:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 【映画】 ペンタゴン・ペーパーズ —最高機密文書―

2018-04-19 00:27:22 | ★ 映画評

~~~~~~~~~~~~~~~~

【映画】ペンタゴン・ペーパーズ

—最高機密文書―

~~~~~~~~~~~~~~~~

(鑑賞後に手にしたプログラムから自由に要約引用しながら感想を展開しよう)

【監督】

スティーヴン・スピルバーグ

【主演】

メリル・ストリープ

トム・ハンクス

 

アメリカ合衆国憲法修正第1条は、

「連邦議会は、国教の樹立、あるいは宗教上の自由な活動を禁じる法律、言論、または報道の自由を制限する法律、並びに人々が平穏に集会する権利、および苦痛の救済のために政府に請願する権利を制限する法律を制定してはならない。」と規定している。

ニクソン政権は、ベトナム戦争に関する最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」の掲載差し止め求めて、ニューヨーク・タイムズを訴えたが、判決は以下の通りだった。

 ニューヨーク・タイムズ対アメリカ合衆国の裁判403 U.S. 713

ヒューゴ・ブラック判事による判決の抜粋

合衆国建国の父は、憲法修正第1条をもって民主主義に必要不可欠である報道の自由を守った。報道機関は国民につかえるものである、政権や政治家に仕えるものではない。報道機関に対する政府の検閲は撤廃されており、それゆえ報道機関が政府を批判する権利は永久に存続するものである。報道の自由が守られているため、政府の機密事項を保有し国民に公開することは可能である。制限を受けない自由な報道のみが、政府の偽りを効果的に暴くことができる。そして、報道の自由の義務を負う者は、政府の国民に対する欺きによって多くの若者もが遠い外国へと派遣され、病気や戦闘で命を落とすと言う悲劇を避けるためには責務を全うすべきである。私の考えでは、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、そしてその他の新聞社が行った勇気ある報道は決して有罪判決に値するものではなく、むしろ建国の父が明確に掲げた目的に報いる行為として称賛されるべきである。この国をベトナム戦争参戦へと導いた政府の行為を明るみにすることで、前述の新聞社は建国者たちがこの国に望んだことを立派に実行したのである。

 

ニューヨーク・タイムズによって暴露され、その存在が世界中の知るところとなった政府の最高の機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」。

その機密文書の報道は、政府が負け戦だと理解していたベトナム戦争に身を投じた大勢の兵士を含む、アメリカ国民の未来がかかっていた。危機的状況の中、ワシントン・ポストの発行人キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)は、これまで家族で築いてきた財産と、ジャーナリストとしての精神とを秤にかけることになる。一方、ワシントン・ポストの編集主幹、ベン・ブラッドリー(トム・ハンクス)は、国家に対する反逆罪に問われる危険性を理解した上で、真実の追及を社のメンバーに課していた。そうして2人は勝ち目がないと思われた政府との戦いの中で、民主主義国家として報道の自由を掲げる憲法を守るために団結していく。

 

1966年、ベトナム視察からアメリカへ戻る国防長官ロバート・マクナマラは、メディアから勝利への展望を聞かれると、状況は「飛躍的に進展している」と答える。

それを見て、自らマクナマラに泥沼化するベトナム戦争の現実を報告した男(ダニエル・エルズバーグ)は自らアナリストを務めるランド研究所から機密文書をコピーしてニューヨーク・タイムズ社にリークする。その中には歴代4人の大統領がベトナム軍事行動について何度も国民に虚偽の報告をし、暗殺、ジュネーブ協定違反、連邦議会に対する嘘と言った闇の歴史の証拠が記されていた。ベトナム介入から撤退まで、58,220人のアメリカ青年が戦死し、100万人以上の人命が犠牲となる直接の原因を作った。ペンタゴン・ペーパーズによってその原因となった政府の嘘が暴かれたのだ。

ニクソン政権は国家の安全保障を脅かすとして、ニューヨーク・タイムズに対して記事の掲載の差し止め命令を連邦裁判所に要求した。同紙が差し止め命令を受けた中、今度はワシントン・ポストがペンタゴン・ペーパーズを掲載した。今度は、連符裁判所はニクソン政権の恒久差し止めの訴えを却下した。判決は最初に紹介した通りだが、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムが起訴され、受ける恐れのあった有罪判決は合計115年の刑期だった。しかし、政府による深刻な不正行為があったとして、エルズバーグの裁判は審理無効となった。エルズバーグが密かに手にしたのは7000ページに及ぶ合衆国の最高機密だった。

ニクソン相手の裁判でキャサリンが有罪になる可能性は現実にあった。夫が自殺するまでただの主婦だったキャサリンが、ワシントン・ポスト社に経営者になって直面したこの重大な局面で、編集主幹のベン・ブラッドリーとの緊密な連携を通して、たくましく成長していく。ワシントン・ポスト社内の慎重論を抑えて掲載に踏み切った彼女の信念は「報道の自由を守るのは報道しかない。」であった。

幸いにも裁判は6対3票で報道の良心の側に組した。キャサリンは投獄と、破産と、ワシントン・ポストの消滅との危機を回避しただけではなく、それを2流の地方紙の座から、全米有力紙の地位に押し上ることになった。 

 *********

有名なスチーブン・スピルバーグ監督が通常では考えられないスピードでこの作品の制作を進めた背景には、トランプ政権下の合衆国で、ニクソン時代を思わせる「嘘」がまかり通っている現実に対する危機感があったと思われる。私が一刻も早くこのブログを完成したいと思ったのは、森友・加計問題、15,000ページのイラク日報問題、アメリカのシリア攻撃など、内外の情勢が急迫していることによる。

日本の政治がこれほどまでに嘘にまみれている事実を、もはや国民は座視できない。日本の新聞は、テレビは何と鈍感で生ぬるいことか。一強独裁者を恐れ、報復に怯え、率先して忖度(そんたく)を重ねているとしか思えない。まごまごしているうちに、政権は都合の悪い放送法を改悪しようとさえしているではないか。アメリカは、こと言論の自由に関しては、日本よりはるかに進んでいる。 

今朝の福田淳一財務相事務次官のセクハラ辞任の件も、自社の女性記者の問題を自社の責任で報道できなかったあたりに、日本の報道機関の信念の無さが露呈している。ワシントンポストの女性社主の裁判に負ければ投獄されるリスクを取ってでも政府と戦うという、社運をかけた賭けに出る報道人魂がテレビ朝日にはなかった。

最初に紹介したアメリカの合衆国憲法修正第1条と対比できる日本の平和憲法の最も価値ある条項は国際紛争の解決手段としての「戦争放棄」の一文だと言っても過言ではない。これは、第3次世界大戦の未曽有の悲惨のあと、世界の国々が進んで採用することになる未来の憲法の常識を予言的に先取りしたものだ。アメリカの押し付けでも何でもない。日本人が広島・長崎の教訓として納得して選び取ったものではなかったのか。トランプのような狂人と、日本の政府のような嘘にまみれた指導者のもとでは、中近東であれ、朝鮮半島であれ、明日にも世界規模の戦争の危険が差し迫っていることに対する危機感を研ぎ澄まさなければならない。そして、日本の主権者である市民が底辺から声を上げなければならない。それも、急いで!

 

私は、1970年ごろ、ベトナムの前線で壊れた戦車が相模原の工廠で修理され、再び戦場に送られるのを阻止するため、横須賀に向かう戦車の前に上半身裸になって熱いアスファルトの上に寝転がったことがあった。パリに亡命していたベトナム人のグエン・ディン・ティ神父と仏教の尼僧をパリから招いて、裁判もなく不当に長期拘留されていた大勢の政治囚の釈放を訴えての全国講演旅行に、ボディーガードと通訳を兼ねて同伴したことがあった。反戦の活動に身を投じたベトナム人留学生たちの支援をして、彼らと熱い友情を結んだりもした。今はすべて懐かしい青春の思い出となっている。

その後、私が現役だったリーマンブラザーズの当時の会長ピーター・ピーターソン博士は、ニクソン政権の商務長官、後のソニーの社外重役だ。リーマンのシニア―パートナー、重役のジェイムス・シュレッシンジャーはペンタゴン(国防総省)の国防長官だった。私は、彼らをピート、ジム、とそれぞれ呼び捨てにして、親しく言葉を交わす機会を持った。ホワイトハウスペンタゴンウオールストリートは、地上の世俗社会における最強、最悪の三位一体だと言っても過言ではない。

しかし、真の三位一体は、キリスト教の神にのみ当てはまる神聖な属性であることを忘れてはならない。

(終わり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 【映画】 修道士は沈黙する ー世界経済を操る「先進国首脳会議」G8ー

2018-04-14 07:12:21 | ★ 映画評

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【映画】修道士は沈黙する

ー世界経済を操る「先進国首脳会議」G8 ー

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

先日、渋谷の文化村に表題の映画を見に行ってきた。

買い求めたパンフレットによれば、ロベルト・アンド―監督が新作の題材に選んだのは、《物質主義 vs 精神主義》を核に据えた知的な異色ミステリー、というテーマだった。

主人公は清貧に生きるイタリア人修道士ロベルト・サルス。舞台はバルト海沿岸のリゾート地、ドイツのハイリゲンダムの高級リゾートホテルで開かれたG8ー先進国首脳会議(サミット)。日本も含む8ヵ国の蔵相、中央銀行総裁など、世界の金融・経済の最高のエコノミストたちが集まった。

議題は世界の貧富の較差の拡大にさらに拍車をかける決議を下すこと。

参加者の一人、国際通貨基金(IMF)の専務理事のダニエル・ロシェに呼び出されたサルス修道士は、彼の罪の告白を聴いた。しかし、サルスが部屋に戻った翌朝、ロシェがビニール袋をかぶって死んでいるのが発見された。

自殺か他殺か?ロシェが最後に何を告白したかを知りたがるエコノミストたちに対して、サルスは神聖な告白の秘密を盾に沈黙を通すが、それが彼への嫌疑を深める結果となる。疑心暗鬼のG8メンバーの結束は、この事件がきっかけで緩み、世界経済を新たな危機に陥れる可能性のあった決議は見送られる。

サルスが最後の葬儀ミサで行う説教は、非人間的な合理主義や拝金主義に犯された現代社会への痛切なメッセージとして厳粛に響く。

映画のストーリーの中では、修道士サルスは最後まで自分の口からロシェの告白の内容を語ることはないのだが、アンド―監督は間接に、巧みに、ロシェの告白の内容が、世界の貧富の格差のさらなる拡大という巨大な犯罪行為の計画であり、決議に先立って修道士に告白することで神からその罪の赦しを得ようとするものであったらしいこと、そして、サルスは、たとえ言葉で罪を認めて告白しても、その犯罪行為を遂行する意思が変わらず、あくまで決行する確信犯であるならば、神は決して罪の赦しを与えない、と言って突き放したらしいこと。ロシェの死は神父による他殺ではなく、絶望したロシェが自らの命を絶つことで自分の矛盾に決着をつけたらしいことが示唆されていく。

女性プレーヤーも加わっての、ミステリーとサスペンスに満ちたスリリングな展開は見る人を退屈させないが、国際経済の裏側の仕組みに十分な予備知識を持たない鑑賞者には、かなり難解な内容ではなかったかと思う。 

私は50歳で神学校に入るまでは、フランクフルトで、ロンドンで、ニューヨークで、国際投資銀行業務のはしくれに携わっていた。ニューヨークで、また東京で、リーマンブラザーズの一員として働いていた頃には、この映画の舞台になった世界をしばしば垣間見ることがあった。G8に限らず、世界銀行の総会や、アジア開発銀行とか、アフリカ開発銀行とか、IMFなどの総会がある度に、私自身は末席に連なることすらなかったが、私の直属のボスあたりはソワソワしながら随行員として参加の日に備えていたものだった。

 世界銀行、アジア開発銀行、アフリカ開発銀行、などと聞けば、素人は先進国が発展途上国を支援する人道的な国際機関だと思うだろうか。しかし、その世界の裏側を垣間見た私に言わせれば、実態は、いかに途上国の発展を抑え、先進国がそれらの国々を極限まで搾取し、格差を拡大し、富める少数者がさらに富むことができるかを、あくなき迄に追求するエゲツナイ、オゾマシイ、システムであることが透けて見えてくる。G8やG7などは、経済的、政治的に世界支配を目論んだ非公式な疑似世界政府だと言う考えさえある。

話は飛躍するが、私がリーマン時代のことだったか、今は倒産して存在しない山一證券に、四国出身の総理大臣の若い御曹司がいた。元宰相の御子息とあって、山一の役員たちは腫れ物に触れるような気遣いでピリピリしていたが、私は仕事で彼と付き合うことがあった。そして、年賀状だったか、暑中見舞いだったか、一枚の葉書を彼から受け取った。そこには、「私の仕事哲学」と題して次のような言葉があったのを今でも鮮明に覚えている。曰く:

貧乏人は情け容赦なく、すぐ丸裸にする。

小金持ちは、しばらく太らせてから全部戴く。

大金持ちには、跪いてお仕え申し上げる!

何と正直な告白だろう。これ以上わかりやすい話はない、と感心したものだった。「お金の神様」を拝む「奴隷」たちの心情躍如たるものがあった。G8における国際的なトップの経済人たちの談合の目的は、世界中の大多数の貧しい人々を、いかにして貧しさの中に押し込めておくか。いかにして彼らの資源を安く収奪するか。そして、少数の金持ちがいかにしてより金持ちになるか、を英知を結集して談合する場に他ならない。餓死者が出すぎて問題が表面化するギリギリまで収奪し、資源の利権を争って絶えず戦争を続け、破壊を続ける資本主義の中に「神」はいない。「本当の神」を殺し、「お金の神様」を偶像として拝む「自由主義、民主主義」陣営の隠された本性がそこにある。

そのアンチテーゼとして導入された「無神論的共産主義」の壮大な実験は、ソ連の崩壊で幸いにも失敗に終わった。しかし、だからと言って「自由主義、民主主義」がそれよりましだと言えるわけでは決してない。「自由主義的資本主義」が無神論的である限りにおいてー所詮「拝金主義」である点においてー共産主義にも劣る非人間的で野蛮な社会体制であることは経験から明らかではないか。いずれの場合も「マンモン=お金の神様が君臨している世界である点で、甲乙つけがたい。

聖書には、初代教会のキリスト者の生活について次のような記述がある。

(キリストの教えを)信じた人々の群れは心も思いも一つにして、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、全てを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。(使徒言行録4章32節-37節)

国際金融マンだった頃の私は、上の話を読むたびに、嘘だろう、そんな話はあり得ない、と思ったものだった。しかし、いま一神父として信仰の原点を思いめぐらすうちに、それは決してあり得ないことではない、と思い始めている。

キリストが受難の後、十字架の上で非業の最後を遂げ、墓に葬られ、三日目に空の墓が発見され、弟子たちが「キリストは復活した」と騒ぎだして、それを信じる者が増え、はじめはユダヤ人の間で、しかし、やがてユダヤ人でないローマ帝国の住民たちの間でも信者が増え続け、皇帝の側からの厳しい迫害にも関わらず、貧しい人々の間でますます広がっていった最初の300年ほどの間の「初代教会」では、そのようなことが普通に行われ、21世紀の今日でも、それに近い生き方を理想とする信者が現れ始めたのを見るにつけ、それはただの絵空事のユートピアではなく、現実にあり得る話だと思えてきた。

これが「キリスト教的原始共産主義」の姿だ。「自由主義的・民主主義的資本主義」の世界が矛盾と巨悪に満ちた世界であったのに対して、そのアンチテーゼの「共産主義社会」の実験も同様に矛盾に満ちた悪しき社会になり終わった。

両者に共通だったのは、二つともが無神論的、つまり、「神無しの体制」であった点ではないか。両方ともが「マンモンお金の神様」を神と仰ぐ拝金主義の「疑似宗教」に魂を抜かれた社会であったために、平和で平等で幸せな社会を構築することに失敗した。

「自由で平等で平和で幸せな共産主義社会」が、「神を信じる共産主義」「神の国」という「シンテーゼ」として、弁証法的に、発展的に、形成されることの可能性を、私は信じるようになった。それが「新しい福音宣教」というものだ。

G8のプレーヤーのひとり、ドイツ経済相が飼う獰猛なロットワイラー犬は、クライマックスのサミット会場の円卓の周りを、まるで悪魔が乗り移ったかのように、襲うべきターゲットを求めて牙を剥き、唸り声をあげて速足で動き回り、全員が恐怖で凍り付いた時、ピタッとサルス修道士の前に止まった。誰もがサルスは襲われる!と思った瞬間、猛犬は猫のようにおとなしくなって彼にすり寄った。荒れ野でライオンを手なずけた聖ヒエロニムスを連想させる場面だった。ロシェの葬儀を終えて修道院に帰るサルスのあとをついて行く猛犬の姿には微笑ましいものがあった。

(おわり) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 映画 「マリア」 - 「処女懐胎」 嘘、ほんと ?

2008-07-03 12:13:03 | ★ 映画評

  (その-2)



「マリア」 を観て何気なく感想を書いたら、今年11月10日にブログを再開して以来、細々と読まれていたこのブログに、私にしてみれば驚異的な数のアクセスがあって、戸惑っています。そして、あの映画のテーマの一つである 「処女懐胎」 を取り上げたことが、不特定多数の読者の関心を呼んだのではないかな、と勝手に想像しています。
キリスト教の原理主義的、教条主義的な押し付けとしてではなく、現代人の常識と、批判精神に立った切り口が共感を呼んだのだとしたら、実に光栄です。



それで、もう少し気を入れて、補足的に展開してみたいと思いました。


ラテン語のことわざの 「人は誰も理由無しには嘘をつかない」 つまり、 「特に理由がなければ、普通、人は自然に本当のことを話す」 、と言う定理から、 「だからマリアの処女懐胎の話は本当らしく思われる」 と言う主張は、前のブログを読んでいただければ、納得する人は納得して下さるでしょう。
姦通の現行犯で取り押さえられた女が、キリストの前に引き出された、と言う話は、私のブログ 「イタリア人神父のブラックユーモア or 悪魔祓い」 で取り上げたとおりです(10月23日)。
そこでイエスの前に仕掛けられた罠とは、 「可哀想だから赦してやれ」 と言えば、イエスは律法をないがしろにするから神からの人ではない、と言う非難を招き、 「律法に定められたとおり、その女を石打ちの刑で殺してしまえ」 と言えば、愛も憐れみもない残酷で反社会的判決、として非難される、と言うものでした。それに対して、イエスは 「お前たちの中で罪を犯したことのないものが、先ず、この女に石を投ぜよ」 と言う言葉で応じました。すると、年寄りから初めて、一人、また一人とその場を去っていって、あとにイエスと女だけが残った、とあります。
たしかに、モーゼの律法には 「こういう女は石で打ち殺せ」 と書いてあります。しかし、もしその通りに律法を守ったら、当時のユダヤ人社会で、なんと多くの娼婦と人妻が石殺しにされねばならなかったことでしょう。第一、娼婦たちが町から消え、人妻たちが死を恐れて誘惑に応じなくなれば、一番困るのは男たちです。だから、当時、この手の律法は実質的にはほとんど守られてこなかったろうと思われます。
婚約中に姿を消し、6ヵ月後に戻ってきたときには妊娠していたマリアが、ローマ兵に手篭めにされた、とか、つい出来心で旅先のユダの町の男とできてしまった、とか言えば、普通に起こりうることとして、彼女も殺されるところまでは行かなかったに違いありません。



それが、こともあろうに、 「天使が現れて、聖霊によって子を宿した」 などと口走ったものだから、円く収まる話も収まらなくなってしまった。

それは一見、私に宿っているのは 「メシヤ=待望の救い主」 で、強姦されたのでも、不義密通でもない、と身の潔白を主張しているかのようですが、それを聞いた当時のユダヤ人からすれば、言うことに事欠いて、神のせいにするとは怪しからん、この大嘘つきめが。 こればかりは、見逃すことも、生かしておくことも出来ない。石殺しにしないでは収まりがつかない、と言う険悪な事態にエスカレートすることになります。
あの時代のパレスチナに生きたマリアは、13歳ほどの幼さであっても、自分の言っていることが如何に危険な結果を招くかぐらい、読めないはずはありません。それでも、命がけで本当のことを告げる他はなかったのです。それでも、嘘をついて命を長らえるより、真実を告げて殺されることを敢えて選ぶ彼女のひたむきな信仰こそ哀れです。その彼女にとって幸運だったのは、一人、許婚のヨゼフだけが、この真実を読み取ること、したがって、彼女をこの窮地から救い出だすこと、が出来たのでした。映画では、ヨゼフはそんな彼女を妻として愛し、同じ運命と苦難を共にすることになっています。



お釈迦様が凡人並みに女の性器から生まれてきたのでは有り難味がないから、母の摩耶夫人の脇から生まれたことにしておこう、などと言う、根拠のない作り話をするのとはわけが違います。

マリアの 「処女懐胎」 が、同じような次元で、キリストを神格化するために、聖書作者たちが後で考え付いたただの作り話だとするには、あまりにも設定が異常であって、当時の社会情勢を考えに入れれば、全く成り立ち得ない意外性に満ちた話であると言わざるを得ません。私はそう考えてこの話を納得しています。さてあなたはどう思われますか?

(お断り: このブログの写真は映画館で求めた600円のプログラムからです。)

コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 〔映画〕 暗殺・リトビネンコ事件 (ケース)

2008-06-14 23:42:28 | ★ 映画評

          

                  (写真:エルサレム、神殿の丘のモスク)


2007年の最後にあたり、何か気の利いたメッセージを贈れれば最高だったでしょうが、心あわただしく、思うに任せませんでした。
そこで、月並みですが、今年最後に観た映画の感想でお茶を濁すことにします。

    〔映画〕 暗殺 ・ リトビネンコ事件 (ケース)

この事件についての一連の小さな新聞記事、気にはなっていましたが、インターネットで積極的に情報を集めて、確かな自分の心象を形成するための努力を怠っていました。この映画は、そんな眠たげな私の目をパッチリ開けさせるのに十分でした。
元FSB(ロシア連邦保安局=旧KGB)中佐のアレクサンドル・リトビネンコ氏がロンドンで死亡。体内から、放射性物質ポロニウム210が検出されました。ポロニウム210を人工的に作るには、原子力施設など大掛かりな設備が必要になります。権力の中枢に近い勢力でなければ、製造・使用は極めて難しいはずです。
リトビネンコ氏が集中治療室で死亡した二日後の2006年11月25日イギリスの「タイムズ」紙は「動機、手段、機会の全てがFSBの関与を物語っている」と、指摘しています。
米ABCテレビは2007年1月27日、イギリス当局が、国家による暗殺との結論に達した、と報道しました。
殺された直接の契機と思われるのは、プーチン政権に向けてリトビネンコ氏が放った3本の矢であると言われます。
その第一は、第二次チェチェン戦争のきっかけの一つとなった、1999年のモスクワなどで起きた一連のアパート連続爆破事件に関して。爆弾がアパートに仕掛けられ、合計で約300人もの住民が犠牲になったテロ事件です。
ロシア当局は、チェチェン独立派の犯行と断定して、軍事侵攻を開始しました。ところがリトビネンコ氏は、「テロはロシア政府の自作自演」と証言し、チェチェン侵攻の「大義」そのものが、でっち上げだと断定していたのです。
アメリカに喩えるなら、約3000人の市民の犠牲を出してアフガニスタン、イラクへの侵攻のきっかけとなったいわゆる「9.11同時多発テロ」が、アメリカ政府の自作自演だと公の場で証言しているに等しいのです。
「民主国家」アメリカの情報公開のおかげで、我々はベトナム戦争の北爆開始のきっかけとなったトンキン湾事件が、アメリカ政府の自作自演であったことを、証拠をもって知っています。中国で張作霖を爆死させた盧溝橋事件が関東軍の自作自演であったことを知って、昭和天皇は激怒した、とかしないとか。真珠湾だって、アメリカが先に公海上で日本の潜航艇を沈めたのが発端と言えば発端だが、沈んだ潜航艇が400メートルの海底で見つかった今でも、最初の一発は奇襲をかけた日本軍からだったということになっています。米国民の愛国心を刺激して戦争に突入するために、知りながら、待ち受けて日本にやらせたと言う見方は、不思議なことに未だに市民権を得ていないように見受けられます。
年末に締めくくりとしていい映画にめぐり合った気がします。
防衛庁の事務次官の問題。蜥蜴の尻尾切りに終わらせず、政界・財界の汚い膿を出せるかどうか。年金問題に代表される、長期政権の末期的麻痺症状。ワーキングプアーとして注目され始めた、人の尊厳を破壊する格差問題。消費税引き上げをちらつかせる前に、何故高額所得者への累進課税の強化や法人税の引き上げなどの声が国民からも野党からも上がらないのか、不思議でなりません。
それは、宗教家、カトリックの神父が物言う分野ではないだろうと、どこかからお叱りが飛んできそうですが、私はそうは思いません。
こんな時代だからこそ、宗教団体は力を結集して社会の変革に立ち上がれ、と檄を飛ばすためではありません。それこそ、宗教が直面する、悪魔からの巧妙な誘惑に他ならならないでしょう。
そうではなくて、上記のような不正や社会悪の実態から目をそむけず、むしろそれを正しく見据え、地に足をつけたところから出発して、その犠牲になって底辺にうごめく貧しい人たち、虐げられている人たちに、救いのない、出口の見えない状態の中でもがいている人々に、偽りの解決や慰めに走ることなく、「貧しい人は幸い」「義のために迫害される人は幸い」「汝の敵を愛しなさい」「悪に逆らってはいけない」と教えるナザレのイエスの福音こそが、復活の生命に届く「唯一の、真実の救いと希望だ」というメッセージを、力強く宣べ伝える2008年でありたい、という決意を表明するためにこそ、この一文を書きました。

★ ★ ★ ★ どうか、良いお年を! ★ ★ ★ ★

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

★ 《メリークリスマス》 - 映画 「マリア」 -

2008-05-03 12:06:47 | ★ 映画評

 

 

 

 

クリスマスまであと2週間あまり。 この日世界中で「この世の救い主」(とクリスチャンは信じる)イエス・キリストの誕生が祝われる。それで、今日はこのテーマを取り上げました。


昨年のある日、予告編でこの映画を知りました。よし!公開されたら見に行こう、と心に決めていました。
南テキサス生まれのキャサリン・ハードウイックと言う女性監督。建築学の博士号を持つ身で映画の世界へ。「女性ならではの繊細さ」と「男性顔負けの骨太で重厚な作風」と評されているが、的を得ていると思った。
マリア役のケイシャ・キャッスル = ヒューズは、マオリ族とヨーロッパ人の混血で、そのエキゾチックな美しさが役にピッタリだった。



私は、自分の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)
http://t.co/pALhrPLの中の「私の接した聖人たち」と言う章で、前教皇ヨハネ・パウロ2世が、1987年を「マリアの年」と定めたことを書いた。それは、イエスの母マリアの生誕2000年を記念して、のことだった。もしそうだとすれば、マリアは13歳でイエスをベトレヘムの馬小屋で産んだことになる。

私が20代前半、上智大学の哲学科でラテン語を習っていたころ、スペイン人の教授は、ラテン語の難しい慣用句を覚えさせるのに、短い諺をいっぱい暗記させたものだった。その中に、訳すると「人は誰も理由無しに嘘をつかない」と言うのがあった。言い換えれば、特に理由がなければ、普通、人は自然に本当のことを話す、というものだ。そこには深い知恵と真実が隠れていると思った。
自分が身ごもっていることを許婚のヨゼフや両親に気付かれたマリアは、「天使のお告げがあって、聖霊によって身ごもった」と言い張った。ローマの兵士に手篭めにされた」とか何とか言えば、同情や憐れみをかって、命だけは助かったかも知れなかったのに、あえて「天使のお告げが・・・」などと言い張れば、誰にも信じてもらえず、かえって不義、密通を言い逃れる嘘と疑われ、遥かに不利なことになるのは火を見るよりも明らかではなかったろうか。当時の女性たちを縛っていた厳しい律法によれば、そのような女は、石打かなにか、どの道、死刑は免れ得なかったはずだった。事実、この映画でも、マリアの石殺しの場面があって、危うく刑が執行されるところまでいった。マリアは、自分の死を逃れるために、あのような嘘をつく理由が全くなかったばかりか、あのような嘘は、直接に死を意味した。だからこそ、彼女が語った「処女懐胎」は命がけの真実だったと納得できるのである。



10代半ばの少年と少女の結婚は親が決めた。誰の子かわからぬ胎児を宿すマリアと結婚した若いヨゼフが、逆境に鍛えられて、彼女を次第に愛するようになる描写が美しい。



映画では、紀元1世紀のパレスチナの政治・社会情勢が史実に忠実に再現されている。当時のユダヤの王、殺人鬼ヘロデ大王は、死の病に倒れる5日前に自分の息子を処刑した。また、自分の死が国中で祝われるのを恐れて、イスラエルの全貴族を収監し、自分の死後直ちに処刑するよう命じたりもした。生まれたばかりのイエスを亡き者にするために、ベトレヘムの町の2歳以下の幼児を全部殺すことぐらい、なんとも思わなかったに違いない。
この映画は、ヨゼフがマリアとイエスをつれて、ヘロデが死ぬまでエジプトに逃れるところで終わっている。



原作者アンジェラ・ハントはプロテスタントの牧師夫人。クリスティー賞受賞作家で、既に300万冊以上の本が読まれている。
ダヴィンチ・コードの類の史実や真実を悪意を込めて捻じ曲げた興味本位のいかさま本、ハリーポッターなどのようにキリスト教的正気さに挑みかかるような魔法の世界が横行する中で、久々に、聖書と歴史にあくまで忠実な、ずっしりとした手ごたえのある映画だった。
あらためて、西暦と世界史の原点、「2010年前に生まれた『ナザレのイエス』という人物は一体何者だったのか」と言う重い問いが、この映画を見たあとに残る。

(このブログの写真は映画館で求めた600円のプログラムから。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする