:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ バチカンに咲く不思議な早散り桜

2015-02-27 17:19:51 | ★ ローマの日記

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

バチカンに咲く不思議

6分咲きで、もう真っ白く散り敷く? 何故??

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

桜の花は満開を迎えたかと思うと、はや散り始める。花の命はみじかくて・・・、と歌にもなるほど、いさぎよく散り急ぐところが、日本人の美意識にピッタリくるものであるらしい。

しかし、どこの花博士に聞いても、いさぎよすぎて、6分咲き、7分咲きで、はや地面が真っ白になるほど散り急ぐ慌てものの桜なんて聞いたことがない。

人工交配種のソメイヨシノでも、散るのは満開を過ぎてからと相場は決まっている?まして満開期の長い山桜系では、絶対にあり得ない話ではなかったか?

それがローマにはあったのだ!それもバチカンの庭園に!!

かつて四国の東かがわ市が、四国に「宣教神学院」を開いたもらった記念として、聖教皇ヨハネパウロ2世にソメイヨシノの苗木20本あまりを寄贈しようとしたことがあった。 

20世紀末から21世紀への変わり目に、息の長い交渉の甲斐あって、2004年に実現したプロジェクトだった。そこへ阿波踊りの乗りの良さで、徳島の文化人有志が山桜系の「蜂須賀桜」5本をかついで合流した。

去る2月20日、4年ぶりで3度目に同じ徳島のグループが、外務省政務官のフランシスコ教皇宛桜親書を携えて、花見に訪れた。皆さん洗礼を受けたカトリック信者ではないのだが、その2日前には朝から教皇の一般謁見に参列し、11億の信者の頂点に立つ法王の姿を間近に見て感激のひと時だった。 

目の前1-2メートルのところを11億の民(信徒)を束ねる教皇フランシスコは通過した。

3億のオバマ大統領でも、1億の天皇陛下でも、こう近しくはいかない

 

 7-8か国語を駆使して呼びかける教皇フランシスコ

 ミケランジェロのデザインした派手な制服のスイス衛兵

さて、いよいよバチカン庭園で目出度く花見の会となった。午後は人払いして、教皇が護衛もつけず散歩ができるバチカンの奥まった庭園に私たちだけで自由に入った。

10年前、私が徳島の農園で一本ずつ念入りに吟味して選び、慎重に空輸した苗木は、私の親指の太さ、私の背丈ほどのひょろりとしたものだったが、今は幹の周りが60センチの立派な樹に育って、蜂須賀桜はちょうど6-7分咲という頃合いだった。

みんなで さくら、さくら」を合唱し、木の升に日本酒を満たして乾杯をした。銘柄もズバリ蜂須賀桜、ときたものだ。

  

木に近寄って見ると、まだ固い蕾をいっぱい残して、満開までは1週間はあるかと思われた。それなのに、木の下の芝生を見ると、何としたことか、そこには花がもう真っ白に散り敷いているではないか。

私はその異常さに目ざとく気づいて、ギョッとした。これは日本では絶対にあり得ない光景だ!だのに一体何故?

しかも、この異変に気付いているのはもしかして私だけ?

ギャー!という叫び声が桜の木から聞こえた。木の枝で何かが動いた。咲いたばかりの花が一つヒラヒラと落ちてきた。またギャー!と聞こえて、また花がヒラヒラ と落ちてきた。ああ、なるほどこれか!と納得がいった。

カメラのズームを1000ミリの望遠にして枝の間を探していると、居た、居た!青い羽に緑の長い尾。小さな目に曲がったくちばし。多分野生のインコの類だろう。そいつらが数羽、咲いたばかりの桜の花を、嘴で一瞬くわえたかと思うと、下へポイと落とす。これで地面に散り敷く白いものが、ばらばらの花弁ではなく、五枚の花びらがまだくっついたままなのも理解できた。

鳥は花の中心の一滴の蜜を吸って、その花をポイと下に落としていたのだった。

日本にはこの手の野鳥はいない。そしてヨーロッパではここにしか 蜂須賀桜 はない。

私も子供の頃、満開のつつじの植え込みに入って、花を取って、チュッと甘い蜜を吸ってはポイ、をして遊んだのを懐かしく思い出した。大人になってからも、ある少女に真っ赤なサルビアの花の蜜を吸うことを教えてもらって、二人で夢中になって吸って楽しんだこともあったっけ。

日本の鶯も同じ目的で梅の花に寄るのかもしれないが、花を食い散らかして落とすような不作法は聞いたことがない。イタ公のインコはいたずらが過ぎるというか、やることがいかにもイタリア人らしいな、と思った。

最期に大役が残った。外務省政務官の教皇宛て桜親書を教皇フランシスコに手渡すという大任がまだあった。その親書は霞が関の外務省から発つ直前の一行に関空で届いた。一方、私に予告が入ったのはその2日前だった。メールに添付された本文のイタリア語訳を準備するだけでも冷や汗ものの綱渡りだった。まして、バチカンの高官とアポイントメントを取って、荘厳に手渡し式を演出し、証拠写真を撮って日本の外務省に送る段取りをつける時間の余裕など全然なかった。

幸い今の清貧の教皇は、伝統ある贅沢な教皇宮殿の奥まった最上階に住むことをやめていた。花見した桜の園から地続きに、国務省の前を通って、人気の少ないバチカン国鉄の終着駅の角から坂下のガソリンスタンドのある広場を横切れば、教皇の部屋があるアパート「サンタマルタ」の玄関まで、制止する衛兵に遭遇することもなく徒歩で近寄れることは知りぬいていた。

徳島からの一行 教皇が他の職員と一緒に住む質素なアパート「サンタマルタ」をバックに

エイ!ままよ、ぶっつけ本番のハプニング以外に名案はない。みんなでパパ・フランチェスコのアパートに押し掛けようではないか。入り口には地味な服装の警備員が二人立っていた。

一同を10メートルほど手前に待機させ、団長さんと二人で警備員に近づき、趣旨を話すと、「了解、《親書》はそこの詰め所でお預かりいたします」と慇懃に応対してくれた。

アパートなら、ピンポーンとチャイムを鳴らして、「教皇さーん、宅配便でーす!」と言えば、ドアが開いて教皇さんがハンコを片手にヒョイと顔を出すかと思ったが、なかなかそううまくは行かないものだ。

これで後日、教皇フランシスコのサイン入りの返書が無事外務省に届いたら、俄か大使の重責は果たされたことになるのだが、さて、結果やいかに。

(おわり) 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ アンケート(そのー2)シンフォニーツアー 「無垢な人々の苦しみ」

2015-02-24 21:34:02 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

シンフォニーツアー「無垢な人々の苦しみ」

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 アンケート(そのー2) 

 

東京公演2016年5月7日は確定しました。

キコはこの機会に日本の他の場所でも演奏したいと考えています。

私は、わたしなりに考えを持っていますが、それはひとまず置いておいて、

東京のほかにあと3か所を選ぶとすれば、もしあなたなら、

どこで演奏するのがふさわしいと思われますか?

このブログの右下の細い小さな

コメント

という文字をクリックして、

都市名3つと、それを選んだ理由を都市ごとに添えて

コメント欄に投稿してください。

では、よろしく。

谷口拝

↓   

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 懐かしのベルリンは今・昔 (その-5)

2015-02-24 21:32:35 | ★ 日記 ・ 小話

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

懐かしのベルリン、今・昔 (その-5)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

「懐かしのベルリン、今・昔」と言いながら、のことばかり4回書いて、のことを一度も書かないままでは片手落ちではないか。

25年と言えば四半世紀、そろそろ歴史の物差しで測れるほどの時の流れだ。当時のベルリンはドイツ統一直後で、東西の格差が歴然としていたが、今はその違いがすっかり目立たなくなっていた。

1月下旬のベルリンは日中の気温が0度。厳しい冬のベルリンの佇まいは、私の記憶を一気に最初のベルリン訪問にまで引き戻した。40年前、私がまだ若い盛りだった。愛車を駆ってデュッセルドルフから北東のハノーヴァーで真東に進路を変えると、やがて国境を越えて東ドイツに入る。ヒットラーが発明したアウトバーンは厚い鉄筋コンクリート製で、重戦車の高速走行に耐えた。(東京の高速道路は重戦車が何台も疾走すれば、アスファルトは割れ、高架は落ちるだろう。)

当時、東ドイツから西ベルリンへの国境の検問は厳しさを極めた。貧しい共産圏の中の孤島のような西ベルリンは、資本主義文明のショーウインドーとしての華やかさを誇っていた。

 

さて、後はストーリーも難しい考察も省いて、「今」のベルリンの散策に皆さんをお誘いしよう。

 

1989年11月10日にベルリンの壁が崩壊した その少し前に私がローマに来たことは前に触れた

 

 

統一ドイツの象徴ブランデンブルグ門 は壁の跡形もないが・・・ 

壁を越えて西ベルリンに逃れようとして射殺された人たちの記念の白い十字架は残っていた

 

ドイツ帝国議会議事堂は西ベルリンに残ったが 爆撃で破壊されたまま廃墟のごとく放置されていた

それが東西ドイツ統一を機に 内部の装いも新たに連邦議会議事堂として蘇えった

新たに設けられた屋上の巨大なガラスドームには上り下り二重の緩やかな螺旋回廊がもうけられ

その回廊から議会の議場内部が見下ろせる 日本の国会の古めかしさとは対照的なモダンな議席

議員さんたちの気分も一新されたに違いない 日本も何とかならないものか

 

 

日暮れは早い ショーウインドウの飾り付けは パリとはまた一味違って ベルリンらしく垢抜けしている

 

古いレストランに入った どの壁も俳優たちのポートレートでぎっしり埋まっていた

ビールとシュニッツェルの簡単な食事が懐かしい

 

私が25年前のある朝 夜汽車を降りたツォー駅の近く カイザー・ヴィルヘルム記念教会の夜景

崩れたままの鐘楼は 広島の原爆ドームのように 戦争破壊のシンボルとして残された

 

  

ベルリンには4つのフローマルクト(蚤の市)がある  6月17日通りの市をひやかしてきた

 

ヒットラーのナチスに対するドイツレジスタンスの記念センターにも足を運んだ

貴族出身の将校フォン・シュタウフェンベルグらが計画したヒットラー暗殺の計画は周到なものだった(1944年7月20日)。それなのに悪運の強いヒットラーはほんの僅かな時間のずれで一命を取りとめた。首謀者たちは計画を練るために使った建物(この記念センター)の中庭で直ちに処刑された。その中庭に立つ記念の銅像。 

 

白バラグループ の ゾフィー・ショル と ヴィリー・グラーフ

 白いバラDie Weiße Roseは第二次世界大戦中のドイツにおいて行われた非暴力主義の反ナチ運動。ミュンヘンの大学生であったメンバーは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成した。その後グループはゲシュタポにより逮捕され、首謀者とされる5名がギロチンで処刑された。彼らの活動を描いた映画が戦後ドイツで作られ、反ナチ抵抗運動として、国際的に知られている。日本では「白バラは死なず」の題で上映された。学生時代新左翼シンパだった私はそれを見てどれだけ涙を流したことか。

  

同じく抵抗運動に散って行ったカトリックの活動家たち // ナチスに忠誠を誓ったカトリックの高位聖職者たち

       信徒も司祭も司教も修道女もいた

 

この夜の駐車場の空き地の下には一体何が埋まっているのか

 

 そこに立っていた掲示板には 「総統のブンカ―(地下防空壕)」神話と歴史の証言 とあった

厚さ11メートルのコンクリートの壁に守られ、ここでヒットラーは愛人のエヴァ・ブラウンと愛犬とわずかな側近とともに熾烈を極めた爆撃に耐えた。ソ連軍が500メートルに迫った最期の日、ヒットラーとエヴァは結婚した。彼女は妊娠していた。彼は青酸カリのカプセルを噛んだ瞬間にピストルで自殺。エヴァは服毒自殺を遂げた。二人の遺体は総統官邸中庭で焼却されたが、爆撃が激しく完全に灰になるまで焼かれることはなかった。戦後このブンカ―(壕)は破壊されたが、残骸の大部分は今も地下に残ったまま、その上は駐車場になっている。ネオナチの聖地になることを恐れて、ヒットラーの遺体は灰にしてエルベ川に流された。墓はない。

 

 ベルリンのコンツェルトハウスに行った。キコのシンフォニーを東京のサントリーホール 他で演奏するので

どんなホールか興味があった。

演目はモーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンと豪華なものだった

 

ホール喫茶室の花

 

     

たまたま「日本フェスティヴァル」ベルリン に出くわした。若い男性が日本の連凧を上げていた。和弓を手にしたご主人と和服を見事に着こなした奥さんが仲良く会場に吸い込まれていった。秋葉原のように、だが金髪は本物の、コスプレドイツ娘たちも大勢集まっていた。

 

 

  

私が10年余り勤めたコメルツバンクは、今や合併を重ねてドイツでナンバーワンの大銀行にのし上がった。

右は、昼間のカイザー・ヴィルヘルム記念教会の前で。

おまえ、髭はどうする?

  日本に帰る前には剃らなくちゃ・・・

 (おわり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」 東京公演の 日取りと会場 決定!

2015-02-20 19:09:02 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」の日本ツアー

ついに東京公演の日取りと会場決定!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

東京公演ついに決定!

2016年5月7日(土)「サントリーホール」

これから前後の日程の作成、他会場の確保、ロジスティックス、ターゲットの絞り込み、・・・

忙しくなるぞ!

ここに至るまでにすでに長い準備期間があった。

私は2012年のアメリカツアー(ボストン、ニューヨーク、シカゴ)に同行した。

2013年の東欧ツアー(アウシュヴィッツ、ルブリン、ブダペスト)にも同行した。

作曲者のキコ氏は、将来の日本ツアーに備えて、私を常に連れて歩いたのだった。

前者にについては、私のブログのカテゴリー別記事「アメリカレポート」(19編)に、

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/5407bfa361310681744be2d831e0af38

また、後者については《シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」》(6編)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/ab25009aa45b773dde019ec341878e2e

それぞれ詳しく書いたので、是非あらためて見ていただきたい。

 

 

リンカーンセンターの エイヴリーフィッシャーホール (ニューヨークフィル の ホームグラウンド)で演奏された

"The Suffering of the Innocents"

「無垢な人々の苦しみ」のDVDの表紙

写真の左は作曲者キコ・アルグエイヨの横顔。右側はアウシュヴィッツにユダヤ人を運んだ貨車と

中央に小さくアウシュヴィッツ強制収容所(殺人工場)の正門

~~~~~~~~

アンケート

~~~~~~~~

 普通のコンサートの場合、舞台裏は見えないものですが、私はちょっと変わっているせいか、今後も差支えない範囲では時々舞台裏をちょろりとお見せするかもしれません。

たとえば、東京公演はたまたまゴールデンウイーク後半の土曜日です。マティネー(つまり午後の部)14時開演にするか、夜の部18時開演 にするかの選択肢があってまだ決めかねています。

3月22日にマドリッドのスポーツセンター(屋外?)でシンフォニーが大規模に演奏されます。そのとき私も招かれていて、キコと私はいろいろと日本ツアーの基本的詳細を詰める話をすることになっています。当然、東京は午後の部にするか夜の部にするかも話し合われます。いずれも1長1短ですが、ご自分ならどちらのほうが行きやすいか、理由と共にご意見をお聞かせください。その結果を取りまとめてキコに報告して、彼の判断材料として供したいと思います。皆さんと共にコンサートツアーを作り上げていきたいと思います。

ご意見は、このブログの末尾、最下段右のコメント欄を開いて書き込んでください。(私のメールアドレスをご存知の方はそちらへでも結構です。)

ご協力、よろしくお願いいたします。

(つづく)

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 〔号外〕 教皇フランシスコの粋な計らい

2015-02-16 18:15:33 | ★ ローマの日記

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

〔号外〕 教皇フランシスコの粋な計らい

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

イタリアの郵便局は全く当てにならない。いつ先方に届くか見当がつかないのだ。それで、大事な急ぐ郵便物はわざわざバチカンポストに持っていく。同じローマにあっても、別の独立国で、先進国並みの真面目なサービスが期待できるからだ。

今朝、平山司教様の手紙5通をバチカン郵便局から出すために、聖ペトロ広場に行った。すると、脇の郵便局の周りに人だかりがしていた。その人だかりを縫って進もうとすると、長髪にひげ面のハンサムな男性が私を呼び止め、ちょっとテレビのインタビューに付き合ってくれないかと誘った。きれいなお姉さんがテレビカメラをこちらに向けた。(あれ?普通はカメラを男が、マイクはお姉さん、じゃないの?)

話のテーマは、「この郵便局の脇に教皇フランシスコは今朝から散髪屋とシャワー室を開業した。浮浪者にただのサービスを始めたのだが、あなたはどう思うか。賛成か、反対か?」というものだった。

「つまり、浮浪者として私はそれをどう受け止めるか、という質問ですか?」と問い返し、「粋な計らいだと思いますね。私も早速お世話にならなければ・・・」と答えた。

すると彼は、私の汚い格好を改めて見て、これはまずいことを言って私を傷つけたと思ったか、照れ笑いをしながら「いや、それは、実は私の問題でもあるんですがね」としきりに自分の長髪と髭をなで回した。

それだけのことだが、昼ご飯のテーブルでその話は笑いを誘った。司教様は私の姿をじろじろと見て、その恰好じゃ無理もないネ。面白いから、早速ブログに書いたらいい、と話を振ってこられた。

街角の日本人浮浪者

(おわり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」の日本ツアーにGO!サイン。

2015-02-16 09:58:56 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」の日本ツアーにGO!サイン

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

ついにGOサインが出た!

これから日程の作成、会場の確保、ロジスティックス、ターゲットの絞り込み、資金問題、・・・忙しくなるぞ!

しかし、大切なのは、このシンフォニーの本質は何か、何故するのか、何故この時期に、

などの内容面を明確にすることではないか?

私は2012年のアメリカツアー(ボストン、ニューヨーク、シカゴ)に同行した。

2013年の東欧ツアー(アウシュヴィッツ、ルブリン、ブダペスト)にも同行した。

作曲者のキコ氏は、将来の日本ツアーに備えて、私を常に連れて歩いたのだった。

前者にについては、私のブログのカテゴリー別記事「アメリカレポート」(19編)に、

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/5407bfa361310681744be2d831e0af38

また、後者については《シンフォニー「無垢な人々の苦しみ」》(6編)

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/c/ab25009aa45b773dde019ec341878e2e

それぞれ詳しく書いたので、是非あらためて見ていただきたい。

 

 

リンカーンセンターの エイヴリーフィッシャーホール (ニューヨークフィル の ホームグラウンド)で演奏された

"The Suffering of the Innocents"

「無垢な人々の苦しみ」のDVDの表紙

写真の左は作曲者キコ・アルグエイヨの横顔。右側はアウシュヴィッツにユダヤ人を運んだ貨車と

中央に小さくアウシュヴィッツ強制収容所(殺人工場)の正門

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-4)

2015-02-13 19:57:27 | ★ 日記 ・ 小話

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

懐かしのベルリン、今・昔 (その-4)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

写真のないベタ文字のブログが敬遠されることは、経験からよく知っている。それで、いつも恐る恐るアクセス解析を見るのだが、驚いたことに今回は逆に続伸している。それで、調子に乗るわけでもないが、もう一回だけ運を試してみようという気になった。

 

 

これからする話は、我ながら出来すぎていると言うか、芝居がかっているというか・・・。だから、現実に起こったこととして信じられない人がいて、谷口の作り話だろうと言うなら、私は敢えてそれに抗弁はしない。しかし、「事実は小説よりも奇なり」なのだ。

 

 

振り返れば、この1週間の修練のあいだ、一日として安楽な日はなかった。とは言え、雨でも降らない限り日中は何とかなった。ただ、夜を過ごすのはつらいことが多かった。しかし、それも明日無事に汽車に乗れたら、あとは誰かが何か食べさせてくれるかもしれない。有終の美を飾るために、今日もう一日元気を出そう、と自分を奮い立たせた。

夕闇が迫るころ、都心に帰るにはもう遠くまで来すぎていた。次の教会を最後に、あとは橋の下の風の当たらない場所でも探そう。そう心に決めて、戸を叩いた(呼び鈴がなかったからだ)。薄暗がりのなかでも、手入れの行き届かない小さな貧しい教会であることは歴然としていた。 

待つことしばし、疲れた顔をした初老の司祭が、物憂げに現れ「・・・・・」と、彼は無言だった。

だが、こちらはもう慣れたものだったから、お構いなしに、「主の平和が貴方とともにありますように!」「神父さん!神の国は近づきました。回心して福音を信じてください!」と一気にまくし立てた。

すると、その神父はガックリと膝を折って、我々の前に黙って跪き、目に涙を浮かべ、わなわな震える声で言った。

「ああ、やっと来てくれましたね。私は貴方たちが来るのを何年待ったことか!ありがとう。ありがとう、神様・・・。」後はもう言葉にならなかった。彼はさめざめと泣いていた。

この思いがけない展開に、私はただ呆気にとられた。

その夜、遅くまでかかった彼の告白を写実的に展開すれば、興味をそそるブログが3つも4つも書けただろう。だがそれはしない。

 

 

神父になって以来、彼の人生はずっとついていなかった。任された教会はもともと小さく貧しかった。説教が下手で人を惹きつけることに成功しなかった。世間の景気が良くなればなるほど、信者は教会を離れ、献金も減って、やり繰りがつかなくなった。神父の身分に強いられた独身生活の淋しさに耐えかねて、愛人をつくり、密かに肉欲に溺れる自分を恥じながら、やめられなかった。酒で良心を麻痺させようとしてアル中になり、わずかなお手当も殆んど酒代に消えるようになった。しらふの時には努めて善人を装ってみても、仮面の下の醜い素顔が魂を苛んだ。神などとっくに信じられなくなっていた。引き裂かれた魂のまま生きているのが辛く、死んだら楽になれると思ったが、いつも未遂に終わった。

そして、信じてもいない神に向かって叫んだ。「神様、もしあなたがいるのなら、人を送って私に回心を勧めさせてください。その印を見たら、もう一度人生をやり直せるかもしれませんから・・・。」

そして、何年も待ったが、誰も来なかった。私は完全に見捨てられたと思って人生を諦めていた。

だが、私は今、神様を再び信じる。彼は私を見捨てなかった。その憐れみと赦しと愛の印を見たからだ。

あなたたちがその印だ。

 

 

全てを語り終えて、彼の顔に微笑みが浮かんだ。私たちは抱き合った。私たちも泣いた。甘美な涙だった。彼の家にあったものを一緒に分け合って食べ、飲んだ。それはどんな豪華な食卓よりも素晴らしかった。

彼はもう大丈夫だ。きっと立ち直って再び生きはじめるだろう。

 

 

聖書という書物は実に不思議な書物だ。世の中には古典と呼ばれるものが無数にある。しかし、この一冊は全くの例外だ。他をすべて引き離して、ダントツ1位の超ベストセラーだから、だけではない。

それは、聖書に書かれた言葉に-聖書に書かれた言葉だけに-生命が宿っているからだ。聖書に書かれた言葉が死んだ言葉ではなく生きている言葉だというのはどういうことか。それは、その言葉に命があり、その命が活動し、その言葉が生き物として動き、働き、作用して結果を生まずにはおかない、ということだ。聖書のある場面と同等の状況で同じ言葉が告げられると、時間と場所を超えて同じことが起こり、同じ結果を生む、そういう不思議な言葉だと言ってもいい。

人間が(年齢も人種も異なっていても)、同じ状況で(たとえば見知らぬ土地で二人が連れ立って一銭も持たずに)、聖書に書いてある言葉と同じ言葉(たとえば、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」)を吐くと、2000年前にガリレア地方でイエスの弟子たちの身に起こったことと全く同じことが、現代のベルリンの秋の空の下で、私たちにも起こる、ということだ。私にとっては、自分の身に起こったことであり、見て触れたことだから、当然信じて生涯忘れないが、たった4編の私のブログを読んだ読者の皆様も、「ふーん、そうなんだ。そんなこと実際にありなんだ!」という気分になって納得されるのではないだろうか。生きている神の言葉だから、命あるものに固有の働きをして、その作用に見合った反作用を引き出す、と言ってもいいだろうか。

聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)という言葉がある。

今回の正味1週間の修練は、一人の主人(神様)だけに100%仕えたらどうなるかの人体実験だった。実験室の中でもう一人の主人(マンモンの神=お金)を完全に排除した時空を人工的に作って、その中で人間はどうなるか、神様はどう働くかを検証した、と言ってもいい。

ローマから1200キロ離れた人口300万人のドイツ最大の都市で、一銭も持たず、頼るべき知人もなく、ただ聖書の言葉を告げるだけで1週間過ごすとどうなるか。まるで広大な砂漠のど真ん中に放り出されたような状態に身を置くと、ふだんはどこに居るのか、居るのか居ないのか、雲をつかむような不確かな存在だった神様が、目にこそ見えないが、ピッタリ寄り添って、まるで召使のように衣食住必要なものすべての面倒を見て下さった、という実体験は、一度それを経験すると生涯決して忘れられるものではない。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。」(マタイ6章25-31節)

という言葉は、命のある生きた「神の言葉」だった。言われた通り「回心して福音を信じなさい!」と言ったら、目の前であの神父が回心した。まさに奇跡が起きた。こんなわかりやすい事実はかつて経験したことがなかった。

 

(つづく)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-3)

2015-02-10 16:45:13 | ★ 日記 ・ 小話

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

懐かしのベルリン、今・昔 (その-3)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

何時間寝たか。日の出と共に目覚めたときには、野ウサギたちはもう穴に帰っていた。

二人とも冷静さを取り戻していた。どちらからともなく謝って和解すると、関係はそれまでよりずっと親密になった。人の気配が始まる前に朝の冷気をついて学校を後にした。公園の水道の水を腹いっぱい飲んで朝食に代えた。

臨機応変にヴァリエーションが加わるにせよ、平和のあいさつに始まって、「神の国は近づいた。回心して福音を信じなさい!」と告げるのがこのミッション(宣教)の核心になる。毎日それ以外にすることがない。

相手は一律にカトリック教会を預かる主任司祭たちだが、反応はまちまち。嫌悪の情をあらわにして我々を拒む神父から、適当にあしらってバイバイの人、生真面目に対応して受け入れる司祭まで、10人十色だった。ひもじい日もあれば、お腹いっぱいの日もある。夜は何とか工夫して寒さをしのぐが、まともにベッドに寝られることはなかなか期しがたい。

その日の午後も足を棒にしたが、まだ夕闇には届かない中途半端な時間だった。町の周辺の教会は互いに離れている。疲れは溜まってきたし、今日はもうこの辺でおしまいにしたいのだが・・・と期待しつつ教会の呼び鈴を押した。

紋切り型の「平和の挨拶」は無事パスした。玄関のやや長い立ち話もスムースだった。修行のためとは言え、いまどきバカ正直に聖書に書いてある通り「福音を告知」をするために、一銭も持たずに遠路はるばるイタリアからやってくるなんて実に奇特な話だ。まあ、冷たいものでも一杯飲んで休憩していきなさい、と応接間に通してくれた。期待したビールではなく、ジュースとビスケットが出た。

通訳に徹し、光男君を話の輪に加え、3人で対話する形に持っていくほどに私も成長していた。相手の神父がいい人だということはよくわかったが、さりとて話が盛り上がり熱が入るというわけでもなかった。何となくこの辺が潮時かと察して、暇乞いをして教会を出た。

二人で顔を見合わせて、さて、これからどうしよう?時計は6時頃を指していた。市の中心に戻って、浮浪者向けの炊き出しの列に並ぼうか、もう一軒教会を訪ねて運を試そうか。地図を見ると一番近い教会は4キロほど離れていた。7時前には着くかな?という感じだった。光男君も逞しくなっていて、もう一軒試すほうに同意した。

二人の関係はもうささくれ立ってはいなかった。行くほどに日はとっぷりと暮れ、郊外の集落の窓々には団欒の灯がともりはじめた。マッチ売りの少女も、寒さに凍えながら、あの明かるい窓の中を切ない思いで覗いたにちがいないと、ロマンチックな気分に浸るころには、遠くに司祭館の灯が私たちを招いていた。

ピンポーン♪!すぐに中から戸が開いて、笑みを湛えた赤ら顔の神父さんが迎えてくれた。

「主の平和が神父さんと共に・・・」と言い終わらないうちに、「いいから、いいから、さあ入んなさい。外は寒いから早くドアを閉めて。」「遅かったね、待っていたんだよ。もう温かい食事の準備はできている。手を洗うかい?トイレはあっちだ!」

「????!」これは一体何の冗談だ?!思わず光男君と顔を見合わせた。神父は満面に笑みをたたえて、手を揉みしだきながら我々を眺めている。

「神様!サプライズもいいけれど、あんた、これちょっとやりすぎじゃないの?」と心の中でつぶやいた。

暖炉の前のソファーに落ち着いた。平和の挨拶も、神の国は近づいた・・・、も省略。とにかくまずは乾杯!晩秋のベルリンでも、温かい部屋の中では、最初の一杯は冷たいビールがいい。

「私は日本人のジョン、こちらは光男君。イタリアから列車に揺られ、マルコ福音書の6章にある通り、イエスが弟子たちを二人ずつ、パンもお金も持たせずに町や村に宣教に派遣した故事に習って派遣されてきました。まず平和の挨拶をして、それから・・・。」 

「うんうん、それはわかっているよ。ところで今日で何日目?ほう、それで、あんたたちの勧めを聞いて改心した神父が一人でもいたかね?」

「ん?」と一瞬返事に詰まった。「さあ、それはまだ何とも・・・・。」

「それがいたんだよ、一人!」

「ん?」とまた詰まった。

「いや、実はね。一時間ほど前に電話が鳴って、友達の神父が言うには、『一風変わった二人のアジア人がやってきて、これこれ、こういうことだった。真面目な連中だとは思ったが、深く関わったら面倒なことになりそうだと思ったものものだから、努めて距離を置いて応対していたら、そのうちあっさり辞してどこかへ行っちまったのさ。ところが、送り出した後で急に気が咎め、もしかしたらあれは神様から送られてきた天使たちで、大切なメッセージを持ってきたのかもしれなかったのに・・・と、何とも後味が悪くて考えたんだが、この日暮れの寒空に、まだ行くところがあるとしたら、多分君のところかもしれないと思ったわけさ。だから、もしも来たら車に乗せて送り返してくれ。後は自分が何とかするから』と・・・。」「それで言ったんだ。『わかった。だが、もし来たら私が面倒を見よう。いま時、良い知らせを持って天使がやってくるなんて話、めったにあるものじゃないからね』と返事したわけさ。」

「神様、あんたなかなか粋なことをするじゃない?!それにしても短足にジーパンをはいた肌の黄色い天使なんて絵にならない」と、また独りごと。

さっきの神父は別れたあとで回心した。そして、この赤ら顔さんは会う前にもう回心していたなんて・・・。

その夜はベルリンに来て以来の人間らしいひと時になった。暖炉に燃える火は私の野尻湖の隠れ家のそれといずれ甲乙つけ難かった。美味しいドイツワインは白と相場が決まっている。炙(あぶ)った豚肉にはポテトサラダが似合う。

話は極めて真面目なものだった。

もともと日本は「人格神」不在の自然宗教の世界で、戦後天皇が人間宣言をして以来、日本には「生ける神」への信仰は完全に消滅した。日本列島に生息するエコノミックアニマルが跪(ひざまず)き額を地に擦り付けて拝んでいる唯一絶対の神は「お金の神様」だ。古代オリエントの言葉ではこの世で最も力ある、「マンモンの神様」、別の名を「悪魔」という。

おかげで、日本はドイツを抜いて奇跡の経済成長を遂げた。それに驚いた西欧社会は、追いつき、追い越せとばかり、日本の模倣に走った。それは、生ける神を殺すこと、キリスト教の信仰を脱ぎ捨てて、マンモンの神様を拝むこと、だった。親はもう教会に行かない。生まれた子供には洗礼を授けない。それが劇的に進んだのは「壁」崩壊後の東ベルリンだったが、無神論の共産圏にいた間は信仰を守り続けていた東欧諸国の善良な市民たちも、今は皆それに倣っている。

そのような世俗化とグローバル化に敢然と立ち向かっているのが「キコ」と呼ばれるスペイン人のカリスマ的一信徒と、それに従う集団だ。私たちはその中からベルリンまでやってきた。ここ半世紀、歴代のローマ教皇はカトリック信仰の復権を託することのできるほとんど唯一の懐刀として、この運動を大切に庇護してきた。云々。

神父はじっと聞いていたが、自分もその運動に是非触れてみたいものだと真剣に言った。私はそのとき自分のベルリンでのミッションは具体的な成果を見た、と思った。

その夜は、ツォー駅に降り立って以来、初めてシャワーを浴びた。着の身着のままではあったが、体に染みついた浮浪者特有の饐(す)えたようなあの独特の臭いは消えたように思えた。

清潔なシーツの柔らかいベッドに入って天井を見ながら思った。もし、光男君が街に帰って炊き出しに並ぼう、と言っていたら、僕はきっと彼の言う通りにしていただろう。そして、二人の神父の好意は空しくなっていたにちがいない・・・などと考えるうちに、安らかな眠りに落ちた。

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 懐かしのベルリン、今・昔 (その-2)

2015-02-08 16:38:28 | ★ 日記 ・ 小話

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

懐かしのベルリン、今・昔 (その-2)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

1990年9月末のベルリンは秋の盛りだった。紅葉と落ち葉は素晴らしかった。しかし、日暮れからは寒さが身に染みる。さっそく「神様寒いよ!」と文句をたれた。親切な神父さんが恵んでくれた上着がなかったら本当に凍えるところだった。

(その夜をどうしのいだかは省略するが)、翌朝は柔らかい日差しの温かい日和だった。「神様ありがとう!」

お金がないからバスにもトラムにも乗らない。教会から教会へ、地図を頼りに一日平均20キロほど歩き、神父を呼び出しては「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい!」を告げて歩く。

神父から問答無用の無情な門前払いを喰うことがある一方で、こちらが正気だとわかると、誰か、彼か、話を聞いてくれるものだ。午後には歩き疲れて、額に汗がにじみ、つい「神様、暑いよ。あなた、少しやりすぎじゃない?喉が渇いた、ビール飲みたい!」もう文句は言いたい放題だ。だが、いくら悪態をついても、たいがい誰かが神様に代わって、たらふくビールを飲ませてくれる、と言った具合だった。

別の日の夕暮、今日はこの教会で最後かな、と思う刻限になった。幸い主任司祭は留守ではなかった。

「主の平和が貴方と共に。」という挨拶に「また貴方たちと共に。」とすらすら型通りの挨拶を返すことを知っている神父は期待が持てる。ダメな神父はまずこの挨拶が癇に障るらしい。石で野良犬を追い払うような扱いを受ける時は、心に大きな喜びがあふれる。そんなとき、相手の上に願った平和が自分に返ってくる、と聖書に書いてあるのは嘘ではなかった(マタイ10章13節)。

打ち解けた会話は、地球規模の世俗化の圧倒的な潮流と、世界の教会の危機的な凋落に及ぶ。飽食の西ベルリンではとっくの昔に教会離れが進んで、神不在の日本の社会と大差なくなっていた。ベルリンの壁が崩壊するまで貧しい東側の教会を満たしていた民衆も、今はパッタリと教会に来なくなったという。たった1年の間の劇的な変化だった。

そんな中で、我々の運動が教会の刷新を担う希望の星として教皇(当時はヨハネパウロ二世)に大切にされていること、世界中で新しい宣教活動が進んでいることなど熱く語っているうちに、秋の日はとっぷり暮れてくる。我々がお腹を空かしていると察した人のいい神父は、ビールばかりか香りのいい白ワインも、チーズも、ソーセージも、黒パンも、たっぷりふるまってくれる。温かいスープにもありついた。

問題はそこからだ。このふたり、ひょっとして今夜の宿がないのかな?という思いが神父の脳裏をよぎった瞬間から、事態は急変する。

神父は突然ソワソワし始める。時計をちらりと見て、実は何時から〇〇夫人の家で家庭集会がある。帰りは遅くなるだろう。今朝まで人を泊めていた客室はまだそのままで準備ができていない。50マルクずつあげるから、これで近くのペンションに泊まりなさい。外で野宿なんてとんでもない。病気にでもなられたら寝覚めが悪いからと、彼はお金で問題を片付けようと必死になる。

それはそうだろう。家庭集会が本当の話かどうかはとにかく、我々が札付きの悪(わる)で、さっきまでの話はみんな信用させるための嘘でないとどうして言い切れる?教会の司祭館は、外からの侵入者に対しては金庫のように厳重な戸締りがなされているが、一旦中に入り込んだら、神父が寝静まるのを見計らって、窓の掛け金をはずし鎧戸を開けて外に出るのは造作もないことだ。

教会の祭壇脇の香部屋(ミサの準備室)には銀の燭台や宝石をちりばめた十字架、金の盃など金目の物が山ほどある。廊下のさりげない油絵だって十何世紀の値段の付けられない逸品かもしれない。司祭館は信徒の財産で、神父はよき管理者に過ぎない。だから、素性の知れぬ二人のアジア人を泊めるなんてリスクは誰も取りたくないのは当たり前だ。レ・ミゼラブルのジャンバルジャンが官憲に捕まった時のように、「あの銀器は私が彼に贈ったものだ」、なんて嘘をついて庇ってくれるような粋な神父はまずいない。

「さあ、これを受け取って行きなさい。一日歩いて疲れてもいるだろう。遠慮しないで!さあ!」と親切そうに言うが、さっきまでと違って、「私はあなたたちが信用できないから」と顔にはっきり書いてあるのを私は見逃さない。

それまで一人占めで神父と楽しそうにしゃべり続け、話の中身を一言も通訳してくれなかった私に対してストレスを極限までつのらせていた光男君が、おおよそ察して「一体どうなってるの?」と日本語で聞いた。ひそひそとかいつまんで事情を説明すると、彼は暗く寒い外に目をやって、「受け取ろうよ!」と言う。「だけど、出発する前に、食べ物も、飲み物も、一夜のベッドも、提供されるものは何でもありがたく受けなさい。ただしお金だけはダメ、ときつく言い渡されているではないか。」「それだったら、なぜもっと早くおしゃべりを切り上げて、駅の待合室に行くなり、浮浪者救済施設のベッドに申し込むなり、手を打とうとしなかったのか。こんな街はずれで遅くなって、雨でも降ったらどうするのさ」と私の段取りの悪さを責めてくる。それに「せっかくの親切を無にするのは悪くないか?」とも言う。

俺一人なら断固辞退するところだが、光男君にはちょっとひ弱なところがあるし、まだ半分以上の日程が残っている。風邪でもひかれたらそれこそ厄介なことになる。それに、神父は苛立って急き立ててくる。納得いくまで彼と議論している時間はとてもなさそうだ。結局、こういう時は意思の弱いほうが勝つことに相場は決まっている。心ならずも大枚100マルクを受け取ってしまった。

さて、神父に礼を言って、外へ出てからが大変だった。

「お金はダメだとはっきり言われてきたではないか。どうして受け取ることにしつこく固執したのだ。」

「最後はお前が受け取る決断をしたくせに。」

「それはお前があきらめなかったからだ。それに、時間をせいている神父の手前もあったし・・・」と責任のなすり合いと弁解が延々と続く。

そんなところへ泣きっ面に蜂とはこのことか。冷たい霧雨が降り始めた。喧嘩は一時休戦。雨宿りの場所を求めて夜道を急ぐうち、小学校風の建物の前に出た。門をくぐって敷地内に入ると、グランドに面して広い庇(ひさし)の張り出した場所を見つけた。下のコンクリートは乾いていた。並んで壁にもたれて座ると、気まずい沈黙が流れた。

雨に濡れてまで、宿を探しに行こうとは光男君も言い出さない。寒くはあるが、幸い体温を奪い去るほどの風はなく、お腹もいっぱいになっていた。そこへ歩き疲れから眠気が襲ってきた。

気が付いたら、いつの間にか眠っていたらしい。光男君は、そばで大きな寝息を立てている。

ふと目をやると、向こうの植込みの下に何やら不思議な光の点がたくさん見える。時々点滅したり、動いたりする。何だろう?と瞳を凝らすと、それはどうやら穴から出てきた野ウサギたちのようだった。少し離れた街灯の淡い光を、私たちを見つめる好奇の目が反射しているのだった。

そうだ、あの100マルクに決着をつけなければ、と考えて、神父宛てに手紙を書いた。「ありがたく気持ちだけは頂戴しました。しかし、お金はお返しします。私たちはお金を受け取ることをゆるされていませんので、・・・。」その紙でお金を包むと、寝ている光男君を起こさぬように、そっと忍び足でその場を離れた。暗い道をたどるうち教会に着いた。ポストに投げ入れて最短コースで学校に戻った。

光男君は目を覚ましていた。そして腹の底から絶望していた。てっきり私に捨てられたと思ったらしい。言葉のわからない外国で、パスポートも切符も、それに「お金までも」私に持ち去られ、もう私とは永久に巡り合えないと悲観したのだろう。(「情けない!俺がそんなことするはずがないだろうが。1週間お互いに命を預け合った相棒ではないか。」という言葉は呑み込んだ。)私の顔を見て安心したか、彼の絶望はわけのわからぬ怒りに変わった。

だが待てよ!彼がパニクッて、焦って私を探しに当てもなくこの場から彷徨い出ていたら、一瞬のすれ違いで「生き別れ」も現実にあり得たかもしれなかったのだ。本当は紙一重の実に危険な場面だった。闇と孤独の中、不安と恐怖に打ちのめされて動くことすらできずにいてくれたことが幸いした。 

(つづく)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 懐かしのベルリン、今・昔 (そのー1)

2015-02-04 23:59:10 | ★ 日記 ・ 小話

 

薄曇りのローマ空港を飛び立った

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

懐かしのベルリン、今・昔 (そのー1)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

スイスアルプスの上は晴れていた

最近、思いがけずベルリンを訪れる機会に恵まれた。テーゲル空港からバスで市内のツォー駅の前で降りた。その途端、懐かしい思い出がワーッとよみがえってきた。かれこれ25年ぶりのことだ。 気温0度。細かい砂粒のような雪が微かに降ってくる。

当時、取り敢えずやくざな銀行稼業からは足を洗ったものの、50歳の誕生日を目前にして、教会のどの門を叩いても扉は固く閉ざされていた。齢を取りすぎて神父への道はもう完全に断たれたか、と一旦はすっかり観念したそのあとのことだった。やっと道が開け、私が神父を志してローマに来たのは1989年の10月だった。

まだ神学校には入れてもらえず、取り敢えず寡(やもめ)のアンジェラおばさんの家に下宿してグレゴリアーナ大学の神学部で勉強を始めたその数日後、目抜き通りで警官が整理するほどの大変な人だかりがしていた。見ると発泡スチロールの塊が山と積まれて道を塞いでいた。それを若い男たちが壊しにかかっていたのだ。それがベルリンの壁崩壊のニュースに呼応して行われた大がかりなストリートパーフォーマンスであったことが理解できるまでには、なおいささかの時間を要した。それほどイタリア語がまだよくわからなかったのだ。

 

1989年11月10日 ベルリンの壁崩壊の日 ブランデンブルク門の前の壁 上には東ベルリンの市民、下には西ベルリンの市民が

明けて1990年の9月末、アドリア海に面した漁村、ポルト・サンジオルジオの丘にある合宿所で開かれた神学生志願者たちの集いに私も招かれた。500人ほどの若者が世界中から集まっていた。一人ひとり皆の前で吟味され、世界中どこへ送られても、生涯そこで宣教に身を奉げる覚悟があるかを問われる。そして世界中の神学校にくじ引きで割り振られるのだが、その前に大事な試練が待っていた。聖書には、こうある。

「イエスは十二人を呼び集め、・・・神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。・・・。」十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。・・・(ルカ9章1-6節)

これをキコは500人の神学生志願者に文字通りやらせるというのだ。交通費などでざっと2千万円はくだらないな、と元銀行マンは踏んだ。事故保険にも入らないこのプロジェクトは、まさに現代の狂気だ。足かけ9日間。正味7日間。イタリア、フランス、スペイン、ドイツ、オーストリア、それ以遠のイギリスや東欧も含めて、あらゆる都市に二人一組で一銭も持たせず送り出す。そして、「神の国は近づいた。改心して福音を信じなさい。」という決まり文句を、バカの一つ覚えのように告げて歩かせる。鉄道か飛行機の、往復切符とパスポートだけ持たされて、250組の若者たちが決められた町や村に送り出されるのだ。

組み合わせはくじ引きで決められた。ルールは、二人の間に意思疎通ができる共通言語があること。二人のうち少なくとも一人は送られた先の国の言葉が話せること。各人は皆自分の名前と所属、使える言葉を書いた紙きれをたたんで、言語別の籠に入れる。

老獪な私は考えた。自分の場合、英語かドイツ語か日本語だが、さて、英語だと相手が誰になるか皆目予想が立たない。ドイツ語なら、相方は若い優秀なドイツ人かオーストリア人の青年と相場が決まっている。その若者にくっついていけば楽ができる。そう読んで自分の紙きれをドイツ語の籠に入れた。

いよいよ組み合わせが始まった。キコは籠の一つを取って、大げさにガサガサと揺すって見せ、やおら一枚の紙を拾い上げた。マッテオ君。君はイタリア人で英語がわかのるだね?では相手は英語の籠から選ぼう。ランランラン、ホイ!フィリッピンのロピート君。君はマッテオとパレルモ(シチリア)に行きなさい。拍手がわいた。

次は、ランランラン、ホレ!ジュゼッペ。君はフランス語ができる?それではこの籠から、ランランラン、エイヤッ!オー、ギヨーム君。では、二人はマルセイユに行きたまえ。拍手。

イタリア語の籠がまず空になって、スペイン語の籠もほぼ空になって、いよいよドイツ語の籠になった。順調に組み合わせが進んで自分のカードが出た。誰であれ相手は流暢にドイツ語を話す優秀な若者と決まっているさ。楽勝、楽勝!とあさってのほうを向いて油断していたら、キコがどうも変なことを言っているらしいことにハッと気が付いた。ジョン!(私はここではそう呼ばれている)君は日本人だがドイツ語ができるのか?フム、フム!・・・ここに日本語しかできないのが一人いる。ちょうどいい、彼と一緒にベルリンに行きなさい。

しまった!英語にしておけばよかった、と思ったが後の祭り。この愛情飢餓症で服装もだらしなく、歯もちゃんと磨いてない光男お坊っちゃまと一週間も一文無しでベルリンの町をほっつき歩くなんてゾッとしない、と思ったが、こいつをクリアーしないと神学校に入れてもらえないとあっては観念するほかはなかった。

一夜明けて、二人はベルリン往復の鉄道の切符と一人2000円ほどの現金を渡されて、車中の人となった。しかし、これから1週間、一文無しで生き延びる二人の運命を一人で背負わなければならない恐ろしい日々を思うと、気が滅入って車窓の景色も目に入らず、光男君と口をきく気にもならなかった。

夕方にミュンヘンに着いた。先に連絡が入っていたと見えて、共同体の兄弟たちに優しく迎えられ、一緒にミサにあずかり、温かい食事にありついた。そのあと、まるで出征兵士のような歓呼の見送りを受け、夜行列車に乗り込み、いよいよベルリンへ。

同じコンパートメントに乗り合わせたイタリア人の紳士が我々に興味を持って話しかけてきた。ベルリンに事務所を持つ商人で、一週間ほど買い付けに行くという話だった。真面目な信者で、我々が聖書にあるとおり一銭も持たずに福音を告げて歩くのだと聞いて、いたく感心したらしい。ご親切にも1マルクと電話番号を書いた紙を、もし困ったことがあったらいつでも電話するようにと言って渡してくれて。私は深く考えもせず、有難くその紙で1マルクを包んで尻のポケットに入れた。

翌朝早く、同じツォー駅に降り立った。(その景色は今回もあまり変わっていなかった。)最初に持たされたお金でしっかり朝ごはんを食べた。残りのお金で詳しいベルリンの地図を一枚買った。それから、職業別電話帳のカトリック教会のページをコピーして、残った小銭は出発する前に指示された通り、最初に出会った乞食に一銭残らず施した。これで準備万端整った。

見まわして一番高い建物は、メルセデスベンツの巨大な輪を載せたビルだった。エレベーターで最上階までのぼり、そこからベルリンを見渡して、十字を切って厳かに街を祝福した。次に電話帳の住所と地図を頼りに司教座聖堂に向かい、司教様に面会を求め、宣教を始める許可と祝福を願った。

武者震いをして、いよいよ戦闘-いや宣教-開始。まず旧西ベルリンの中心の教会に向かった。イタリアを発つ前に、「目的地に着いたら、よそへは行かず教会を回りなさい。主任司祭を呼び出して福音を告げなさい」と指示されていた。

大きくて繁盛している教会と見受けられた。受付で申し入れると、やがて主任司祭が出てきた。

「汝(なんじ)と共に平和がありますように。」と聖書にある通り紋切り型の挨拶をした。すると、相手はキョトンとしてじろじろと私たち二人を見下した。私はジーパンにTシャツ姿だった。後ろでもじもじしている相棒も似たような恰好だった。ここで一発決めようと焦るのだが、どうしてもセリフがすらすらと口をついて出てこない。(ドイツ語が話せないわけではない。)「えーと、そのー、か、カ、神の国は近づいた。カ、か、回心して、ふー、福音を信じなさい。」とやっとの思いでいうと、神父はキッとなって、「お前たちは誰に向かってものを言っているのか分かっているのか?私は神父だぞ!それは私がお前たちに言うセリフだ。私は忙しいのだ。さあ、とっとと消え失せろ!」みたいな調子で追い立てられた。ケンモホロロ、とはこのことだ。短足のアジア人の我々は、多分「ムーン」(韓国統一教会)の一派かなにかと見間違えられたにちがいなかった。

次の教会でも結果は同じだった。なんで言えない?言うべきドイツ語は分かっているのに。と落ち込んだ。光男君は、「この先大丈夫?本当にドイツ語できるの?」みたいな顔をするし・・・。

追い詰められてハタと気が付いた。そうか、まだお金を捨てきっていなかった。そのためかも知れない。駅前の乞食に持ってきた金の残りは全部くれてやった。しかし、尻のポケットには万一の安全のために、あの商人の事務所の電話番号とコインがまだ残っていたのを思い出したのだ。

慌ててお乞食さんを探した。ベルリンの壁が崩れてまだ1年も経っていなかった。東から流れてきた貧しい失業者が、そこ此処で物乞いをしていた。最後の1マルクを帽子に投げ入れ、電話番号も破り捨てると、急に心が軽くなって勇気が湧くのを感じた。

次はやや中心を外れたそれほど流行っていないような教会だった。出てきた主任司祭に、「貴方に主の平和がありますように!」と切り出すと、「また貴方たちと共に!」ときれいに型通りの挨拶が返ってきた。「神父さん。私たちは今日あなたに良い知らせを持ってきました。神の国は近づいています。神様は貴方の隠された罪をすべてお見通しです。どうか改心して福音を信じてください!」実にまあすらすらと出てきたものだ。(これ全部ドイツ語のアドリブでやったんですよ!)まず光男君がびっくりして私の顔を見つめた。神父さんはもっとびっくりしたに違いない。韓国人か中国人かわからない中年のジーパン男の言葉が、グサッと神父の胸に刺さった確かな手ごたえを感じた。彼がそんな言葉を面と向かって吐く男に出会ったのは生まれて初めてのことだったろう。 

応接間に案内された。修行のため、イタリアから夜汽車で今朝ベルリンに着いたこと。聖書にある通り、一文無しで福音を告げるためにやってきたこと。神父志願の神学生の卵であることなどを話すと、主任司祭は真剣に耳を傾けた。時計を見ると昼をまわっていた。「お腹が空いているだろう。昼はどうするの?」と聞かれた。「神様任せです。」と答えると、女中さんに命じて三人で昼食ということになった。内心、「やったー!神様ありがとう!」と叫んだ。

無意識のうちにとは言え、たった1マルクであれ、お金を身につけて、それを最後のよりどころとしていた限り、神様は遠くの天の果てで手をこまねいて居られた。それが、最後の1マルクも捨てて、神様以外により頼むものが全くなくなるやいなや、神様は私のすぐそばまで降りてきて、跪いて給仕して下さることが身に染みてよくわかった。

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする