:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ふと思うこと。煉獄(れんごく)って本当にあるの?

2023-07-06 00:00:01 | ★ 神学的省察

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ふと思うこと。煉獄(れんごく)って本当にあるの?

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その答えは「ある!」です。

 確かに、「カトリック教会のカテキズム」という日本語版で 839 ページに及ぶ書物の中に記載がありま。

 「カテキズム」「教理問答集」とか「教理教育の手引き」とか言われるカトリックの信仰内容を分かりやすく解き明かした本と言えばいいでしょうか。(うまい訳が見つかりません。)

 その「カトリック教会のカテキズム」の中の309ページに、たった1ページだけ、さりげなく「最終の清め・煉獄」という項目があります。

 その内容を分かりやすく言えば、誰かが死んだとき、まっすぐに天国に入れてやれるほどの聖人ではないが、さりとて、根っからの極悪人でもなかったから、地獄に追いやるには忍びない。だから、なんとか天国に入れる程度まで清くなるように、しばらく煉獄で火にあぶられて浄化の苦しみを受けなさい、ということでしょうか。

 教会がそう教えろというのであれば、痛くもない腹を探られて異端神父と言われるのも不本意だから、人にはそう教えますが、なんともお尻の下がムズムズして、すわり心地が良くありません。

 聖書をひっくり返してみたり、神学者たちの膨大な論文を精査するために時間を費やしたりするつもりは更々ありませんが、ごく常識的に、生活感覚として、私の困惑している状態を率直に吐露したいと思います。

 今年のはじめ頃から、大分の平山司教様の容態があまりよくないという話は耳にしていましたが、3月のはじめに、いよいよその容態が悪化して、主治医の見立てではあと1週間しか持たない、というニュースが飛び込んできました。

 すわ、一大事! 平山司教様と言えば、高松からローマに避難疎開していた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の院長様で、私はその秘書として10年余りローマで寝食を共にしてお仕えした上司ですから、お亡くなりになる前に是非いちどお見舞いをしたいと思いました。ところが、神父業の悲しさ、雑事に追われてやっと大分にたどり着いたときには、医者の宣告した1週間をわずかに過ぎていました。

 せめてお通夜に間に合えばという切ない思いで司教様のお家にたどり着いたら、幸いにもまだ生きておられました。

 枕もとに名乗り出たら、意識もはっきりしておられ、手を握る私に、目を開いて「一緒に過ごしたローマはよかったね。毎晩枢機卿様にご挨拶してから床について、いい夢を見ましたね」、と優しく述懐されました。

 これは、私と司教様だけにわかる説明を要する隠語を含むお話です。

 解読すると、晩の祈りの後、神学校の食堂で大勢の神学生とともに夕食を いただくと、司教様と私は同じ3階の部屋にいったんそれぞれ退きます。小一時間ほど頃合いを見計らって、私は司教様のお部屋に行き、戸棚からブランデーとグラス二つとチョコレートの小箱をテーブルに並べて、その日最後の儀式をいたします。

 そのブランデーは「カルディナール・メンドーサ」という銘柄で、カルディナールはカトリック用語で教皇に次ぐ位の枢機卿の意味なので、ブランデーを寝る前の二人で味わう儀式を、「メンドーサ枢機卿様にご挨拶申し上げる」という話になるのです。

 実に喉越しのいい高級ブランデーで、それにひとかけらのチョコレーと実によく合うのです。

 瀕死で明日にもご臨終かと言われた司教様との今生の別れの話としては、実に粋な会話だと思いました。

 そして、私の耳元に「もう数日前から私は天国の門の前に佇んでいるのに、なかなか門は開かない」とつぶやき、さらに声を潜めて「あのね、今の時間はまさに煉獄だよ!」とささやかれたのです。

 私は何とも心温まる思いとともに、後ろ髪をひかれる心地して大分を後にしましたが、その後、老司教様がお亡くなりになったという知らせはいまだに届いていません。3月末が99歳のお誕生日でしたから、あれから4カ月、この勢いでは100歳のお誕生日まで生きられるのでは、という声さえ聞こえます。

 他人の世話になるのが人一倍お嫌いで、秘書の私にさえ過剰なお世話を拒まれたほどの司教様ですから、生きるために日々何から何まで人の介護に頼らなければならない生活は、どれほどお辛いことか私にはよくわかります。聖なるご生涯を送られた司教様が、こんなに長い「煉獄」の試練を耐え忍ばなければならないとは、まことに不思議なことだと思いました。

 私は、司教様のお姿を見て、カトリック教会が教える煉獄とは、死んでからのあの世のことではなく、生きているうちに済ます清めの業のことか、と悟りました。それならば納得です。「カトリック教会のカテキズム」はその短い記述の中で、「教会の伝承では、聖書の若干の個所にもとづいた、清めの日というものを取り上げています」と述べて、(註)のところで1コリント3・15と1ペトロ1・7を挙げていますが、それらの聖書の個所を読んでみても、私には無理なこじつけのようにしか思えませんでした。

 日本人は死んだら斎場で煙と水蒸気とわずかな灰になって、肉体は滅び、五感は完全に封じられます。私は神父という職業柄、多くの人の死とお骨拾いに立ち会いましたが、私はいつも深く思います。

 この人もまた、肉体を失い、新・旧約聖書の随所に見受けられる言葉のように、「先祖とともに深い眠りについた」のです。肉体が滅び、五感が封じられた瞬間から、時の流れも宇宙の進化も何も感じることなく深く眠り続けます。次に体を返していただいて五感が目覚め復活するときまで、本人の自覚としては一瞬の出来事であるに違いないと思っています。死から世の終わりの復活の日まで、何万年か、何百万年か、何億年か時間が経過しようとも、個々人の死から復活までは一瞬の出来事なのです。

 私は83年の人生において、3度全身麻酔を経験しましたが、麻酔医師と看護師の会話が遠のいて聞こえなくなった瞬間と「お目覚めですか?」とい別の看護師さんの声を聴く瞬間の二つの瞬間は、同じコインの裏表のような一瞬のできごとでした。その間に2時間が経過していたか、難しい手術で6時間が経っていたのか、一体私は体に何をされたのか、全く認識していませんでした。

 同じように、死んで肉体が滅んで五感が完全に閉じられてから、肉体を取り戻して復活するまでの間も、人の魂は全身麻酔よりも深い眠りの中にいて、死から復活までは、本人の自覚としてはまさに一瞬のこと、死んだ次の瞬間に復活してイエス・キリストの御顔を仰ぐことになるだろうと私は信じています。

 死んだらすぐ深い眠りに入って、時の流れも外界の喧騒も全く知覚することなく、まるで死の次の瞬間のように復活するという話と、死んだらゆっくり煉獄の火に焼かれて清められるという話と、私の小さな頭の中ではどうしても調和しないのです。

 カトリック教会の最高学府と言われるローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学で、神学修士と教授資格までいただいた私は、上の疑問に答えを与える講義を聞いて納得することはついにありませんでした。

 私は死んだら肉体を失い五感は閉じられ、例えて言えば、深い、深い眠りに入り、気の遠くなるような宇宙の進化の歴史的時間の流れも、世界の変化の様子も全く知覚することなく世の終わりに復活するが、自分の主観的意識の流れにおいては、死の次の瞬間に復活して主の御顔を仰ぐことが出来るという想念は、私に深い慰めと希望と喜びを与えてくれるのです。

 その時間の経過を伴わない二つの瞬間の間に、どのようにして煉獄の火の清めを体験することができるのか。肉体を失い五感が閉じられて深い眠りに入っている自分が、いかにして煉獄の業火を体験できるのか、私には全く分からないのです。

 教会が信じろというなら私は信じます。しかし、私の貧しい頭は納得のいく理解に達し得ていなことを信者さんに説明するのは難儀なはなしです。どなたか、賢い方が、この問題を解き明かしてくださることを期待します。

 最後に一つのエピソードを加えて終わります。

 私がまだ大学生だった頃、神戸の六甲の家から歩いて5-6分のところに「小百合幼稚園」というのがありました。その幼稚園の経営者はカトリックの「煉獄援助姉妹会」という女子修道会でした。その修道会が、ある日突然会の名称を改めて、「援助姉妹会」となったのです。

 会の使命の最も主要の部分は、煉獄で清めの火に焼かれて苦しんでいる膨大な数の魂たちを助けることに特化した会でした。それがどうして大事な会の精神の要である「煉獄」の二文字をを会の名前から外してしまったのでしょうか。

 それは、時あたかも、第2バチカン公会議が教会の大改革に取り掛かっていた頃で、その女子修道会は公会議の神学的議論の経過を敏感に受け止めていて、中世では盛んに論じられてきた「煉獄」の存在そのものの意味があいまいになってきて、教会としてはあまり触れたくないテーマになってきたことを、敏感に感じ取ってのことだったに違いありません。

 はっきり言ってしまえば、これからの世の中で、またカトリック教会の今後を見通して、「煉獄で苦しんでいる魂を援助するために祈り、働く」という目的を掲げて修道会を維持できる時代ではなくなったから、別の存在理由を見出してそれにシフトしていかなければ会の将来はない、と直感しての会の名称変更だったのではないかと思います。

 わたし自身の中にも、煉獄の存在をわかりやすく定義しなおす神学的理論武装をしてもらうか、あるいは、いっそうのこと、勇気をもって、中世にはそういう教えを説いてきたが、今の時代には即さない信心で、もともとキリスト教の信仰内容に深く根差した教義ではなかった、とあっさり認めた方がすっきりするのではないでしょうか。

 平山司教様がそっと私の耳元にささやかれたように、この世に生きているうちに忍耐し耐え偲ばなければならない苦しみのことを「煉獄」という言葉で表現することもできる、という程度にとどめておいた方がいいのではないでしょうか。

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★ 聖母マリアの被昇天の祝日の説教

2020-09-09 00:01:00 | ★ 神学的省察

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聖母マリアの被昇天の祝日の説教

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みなさん。今日、8月15日は聖母マリアの被昇天の大祝日です。

どれぐらい大きな祝日でしょうか。私に言わせれば、復活祭につぐ二番目に重要な祝日だと言うにふさわしいと思います。理由は追い追い説明いたしましょう。

そして、今夜は4人の赤ちゃんの洗礼式も行われます。共同体の大きな喜びです。その事についてもひと言述べるつもりです。

被昇天のマリア ルーベンス画

さて、8月15日の被昇天の祝日は日本の終戦記念日でもあります。同盟国イタリア、ドイツが相次いで降伏した後も日本はなおも頑張り続けようとしましたが、8月6日の広島、9日の長崎のあと、次は東京かと思われたとき、この新型爆弾の破壊力から推して、100万人を下らない死者を出し、天皇の命も危ういとあっては、全面降伏しかなかったのでしょう。

     

長崎に落とされたファットマン     浦上天主堂の上に立つキノコ雲   

八月九日と言えば、お盆で帰省した大勢のカトリック信者が、15日の聖母マリアの被昇天を清い心で祝おうと、告解(懺悔)のために大挙浦上天主堂に集まっていました。そして、その上空500メートルで広島型の1.5倍の威力のプルトニューム爆弾がさく裂し、教会は数千度の火の玉によって瞬時に破壊され、おびただしい数の犠牲者が出ましたが、その浦上天主堂は不思議にも「無原罪の聖母マリア」に奉献された聖堂でした。

無原罪の聖母に捧げられた浦上天主堂の廃墟

無原罪の聖母と言えば、その祝日は12月8日ですが、ちょうどその日、真珠湾に奇襲攻撃をかけ戦争に突入したのは、ただの偶然だったでしょうか。

日本にとって、第二次世界大戦は聖母マリアの「無原罪の御宿りの祝日」に始まり、聖母マリアの「被昇天の大祝日」に終わり、しかも、終戦のために「無原罪の聖母」に捧げられた大浦天主堂で多数のカトリック信者の魂の生贄が必要でした。

私は、天国に行ったら、なぜ第二次世界大戦の節目の日がマリア様の記念日と重なったのか、神様にお聞きしたいと思っています。単なる偶然?しかし、神様に偶然はありません。

ところで、現代のカトリック信者は、「マリア様の被昇天」とか、「マリア様の無原罪の御宿り」という教えは、遠い昔から教義として定められていたと思っている人が多いのではないでしょうか。カトリック教会の一連のドグマ=信仰箇条=教義=は、全て2世紀から4世紀ごろまでに公会議で決定され、以来、変わることなく伝承され、その何れかを信じないものは異端とされてきました。

ところが、実は、無原罪の御宿りの教義はわずか125年前に教皇ピオ9世によって定められ宣言された新しいドグマです。「無原罪の御宿り」とは、神様の特別な計らいで聖母マリアがアダムとエバの犯した罪、「原罪」から奇跡的に免れた状態で母アンナの胎に宿ったという信仰です。

それを受けて、終戦から5年目の1950年には、ピオ12世が、マリア様は死を味わうことなく霊肉共に天に上げられた(被昇天)、という教義を新たに宣言されました。今日の大祝日の始まりです。しかも、それらは1870年の第1バチカン公会議で「教皇の不可謬権」が新たな教義として宣言されたことの連鎖反応によるものでした。

無原罪の聖母 ムリリョ画

つまり、教会は2世紀から4世紀にかけて、一連の公会議を経て信仰箇条の骨格を固め、以来1500年間にわたって安定した状態にあったのに、19世紀の「教皇の不謬権」(ローマ教皇が信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づくものとなるため、決して誤りえない)という新しい教義の制定に呼応して、「聖母の無原罪の御宿り」と、「聖母の被昇天」の新しい教義を相次いで付け加えたのです。そして、これらの祝日は、人類の救いの歴史にとって決定的な意味を持っています。

神様の宇宙万物の創造という壮大な事業は、その完成に際して、人祖アダムとエバが神様から戴いた最高の恵みである理性と自由意思を正しく使うかどうか試されました。ところが、こともあろうに、天使たちが固唾をのんで見守る中、人祖たちはその恵みを濫用して「不従順の罪」(楽園の禁じられた木の実を食べた=傲慢不遜にも神よりも偉くなろうとした)を犯し、神様のテストに見事に落第してしまいました。そして、アダムとエバの罪のウイルスは、「原罪」のパンデミックを引き起こし、その結果、自然の調和が破れ、死と腐敗が歴史に入り、男は額に汗して日々の糧を得、女は産みの苦しみのうちに子を産まねばならなくなりました。さらに、罪への傾きとしての「欲望」がDNAにキッチリと組み込まれてしまったわけです。

一見するところ、神様の創造の御業は最後の仕上げの段階で大失敗に終わりました。

しかし、神様はその失敗を立て直すために、直ちに長い救いの歴史を始められ、時が満ちると、一組の男女(聖母マリアと救い主キリスト)を選んで、人祖が見事に落第したのと全く同じテストに、あらためて再挑戦するチャンスをお与えになりました。その場合、受験者は人祖と全く同じ条件で追試に臨まなければなりません。つまり、彼らは人祖から受け継がれた原罪と言うハンディから奇跡的に除外される必要があったのです。

ここで1895年に教皇ピオ9世によって「聖母マリアの無原罪の御宿り」の教義の制定されたことが重要な意味を持ってきます。聖母マリアはこの世に生を受けた最初の瞬間から原罪を免れて、第一のエバと全く同じ無原罪の状態に置かれたという信仰は、初代教会から民間に広く信じられてきたとは言え、4世紀ごろまでに確定した教義(信仰箇条)の中には含まれてはいませんでした。その意味で、キリスト教の教義はまだ発展途上にあったと言えるでしょう。

では、第二のアダムであるナザレのイエス(キリスト)についてはどうでしょうか。原罪は生殖によって親から子にDNAの一部であるかのように伝えられていきます。マリアが奇跡的に無原罪の状態で母親の胎に宿ったとすれば、処女のままのマリアの胎に聖霊の働きで宿って生まれた幼子イエスも無原罪であったのは自然です。だから、教会が聖母の無原罪を特別盛大に祝うのは当然なのです。

さて、死が原罪の結果として人類の歴史に入ったのであれば、無原罪の状態でこの世に生を受けたマリア様が死を経験することなく昇天したことも理に適っています。そして、聖母マリアから無原罪性を受け継いだイエスも、死の束縛から自由ではあったのも当然でした。

しかし、イエスの場合は敢えて自由にすべての人類と同じく死を受け入れ、自らの力で死者の中から復活することを通して、全人類の死を決定的に打ち滅ぼし、その結果として全人類のために復活の命を勝ち取られました。また、聖母マリアも十字架の下に佇み、イエスがその肉体に負った恐ろしい苦しみを、そっくりご自分のこころで味わい尽くすことを通して、人類の共贖者としての役割に参加されたのです。

空の墓と復活のキリスト ジオット画

こうして、人祖の罪の結果は、第二のアダムと第二のエバの贖いの業によって贖われ、死に勝利して、全人類に復活の命が与えられました。

ここに「キリストの復活祭」と「聖母マリアの被昇天祭」が教会の最大の祝祭と呼ばれるにふさわしいと言う私の主張の根拠があります。

教会は、回心して福音を信じ洗礼を受ければ、原罪もそれまでに犯した個人的罪も全て赦されて、見える教会のメンバーになり、死後キリストの復活の命に与かって天国に入ると教えます。

ただし、キリストの復活の後も、人類は原罪の後遺症のもとにあります。原罪とは実に厄介なもので、人は洗礼を通していずれはキリストの復活の命に与るとは言え、いったんは死に、その後、世の終わりに復活する日まで眠ることに変わりはありません。さらに、死を免れないだけではなく、自己愛、金銭欲、食欲、肉欲、名誉欲、支配欲、等々、人を欲望の奴隷として日々罪を犯す傾きから逃れることが出来ないのです。これが、歴史を生きる人類の存在の条件です。

さて、今夜、聖母マリアの被昇天の祝日に4人の赤ん坊が洗礼を受けます。

教会が善悪の分別もつかない、従って自分で罪を犯すはずもない、無垢な赤ん坊に急いで洗礼を授けるのには訳があります。その背景に、原罪を負って生まれた幼児が、洗礼を受けて原罪を赦されることがないまま死んだら、復活して永遠の命に入ることが出来ないのではないかと心配したことに加え、昔は幼児の死亡率が高かったこともあります。

今夜、1歳未満の4人の子供たちが洗礼を受けます。教会は、幼児にも原罪の罪が纏わりついていることを認め、それから解放されるために洗礼を授けるのです。

原罪は生殖を通じて親から「うつされた」罪です。その罪は洗礼によって拭い去られますが、先にも言った通り、原罪の結果は残り、自然の秩序と調和は損なわれ、人間は相変わらず欲望と誘惑に弄ばれ続けます。

つまり、洗礼は人間を無原罪にはしないと言うことです。

それでも、教会は洗礼によって人の罪(原罪も自罪も)が赦され、天国の門が開かれ復活の命が与えられると信じているので、全世界に行って福音を述べ伝えなさい、人々に回心を勧め洗礼を授けなさい、と教えます。

教会は、人生の目的を知らず迷いながら罪の闇に沈んでいている人々に「福音を信じ、回心して洗礼を受ける者には、永遠の命が与えられる」という善い知らせを告げ知らせる義務を信者に負わせます。その意味で、キリスト教は福音を宣教する宗教であり、人々に改宗を勧める宗教です。

では、キリスト教徒が自分の義務を果たさず、宣教する使命を怠った結果、救いのメッセージに出会って洗礼を受ける機会に恵まれなかった無数の魂はどうなるのでしょうか。 

そのような魂たちに対しては、神様ご自身が直接的に責任を取られ、神様だけが知っている秘められた方法によって、彼らもキリストの復活の命に与かり、救われるように配慮されます。そして、宣教の使命を怠った信者は、厳しくその責任を問われるに違いありません。

現代では、あらゆる先端技術の分野において、QCというものが常識になっています。QCとはクオリティー・コントロールの略で、品質管理の理論と実践であります。冷戦時代、後れを取ったアメリカが、国威をかけてソ連より先に人を月に降り立たせるためにアポロ計画を立てました。

月着陸船とそれを運ぶサターンロケットは数万個、いやそれ以上の数の部品から成り立っていたと思われます。その部品の一個でも不良品だと、ミッションが失敗に終わる可能性が高まります。従って、すべての部品を限りなく欠陥の無い品質に保つためにQC理論をNASAは打ち立て、それを借用して日本の企業がいち早く生産活動に応用し競争力を高めました。

神様が創造された1億2600万人の日本人の内、カトリック信者はたった40万人に過ぎず、プロテスタント教会で洗礼を受けキリスト者を合わせても100万人に及ばないでしょう。もし、洗礼を受けた信者だけが救われて天国に入るのだとすれば、つまり日本人の126人に一人しかキリストの復活の命に与れないなどと言う馬鹿馬鹿しい話がカトリックの教えだとすれば、私はさっさとカトリックの神父をやめ、キリスト教信者であることもやめたいと思います。私の愛する友人の多くが、洗礼を受けたキリスト者ではないのですから。

神様の創造活動の中で人間の魂の救いは最優先課題でしょう。救われる人間に関する神様のQCが、合格率0.8%で、それ以外の99.2%が不良品として地獄に落ちるなどという話を、私は到底受け入ることが出来ません。

では実際はどうでしょう。

第二のアダム・キリストが、無原罪の身でありながら、進んで死を受け容れ、その死を滅ぼして自らの力で復活したこと、第二のエバである無原罪のマリアが、死と腐敗を免れて天に昇られたことは、全人類にとって最高のグッドニュース、良い知らせ、「福音」です。このよい知らせに接してそれを信じ、洗礼を受け、神の恵みに留まって生涯を終えたものは、死後復活して永遠の命に入ります。それはまあ当然です。

他方、生涯この福音に出会う機会に恵まれず、従って洗礼を受けず、見える教会のメンバーになることのなかった実に多くの人々も、神様だけが知っている秘密の道を通してキリストとマリアの共同作業で獲得された死に対する勝利と永遠の命に与かることが出来ると教会は教えます。これなら納得です。

では、福音と出会い信じて洗礼を受けたものと、死ぬまでその福音と出会わなかったものとどこに違いがあるのでしょうか。もし、どちらの場合もキリストの死に対する勝利に与かり、復活の命をいただくのであれば同じことではないでしょうか。

そうではありません。福音を聴いて、神様の存在を知り、その愛に触れ、回心して洗礼を受けて教会の一員になった人の生涯と、神と出会うことなく、生きる意味と目的を知ることもなく、ただ精神の暗闇の中で迷いながら人生を終わった人の場合とでは、一回限りの人生の豊かさの面では雲泥の差が生じるかもしれません。

しかも、この雲泥の違いは、神様に出会った人間が、戴いた恵みの上にあぐらをかいて、その恵みと喜びを人々に分かち合おうとしなかった怠慢の結果として生じます。言葉をかえて言えば、無償で戴いた信仰と洗礼の恵みを私物化して、自らはその恩恵にあずかりながら、それを人々に分かち与えようとしなかった信仰者の怠慢は、多くの人たちから信仰に出会う権利と機会を奪った点において最後に厳しく裁かれることになるでしょう。

今夜、ここに集って聖母マリアの被昇天祭を祝う共同体は、実に恵まれた選ばれた幸いな集団だと思います。この60人ほどの群れの平均年齢は極めて若く、半数近くが子供達で、洗礼を受ける4人の赤ちゃんの他に、居並ぶ若い母親のおなかの中には来年洗礼を受けることになる胎児たちが予備軍として控えています。真っ裸の赤ちゃんを、司祭は大きな洗礼盤の水の中に、次のように唱えながら、3度頭まで沈めて洗礼を授けます。

父とー!(ザブン) 子と-!ザブン) 聖霊のみ名によってー!(ザブン)

洗礼を授けまーす!

これは、今夜の祭りのハイライトと言ってもいい出来事です。

この赤ん坊たちの若い親たちは熱心にミサに与かり、熱心に聖書に親しみ、熱心に教会の祈りをし、子供達にはしっかりと信仰教育をほどこしています。彼らはこの信仰生活を護り保つために、実に多くの犠牲を払い、世間の風潮に逆らって信仰生活を生き抜いていますから、神様は豊かな恵みをもって報いて下さるに違いないだろうと私は信じます。

私の切なる願いは、彼らが熱心な宣教者でもあってくれることです。

この罪深い私は、もし無事に天国に辿り着いたら、そこで生前にキリスト教の信者にならなかったおびただしい数の魂と出会うことを楽しみにしています。その人たちの中に、著名なカトリックの聖人をも凌ぐ聖なる魂たちがいても私は決して驚かないでしょう。さらに、この世でキリスト教と相容れないと言われていた宗教やイデオロギーの信奉者たちについても同じことを言いたいと思います。

他方では、地上のキリスト教会の中では正統派と目され、熱心な信仰者として尊敬を集めていた人たちや、多くの高位聖職者、修道者が天国には見当たらず、まさかと思いつつ地獄を覗いたら、ちゃんとあちらに住んでおられるのを知って、神様の計らいの不思議さに改めて畏れと驚きを禁じ得ないだろうと思います。キリストが言われた通り、「あとのものが先になり、先のものが後になる」と言うのが神様のなさり方なのでしょう。

では、登山口は異なっても目指す富士の高嶺は同じということになるでしょうか。一見そのようにも見えますが、実際はそうではないと思います。

私は、どの登山口から登っても、救われる人はみなイエスとマリアの救いの業によって救われるのであり、キリストの十字架の贖いとその復活の業によることなく天国に入り永遠に生きる人は一人もいないと信じています。だから、早いか遅いかはとにかくとして、キリストの救いの業に出会ってその道を歩く人は恵まれていると思います。

「死後の人間に悔い改めの余地がない」というのはカトリック教会の厳しい教えです。その意味で、天国も地獄も実は死ぬ前にこの世から準備され、始まっているもののように思います。生きているうちに一度も人を愛さなかった人は、危ないです。傲慢に膨れ上がって、神の憐れみを断り、神より自分を正しいとする人も自分で地獄を準備しているのだと思います。

これは普段のブログの長さの倍近くになってしまいました。去る8月15日の被昇天のミサでの説教は、もちろんもっと短いものでした。それは、参列した信者の集中力と忍耐力には限度があり、長い話を受け付けないからです。

今回、ブログのために言葉を補っているうちに長くなりました。読者の皆様の集中力が途中で切れないことを祈りながら、恐る恐るアップします。

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★ 神様は多元説がお好き?

2016-07-07 11:24:57 | ★ 神学的省察

 

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神様は多元説がお好き?

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あなたは地球以外の惑星に、他の銀河系に、或いは広大な宇宙のどこかに、地球人と意思の疎通ができる知的生命体(宇宙人)が居ると思われますか?

「もちろん居るさ!」というあなたに私も共感を覚えます。そうでなければワクワクするようなSF小説は成り立ちませんからね。

この狭い地球上でも、人類の起源について諸説がありました。進化の過程のある時期に、期せずして幾つかの離れた場所で、霊長類の個体が相前後して自我に目覚め、人間になった。北京原人や、ヨーロッパのネアンデルタール人や、アフリカの〇×原人、等々。アジアには黄色人種がいて、ヨーロッパには白人が、アフリカには黒人が、そしてアメリカ大陸には赤い肌のインディアンが居るのも、それならば簡単に納得が行くでしょうか?

ところが、遺伝子工学が進歩するにつれて、現在地球上に生息するすべての人類が、各人の祖先を辿っていくと、一人の例外もなく全員がたった一人の女性の個体にたどり着くという事実が突き止められました。なんと、黒人も白人も、黄色人種もアメリカインディアンも、皆、遠い祖先に生きた一人の女性を母とする大家族だというのです。科学者は、その一人の女性を、旧約聖書に現れた最初の女性に関する記述「アダムは女をエバ(命)と名付けました。彼女がすべて命あるものの母となったからである。」(創世記3章20節)に因んで、「エバ」と名付けたのでした。

この話は、よろず多元説を好まれる人士にとっては、手痛い一敗となったに違いありません。

しかし、一元説であれ、多元説であれ、目の前の現状がそれによって左右されるので無ければ、そんなことどちらでも良いではないか、とあなたは言われますか?どっこい、私にはそう暢気に構えてもいられない深い事情があるのです。

1969年7月16日に、アポロ11号のニール・アームストロング船長が月面に第1歩を記した時、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という予言的な言葉を残しています。

あれから約半世紀たった今、IT技術革新は凄まじく、中学生が手にしているアイフォーンの容量は、アポロ宇宙船に積まれた電子頭脳の何倍もの大きさではないかと素人の私は想像するのですが、その格段に進化した人口頭脳を生かして、近い将来、再び人類が地球を飛び出し、先ず月に橋頭保を、そこから、火星に、太陽系外に、さらに我らの銀河系の外にまで拡散していくのは、最早時間の問題だろうと思うのですが、その過程で、人類はついに宇宙人(ET)と遭遇するのでしょうか?

もしそうなれば、私は深刻な危機に陥り、鬱になって、自殺に追い込まれることになるかも知れないと恐れています。

なぜならそのETとの遭遇は、リーマンブラザーズ勤務時代のように「お金の神様」を拝むのをやめて、「ナザレのイエスの天の御父」を礼拝するキリスト教に帰依して、一切を捨ててキリスト教の神父になった私に、実存的土台を根底から揺るがす再起不能の致命的なダメージを与える出来事になりかねないからです。

それは、私が哲学的信念として、他でもない「一元説」の信奉者の立場を選択した結果です。もしその一元説が崩れたら、今後私は何を信じて自分を支えていけば良いのでしょうか?

神は一組の人祖に特別の恵みとして「理性と自由意志」を与えられました。しかし彼らはその恵みを濫用して傲慢にも神のようになろう、神より偉くなろうという野心に燃え、命の源である神から自分を切り離して自立しようと試みた結果、「死」を招き寄せる罪に落ちてしまいました。

それでも神は人類を見捨てることなく、彼らを救い上げるために、神ご自身が人となってこの世に入り、ご自分の「死」をもって人類を「死」の呪いから解き放ち、復活して「永遠の命」を取り戻して下さいました。私はそう信じています。それなのに、もしも多元説が正しくて、宇宙のそこここに「理性と自由意志」を備えた別の「ET集団」たちがいて、同じように罪を犯したとしたら、彼らの救いはどうなるのでしょう?お節介にもそう考え始めると、もう私は余計な心配事で寝られなくなり、ノイローゼになりそうです。

神は、それらの宇宙人をも罪から救い出すために、各ET集団ごとに、受肉して十字架について死なれるのでしょうか?それとも、我が地球にだけ受肉して全宇宙人類のための救いを成就して、地球人が救いの宣教師として訪れるまで他の宇宙人たちはそれを待望しながら時を重ねることになるのでしょうか?そもそも、数ある宇宙人集団の中でなぜ地球にだけ神は受肉したのでしょうか、それは単なる偶然ですか?他の宇宙人のところではダメだったのでしょうか?

考えるだけでも頭が変になりそうですし、答えは永久に出てこないでしょう。

私の哲学的思考回路に合致する唯一の合理的なシナリオは、神はこの広大な大宇宙の中で、銀河系の片隅の小さな太陽系の3番目の惑星である地球にだけ「理性と自由意志」を備えた人類を創造し、その人類が罪を犯し宇宙の秩序を乱したのを受けて、神は地球人となり十字架の上でその罪を贖ってくださった。

地球以外に「理性と自由意志」に目覚めた被造物はなく、この広大無辺の宇宙は全てその唯一の人類の手に委ねられた、と考えるのが正解ではないでしょうか?

私はこの際、「一元説」以外に取るべき立場はないと信じます。神は最初からその設計図のもとに宇宙を創造し、唯一の神ご自身が「一元説」の提唱者でなければならないと思うのです。

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★ 忘れられた中世の町「アナーニ」-その(3)

2014-10-08 00:01:00 | ★ 神学的省察

 

このブログは、実は今年の4月24日にほぼ書き上げていた。

ところが、心のどこかで、まだ時期尚早との声がした。それで保留のままにした。

その後、いろいろなことがあったのも事実だ。

今、時が満ちたかどうか知らないが、

いつまでもお蔵にしておくわけにもいかないし・・・

 

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忘れられた中世の町「アナーニ」-その(3)

「第二バチカン公会議」と「トレントの公会議」

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 アナーニの町に行ってボニファチウス8世と言うとんでもない俗物の教皇に出会った。

この悪徳教皇を興味をもって調べている内に、初代教会の300~400年ほどの間、ほとんどの教皇が聖人であって、

その数50人以上にも及ぶことが判ってきた。

ところが、その後の1600年ぐらいの間の200代ほどの教皇には聖人は例外的に少数いただけで、

殆どが俗物か悪徳の人たちだった。

ところが、ここ半世紀ほどの間に、また聖人教皇が輩出し始めた。

そして、まだ列聖されていない教皇たちも、みな例外なく有徳の士で、悪徳の俗物は一人としていない。

これは只の偶然か、それとも、歴史の深い必然のなせる業か。

そんなことをあれこれ考えているうちに、見えてきたものがあった。 

その辺にメスを入れてみよう。



「第2バチカン公会議の教えを受け入れる人と、

それを認めようとしない人との間の亀裂には、

カトリックとプロテスタントの間の亀裂よりも深いものがある」


 という意味のことを公会議に深く関わったフランスの神学者アンリ・ド・リュバックが言ったということは、今まで諸先輩からの伝聞として何度も耳にしてきた。

 ド・リュバックはフランスのイーヴ・コンガールやドイツのカール・ラーナーやポーランドのカルロ・ヴォイティワ(今回列聖された教皇ヨハネパウロ2世)などとともに第2バチカン公会議を牽引した神学者の一人として知る人ぞ知る。

 とは言え、上の件は伝聞ばかりで、アンリ・ド・リュバックがどの著作にそのようなことを書いたのか直接確認できないでいる(知っている人は教えてください)。いずれにしても、現教皇フランシスコミシェル・ド・セルトーと並んで、ド・リュバック自分が最も愛好している現代のフランスの思想家の一人だと言っていることからしても、恐らく教皇フランシスコも等しくその考えを共有するものであると推測している。

 そして何よりも、私は様々な体験から「本当にそうだな」 とつくづく実感しているので、ド・リュバックの出典から切り離した私自身の思いとしても 「第2バチカン公会議とその果実として生まれたカリスマを受け入れる人と受け入れない人の間の亀裂(以下、亀裂=A)には、カトリックとプロテスタントの間の亀裂(以下、亀裂=B)よりも深いものがある」 と言いたい。

 浅学菲才の身ではあるが、私の思いが届く範囲の知識を動員して、何故私がそう思うか、以下にその理由を書いてみたいと思う。

 なお、手法としては―今回初めての実験として―思いつくままに未完の問題提起の形でブログの骨子を最初にアップし、日を追って逐一それを自由に補足・修正しながら発展させ、時間をかけて完成していきたいと思った。

 つまり、過程では右に、左に、揺れることはあっても、結論的には誰でも認められる妥当な線に納まることを願っている。

 しかも、その実験の過程で、コメント欄に自由に意見や助言や補足や資料の提供を募り、それらを完成作業に反映したいと考えている。ただし、頂いたコメントは参考に用いさせていただくに留め、全てを生の形での公開はしないつもりでいる。

以上、基本ルールをご理解いただけただろうか?では、さっそく実験にかかろう。



 出発点としての問題提起

《亀裂=A》 が 《亀裂=B》 より深い理由は

1) 《B》 コンスタンチン体制の枠組みの中での保守と革新の間の亀裂であるのに対して、《A》 「コンスタンチン体制内残留か、決別か」の未来に向けた決定的な選択を含む亀裂だからだ。

 イエスの弟子たちの時代からコンスタンチン体制までは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6章24節)とか、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マタイ22章21節)とか言うイエスのラディカルな教えに忠実に、政教分離はもとより、「神」「この世の価値、金、富」とを峻別・対峙させ、一切の妥協を拒んで貧しさ《霊的・物質的》を生きようとした時代だと理解するとしよう。

2)それに対して、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の宗教に取り立てた時から第二バチカン公会議の改革までの、実に1600年以上の長きにわたる期間は、「神聖ローマ帝国」と言う言葉や、近くはヨーロッパの保守政党名の「キリスト教民主同盟」などに象徴されるように、「キリスト教と地上の覇権との結合、融合、蜜月関係が当たり前の時代」、また「『イエスの天の御父の神』と『地上のお金の神様』との両方に兼ね仕えようとする折衷・妥協の時代」であったことを意味する。

 

整理すると、まず教会史の中では2つの大きな節目、転換点があった:

第1の転換点:「ローマ帝国によるキリスト教の国教化」「初代教会」から「コンスタンチン体制へ」の移行を促した(312年)。 

第2の転換点:「第二バチカン公会議」「コンスタンチン体制との決別」「第二バチカン公会議後の新時代」への移行を促した(1965年)。

 

もう一つの顕著な特徴は

①   初代教会が「キリストの弟子たち主導」の時代であったのに対して、

②   コンスタンチン体制を始め、それを導いたのは「地上の覇者コンスタンチン大帝」であったこと、

③   第二バチカン公会議後の時代を開いたのは教会のトップ「ローマ教皇ヨハネス23世」であり、その後、パウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクト16世、そして今のフランシスコ教皇が一貫してその改革路線を踏襲していること(上からの革)、

④   それに対し、コンスタンチン体制内宗教改革とその結果生まれた分裂を主導したのは教会のいわば底辺の一司祭、「マルチン・ルター」とその追随者たちだったこと(下からの改革)

ルターは初め教会を割る気はなかったのではないか。ルターは公会議を提唱(要求)したのではないか?ルターの場合、錦の御旗=教皇が保守の側に残った以上、その保守の側に追い詰められれば、心ならずも先鋭化し異端の烙印を押されるところまで突っ走らざるをを得なかったのではないか?トレントの公会議は、ある意味でルターの導き出した(ルターの望みが叶った)ものとは言えないか?ルターが望んだ公会議は教会がカトリックとプロテスタントに決定的に分裂をする以前に開かれるべきではなかったのか。しかし、教皇が保守の側に残り、ルターの多くの正しい改革の主張を退けた結果、教会分裂の悲劇は避けがたいものとなったのではないか。

⑤   言葉を換えて言えば、トレントの公会議は「錦の御旗=教皇」が保守の側に残ったが、第二バチカン公会議の場合は「錦の御旗=教皇」は革新の側に移ったため様相が逆転している。

また、(亀裂=B)プロテスタント改革の場合は、教会のトップ、即ち時の教皇が保守の側に残ったので、保守が改革者「ルター」一人を破門することになったのに対し、

(亀裂=A)第二バチカン公会議を境とする亀裂の場合は、教会のトップが革新の旗手になり、改革を牽引したので、それに抵抗する保守の最右翼の「ルフェーブル司教」一人が改革派教皇ヨハネ・パウロ2世によって破門されることになった。これも様相逆転の表れとは言えないか。



 以上の事の理解を助けるために、下手な図を描いてみた。コンスタンチン大帝からヨハネス23世(第二バチカン公会議)までの時間(黄色線が点線の下にある時代)を「コンスタンチン体制下の時代」、それ以前を「初代教会」、それ以後を「公会議後の時代」と考えていただきたい。 

 

 

 

《コメント歓迎》

 ◎ このブログはこのままでは未完成である。ただの問題提起にしかすぎない。読者の協力を得て変更・補完して妥当な線に収めて完成したい。

 ◎ だから、こういう設問の仕方に反対、賛成の意見がおありの方は自由にコメント頂きたい。

 ◎ 誤りがあったらご指摘いただきたい。

 ◎ 見落としている大事な観点に気付かれた方はご教示いただきたい。補足資料として採用したい。

 なお、今回の試みは、私のコメント欄に最近集中的にコメントを寄せられたある匿名の方(その方のコメントの多くは保留のまま残り公開されていない)に対する私流のお答えでもあるつもりだ。(私が「アナーニ」シリーズ その(1)、その(2)を書いていたころ、コメントが相次いでいた。)

(つづく) 


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★ 立花隆の臨死体験

2014-09-16 00:01:00 | ★ 神学的省察

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立花隆の臨死体験

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 野尻湖の山荘に居ると私は新聞を読まない。しかし、昨日は何故か手元に新聞があった。夕食後はテレビでも見ようかと番組欄に目を通したが、面白そうなものは何もなかった。いや、正確にいうと「どうせ面白くないだろう」と思うのが一つあった。

 それで、テレビをやめて、メールチェックと返信のためにパソコンを開いた。しかし、「どれぐらい面白くないか、一応チェックしておこうか」と思い直して、テレビのスイッチを入れた番組はもう始まっていた。

 立花隆がNHKの特集番組で「臨死体験」について語るのは20年ぶりだそうだ。その間に何か進歩があっただろうか?という興味はあった。

 私の批判は、ジャーナリスト立花氏は、「臨死体験」という言葉を使いながら、あたかも「死後の世界」を垣間見てきた人の体験を聞くような錯覚に人を誘う点で、そんなの「いかさま」ではないか、というものだ。ジャーナリストは、自分の使う言葉に対してストイックなまでに忠実でなければならない。そこに、誘導や、すり替えや、ごまかしがあってはならない。

「臨死体験」とは、「死」という厳粛な一線に限りなく近づいた人の「生の側」における体験のことであって、決してその一線を越えてその向こう側に踏み込んで、死後の世界を垣間見てきた人の体験ではない、ということをはっきりと断ってから話を進めるべきものである。

 かつて立花隆の「臨死体験」がもてはやされた背景には、「死に限りなく近づいた人が生の側において体験すること」、「死の一線を越えて彼岸=死後の世界=で体験したこと」を語ること、との区別を意図的に曖昧にして、あるいは読者が期待を込めて混同する余地が残るように誘導する作為がなかったかを問いたい。

朝日新聞のテレビ欄に踊る

  NHKスペシャル

     臨死体験の謎に迫る・

        死ぬとき心はどうなるか

      先端科学が挑む“死”

      ▽立花隆が徹底取材!

      ▽体外離脱を自ら検証

        神秘体験生む脳の働き

という一連のキャッチフレーズは、確かに「死後の世界の見聞記」とは言っていない点で、嘘はない。しかし、死後人はどうなるのか、という人類普遍の関心、疑問をくすぐり、それにあたかも答えやヒントが得られるのではないかという期待を掻き立てる「未必の故意」を嗅ぎ分けるのは私一人だろうか。いま朝日新聞が袋叩きにあっているが、NHKの上のキャッチフレーズの中に、同じ意味の「未必の故意」は潜んでいないのだろうか。

 「皆さん!気を付けてください、間違わないでください!今から話すことは、あくまでも人間が死に限りなく近づいたときどういうことになるかの体験、極限状態にある生の体験であって、死の一線を踏み越えて死後の世界を覗いてきて、同じ死の一線をまたいで再びこの生の世界に生還した人の体験談ではありません。」と最初に注意を促さなかったところに、私は「未必の故意」を感じ取り、ジャーナリスト立花の人気とNHKの姿勢を胡散臭く思ったものだった。

 立花隆氏はいま74歳だというから、私と同じ1939年生まれだろうか。私と同じく短躯で肥満で、癌を患っているそうだ。今回の放送で、「ああ、彼もずいぶん謙虚になってきたな」という印象を受けた。テレビの中の彼はこの写真よりもう少し老けて見えた。

 それにしても、人間の意識の世界まではいいが、心、精神、魂の領域を、相変わらず脳の生理や機能や電気的反応の中に捜そうとする手法には、進歩がないと思った。人間の心を語り、死後の存在を語りながら、マウスの脳みそに電極を差し込んで観察するなどは、まるで蝶を水の中に探し、魚を雲の上に求めるようなものではないか。その意味で、番組の内容に新しみはなかった。

 NHKは彼を「哲学者」と持ち上げているが、それはNHKが「哲学」と「哲学者」のなんであるか理解していないことを告白したようなものだ。人間の魂、その不滅性、死後の世界、等々について語る分野は、「哲学」でもあるが、それは優れて「宗教」の領域であり、厳密には「神学」の世界の問題であることを忘れてはいけない。

 

 

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★ 異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!《プロテスタント化するカトリック教会(その-5)》

2013-01-23 22:04:55 | ★ 神学的省察

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異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!

急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-5)

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身辺いささか忙しくなって ブログの更新が思うに任せません

一息ついて ホッとされた向きもあるでしょう


 

朝霧のポルト・サン・ジオルジオ風景


 いまカトリック教会が司祭の独身制を廃止したら、どれだけの司祭が、結婚に走るでしょうか?司祭の平均年齢が高く、結婚適齢期をとっくに過ぎている者がほとんどですから、多分意外に少ないのでは・・・・。

 では、司祭に結婚を認めたら、急に司祭のなり手が増えるでしょうか。それも大いに疑問です。なにせ、司祭の給料は生活保護並みか、それ以下ですから。

 ローマの司祭の基本給は―驚くなかれ―確か月に800ユーロ(約8万円)と聞きました。私が在籍する高松教区では、ローマに来る前の時点で11万円ではなかったでしょうか。他に才覚に応じてフリンジベネフィット(付帯的利得)があり得るとしても、これではとても結婚できないし、まして子供を大学までやるなんてとんでもありません。

 私はプロテスタントの牧師さんの平均的収入がどれぐらいか全く見当がつきませんが、結婚して子育てが成り立っているからには、カトリックよりはずっとましなはずでしょう。その向こうを張って、もしカトリック司祭の給料をプロテスタント並みに引き上げたら、世界中の司教区と、総本山バチカンの財政は、一気に破綻するかもしれません(笑)。


リド・ディ・フェルモ 冬だというのに 海辺に小春日和の太陽が


 プロテスタントの信者さんは、牧師一家を養う負担が重いと陰では愚痴をこぼしながらでも、それが信仰共同体存続に不可欠な条件だと初めから覚悟しているからいいですが、カトリックの信者は、独身司祭は教会制度が養うものと考えているので、司祭が結婚することになったから、奥さんと子供たちの生活費をあなた達で負担しなさいと突然言われたら、みんなびっくりして教会を離れるかもしれません。

 お寺さんでも、牧師さんでも、神父さんでも、いわゆる「聖職」を、食べていくための(ましてや家族を養い、財をなし、地位と名誉を手に入れるための)手段と考えるなら、世俗化した今の社会では、これほど展望のない割の合わない職業はまたとないでしょう。

 そもそも、聖職は世俗の職業と同じではありません。キリストの弟子たちは、キリストに呼ばれたから、全てを棄ててキリストのあとにつき従ったのでした。これは神に選ばれた者が従うべき「召命」(ヴォケーション)なのです。

 

浜辺に出た カモメがひと群れ 羽を休めていた


 「食欲」「性欲」は動物である人間に、「個体」「種」の生命の維持を保証する最も根源的な本能です。カトリック教会はこの人間にとって根源的で自然で健康な本能を抑制し、それを断念する生き方を、神様の召命に答えて教会の普遍的な「宣教の使命」に生きる条件として制度化したのです。だから、そんな不自然なことはとても無理ではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、神父になって18年、神学生時代を入れるとローマに住んで13-4年、世界のカトリック教会事情を内側からクールに見据えてきた私は、司祭の独身生活が心配したほど不自然ではなく、また思ったほど偽善的でもないという点に確信を持つようになりました。

 それは、神様がある特別な召命を与えた者に対しては、それを生きるために必要な特別なカリスマ恵みを一緒に与えて下さる、という事実を目の当たりにしているからです。

 人間の弱さ不完全さからくる葛藤や逸脱の問題は最後まで残りますが、召命の道を誠実に生きようと日々精進する司祭たちには、キリストの「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11章3節)と言う言葉にもあるように、外から見ると不自然で不可能のように思われることも、神の与えられる豊かな恵みと力に支えられて可能になるものだということを納得しました。

 もちろんこれは、ご自分の愛をもって宇宙万物を無から創造し、それを今も日々存在界の中に支え導いておられる「生ける神」が実在するという信仰を前提としての話です。神を信じない人にはいくら説明しても、どの道わからないことかもしれません。


 潮風が頬に優しい リド・ディ・フェルモ


 先日、成人式の日にこんなコメントが届きました。

       谷口神父様
       コップを飛び出すパワーを ・・・
       どうすればよいのですかね
       成人式 着物姿に 大雪 ままならぬもの
                            (T. Y.)

 今問われているのはまさにそのことです。

「世俗主義」とは、神聖なもの、超越的なもの、一言で言えば「神」の存在を否定し、「神無き社会」、「神に敵対的な世界」を築こうとする立場です。

 しかも、ここで言う「神」は神話の神々や迷信的神々ではなく、ユダヤ教・キリスト教の系譜が信じる宇宙万物を無から創造した唯一の「愛である生ける神」です。そして、それを否定し、この世の支配者である「お金」を神として拝む「拝金主義」の支配する社会を築こうとするのが「世俗主義」です。それは、私がリーマン時代に奴隷として仕え、今はそれから逃れた「マンモンの神」、愛の神から人間を引き離し滅ぼそうという強烈な意志を持ったもう一つの「生ける神」、が勝利する社会です。


潮の退いたあとには 砂の上に石ころや 貝殻が

 

 私のグレゴリアーナ大学の先生ロサト教授は、宣教する教会の姿を生きた細胞に例えました。

 仮に「世俗主義的社会」の只中に「教会共同体」という生きた「細胞」があるとしましょう。細胞は細胞膜を通して、外界(社会)から必要なものを摂取し、不要な老廃物を吐きだします。細胞膜の内側の細胞質は核を養い、核はDNAの生命情報を護って細胞の命を支えます。

 16世紀、中世から近世へ時代が大きく変わろうとしていた時、キリスト教の聖職者が聖俗のあらゆる分野で支配的な力を握ったいわゆる「クレリカリズム」(聖職者主義)の弊害に対する反動として、プロテスタンティズムは信徒である「細胞質」を重視するあまり、細胞から「核」である司祭を抜き取り廃棄してしまったというイメージは、歴史的現実をうまく言い当てているでしょうか。
プロテスタントが抜けたあとのヨーロッパの教会は、その後カトリックとして、宣教の使命をもっぱら聖職者に委ねて今日まで及んだのも、これまた歴史の現実でした。

 これら二つの現実は、その後4世紀余りにわたり平行して競い合って(コップの中の嵐を演じて)きたのですが、気が付いたらコップの外の世界では、特にこの半世紀ほどの間に、キリスト教的価値観に正面から敵対する「神無き」世俗主義が台頭し、その前に両者はいずれも全く歯が立たなくなって後退に次ぐ後退を重ねていました。

 

・ ・ ・ ・ ・ 小石と 貝殻と ・ ・ ・ ・ ・


 この危機の時代にカトリック教会内に新たに登場したのが、第二バチカン公会議の落とし子のような新しいカリスマたちです。
ロサト教授のわかりやすい例に戻れば、カトリックの特性とプロテスタントの特性のプラスの部分を合体させた強力な宣教の方法論がそれです。プロテスタント型の「万民司祭」、つまり全信徒が宣教の第一線に立つ細胞質の中に、カトリック型の「独身司祭」の司る秘跡が入って、内側から活力を与えるかたちです。

 具体的には、細胞質である家庭を営む信徒のグループに、「秘跡」を持って命と活力を与える「核」の役を果たす独身司祭を挿入してアメーバ―のように強靭な生きた細胞を形成するのです。

 これは、教皇ヨハネパウロ2世の時代に始まり、現教皇ベネディクト16世が継承している「異邦人への宣教」(ミッシオ・アド・ジェンテス=Missio ad Gentes)です。オランダや北欧、ドイツやフランスなど、元カトリックであったり、プロテスタントであった地域が、世俗化の津波に襲われて精神的廃墟となり、キリスト教が完全に消え失せてすっかり「異邦人」の世界と化したところに、子沢山の宣教家族数組と一人の独身司祭が一つのユニット、生命力のある自己完結型の有機的細胞としてパラシュートダウンしてその町に定着し、宣教に打って出る。この大人の背丈に達した信仰集団には、世俗主義の毒素に犯されない信仰的免疫力があって、世俗化した社会に福音の光を灯し、キリストの赦しと愛を宣べ伝えながら広まっていくエネルギーを備えています。

 そこで宣教活動のイニシャティブを取るのは信徒のチームであり、司祭は専ら秘跡と祭儀を受け持ちながら、信徒の指揮と指導の下に服し、専ら信徒の精神的一致と霊的向上に資するように努めます。

 世俗主義の攻勢をはね返して効果的に福音を宣べ伝えるためには、必要なら殉教も辞さない決意を持った、そのような強固な信徒集団の仕組みが必要なのではないでしょうか。

(おしまい)

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会(その-4)

2013-01-17 12:45:44 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-4)

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 このテーマ

 今回限りで何とかお茶を濁そうという気に 一度はなったのですが

(その-1) に次いで (その-3) のアクセス数が 予想外に伸びたこともあって

このままでは何だか無責任な気がしてきて また敢えて深みに嵌ろうとしています

先ず 経過を振り返ります

   

ねェ この写真賞味期限切れてません? つまり実物はもっと老けてませんか?

その通り 看板にに偽りありです!(影の声)


公園の鳥-1


 この一連のブログのテーマの(その-1)では、司祭不足から、カトリックの礼拝が司祭抜きの―したがって「秘跡」抜きの―「聖書中心」の礼拝に傾いたことを書きました。それはまさに文字通りカトリックのプロテスタント化の典型でした。

 (その-2)では、司祭が独身であることは、キリストとその弟子たちの時代にも、初代教会の中にも、その決定的な根拠はなく、東西のキリスト教の伝統の中では西側だけに芽生え発達したもので、それも11世紀ごろに人為的に導入され、特に厳格に行われるようになったのはプロテスタント教会の改革の反動として高々この400年余りのことに過ぎないことを書きました。

 しかし、カトリック教会は半世紀前に第2バチカン公会議の大改革を行った際に、司祭の独身制を廃してプロテスタント化することはなかったとも書いたため、私の論旨は歯切れが悪く混乱しているような印象を与えたかもしれません。

 (その-3)では、「義清さん」の思い出を書きました。

 私個人としては、若い学生の頃から司祭職に対する召命を感じ、一旦はイエズス会の修練院まで行ったこともありましたが、教会の歴史を知れば知るほどカトリック教会の絶対的な司祭独身制度に疑問を抱いたことがありました。しかし、神様の不思議な導きで司祭にして頂いて10数年が経過した今、自分自身の体験を通して司祭独身制の希少な価値を再発見しつつあります。

 そして、今日カトリックの自称進歩派(左派)の中に司祭の独身制の廃止論者が(高位聖職者を含めて)少なくない中で、教皇以下カトリック教会の本流が、今なお司祭の独身制を堅持しようとしていることに対して、共感と理解を持つのみならず、その妥当性に対して強い確信を抱くに至っています。


公園の鳥-2

 

 キリストが説き、弟子たちに種として残したものは、長い教会の歴史を通して芽生え、育ち、発展しながら、新しい実を結んでいくもののようです。たとえば、キリスト教の基本的教義でさえも、聖母マリアの教会の中における位置づけのように、初代教会からその芽はあったとは言え、聖母マリアへの「信心」を棄てたプロテスタント教会の改革に対抗して開かれたトリエントの公会議の時でさえも、教会はまだ明確な教義化をためらっていて、1854年になってようやく「聖母マリアの無原罪の御宿り」を教義として確定した例がありました。

 教義でさえそうであるならば、初代教会に包括的に種子として与えられた「宣教の使命」が歴史の展開の中で自然に育ち、分化し、開花し、ようやく今日になって実を結ぶことがあっても不思議ではありません。

 種子として蒔かれた「宣教の使命」は、洗礼を受けた全てのキリスト者の使命でありながら、時代の流れの中でその内容は分化し、成長し、次第に特化していくのは自然なことではないでしょうか。社会と文化の発展に添って、宣教の使命も信徒の間で分業と協力によってより豊かに効果的になることも考えられます。

 冷静に考えると、プロテスタント改革の頃から、西側の教会では、宣教の第一線で全面展開する信徒(プロテスタント化)と、それを独身司祭にこそ委ねようとする動き(カトリックの反動的反応)への分化が明確になっていったのではなかったでしょうか。

 グレゴリアーナ大学のロサト教授はそれを人間の細胞に例えた話は、だいぶ以前に書いたブログ「ロサト教授は誤りを教えたか」の中で詳しく展開しましたので参照していただきたいと思いますが、短く要約すると、細胞膜の中の細胞質は中心の核を包んで護り栄養を与え、その代わりに核は細胞質に生命を与え、こうして支え合って有機体として生き続け、宣教の使命を果たしていくことができるという考え方です。

 世俗化し教会に対して敵対的となった社会の中では、「万人司祭」を掲げて信徒だけで宣教の使命に取り組もうとしても、命の情報を保持する独身司祭を失っては、生き抜けない厳しい状況が生まれています。現代の世俗化した社会の中では、プロテスタントの教会もカトリック同様に守勢に立ち、後退している事実がそれを物語っています。

 他方では、核に例えられる独身司祭が裸で孤独に宣教に打って出ても、細胞質に例えられる信徒の家族に包まれ、守られなければ、枯渇して死滅するほかはありませんでした。今カトリック教会が緩やかな自然死に向って突き進んでいるのはそのためです。

 宣教の使命は核のものか、細胞質のものか、プロテスタントか、カトリックか、とコップの中の嵐のような議論をいつまで続けていても、コップの外に飛び出して世俗化した社会に福音を宣べ伝えるために打って出る活力は生まれてこないというものです。

 

 そのような反省に立ってキリスト教の置かれている状況を見直すとき、何が浮かび上がり、どういう展望が開けてくるのでしょうか。次回はその点を明らかにして、今度こそこのテーマを締めくくりたいと思います。

(つづく)

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

2013-01-14 09:18:03 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

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実はいま私はアドリア海に面したポルト・サン・ジオルジオという保養地に来ています

夏は海水浴客で賑わうのですが 今は死んだように人気がなく 怪しい雲行きに海も荒れています

 

公園の鳥ー3


 ところで、複雑で重層的な歴史的事象を、教科書的・網羅的で単調な―従って無味乾燥な―記述に終わらせないで、最後まで読者を惹きつけていくためには、何かそれなりの工夫が必要になります。

 そのために敢えてする私の語り口には、当然賛否両論があることはよく承知して居ます。それはスタイルについても、内容についても言えるかもしれませんね。

 しかし、自分では、カトリックの「中道」の視点から大きく離れないようにとの配慮だけは欠かさないように心掛けてきたつもりです。だから、それがもし或るローカルな通念とどこかでずれるところが有る場合には、もしかしてそちらの方でも一応従来の立場を吟味し直す必要がありはしないかと、逆に問題を提起したいところです。


公園の鳥ー4


 さて、いささか古い話になりますが、私にはかつてプロテスタントの牧師さんに尊敬する伊藤義清(よしきよ)という兄貴分がいました。私より5~6才年上で、もう故人です。同志社の神学部出身で東京の日本基督教団の大きな教会の牧師をよい評判で長く勤めた人でした。

 あれは、時あたかもベトナム戦争最盛期のことです。

 べ平連キ政連(「キリスト者政治連盟」と言うプロテスタントとカトリックの左派連合)が合同で、当時パリに亡命していた政治囚釈放運動の旗手のグエン・ディン・ティ神父と、その同志の仏教の尼僧を日本に招待し、当時南ベトナムに大勢いた政治囚の悲惨な現状を訴え、その釈放を求める国際キャンペーンの全国講演ツアーが企画されました。

 義清さんが北海道から東京まで、東京で引き継いだあとは、沖縄まで二人の講師のボディーガードをするのが私、という役割分担でした。

 たった4年間に800万の人口の内200万から300万の人々が空しく消されていったカンボジア虐殺事件も異常でしたが、同じ頃、南ベトナムではアメリカの傀儡政権の下で、不当に逮捕され、裁判もなく、地面に掘られた大穴に何人も押し込まれ、何か訴えれば上から石灰の粉をばら撒かれるという悲惨な状態に、実に大勢の人たちが放置されていました。

 安全で何不自由ない生活を楽しんでいた日本でも、多感な若者たちの中には、その状況に無関心でいられないものが当時はまだ大勢いたのです。


 ティ神父の一行を無事パリに送り返した後、ご苦労さんとばかり、屋台で安い酒を飲みながら、義清さんと交わした会話が懐かしく思い出されます。

 酔った勢いで彼が「いやー、カトリックの神父さんは羨ましいね。口うるさい嫁さんに悩まされることもなく、子供の教育費の心配もなく、ひたすら読書や牧会(信者さんのケアー)に専念できるんだから。」と言うと、当時、上智大学の研究室の助手の職を追われ銀行マンの修行中だった私は、「そうですかねェ?私に言わせれば、カトリックの神父は実生活の苦労がないだけ人間的にどこか未熟で、ひとの悩みに対する十分な理解に欠ける者が多いのではないかと思うのですがね」と返しました。

 その後55歳で神父になって、さらに20年近く時を経た今ふり返って、ああ、あの頃はお互いにて「隣の芝生」が青く見えていたのだな、と懐かしく思い出に耽っていると、

谷口くん

カソリックがプロテスタント化して

プロテスタントがカソリック化しても

ともにキリスト教

コップの中の嵐だ!


 と、いつもの辛口の J.K. 君から鋭い突っ込みが飛んできました。深い真実を衝かれた私は、「友よ、あっぱれ!」と、むしろ痛快な気分になりました。

 元々カトリックとプロテスタントがあったわけではありません。あったのはキリスト教でした。西ヨーロッパのキリスト教の一部(半分ぐらい)が16世紀に自分たちの主張を掲げてプロテスタント教会を作って出ていったから、残りの部分が受け身的にカトリックの名のもとに区別性を明確にしたまでのことではないですか。

 そう言えば、11世紀に東西にキリスト教が分裂した時も、相互破門だ、破門を解いたのと、どたばたした挙句の果てに、結局分裂は歴史のなかにそのまま残ったのでした。

 「あっち向いて、ホイ!」というやや乱暴な(しかし、心理的にはピッタリだな、と今もって自画自賛している)表現で象徴されるように、プロテスタント教会がいくつかの点で突出して「左」(と仮に言いましょうか)に動いた結果、カトリックがそれに反発して現状に固執し、むしろ反作用として以前よりもいっそう「右」に動いたと面が確かにあったと思われます。

 当時、プロテスタントの教会が提起した点の中に、本来カトリック教会が評価し取り入れるべきだったはずのものはなかったのか、また、反動でカトリックが固執した点にも、あらためて再評価すべきものがあるのではないか、と言うことがいま問われるべきではないでしょうか。

 そもそも、プロテスタントが言う「万人司祭」とか、カトリックがあらためて言う「信徒の王的司祭職」のもともとの意味は何だったのでしょうか。

 それは、キリスト・イエスが弟子たちに託した使命の総体、つまり「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」という使命ではなかったのでしょうか。

 この使命に目覚め、それを妻帯者信徒の手で積極的に展開したのは、確かにプロテスタント教会の大きな功績だったというべきでしょう。その反動で、カトリック教会はフランシスコ・ザビエル型の独身聖職者主導の宣教に特化していったのも、歴史的現実でした。
それが、第二バチカン公会議以降大きく方向転換し、「信徒使徒職」と言う言葉で、プロテスタント教会の功績を追認し、カトリック独自に方向性の模索を開始したのでした。

 プロテスタント教会が改革を急ぐあまり置き忘れた、或いは意図的に切り捨てた独身聖職者の存在価値を大切に護ったのは、カトリック側の大きな功績であり、それは今後も堅持されるべきものであるはずなのに、現代の世俗主義の蔓延の前に、司祭職への召命の激減で残念ながらその存在は危機に瀕しています。

 私が「カトリックの急速なプロテスタント化」として注目し、評価したいのは、この公会議後に花開いた「信徒使徒職」の一環としての「信徒の手による新しい福音化」であり、それは今や「世俗化」の波の前に同様に停滞を余儀なくされているプロテスタント教会の「宣教」の現状を大きく凌ぐエネルギーを秘めている点です。 

次回は、その具体的な現実を紹介して、このテーマを終えたいと思います。


 そう言ってそそくさと舞台の袖に引っ込んで、フーッと息を吐いて、額の冷や汗を拭いている自分がいます。止せばいいのにまた性懲りもなく面倒な問題に首を突っ込んだものだ、と言うのが正直なところです。

 これはまさにパンドラの箱です。一旦蓋を開いてしまったら、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が一斉に飛び出して収拾がつかなくなるところでした。宗教改革、反宗教改革の全体像は、そもそも浅学菲才の私の手に負えるテーマではありません。

 ですから、次回は最初から言いたかった一点だけを簡潔に展開してさっさと幕引きといたしましょう。


(つづく)

 

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-2)

2013-01-09 13:09:20 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-2)

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先日バチカンポストに郵便物を持って行こうとして、大聖堂の正面の道に入ってびっくりした

サンピエトロ寺院のクーポラ(まる屋根)がないのだ すっぽりと横に切り取ったように無い!

これは珍しい写真になるぞと ところが 駐車するスペースを探してモタモタしているうちに ぼんやりと見え始めた

畜生! まことに残念 シャッターチャンスを逃した ちょっと3分遅かったか!!

曇りの日 離陸した飛行機が突っ込むあの雲が 珍しく一瞬100メートル以下まで降りてきた感じ・・・

だったのに これではただの霧の中みたいではないか でも嘘ではない ほんとだったんですから!

しばらくは 両側の小さな丸屋根も見えなかったのだから・・・・



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ポストから帰ってきて部屋の窓の外に目をやると


わたしの部屋の窓の正面に去年まで高い糸杉の木があった

植木屋さんがバッサリ切る前は この幅でまだ上に5-6メートルは伸びていて

その先端はさらに先細りに天を刺していたのだが 切られて一旦は横一直線に平らになった

今はまた 左の一部が天に向かって伸び始め残りの部分もギザギザになってきた

それ以来 この空中の高台は スズメたちの格好の井戸端会議場になっている

その議論が伯仲すると チュンチュン シリシリ その喧しさは半端ではない

中には 好奇心強いのが 私の窓ガラスのところまでやってきて 

ノートパソコンの見えない画面を読み取ろうと しきりに首をかしげる

そして ぶるぶるっと羽音を残して会議場にもどり 報告して 曰く


今日のブログのテーマは 「プロテスタント改革と聖職者の廃止」 らしいぞ! 


 プロテスタント改革の特徴の一つは、独身主義聖職者の廃止と考えられます。その根拠はいわゆる「万人司祭」の考え方に基づくものですが、プロテスタントの教会は聖書的にもその立場が裏付けられると考えているようです。もともとカトリック教会にも、洗礼を受けたものは皆等しくキリストの王的司祭職の与るものとする考えがありました。洗礼を受けた信者は、自然にはほとんど皆結婚するでしょうから、司祭が独身でなければならないという話はそこからは出てきません。

 キリストが2000年前に自分の教えを広め始めたとき、先ずガリレアの漁師たちから始めて弟子たちを集め12使徒を形成したのですが、弟子の頭とされたペトロはイエスと年恰好は似たようなもの、もしかしたらイエスよりいくらか年上だったかもしれません。

 当時のユダヤ人社会の習慣によれば、男女の結婚適齢期は今よりはるかに低かったと思われます。ヨゼフの許嫁、イエスの母マリアが受胎告知を受けたのは12-3歳の頃ではなかったでしょうか。イエスが30歳でまだ独身だったことがむしろ例外で、弟子たちは、イエスに特別愛された若いヨハネを除いて、おそらくほとんど皆結婚して家庭があったに違いありません。

 彼らはイエスに弟子として召されたとき、漁師だったものは舟も網の親も捨てて、すぐにつき従ったとありますが、ペトロには姑がいたし―と言うことは妻もいたわけで―弟子たちもみな信者である妻を連れて歩いていたと考えられます(1コリント9章5節参照)。恐らく、イエスが弟子たちと伝道の旅をするあいだも、弟子たちの家族は、ぞろぞろ、ワイワイ、遠巻きについて歩いたのではないでしょうか。

 キリストの復活後の教会では、弟子たちに育てられた教会の指導者たちも、みな既婚者でした。聖書にも「だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。」(1テモテ3章2節)とか、「奉仕者は一人の妻の夫で、子供たちと自分の家庭をよく治める人でなければなりません。」(1テモテ3章12節)とか、「長老は、非難される点がなく、一人の妻の夫であり、その子供たちも信者であって・・・・。」(テトスへの手紙1章6節)とあります。

 これら、初代教会で監督、奉仕者、長老と呼ばれている役職の者は、今のカトリック教会で言えば、おおむね司祭や司教に該当すると考えられるのですが、みな一人の妻の夫であること、つまり既婚者、妻帯者であることを当然の前提としています。このように、聖書を見る限り、司祭、司教が独身でなければならないという根拠はどこにもないようです。

 私は学生時代に興味を持って、東西教会の分裂(ローマを中心にした西ヨーロッパの教会とコンスタンチノープルを中心としたギリシャ正教会)の頃の司祭の独身性の問題を調べたことがありましたが、そのころの記憶をたどると、11世紀ごろまでの西側の教会では、もともと独身制の修道者や隠遁者は別として、世俗の司祭、司教の間では初代教会からの伝統に従っていて、普通に皆結婚していたようでした。ギリシャやロシアの東方の教会も伝統的に今日に至るまでそうです。


なんだか話が面白そうだと 集会に参加するスズメの数が増えてきた

ブログの記事の進み具合を偵察に来るやつもいる


 話はちょっと飛躍しますが、共産主義のソ連がまだ崩壊する前、日本とソ連との間には領土問題が未解決なため国家間の平和友好条約がなく、その欠陥を補うために、民間団体を装った日ソ円卓会議という交流機関があり、私は何故かソ連側から一本釣りで日本のカトリック教会の代表の指名を受け、正式メンバーとして参加していた時期があります。日本の宗教界は各宗教各派がそうそうたる代表を送り込んでいる中で、日本のカトリック教会によって選ばれたのではない私の存在はいささか異例ですが、それは日本のカトリック教会がソ連のロシア正教とではなく、アメリカに亡命中のロシア正教と繋がっていたねじれ現象の結果でした。

 毎年モスクワと東京で交互に開催される会議には、ソ連では必ず招待のオプション観光ツアーがついていて、お蔭で私はソ連中を観光することができたのですが、たまたまある年はその後原発事故で有名になるチェルノブイリに近いウクライナのキエフに招かれ、そこのロシア正教の大主教のオフィスに表敬の挨拶にそろって参りました。ロシア正教の黒の僧服に金の十字架を下げ、髭を蓄えた大主教様は大変威厳に満ちたお姿でした。そして、「今夜はオペラ座に皆さんを招待いたします。」と言われ、一旦は別れたのですが、オペラ座で大主教に再会した我々日本からの一行は度肝を抜かれました。

 彼は、シックな背広姿で、美人の奥様と、立派なご子息たちをずらりと伴って現れたからです。バチカンで枢機卿の執務室に表敬訪問した晩に、オペラ座で背広姿の枢機卿とその奥方と子供たちに会うなんてことは絶対にありえません。現代のカトリックは厳格な独身制の世界だからです。


もう少し静かにしてもらえませんか スズメさんたちよ

気が散って書けないじゃないですか もう!

 

 話をもとに戻します。西ヨーロッパが中世の封建社会に入ると、農奴や小作人を抱える封建領主に富と権力が集中するようになり、司教や大修道院長も宗教貴族として世俗の領主と同じ特権階級になっていくわけですが、その地位をめぐって権力争いや跡目騒動など、聖職者に相応しからぬ様々な弊害が現れるようになり、それを防ぐためにクリューニ-の改革などの修道者主導の教会改革の一環として、西側教会の世俗の司祭司教達に、かなりの抵抗を押し切って、強引に修道者並みの独身制を押し付けていった形跡があります。

 もともと、司祭に独身を強要するというのは人間の自然の本性に逆らう人為的な制度ですから、中世ヨーロッパ社会の歴史を通して、無理や矛盾を内包しながら、建前と本音を使いわけた緩やかな運用が黙認された面もあったでしょう。富と権力を掌中に収めた男が次に考えることは考えなくてもおよそ決まっているではありませんか。教皇や枢機卿などの高位聖職者が、御殿に住み、別荘を構え、お妾さんまがいの女性を半ば公然と囲う傾向が全くなかったとは言えません。

 有名な例としては、ルネッサンス期の教皇アレクサンデル6世の庶子チェザーレ・ボルジアの存在や、教皇パウルス3世の実の孫アレッサンドロ・ファルネーゼを14才で枢機卿にした例などがあります。このような例からもわかるように、建前上は独身主義を導入した後も、高位聖職者の縁故主義(ネポティズム)の弊害は後を絶たなかったようです。上がそうなら、身分の低い末端の平の司祭たちだって、清貧で潔癖な聖なる司祭ももちろん常にいたでしょうが、いい加減なのがたくさんいたとしても、どうか躓かないでください。中世日本の仏教界とくらべても50歩100歩ではなかったでしょうか。

 プロテスタントの改革による聖職者独身制度廃止の動きは、そのようなわけで11世紀ごろに人為的に導入したものを、本来の初代教会の姿に戻しただけのことと言えるのかもしれません。

 問題は、むしろプロテスタント教会が独身聖職者制度そのものを廃した後のカトリック教会の対応でした。

 トレントの反宗教改革を目指す公会議では、司祭の独身制はより一層厳格に行われるようになったようです。以来、今日の日本のカトリック教会に見られるようなタイプの独身司祭制度があるのです。長年のネポティズムの弊害も、1692年にイノケンティウス12世が教皇による親族への財産や土地贈与を禁じたことによって、ようやく取り除かれたと言います。


何かブログの話の筋が混乱しているようですね 神父さん?

それはお前達がうるさいからではないか 静かにしてくれ ほっといてくれ~!


 では、ブログの題に「急速にプロテスタント化するカトリック教会」と言うからには、現代のカトリック教会が、司祭職への召命の目立った減少に対応して、司祭の独身性の撤廃に急速に傾いているかと言うと、現実はどうも全く逆だったようです。

 子供の遊びに、「あっち向いて、ホイ!」と言うのがあるじゃありませんか。母親と幼い子供が、或いは下校時の通学電車の中で小学校低学年の女の子たちが、夢中になって笑い転げているのをいつもほほえましく眺めたものですが、私など真面目に一発で引きこまれるタイプで、相手の子供の指が左を指せば、私の顔は条件反射的に右を向き、その指がホイとばかりに下を指せば、馬鹿みたいに上を向く、の類です。間違って子供の指の方を向いてしまったら、負けたと言って悔しがり、相手の子供を大いに喜ばせてしまいます。

 私に言わせえれば、16世紀の宗教改革とそれに対抗したカトリックのトレントの公会議は、そのパターンに嵌った典型例ではないかと思うのです。

 プロテスタント改革者が、司祭の独身制廃止!司祭職そのものも廃止!全ては信徒の手に!と叫んで、あっち向いて、ホイ!とやったら、カトリック教会は、何も考える前にその一つひとつに反射的に、今こそ厳格な独身制を! 司祭職の強化を! 信徒は蚊帳の外のただの傍観者に! の方を向いてしまったのではないでしょうか。そこには冷静な歴史的考証、時代の空気に対する感性も、ほとんど機能しなかったのではないかと反省されます。

 この条件反射の自己暗示から、カトリック教会がハット我に返ったのが1965年に幕を閉じた第2バチカン公会議だったのではないでしょうか。

 あれ?私は一体何を書いているのでしょうか?

「急速にプロテスタント化するカトリック教会」

 について書くはずではなかったでしょうか?それなのにほんの短い導入のつもりが、脱線してすでに一回分のブログの目安の長さをはるかに越えてしまいました。しかたありませんね。一旦ここで区切らせてください。

 しかし、私はしつこく表題のテーマに立ち還り、「カトリックのプロテスタント化」を必ずしっかり書き切ります。ですから、どうか次回以降をお楽しみに。

(つづく)

 

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★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

2013-01-02 11:37:42 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-1)

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 写真アルバム風のブログは、書く方も頭を使わずサラリと書ける分だけ、読むほうも軽く流せていい代わり、すぐ飽きも来るのでしょう。そのことは、続けるとたちまちアクセス数が伸びなくなるのでよくわかります。ミルクはこの辺にして、生えかけの乳歯に心地よい固さのビスケットは如何かなと思いまして、「ローマでの老老介護」のテーマは次回に先送りして、上のテーマといたしました。

 

3階にある私の居住空間には 同じサイズの窓が二つあります

一つは居間兼寝室の書き机の正面に もう一つはシャワー・トイレ・洗面台の小部屋にあります

窓の向こうの糸杉の木はまだあと5メートル以上も高かったのですが 植木屋さんが

私の目の高さでバッサリ切ってしまいました

お蔭で 晴れた日には 雪のアペニン山脈が途切れずに見渡せるようになりました

時たま手慰みに吹くフルートの聞き手は 私の同居人 ヒヤシンスと3個のミニカクくタスです


 

おしゃべりなスズメたちは 高いところがめっぽうお気に入りのようで

朝から 一日中 うるさいこと うるさいこと 糸杉を切った植木屋さんを恨んでいます

以前には5メートル上で チュンチュン シリシリ お喋りしていたのだろうのに


さてと、

 カトリック教会がプロテスタント化するという言い方は、お堅いカトリック信者さんの中には、ザラッと神経を逆なでされたような気分になる方もおられるかもしれませんが、そこはちょっと我慢して読んで下さい。

 ヨーロッパ中世末期16世紀(その頃も教会は時代の変化への適応が遅れて混迷していた)の宗教改革の結果、プロテスタント教会は独身司祭制度を撤廃し、ミサや告白(懺悔)などを中心に司祭が特権的に仕切ってきた諸々の儀式(秘跡)を廃して、聖書を専らの信仰のよりどころに、妻帯者牧師の説教を中心とした集会・礼拝と、個人的な祈りを通しての神との直接の交わりに信仰生活の重点を移しました。

 それから4‐5世紀、カトリック教会はプロテスタント教会への対抗上、独身司祭が執り行う7つの秘跡(儀式)に固執して教会を支えてきたのですが、近年この「儀式」をとり仕切る司祭不足の深刻化という現実に押されて、ミサや告白などのいわゆる「秘跡」を教会ごとに維持することが困難になってきました。

 それで、心ならずも教会の一部閉鎖を含む統廃合を進めるのですが、それでも司祭の絶対数の急速な減少に追いつかないとあって、司祭が来られない日曜日の「祭儀」を、既婚者の信徒の指導に委ねる聖書中心の礼拝にシフトし始めました。カトリック教会ではそれを新造語の「み言葉の祭儀」と呼びますが、その内容はプロテスタント教会の礼拝と変わるところがなく、むしろ説教に習熟し専門職化した牧師を持たない分だけ、より貧しい内容にとどまっているのが現状です。


二日前に花開き始めたヒヤシンス いま甘い香りを私の部屋に惜しみなく振りまいています


 また、プロテスタントの教会は1牧師1教会が原則なのに対して、カトリック教会の新しい「共同司牧方針」は、例えば、5-6か所の教会ごとにブロック化し、どの教会にも敢えて専住神父を置かず、2-3人の司祭のグループが共同で手分けして巡回し、ケアーする方針を導入しました。その結果、「共同責任体制」とは耳触りのいい言葉ですが、実質的には責任の所在が不明確な「無責任体制」に陥っています。これは、400年の経験から生まれたプロテスタント教会の安定した状態にはるかに劣る、混沌とした流動的で不安定な体制と言わざるを得ません。

 そう言えば、私が日本に帰国するときに住む信州・野尻湖の国際村(元来はプロテスタントの牧師村)の人口動態を見ていると、明治以来日本でいい活動をしてきたプロテスタント教会の中には、後継者不足と本国からの支援資金不足で、日本での宣教活動を断念して教団ごと撤退したプロテスタントの宗派もあるようです。背景理由はカトリックと同じ、世俗化と少子化でしょう。

 特に、カトリック教会では、社会の「世俗化」と、その波に呑み込まれたカトリック家庭の「少子化」の煽りを食って、第一世界では一家庭に男の子がいる可能性は平均で65パーセントにすぎないのが実情です。家督を継ぎ、親の老後を見る男の子がいる幸運な家庭の割合がここまで減ると、その貴重な子宝の男子を、終生独身の神父として神にささげようなどという奇特な考えが心に浮かぶほど信仰篤い親がほとんどいなくなるのも当たり前でしょう。また、子供にしても、家を棄て、親を棄てて、生涯を独身を守って自分を神に捧げようという発想法を持つ若者がめったにいなくなるのもこれまた自然の流れです。

 例えば、私が神戸のカトリックミッションスクール(男子校)を卒業したころ(つまり1950年代の終わりごろ)には、135人の同期卒業生の内、洗礼を受けたものは30人以上、神父への道を志したものは確か私を含めて4人(ひょっとして5人だったかな?)もいました。それが、その後僅か10年もしないうちに、キリスト教伝道の場としての「ミッションスクール」から、父兄の要望に押されて「一流大学受験予備校」へと路線を変更した結果、東大入学生の数が増えたのに反比例して、洗礼を受ける生徒数も、まして司祭職を志すものの数も、限りなくゼロに近づいたのは全く驚くに値しません。信仰の熱気に支えられていたミッションスクールが、「世俗化」の毒を食らって死んだ哀れな骸(むくろ)の姿です。

 その結果、司祭を養成する神学校にも閑古鳥が鳴き、新しい若い神父がほとんど育たなくなった中で、司祭たちの平均年齢は日々確実に上昇し、引退と死亡でその数も目に見えて減りつつあります。このままでは今の体制はあと10年と持たないでしょう。しかも、これは何も日本に限った現象ではなく、世界中同じで、ここローマも例外ではありません。教会のムードは沈滞し、宣教の熱意は冷め、親の無関心から子供たちに信仰は伝わらず、教会はこの2000年間かつて経験したことのない重大な危機に直面しています。

 かてて加えて、数の上でカトリック王国を誇っていたブラジルなどでは、極端な司祭不足と信仰教育の欠如のために、信者は程度の低い幼稚な信心がせいぜいで、その間隙をぬって、アメリカ発のプロテスタント系大衆伝道(いわゆるメガチャーチ)の波が襲いかかり、御利益を餌に、年間数百万人単位でカトリック信者を取り込んでいる始末です。これなども、ラディカルなカトリックのプロテスタント化に数えていいでしょう。

 全ては神聖なものに対する価値観を見失った社会の「世俗化」のなせるわざで、その世界的浸透と「グローバル化」は今なお止まるところを知りません。

 しかし、カトリック教会がプロテスタント化することは、単なる伝統とアイデンティティーの喪失以外の何ものでもなく、問題の本当の解決にはなりません。


    

鉢の直径5.5センチのミニカクタスは 私の部屋の大切な同居人たち


 幸い、教会は、いつの時代にも古い体制が新しい時代に適応できなくなって衰退に向かうとき、「聖霊」とカトリック教会が呼ぶ神の霊の働きによって、常に新しいカリスマが芽生え、時代の要請にこたえる形で教会を刷新してきました。12世紀のアシジのフランシスコによる刷新もそうでした。今の時代は、それ以上の規模の刷新が必要ではないでしょうか。

 今、教会には歴代の教皇様たちの熱い期待を担い、その手厚い保護のもとに、夫婦関係の有り方、家庭生活のあり方を根本から問い直し、時代の風潮に逆らって、信仰故に多くの困難と犠牲を受け入れながら子沢山の大家族を営み、司祭職を希望する多くの若者を輩出する革命的なカリスマが育ちつつあります。これこそ、明日の教会の希望の星ではないでしょうか。次回は、カトリック教会のプロテスタント化のもっと積極的な面に光を当てたいと思います。

(つづく)

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