~~~~~~~~~~~~~
友への手紙
ーインドの旅からー
第8信 怪僧ビプラサーラ
~~~~~~~~~~~~~
記事と写真は一致しないが、セイロンの高地の仏教の遺跡で 私の頭の後ろに巨大な涅槃像が
セイロンで知り合った若者の一人 一緒に世界遺産のシーギリアロックに登りに行く
190メートルの岩頭には宮殿があった。
今も残っているシーギリアレディーと呼ばれる壁画(ウイキペディアから借用)
え?セイロンってどこの国?と言う人が多数を占める時代になってしまったか?と、ふと思います。
今のスリランカは1964年の東京オリンピックのころにはまだセイロンと呼ばれていました。その国名は、バンダラナイケ未亡人が首相の時代に変更されましたが、彼女はサッチャー首相、メルケル首相などよりずっと前に、世界で初めて女性首相になった人でした。
人口の70%が仏教徒のシンハリ族。12%がヒンドゥー教徒のタミール族。そして10%の回教徒と7.45%のキリスト教徒はマイノリティーという多民族、多宗教国家です。
私はその国での体験を当時次のように綴っていました。
第8信 怪僧ビプラサーラ
(ビプラサーラの写真が見つからなくて残念!)
O君、お元気ですか。近況を報告しましょう。
セイロンに着いたぼくは、先ずセイロン政府の文化事業部のようなところを訪ねた。一か月前にセイロンを訪問されたN教授から紹介状をもらっていたからだ。そこから役所の車でアートギャラリーに連れていかれた。ちょうど美術展の最中で、民族色豊かな健康的な美術工芸作品が並んでいた。若い芸術家たちは生き生きとしていた。そこには世界共通の雰囲気があった。
ややあって、達磨さんのような不敵な面構えの黄衣の僧があらわれた。この美術館の持ち主のビプラサーラ尊師だった。その日、彼は私をセイロン一のモントラピニャホテルの昼食に招いてくれた。正午から翌朝まで食事をとらぬと言う怪僧の戒律に従って、十一時からの食事となる。すばらしいメニューだった。他にも数名のセイロンの文化人が来ていたが、会話はなかなか高尚なものだった。
ヤシの葉が風にそよぐサンゴ礁の海を見晴るかしながら、テラスで食後のひと時を楽しんでから、ぼくは彼の修道院を訪れた。
ちょうど夕べの供養の時間だった。素朴な仏教徒の女や子供たちが、浅い皿にとりどりの色の花をこぼれんばかりに載せて、本堂の入り口に並び、その皿を手から手に渡して、最後に仏像の前のテーブルにならべる。夕暮れのココナツの森のなかで祭りを繰り広げる村人たちのサリーの色、盆に盛った花を回す彼女たちの楚々たる身のこなし、その何とも言えぬ自然な景色に、つい自分も人々の輪の中に入って、花のお皿を回させてもらった。難しいことは何も分からぬ人々、そこに一種の美しさがあった。
しかし、この修道院の図書室にはたくさんの共産党の新聞雑誌がそろっていた。共産主義的な青年運動はこんなところから指導されていたのだろうか。
怪僧ビプラサーラは、米、ソ、をはじめ日本にも来たことがある。彼はただの文化人にはとどまらず、政治的、経済的にも絶大な影響力を持っている。彼が一緒であれば、どんな荷物も税関フリーパス。彼が右向けと言えばセイロン中の警察が右を向くと言う伝説があるほどだ。仏教徒の指示で首相になったバンダラナイケが、仏教徒の利益を十分にはからなかったため、仏僧の手で暗殺され、その仏僧は絞首刑に甘んじるというお国柄だ。バンダラナイケの未亡人は次の選挙で首相になったが、夫の暗殺による身の不幸を無知な農民たちに訴えて回った彼女の選挙戦を評して、時のタイム誌が「涙するやもめ」と評したのもセイロンならではのことか。
だから、こういった政府に対するクーデターの一つが未然に発覚し、たまたまその指導者がカトリックだったりすると、そのままただでは収まらなくなる。それを機会にカトリックに対する弾圧の度が日増しに激しくなったことは確からしい。これも怪僧の糸引くところだろうか。しかし、彼は僕に対して非常に親切だった。
セイロン、それは考えていたより面白い国だ。歴史や文化ばかりではなく、現在の政治、経済、宗教などの実情をもっと知りたくなった。けれど、先を急がなければならない。印度でもたくさんの事をしなければならないのだ。
O君、この次の便りは多分マドラスからだと思う。マドラス、そこは2000年前、キリストの12使徒のひとり聖トマの殉教の地だ。では、また近々。
セイロンは仏教やヒンズー教の遺跡だらけ 一群の青年たちと仲良しになった
セイロンは取りあえず民主主義の統一国家だが、多数派のシンハリ族の仏教徒に対して、インドに近い北部地方のタミール人ヒンズー教徒が独立運動を企てる不安定要素を抱え、共産主義者の影響も強かった。
セイロン紅茶のプランテーションが広がる中部高原地帯は気候が優しく、セイロンの政府が優遇政策を示したのを受けて、一部の日本人富裕層の間では、退職金をセイロンの国策銀行に供託して移住することが流行って、現地人使用人にかしずかれて優雅な老後を過ごした日本人たちがいたことはあまり知られていない。
共産主義者の政僧ビプラサーラ師が当時のセイロン社会全体を代表するものだとは思わないが、彼との出会いは私に多くのことを考えさせてくれた。
新型コロナウイルスの第三波が重大局面を迎えている今、呑気に「インドの旅」でもあるまい、と言う声もある一方で、「いいね!」、「続きを読みたい」と言う声も聞こえる。もしかしたら少数の声に応えるうちに、多くの読者に飽きられ見捨てられているのかもしれないと言う不安もある。
第三波に突入して以来、政府のコロナ対策には危険な矛盾が見え隠れする。
どこまで続くか分からない下り坂で、ブレーキとアクセルを同時に踏み込んだら一体どうなるか?エンジンを加速する力はブレーキより強いに決まっている。しかし、やがてはブレーキが過熱して壊れてしまったらどうなる?そうなったらアクセルを踏むのをやめてももう手遅れだ。くだり坂でブレーキが壊れたら速度が上がってカーブを曲がり切れずにクラッシュするのは目に見えている。ブレーキを踏むときにアクセルから足を離すのが運転の常識ではないのか。そんなことさえ政府は理解できないのか?
だから、多少の命の犠牲には目をつぶっても経済を救わなければ社会が立ち行かない、と言う論理は正しくない。
「多少のいのちの犠牲には目をつぶる」と言うとき、切り捨てられるのは社会の弱者だ。その犠牲の上に生き延びようとしているのは誰か。コロナは「いのち」の尊厳の平等性をあらためて思い出させてくれる。それを否定するエゴイズムは決して許されてはならないと思う。
そもそも、「コロナ禍」と言う捉え方が間違っている。そこには、コロナは悪いもの、忌むべきものと考える。早く過ぎ去って以前の平穏な生活に戻れることを願う後ろ向きの姿勢が目立つ。
コロナは天地を創造した神様から贈られた試練ではないか。「立ち止まって考えなさい、人間の弱さを謙虚に認めなさい。弱い人、貧しい人への愛に目覚める時です。」と言う呼びかけに耳を傾けなければならないのではないか。
コロナ禍を忌み嫌い、どうかこの悪を早く取り去って下さい、と神に祈るだけの信者たちの姿を身近に見て、「それは違うだろう!」叫んでも理解してもらえない状況に、落胆と焦りを深くしている。
信仰とは何か、回心とは何かをあらためて自問する今日この頃だ。