:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2020 クリスマスメッセージ

2020-12-24 00:00:01 | ★ 神学校の日記

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2020 クリスマスメッセージ

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 コロナもあって、私の身辺はひっそりとしています。今日24日のクリスマスミサは、都下某所で喜びいっぱいに祝われますが、それはひとまず置いておいて、遠くイスラエルのエルサレムから入った素敵なニュースがありますので、聖なるご降誕を待つ待降節に当たって、ガリレア湖のほとりにあるレデンプトーリス・マーテル神学院の院長が伝える現地の生活について最近の様子をお伝えしましょう。

 

 皆さん、

 新型コロナウイルスのために、12月8日の無原罪のマリア様の祝日に予定されていた叙階式が延期されるなど、イスラエルの神学校でもいろいろな影響が出ました。

 しかしながら、その間に、私たちの神学生たちは、フランシスコ教皇が新たにエルサレムのラテン教会の総大司教に任命されたピエルバッティスタ・ピッツァバッラ猊下の叙階式の典礼のお世話をさせていただくことになりました。以下にその時の写真を何枚かご紹介いたします。

 

エルサレムの教会で典礼の奉仕をするレデンプトーリス・マーテルの神学生たち

 

旧市街への行列が間もなく始まる 

 

旧市街の行列 十字架を持つものも、盛装した警護の男たちもほとんどみなマスクをしている 

 

新任のエルサレムの総大主教 白いケープ姿は聖墳墓騎士団か

 

聖墳墓教会内部 十字架から降ろされたイエスの亡き骸が横たえられた石に接吻する総大主教

 

中央の赤いのはカトリックの枢機卿 黒いのは東方典礼の司教たち 

 

 また、最近私たちの神学校をマロナイト典礼の大司教ムッサ・エル・ハゲ猊下が私たちの神学校を訪問され、私たちの活動をたいへん励ましてくださいました。

 数年まえに、ロディ・ノウラと言うマロナイト教会の神学生が私たちの神学校で養成を受けて司祭に叙階されましたが、今年はレバノン出身の同じマロナイト典礼の若者がここで養成を受けることになりました。

マロナイト典礼の大司教(中央)とレデンプトーリス・マーテル神学院の神学生たち

この中にマロナイト教会の神学生が一人いる

 

立っているのは若い院長のフランチェスコ・ボルタッジオ神父 ローマの神学校では私の後輩

頭の毛の薄い人物がマロナイト典礼の大司教だろう

 

 皆さん、待降節はまことに喜びに季節です。なぜなら、私たちは私たち人類全体の歴史の中で最も喜ばしい出来事である神の御子の聖母マリアからの誕生を迎える季節だからです。ですから、使徒パウロは「主において常に喜びなさい!主はすぐ近くに居られます(フィリピ書4章4-5節) と書いているのです。

 幼子イエスに会いに行きましょう!神の大いなる愛がこの小さな幼子の中に現れているのですから。

 

ガリレアのレデンプトーリス・マーテル神学院

院長 フランチェスコ・ヴォルタッジオ神父

 

 

 1988年にローマで最初のレデンプトーリス・マーテル神学院が設立された。聖教皇ヨハネパウロ2世と新求道共同体の創始者キコとの合作だった。1990年に第7番目の姉妹校が日本の高松教区に設立された。今、32年たって世界に125校以上の姉妹校がある。

 イスラエルのガリラヤ湖のほとりには2000年の頃からレデンプトーリス・マーテル神学院が存在している。エルサレムの総主教の理解の下で発展を遂げてきた。そこでは、中東の様々な典礼のキリスト教会と親密な交流が持たれている。

 日本の高松のレデンプトーリス・マーテル神学校は不幸にして設立者の深堀司教の後任の溝部司教によって閉鎖された。それを惜しんだベネディクト16世教皇は、それを自分の神学校としてローマに引き取られた。「将来の日本での福音宣教に資するために」と移設に関する公文書には明記されていた。

 溝部司教が他界し、状況も変わったと見たバチカンは、2019年秋にローマに亡命していた日本のための神学校を「アジアのための教皇庁立神学院」に格上げして日本に戻し、同年11月のフランシスコ教皇の訪日に合わせてその設置を祝うはずだった。ところが、またもや日本の司教方の反対で実現を見なかった。フランシスコ教皇は、日本の教会が要らないと言うのなら、と、その「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の設置場所を、急遽マカオに変更された。

 ローマに移設された「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」は、一緒にマカオへは行かず、今もローマに残っている。今後それがどういう運命を辿るのか誰も知らない。神様のご計画には計り知れないものがある。

 世界の趨勢を眺めると、レデンプトーリス・マーテル神学院を受け容れた国は豊かな司祭の召命に恵まれ発展し、受け入れなかった国は召命不足と司祭の高齢化を抱えて衰退に歯止めがかかっていない。

♬ Silent Night! ♬ Holy night! ♬

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第13信 ホイヴェルス神父様との再会

2020-12-22 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー 

第13信 ホイヴェルス神父様との再会

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ボンベイにて。

 ぼくがバンガロールからコーチンへ向かおうとしたのは、ケララ州の山中深く存在する一風変わった新しいタイプの修道院を訊ねるためだった。

 しかし、ホイヴェルス神父様と約束の日にボンベイで無事合流するためには、コーチンを三日以内に発たねばならない。しかも、目指す修道院は遠く、なお悪いことには、コーチンからボンベイ行きの飛行機は予約しておいたにも拘らず、座席の保証を得られなかった。

 そこで、ぼくはコーチン行きをひとまず諦め、計画を変更してボンベイに着くことだけに専念することにした。もし飛行機がダメなら汽車かバスか船で行くしかないのだが、すべての汽車、すべてのバスと船は満員で蟻の割りこむ余地もない。みんな聖体大会のためボンベイに向かう巡礼者によって数週間前から予約されていたのだ。今買える切符は聖体大会の後にボンベイに着く汽車のばかりだ。

  幸い僕の場合、飛行場での直談判が功を奏して、結局は何とか飛ぶことに成功したが、この時はじめて、インドではなんでも賄賂で解決できることを実際に学んだ。

 ゴアの上空を通過するとき、スチュアデスがそのことに乗客の注意を促した。目の下の紺碧の海を白い渚で切り取ったゴアの街が、まるでおとぎ話の国の箱庭のように広がっていた。そこには、東洋の使徒聖フランシスコ・ザビエルの遺体が眠っている。ここもコーチンと共に帰りに寄ることになるだろう。

 さて、約束の日の夜、ぼくはボンベイ郊外のサンタ・クルス飛行場にホイヴェルス神父さまの到着を待った。

 ホイヴェルス神父様の飛行機は予定通り着いた。ちょうど満五十年の時間の流れをひとまたぎして、当時まだ紅顔の神学生だった神父様は、やがて、その長身を税関のカウンターに現した。

 「今晩は。」そう言って固く握手してくださる神父様の顔は、こんな時ことのほか優しくほころぶ。

 横合いから税関の役人が急き立てるように聞いた。「荷物は?」「はい、これだけです。」聖務日祷書とスータン(司祭の長衣)だけぐらいしか入らない黒いビニールの手提げが示される。「他にカメラとかトランジスターラジオとか、何か申告すべきものは?」「いえ、何も。」「現金は?」「10ドル。」「10ドル?!」役人はけげんそうな顔をする。いくら神父でも、10ドルぽっきりもってインドに乗り込んでくる人はまずいないからだ。すると神父様は思い出したように「いえ、日本のお金も少し」と言い添えて、帰り道羽田に着いてから四谷までの車代に足りるほどのお金を示された。まことに聖イグナチオの考えていた通りの清貧のイエズス会士を見る思いがした。

 まっすぐにバンダラの聖スタニスラウス・ハイスクールの宿舎へ向かった。ここは五十年前に神父様が教鞭をとられた学校だ。その夜は早く休んだ。

 半世紀前に布教雑誌「聖心の使徒」に書いた第13信はたったこれだけの短いものだった。何とも中身の乏しい、間の抜けた記事ではないか、と今わたしは思う

 しかし、この再会は私にとってはとても重要な出来事だった。横浜を船で出航して以来、糸の切れた凧のように全く行方知れずなっていた私が、一か月後のインドでホイヴェルス神父に無事再開できたということは、その間に起こっていたいろいろなハプニングや予定変更を思えば、ほとんど奇跡に近い幸運だったと言っても決して誇張ではなかった。いわば、スペースステーションと宇宙船がドッキングするぐらいスリルとリスクのある邂逅だったのだ。

 さて、神父様は、そもそも1964年11月12日から15日までボンベイ(今はムンバイと言う)で予定されている「第13回世界聖体大会」に参加するためにはるばる日本から来られたのだった。

 正直なところ、一年以上前にホイヴェルス神父様が、「私はインドに行く。一緒に行きたいものは連れて行ってあげる。」と言われたとき、なぜ神父はインドに行くのか、聖体大会とは何か、など私には一切関心が無かった。戦後の日本で、外国に旅することが若者にとってまだ叶わぬ夢でしかなかった時代に、それが可能かもしれないと思うと心が躍った。それだけで動機としては十分だったのだ。

 しかし、ホイヴェルス神父様にとってはそうではなかった。日本に宣教に来て、戦前・戦後を通して、40年間祖国への里帰りを頑なに拒んできた神父が、熟慮の末インドに行くことを決められた背景には重要な理由が有った。

 時あたかも、カトリック教会の歴史を画する大改革の「第2バチカン公会議」が既に始まっていた。その公会議の旗手パウロ六世が、ローマ教皇としては初めてヨーロッパの外に旅をする。それもヒンズー教と回教が主流でキリスト教が圧倒的少数派の地インドへ。ホイヴェルス神父様はそこに大きな意義を見出されたに違いなかった。

 そして、直接的には、そこに教皇主催の第38回「国際聖体大会」があった。

 正直なところ、わたしは神父と共に開会式に出るまで、それが何であるか全く理解していなかった、そして関心もなかった。それが分かったのはやっと今頃のことだ。

第51回国際聖体大会(マニラ)

 「国際聖体大会」(International Eucharistic Congress)は、ミサの中で司祭が聖別するパンとぶどう酒(聖体)の中に、キリストが実際に現存すると言うキリスト教の伝統的教義・信仰を深め広めることを目的としている。これはカトリックだけでなく、初代教会の頃からロシア正教、ギリシャ正教、聖公会、シリア典礼の教会など、実に広く深く信じられ、保たれている。

 しかし、私個人的には日本の今日のカトリック信者の間でどれほど深く、固く「ご聖体におけるキリストの現存」が信じられているか、心配している。それは、私たちカトリック司祭の司牧的責任だ。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」又、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が許されるように多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26章26節ー28節)

 因みに、アドルフ・ヒットラーはそれを信じていなかった(というか、信じていたがゆえに、口で聖体をいただき、外に出て地面に吐き出し、靴でそれを踏みにじると言う涜聖の行為に出た)。 そして、欧米ではフリーメーソンがカトリック信者からこの信仰を奪うために、ミサで信者に配られた「聖体」を密かに買い取って穢していると言う話を聞いたことがある。実際にお金のために「神の子キリストの体」を売り渡す信者がいるということだろうか。私はそこに光と闇の戦いの最前線を見る。

 第1回「聖体大会」は1881年にフランスのリーユで開かれ、第52回は今年ハンガリーのブダペストで開かれる予定だったが、新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピック同様に2021年に延期されることとなった。因みに4年前の2016年はフィリッピンのマニラだった。

 19世紀後半にフランスで始まったこの運動は、20世紀にはインドを皮切りに全世界に広まり、今もほぼ4年ごとに世界をめぐっている。

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★ 友への手紙 インドの旅から 第12信 E.P. メノン君の場合

2020-12-16 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から ー

12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

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12信 平和の友 E.P. メノン君の場合

 

メノン君に会うためにバンガロールに立ち寄った。 

ぼくは、日本を発つ前に、インド大使館の図書室でめぐり合ったDと言う女子薬科生を通じて、彼のことを知るようになった。彼女によれば、メノン君はいわゆる平和主義者で、昨年の夏、広島の原爆記念日を期して、東京から広島まで数百キロのピース・マーチをやってのけている。彼の足はワシントンのホワイトハウスからモスクワに赤の広場の土まで踏んでいる。 

ぼくが訪れたとき、彼はたまたま講演旅行でケララ州へ出向いていた。しかし、他人の不幸が幸いして、急死した親友を弔うために彼は予定を変えて早く帰ってくることになった。

一両日待って、ぼくは彼の事務所で初めて彼に会った。痩せた中背のかれは、溢れるほどの親愛の情をこめて迎えてくれた。世界中を歩いてきただけあって、身辺には洗練された雰囲気を漂わせていた。

誘われるままにお茶を飲みに出た。二人は市内で一番清潔な新しいカフェーに入った。「東京の喫茶店のようでしょう」、こう言って彼は語り始めた。何気ない言葉だった。しかし、それは僕の頭の中で見えない波紋となって広がり、四壁に反射して複雑な画像を描き始めた。

長い英国での生活から帰ってきたネルー(ネール首相のことをインド人はこう呼ぶ)は。「愛する祖国を植民地支配者のような冷酷な嫌悪の情を持って見返した」と言った、とか。メノン君も一連の外国旅行の末、彼が幼いころ「これが世界だ、これで不通なのだ」と信じて疑わなかったインドの社会を、もはや同じ目で見ることが出来なくなっていたに違いない。

「東京のように・・・」という言葉の背後には、はだしで歩く男たち、カレーの味の沁みた駄菓子を噛んでいる子供たちを、また、表通りで牛糞と泥を練って乾かして、台所の燃料を作っている若い娘たちを見られるのを恥じているのが感じられた。

ネルーの嫌悪、メノン君の羞恥が、インドを近代化しつつある。

解決の希望もない、あまりにも多すぎる社会の悲惨と問題を前にして、人はヒマラヤの山中に逃れ、一人で禅定三昧の内に解脱を求めるか、さもなくば、バンヤンの木陰で昼寝をするしか道がないように見える中で、メノン君は一体何をしようとしているのか。

彼は、ピース・マーチの体験を本にまとめて発表し、ロシアに留学し、いつの日かこのバンガロールの街に、世界平和運動の一大センターを作ろうと夢見ている。

彼はまた、サルボダヤ・ムーブメントと言う一種の民間結社にも所属している。彼らは、全インドの無知な農民に、ガンジーの無抵抗の抵抗による平和を説き、大地主に呼びかけて、小作農に土地を分かたせるために働いている。

彼らは如何なる宗教にも組みしない。彼らにとって宗教は言語と同様に人々の相互不信と、争いと、因習と、迷信と、社会の分断の根源以外の何ものでもない。実に、ヒンズー教のカーストは、社会を横に細かく裂き、原語はそれを縦割りにし(インドは多言語国家だ)、さらに他の宗教はそこに流血の争いを持ち込んでいる。彼らにとって、ただ科学だけが一致と平和と繁栄の女神であり、唯一の共通言語なのである。

彼らはヒンズーの神々を否定し、アラーの神を拒み、ヤーヴェの神を知らない。ガンジーまでも「異郷の丘の上で気の毒な罪人が処刑されたとて、それが私に何かかわりがあろうか」と言って、ついにキリストの神たることを悟らなかったと言われる。

しかし、彼らの間でも仏陀の精神だけは尊ばれる。これは矛盾ではない。改革者たる彼らの目に映じた仏陀その人は、宗教家ではなくて、まさに理想の社会改革者だったからだ。

確かに、紀元前5世紀、6世紀といえば、インドではようやくヒンズー教が固定化し、身動きならぬカーストの枠が人々を重苦しく締め付け始めたときだったから、仏陀の起こした運動はこの社会の制約に対する反逆として、大いに人々の心を捉えたに違いない。従って、彼の教えは社会の変革に役立った限りにおいて栄え、それが仏教として宗教化するにつれて国内における存在意義を失い、逆にその宗教化が国外への伝搬の道を開く普遍性を身に付けていったと言えるのではないだろうか。

やがて二人は店を出て公園を散歩することになった。彼は途中でヴィジャヤと言う名の友達を誘った。彼女はもと彼の同志で、今はヒンドゥスタン航空会社(インドで一社国産航空機を造っている)で役員秘書をやっていた。アーリアン系の美しい女性だった。

封建的なインド社会では、良家の子女が職業に就き、男性に誘われてこうして散歩に出てくるなどということは、勇気が無くてはとても出来ないことなのだ。夕焼け空の下、黒い森のなかをそぞろ歩きながら、三人はいろんな話に夢中になった。

ぼくは二人に問うた。魂の不滅について、本当の幸福について、神の存在について、平和について・・・。ヴィジャヤは黙って僕の問題提起に耳を傾けていた。けれど、メノン君はいささか苛立たし気に僕の話をさえぎろうとした。

彼はインド人独特の雄弁をもって、神の非存在の証明を試み、たましいは不滅ではないと主張し、こうして平和主義者たる彼は、自らの言葉をもって本当の平和と本当の幸福の何たるかに答える可能性を自ら放棄してしまった。

彼にとって世界の始めは問題にならない。不滅のエネルギーは永遠に存在し、そこから物質が生起し、また消えていく。物質は進化し、その頂点は人間の脳で、精神はその所産であるという。彼は人格の自律性に対する理解を欠いている。恐らく彼の心は人格的愛の深みにまだ触れていないのではないか。

ヴィジャヤは終始一貫黙って二人の議論を聞いていた。

やがて三人はまた「東京にもありそうな」立派なレストランに入って夕食をとった。

翌朝僕はコーチンへ向かった。発つ前にヴィジャヤは勤め先から電話をくれた。私は彼女の言っている意味が良く汲み取れなかった。私の頭は睡眠不足でもうろうとしていたからだ。宿舎の部屋は土の床で、入り口は長い暖簾が一枚。土の壁。天井からは暗い裸電球が一個、夜も灯っていた。藁のマットを土の上に敷いたのが寝床で、夜中痒くて目が覚めた。眠い目を凝らすと、土壁を伝って南京虫がぞろぞろと這い下りて私を襲ってくる。恐怖に襲われて、脱いだ靴を片手に、そのかかとでパチン、パチンと叩いて敵を殺す。こうして一夜が明けたのだった。

電話の向こうでヴィジャヤは必死に早口に何かを訴えている。しかし霞のかかった頭ではよく意味が取れない。「イエス、イエス、ぼくは○○時の汽車でバンガロールを去る、サヨウナラ」、をただ機械的に繰り返していた。会話は完全にかみ合っていなかった。

絶望的に彼女は電話を切った。

駅のホームで汽車を待つ間に、ヴィジャヤは家の下僕に託して大きな宝貝を贈ってくれた。それにはローマ字でBAMESWARAMと刻まれていた。僕はまだその意味を調べていない。しかし、電話の向こうの彼女が、せめてあと数日でもいいからバンガロールに留まれないか、としきりに訴えていたのだということに、ハッ!と気がついた。

その時、汽車が入ってきた。

 

 

若気の至りの怖いもの知らず、とは恐ろしいものだ。今思えば、26才の私は身のほど知らずの哲学的命題の議論を見さかいなく吹きかけて、人を困惑させていたように思う。今日、たまたま81歳の誕生日を迎えて、そろそろそれらの問いに分別のある答えを見出さなければと、心焦る日々を過ごしている。

 

 

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第11信 「大嵐の便り」

2020-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー

第11信 大嵐の便り

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11信 大嵐の便り

 

マドラスから西へ約1日。ここはインドでも一番気候の良いバンガロール市です。

 マドラスには、合計4日いたことになりますか。とにかくその間にマドラス州の大学や、学生の家庭生活を見、口の中に消防自動車を百台も詰め込みたくなるようなタミール料理のカレーを試食し、イエスの12使徒のひとり、聖トマの遺跡など訪ねました。

 ぼくは、この偉大な、しかし「手の釘あとに自分の指を入れるまではキリストの復活など信じない」と言った疑い深い使徒のように、「紀元第1世紀のころ、キリストの12使徒の一人が、はるばる千里の波濤を越えて、所もあろうに南インドの東側までやってきていたなんて、とても信じられない、少なくとも、確かな証拠に触れるまでは」と思っていました。しかし、夕暮れの聖トマの海岸をそぞろ歩き、トマの殉教の丘を守る老司祭の物語に耳を傾け、古びたカテドラルの床下深く、聖人の墓に詣でるころには、聖トマのように疑い深かった僕の心も動かされ、たとえ嘘であっても信じたいと言う妙な気持になっていました。

 そして、今ここはバンガロール。

 ぼくはここで、E. P. メノン君と言う青年を訪ねることになっていました。

雨季は去ったと聞かされていたのに、はっきりしない天気だなと不審に思っていた僕の目に、今日アッと思わず息を呑むような記事が飛び込んできました。

 「史上空前の大サイクロン(サイクロンは台風のインド版)セ・印海峡を襲う。港湾施設、フェリーボート、半島部の接続鉄道、鉄橋らが一切が洗い去られ、数百の死体が海岸に打ち上げられた。なお、復旧の見通しは全く立たず」とある。

 僅か数日のことで、危なく死んでしまうところだった。或いは、数日長くセイロンに居たら、インドへ船で渡る計画は変更を迫られることになっていただろう。僕がつい先日乗ったフェリーボートも、今は魚のホテルになってしまったのか。あの中年の機関士さんはまだ生きているだろうか。ケララ州出身のカトリックで、幼い子供が二人いると言っていたが・・・。

 「難破」、それは何と暗示に飛んだ言葉だろう。その言葉には何かしら自分の身の上にかかわりのある響きがこもっている。

ぼくたち若い世代は、近代と言う船が難破した夜、みんな一緒に大海へ放り出されたんだと考えてみたらどうだろう。

 その時、みんな一斉に―それこそ死にもの狂いになって―岸らしき方向に嵐の海を泳ぎ始めたはずだった。けれども、やがて夜が明けて、大波と暴風が弱まると、みんな苦し紛れにしがみついた自分の信条と言う昔の船の破片につかまって、ゆらり、ゆらりと波に弄ばれる自由を楽しみ始めたのではなかったか。

 恐ろしい力の潮流が、知らぬ間に自分たちをとんでもない方向に押し流していることには全く気付かずにいるようだ。せめてその潮が身を切るように冷たかったらと思う・・・。だが、禍なことに海はひんやりと心地よく、波の戯れは人々を適当に退屈させない。彼らは、自分たちがそもそも岸辺に向かって泳ぎ始めたことさえも忘れて、波乗りを楽しんでいる間に、一体なぜ波の中に居るのかさえ忘れているのだろう。

 岸に上がって、船の残骸を集め、使えないものは捨てて、新しい資材を自然の森から伐り出して、前よりも大きなもっと頑丈な船を造って、永遠の港に向かって勇敢に荒海に乗り入れ、再び冒険に満ちた航海に挑まなければならないことを、本来そのように運命づけられているのだということを、思い出さなければならないのではないだろうか。

 遭難者の、そして漂流者の運命の悲劇性に、自虐的に甘えて見たところで、一体何の意味があるだろうか。それはむしろ否定されるべきセンチメンタリズムだと思う。

 例えば、プロテスタントとカトリックとの間の問題にしてもそうだ。一方が他方を併呑する形での一致が、現実には望まれないとしても、また、両者が集団とし歩み寄ることの、いかにも遠い現実ぶつかっても、だからと言って、開き直って現状を肯定してはなるまい。

 問題の解決は、一人一人が接点に立ち、自分の世界の限界を超えて、他者の豊かさを自分のものとしようとして、互いに小さな努力を始める時、初めて与えられるのではないだろうか。

 神の民としての教会が、ばらばらに散らされているのを憂い給うキリストの憂いが、ぼくたちひとり一人の目にも宿るようにならない限り、ぼくたちはまだ神の御子に似ているとは言えない。

 

 

 今思えば、インドのローカル新聞の紙面でふと目に止まった記事から、よくもまあこんな妄想めいたことを考えたものだと、今は思う。

 しかし、当時の私にとっては、キリスト教界の分裂は痛みを伴う自分自身の生傷だった。

 母はプロテスタントだった。母方の親戚の多くがプロテスタントだった。しかし、元をたどるとカトリックだったと言う話をちらりと聞いたことがあった。今はもうそれを糺す手がかりもないが・・・少年時代の不確かな記憶では、何代か前の祖先は、頼っていた神父の私生活に躓いてみんな一緒にプロテスタントの教会に移籍したと言うことではなかったろうか。

 姉は母と同じ神戸女学院に学んでプロテスタントの洗礼を受けた。一方、私は小学校の悪ガキたちとつるんでイエズス会の経営する近くの六甲学院に入ってカトリックの洗礼を受け、そのまま上智大学に進みイエズス会の志願者となったが、迷うところがあってイエズス会を辞め、市井の一学生として哲学の勉強を続けた。

 その後、学生運動の中で見染めた彼女は東洋英和を出たプロテスタントだったが、彼女は同じ教会のメンバーでプロテスタント系の私大の哲学の学生と結ばれていった。

 姉はその後、カトリックに改宗し、プロテスタントの恋人と別れ、修道院に入り、アフリカの極貧の世界に宣教女として旅立って行った。

 また、私より少し年若い友人のT君は、東大を出てカトリック新聞の記者になったが、銀座の教文館で働いていたS嬢と結婚した。当時のカトリックやプロテスタントの学生活動家の間では、エキュメニカルな―つまり、キリスト教の異宗派間の―結婚として、大いに話題になったものだった。しかし今、彼は病の床にある。

 彼の信仰上の主な支えは、奥さんの教会の牧師さんと教会員で、カトリックで今も彼らと友情を保っているのは、私の他はほんの数名ではないだろうか。今はコロナでお見舞いも思うに任せないが、S子さんとはメールで余命僅かな彼の消息を聞き、一緒に祈っている。

 私が、50年以上前にインドの旅でこのような文章を書いた背景には、私を取り巻くカトリックとプロテスタントの複雑な人間模様があったのだと思う。

 

学生時代に作った石膏のレリーフ(現物は失われた)

(つづく)

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★ 友への手紙 インドの旅から 第10信 「賞品授与式」

2020-12-08 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー

第10信 賞品授与式

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第10信 賞品授与式

マドラスにて。

 小さなフェリーボートに乗り、ラーマ ヤーナの伝説出名高い多島の海峡を渡り、ダヌスコティという港に着いた。ついにインド上陸!

 汽車に乗り、細長い半砂漠の陸峡を渡り、ようやく大陸部の高原にかかろうとするころには、もう陽もすっかり傾いていた。ハッとさせられるような美しい夕焼け。これだけでもインドに来た甲斐があったような気がした。

 次の日。汽車が3時間も延着して(こんなことは毎日のことらしく、乗客は平然として誰も動じないのには驚いた)、ほとんど丸一日がかりの汽車の旅が終わった。その夜はロヨラハウスの一隅に宿を取りました。

 翌朝、お目当てのイエズス会経営のカレッジはすぐに見付かった。門を入っていくと、校内の並木通りの両側には、ベレー帽を横にかぶった制服の学生さんがズラリと並んでいた。訪ねたらカレッジデーだということだった。

「カレッジデーとは?」

「カレッジデーとは、つまり・・・」固いインド訛の早口でペラペラやられると聞き取りにくい。要するに、父兄を呼んでその前で優等生らに賞品を授与し、併せてカレッジの学勢を発表する日のことらしい。

 案内されて、講堂の前のほうの席に着いてじっと見ていると、各学科の今年の優等生が次々と壇上に呼び上げられて、来賓のマドラス州知事夫人の手から、銀色のカップや、盾や、メダルを頂戴する。みんなはそれを拍手喝采して讃える。

 やがて学長の長い学勢報告が始まる。つまり、今年は国家試験に何人がパスし、その成績は如何ほどであったとか、どんなコンペティションに誰がどんな成績を収めた、とか言うことである。すべては英語で進んでいく。

 続いてインドの古典音楽が奏される。楽器はドラムや陶器の壺、それにバイオリンとハーモニーが加わる。突然始まり、リズムもなく、主旋律もさだかならず、思いがけぬ時にまるで話を中断するようにして終わるインドの音楽。

 それからベニスの商人とジュリアス・シーザーが上演されて、最後はラビントナー・タゴールによる国歌が講堂に響いて、全員起立して粛然たる中に式典は幕となる。

 ぼくはこれを見ながら、ふと岩下壮一神父の伝記を思い出した。少年壮一の暁星時代が今まさに目の前で展開しているのだ。秀才壮一も、学年末の賞品授与式には、校長のエック師から、賞品をもらっていたに相違ない。そして、東京帝国大学に入っては、哲学を研究して、恩賜の銀時計をちゃんとさらっている。明治末期の物語だ。

 つまり、インドは今ようやく明治時代を迎えているということか。

 インドの学生と日本の学生との間にある大きな相違を、ぼくは今日ハッキリと知った。インドはいろんな意味で確かに遅れている。教育においても、その実質的年限は日本より2~4年も短い。すなわち、20歳の学士さんや修士さまもまかり通っていると言う寸法だ。

 自然科学の研究も平均して言えばまだまだ低い。インドの学生たちが外国語に強いということさえ、自国語の教科書や文献の不足から来る、いわば学問の植民地性の名残りでしかない。その点、日本は確かに進んでいると言える。まずすべては日本語で学べる。教育年限は長いし、科学技術は世界の先端を行っており、哲学的にも「現代」に対する自覚をそれとなく感じさせる。

 しかし、よくよく考えてみると、一体何が進歩で何が後退であるのかということは、そう簡単に言えないのが分かる。

 と言うのは、インドの学生生活を見て、ぼくに大きなショックを与えたものは、実は彼らの外面的な貧しさではなくて、彼らの意識の新鮮さ、彼らの夢の大きさ、そして彼らの理想の高さであったからだ。

 彼らには「世界のインドは俺で立つ!」の気概がある。彼らの大学における研究は、彼らが社会に出て為そうとしていることと有機的に繋がっている。彼らは、自分の祖国が明日の世界をリードするものであると信じて、長年植民地支配者の圧政と搾取に打ちひしがれてきた同胞たちの救済に心をくだき、また、対中国のライバル意識に燃え立っている。「中国が核兵器を持った以上、我々も持たざるべからず」と、断固主張するインドの学生に、日本の「核兵器反対」派の学生は何を言うことができるだろう。

 「今に見ていろ、我々の国の地下にはあらゆる資源が豊かに眠っているぞ!」床は土のままのきたない寮と蚤の這う硬いベッドに嬉々として甘んずるインドの学生と日本の学生たちとは、まさに正反対だ。

 日本では幼稚園予備校にはじまり、親、子、先生三つどもえで、一切が一流大学に向けられる。彼らにとって、人生のピークは入学試験で、その後は惰性で下り坂を滑り降りるだけだ。

 「金と暇と特権のあるうちに、遊べ、楽しめ。蛍の光は青春のレクイエムだ!」と言うのが彼らのモットーか。そこには将来に対する夢も、理想も、矛盾だらけの社会を変革しようとする情熱もない。彼らの大学での学問は、現実に対して何のかかわりもになく宙に浮いている。

 近代化が進み、高度に成長した社会は、社会の現状維持に全面的に奉仕する人間のみを求めている。それ以外の野心を持つものに対しては、過酷な制裁が加えられ、その弾圧の徹底さは、葬り去った理想主義者、改革者に関する記憶の一切までも社会から抹殺してしまうほどだ。だから学生たちは、出口なしのガス室に入れられた人の群れのように、左翼運動に、クラブ活動に、甘い恋愛沙汰に身をやつし、しばらくはもがいても、やがて静かになる。

 こんなことでいいのだろうか。せめてカトリック大学だけは・・・と虚しい期待を寄せた僕は考えが甘かったのだろうか。

 現在のインドは1964年ごろのインドとは全く違います。

 中国に次ぐ大国。IT 時代の到来とともに、多言語国家の補完言語として、またイギリスの植民地時代からの遺産として英語を流暢に話す若者たちのおかげで、インドはアフターサービスのや技術サポートの世界的なアウトソーシングのバックオフィスとなりつつあります。

 東京メトロの東西線に乗って西葛西で降りると、スーパーマーケットのお客の中にはインド人の男女の姿が非常に目立つ。横浜・神戸のチャイナタウンではないが、東京なら新大久保のあたりに韓国人のコロニーがあるように、西葛西には大きなインド人のコロニーがあって、市民権を得ている。

 このインド人たちの中には、東京においてインターネット時代の最先端の技術者として働いている人たちが多い。

 日本の教育熱心な母親、父兄の中に、小供たちを西葛西のインド人学校に国内留学させる希望者が多いと言われている。小学校の頃から英語で勉強し、数学に強い国際人の若者に育っていくからだ。

 私が50年以上前にインドで予感したことがまさに現実になっている。

 

 

 

 

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★ 《清水の女次郎長さんがまた動き出したようです》

2020-12-05 00:00:01 | ★ 清水教会

 

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清水の女次郎長さんがまた動き出したようです!

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清水の女次郎長さん

 

暫く彼女のブログを見に行っていませんでした。何故なら、彼女はここ数カ月沈黙していたからです。

ところが、今日彼女から久々にブログを更新した旨のメールが届きました。急いで開いてみると、

《 県の文化財保護課職員が、梅村司教に会いました(2020年10月)》

と言うやや長い題のブログがアップされていました。

例の美しい木造ゴシックの清水教会の建物を、横浜の司教様が取り壊すと言い出して、信徒や市民が反対の狼煙をあげて、内外からその支援の運動が盛り上がっていると言う話でした。

この度は静岡県の《文化財保護課》の担当者が、司教様に直接面会し、何らかの進展があったかと思われるような記事のようです。

興味がおありの方は、是非直接《女次郎長》さんのブログを開いてお読みください。URLは:

→ https://blog.goo.ne.jp/yuki9693

 

です。(上をクリックすると彼女のブログに飛べます。直接お楽しみください。)

 

 

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★ 友への手紙 インドの旅から 第9信 首どころか胴から 

2020-12-02 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

ーインドの旅からー

第9信 首どころか胴から

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一つ大切なことを書き飛ばしていました。

それは、私がセイロンのコロンボ港で貨客船ラオス号を下りていたことです。

私はインドへの船旅をセイロンで終えて、その後、セイロンを数日かけて陸路縦断し、フェリーでインド亜大陸に上陸することを当初から計画していました。そして、セイロンでは予想もしなかった多くの出来事がありました。しかし、旅の間にはそれらを逐一書く余裕なく、今回の第9信は、そのセイロン滞在も終わろうとする時に慌ただしく書いたものだったのです。

 

 

列車でタレマンナのインド行きフェリー乗り場へ

 

車内の私のバックパックと広げた地図

 

 

第9信 首どころか胴から

 

一週間も遅れて、今やっとタレマンナという小さな港に着きました。

 明日こそインド!

今夜は警察署長の家に泊まっています。さっき所長さんと一緒にジープで税関のお役人のところへ地酒を一杯飲みに行ってきたので、明日は一番に船に乗れるでしょう。

 さて、今回の思わぬセイロンでの長逗留のそもそもの原因になったのは、インドラ君と言う学生との出会いでした。彼は僕を自分の家に引き留め、彼の車でセイロンの中部高原のヒンズー教や仏教の遺跡を見せてくれた。象や鹿や水牛の群れるジャングルのドライブは確かに楽しいものだった。

 土曜日の夕方は海岸のホテルのダンスパーティーに招いてくれた。彼は午後から車で駆け回って友だちを誘い、陽の沈むころ、めかしこんで出発する。

 テンポの速い音楽の流れる暗い大広間では、あらゆる国籍のハイソサエティーが集まっている。そしてダンスに興じ疲れると、二人ずつそっと抜け出して浜辺へ消えていく。夜中を過ぎてパーティーが刎ねると、興奮まだ冷めやらぬ彼らは飛行場の法を遠回りして帰る。小さなフォルクスワーゲンに若い男女を7人も詰め込んで飛ばしていく様は、ちょっとしたものだ。後ろのシートではハリウッド映画そこのけのシーンが展開していく。

かつての植民地の、熟し切った上流社会に育った希望の無い若者たちの姿がそこにあった。中でもカトリックの将来は暗い。政治的圧迫は日増しに募っていく。しかし、この点には、ぼくは同情しようとは思わなかった。何故なら、この迫害は来るべくして来たものであって、彼らがただノベナの祈り(九日間の御祈祷)を繰り返し、圧迫者を罰し給うように神様にお願いするばかりで、自分たちが不当に手に入れた特権を何一つ手放そうとしない限り、当然加えられるべき歴史の鞭だからだ。

 従って、たとえそれが殉教者を出すほどになったとしても、彼を肯定しうる動機は、不正な圧迫から教会を守ろうとしたことではなく、むしろ、誤りを犯している教会に代わって償いとして自分を差し出したからでなければならないと思う。

 しかし、若い彼らには僕たちの知らない別の悩みもある。

 女の子たちを送り届けてから、インドラ君はこんなことを言った。

 「ぼくたちは愛し合っている。二人ともカトリック信者だ。けれど結婚は許されない。カーストが違うからだ。もし無理に結婚しようとすれば、母上から首をちょん切られてしまう。

 すると、彼の親友のアショカ君がそれを受けて、

 「そうかい。それならばその首を大切に博物館に保存させてもらおうじゃないか。ぼくらなんか、カーストこそ同じだが、彼女は回教、ぼくのうちは仏教で、もし結婚しようものなら、首どころか、ここんところからばっさりサ!」と言って、自分の胴を切る真似をした。

 ぼくはこうしたふざけたような言葉の陰に、彼らの結局は結ばれない、だからこそそれだけに切なくはかない思いと、刹那的に運命に反抗して乱れる非行の悲しい素顔を垣間見た気がした。

 自然な恋愛と結婚がカーストと宗教で引き裂かれて結びつかない残酷な現実の中でみんなもがいているのだ。

 しかし、それにしても分からないのは、仏教徒やヒンズー教徒にならともかく、一神教の神を信じる回教徒やカトリックの中にまで古いカーストシステムが厳然と生きて支配していると言う事実だ。

ぼくは、つくづくそんな不条理な制度のない日本に生まれた幸せを感じさせられた。たとえそこにも目に見えない新しい階層差別、這い上がれない貧しさがあるとしても・・・。

 戦後の日本は、いったんは貧しくてもある意味で確かに自由で平等に見える社会になった。もしかすると、こんなに自由で公平な国は世界中探したって見つからないかもしれない。しかし、それがいつまで続くのだろうか。

 それにしても、日本で教会がこんなにも伸びないのは一体どうしたことだろうか。キリスト教の教えが真理なら、なぜ人々の心を照らして広がって行かないのか。隠されて、少数の人だけのものとして囲われていて、それでいいのだろうか。宣教を妨げているのは何か。日本の教会に巣食っている問題は、どうやら外的なものではなく、内的なもののように思われてならない。

 

 

 私がセイロンでたまたま出会ったインドラ君は上流階級のカトリックの青年だった。彼は僕を家に迎え、友だちを紹介し、パーティーに招き、父親の車で数日かけて中部高原地帯を案内してくれた。

学校では軍事教練があった。私にも軍服を着せて写真を撮ってくれたが、たまたま残ったプリントもすっかり劣化していた。

 

 

       軍事教練風景と       一日兵隊さんになった私

 

友人の仏教徒のアショカ君の両親は、私をバザーに連れて行って、宝石店で「君のお母さんへのプレゼントだ」と言って、見事なスターサファイヤを一個買ってくれたりもした。帰国後、父はその石で指輪を作り母の指にはめた。母はデパートで布を買い込み、サリーに仕立ててお召しくださいと言う礼状を添えてアショカ君の母親に贈ったようだった。

既得権で生きている少数派の富裕層の未来は暗い。特にセイロンのカトリックがそうかもしれない。

50年後、同じような景色をイスラエルでも見た。エルサレムの旧市街にはカトリックとイスラムの地区がある。私はエルサレムの聖書研究所で勉強中のダビド神父と二人で、一日宣教に出たことがある。迷路のようなカトリック居住区に着くと、試しに一軒の家に声をかける。応対に人が出てくると、「ピース・ビー・ウイズ・ユー!」と平和の挨拶をする。意味が通じたと感じると、続ける。「今日私たちはあなたによい知らせを告げる天使として来ました。」云々。

門前払いで拒絶されることがほとんどだが、ひるまず戸口から戸口へと続けていくうちに、物好きにも耳を傾けてくれる人がたまにいる。私たちが自分の体験した回心の歴史を率直に語り、相手の心を掴んだと見たら、聖書をランダムに開いて、出てきたページに指を落とし、指先が差した箇所から半ページぐらいを朗読し、ひらめいた言葉でそのメッセージを読み解き・・・。聖霊がその人の心に沁みると、暗い土壁の内部に招じ入れられる展開となる。お茶が出て、今度はその人が心を開き語りはじめる。予想もしなかった彼の秘められた個人史が展開することもある。心の深い苦しみが溢れ出すことも・・・。

話の最後に、たいていはイスラエルの旧市街のど真ん中で、八方をユダヤ人に囲まれ、まるでアイヌや、アメリカインディアンの居留地のように閉じられた狭いカトリックの世界で、希望もなくただ生き、老いていくだけの生活の息苦しさ、絶望感を聞くことになる。

日長一日、足を棒にして戸口から戸口へと彷徨い歩いて、一人でも心を開く人に出会えて、キリストを告げることが出来たら幸せと言うものだ。

 

 

得体の知れない、目には見えない新型コロナウイルスに囲まれ、目の前に迫る雇い止め、失業、倒産、収入の途絶に人々は怯える。それでもGO TO! の狂乱は止まらず、ワクチンの奇跡に縋って理性を麻痺させて、感染者、重傷者、死者の急増と言う明白な危機的現実に目をつぶる無為無策の政府を無批判に支持する無責任さにどう立ち向かえばいいのか。女性の自殺が急増していると聞いたが、この殺人の元凶は誰か。

裏でニンマリ笑って喜んでいるのは「お金の神様。別の名を、『マンモン』と言う」だ。この神様の信者、その奴隷たちが正しい解決を妨げている。他人ごとではない、それは、実は善人面した私かも知れない。或いはあなたかも・・・。

マンモンの偶像崇拝からわたしたちを救いうる唯一の神、解放者のもとに立ち返らなければならない。この「立ち返り」「回心」の待ったなしの契機として、神様は敢えてコロナの試練を送られた。それなのに、キリスト者は一体何をしているのか?谷口、お前はブログを書くマスターベーションに耽りながら、それ以上は何もしないつもりか。

ご自分の溢れる愛を唯一の素材として、天地万物を無から創造し、人間を創造し、わたしを、あなたを、その溢れる愛で息苦しくなるほど強く抱きしめて下さる神についに降参して、マンモンの神、お金の神への奴隷状態からわが身を解き放つ恵みを祈り求めなければならない。「あなた方は神と富に兼ね仕えることは出来ない」(マタイ6.24)しかし、その解放は人間の力だけでは出来ない。

神様!罪人が―つまり私が―あなたのもとに立ち還りますように。キリストの栄光の十字架に希望を置くことができますように。どうか助けて下さい。

 

 

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