:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の誤解を解く(そのー3)

2019-03-25 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」

の誤解を解く(そのー3)

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このブログの本文を読み始めて「アレ?これ、どこかで読んだ気がするゾ!?と不審に思われる方がおられたら、私は嬉しいです。あたりー!です。 

事実、私は1月28日に「アフリカに学ぶ -失敗は成功のもと-」の題で酷似した一文をアップしました。今回、それを別の題のもとに採録するのは、前回「アフリカ・・・」という書き出しに惑わされて、後半の内容がこの「誤解を解く」シリーズに直結した私からの重大なメッセージに気付かれた方が少なかったように思われたからです。 

結論を先取りして簡単に要約しましょう。 

今回の【教皇庁立】「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」(東京)設立の聖座決定に関しては、 

≪19年前に日本の司教団の総意に基づいてせっかく閉鎖に追い込んだはずの高松教区立「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、その消滅を望まれなかったベネディクト16世教皇の手によってローマに移植され、教皇あずかりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」としてローマで生き延びてしまった。 

その後、新求道共同体の熱烈な支持者のフィローニ枢機卿は、新教皇誕生のどさくさに紛れて ―教皇の名を語って― 個人プレーで同神学院の東京への強襲上陸を画策した。 

しかし、日本の司教団は再び団結して、それを無事水際で阻止した。それが今回の「保留」の背景にある真実だ。この「保留」により、高松の神学校問題は、やがて永久に忘れ去られていって最終決着を見るだろう。20年もかかったが、やっと終わった。≫ 

と言う空気が流れているように思われます。 

しかし、私に言わせてば、これは、全くのとんでもない「誤解」の数々の上に築かれた、真実を全く見誤った考えのように思われてなりません。 

以下の文章がそういう視点から書かれたものであったということを念頭に、もう一度読み直していただけるとありがたいです。 

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キコの2作目の本「覚え書き」(Annotazione) のカバーの半分を展開したもの。左端の縦の細い部分が本の背。真ん中が表紙。人物は若かりし頃のキコ。右はカバーが内側に折りこまれる部分。

私はいま、キコの第2作目の本 ―題名を直訳すれば「覚え書き」(1988-2014)ですが、実際は「霊的日記」とか「魂の叫び」とか言う題がふさわしい本― の翻訳中です。

イタリア語版は2016年の末にはローマの一般書店に並びましたが、私が著者の同意のもとに翻訳に取り掛かって以来、様々な出来事のために何度も長い中断を余儀なくされました。いま束の間の静けさに恵まれ、ようやく日本語の3度目の推敲を終えようとしています。今日、500編余りの断章の中の211番を読み返しながら、急にブログに取り上げたいという衝動に駆られました。まずその部分を味わってください。

211. 私たちはアフリカで、テントの中に居る。昨日、素晴らしく美しい大自然の只中で、黒人たちは木の枝と花を持った腕を動かしながら私たちを歓迎するために歌ってくれた。私たちはキリストを告げ、かれらは私の言葉に喝采しながら、驚きをもって聞いてくれた。

≪今日、この時、良い知らせを信じなさい!約束された霊を今受け取ることが出来るよう回心して信じなさい。その霊はあなたの中に住んで、人を赦すことが出来る力をあなたに与え、新しい形で人を愛することが出来るようにしてくださいます。この十字架をご覧なさい。彼はあなたのために死なれ、ご自分の不滅の命とご自分の霊について、あなたのために御父に遺言されまし。今それを信じなさい。

私があなたたちに話している間にも、イエスご自身が御父の前であなたのためご自分の栄光の傷をお示しになっています。

今日、私は大天使ガブリエルで、あなたはマリアです。彼女と一緒に言いなさい。「はい、あなたの告げたことがお言葉通りに私の中で成就しますように」と。

信仰は聞くことから来る。聴きなさい!神はあなたを愛し、あなたを罪の奴隷から、愛情に飢え渇く苦しみから、利己主義から、絶えず自分の快楽を追い求める恐ろしい奴隷状態から、傲慢から、色欲から、賭博から、飲酒から、憎しみから、対抗意識から、妬みから・・・開放することを望んでおられます。これら全ては苦しみのもとだ・・・。

主の霊は私たちに伴い、私たちの言葉が虚しく消えることを許されない。私たちが語ることは、主がそれを成就される。彼は全ての君主、全ての権能と支配の上に揚げられた主(キュリオス=Kyrios)である。彼は諸聖人を伴って生きているものと死んだものを裁くために栄光のうちに帰って来られる主である。ご自分の体においてすべての正義を成し遂げるために、すべての人のために死なれた彼は、彼において、彼の体によって、罪のため捧げられ嘉納された芳しい香りの生贄としてご自分を捧げ、罪の赦しのために回心を説かれた。

私たちの解放と罪の赦しの保証としてキリストは復活された。人類はキリストにおいて赦された。また、私たちを新しい被造物とする霊を受け取ることが可能になった。私たちを彼に似たものとして、聖霊を通して、神の子として、ご自分の本性に与らせて下さった。すべての貧しいもののための勝利!回心して良い知らせを信じなさい!洗礼を受けて、聖霊を受けなさい。無償で!私たちの業によってではなく、ご自分の血とご自分の受難の果実として、彼に栄光がもたらされますように。≫

アフリカ!神はお前を愛しておられる。聖霊に歌を捧げるあなたの貧しいひとたちをどうか受け入れてください・・・。彼らがどのように聞き、どのように祈ったか、それはとても素晴らしかった。

アフリカ!ここはケニヤ、過去19年間の宣教で一番特筆すべきことは、それが徹底的に失敗だったことだった。常に拒否された。宣教師たちは我々を望まず、我々を「競争相手」と見なした。司祭が替わると、共同体を少しずつ、少しずつ殺していくのだった。19年後の今日、ケニヤ全体でたった7つの共同体が存在するだけだった。しかし、すぐにすべては変わるだろう。失敗することはキリストに倣うこと。失敗することは勝利すること!

 212. 失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること。

私はこれらの言葉を読んで、とても他人事とは思えませんでした。日本における新求道共同体の活動は、私がこの「道」と出会って以来、私の関わった部分に限って言えば、失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折の連続でした。

私はいま理解しました。キコがケニヤで19年間経験したのと同じ挫折を、私もいま日本の教会の中で経験しているのだということを。

つまり、失敗することはキリストに倣うこと、失敗することは勝利すること!失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること、だということを。

1988年に聖教皇ヨハネパウロ2世が世界で最初のレデンプトーリス・マーテルの神学校をローマに開設されて以来、この30年間でその姉妹校は世界中で増え続け、今日では120校以上を数えるまでになりました。今や、主要な国でその姉妹校を持たない国は日本ぐらいなものでしょうか。

実は、日本では1990年に他の国々に先駆けて世界で第7番目の姉妹校が高松教区に生まれました。私はその誕生の最初から関わってきました。しかし高松の司教様が替わられると、その神学校は日本の全司教の一致団結した反対で閉鎖に追い込まれました。それを惜しまれたベネディクト16世は、慈父の愛で「日本の将来の福音宣教に役立てるために」とそれをローマに移植され、以来、同神学校は10年余りにわたり教皇預かりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」として命脈を保ってきました。

しかし、ベネディクト16世が生前退位されると、新しい教皇フランシスコは熟慮の末、「教皇庁立」「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を東京に設置する方針を打ち出されたことは、昨年8月の東京教区のお知らせで公に知らされた通りでした。

それが、その後の東京教区ニュースには、「8月末にお知らせした、教皇庁福音宣教省直轄の神学校設立の通知に関しては、現在、保留となっているとのことですが・・・」と、まるで他人事のように小さく触れられていることに目を留められた方がどれだけおられたでしょうか。

私は咄嗟に、10年前に高松の神学校が、教皇様の慰留を押し切って、日本の司教方の一致した固い意志によって閉鎖に追い込まれたときのことがフラッシュバックしました。

現教皇様が熟慮の末に決断され通知され、すでに日本の信徒に公けに発表された決定が、理由も告げられず「保留」になるなどということは、その裏によほど深刻な事情がなければ決してあり得ないことだと直感しました。

今起きている誤解と混乱は「教皇庁立のアジアのための神学院」「レデンプトーリス・マーテル」という言葉を名称の一部にを含んでいたことからおこったとおもわれます。そのために、この教皇庁立の神学院が、世界に展開する120余りの「司教区立」の神学院と同列、同格のものの一つに過ぎないと誤解されたのでしょう。しかし、もしもそうであったら、あえて「教皇庁立」にする理由がないことぐらい、教皇であれば見誤るわけがないではありませんか?

では、この度の教皇が設立を決意した「教皇庁立」「アジアのための神学校」とはどういう性格のものになるはずなのでしょうか。

歴史をふり返ると、世界中の宣教地域の聖職者の高等教育を一手に担ってきた機関としては、ローマにウルバノ大学を持つ「教皇庁立」の歴史と伝統に輝く養成機関がありました。アフリカでも日本を含むアジアでも、およそ宣教地域と認定されたところからのエリート司祭、将来の司教や枢機卿の候補者の多くが、教皇庁立」ウルバニアーノ神学校で養成されてきました。

今回の「教皇庁立アジアのための神学校」計画は、そのウルバノ神学校の機能を二分し、東京にその分身を置くことにより、地球の西半球の宣教地は従来通りローマのウルバノ神学校で、東半球は新設の東京の「教皇庁立アジアのための神学校」でカバーしようという、第三千年紀に向けたバチカンの壮大な宣教戦略転換の根幹をなすフランシスコ教皇自身の英断だったと私は見ています。

なぜなら、ベネディクト16世に救われてローマに移されたまでは良かったが、その後10年間、一向に日本への帰還の目途が立たなかった元高松の神学校を、いっそのこと「教皇庁立」として戻しては、という進言が寄せられていたのに、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿は、「前例のないことはできない」と再三にわたって選択肢から除外されてきた経緯から見ても、それがフィローニ枢機卿から出たアイディアだということは、絶対にあり得ないと思われるからです。

2000年の教会の歴史に前例のない新しい選択をするということは、忠実な一高級官僚レベルでは無理で、やはりトップである教皇様自身の発想と決断が不可欠だったのでしょう。

聖教皇ヨハネパウロ2世が奇しくも予言された通り、2001年からの第三千年紀が「アジアのミレニアム」であるとすれば、その中心拠点としてフランシスコ教皇様が東京を選んだのは全く理に適っていると私には思われます。過去数百年の歴史を顧みれば、文化的にも、国際政治・経済・技術・金融のどの面をとっても、要するに「地政学」的に見て、「日本・東京」以上にバランスの取れた候補地をアジアの他の場所に見つけることはほとんど不可能でしょう。

いま葬り去られるかもしれない危機に瀕しているのは「ネオの司祭を作る神学校」などと言う次元の低いスケールの小さい話ではなく、聖座が教会の未来の命運をかけて描いた「第三千年紀のアジアの福音宣教の拠点」という重大な構想ではないでしょうか。はじめは小さく生まれるかもしれませんが、やがて聖座のアジアでの活動の中核となる可能性を秘めた大きな構想であると私は理解しています。

もしこの「保留」が長引けば、教皇の今年11月の訪日計画の中の重大な目的の一つかもしれないの神学校(ウルバノ神学校の分身)設立のお披露目という大きな目的を欠くことになるのが惜しまれます。

まだ水面下で動きがあり、最終決着がついていないのだとすれば、今後の展開から絶対に目が離せません。

最期に断っておきますが、いま私が書いているこの一連のコメントは、司祭谷口幸紀一個人の私的見解であって、「道」の内部に見られる意見を反映するものではなく、ましてや「道」の公式見解などでは全くありませんので誤解のないようにお願いいたします。

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★ 鐘の声 -ヘルマン・ホイヴェルスー

2019-03-17 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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鐘 の 声

ーヘルマン・ホイヴェルスー

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イグナチオ教会では、このあいだも、鐘を鳴らして荘厳な式をはじめました。鐘の音を聞くと、子供の頃のなつかしい故郷のことが私の胸に浮かんで来ます。鐘の音は何と不思議な力を持っているのでしょう。

 鐘の音を一番楽しく聞いたのは――それは中学生の頃でしたが――土曜日の午後、とくにお祝いの日の前の午後でありました。学校が終わってから町の広場に行きました。そこには中世の昔から残っているゴシック式の聖堂がそびえていました。その高い塔からあしたの日曜日を告げる鐘が鳴り始めました。四つの鐘です。まず高い音のがなると、段々に一番低い音のまでが鳴りだします。四つの鐘は仲よく調和的に鳴りました。腹わたにしみ通るような重い鐘の声、その振動で町中の空気はふるえました。高い声の鐘はこの重いどっしりした響の上におどり上がるようでした。また、この音は天からの声、神の声のように響きました。六日間の労苦と勉強が終わって明日は喜びの日、日曜日なのです。私はじっと広場に立って、このやわらかい暖かい音の波を浴びながら、永遠の喜びが確かなものであることを感じました。

 私の兄もこの鐘の音を聞きます。しかし兄は機械に深い興味をもっていましたから、鐘の音よりも鐘そのものを見たかったのです。まもなく私たち二人は塔に登る許しをもらいました。条件としては今度の土曜日に少し鐘を鳴らす手伝いをしなければなりません。むろん私たちは喜んで約束しました。土曜日を一生けんめい待っていました。その日が来て、私たちは案内され、塔の中のほの暗い高い階段を登って行きました。てっぺんに着くととても広い「鐘の部屋」に入りました。まず目の前にある大きな鐘を眺めました。普通の教会でしたら、長い綱を下から引いて鐘を鳴らします。しかし、この鐘は大きくて違う方法で動かします。まだ電力のないときでしたから、鐘の上に丸太をつけて、その片方を足で踏みます。それにはまず梯子で鐘の上に登り、そのそばの台の上に立って両手で鉄の棒の手すりにつかまり、左の足は台の上においたまま、右の足で鐘の上の丸太を力いっぱい踏みおろします。すると段々に鐘は調子づいて動き出します。兄と私は一番大きい鐘には体力が足りませんでしたから、そのほかの方をうけもちました。そして小さい方は早く鳴りだし、大きくて重い方はあとからおくれてそれについてきました。これは鐘を鳴らすことの一つのわざであり美しさであります。このひびきをきく人は必ず町のあちこちに立ちどまってじっと耳をかたむけます。こうして私は一生けんめい鐘の音をつくり出して、塔の窓から四方に送りました。町の上をこえて、森までも、遠くの山までも。

 この聖堂の鐘は風に運ばれますと、五、六時間はなれたところまでもよくきこえました。こうして鐘のことを実際に経験しましたから学校でドイツ文学の時間に鐘をたたえる詩や場面は前よりずっとよくわかったのです。たとえばゲーテの「ファウスト」の中で、聖週間すなわち教会の鐘がならない期間のあと復活祭の始めに鐘が鳴るとき、絶望するファウストはそれをきいてふたたび生命に対して希望がわいてきますが、これは何と実感のこもった場面となったことでしょう。あるいはシラーの「鐘の歌」。これは長い詩ですが、始めから終わりまでとても面白くよみました。これは人生のよろこびと悲しみにともなう聖堂の鐘のひびきをきくようでした。

 私が若いとき聞いた鐘と日本で聞いた鐘とどちらがよいかなどきくのは、困った質問です。どちらもよいものでありますから。

 ハンザの都市リューベックにいたときのことでした。やはり土曜日の午後、どの教会からも無数の鐘がひびき、町中はそのメロディーにひたされました。私はうれしくてたまらず、そこに来ていたハンブルグ領事館の日本人の友だちに「これはとてもいいではありませんか」といいました。その方はただ「まあ、やかましい」とこたえました。

 またこれと反対に、私は最近ヨーロッパから来た友だちにお寺の鐘を紹介したいと思いました。するとその人はつまらなさそうな顔つきで「たいしたことじゃない、短調すぎる」といいました。

 でも、私は日本こそ西と東から世界のもっともよいものが集まって来るところだと思います。ふしぎにも鐘についてもそうなるらしいのです。

 三年前の八月六日、原爆の記念日に、広島で行われた大きな平和教会の献堂式に参列しました。そのとき高い塔から四つの鐘が鳴り始めました。全く夢のような気もちでした。完全な調和のひびき、深い平安の感じをおぼえました。人類が、これから先あゆむ道に対して新しい希望が湧いてきました。ところで私のそばに立ってこの鐘のメロディーをきいていた人は誰でしょう。むかしふるさとの町で鐘のところに一緒にのぼったほかならぬ私の兄でありました。そして、この平和の鐘を作った者も、実は同じ兄だったのです。

* * * * *

私が青春時代を過ごした四谷の聖イグナチオ教会は、敷地に入って右側にあった長方形の教会で、正面には上にステンドグラスの丸い大きなバラ窓があり、その下に尖塔アーチ型の三つの入り口があり、左側に高い鐘楼がありました。聖堂の入り口の反対側には藤棚があり、敷地の奥には米軍払い下げのカマボコ兵舎を使った司祭館がありました。

上智大学の最初の2年間はキャンパスの中にあった上智会館と言う学生寮の一室で、ともにイエズス会の志願者であった一学年上の森一弘神学生(彼は後にイエズス会を去ってカルメル会に入り、司祭になった後、東京教区の補佐司教になった)と同室で、毎朝同じ目覚まし時計で目覚め、一緒にホイヴェルス師の7時のミサ答えをしました。たまに、ホイヴェルス神父様が6時半のミサをたてられる朝は、代わりに7時のミサをたてるアルーペ管区長さまー後に世界のイエズス会のトップの総長になられたーにお仕えするのでした。

塔からは、朝、昼、晩にアンジェラスの鐘が鳴り響き、日曜、教会の祝祭日、結婚式、お葬式のときも、イグナチオ教会の鐘は高らかに鳴り響き四谷界隈の生活に溶け込んだ風物詩となっていました。時おり、NHKや民放の録音技師が、放送に使う音源として、イグナチオ教会の鐘の音をせっせと録音しているのを見かけたものです。

月日の移り変わりの中で、ホイヴェルス師は帰天され、木骨モルタル造りの聖イグナチオ教会の建物も老朽化し、いまのモダンな楕円形の聖堂に建て替わった後は、中世ヨーロッパの教会にあったような鐘は取り払われ、古き良き時代の四谷の風物詩も「時間の流れ」のなかに消えて行きました。

私も、いつか昔を懐かしむ年になり、あの頃輝いていた全国の教会も、久しい以前に船底が錆びて穴のあいた豪華客船のように浸水が始まり、静かに沈没の運命をたどっているかのようです。地方の末端の小さな教会では、豪華客船の最下等船室のように、膝まで海水につかり、牧者の司祭は不在、毎週日曜日のミサさえも途絶えがち、求道者は訪れず、お葬式ばかり増えて、その度に信者の数は減り、減ると閉じられて統廃合され、それでも信者の減少と高齢化に歯止めはかからず、・・・

それでいて、各司教区の例外的に活発な1-2の教会だけは、今も結構往時の賑わいを見せ、まるで豪華客船の特等室、一等室のように華やいだ装いを保ち、内装をあらためていっそう賑わっている感じさえあります。しかし、その間にも船底からの浸水は容赦なく続き、緩やかな沈没の運命はひたひたと忍び寄っています。

それにもかかわらず、抜本的な内部改革は行われず、助言には耳を貸さず、助けも求めず、新しい希望のある動きは締め出して、「誰にも迷惑をかけることなく、静かに店をたたんで、そっと歴史からフェードアウトするのが最高の美学」であるかのように、古き良き時代の習慣を墨守しながら無為に時間を潰している感じです。これは、何もカトリック教会だけではない、由緒あるプロテスタントの教派も、仏教も、神道も、およそ、まじめで歴史と伝統のある品のいい宗教が一律に直面している恐ろしい死にいたる病です。

流行っているのは品のない、なりふり構わぬご利益宗教だけです。それは、宗教の皮をかぶった、偶像崇拝に過ぎません。

なぜこんなことになっているのか?それは、言わずと知れた、世俗化と拝金主義です。文明から精神的は価値、超越的な崇高な価値へ向かう人間精神の高貴な部分が、この世で一番強烈な「神」ーお金の神様ーによって破壊され骨抜きにされてしまった結果です。

ホイヴェルス師が今帰ってこられたら、よい知らせを告げる鐘、世の世俗化に対して警鐘を鳴らすはずの鐘が沈黙してしまった教会をどう思われるだろうか、と思わずにはいられません。こんなことを言っている間にも、豪華老朽客船の最下層客室では、浸水は膝から腰へ、腰から胸へとじわじわ増え続けているのです。 

私はいま、もしホイヴェルス師がいま生きておられたら、一体どういう対応をされただろうかを心を澄ませて思い巡らせ、師がなさるであろう行動を自分も取ってみたいと思います。

 

 

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★ アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院の「誤解」を解く(その-2)

2019-03-12 00:05:00 | ★ 新求道共同体

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アジアのための「レデンプトーリス・マーテル」神学院

の「誤解」を解く(その-2

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私はあるシスターから「福音宣教省長官のフィローニ枢機卿はネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者として良く知られている」と言われるが、あなたはどう思われるか、と聞かれた。

そこで私は答えた。私はフィローニ枢機卿に何度かお会いして、その人柄に接することができたが、それらの体験から言うと、私は必ずしも彼がネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者だとは思っていない。

フランシスコ教皇と話すフィローニ枢機卿

2008年6月27日付け、バチカン公文書番号が付された書簡で、当時の国務省長官ベルトーネ・タルチジオ枢機卿は次のように述べておられる。

1.      高松の「レデンプトーリス・マーテル」神学院は、教区立の神学院としては閉鎖されますが、この神学院に対する教皇様の父性的配慮を明らかにし、将来この神学院が日本の教会の福音宣教活動に貢献することができるようにとの期待を込めて、その構成員全員をローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に「同居」するかたちで移転させます。(注:その一環として私もローマに移り住むことになった。) 

(2.3.省略)

4. ローマの「レデンプトーリス・マーテル」神学院に同居するこの神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と呼ばれ、平山元大分司教様を院長に任命することを通して、日本の教会との絆を維持します。(注:私はその平山司教の秘書として彼の手足耳口の奉仕をした。)

(以下省略)

当時、フィローニ枢機卿は国務長官ベルトーネ枢機卿のもとで働いていたから当然この文書の作成にも関わられたわけだが、その後フィローニ枢機卿は福音宣教省の長官となり、日本を含む世界の宣教地の教皇に次ぐ最高の責任者の要職に就かれた。したがって、今や、高松の神学校の経緯の最初から今までのすべてに関り、全てを知っている唯一のバチカン高官と言うことができる。

先のベルトーネ枢機卿の書簡は、高松の神学校のローマへの移転をあくまでも一時的な措置と位置付け、近い将来日本に戻すことを当然の前提とするものであったが、フィローニ枢機卿はバチカンの能吏として、決定されたことは私見を交えず誠実に実行する人ではあるが、リスクを取ってまで自身の意思で行動するタイプの人ではない。

早く日本に帰してほしいという思いから、日本に受け皿を買って出る司教様が現れないのなら、いっそのこと「教皇庁立」の形で帰してくれてはどうかと言う要望に対しても、そのような話な「全く前例がない」ので検討の対象になり得ない、と言う返答しか返ってこなかった。そして、彼がその案を決して上に上げなかったことは想像に難くない。彼の上司と言えば、ベネディクト16世教皇が一人いるだけだが、その老齢の教皇は相応しいタイミングで下から提案が上がってくるのを待つ姿勢を取ったため、ローマに置かれた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」にはその後10年間、全く進展がなかった。

それが突然、一昨年9月のフィローニ枢機卿の訪日となり、ローマに帰る最後の日の午前に、日本の司教様たちの前で神学校を日本に帰すバチカン側の意向をかなりはっきりと伝えられたと聞いている。私たちにとって、それはまさに晴天の霹靂だった。「前例のないあり得ないこと」として黙殺し続けてきた彼が、自分の判断で「教皇庁立」として日本に戻すなどと言うことは太陽が西から昇っても絶対にあり得ない。だから、彼が「教皇庁立」の案を携えて訪日した背景には、新教皇フランシスコの英断があったとしか考えられない。

教皇フランシスコはバチカンの官僚機構とは無縁の地球の南半球から彗星のように現れた人だ。トランプ大統領と比べるのは不遜の極みだが、共通するところは、旧弊に囚われず自分の創意で決断し、自分から行動に打って出るのを妨げる何の縛りもないと言う点ではないかと思われる。バチカン官僚出身でない彼は自由に物事を決められる。

前教皇から引き継いだ諸懸案を処理していくうちに、ローマで宙に浮いていた日本のレデンプトーリス・マーテル神学院のことが彼の目にとまったのだろう。事実関係の聴取の上、ご自身で即決されたのではないだろうか。

思い返せば、レデンプトーリス・マーテル神学院の第1号をローマ教区立の「宣教神学院」として設立されたのは、聖教皇ヨハネパウロ2世だった。それは預言的だった。その姉妹校はこの30年間に世界に120校以上を数えるが、思い返せば聖教皇の励ましを受けて故深堀司教が1990年に高松に開設したそれは最初期の第7番目だった。いま世界の主要な国でその姉妹校が無いのは日本ぐらいのものだ。

この度、唯一の直属上司であるフランシスコ教皇が責任を取って決断したとあれば、今まで「あり得ない」として自分では否定し続けてきた案であっても、忠実に、最も効果的に実施するのがバチカンの能吏、フィローニ枢機卿の真骨頂だ。

ネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者の枢機卿が、贔屓の引き倒しで職権にものを言わせて「教皇庁立」をでっち上げ、元高松の神学校を強引に東京に持ってきたと言わんばかりのシナリオは、東京にアジアのための宣教の拠点を設置するという第3千年紀の未来を見据えたカトリック教会の画期的な基本計画を一官僚の個人プレーの産物として無理やりに矮小化しようとするものとしては週刊誌的な面白さのあるストーリーかもしれないが、事実からは全くかけ離れた空物語りとしか私には思えない。

現に、先に東京大司教区から出された文書に引用されている福音宣教省長官からの書簡の一節によれば、「福音宣教省はアジアにおける福音宣教の重要性を説く歴代教皇の示唆に学び、同神学院の設立を決定された」とある。つまり、この度の決定はネオカテクメナートの熱烈な信奉者フィローニ枢機卿自身の個人的思い付きではなく、聖教皇ヨハネパウロ2世から教皇ベネディクト16世、そして教皇フランシスコへと3代にまたがる教会の最高牧者の一貫した宣教方針の結果であるということを如実に物語っているのではないだろうか。

特筆すべきことが一つある。閉鎖された高松教区立神学院は、ローマに移されて教皇預かりの「日本のための神学院」になったが、この度東京に上陸するに際して「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」という名を戴いたことだ。これはもはや日本のためだけに限定されないインド以東のアジア全体のための神学院になったということだ。西はローマの「ウルバノ大学」、東は東京の「レデンプトーリス・マーテル」という位置付けの礎石が置かれたと言う意味に私は解している。

さて、フィローニ枢機卿と言う人は、これまでも職務上の必要とあればネオカテクメナートのことを常に公正に処理してきた。それはバチカンの誠実な官僚として当然のことをしたまでのことであって、だからそれをもって彼がネオの熱心な信奉者・擁護者である証拠だと結論づけるのは当を得ていない。

フィローニ枢機卿はネオカテクメナートを正しく評価し、多くの善をおこなわれたことは疑いない。だから、枢機卿の人柄や手腕を過小評価したり、これまでの賢明な問題対処の仕方を批判する理由はいささかもない。前例のないことには敢えて自ら手を染めないと言うのも、彼の権限の範囲ではけだし当然のことだったのだ。

カトリック教会の中にネオカテクメナートの熱心な信奉者・擁護者を敢えて探すなら、それは公会議後の歴代の教皇、パウロ6世、ヨハネパウロ1世、聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコ教皇だろう。

この9月の上旬、イタリアでネオカテクメナートの神学生の集いがあり、江戸川区一之江で日本語を勉強中だった神学生3名も参加したが、世界中の神学生の卵たちが集っている会場にフランシスコ教皇からの激励の電話が入った。キコはその肉声をアイフォンのスピーカーからマイクに拾って集った大群衆に聞かせ、会場のどよめきは同じ携帯を通して教皇の耳に届いた、と帰ってきてから興奮して報告してくれた。

なぜ歴代の教皇が擁護するのか?それはネオカテクメナートが第二バチカン公会議(1965年閉幕)の決定を忠実に実行に移したものだからに他ならない。

因みに、フィローニ枢機卿は久しぶりのイタリア人パパビレ(次期教皇候補)と噂されている。何百年、ローマ教皇はイタリア人と相場が決まっていた。それがポーランド人、ドイツ人、アルゼンチン人と3代続いた。次はアフリカか、アジアか、と取りざたされる中で、イタリア人も決して黙ってはいないことだろう。

(つづく)

 

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★ シュロの木に登った私 ーヘルマン・ホイヴェルスー

2019-03-08 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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シュロの木に登った私

ヘルマン・ホイヴェルス

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ホイヴェルス家の納屋の前のこどもたち。まるで、ありし日のヘルマン少年とそのお兄さんのよう

シュロの木に登った私

 12歳の時でした。お母さんが「ヘルマンや、ピアノをならいたくはないかね」、とおっしゃいました。私は、ピアノってとてもなんぶつだし、それに毎日おけいこ、おけいことめんどうくさくてしょうがない、と考えましたから「ぼく、やりたくありません。でも笛なら吹いてみたいのです」と答えました。お母さんはそれならそうなさいとおっしゃいました。

 それからすこしたって、町へ買い物に出たとき、お母さんは私をある店につれていって、笛を一丁買って下さいました。

 さあ、私はうれしくてたまりません。家へかえってからピーピープープーと毎日のように練習しました。そして、しばらくすると、自分の知っているいろいろなふしを上手に吹きこなせるようになりました。

 ところで、私はまえから木登りがすきでした。家のまわりにある木でまずだいすきになったのは東側にあるリンゴの木でした。(クリスマスにはこのリンゴをどっさりいただいたものです)それからすぐ隣の梨の木、南側にあった桜の木、子供部屋の窓の栗の木、それから西側にあった菩提樹でした。いつか学校で図画の時間に菩提樹をかきました。そのほか西側には広い牧場のまわりに大きなかしの木がたくさんありました。このかしの木にひそんでいる意味と美しさがほんとうのわかったのは、私がふるさとのあのウエストファリアの歌をならってからでした。その歌の文句に

    庭の番人さながらに

    いかめしくぞそびゆるかしの木

とありました。

 あるとき、私はかしのなみ木にそってあゆみ、中でもあまり太くない木をさがしました。ちょうど良さそうなのをみつけると、私はおのを革帯にさしてよじのぼっていきました。てっぺんのこんもりしたところへくると、あたりの枝をきりはらい。腰かけるのにぐあいよくしました。

 それからやがておとずれる五月六月の明るい静かな、日永の宵をまっていたのです。そのような夕方がやってきました。私はだいすきな笛をもってかしの木にのぼり、四方をみまわしながら、じっと耳をそばだてました。

 なんとしずかな夕べでしょう、それはちょうど

   おちこちの峰にいこいあり

   なべての梢には

   そよとの風もなく

   小鳥は森にしずもりて

   ・・・・・・ 

の詩そっくりの気分でした。遠くから水車のめぐる音だけがきこえてきました。

 このしずけさを乱してよいものでしょうか。――私はおそるおそる笛を口に当ててそっとあの「よなきうぐいすのふし」をふきはじめました。こんな美しい宵にまだ足りないものがあるとすれば、それはこの笛の音だけだという気さえしたのです。そこでいよいよ力をこめて吹きました。

 その笛の音は水のせせらぐ川のかなたまでひびいていきました。すると、その音にさそわれてか、あちらこちらでうぐいすが目をさまし、私と、きそってうたい始めました。人びとにも気にいったのでしょう。やがて水車小屋から幾人かでて来てやはり夜なきうぐいすの歌を四部にわかれて合唱しました。こうして、私は知っている歌を次々にふきました。

 アイヒエンドルフの「水車の歌」「美しきライン」の歌、故郷ウエストファリアの「かしの木をたたえる歌」シューベルトの「菩提樹」など。うぐいすはちっともつかれを知りませんでした。私はもうじゅうぶんにふいたので木から降りてしまったときにも、うぐいすはあいかわらずさえずりつづけていました。――夜通しあくる朝までも。

 お母さんは「どこにいたの。まるで天からきこえてきたようだったよ」とたずねました。

 「ええ天に近いかしの木のてっぺんです」と私はこたえました。次の日ふとしたとき、近所の人がはなしているのを聞きました。「きのうの晩はあれは何です。だれだかとてもきれいな音楽をやっていたようです。どこから聞こえてきたのでしょう」

 こうして、私は毎年五月と六月には夕方になるとかしの木にのぼって笛をふいていました。かれこれ十八歳の頃までつづいたでしょうか。

 一九〇九年四月十九日、いまでもよくおぼえていますが、あけがたの三時に私は故郷に別れをつげました。荷物のなかに笛をしのばせて、かしの木には最後のあいさつをして――。どこもみなひっそりとしていました。はるか遠い川岸から水車をまわす水音だけが聞こえていました。

x    x    x

それから六年たって、私はインドで学校の先生をしていました。そこでは生徒たちがたいこや笛の楽団を作っていました。私たちは、ある日遠足をして小高い山にのぼり、そこでとてもめずらしい、しゅろの木をみつけたのです。これはおそらく世界に二つとないもので、おもしろいかっこうで弓なりにまがって生えていました。

 「この木の写真をとろう。みんな木の前にあつまりなさい」と友達の英語の先生が言いました。「だれか生徒がのぼったら、もっとよい写真になります」と私が言いました。ところが生徒はだれもシャツやズボンのことを心配してのぼろうとしないのです。「みんなどうしたのですか」と叫んで私は自分からのぼりはじめました。丘の上のしゅろの木からは、インド洋をみはるかすすばらしい眺めでした。そのとき、私が故郷のあのかしの木を思い出したことはいうまでもありません。

 

 このさり気ない文章の上品さ、格調の高さ、味わい深さにまず皆さんの注意を喚起したい。これが成人してから渡来したドイツ人宣教師の日本語だということに驚かれないだろうか。 

 私はホイヴェルス神父様が里帰りで北ドイツはウエストファリアのドライエルヴァルデ(三ツ森村)に滞在されたときに、コメルツバンクの任地デュッセルドルフから愛車を駆って師の生家にお会いしにいったことがあります。

 師のふるさとはその頃もこの随筆に描かれた通りのたたずまいでした。師の姪ごさんのタンテ・アンナがまだ健在で、師と私のために昼食を用意していてくだいました。お部屋はなんと、ヘルマン少年とお兄さんの思い出の勉強部屋でした。

 師はとてもくつろいで語られ、来年には歌右衛門主演の「細川ガラシャ夫人」の歌舞伎一座を引き連れてドイツに戻るから、その時の現地マネジャーはお前に任せよう、とご自分の夢を語られました。しかし、この計画はついに実現することなく終わったのでした。 

 私は以前に師から一枚しかないと思われる希少な写真を預かっていました。それは、この短編の最後に記されたインドのボンベイ(ムンバイ)の海を見遥かす丘の上の世界に一本しかない面白い形のしゅろの木に登ったホイヴェルス神学生(当時まだ司祭に叙階される前だった)とその生徒たちの写真です。師の自筆の日付こそないが、間違いありません。服が汚れるのを嫌ってしゅろの木に登ろうとしなかったインドの良家の子どもたちも写っています。

ドライエルヴァルデの森とアア川(「アア」は川と言う意味だから「川川」となる)の水車小屋の小麦を挽く音。6月の宵、かしの木の頂きでホイヴェルス少年の幻がうぐいすの鳴き声をまねて笛を吹くと、ナイチンゲールはきっと夜を徹して歌い続けるに違いないと、ふと思ったことでした。

 

(つづく)

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★ はねていく小娘

2019-03-01 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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はねていく小娘

ヘルマン・ホイヴェルス

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ヘルマン・ホイヴェルス師の思い出に戻りましょう。1950年代、60年代は、日本のカトリック教会が最も輝いていた時代ではなかったと私は追想します。下の集合写真には、貴重な師の署名と、自筆で記された日付が見られます。場所は昔の聖イグナチオ教会前の広場でした。

私は、師の左側の黒い手提げを持った和服のご婦人のうしろに一つ頭が飛び出した若者です。当時25歳、この写真に写っている人たちは、もうおそらく全員他界されていることでしょう。

この写真の5年前に刊行された師の「時間の流れに」と言う単行本には、次のような短編が載っていました。ゆっくり味わってください。

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 はねてゆく小娘

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都会の屋根の上は春の空です。朝六時、夜の雨で清らかに洗われた小路を、私は歩いてゆきました。

向こうから一人の小娘が飛んできます。一足一足飛び上がり、ぴょんぴょんはねはねくるのです。飛び上がるごとに、髪の毛も、左右にさしのべた可愛い手も、春風のなかに快げに、ふり動いています。ほんとに巣立ったばかりの小鳥のよう――黒い髪、明るい顔、生き生きした真顔で飛んでくるのです。

五歩ばかり近づいたとき、小娘は急に私を見つめました。と、子供の顔に美しい朝のほおえみが浮かびました。はねながらのご挨拶です。とても愛らしくひらひらする頭をさげて、はねながら通り過ぎました。

私も急いでお辞儀をしてほおえみました。このお辞儀もほおえみも子供が受けとっていけるように――すると心の中に、四方山の望みが湧き出てきて、これも急いで子供の方におくるのでした。幸福に暮らしなさい! 私のこの望みを受けとって、子供は嬉しげに道を飛んでいきました。足音も、ずっと元気になって――。私も前より嬉しくなり、朝のさなかに歩んでいくのでありました。

とびはねなさい、ほおえみなさい、小さい者よ。お前が挨拶してほおえんだことを感謝します。また私のほおえみも挨拶もいっしょに受けとってくれたのは有難いことです。お前は私を知らない。私もお前を知らないのに。また知らない人には挨拶する習慣もないのでしょう。いま私は自分が悪い人でないことがわかりましたよ。なぜなら、お前が先に笑いかけたのですから。で、私は心の底からお前の上に望みをかけています。

ほおえみなさい、とび上がりなさい、いつまでも。

お父さんとお母さんを喜ばせてあげなさい。また年がたつにつれてお前の歩き方が重々しくなっても、心の喜びは減らないように。今快く髪の毛をふり上げる頭を、人生の軛(くびき)の下にかがめなければならない時、今春風の中に、あんなに自由にはばたいているその手がたくさんの退屈な仕事でいっぱいで、他人から受けとるより他人にたくさん与えねばならない時に、足もまた毎日の生活のたまらない用事のために走り回らねばならない時にでも――それもやはりしかたのないことですが――その時に、なつかしい創造主 der liebe Gott が、お前に豊かなみ光りを下さるように。それによってお前の子供の中の一人が十歳ともなれば、今朝ほどお前がしていた通り、はねたり、ほおえんだりするように!

 

俳句のように短いこの一編の随筆。私は、まず第一にその日本語の美しさに感動します。これが成人してから日本に移り住んだドイツ人の文章かとおもうと、私は唸ってしまいます。日本人の私もこの年まで無数の文章を書いてきました。しかし、日本語としてこれほどの研ぎすまされた簡潔さ、美しさ、優しさ、暖かさ、ふくらみ、深さに満ちた―ひとことで言えば、愛を感じる―文章の境地にはとてもとどいていません。

ホイヴェルス師は、自然を、動物を、子供を、人間をあたたかい愛の眼差しで見つめ、あらゆる存在の本質を究め、それらの深い意味を総合的、統一的にとらえる「哲学するこころ」を持っておられました。かれは「哲学することの楽しみ」を知っている真の「哲学者」でした。

かれは、まことの「哲学者」と「教壇の哲学の先生」とをはっきりと区別しておられました。哲学者が人間の理性の力で、物事の根本原理を探求するものであるとすれば、哲学の先生・教授は歴史に登場した著名な哲学者の教説を人よりも詳しく知っていて、それを人に説き聞かせることを職業とする人のことであり、その人自身は哲学者であるとは限りません。大学の哲学科の教授たちは、たいがいは、哲学史を講釈する歴史の先生にすぎません。哲学の教授は世に五万といるが、本物の哲学者はごく稀にしかいないのです。

師は私に哲学することの喜びを伝授してくださいましたが、哲学の先生になることはお薦めになりませんでした。ホイヴェルス師は教会、すなわち「ペトロの船」の行く末を深く洞察しておられ、わたしにも行くべき方向を示し、教会の進むべき方向を察知する感性を授けて下さったと思っています。わたしが今日このような司祭になったのは、ひとえに師の薫陶のおかげだったとしみじみ有難く思っています。

(つづく)

コメント (2)
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