその人から朝の食事をもらいながら、その人の中に復活したキリストの現存を信じたという話の続きに、「イエスとペトロの対話」が記されていて、その内容がそう言う表題に相応しかったからである。

関連個所はそれほど長いものではないので、たまには聖書の文字通りの引用も悪くは無いかと思う。

 

ヨハネによる福音書(21章15-17節)

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、私の子羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい。」

 

実は、この話には枕になる一つのエピソードがある。ヨハネの福音書によれば、イエスは受難と十字架上の死に先立って、「ユダの裏切り」を予言し、「互いに愛しなさい。私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と言う新しい掟を与え、さらに「ペトロの裏切り」をも予告された。

ペトロが、「あなたのためなら命を捨てます。」と言うと、イエスは「私のために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われたのである。

事実、イエスが捕らえられ、尋問を受けた時、ペトロはひそかにその場所の群衆の中に潜り込んでいたが、気付かれて「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問われると知らないと答えた。少しずつ違う状況で相次いで三度問われて、三度目には誓って知らないと否定した。するとすぐ、鶏が鳴いた。

イエスが三度「お前は私を愛しているか」と問われた時、ペトロはこの事実を思い出して悲しくなったのである。

さらに、このエピソードに先だって、マタイの福音書によると、イエスは「人々は、人の子(自分のこと)を何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは様々に答えたが、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか。」と尋ね、シモン・ペトロが一同を代表して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「ヨナの子シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく私の天の父なのだ。私も言っておく。私はこの岩(ペトロ)の上に私の教会を建てる。」(マタイ16章13-18節参照)という下りがある。

実は、これをもってカトリック教会は12使徒の頭、ペトロとその後継者、つまり、ローマ教皇をキリスト教のトップであると主張して譲らないのだが、このエピソードの舞台が、この小さな教会の中の祭壇の前にある岩のところであったと伝えられているのだ。プロテスタントの教会がこの点についてどういう見解を取っておられるのか、統一のとれた公式見解があるのか、など、まだ確かめたことがない。

前置きが長くなっていしまったが、ミサが終わると、キコはここで一つの提案をした。ミサを司式したシェーンボルン枢機卿に、ミサの祭服のままとなりの教会に入り、祭壇の前の岩のところに立って、30人余りの司教達と、100人余りの神父たち一人一人に、イエスがペトロにしたのと同じ質問をする。それに対して、一人ひとりの司教、司祭は、皆ペトロと同じように返事をするというわけだ。

この問答は、一人ずつ丁寧にやると結構時間がかかる。それで、先頭から一列になって教会に入るが、野外の木陰に残った者たちは、キコと仲間たちの奏でる音楽に合わせて歌いながら待つことになった。

こんな場面に相応しい歌をキコは沢山作曲している


私は、相変わらず忙しく飛び回る燕を目で追っていたが、自分の番が近付いて教会の中のひんやりした空気の中に入ると、さすがに真面目に祈る気分が湧いてきた。(それでも、聖堂の中にもツバメの巣があるのに気付くと、中の空間を回転するように飛ぶ親燕を上目づかいに追うのをやめなかった。)

そうこうするうちに、とうとう自分の番になった。

「名前は?」と聞かれると、「ジョン!」と答えた。私は30歳代から外資系の銀行ばかりを渉り歩き、同僚とは常にファーストネームで呼び合ってきた。ドイツの銀行にいた時も、リーマンブラザーズにいた時も、イギリスの銀行にいた時も、国際金融業界の共通用語は英語で、洗礼者ヨハネのクリスチャンネームをもつ私は、一貫して「ジョン」と呼ばれ続けてきたのだった。リーマンの当時の会長、ニクソン大統領の商務長官を務め、後にソニーの社外重役にもなったピーター・ピーターソンも、私を「ジョン」と呼び、私も彼を「ピート」と呼び捨てにしていた。

シェーンボルン枢機卿の前にはペトロの岩

その手前でわれわれ司祭、司教達は問答をする

二人後がいよいよ私の番だった


不意に「ジョン、この人たち以上に私を愛しているか?」と言う声が斜め上から響いてきた。私は思わず「はい、愛しています!」と心から答えた。本来なら、他の司祭達皆と同じように、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、貴方がご存じです」と紋切り型に、正しく聖書の言葉通りに答えるはずで、直前まで私も口の中でそれを復唱して用意していたのだった。

しかし、この瞬間、その問いの声は復活して目の前に立つイエスその人の声として私の心に響いた。そして、私の答えは、神の子、ナザレのイエス・キリストに対する私の心からの答えだった。私は、復活祭の日曜日の後、ガリレア湖のほとりに行って、復活したキリストに逢い、確かに「彼の声」を聴いたのだった。これは理屈の入る余地のない直接体験だった。

私は心がいっぱいになって、目の前のペトロの首位権の岩に接吻すると、足ばやに明るい外に出た。

私の肉体の耳に響いた声は、もしデジタル録音してスタジオに持ち込んで声紋解析をすれば、もちろんオーストリア人の初老の男性、シェーンボルン枢機卿の声と一致しただろう。また、もし私が感極まってそばに駆け寄り、主よ!と叫んでシッカとその足を抱きしめたとても(もちろん少しは冷めている部分があってそんな衝動的な行動に出るはずもなかったのだが)、冷徹な客観的事実は、私が触れるのは、イエスの肉体とは別の人間に固有なDNAで構成された数十億個の細胞の塊である枢機卿の二本の足にすぎないのだが、そんなことはどうでもよかった。(復活の日の朝、墓の近くで園の番人の足を抱いたマグだらのマリアも同感してくれるだろう。)

大事なことはただ一つ、私は2011年4月の昼下がり、ガリレア湖のほとりで復活したキリストに逢い、その声を聞き、そのキリストに自分の言葉で答えた、と言う疑いようのない事実だ。その一生の大切な出来事を誰も私から奪い取ることは出来ないだろう。

私は、キリストを裏切った自分を責めて絶望し、首を吊って果てたユダと、おめおめと生き延びたペトロの裏切りと、どちらの罪がより重かったかなどと論ずるつもりはない。また、私がその二人に勝るとも劣らない大罪人であることを否定しようとも思わない。わたしは、怠け者で、傲慢で、好色で、ウソつきで、貪欲で、嫉妬深い、つまり、悪いことの限りを尽くしてきた救いようのない人間だ。しかし、そんな出来損ないにも、復活した主は現れてくださった。

「キリストはまことに蘇られた!」、と確信をもって告げる私の言葉を遮って、ちょっと待ちなさい、まあここはひとつ落ち着いて・・・と水を差そうとしても、誰も私を正気に戻すことには成功しないだろう。これは、信仰の問題であると同時に、神からの一方的な恵みの問題でもあるのだと私は思う。

福音をのべ伝えるということは、教会から教えられた通り、「知識」として身に付けたことを人に語り、受け渡すだけでは足りない。「生(なま)の信仰の体験」として、恵みとして与えられた「事実」を伝えるのでなければ迫力がない。

わたしは、ガリラヤ湖のほとりで、復活したキリストに出会い、その声も聞いた。だから、「キリストはまことに蘇られた」、と確信をもって証言できるのである。

   


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ガリラヤの風薫る丘で-2

2011-05-08 00:01:02 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

 

~~~~~~~~~~~~~~~

ガリラヤの風薫る丘で-2

~~~~~~~~~~~~~~~


前回は俗っぽい話に脱線してとんだ失礼を致しました。 今回は回心して大真面目です。


復活祭明けの信仰の高揚したこの時、聖地に繰りこんだ私たち一行の上に、これから一体何が起ころうとしていたのだろうか。 

    

       ドームス・ガリレエを示す道標          上から見たドームスは背後の丘の斜面に沿って下へ下へと広く展開する


まず、どんな顔ぶれの集まりだったのか、その一端をご紹介するところから始めましょう。

ドームスの集いの会場 (もちろんキコの設計による)


まず、この会を呼びかけたのは、「新求道期間の道」と言う、聞きなれぬ名前でその実態を正しく把握するのがやや困難な集団の創始者、キコ・アルゲリオという一人の信徒である。司祭でも、ましてや司教でもない、一介のカトリック信者(非聖職者)である彼は、私と同じ1939年生まれ。「天は二物を与えない」と人は言うが、あれは真っ赤な嘘っぱちで、神様はこの男には二物どころか、八物、も十二物も、それ以上もの才能とカリスマをふんだんに与えられた。彼にはルネッサンス期の総合的巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをもしのぐような一面があると私は評価している。

ワイヤレスマイクを持って話すキコのシルエット


今回の会場「ドームス」の全体構想から、細部の設計・デザイン、内部を飾る壁画、彫刻まで全て彼のアイディアによる作品で埋まっている。何百の歌を作曲し、それを自ら歌い、ギターを弾かせればプロのフラメンコギターリストもびっくりの腕前。最近では、モーツアルトやブラームスでも数か月を要するかと思われるフルオーケストラの交響曲の作曲を手掛け(本人は楽譜の読み書きすら出来ないと言うのに)プロの演奏家集団を使って正味数日で仕上げるという、その才能の輝きはまさに際限を知らぬ男だ。

そもそもこのドームスの存在自体が奇跡的だ。イスラエル政府は、十字軍の時代からキリスト教徒が死守してきた点の保持には手を出さないが、新しいキリスト教拠点の開設は原則として認めない。ところが、キコの尽力もあって、山上の垂訓の丘の背後に当たるこの場所で、2000年の記念すべき年に、教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて世界青年大会を開催することが許され、それに先だってこのドームスの建設許可が下りた。ドームスの部分的落成が教皇自身の手でなされた事はすでに触れたとおりである。そして、外見上は十字架が一つも見えぬこの建物は、内部にヘブライ語があふれ、ユダヤ教徒の見学者の数はすでに10数万人に上り、いわばキリスト教とユダヤ教の出会いのメッカのような様相を呈している。

彼の呼びかけに応えて今回は二人の枢機卿、即ち、バチカンの信徒評議会議長のリルコ枢機卿と、オーストリアのウイーンの大司教シェーンボルン枢機卿が参加した。それに加えて、世界中に78校の姉妹校を展開するレデンプトーリスマーテル国際宣教神学院の開設者、78人の司教・大司教らの内の30人余りが加わり、それに、当然のことながら、78人の神学院院長と関係する信徒の旅人たち、総勢では200数十人だろうか。私は、元高松にあった世界第7番目の姉妹校(今は事情があってローマに一時移転中)の院長平山司教の秘書と言うことで参加している。

   

左:シェーンボルン枢機卿 右:リルコ枢機卿             左:リオデジャネイロの補佐司教 右:平山司教


今回は、この一連の姉妹校の原型であるローマのレデンプトーリスマーテル神学院が前教皇の手で設立されてから25年を経過したのを機会に、世界に展開している神学校の関係者が一堂に会するのが目的だった。

 

次々と出席者を紹介するキコ


二日目には、ガリレア湖のほとりで野外ミサが行われた。

2000年ほど前、キリストはエルサレムの城外で金曜日の午後十字架に架けられて死んだ。三日目の-つまり日曜の-朝、婦人たちがキリストの墓に行くと、墓の入口をふさいでいた石は除かれていて、墓の中は空だった。一位の天使が、「あの方はここにはおられない。あの方は死者の中から復活された。そして、あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と言った。(マタイ28章1-7節参照)

それで、今年の復活祭のあと、私も、枢機卿や、司教や、司祭や、旅人信徒のこの300人近い集団もガリラヤ湖のほとりにやってきたわけだ。

ガリラヤ湖の静かな岸辺


   

 白鷺に似た大きな水鳥は                       シャッター音に敏感に反応して飛び去った

 

ところが、不思議なことに、同じマタイの福音書は、そのあとガリラヤ湖のほとりで弟子たちが復活したイエスと出会った場面について全く何も記していない。慌てて、マルコの福音書を開いたが、そこにもガリラヤで逢えたという話は記されていない。それは大変とばかりに、ルカの福音書に期待したが、これまたガリラヤの「ガ」の字も記されていないではないか。???と言う感じで、最後のヨハネの福音書を開くと、あった。やっとあった。しかし、それにしてもちょっと様子がおかしい。

ガリラヤ湖のほとりでキリストに召し出され、キリストの弟子としてイエスと3年間寝食を共にした漁師たちは、この人こそ待望のメシアに違いないと期待して付き従ったが、その先生犯罪人として捕らえられ、殺されて葬られ、挙句の果てにその遺骸まで消えうせた(ビン・ラーディンのように水中にでも捨てられたか?)。

メシア運動が大失敗に終わったため、彼らは意気消沈して故郷のガリラヤ湖の湖畔に戻り、何事もなかったかのように元の漁師生活を始めていた。

そんなある日、シモン・ペトロが「私は漁に行く」と言うと、彼と共にキリストに付き従っていた数人の弟子たちは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。すでに夜が明けたころ、見知らぬ人が岸に立っていた。その人が「何か食べるものがあるか」と言うと、かれらは、「ありません」と答えた。すると言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、最早網を引き上げることが出来なかった。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であると知っていたからである。(ヨハネ21章1-12節参照)

この話は非常に興味深い。メシアだと信じて付き従ったあの魅惑的な青年イエスは、その事業半ばで挫折して、敵対者の手にかかって十字架の上であっけなく果てた。がっかり失望して故郷に戻り、元の漁師の生活を始めていたペトロ以下の弟子たちは、ガリラヤの岸辺で、見知らぬ人に出会った。生前のイエスとは、背丈も年齢も容貌も全く違う別人だった。現代風に言えば、DNA鑑定ではイエスとは別の個体であることは疑う余地がなかった。しかし、その人に接していて、弟子たちは目の前のその別人の中に霊的に復活したキリストが現存して居ることに気付き、イエスとともにいることを信じて疑うことが出来なくなった。だから「あなたはどなたですか」と敢えて野暮な質問はしなかったのだ。

ヨハネの福音書は、-プロテスタント教会では異論もあるようだが-カトリックでは12使徒のひとり、一番年若く、特にキリストに愛されていたヨハネが、1世紀の終わり頃に書いたものとされている。いわば、長寿を全うした使徒ヨハネ(今の私ぐらいの年頃か?)が、キリストの死の直後の自分たちの霊的体験を、晩年の信仰告白として吐露したものだろう。その頃のヨハネは、DNAを異にする他の個体の人間の中に、愛するイエスの現存を信仰の目で確信することが出来たとはっきりと証言しているのである。

私は罪深く信仰薄きものであるにもかかわらず、この日ミサを司式するウイーンのシェーンボルン枢機卿の中に、その傍にいる信徒評議会議長のリルコ枢機卿の中に、そして平山司教やキコの中に、復活したキリスト自身の現存を、或いはキリストの使徒たちの現存を、はっきりと見ることが出来た。その人たちの姿を借りて、2000年前にこの地に30年余りの生涯を生きた歴史上の人物ナザレのイエスが死者の中から復活して生きて現存していた。これは、脳みその知的神学的遊戯の産物ではない。人間が自分の力で思弁的に到達しうる境地でもない。まさに、からし種ほどの小さな信仰のかけらに一方的に上から注ぎこまれた神様からの恵みの問題だろうと思う。

     

奇跡の大漁の記念の岸辺でミサを指揮するシェーンボルン枢機卿        それを見守るリルコ枢機卿と平山司教                               

言葉が足りなくてなかなか的確に表現できないでいるが、一言で言えば、2000年前のガリラヤ湖の漁師だった弟子たちと、今ガリラヤ湖のほとりにやってきた自分達との間に本質的な時間的距離の隔たりはな無いと確信する。

     

パン(キリストの体)と葡萄酒(キリストの御血)の奉献、その傍らでギターを奏で歌うキコ(フルートも、ヴァイオリンも、チューバも、チャランゴも、ボンギも・・・ありったけの楽器を集めて)

 

それだけではない。何も復活祭明けの日程を選んで、飛行機代を払って、わざわざガリレア湖のほとりまで来なくても、からし種ほどの信仰があって、上からの恵みを豊かに注がれれば、東京や大阪の大都会の雑踏の中で、過疎の村で、また被災地の瓦礫の中でボランティアーをしながら、見知らぬ隣人の中に復活したキリストと出会うことが何時でも何処でも可能なのだと思う。それは、私の場合は、今ようやく観念的可能性の問題としてではなく、日々の現実的体験、ほとんど皮膚感覚となってしまったのである。キリストはまことに復活された。そして今私とともにいる。


 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ ガリラヤの風薫る丘で-1

2011-05-05 15:42:25 | ★ ガリラヤの風薫る丘で

~~~~~~~~~~~~~~

ガリラヤの風薫る丘で-1

 ~~~~~~~~~~~~~~ 

 

私が復活祭明けにイスラエルに行ったことを知った人たちから、ツイッターで、是非その時の様子をブログに、と言う要望が集まった。それで、2-3回に分けてその時の様子をお伝えしようと思います。 

ネプチューンの教会で主の復活の徹夜祭を無事に終え、日曜の昼にローマの神学校に戻り、一休みする間もなく、先週の月曜の早朝にローマのフィウミチーノ空港からイスラエルのテルアビブ空港に飛んだ。待っていたバスに乗ってガリレア湖のほとりのドームス・ガリレアに着くと、若者たちの一団が歌と音楽で歓迎してくれた。

この若者たちがいかなる素姓のものかは後に触れるとしよう

若い国際金融マンだったころのイスラエル旅行を別にすれば、神父になってからガリレア湖を訪れるのはこれで4度目になる。

一回目は西暦2000年の節目の年の夏頃だったと思うが、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの建物のすぐ下からキリストの山上の垂訓の教会のあたりまで広がる緩やかで広大な斜面で開いた世界青年大会の時だった。全世界から20万人余りの若者が結集し、私も東京からの善男善女のグループに高松からの母娘を加えた敬虔な一団を引率して参加した。

当時、このドームスはまだ建設中で、教皇はようやく間にあった入口のホールのあたりと図書館の部分落成式を執り行われた。

   

                      正面玄関                  玄関の扉の上のガラスにはドームスガリレエの文字が   

  

   モダンな図書館 上の壁にはヘブライ語の文字がぎっしり

2回目は同じ年の12月末に「第二千年紀の最後の夕陽をガリレア湖の上で見送る会」と言う長ったらしい名前の会に招かれてやってきた。せっかくだから、ちょっと脱線してその時のことに触れようと思う。

 

夕陽のガリレア湖 手前はドームスの一部

手前の丘の地平線の森が山上の垂訓の教会の森 

左遠方はシリアのゴラン高原 右手がティベリアデの町のあたり

 

主催者は O.B.L.氏(この世界、インターネットで実名を出すと何処でどういう支障があるか分からないのでイニシャルだけでごめんなさい)と名乗るニューヨークベースの(多分)ユダヤ人で、本職は裏社会での債権取り立て業と理解している。本質的にはシェークスピアのヴェニスの商人のように、血も涙もない男で、通常の手段では到底回収の見込みのない不良債権をただ同然の安値で買い取り、鋼鉄の手に絹の手袋をはめてじわじわと債務者を締め上げ、金をむしり取るのが彼の商売だと私は今でも思っている。その結果、誰かが自分のこめかみをピストルで撃ち抜こうが、森の木の枝に首をくくってぶら下がろうが、一切お構いなしなのだろう。業界では彼のような男を「ローン・シャーク」とも呼ぶ。貸金業界の「人食い鮫」の意味だろう。

しかし、彼の一見した印象では、内実とは裏腹に、優しく、繊細で、趣味が良く、世界中に沢山の善い友人を持っていた。

O.B.L.が用意したティベリアデの町の眺望のいいホテルに集合した紳士・淑女たちは、いずれも謎に包まれた雰囲気で、パリから、リオから、ベイルートから、東欧から、もちろんニューヨークから、総勢30人に満たなかったように記憶する。


ドームスから眺めたティベリアデの夜景 街の明かりがほとんど見えなくて残念

 

2000年12月31日になった。快晴の空に太陽が少し西に傾いた昼下がり、彼は寸暇を縫ってナザレの近くのカナの町へ病気の親友を見舞いに行ってくるからと姿を消した。夕方の乗船前には必ず間に合って帰ってくる約束だった。行く先から相手はアラブ人だと察せられた。

時間になったので、私たちは揃って彼が手配した船に乗り、帰りを待った。彼と共にガリレア湖の沖に出て、シャンパンを抜いて乾杯して、豪華なビュッフェと上等のワインに舌鼓を打ちながら、2000年紀最後の日没を見送る手筈になっていたからだ。

アクシデントはその時起こった。

船の上でO.B.L.が戻るのを待ちわびていたところに、船頭の携帯が鳴った。

話し込んでいるうちにうっかり時が過ぎ、金曜の夕方から安息日に入る回教徒の運転手が仕事を拒んだというのだ。急遽、土曜日が安息日のユダヤ人の運転手を手配中だが、少し遅れるから構わず先に船を出して予定通りパーティーを始めていてくれ、必ず合流するからと言うことだった。

こうして、船は桟橋を離れ、彼抜きのパーティーは進み、無事太陽も沈み、夕闇が湖面を覆い、みんなに酒がまわり始めた。

再び、船頭の携帯が鳴った。

やっとガリレア湖に着いた。船からサーチライトを点滅させて場所を教えてくれ。最寄りの浜辺に車を止め、車のライトを点滅させるから、船を出来るだけ岸に寄せろ。など、一連の交信があった。

慎重に岸に近づいた船頭は、軽くスクリューを逆回転させて停船した。大ぶりの船体は遠浅の湖底に触れてそれ以上先へは進めなかったのだ。闇夜の岸までは、まだ200メートル以上はあろうかと思われた。船にも岸にも小舟はなかった。一体どうするつもりだろう?と思っていると、突然彼はパーティー用のスーツも、財布も、クレジットカードも、靴も岸辺に残して、下着のパンツ1枚になって、冬のガリレア湖の冷たい水に飛び込んだ。

しばらくして、船からのライトの中に彼の頭が見えてきた。水から上がった彼は、髪からしずくを垂らしつつバスタオルに身を包み、皆の拍手を浴びながら、優雅にシャンパングラスを飲み干した。何とも屈託のない彼の無邪気な笑顔に座はたちまちくつろいでいった。

当時私は高松教区に神学校の建物を建てるために資金集めをしていた。O.B.L.がそれに協力してくれるということで、世界中の富豪を紹介してもらった。その富豪たちを順次訪ねて募金への協力求めるのは、当時神学院の院長だったスペイン人のM.S.神父の仕事だった。しかし、どこでも話は空振りだった。やっと、ある富豪が親切に話を聞いてくれて、別れ際に長方形の紙包みの入った手提袋を渡してくれた。それを大切に胸に抱いて、タクシーでニューヨークの場末の安宿に戻った彼は、部屋の鍵を内から閉めて、震える手でその包みを開けようとしていた。彼は、中身は100ドル紙幣の厚い束だと信じて疑わなかった。しかし、実際はブランド物のチョコレートだった。

O.B.L.に振り回された後には、院長の世界1周の飛行機代だけがそっくり赤字として残り、その分だけ貧者の一灯の寄付残高を減らすことになった。

頭に来た私はO.B.L.に言った。金持ちを紹介してくれるのもいいが、まず君が善意の証しをしてくれたらどうか、と。私の率直な意見に、彼は(渋々?)-多分2000ドルだったかと思うが-1枚の小切手を送って寄こした。「せめてもう一つゼロを付けやがれ、このドケチ野郎!」と心の中では口汚く罵りながら、かつてはいささかの小金持ちだった自分のことを振り返りながら、表向きは最大限の謝意をこめた手紙を書いて、彼との関係はこのガリレアの船の上まで�壓がったのだった。彼とはその後も2-3度メールのやり取りがあったが、今は音信不通になってもうずいぶん時間が経過した。彼はまだどこかで生きているだろうか。

3度目のドームスへの旅は2005年、教皇ヨハネ・パウロ2世が亡くなった年の12月から次の年の1月にかけてだった。

その時はうまく車を手に入れて、一人でのんびり聖地をくまなく巡礼して歩いたのだが、その時のことは私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)(http://t.co/pALhrPL)に詳しく書いたので、ここでは触れないことにする。

 

ようやくこの度の4回目のドームスへの旅にたどり着いたのだが、思いがけず前置きが長くなってしまったので、ここで一区切りつけることにする。

信仰の目から見た聖地での霊的体験記を期待された向きには、とんだ肩透かしを喰らわせる羽目になったが、次回はそのご期待にしっかりお答えするつもりなので、ここはひとまずお赦しをいただきたい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式

2011-05-02 00:06:52 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

教皇ヨハネ・パウロ2世の列福式

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

復活祭明けから1週間は、聖地イスラエルに行って、一昨日の夜にローマに帰ってきました。一夜あけて昨日の日曜日は、故ヨハネ・パウロ2世教皇が福者(聖人になる前の称号)に挙げられる記念すべき日でした。世界中から100万人以上の人が集まり、若者たちはローマ時代のチルコ・マッシモの競技場で前夜祭を開いて盛り上がっていました。

この朝早く、聖ペトロ広場からテベレ川の川岸の天使城までを50万人以上が埋め尽くし、近づけなかった人たちは、ローマ市内の各広場で巨大スクリーンを見守るか、ホテルやローマ市民の家庭のテレビの前に陣取ったのでした。テレビ組を加えれば、ローマ市内だけで300万人以上が式の一部始終を見守ったものと思われます。

私も、神学生や司祭達の多くが朝早くから出掛けたにも関わらず、イスラエルの旅の疲れを理由に、怠けてテレビの前に陣取ったのでした。9時にテレビの前に行ったらもう中継は始まっていました。皆さんには、テレビの画面を自分のカメラで撮ったものから実況中継をしたいと思います。下は聖ペトロ広場の上空から。


 

10時ごろ教皇ベネディクト16世が待ちかねた広場の群衆の中にジープの上に立って現れると大きな歓声が上がりました。ジープはベンツの特別仕様。教皇はドイツ人ですから。

     

 

私が以前から拘っているセキュリティーの男たちは、この写真で切り取った範囲だけで14~15人、実はその前にも後にも数名ずつが付き、まさに物々しい警備振りでした。

そうかと思うと、天使の声のような高い澄んだ歌声を生み出す少年合唱団の姿もテレビ画面にちらりと映し出されました。

 

 

その歌声のあと、ローマ教区の教皇代理司教のバリーニ枢機卿が、教皇に向かって、列福されるべき前教皇の出生から教皇に選ばれるまでの生い立ち、経歴、教皇としての資質と業績など、やがて福者から聖人の位に挙げられるに相応しい人物であることを告げ、教皇の決断を求めました。教皇はそれを受けて、教皇の椅子に座ったまま、荘厳に故ヨハネ・パウロ2世教皇を福者として宣言しました。この、「教皇の椅子に座って」と言うところに深い意味があります。カトリック教会は、教皇が一定の形式のもとに、信仰と道徳に関わる事柄について公に宣言する時は、神の護りによって間違えることがない、と教義で定めているからです。その形式の部分として、この教皇の椅子に座って、つまり「聖座」から宣言することが不謬性の条件になるからです。

     

聖座から不謬権のもとに列福の宣言をする教皇          教皇に列福される前に教皇の生涯を述べる枢機卿


そして、その宣言が終わるやいなや、オーケストラと大コーラスの響きの中、聖ペトロ大聖堂の正面の幕が除かれ、教皇ヨハネ・パウロ2世の写真が現れました。

     

 

 

 

私は、自分の本「バンカー、そして神父」の中で、自分の生涯に3人の生きている聖人と握手し言葉を交わした、と書きましたが、一人目はカルカッタ(コルコタ)のマザー・テレサ、そして二人目がこのパパ・ボイティワでした。(3人目はまだ存命中なので名を伏せましょう。)

前教皇が列福されるためには、少なくとも一つの奇跡が必要でした。その奇跡の人がこの白い修道服のシスターです。彼女は最先端の現代医学が不治として見放した重篤な病から、ヨハネ・パウロ2世の執り成しで、瞬時に完全に回復したのだそうです。それは真面目な医学的検証と慎重な神学的考察の結果、超自然的な力の介入抜きにしては説明がつかないと結論づけられたものです。黒い修道服のシスターは、私の見間違えでなければ、前教皇の身辺を最後までお世話したシスターのはずです。そして、二人が運んでいるのは、今後聖遺物として崇敬を集める福者パパ・ボイティワの体から採取された血液をおさめた器です。

 

     

 

この後、教皇ベネチクト16世司式の荘厳ミサが、数10人の枢機卿、数100人の司教、そして数えきれない数の司祭達の共同司式で行われ、祭壇の奉仕のために、ローマのレデンプトーリスマーテル神学院から二人の助祭と、日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院(私が直接関与)からはベトナム人のヨーゼフ助祭が晴れの祭壇に仕えましました。尚、ヨーゼフ君は、先の田中裕人司祭とイタリア人のサムエル司祭のあとを受けて、元高松のレデンプトーリスマーテル神学院がローマに移転して以来3人目の司祭叙階をこの6月16日に受けることが決まっています。日本に派遣される宣教師が、こうしてローマで確実に増えていきつつあります。

なお、この列福式の参列者の中には、各国の代表や、イタリアのベルルスコーニ首相、前教皇の秘書だったスタニスラオ枢機卿、ポーランドの連帯労組のワレサ議長もすっかり白髪頭になって参列しているのがテレビに映っていました。ミサは12時半過ぎに無事に終わりましたが、その後晩遅くまで、聖ペトロ大聖堂の中では、この列福式に合わせて同聖堂の地下の土中に埋葬されていたパパ・ボイティワの棺が掘り出され、一般の崇敬を受けるために聖ペトロの墓に最も近い床に静かに安置されていました。今日午後だけで数10万人の巡礼者たちがその傍を祈りと執り成しを求めて静かに巡って行ったのでした。

   

教皇のものとしては、何とも質素な棺                 引きも切らさぬ長蛇の列

 

   

     スイス兵に守られて静かに眠る前教皇              7年ほどの時の流れで隅の木組みが緩んでいるのが分かる

 

2005年4月2日午後9時37分に、敗血性ショックにより死去したヨハネ・パウロ2世の最後の言葉はポーランド語で「父なる神のもとに行きたい」だったと報道されています。4月8日の葬儀の時棺を見送ったのが、当時のラッツィンガ-枢機卿(今の教皇ベネディクト16世)でした。下の右の写真は、史上空前の人出で埋め尽くされたその日の聖ペトロ広場周辺の景色。

 

    

 

今回はただ写真を並べるだけになってしまいました。パパ・ボイティワが史上稀な如何に偉大な人物であったか。彼の暗殺未遂事件の考察もまだ最後まで行っていません。近いうちにそれらのことをブログに書きたいと思っています。また、その前に、この度のイスラエルの旅の報告もいたしましょう。夜が更けました。では今夜はこの辺で・・・

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする