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鬱(うつ )、又は、 引き篭り?
あるカブトムシの物語
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4月のある日、お友達の M さんと R さんと3人で野尻湖の家に行きました。
長野県の県境を越えて新潟県の「新井の道の駅」に行ったとき、ふと私の目に止まったのが「マット交換なしで成虫になります」「カブトムシ 本体価格500円」という直径10センチ高さ15センチの透明なプラスチックの円筒でした。
よく注意すると、焦げ茶色のマットの中に、ローソク色をした太い 5 センチほどのカブト虫のかなり成長した幼虫が体を丸めているのが筒のプラスチック越しに見えました。
遥か少年時代の好奇心が頭をもたげて、つい衝動買いしてしまいました。そして2日後にはその筒を薄暗い部屋に残したまま、東京に帰って忘れてしまいました。
7月の半ば過ぎ、甥っ子の H とその長男の小学1年生の S と3人で、甥っ子が私の車を運転して3泊4日で野尻湖の家に遊びに行きました。草刈りをしたり、木を切り倒して暖炉の薪を作ったり、ヨットに乗ったり、遊びと労働の楽しい日々となりました。
そして、私の寝室の薄暗がりにあのプラスチックの筒があるのを発見しました。よく見ると、蝋のような色の幼虫はいなくて、薄茶色の蛹(さなぎ)がじっとしているのが分かりました。筒をたたくと、その蛹はお腹を動かして、「俺は生きているぞ」と返事をしました。成虫になってからも放って置かれたら、きっと死んでしまっていたに違いありません。良いときに来させてくださった、と神様に感謝しました。
家に帰って3日目の朝、筒の壁から見えるところには脱ぎ捨てられた蛹の抜け殻しか見えませんでした。慌てて蓋を開けてみると、黒光りした成虫のカブト虫が身動きもせず鎮座していました。期待に反して、立派な角を着けていないメスのカブト虫でした。そっと触ってみると、思ったよりも敏捷に動き、さっさとマットの中に潜り込んで見えなくなりました。あまりいじくりまわして神経質になられてもよくないと思い、その日はそのままにしました。
2-3日観察しても、いつもマットに潜ったきりで変化がありません。朽ち木を発酵させて粉末にしたマットは、幼虫にとっては食糧であり身を護る環境であっても、成虫の口はもはやマットを食べるようにはできていないことは、少年の時の観察で知っていましたから、このままでは空腹でマットの中で弱って死んでしまうのではないかと心配して、細い棒で突っついて無理やりにマットから掘り出しても、触れば嫌だと動くけど、触らなければじっとして動きません。
実は、この間の消息を M さんに報告し、経過をやり取りしました。
〔私〕 「Mさん、暑中見舞い有難うございます。死んだ弟の3人の子供たちの末っ子とそのチビと深夜の20分前に野尻の家に着きました。甥っ子のHとチビのSはもう隣の部屋で爆睡しています。ここまでHが運転してくれたので、今回は楽でした。お休みなさい。」
〔私〕 「マットの中に入ったカブトムシの幼虫が今、蛹になっているのが、プラスチックの円筒の壁から見えます!刺激に対してかなり敏感に反応して動く!メチャクチャ感動的!蛹の頭の形から角のあるオスではないかと思う!
〔M〕 カブトムシ!勇ましく成長してましたね。よかった!野尻湖、満喫してくださいネ!」
〔私〕 「Mさん。カブトムシの蛹は、脱皮して黒い艶やかな成虫になりました。まだ目覚めたばかりで、動きは鈍いのですが、確かに生きています。
期待に反して立派な角はなく、どうやらメスのようですが、そんなことはどうでもいい。感動的、神秘的。これも神様が造った。人間には作れない。それだけは確か。興奮して眠れない。なんて言いながら、5分後には爆睡か? Z z z!
〔M〕 「おはようございます。野尻の爽やかな朝をお過ごしと思います。カブトムシの神秘は素晴らしいですね。神父さまの感受性の新鮮さはどこから来るのかと驚きます。ある教授がよく16才の柔軟な感覚と今の知識が合わさったら最高だ!と言っていたのを思い出します。」
〔私〕 「大変!うちのメスのカブトムシ、鬱か、引き籠りか、タダのシャイか?
サナギの殻を脱いでもう4日になるのに、挙動がおかしい!サナギからの脱皮は透明なビンの壁の所でやったので丸見えだった。成虫になったら黒茶色のマット(幼虫にとっては全部ご飯だった)をかき分けて上に出てくるものとばかり思っていたのに、一向に動こうとしない。マットを半分ぐらい取り除いて、上の空間を広げて、上から触ろうとしたら、マットの中に潜って姿が見えなくなってしまった。昨日と今日は福島県の相馬に行って夕方帰ってみたら、マットの上に出てきていた。やっと普通になったか、よかった、夕食のあと、広い場所に移して、甘いお水を浸したコットンを敷いたお皿を用意するつもりだったのに、見たらまたマットの中に姿を隠してしまっていた。成虫はもうマットは食べられないはずではないか!一体お前は何を考えているのか、心が知れない!私はただオロオロするばかり。」
〔M〕 「心配ですね・・・。活発になってくれるよう願っています。」
それから私は、カブトムシをマットの筒から出して、強制的に成虫の生活に入らせるために、ホームセンターに行ってカブトムシの虫かごと、エサの甘いゼリーと木登りの木切れを買ってきて、底にマットを3センチほど敷いて、カブトムシを移しました。しかし、彼女はその薄いマットの中に潜り込んで身を隠し動こうとしません。その頑固さにほとほと困り果てました。そして、
〔私〕 「うるさく続報です。心配して昼間にホジクリ出して観察しても、じっとして動かない。死んだのかな?と思ったけど、よーく見ると、口の脇から両方にくの字に突き出た短い触角だけは生きていることを示しているようだ!騙されないぞ、と軽く息を吹きかけると、ピッと触角は引っ込んで見えなくなった。そして一分半ほどすると、アンテナはソロソロと伸びてくるではないか!それを繰り返しても、それ以上のことは起こらないので、飽きてほったらかして置いたら、いつの間にかまた鬱の引き籠りで、焦げ茶色のマットの中に潜って姿を消している。もうヤッテラレン、とほったらかして寝たら、夜中にカサコソ、カサコソという音に目を覚まされた。起きてみると、活発に動いて何とか虫かごから出ようと無駄な抵抗を終わりなく続けていた。それを見ていて寝られなくなり、虫かごをドアの外に放り出して、やっと安眠を得たのだが、昨晩部屋の窓の鎧戸を閉め忘れて、早朝の明るさに目覚め、フト気になってドアの外を見たら、力尽きて絶望したのか、また鬱の引き籠りに戻ってマットの中に姿を消してしまっていた。
ここまで来てやっと分かったこと。思えば、野尻でもカブトムシに出会うのは、夜の明かりが漏れる窓に、ブーン、ガチャンとくるのか、ブーン、バサッと来るのかのどちらかに決まっている。ガラスを直撃して下に落ちるのと、網戸に軟着陸するのとのどちらかだ。
奴らは要するに夜行性だったのです。もともと、昼間に人間に付き合う気が全くなかっただけのことでした。
それを、鬱だ、引き籠りだ、断食自殺志願ではないか?などと言われるのは飛んだ迷惑なことでした。
それで、今朝一番に町田市緑山界隈で一番近くて一番大きそうな山の森へ連れて行って、人目につきそうにないクヌギの樹の所に放そうとしました。
ところが、いざ放そうと思うと私の手にしがみ付いて、離れようとしません。引っ張ろうとしても後足の先の二つに分かれた鈎の先が私の手の肌に食い込んで痛いこと。
ふと思いついて、無理に引き離そうとせずに手を縦にしたら、するすると指の先まで登ってマゴマゴしています。それを払って地面に落とし、背中を捕まえて思い切り放り投げました。
早く強いオスに巡り合って、たくさんの子供を産めよ!と、別れの言葉を投げかけてやりました、とさ!
神奈川の種と長野の卵の交配なら、きっと健全な子孫が増えることだろう、と期待しながら・・・。」
〔M〕 「あら、要するに夜行性だったということね!思わす吹き出してしまいました。よかったです。カブトムシの心配から放たれて、今夜はよく寝てください!」
寝ますとも!これをブログにアップしたら。
ところで、この単純なことに気が付かなかったのはなぜだろう。それは、少年時代のカブトムシはデパートか縁日の夜店で商品として売られていたカブトムシに慣れていたからだ。売り物だから、客の目に留まらなければならない。真昼のような電灯に照らされていても、隠れて寝る場所は与えられていない。潜り込むマットのない籠の中で買い手を待つしかなかったのだ。
それにしても、カブトムシの足の鈎が食い込んだ手の傷は、しばらく痛く、赤く小さく腫れた。マットを食べて太った芋虫は、成虫になったカブトムシの曲がった針のように鋭い鈎の先に微量の劇物を備えることをどこで覚えたのだろう。謎めいている。