:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★政治と宗教・宗教と金(そのー1)

2024-10-30 00:00:01 | ★ 政治と宗教

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政治宗教宗教

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 イエス・キリストは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と言って、「神」(天地万物の創造主)と「皇帝」(地上の覇権)とを峻別し、両者を混同したり、両者のなれ合いを許したりすることを厳しく禁じられた。

 

        

 石破    イエス・キリスト   トランプ

 神を差し置いて、皇帝を神格化して崇拝したりすることを神は決してお許しにならなかったし、宗教と世俗の覇権がウイン・ウインの蜜月関係に入ることを厳しく禁じられた。

 また、「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)とも言われた。

 イエスは神と富を両対極に置き、神を拝むものは富を塵・芥(あくた)と見做すべきであるとする一方で、富を礼賛しその奴隷になるものは神を冒涜するものとして厳しく退けられた。また、神と富の両方にうまく折り合いをつけて、両者からうまい汁を吸おうとする心根を断罪される。財宝、富、金(かね)、は文明黎明の太古の時代からマンモンと呼ばれた偶像の神であり、その本性は悪魔の化身であることは明白な事実だ。

 イエスの教えは最初の300年余りは改心して福音を信じたこころ貧しい信者たちによってほぼ純粋に守られたのではないかと思われるが、そのためにローマ皇帝は帝国の底辺生きる貧しい庶民の間で急速に広がるキリスト教を警戒した。もはや自分を神として認めないだろう。税金を納めなくなるかもしれない。敵に寝返るのでは、などと恐れて、その迫害に狂奔したが、イエスを信じる者たちは、復活を信じ、殉教の死を恐れず、かえって燎原の火のごとく急速に広がっていった。

 

    

     安倍   コンスタンチン大帝 フランシスコ教皇

 力でキリスト教をねじ伏せ撲滅することに失敗した皇帝は、手のひらを返して、キリスト教を懐柔し取り込み、支配する策に転じた。自ら率先してキリスト教に改宗して洗礼を受け、キリスト教を帝国の国教扱いにして保護し、今まで拝んできた神々の神殿を壊し、その跡に教会堂を建て市民に十字架の礼拝を求めた。今まで皇帝を生き神様として拝み、皇帝の信じるギリシャ・ローマの神々を礼拝していた市民は、よらば大樹の陰とばかり、大挙して教会になだれ込んできた。

 しかし、皇帝はキリスト教を取り込み手なずけるための方便として洗礼を受け改宗したふりをしただけで、キリストが求めた「回心」などどうでもよかった。また、風見鶏のローマ帝国の市民たちも、「回心」など何のことやら全く理解しないで、自然宗教(ご利益宗教)のメンタリティーのまま形だけ洗礼を受け、名前だけキリスト教徒になったが、彼らの心はもとの偶像崇拝のまま変わるところがなかった。

 そんな中で、純粋のキリスト教を忠実に生きようとした少数派は、砂漠の隠遁者になるか、壁をめぐらした修道院の中に集団で立て籠るしかなかった。そして、キリスト教的ローマ帝国はご利益主義の「自然宗教キリスト派」ともいうべき宗教文化に染まっていった。

 この状態は中世を通して続き、近世、現代に至るまで、いわゆる「キリスト教」の主流であり続けた。

 日本人に身近な仏教や神道はもとより、世界のいずれの自然宗教も、皇帝に象徴される各時代の世俗的権力、政治社会的覇者と常に強く結託して、共に富=お金=マンモンの神=悪魔の崇拝に走った。

 キリスト教も「自然宗教キリスト派」として、コンスタンチン大帝によるローマ帝国のキリスト教化以来、中世の神聖ローマ帝国、現代のキリスト教民主同盟などの形で聖俗一体化の歴史を歩んできた。

 19世紀まで長く神聖ローマ帝国を引き継いできたドイツでは、2018年までキリスト教民主同盟(CDU)が政権与党だったし、同党は今も存続しているのではないか。

 アラブ系の国家では回教の最高指導者が大統領の上に立ち政治と宗教の両面を支配していることはよく知られている。

 日本は1945年の敗戦まで護国神社などの国家神道が日本の国教だったし、今でも保守自民党議員は靖国神社に参拝している。しかし、古く遣唐使の時代には護国寺、国分寺などとして仏教が為政者の宗教だった。

 イタリアの場合は40年前のヴィッラ・マダーラ協約までローマカトリックが国教だった。バチカンは1924年の独立国家となったが、ローマ教皇という世界的大宗教のトップを国家元首に戴く世に類例を見ない完全な政教一致の特殊な国家として、イエスキリストが唾棄した「神の国」「世俗の国」の融合した姿を取っている。事実、バチカン市国は国連に加盟こそしていないが、立派にオブザーバーとしての地位を占めている。では、プロテスタントは聖俗完全に分離しているだろうか。

 アメリカ大統領の就任式には、新しい大統領はキリスト教の聖書に手を置いて宣誓するが、これはプロテスタントの信仰に基づくものだろう。カトリック信者のJ. F. ケネディーもその聖書に手を置いて誓った。バラク・フセイン・オバマ大統領は名前から回教徒と誤解する人もいるが、彼はプロテスタントのキリスト教徒として聖書に誓った。もしも本物の回教徒やモルモン教徒がアメリカの大統領になったら、その人物は合衆国憲法に則ってキリスト教の聖書に手を置いて宣誓するのだろうか。

 11月の米大統領選で、キリスト教右派の福音派が揺れている。トランプ前大統領への熱狂的な支持を表明するキリスト教愛国主義の信者らが増える一方、伝統的な信者の中にはトランプ氏に不道徳な行いが多いとして全面支持すべきか迷う人たちもいるなど、亀裂が生じている。

 「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と言った2000年前のキリストの言葉は、今日的な意味での政教分離の先がけだが、4世紀初頭にローマ皇帝のコンスタンチン大帝とキリスト教会が結婚して蜜月関係に入って以来、今日の独立国家、小さいながら精鋭の軍隊まで持ったバチカン市国に至るまで、イエス・キリストの教えは裏切られっぱなしになっているのではないか。

 これこそまさに政教分離の「超自然宗教」であったはずのキリスト教が、政教一致の「自然宗教した姿以外の何物でもないと思うがいかがなものか。

 日本では、公明党という政治団体が、日蓮正宗に基づく創価学会と一心同体の宗教政党であることは有名だ。事ほど左様に、世界中どこでも宗教(聖)地上の覇権(俗)との融合一致の誘惑には抗しがたい強烈な蜜の味がするらしい。

 宗教と政治家の関係を個人レベルで見れば、日本では麻生太郎がカトリック信者だということを知っている人がどれぐらいいるだろうか。私は麻生太郎がカトリック信者と言われるとき、トランプがキリスト教信者と言われるときと同じ違和感を覚えるが、それは私だけのことだろうか。

 そういえば新しい総理の石破茂はプロテスタントだそうだ。 安倍晋三は統一教会の信者ではないとしても、その関係はまさに「内縁の妻」とも言うべき親密さではなかったか。それに比べれば、私が個人的にも知っていた社会党(後の社民党)の衆議院議長になった土井たか子や、その周辺の河上民雄とその秘書などは、プロテスタントの信仰をまじめに生きた真のキリスト者であったことが懐かしく思い出される。

さて、この後は「宗教と金」の関係について書いて話を結ぶべきなのだが、一回のブログとしては長くなりすぎるのでここで区切り、続きは次回に譲ることにしよう。

【付記】

「政治と金」問題で国民の信を問う形になった今回の衆院選は与党連合の過半数割れに終わった。国民が「自民党=金=統一教会」の泥沼政治に鉄槌を下した形に終わった。これで日本は変わるのか?

(つづく)

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★ 福音書の中の自然宗教的要素

2024-10-22 00:00:01 | ★ 神学的考察

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福音書の中の自然宗教的要素

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キリストの写真 

聖骸布に残されたキリスト本人の顔

 

 また、変なことを言う、などと思わないでください。最初に断っておきますが、キリスト教 が天地万物の創造主であり、自然を超越して永遠に存在しておられる唯一の神を信じる「超自然宗教」であることは言うまでもありません。

 それは、疑いもなく真実であり、もちろん私自身もそれを固く信じています。

 しかし、福音書を読んでいると、おや?ここには自然宗教のことが書かれているのではないか、と思わせる箇所があちこちに顔をのぞかせているのが気がかりです。

 早速一つの例を引きましょう。

 マタイの福音書の20章には、「ヤコブとヨハネの母の願い」というくだりがあります。

 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、『何が望みか』と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れるとおっしゃってください。」・・・すると、「他の十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」

 これって、今の衆議院選挙の時期に実にふさわしいテーマではありませんか。誰が王座に着くか?つまり誰が総理大臣の地位に登るかは、代議士たちの最大の関心事だったでしょう。今回は、結果的に石破がなりましたが、決まる直前までは、高市がなるか?小泉になるか?自分にとって今だれ誰に擦り寄っていくのが一番の得策か、と皆真剣に考えていたに違いありません。

 お目当ての候補が総理、総裁になった暁には、自分もきっと大臣の要職につけるだろう、しかし外れたまた当分は冷や飯喰らいと、皆が地位と権力と金の欲にまみれて必死で皮算用していたに違いありません。 

 イエス・キリストの弟子たちも、似たような野心に駆られてイエスの後についていただろうことは、出しゃばりの母親に抜け駆けをされた他の十人の者が皆「これを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」と言うくだりから見え見えです。

 昔風に言えば右大臣、左大臣。今風には幹事長、政調会長、外務大臣、財務大臣、防衛大臣、等々。誰もがいいポストを求めてせめぎ合っているのです。

 そこへ、息子の出世を願って母親が出てくるあたりは、ママゴンと言うか、マザコンと言うか、世の中は今も昔も全く変わりありません。そして、それに腹を立てたということは、ほかの10人の弟子たちも五十歩百歩の同じ穴のムジナであることを白状しているようなものです。

 このような話から、超自然宗教の創始者であるキリストに召し出されたのに、付き従った12人の弟子たちは皆、多かれ少なかれイエス・キリストをこの世の権力者、覇者としてのメシアになるべき人だと当て込んで、ひたすら世俗的な野心と下心で付き従っていたに違いないことが透けて見えます。これこそ現生ご利益をあてにした自然宗教的メンタリティーでなくて何でしょうか。

 

イエスが5つのパンと2匹の魚を5000人に食べさせた奇跡

 

 イエスが5000人の群衆に5つのパンと2匹の魚を分けて皆を満足させた奇跡譚の後でも、イエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」(ヨハネ6、26)と図星の言葉を吐かれましたが、これなども、イエスの人気が現生ご利益求める群衆心理から生まれたものであることを鋭く見抜いておられたことを物語っています。

 続いて浮かんでくるのが、次の場面です。(マルコ8.31-37)

「イエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

 と聖書にあります。それはそうでしょう、ペトロがイエスをいさめるのは無理もありません。なぜって、我が主イエスには、これから立派にメシアとしての華々しいキャリアーを上り詰めて権力の座に着いてもらわねば、付き従った甲斐がない。その暁には、自分も相応の地位に就き、偉くなって多くの利権に与るはずではないか。その主が長老、祭司長、律法学者たちから排斥され、多くの苦しみを受けて殺されてしまうなんてとんでもない話です。イエスには是非とも有力者たちから全面的支持を集めて頂点に上り詰めてもらわなければならない。あてにしたご利益がふいになるなんて考えたくもない、というのが弟子たちの本音です。 

 だから、イエスをいさめたペトロにしてみれば、当前のことを言ったまでのことではなかったでしょうか。

 それなのに、イエスはペトロを叱って「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と一蹴して言われた。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と。しかし、この言葉は当時の弟子たちの理解力をはるかに超えていたのです。

 ここに、イエスの説く魂の救いの道としての 超自然宗教 と、現世利益を求める弟子たちの思惑の 自然宗教 との決定的すれ違いが歴然と現れています。

 そう考えると、イエスが振り返って弟子たちを見ながら、ペトロを叱って『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と言われたくだりは、ペトロの 自然宗教 的な考え方を厳しく咎められた言葉として理解することができます。

 さらに決定的なのは、夜のゲッセマネの園で繰り広げっれたイエスの捕縛劇の場面でしょう(マルコ14.43-50)。

 

接吻でイエスを売ったユダ

 

 さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

 それを見た弟子たちは皆、イエスの道連れになって十字架に架けられてはたまらないと、イエスを見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げてしまいました。

 彼らは、夢と野望を抱いて3年間イエスと寝食を共にしましたが、イエスがあっけなく捕らえられ、犯罪者として十字架に処刑され悲惨な死を遂げたのを見て、自分たちの期待が当て外れに終わったことを悟り、失意に打ちひしがれて故郷のガリレアに帰り、みんな元の貧しい漁師の生活に戻ってしまったのです。

 すべてはとんだ当て外れに終わってしまった。逃げ遅れて捕まり、巻き添えを喰らって一緒に十字架につけられる危険を辛くも逃れて生き延びたことをせめてもの幸いと、胸をなでおろしたことでしょう。まさに一巻の終わりです。歴史には、無数の新興宗教の教祖が現れ、弟子を集め、しばらく大衆を惹きつけ、やがてまた消え去り、忘れられていきました。イエスの宗教もその一つとして教祖イエスの大失敗の死で終わり、消滅するはずではなかったでしょうか。

 それにしても、もし本当にこれで話が終わりだったとしたら、キリスト教が超自然宗教として確立され、2000年余りの歴史の荒波に耐えて、いま現在、世界の大宗教として実在している事実をどう説明すればいいのでしょうか。一体何があったのでしょうか。この問いに答えを出さなければ、今の世にまだキリスト教が生きながらえている事実をどう理解すればいいのからないではありませんか。

(つづく)

コメント (2)
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