「ガリラヤの風」については、あと2回分ほどの材料があるのだが、ひとまず区切りをつけて、教皇の話に戻りたい。
教皇暗殺事件-5(完結編)その-5
「あなたはなぜ死ななかったのか?」
教皇が訪れたとき、獄中の狙撃犯メハメット・アリ・アグサが口にした最初の言葉はこれだった。
アリは、プロの仕事人として、自分の撃った相手が確実に死ぬことを信じて疑わなかった。彼は鍛え抜かれた殺人マシーンで、これまで一度も仕事に失敗したことは無かった。今回も全く手落ちは無かった。自分が狙った相手が生き延びる可能性は自然的に考えて、絶対にゼロのはずだった。
1983年12月27日、牢獄に彼を見舞い、人間として理解し合い、自分の赦しを彼が受け入れるかもしれない、という教皇の期待を、この最初の質問が完全に打ち砕いた。
和解などキリスト教を信じない彼の眼中になかった。アリの思考の全てを支配し、アリを悩ませ続けてきた唯一の点は、なぜ絶対に不可能なはずのこと、つまり、相手が死を免れて生き延びること、が実際に起こり得たのかと言う謎であった。
教皇はもちろんキリスト教が説く全能の父なる神の存在を信じているが、回教徒のアリもアラーの神を信じている。両者とも超自然的な意思や力の存在を信じて疑わない人種に属する。
その点では、このブログの読者の大部分のような神を信じない人が「不思議」な出来事を前にしたときに、自然現象の範囲内で「偶然」とか「確率」とかいう言葉を駆使して何とか説明し切ろうとするような、そのような無駄な努力を二人ともしない。
自然には起こり得ないはずの「不思議な」出来事を前にして、教皇もアリも、それぞれの世界観、信仰の次元でではあるが、「超自然的な」意思と力の介入があったことをすんなり認めるのである。
教皇の場合は、極めて自然にファティマの予言の時に羊飼いの子供たちに現れたマリア様が介入したと思うのだが、アリの場合はそれとは全く違う力の介入を探したに違いない。
回教の教祖マホメッドにファティマと言う名前の娘がいる。しかし、今回、必殺の銃弾を無力化したのは、マホメッドの娘のファティマではあり得ない。キリスト教の世界には、同じファティマの名で呼ばれ、マホメッドの娘よりも強力な霊能を発揮するもうひとりの「女神=ファティマ」がいるとアリは考えざるを得なかったのだろう。超自然的な力を発揮するファティマという名のキリスト教の「女神」の奇跡的介入によって、彼の完璧な仕事は失敗に終わった。そして、彼はその「力」を前にして恐怖に怯えた。
何故アラーの神より、キリスト教の女神の方が強かったのか?これはアリの頭には何時までも答えの出ない謎のまま残るだろう。
結果として、彼は自分を雇った依頼人から受けた任務の遂行に失敗した。
教皇の側からすれば、ポルトガルのファティマという地名で呼ばれる寒村の無学な牧童に現れたキリストの母マリアに護られ、奇跡的に死を免れたた事は疑う余地のない事実だったのだが・・・。
ではアリ・アグサを雇ったのは誰か?一体何のために?
この問いに答えを出さなければ、一枚の写真に発したこの長い考察は終わらない。
J.F. ケネディー を撃ったのはオズワルドではない。あるいはオズワルド独りではない。ケネディーを殺したのは巨大な闇の組織の意思であったことは、今や世界の常識だろう。オズワルドを至近距離から射殺したジャック・ルビーも必殺の一発を彼の腹部を狙って命中させている。アリ・アグサと同じプロの仕業だとわかる。横隔膜から下の腹部の内臓を複雑に損傷すると人間の命は助からない。日本の切腹が確かに死を意図したものであると解されるのもそのためだろう。しかも、ご丁寧なことに、オズワルドを撃ったルビーもその後まもなく不可解な病死を遂げている。もはや死人に口無しである。
そして、いわゆる「ウオーレン報告書」の「公式見解」によれば、ケネディー暗殺はあくまでオズワルドの単独犯となっている。
今日では、ユーチューブで誰でも何時でも何度でも見られるのだが、ケネディーの頭部を砕いた銃弾は顔の前から入って、脳味噌は後頭部からオープンカーの後部座席の後ろに飛び散った。ジャックリーヌが車の後ろに這い登ってそれを手でかき集める姿は痛ましい。
オズワルドが陣取った教科書ビルの窓からは、遠ざかっていくケネディーの後頭部がライフルのスコープに見えていたはずだ。彼の発した銃弾は一旦車をやり過ごしてUターンしてケネディーの顔面を前から直撃したとでも言うつもりだろうか。
ウオーレン報告は半世紀もしないうちに、世界中の人が自由にその瞬間の映像動画を見て自分で判断できる時代が来るとは夢にも予測せず、あのようなでたらめを書いたとしか思えない。
9.11 の場合だっておかしい。アメリカ政府の「公式見解」の通り、プロペラ機の操縦を何十時間か習っただけのアラブの「神風」ゲリラたちが、乗っ取ったばかりの最新式のジェット旅客機操縦席の計器を初めて前にして、それを手動で操縦してツインタワーに確実に突っ込むことは、常識的には不可能に近いというベテランパイロットの証言がある。私もセスナの操縦かんを握ったことがあるが、あの数倍のスピードでワールドトレードセンタービルの真ん中に、左に逸れれば右にかじを切り、切りすぎたら戻し、高度が下がれば機首を引き上げ、忙しく右往左往しながら、結果的に運良くぴったりのところで突っ込むのは、近眼が眼鏡なしに針の耳に糸を通そうとするようなものではないか。
しかし、空軍基地の滑走路に高速グライダーのようなスペースシャトルを無事帰還させ(宇宙飛行士はベテランのパイロットとは限らない)、霧の空港に大型旅客機を安全に着陸させる電子誘導装置を使えば、失敗なく正確に衝突されることは容易に出来ただろう。しかし、アフガンの山岳奇襲には抜群にたけていても、そのような大がかりな最新鋭の電子的仕掛けをニューヨークのマンハッタンのど真ん中に用意することは、オサマ・ビン・ラーディン一派には絶対に不可能なことだ。実際には、その背後に全く別個の巨悪の意思と巨大な最新鋭のシステムが存在したことを我々が知る日が絶対に来ないとは限らない。
ところで、不思議なことに、教皇暗殺(未遂)事件に関しては、それを狂信者アリ・アグサの個人的犯行であるという公式見解で事件の幕引きを図ろうとする「当局」のキャンペーンそのものが存在しない。変ではないか?
いや、変ではない。今回に限って言えば、誰かが「公式見解」を発表したら、その主体自体が疑われることが目に見えているからではないか。だから、関係者総すくみで、組織の「犯行声明」も出なければ、「単独犯行」との決めつけも何処からも敢えて出て来ないのだ。
何はともあれ、あれをアリ・アグサが一人で思いついて、一人でやったというようなことは、客観的に考えて、全くあり得ない。
だとすれば、一体誰が世界の平和を説く宗教家である教皇を殺そうと考えるだろうか。
教皇の生涯にわたる秘書のスタニスラオ枢機卿の回想録によれば、結論から言うと、それは「KGB」以外にあり得ない、と書かれている。以下、同回想録の記述を抄訳する。
アリ・アグサは完ぺきなキラーだった。彼は教皇が危険で面倒な存在だと判断した者たちによって差し向けられた。ヨハネ・パウロ2世を恐れた者によって送りこまれたのだ。ポーランド人が教皇に選ばれた事が発表された瞬間から、ギクリとし、恐怖の戦慄を覚えた者たちによって・・・。
枢機卿カルロ・ヴォイティワが教皇に選ばれた事実は、東欧各国の首都で、互いに相反する混乱を呼び醒ましたことは間違いない。3週間後には、共産主義諸国において生じうる影響に関する最初の分析が出来ていたと思われる。1年を経過すると、ソ連共産党の理論家ススロフの署名による、「ポーランド人教皇の国際的影響に対抗するための具体的対策」を記した「極秘文書」が、ゴルバチョフを含む中央委員会書記局の全員の承認を得ている。
その後で、ブレジネフ書記長が個人的に最後まで阻止しようと努力して成功しなかったヨハネ・パウロ2世の最初のポーランド訪問が実現した。その1年後に共産主義帝国における最初の労働者による大革命とも言うべき「連帯労組」がポーランドに誕生した。すでに、1981年には、「連帯」は単にその存在自体によってマルクス主義イデオロギーに一連の致命的打撃を与え続けたのみならず、その中のより過激なグループは、強烈な反ソビエト的姿勢を示した。
そこには、共産主義の指導者たちの恐れを増幅するのに十分すぎるほどの理由があった。従って、秘密諜報機関の内部では(少なくともそうした機関の狂信的な下部要員の間では)、必要とあれば人を雇ってでもポーランド人教皇を抹殺するという決定に到達することは十分考えられることであった。
このようなシナリオを描くには、関連する全ての要素を考慮にいれる必要がある。クレムリンに嫌われた教皇の選出、彼の初めての祖国訪問、「連帯労組」の爆発。その他にも、ちょうどこのとき、ポーランドの教会は、すでに生涯を閉じようとしていた偉大な最長老のヴィシンスキー枢機卿を失おうとしていたことを忘れてはいけない。これら全ては、KGBの犯行に結び付かないだろうか?
さらに、もしあの5月13日にブローニング・カリバー9から発射された2発の銃弾が「標的」を倒していたら何が起こりえたか、と言うことも考えてみなければならない。
もし聖母マリアの手が弾を逸らさなかったら、世界の未来はどうなっていたであろうか。ポーランド人の教皇の精神的後ろ盾を失ったら、「連帯労組」の革命路線が生きながらえることは殆ど不可能だっただろう。「連帯」は血なまぐさい弾圧の後に完全に制圧されて行ったに違いない。その結果、中東ヨーロッパの歴史は恐らく全く違う方向に展開しただろう。
教皇が生きながらえたのは運命(信仰者はそれを奇跡的な「神の摂理」と呼ぶだろうが)だったのだ。だから、アリ・アグサは自分が殺すために撃った相手に「いったいなぜあなたは死ななかったのか」と問わなければならなかったのだ。
アリは教皇に赦しを願わなかった。それより先に、ヨハネ・パウロ2世は一通の手紙を書いていた。その中に「親愛なる兄弟よ、もしこの世で互いに赦しあわなければ、我々はどうして神の前に立つことが出来ようか?」と言うくだりがある。しかし、この手紙は結局彼に送られることはなかった。アリ・アグサがそれを自分に都合よく利用する恐れがあったからだ。教皇はむしろ直接彼に会う道を選んだ。自分の赦しの意思を伝え、自分を撃ったその手を握り締めるために。
しかし、彼は全く教皇の思いに応えなかった。彼の興味を引いた唯一のことは、ファティマの啓示のことだった。誰が何故この男を殺すことを妨げたのか、そのことだけに興味があった。赦しを求めることなど、全く関心の外だった。
アリ・アグサが1981年5月13日ファティマの聖母の祝日にヨハネ・パウロ2世野暗殺に成功し、ポーランド人の教皇が死んでいたら、連帯労組は血なまぐさい弾圧のもとにあえなく壊滅していただろう。ポーランドの民主化が失敗に終わっていたら、ベルリンの壁は崩壊しなかっただろう。ソビエト連邦と中・東欧社会主義諸国も生きながらえ、冷戦はさらに継続しただろう。核の使用も除外されない東西間の戦争が起こり得たかも知れない。多くの人々が再び戦争の惨禍で殺され、或いは悲惨な苦しみを味わうことになったかもしれなかったのだ。
この歴史を分ける重大な事件において、決定的な役割を演じたのは何か。それは、神を信じない日本のインテリが頼りにする「確率」の問題や「偶然」の仕業では決して説明がつかない、自然的には絶対に起こり得ないはずの不思議な出来事だった。繰り返して言うが、超自然的な意思と力の介入によると確信する点において、ヨハネ・パウロ2世もアリ・アグサ自身も期せずして意見の一致をみるのであるが、違いは、それを教皇は「聖母マリアの手」の働きと理解し、アリ・アグサは恐ろしいキリスト教の「ファティマの女神」の力と理解した点にある。
神は、一般論としては、人類の歴史を人間の自由な選択に委ねられた。しかし、神は人類の歴史の展開について、全く無関心に放任されているわけではない。
人間の自由意思の邪悪な濫用が、人類に過大な悲惨を呼び寄せ、あまりにも多くの無垢な魂が苦しみを負わされることに神は耐えられない。神は、よほどの場合には、人間の歴史のコースに対して超自然的、直接的介入を行い、それを矯正する自由を常に留保している。
一連の歴史的出来事に先立って、ファティマの寒村の無学な牧童達にマリア様が現れ、歴史の未来について予言を行い、その予言の通りにその後に歴史が導かれていったのがその具体的な実例である。
ファティマの第3の秘密では、教皇が銃弾で斃されるとあった。そして、予言通り事件が起きた。しかし、そのぎりぎりのところで、ファティマの聖母は教皇を死から奇跡的に救い、それを通して歴所を明るい方向に展開されたと私は考える。そして、10億の信者を擁するカトリック教会は考える。
~~~~~~~~~~~~~