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愛 着
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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愛 着
ある日曜の晩でした。ひとりの婦人の信者が私を尋ねてきて次のように申しました。「わたくし山に戻りますまえに、ぜひ一度おたずねしたかったのです。今までずっと長いこと山奥に暮しておりました。一週間前にようやく雪がとけました。そこで私は東京に出て参ったのですが、何と申しますかこの二、三日で私のこころはすっかり浅くなったような気がするのです。どうして私がこんなに人里が恋しくなったのか、人々に愛着を感じるのか、そのわけを説明していただきたいのです」
「愛着ですって! それでどんな困ったことがあるのですか」
「山奥ではいわば神とだけの暮しでございます。ときどきは孤独な生活が堪えられないようにも感じますが、でも神ととてもなれてきて、それが楽しみでした。この春には死ぬかと思うほどの大病をして、そのときは神とたった二人きりだということをしみじみ感じました。ところが幸い生命は助かりましてまたすっかり元気になりました。で、私はまあ一度東京へ出て行ってこの孤独を少しふるい落してこようと考えたのです。しかしそのために私の心はすっかりかき乱されてしまいました。お友達にあってから私はどうしてもそのお友達のことばかり考えるようになりました。そして私の心は落ちつかず空虚になってしまいました。一体私たちは人間に愛着を感じてはいけないのでしょうか」
「本当に立派な友情であればこそ、その友達同士が、結局は完全に心の中の中心まで達しえないことを感ずるものです。互いの心の奥には何かまだ神聖な場所が隠されているのでなければなりません」
「最近ある小説を読みましたが、その中で著者は私たち信者を非難してこんなことを言うのです。信者は人間を正しく愛してはいない、とどのつまりは神だけを愛し、人間を真直にではなく廻り道をして愛し、中途半ぱな愛し方をしている、というのです。この小説の主人公である、ある良人は、妻の死後、神への愛について妻がひそかに書いた本をみつけ、自分は妻から本当には愛されていなかったのだと考えるようなことが書かれてあるのです」
「それについて区別していわなければなりますまい。一つは、信者・未信者の結婚の場合には、双方が無信仰である場合、または両方とも信者である場合よりもいっそう心の一致がむずかしいと思います。信仰をもっている片方はある種のさびしさを感じるでしょうし、信仰のない方はそれに気がついて自分は十分に愛されていないと思うでしょう。中には神に対して嫉妬心を起すものすらいるのです。もし両方が神への信仰も愛ももっていないなら、うまくいっている夫婦の場合には、良人は妻を百%自分の所有物にし、旧式な教育をうけた妻は良人をそれこそ肉体と精神とこころを具えた神としてまでみとめるものもあります。
両方が神の愛子であるなら、未信者同士の夫婦の場合よりずっと幸福であることは疑いありません。しかしその場合互いに深く尊敬しあって、二人の間の愛を崇高な神への愛に用うるように高めるのです。マックス・シェーラが聖アウグスチヌスの言葉を借りて『神において、神も自分も愛すること』と申したようにです」
「では心の傾きとか愛情とかいうものは、なかなかむずかしいことがらですね」
「どんな秩序もそうであるようにむずかしことです。少しばかり多すぎても少なすぎても秩序がさまたけられますから、神のために人間をあまりにも少なく愛する者は、愛の秩序に反したことをします。人間のために神をあまりにも少なく愛する者もやはり正しく行なったとはいえません」
「それなら私たちは正しく人を愛するにはどういう態度をとったらよいのでしょう」
「アシジの聖フランシスコや、チューリンゲンの聖エリザベトがその模範を示しています。フランシスコは神をいきいきとこの上なく愛したのですから、それでまた神のものである人びとをも廻り道せずに真直に愛しました。その結果人びとはフランシスコの愛を自然のままの愛と感じ、それが崇高な源をもっていることを少しも気がつきませんでした。聖エリザベトは心からキリストを愛しキリストの苦難を愛したので、苦しんでいる人々を自分の兄弟のように愛したのです。エリザベトの場合にも人々は愛の迂路を感じませんでした。
ですから、私たちにとって心がけることはただ一つです。つまり神を心から愛するということです。そうすれば私たちはまた神の子である人々をも心から愛するようになるでしょう」
「では、その場合に私たちはすべての人を同様に十分に愛することができて、人々はそれが心の底からでた愛であり、はりつけた神のための愛でないとわかってくれるようになりますね」
「それはまことに、一切の力で求めるべきではないでしょうか、どこまで成功するかは神のお恵みによります。実生活から次の例がそれを十分にわからせてくれるでしょう。ある娘が子供の一人あるやもめと結婚しました。結婚式の当日に彼女はこの子供を自分の子のように愛しようと決心しました。それからずっとその通りにふるまって、自分でもうまく行くと考えていました。翌年彼女に自分の子が生れましたが、しかしこの子を先妻の子以上には決して愛さないと新たに誓ったのです。
そうするうちにやがて自分の子が病気になりました。彼女はその子の病床に付きっきりで日夜看護にあたっていました。子供は全快しました。すると今度は先妻の子が病気になりました。自分の本当の子のときと同じように母親は病める子のそばを少しも離れません。ところがある夜、看護づかれのためか、うとうとしてそのまま眠りつづけてしまいました。眠りからさめたとき、彼女はびっくり仰天しました。この子に対しては自分の本当の子に対するほどの愛情がなかったのかといいしれぬ悲しみに沈みました。――神は社会の中に人間に対する愛がふつうに足りるように世の中をととのえられました。何となれば特別なきずな、血縁の強いきずなによって人間は人間に結ばれ、そうやって栄えるのだからです」
「ではフランシスコとエリザベトはどういうことを意味しているのですか」
「それは神がご自分の大きな、いきいきとした愛をその通りにまねするように、ある人々を召しだされるのです。その人たちはこの愛を静けさの中に、長い間のうちに、神のもとに学んだのです」
「でも、この数日の間に東京で私の心があんなにはげしく人々の心に愛着を感じて、そのために神や私の心をなくしてしまうのは、いったいどういうことなのでしょう」
「それについては、この東京での体験をもってあなたがまた山奥へ帰って神と一しょに考えたらよいのではないでしょうか。しかし、神の世界を避けて、静かな山だけを望むのはまちがっているのです。二つのことが必要なのです。神によって静けさの中へ神との心の交りを学ぶように召された者は、またさわがしい世の中へときどき入ってこなければなりません、けれども世の波に呑まれてはならないのです。世のざわめきの中にあっても神の静けさを失ってはなりません」
「ありがとうございました。あした私は山へ戻ります。そしてまた新たに神にすがりましょう。私がイエズス・キリストの兄弟でもある神の子供たちをもっといっそう確実に愛するようになるまで……」
数日してから一枚の絵はがきが私のところにとどきました。「あの仕合せだった十分間のお話を私は一生忘れません」とお礼のことばが書いてありました。実はあのときの談話のよい後味は私にもまだのこっていたのです。
敗戦から3年後、私の母は肺結核の療養の末、帰天した。その時私は9歳だった。その2年後父は再婚した。二人目の母は戦前の奈良女子高等師範学校(今の奈良女子大)出身の才媛だった。東大法学部出身、元内務省勅任官の妻としては釣り合いの取れた申し分のない再婚相手だった。彼女も上のホイヴェルス師の短編の中の女性と同じように私たち3兄妹を「自分の子のように愛そう」と決心したに違いない。
私も父から、この人がお前たちの新しいお母さんだよ、と紹介された時、「わたしは生涯このご婦人と事を構えない」と心に誓った。小学生としてはずいぶんませたことを考えたものだと今は思うが、2009年の大晦日に彼女が帰天するまで、私はその誓いを守り、一度も逆らったり声を荒げたことはなかった。父とは心を病んだ妹の処遇を巡って怒鳴り合って何度も激しく戦った仲だから、私に父譲りの短気な性格がなかったわけではない。母は賢明な女性で、家庭でも完璧な妻であり母でもあって全く付け入る隙が無かった。だから、わたしにはそもそも母と事を構える理由もなかった。私の唯一の叶わぬ願いと不満といえば、もしこのお母さんが家事を適当にして、テレビの前で足をおっぴろげて駄菓子をつまみながら笑ってくつろいでくれていたら、どんなに近くに感じたことだろうと言うことだった。
父が再婚して2年目に12も年が離れて弟が生まれた。母は父の3人の連れ子と自分の実子とを完全に平等に扱った。戦後のまだ貧しかったころ、4人の子供たちのおやつは1グラムの差もないほど完全に平等だった。
母が阪大病院で最後の日々を過ごしていた頃、私はたまたま四国の高松の教会で主任司祭をしていた。度々鳴門大橋を渡って、淡路島を北上し、世界一のつり橋の明石大橋も渡って車で見舞いに行った。亡くなった年の大晦日、弟一家が見舞いを終えて、「また来年ネ」と言って病院を後にしたのと入れ違いに私は着いた。いつになく打ち解けていろいろな出来事の追憶に話の花が咲いた。私の破天荒な生きざまに対しても心からの理解を示してくれた。その夜、母は帰らぬ人となったが、彼女と最後に言葉を交わしたのはたまたま私だった。
私と真反対の性格の年の離れた弟も、つい先日、沖縄の海で突然帰天してしまった。姉も妹ももう居ない。兄弟の中で一番の悪だったわたしだけが、一人残った。まだ、この世に「愛着」している。