:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖人の死に方について(そのー2)

2024-08-20 00:00:01 | 神学的考察

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聖人の死に方について(そのー2)

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 この6月、私は8年ぶりにイタリアでキコと1週間時空を共有した。再会した彼はコロナ期を挟んで見る影もなく変わっていた。

 彼は聖職者ではないが独身で、同じく独身のカルメンという女性と、マリオ神父の三人で一貫して共同生活を続けてきた。キコより年上だったカルメンの死後、その後継者として若いアスンシオンというスペイン人の女性が新たにチームに加わったのだが、今回目にした彼の様子は、2016年に東日本大震災、津波、原発事故の5周年に当たって彼が作曲した「罪のない人々の苦しみ」と題するシンフォニーのツアーを組んで一緒に精力的に活動した頃の彼とはすっかり様子が変わっていた。

 まず、足元がおぼつかなく、アスンシオンの肩に手を置いてゆっくり歩く。

 かつての彼は、1週間ほどの集いの間、毎日、朝から最後まで出ずっぱりで集会を引っ張っていたが、今は一日のプログラムのうち3-4時間を皆と共にして、後は弟子たちに任せて部屋に退いて休む。

 かつては自ら壇上でギターをかき鳴らし、渋い張りのある声で歌って集会を盛り上げていたが、今は時々人の弾くギターに合わせて脇に座ったままマイクに向かって歌うのみ。

 かつては、立って話し始めれば一時間でも雄弁に力強く聴衆を魅了していたが、今は演壇の後ろの高い椅子に浅く腰かけて、渡された原稿を淡々と読む。そのかたわらにはアスンシオンが常に付き添って、原稿のページをめくる。私は彼が何を読んでいるのか気になった。分かったことは、過去50年間、何百という集会で原稿なしに火を吐くような言葉で語った彼のはなしのすべてが録音され、文字に起こされ、整理・保存されていたことだ。今回の集いでは、弟子たちがその中から予定のプログラムにふさわしい内容のものを選び出し、それをキコに読ませているようだ。だから、キコの話には違いないが二番煎じで以前の迫力がないことも納得がいく。

かつて自分が話した内容を淡々と読むキコ

 集会が短い休憩に入ると、ファンの若い神父たちがキコを目指して押し寄せ、握手を求めスマホでツーショットを撮ろうとひしめくが、私も交じって挨拶をしに近づいた。しかし、キコの隣にいるマリオ神父はすぐに私と気付き声をかけてくれたが、キコは目が合っても私が誰かわからない様子だった。

 大勢の中ではそれもありか・・・と思って、一計を案じ、彼が100メートルと離れていない宿舎から車で会場に来て降り立ったところを捕えて声をかけ挨拶した。他に人の群れは無い。しかし、福島やサントリーホールのコンサートツアーで一緒に忙しく働いた私をじっと見つめても、目の前の私が誰か思い出せない風だった。とっさに、ああ、認知症が始まったな、と思った。

 

車から降りたキコは私の肩に軽く手を置いたが

私が誰であるかは思い出せていないようだった

 

 衰えで彼の出番が減った集いの日々、弟子たちは主人公不在のプログラムを仕切って生き生きと活動していた。キコの面前では控えて自分を抑えていた彼らだが、今は自身が主役の座について自由に伸び伸びと振る舞っている。話が弾むと軽い冗談を飛ばして会衆を沸かせるなど、キコの目が光っているときには考えられないような情景が展開する。

 それを見て、ああ、これでいいのだ、と私は内心深く納得した。このまま進めば、表われ方は違っても、彼もイエスキリストやアシジの聖フランシスコのように、惨めな最後を迎えるだろうと胸をなでおろした。キリストの場合のような十字架の上の凄惨な拷問死でなくても、アシジの聖フランシスコのような病気でぼろぼろになった孤独な死でなくても、現代風の、ある意味で最も残酷な、老いて痴呆で人の世話に頼らなければ生きられない物体のように処理されていくのでちょうどいい。それが本物の聖人の現代風の末路だ、と思って、私は妙に納得した。

 

ヘッドホーンをつけてたばこを手に集いの進行を見守るキコ

 

 キリストは復活し、その復活祭は世界で永久に祝われ続ける。アシジのフランシスコも、生前からキリストの再臨ではないかと噂され、死後間もなく大聖堂が建ち、今も大勢の巡礼が集まっている。キコも一旦はひっそりと痴呆で死んだ後、きっと第二バチカン公会議後の特別な聖人として高く評価され末永く顕彰されるに違いない。

 私は正直なところ、キコのパートナーのカルメンとマリオ神父にはあまり興味がなかった。キコが太陽なら、カルメンもマリオもその太陽の光を反射する惑星ぐらいにしか思っていなかった。だから、キコが聖人かどうかには関心があるが、カルメンやマリオのことはとりあえずどうでもよかった。

 ところが、現実には、キコより先に死んだカルメンについて、今バチカンで列聖調査が順調に進んでいるという。もしかしたら、キコに先立って、まず同志のカルメンが聖人として顕彰される日がそう遠くないのかもしれない。もしそれが現実のことになれば、当然キコも聖人に、それもアシジのフランシスコ並みの8百年ぶりの大聖人として顕彰されることになるかもしれない。そうなれば、20歳の時の私が密かに願った「どうか聖人に巡り合わせてください」という祈りが成就することになる。

 16世紀に書かれた伝記「画家・彫刻家・建築家列伝」にも名が残っておりアシジのフランシスコのバジリカに巨大なフレスコ画の連作を残したジオットや、聖ヨハネ・パウロ2世が福者の位に挙げたフラアンジェリコや、ルネサンス期のミケランジェロ、「万能の人」レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術的巨匠の系譜にキコが属することは疑いないが、彼の重要性はそれにとどまらない。

 

キコはあらゆるところに壁画を描く 私の後ろもそのひとつ  ローマの神学校の聖堂の壁画は 

ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂の最後の審判よりも大きい

 

 コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにしたことの最大の弊害は、イエスの説いた純粋キリスト教の中に、当時の地中海世界を支配していた自然宗教の要素が大量に流入する結果を招いたことだった。当時のローマ帝国の自然宗教と言えば、第一義的にはギリシャ・ローマの神話の神々だが、その本質はすべて偶像崇拝であり、その行き着くところはお金の神様=マンモンの神への隷属だった。

 生前のナザレのイエスは「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」とか、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」とか厳しく言って、キリスト教と自然宗教が全く相容れないものであることを強調したが、コンスタンチン大帝のキリスト教公認は、ローマ帝国の急速なキリスト教化には貢献したが、その弊害も大きかった。

 それは、急速な帝国のキリスト教化の結果、ラディカルな改心を伴わない自然宗教のメンタリティーのままの大衆が教会に大量にになだれ込んでくることを許したからだ。以来、教会は皇帝に神のご加護を保証し皇帝はその軍隊で教会を守る相思相愛の蜜月関係に入ることになる。そして、その陰で、キリストが命を懸けて残した遺言、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返せ」や、「人は神と金に兼ね仕えることはできない」は空文化され、キリストの教えは骨抜きになってしまったのだ。名ばかりの信者たちの多くは、口では神の名を唱えながら、心では自然宗教の神、お金の神様=マンモンの偶像崇拝のまま残った。

 もちろん、それを善(よし)としない少数派もいた。あるものは世俗化した教会に見切りをつけ砂漠の隠遁者となった。聖ベネディクトに代表されるような囲いの中に大修道院を経営し、世俗を絶って祈りと労働の生活の中でキリストの回心と福音の教えを生きようとするものも現れた。しかし、そこにも大土地経営と小作人制度のもとで自然宗教の神=マンモンの影響は容赦なく忍び込んできた。そして、大修道院長は世俗の封建領主と変わらぬ富と権力を手に入れた。

 そこにアシジの聖フランシスコが彗星のように現れ、托鉢乞食僧団の新しい清貧運動を始めた。この世の富と財産に拠り所を求めず、神の摂理だけに信頼を置き、マンモンの神ときっぱりと決別してキリストの説いた「超自然宗教」の理想に生きる「小さい兄弟会」の革命を断行した。しかし、「小さい兄弟会」が予想を超えて発展し肥大化するにつれて、悪魔はそこにも巧妙に忍び入り、個人の「清貧」の誓いと僧団=修道会組織=の「集団的な富の蓄積」(マンモンの神への従属)を巧みに両立させる新たな自然宗教化をやってのけた。

 悪いジョークに「全知の神様にもご存知ないことが3つある。(その1)清貧のフランシスコ会の全財産がいくらあるか。(その2)世界中に女子修道会がいくつあるか。(女は3人寄ると修道会を作りたがる、を茶化したもの)。(その3)〇X〇X。」(この3番目の 〇X〇X は、例えば「イエズス会の神父が何を考えているか、神様も知らない」など、状況によっていろいろに言われるが、1位のフランシスコ会の座は揺るがない。) 

 もしキコが私の見込み通りの歴史に名を残す大聖人だとすれば、それは彼が絵画・建築・音楽などの分野にわたるルネサンス期の巨匠のような存在であるからだけではなく、キリスト教の信仰の歴史に名を残す偉大な宗教改革者としてでなければならない。

 それは、コンスタンチン大帝のキリスト教の国教化の弊害として生じたキリスト教の自然宗教化に歯止めをかけ、キリスト教を再びイエスの教え通りの純粋な初代教会の信仰へ復帰することに先鞭をつけた最初の大改革者としてだ。

 キコの試みが可能になったのは、もちろんコンスタンチン体制の逆改革を意味する第2バチカン公会議と聖ヨハネ・パウロ2世教皇のお陰だった。キコは、コンスタンチン体制下で徹底した「回心」を経験しないまま自然宗教的キリスト教を生きてきた信者たちに、初代教会にあった求道者共同体の回心の「道」を、洗礼の前か後かを問わず徹底的に歩む機会を提供した。そして、そのキコに聖ヨハネ・パウロ2世教皇は強いて「新求道期間の道」の「規約」を作らせたが、その第4条「物質的財産」第1項には「新求道期間の道は教区において無償奉仕するカトリック養成の道程である以上、固有の財産を所有しない。」と高らかに謳っている。

 その意味するところは何か。それは、コンスタンチン体制下では、ベネディクト会の戒律を手本として設立されたすべての修道会、そして、アシジの聖フランシスコの托鉢僧団の系譜に連なる後代のすべての修道会で、各修道者が個人としては清貧の誓願を立てて無所有を約束するが、彼の属する修道会は土地・建物の不動産のみならず、あらゆる動産と巨万の富を所有し、清貧を約束したはずの修道者が組織の富と安定の恩恵を豊かに享受するというからくりの上に安寧をむさぼるという欺瞞の構造から抜け出せず、結果的に他の自然宗教と同じ体質に堕し、キリストの「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方と親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)という戒めに背き続けてきた。ここで言う富とはもちろんマンモンの神、自然宗教の偶像=「お金」のことである。

 キコはコンスタンチン体制以降のキリスト教の根底的矛盾、「キリスト教の自然宗教化」という決定的な欺瞞にメスを入れた最初の聖人だと私は思う。それがどういうことを意味するか、私の痛みを伴った個人的経験に基づいて簡単に説明しよう。

 満50歳を迎えようとしていた私が神学生として東京の大神学校に入ることを許されず、最後の望みをつないでローマに送られたのが、聖ヨハネ・パウロ2世教皇によって設立されたばかりの新しいローマ教区立神学校だった。私が54歳で司祭になって高松に錦を飾った頃には、私が学んだローマの新しい神学校の7番目の姉妹校が高松教区立としてすでに誕生していた。しかし、まだ自前の建物はなく、毎年家賃分ほどの赤字を垂れ流していた。設立者の深堀司教の時代はまだ何とか赤字の補填がなされていたが、綱渡り状態だった。そこで、私は銀行マン時代の経験を駆使して、一億円余りの寄付を集め、神学校の建物を建て、赤字を消し、「道」の規約第4条1項に従って神学校の土地と建物をそっくり司教様に寄付した。

 ところが、設立者の司教が引退すると、後任の司教はそんな神学校はいらないと言い出した。そして、お前たちが建てた神学校は司教のもの(教区の財産)だから、お前たちは出ていけ、と言い渡された。私たちはもちろん黙って退去した。これが新求道期間の道は固有の財産を持たない、という規定が具体的に意味するところである。その神学校がその後に辿った数奇な運命については、すでにたっぷりブログに書いたので、それを読んでいただきたい。 

 言いたいことは、キコは教会にコンスタンチン体制以前のキリストの教えの本来の姿、「回心して福音を信じなさい」の原点に戻る道を開いた最初の聖人として歴史に名を残すに違いない、と言うことだ。

 教会は2000年の歴史を通して無数の修道会を産み出し、それぞれ時代の要請に応えて栄枯盛衰を繰り返してきた。しかし、キコの組織としての無所有という実験を思いついて敢行した者は今まで一人もいなかった。アシジのフランシスコはそれを夢見たかもしれないが、それをフランシスコ会運動の基礎にしっかりと据えることには見事に失敗し、その結果、変質した会から捨てられ惨めな失敗者として死んでいった。

 これからの歴史が見物だ。キコの後に同じ実験を試みる勇気あるカリスマが、そして組織が、続くかどうか、是非とも楽しみに見極めたいものだ。とにかく、この一点だけでも、キコが教会の歴史の中でも例外的に偉大な聖人として記憶される値打ちがあると私は考える。

 私は、今回のブログの冒頭に書いたキコとの再会から得た印象によって、彼が本物の聖人にふさわしい惨めな人生の終わり方に向かって突き進んでいる印象を強くした。そのキコに私はぜひともホイヴェルス師の言葉を贈りたい。

 

                                      在りし日のホイヴェルス神父

 

 大げさに言えば、キコはコンスタンチン大帝と並んで、教会の2000年の歴史を3分割する決定的な2つの転機の一つとなる可能性を秘めていると言いたい。即ち、キリストからコンスタンチン大帝までの300年余りは、超自然宗教としてのキリスト教がその純粋性を保って花開いた時代。コンスタンチン大帝からキコまでの1700年間はキリスト教の自然宗教化が支配的であった時代。そしてキコから後のこれからの時代は、自然宗教化したキリスト教が他の自然宗教とともに次第に滅び行き、キコが試みた超自然宗教としてのキリスト教再興につながる部分だけが辛くも生き延びる可能性を秘めた時代という区分である。

 私は、キコの最も円熟した時期に彼の近くで親しく接する機会を得たことを神様に感謝したいと思う。彼と私が同じ1939年生まれ、というのも偶然ではないような気がする。とにかく、彼よりちょっとでも長生きして、彼の最後をこの目で見届けたいものだと思う。

 彼は、教会史に残る特別な聖人だろう。因みに、コンスタンチン大帝もカトリックの教会では聖人として認められているらしい。

薔薇.jpg

 

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★ 聖人の死に方について

2024-08-03 00:00:01 | 神学的考察

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聖人の死に方について

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 ナザレのイエス、イエス・キリストは天地万物の創造主である「神」を父と呼び、天の御父の「ひとり子」としてこの世に誕生したが、自分のことを好んで「人の子」と呼ばれた文字通り聖者の中の聖者であった。

 人の子イエスは、生前、妥協の余地のない回心の教えを説き、多くの奇蹟を行い、最晩年は群衆からダビデ王の裔(すえ)とかメシア(救世主)とかの歓呼の声で迎えられたが、その直後には一転してローマ帝国への反逆者の濡れ衣を着せられて二人の重罪人とともにむごたらしい十字架刑に処せられ、見るに堪えない姿で孤独のうちにに死んで葬られていった。彼の愛した弟子たちはみな逃げ去り、十字架の下に残ったのは若いヨハネと母マリアと数人の敬虔な婦人たちだけだった。

 

キリストのデスマスク?(聖骸布)

 

 12世紀末に彗星のごとくに現れた清貧の聖者、アシジの聖フランシスコは、神様の声に促されて、軒の傾いた当時のカトリック教会を建て直し、清貧の托鉢僧団の先駆者として、教会の改革に輝かしい実績を残し、生前はキリストの再臨ではないかと噂されるほど人々から愛された。

 しかし、そのフランシスコの運動は、短期間に目覚ましく発展し、その過程で早くも大きく変質していった。そして、聖者が掲げた清貧の理想とは裏腹に、彼の興した修道会は、土地を所有し、大きな修道院の建物を持ち、富を集め、大勢の学者を輩出し、世俗的にも教会の中でも権力者、支配者となるものが現れた。素朴で貧しい「小さな兄弟」たちの清らかな貧しい会は、創始者フランシスコの意に反してどんどん肥大化し富み世俗化していったのだった。そして、組織は独り歩きを始め、ついには「師父聖フランシスコの理想」は会の更なる発展を阻む疎ましい足枷と見做されるに至った。

 晩年のフランシスコは、結核を病み、ほとんど失明して弱りはて、失意のうちに修道会の主流からは疎外されていった。彼は、裸で生まれたのだから裸で土に帰ると言って、最初に与えられたポルチウンクラ(ちっぽけな土地)に横たえられ、最後まで彼に忠実だった4人の同志たちとローマの貴婦人ジャコマだけに見守られて、ひっそりと惨めに死んでいった。私はそこに失意の悲惨な敗残者イエスの十字架上の最後に共通する姿を見る。

 

アシジのフランシスコに最も似ているといわれる肖像画

 

 私の敬愛するイエズス会士、ヘルマンホイヴェルス神父様は、東京の目玉教会、聖イグナチオ教会の初代主任司祭であり、生涯名誉主任司祭であったが、四谷周辺に鳴り響く鐘楼を備えた最初の教会堂を建て、その司祭生活を通じで3000人以上に洗礼を授けるというギネスブックものの数字を残し、外国人が受けられる最高の勲章を日本の国家から授与されるなど、日本語を美しく操り、随筆家、演劇や映画の作家・演出家であり、詩人、哲学者として輝かしい生涯を終えられた。私は彼が聖人であったことを疑わない。

 最晩年の2度目の帰国の時には、故郷のウエストファーレン州ドライエルヴァルデ村の生家で、当時ドイツの銀行で働いていた私と二人きり、ホイヴェルス少年の勉強部屋で食事をいただきながら、来年は細川ガラシャの歌舞伎を引き連れてドイツ巡業をするから、お前に現地マネジャーの仕事を託する、と言われた。しかし、その言葉はかなわず、帰国後のホイヴェルス師は急速に容体が悪化し、最後のころは、昼食後の午後2時すぎに再び2階から降りてきて、お昼ご飯はまだですかと言われれるなど痴呆が進み、教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って入院し、退院後は療養生活を送っていたが、ある日、車椅子でミサに与っている最中に急性心不全で死去された。

 

DSCN9378-2_880.JPG

私が撮影してホイヴェルス師

 

 外面上は、師の最後はただの老衰した痴呆老人だったが、樹木希林さんが広めてくれたおかげもあって、師の残された散文詩「最上のわざ」は教会の内外で広く知られている。

 

          

            樹木希林

 

     ヘルマンホイヴェルス神父の

     「最上のわざ」

     この世の最上のわざは何?
     楽しい心で年をとり 働きたいけれども休み
     しゃべりたいけれども黙り 失望しそうな時に希望し
     従順に、平静におのれの十字架をになう
     若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見つけても妬まず
     人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
     弱って、もはや人のために役たたずとも 親切で柔和であること。
     老いの重荷は神の賜物
     古びた心に、これで最後の磨きをかける
     まことの故郷へ行くために
     おのれをこの世につなぐくさりを少しづつはずしていくのは、真にえらい仕事。
     こうして何もできなくなれば それを謙遜に承諾するのだ。
     神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
     手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
     愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために。
     すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
     「子よ、わが友よ、われ汝を見捨てじ」との。

 ホイヴェルス師の命日には、コロナ期の最中も途切れることなく、今年も6月9日、第47回目の「ホイヴェルス師を偲ぶ会」が ー最近は師の生前の姿を知らない若い世代も加えてー 四谷で開かれた。一人の宣教師を偲んで半世紀近くも人々がその遺徳を慕って集うというような例が、他にあっただろうか。

 話は変わるが、私が長年探し求めてついに巡り合った導師のキコ・アルグエイオは、聖フランシスコから800年遅れて現れた稀に見る巨大な聖人だと私は信じて疑わない。ちなみに、「キコ」はスペイン語で「フランシスコ」の愛称、短縮型とされ、いわば「フランシスコちゃん」とでも訳すべきものであるらしいが、キコは聖フランシスコ没後800年ぶりに現れた大型聖人として後世に語り継がれるに違いないと私は考えている。

 

フランシスコ教皇とキコ

 

 そのキコは聖教皇ヨハネ・パウロ2世と手を携えて、第2バチカン公会議の決定を実際の教会の日常に、信徒の生活の中に、生かし実践する一大実験に打って出た。コンスタンチン大帝の時代に教会に大量に雪崩れ込んできた自然宗教の要素を脱ぎ捨て、再び西暦およそ300年代までの初代教会の純粋な信仰の原点に復帰するために、第2バチカン公会議の決定を誠実に生きる大事業に手を染めた。キコは、キリストが洗礼の前提とした「回心」(改心)のわざを、洗礼の前か後かを問わず、忠実に信仰生活に生きる「道」を切り開いた。そして、彼の「道」は世界中で花開き、いま多くの豊かな実を結びつつある。

 キコが聖人だとすれば、彼は歴史に前例のない型破りの聖人だ。もともとは画家で、素晴らしい絵を多数残した。マドリードの新しい司教座聖堂の内陣の壁画を始め、聖画家ジオットのように多数の教会に壁画を残している。ロマネスクやゴシック様式に並ぶ新しい教会建築様式の創造にも野心的なチャレンジをした。民衆に歌われる数えきれない宗教音楽を作曲し、自らギターを爪弾き歌って聞かせた。ついには、フルオーケストラとコーラスのためのシンフォニーを2曲も作曲し、東日本大震災の5周年には200人の演奏家集団を引き連れて来日し、地震、津波、原発事故の三重苦に見舞われた被災地で、「罪のない人々の苦しみ」という一作目のシンフォニーのチャリティーコンサートツアーを実施し、福島、郡山に続いて、東京ではサントリーホールで大成功をおさめた。私は現場の企画を一手に引き受け、キコと共に働いた。彼はルネッサンス期の巨匠たちの系譜に連なる現代の天才的総合芸術家と言っても過言ではないだろう。

 キコはまた、毎年宣教のために忙しく旅行し、敬虔な富豪の申し出があればプライベートジェット機で世界中を飛び回ることも厭わなかった。彼は煙草を吸い、葡萄酒をたしなみ、結構な美食家でもある精力的な活動家だと言える。もし彼が聖人なら、従来の固定観念が当てはまらない型破りの聖人と言えるだろう。

 私は彼と同じ1939年生まれだが、彼は私の何倍も激しく密度の高い生き方をしているから、私よりも早く老いが進んでいるのは当然と言えば言えなくもない。私は何とかしぶとく彼よりも長生きして、彼がどのような死に様を見せるか、自分の目で見届けたいと願っている。彼が名声と隆盛の絶頂で、お釈迦様のように泣きわめく弟子の500羅漢たちに惜しまれながら格好よく大往生を遂げるのか、それとも、キリストや聖フランシスコヤホイヴェルス師のように格好悪い惨めなぼろぼろの最後を迎えてひっそりとこの世を去るのか、それが気になって仕方がない。

 スターダムの絶頂で死なれたら、がっかりだ。私が期待した大聖人ではなかったかもしてないという苦い後味が残るからだ。

(つづく)

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