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私の「インドの旅」と遠藤周作の「深い河」(2)
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人間は自然の中に生きている。人間自身もある意味で自然の一部分であると言ってもよい。
自然の中で生活する人間は「絵に描いた餅」は食えないことを知っている。火の用心のポスターに描かれた火からくわえたばこに火をもらおうとする酔っぱらいの行為が愚かな錯誤であることも誰もが知っている。
「火」という言葉は燃え盛る「火」にも、火の用心のポスターに印刷されたカラー写真の「火」にも当てはまるが、「実在」の火とその「イメージ」の間には区別がある。
小鳥だって、自分と、鏡に映ったもう一羽の小鳥が同じものでないことぐらい、意外に早く理解するものだ。心をときめかせて相手に近づいていくが、嘴と嘴が冷たい鏡の表面で固く拒み合うのを体験すると、それが虚像であることを身に染みて学習する。そして、失望して遠ざかり、ちょっとすねたように寂しげに鳴く。
ポスターの炎から煙草に火をもらえないことを学習しない人間に比べれば、小鳥のほうがよほど賢い。
ところが、分別があると自認する良識者の中に、真面目顔の哲学者の中に、威張った宗教家、名僧、高僧の中にさえ、さらに、あろうことか、カトリックの高位聖職者の間にさえも、小鳥にさえもわかる道理が分からない人が少なくないのがいささか気になる。
雄大な自然、荘厳な宇宙の一角に、地球と呼ばれる青く美しい星があって、その星のうえで人間が文化と文明を築いてきた。神はその人類の営みの中で自然に生まれ、宗教が誕生した。どのようにしてか?
自然は恵みをもたらす。海の幸、山の幸、野の幸・・・。しかし、自然には付き合いづらい一面がある。ひとたび自然が荒ぶると、人間などひとたまりもない。暴風、洪水、地震、津波、火山の爆発、病虫害、等々、枚挙にいとまがない。梅毒に効く薬を見つけたかと思えば、エイズが蔓延する。ペストを克服したかと思ったら、コロナウイルス、やっとワクチンが届いたと思ったら、その先を行く変異腫という具合に、自然の脅威は人間の対処能力を常に超えていく。
人間はその自然の猛威の背後に意志を感じ取り、そこに神を思うようになる。そして、神を祀り、社を建て、祭司を通して供え物を捧げ、長い祈祷を唱えて、禍を遠ざけ恵みだけをもたらすように自然の神を鎮め、安穏な生活を得ようとする。
期待する恵みと遠ざけて欲しい禍の種類に応じて、山の神、海の神、火の神、風の神、水の神、疫病神、ついでにお金の神様へと、と際限なく細分化し、やがて八百万の神々が誕生した。これが自然宗教起源だったと思われる。
そこに、不老不死の願望や勧善懲悪のモラルが付加され、自分はなぜ存在するのか、生きる意味は何か、苦しみは何故あるのか、人はなぜ死ななければならないのか、などの哲学的な問いも加わって、より奥深い宗教心が生まれる。そして、歴史の中に現れた卓越し人物が悟りを得、霊感に満たされて様々な宗教の流れを開いて行った。
私たちのまわりの自然な社会には、恐山のイタコの口寄せや様々な民族のシャーマニズムをはじめとして、より複雑な仏教、儒教、道教、ヒンズー教など、あらゆる広義の宗教現象がうず巻いている。品位のある高尚な宗教がある一方で、人を食い物にし、金を巻き上げたあとはゴミのように捨てる悪徳宗教もあまた生じた。
それらの宗教の間では、時には信条や風習の違いによる緊張や厳しい対立もあっただろう。また、ある地域で生まれた宗教を異なる文化圏に移植しようとしたら、しっくりと馴染まなかったという経験もたしかにあった。
そういう中で、遠藤周作は少年時代に母につれられてたまたまカトリック教会で洗礼を受けた。社会に出てからは、カトリックの神父たちとの交流があり、教会のミサや冠婚葬祭にも顔を出していたに違いない。
しかし、カトリック作家を語って日本で生活してみると、こと宗教に関しては、回りが和服姿でいるのに自分だけ洋服を着ているような居心地の悪さを遠藤は感じたのであろう。さらに、小説家志望の留学生としてフランスに住んでみると、キリスト教的西欧社会の中では、キリスト教徒であるはずの自分が一人和服を着ているような気がして、違和感を一層深くしたに違いない。そんな中で、このままでは西欧のキリスト教は日本の宗教風土にいつまでも馴染めないという思いが湧いてきたのは自然の成り行きだっただろう。
仏教や神道に代表される日本の偉大な先輩たちが構成する宗教クラブに、キリスト教が新参者として加入を許され、仲良くお付き合い願うには、今のままの姿ではなんとも心もとない。
歴史を振り返っても、フランシスコ・ザビエルが初めて日本にキリスト教をもたらしてからわずか38年ほどの間に、当時の日本の人口1,200万人に対して約50万人(恐らくそれ以上)の受洗者を数えたカトリック教会は、迫害と鎖国で歴史の表舞台からあっけなく姿を消してしまった。
鎖国が解かれ、キリスト教の伝道が再開されて以来140年経った今日でも、宣教師たちの努力と日本人の聖職者たちの伝道の営みは目立った成果を生むこと無く、鎖国前の50万人に届くこともないまま、いまは急激に減少に向かっている。これはザビエルの頃の日本の人口1200万人の4%の信者を数えたのに対して、人口が10倍になった今日では、信者の数は人口の僅か0.4%と、ザビエルの時代に比べて1/10にまで比率を落としたことを意味する。
この数字から見ても、キリスト教が日本の社会から受け入れられていないことは明らかで、西欧のキリスト教をそのまま移植しようとしても日本の土壌に根付かず、根が腐って枯れてしまうばかりだ、と言う遠藤の指摘は極めて当を得ているように思われる。そして、キリスト教を日本の風土に合うように変革しなければ、日本の伝統宗教の輪に正規のメンバーとして市民権を得ることは永久に出来ない、という想念が生まれた。
これが、いわゆる「インカルチュレーション」、すなわち、「キリスト教の土着化」というイデオロギーの指摘するところではなかったか。
遠藤周作の「沈黙」や「深い河」にはそのような夢想と悲願が込められているのだと思う。
「深い河」が出版され映画化された当時、私はそれ程には思わなかったが、4年前にスコッセッシ監督のハリウッド映画「沈黙」が話題を呼んだとき、たまたまローマに住んでいて、ローマ教皇のおひざ元でも、カトリックの教勢が衰えの一途をたどる現状にうろたえていた意識の高いカトリックの聖職者や文化人の間で、「沈黙」の映画が注目され幅広い支持を得るのを、私は見逃さなかった。
地球規模で世俗化の波に呑まれて衰えていく教会の現状を憂い、キリスト教をどう改変すれば再び人々の心を掴むことができるのか、真面目に考えようとする良識派のキリスト教文化人や宗教家の間で、遠藤周作のインカルチュレーションのイデオロギーが魅惑的な光を放って注目を集め、評価されたのは理由のないことではなかった。
「沈黙」では、黙して語らぬはずの神が踏み絵を前にしておののく弱い魂に、「踏んでもよい、踏みなさい、私はわかっている、赦してあげる」とささやきかけ、逆さ穴吊りの激しい苦痛にもだえるパードレには「転んでも良い、無駄に死ななくてもよい」と優しく寄り添う神を描き、「深い河」では、母なるガンジスの聖なる流れにおいて、「ただ沐浴し体を流れに浸せばすべての罪障は洗い浄められる」と言う、慈しみに満ちた赦しの神こそ真の神として礼拝しよう、と言うようにキリスト教を自由に書き換えることによって、宗教の土着化を実現できると遠藤は示唆しているのではないか。
自然の偉大な包容力と、限りない慈愛と憐れみにあふれた神こそ、普遍的な神の姿に相応しい、また、掟の順守をもとめ違反すれば裁き罰する男性的神よりも、全てを赦して水に流し抱きかかえてくれる慈母のような神こそ、日本の宗教的土壌に馴染む神の姿であると結論付けたいのだろうか。
小説家遠藤は、その自由な創作的営みが赴くまま、身の丈に合った着心地のいい衣服としての宗教を自由に描いていく。井上洋治神父の「風の家」で提唱された、キリスト教の神を「アッバ、アッバ、南無アッバ!」と唱える世界なども同根である。
それこそ、2千年間の長きにわたって自分の殻に閉じこもり、何処へ行ってもなぜかその地の文化に溶け込めず、余計な摩擦を生み、争いの種にさえなってきた「空気の読めない」中東の砂漠生まれの不器用なキリスト教に磨きをかけ、ひと皮むいて一段高く昇華させ、如何なる土地の宗教文化サークルにも溶け込める、本当の意味の普遍的 (カトリック)なキリスト教を創出する道ではないか、という野心的な提言とも受け取れる。
「土着化」、「インカルチュレーション」の必要性を痛感した真面目なカトリック思想家、指導者がまず日本に現れ、次いで欧米で、ローマ教皇の足元にさえも現れ始めているように見受けられる。
そのような遠藤の思考回路を、次回では具体的に検証していきたいと思う。