:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 3日遅れのクリスマスメッセージ

2018-12-30 00:05:00 | ★ 日記 ・ 小話

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三日遅れのクリスマスメッセージ

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カトリック教会の主の降誕(夜半)のミサを私たちは24日の夕方に祝った。

聖書の第一朗読は、旧約聖書のイザヤの予言からで次の言葉で始まる:

  闇のなかを歩む民は、大いなる光を見

  死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。

或る宣教家族の家では、イタリア語の先生をしている主人の生徒さんたちを中心に、30人近くの人が招かれて楽しいパーティーが開かれた。

パーティーはまず参加者の自己紹介から始まったのだが、皆さんかなり流暢なイタリア語で挨拶をされたのにまず驚かされた。

男性の多くは私と同じ70歳台の終わりから80歳を超えた人だったが、高度成長期の勝ち組で、成功し、安定した余生を謳歌しているように思われた。

イタリア語の先生は、この機会に参加者にクリスマスの意味について説明を試みた。リビングルームには幅1間奥行き半間ほどの降誕の場面の箱庭が飾られ、青い空には星がちりばめられていた。

室内の明かりを暗くして、上のイザヤ書の言葉どおり、私たちの心の闇を照らす光として救い主イエスが嬰児の姿でベトレヘムの馬屋の飼い葉桶の中に寝かされているところへ、羊飼いたちと東方の博士たちが礼拝に来たことなどが語られた。

それを聞いたひとりの紳士が神父である私に近づいて、「先生からこの闇に輝く光の話を聞くのはこれで2度目だが、闇の意味がもう一つピンと来ないんですよね」と率直に言われた。

私は、その人の上品な物腰を見て、堪能な英語の他に趣味でイタリア語を習っている教養のあるお金持ちという印象を受けた。

私の世代の成功者で何不自由なく快適に老後を謳歌している人に、人生の闇がピンと来ないのは当然と言えば当然だ。例えその人の心の奥に深い闇が潜んでいても、本人に気付く感性が欠けていたとしても不思議はない。

屋敷にはセコムのシステムをめぐらし、駐車場にはベンツがあるような、無意識のうちに生活の誇りという目に見えないゼリー状の被膜でしっかりと身を護っている人達は、「貧しい人に良い便りが告げられた」というような福音の言葉とは縁遠い存在なのだろうか。だから、サロン的なレッスンやパーティーには喜んで参加するが、キリスト教の信仰の話になると、はじめはお付き合いで聞いてくれても、自分が心の中に闇を抱えたメクラであることに気づかされたり、罪人であることを思い知らせる福音を聞くと、ひとり、またひとりとノーサンキューの反応を示して離れていくのは自然の成り行きだ。

私は昨夜も、福島県の浜通りのある町に、同じよい便りを伝えに行ってきた。しばらく前からほとんど毎週のように通い続けている。初めは若い姉妹と小学生の子供二人、それに身寄りのない若い女性の5人が聞いてくれた。そこへ、妹さんのご主人が加わるようになり、今回はもう一人男性があらたに加わった。彼らは福音の言葉を乾いたスポンジが水を吸い込むように受け入れていく。

上のグループとの違いは何だろう。

彼らは日本の国が遺棄した放射能の被曝地で、貧しく困難な生活を生きている。先の見えない闇の中に喘いでおり、希望の光のメッセージに飢えているのだ。そこには、神様の救いのことばを跳ね返す生活の驕りの皮下脂肪などまとっていない剥き出しの心の貧しさがある。

国を挙げて2020年のオリンピックで浮かれている陰で、福島第一原発の世界最悪の核暴走事故の被災地は切り捨てられ忘れられている。そこに住む人々こそ、福音(ケリグマ)を受け取る心の準備の出来た貧しい人たちなのだ。

 

粉雪がちらほら舞う常磐道を行くと、道端に点々と放射線量をリアルタイムで知らせる表示盤が設置されている。初めは0.1マイクローベルト/時だが、原子力発電所の廃墟のある双葉・大熊あたりを通るとき、その数値は数十倍の2~3マイクロシーベルトを指している。帰路は、高速道路の一部が夜間工事で通行止めになると、国道6号線を迂回して、福島第一原発の至近距離を通過することになる。道の両側は無人地帯で明かりが全く灯っていないのが不気味だ。どの十字路も左折も右折もできないように鉄柵で封鎖されている。鉄板とガラスで室内が護られている車が走り抜けることは許されるが、汚染された外気に身を晒すバイクの通行は許されていない。何とも殺風景な地帯だ。

強制疎開させられ、慣れない土地で政府の支給する補助金を頼りに細々と生活していた老人たちは、突然立ち入り禁止が解除され補助金が打ち切られると、避難生活が維持できなくなり、持ち家のある汚染地帯に帰らざるを得ない状況に追い込まれる。しかし、遠目に懐かしい立派な我が家の中は、ネズミや、ハクビシンや、イノシシなどに見る影もなく荒らされて、とても住める状態にはなかった。すると政府は家を取り壊してサラ地にする費用は補助するが、住む家は自前で建てろと突き放す。借金する能力もない老人たちには仮設住宅にも劣るバラックを建てるのがせいぜいではないか。病院もマーケットも郵便局もないところでどうやって生きていけというのだろうか。人気のない道は、娘であろうが年増であろうが、女とみればお構いなしに除染・廃炉作業員の飢えた荒くれ男たちのレイプの対象にされるので、暗くなったら怖くて外は歩けない。そんな荒廃した土地に子の世代も孫の世代も帰って来る筈がない。人口稠密な日本の国土にポッカリと無人の砂漠が出現するのに2世代の時間を要しないだろう。どうせ人が住まないのなら、全国50数か所の原発の放射性廃棄物を集めて、その捨て場にすればいいという乱暴な話すら出る。

 

往路5時間、帰路4時間半で深夜12時を過ぎて東京に帰り着く。往きはしんどい思いで頑張って行っても、帰りは受け入れられ福音が伝わった大きな喜びを貰って家路につく。疲れは吹き飛ぶ。

*****

クリスマスイヴにある友達に書いた:

神が人となって我らの間にお生まれになった。

ベトレヘムの飼い葉桶の中に見えない神が降られた、と、信仰は言う。そこに居るのは見えない神。人間の目に見えない神を可視化する魔法のスプレイをかけたら、嬰児の姿が現れた。わたしの信仰はその嬰児のなかに引き続き見えない神を礼拝する。

ガリレア湖の北西岸の丘の上で見えない神が山上の垂訓を説いている。魔法のスプレイをかけたら、魅力的な若いイエスの姿が見えた。その姿の中に見えない神を礼拝する。

ゴルゴタの丘の上の十字架に見えない神が磔けられている。魔法のスプレイをかけたら、むごたらしい血だらけの苦しみ喘ぐイエスが現れた。その姿の中に見えない神を見る。

クリスマスイヴに福島県の浜通りの暗い道で、女が原発廃炉作業員にレイプさらた。魂が壊れて放心する女に魔法のスプレイを消すスプレイ」をかけたら、そこに見えない神が居た。

さあ、二本のスプレイ缶をズボンのポケットに押し込んで、場末に、精神病院に、養老院に、孤児院に、繁華街に見えない神を探しに行こう。

父と子と聖霊の三位一体の神を礼拝する、賛美する、感謝する、愛する。復活したイエスは、貧しいうち捨てられた人々に身をやつして至る所に隠れて居る。

神は三位一体の神とキリスト教はいう。しかし、父も聖霊も見えない神。見えるのは御子だけ。

御子を見るものは、御父も聖霊も見ている。

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(3)

2018-12-01 00:16:51 | ★ ホイヴェルス師

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 私は何になりたかったか

  ヘルマン・ホイヴェルス(3)

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 〔本文つづき〕

 或る日曜日の午後、父と母は庭のベンチに腰かけて私たち二人を呼び寄せました。そしてしばらくは、彼らの長男と次男をかわるがわる黙って眺めていました。

 「この二人は将来、何になったらいいのでしょうか?」

 「ギムナジウムに行くべきか、畑に行くべきものか?」

と、父は母にいま一度はっきりとたずねました。

 父は農業に興味を感じていませんでした。むしろ自分の弟のように、自分も勉強することが望みだったのです。その叔父は、のちに小学校の校長をつとめました。

 母の生家はライネの町の近くにありました。娘時代の母はときどき母親とともにライネの町のギムナジウムの聖堂で、9時の歌ミサにあずかるのをたのしみにしていました。そしてこの若い娘にとって、聖堂に跪くギムナジウムの学生は、あこがれの的となっていたのです。そして今や若い母親にとって、「成人したなら、自分の息子たちの頭も、あの帽子で飾ってやりたい」という若き日のあこがれは、現実に近づいてきたのでした。

 こうして両親の結論は、息子たちは畑にではなく勉強するほうがいいということになりました。それは大きな決心でした。なぜならそれは9年間にわたる勉強であり、しかもまったく基礎的な勉強で、卒業しても何になったらいいのでしょうか、べつに決まっていません。そこでまず兄は、村の叙任司祭についてギムナジウムの受験勉強をしました。いつも私は兄といっしょでしたから、自然私もそんな勉強をするようになりました。そして幸い兄は3年をとびこえて4年に入学しました。兄はライネの町に下宿して通いました。その翌年、兄は5年に進み、私も幸いに3年に編入することができました。

 ちょうどその年、村からライネの町へ通じる国道が出来ました。父は、そのころ出はじめたばかりの自転車を二台私たちのために買ってくれました。こうして私たち二人は新しい自転車にのって、10キロの国道をゆっくり踏んでギムナジウムへかよいました。この、ゆっくり踏んで通ったのには理由がありました。というのは当時の村びとのあいだでは、「自転車にのるものはみんな肺病になる」と恐れられ、反対されていたからです。それに私の足では、まだペダルが下までとどきませんでした。幸い私たちは健康に恵まれ、やがて二人の友人も自転車の仲間に加わってきました。

 ギムナジウム時代、将来の希望は絵をかくことか、あるいはギリシャ語の教授になることでした。兄といっしょに、絵の先生からは特別の時間を与えられて勉強もしました。私はおもに花や風景を、生家を写生しました。兄の性質は私とまったく違っていました。小さいときから機械に興味を示し、生家の家宝的存在であった老いた掛け時計の修理に年に一度やって来る時計屋の仕事を、そばで熱心に見入っていました。そしていつか、自分でその時計の修理を引き受けるようになったのです。

 1906年の夏、神は私の将来を決めました。兄のアロイスは卒業を控え、いま一度自分の将来について決心すべく、オランダにあるイエズス会の修道院で黙想会にあずかるために、他の級友とともに出かけていきました。数日後の土曜日の昼一時に、兄はまったく違った人間になって帰ってきました。広間に立つなり母に向かって、まっすぐに、イエズス会の賛美をはじめました。彼らは、どんなに厚い本を書くか! どんなに遠い世界までも布教に行くか!・・・と。

 私は黙ってこれを聞いていました。そしてそのとき、「これこそ私のなりたいものだ!」と心に決めました。しかし私の卒業までには、まだ二年以上もあり、この秘密は誰にも打ち明けませんでした。一方、兄の熱心さは伸びるワラビのようでした。あれほど志願を望んでいたイエズス会には入りません。かわりにミュンスター大学の神学部哲学科に入りました。ここには、今は有名なカール・ラーナー教授がいます。しかし、機械は兄を引っぱって、ついにハノーバー工業大学へ行き、後日りっぱな技師になり天寿をまっとうしました。

 私は自分の秘密をずっと守りとおし、卒業式に、はじめて友人に打ち明けました。式のあとの宴会の席上、私はこっけいなテーブル・スピーチの指名をされました。私はビールを賛美する話をして喝采で報いられましたが、そのあと、大きな声で「ジェスイットになるぞ!」とさけびました。するとおどろいた友だちはみんな叫びました。「われわれも君といっしょに行こうぞ」と。そしてつぎの即席のうたをみんなでうたいました。

          Ins Kloster moecht’ ich gehen,

           Da liegt ein kuehler Wein!

               修道院に行こうよ、

            そこにはおいしいブドー酒がある!

 1909年3月5日卒業式、4月19日イエズス会入会。その間に生家との別れの記念として、家の東側のいちばんよい土に12本のカシの木を植えました。今は4本がそうとう大きな木になって残っています。そのカシの木は、私がもっと小さかったとき、森のなかの空地に父といっしょに蒔いた実が成長したもので、かれこれ70年の樹齢を刻んでいます。

ホイヴェルス兄弟のような羊たち

 * * * * * * *

ホイヴェルス神父様 は幼年時代から、羊飼いに、次いで木こりに、そして左官屋になるのだと、幼い夢を語り、それを母親は微笑みながら、反対もせず受け止めていました。そして、時が来ると、父親は叶わなかった自分の夢を、母親は乙女時代のあこがれの夢を息子たちに託すことなったのです。

 私は、ホイヴェルス神父のように絵が好きでしたが、彼のお兄さんのように機械も好きでした。模型飛行機も、船も電気機関車も何でも精密に作りました。

 私の父は東大法学部に在学中に高等文官試験に合格し、卒業とともに勅任官として内務省に入り、官僚から政治家への道を辿ろうと出世街道を駆け上がっていたやさきに日本が戦争に負け、占領軍の下で公職追放に遭い、無位無官の極貧生活に転落した辛酸をなめました。彼はその経験から、学歴も身分も社会の激変の前には何の役にも立たないことが骨身に応えていたので、息子には手に技術を持たせて社会の変動に強い人間に育てようとして、理工系の大学への進学を勧めました。神戸の六甲に住んでいた私は、親の経済的負担を考えて、東京の大学は諦め、家から通える学費の安い国立大学を念頭に受験勉強に励んでいました。

 ホイヴェルス神父が通ったギムナジウムに相当するのが、中・高一貫校のカトリックのミッションスクール六甲学院でした。大学受験を目前にした高3の正月休みに、広島のイエズス会の黙想の家で生徒に進路を考えさせる黙想会があって、私も担任の神父から勧められて参加しました。

 黙想会が終わると、私もホイヴェルス神父のお兄さんのようにまったく違う人間になって帰ってきました。父の前立つなり、「私は阪大や京大の理工学部には行かない。東京の上智大学に入ってイエズス会の神父になる!」と宣言して、父を完全に打ちのめした。カール・マルクスの資本論を読破した筋金入りの無神論者は、その後、プロレタリアートを抑圧する官僚になった自分のことは棚に上げて、私の決心を覆そうと血眼になりました。そのおかげで、私の決意は鉄のように固く鍛え上げられていったのです。

以来、何事にも反目しあってきた父と息子が和解したのは、父の死の数カ月前、私が神父になったのは、父の死の2か月後のことでした。彼は私が司祭になる叙階式に出席することを楽しみにしていたのに。

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