:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ インカルチュレーション =宗教の文化への受肉=

2008-09-19 14:29:12 | ★ アーミッシュ

 

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★ インカルチュレーション

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先の ★ いま明かす、アーミッシュに拘った本当の訳(その-2) の中で、私はインカルチュレーション」 

宗教の文化への受肉)=という「流行語」が、教会の権威を代表する責任ある人々の間で、慎重に正しく定義されることもないまま、自説を正当化し権威づけるために、我田引水、恣意的に

用いられ、混乱を招いているという感想を述べました。

 

そして、

不遜にも

「それなら私が正しく定義してあげようではないか」と大言壮語し、実際に着手しましたが、拙速に走ってはかえって問題を複雑にするおそれがある一方で、ここで長考一番、慎重に時間をかけて考えていてはブログか停滞して先に進めない、というジレンマに陥りました。

 

そんなところへ、聖座(バチカン)が近い将来「インカルチュレーション」に関連する「回勅」乃至は「教書」の類を発表する準備を進めているらしい、と言う情報 

 

(裏を取って確認したわけではまだないのですが) 

が入りました。恐らく聖座も今の混乱を放置することを望まれなかったのだろうと思います。

 

渡りに船、とはまさにこのような場合のための言葉でしょう。さっそく前言を撤回し、無謀な試みを引っ込めることといたします。

 

 

 ローマが定義するらしいという噂さだけでも抑止力が働き、勝手な用語の乱用、独り歩きが少しでも控えられればもうそれで十分ではありませんか。

 

 

"Roma locutus, causa finita

 est

." 聖座がもの申せば、論争は終焉する)と諺にもある通り、ローマの裁定を待てばよいわけですから、私が拙速に走って怪我をする必要もないわけです。

その代わりに、と言っては何ですが、定義自体は聖座に譲るとして、一足飛びに地方教会の権威者の発言のなかで「おや?」、「それはちょっとおかしくない???」、と平素私が疑問に思ってきた幾つかの点について、自由に、順不同にのべて見たいと思います。まず手始めに:

 

★ インカルチュレーションと「二段階宣教論」

劇的なキリスト教離れと、急速な回教圏化への道を突き進んでいる「元キリスト教圏ヨーロッパ」は、もともと2000年のキリスト教的文化の土台がある世界のことだから、再宣教の手段として有効であることが既に検証されている新しいカリスマ-たとえば「新求道共同体」-が、いきなりキリスト教の本質、ギリシャ語で「ケリグマ」と呼ばれるもの、をぶつけたとしても大きな違和感はない(一段階宣教論)

また、16世紀植民地主義時代に発見された南北アメリカ、アフリカなどの新大陸は、もともと未開な世界だったから(それは思い上がりだろうが)、いきなり「ケリグマ」をぶつけることに違和感はなかった(一段階宣教論)

しかし、キリスト教の宣教活動の主舞台として「第3千年紀はアジアの時代」と言われる時、そのアジアの多くの部分はキリスト教にとっては処女地であり、しかもそこには歴史と伝統を誇る偉大な文化と宗教が先に存在する世界である。

インドのバラモン教ヒンズー教は言うに及ばず、チベットや東南アジアの小乗仏教、中国や韓国の儒教や道教、日本の神道や大乗仏教など、偉大な文化に受肉した固有の伝統宗教が既に先に存在する。それらの先輩達に敬意を表し、彼らが産んだ偉大な文化に自ら進んで受肉しながら、時間をかけて次第にその世界に受容されていくのが大切。諸宗教対話を進め、第一段階として、よき隣人となり、世界平和や、社会正義や、人権や、環境問題や、エコロジー、etc. 、同じ土俵に立って手を取り合える分野で共棲して、溶け込む。自らがまずその土地の文化にインカルチュレートして、十分それが定着したその上で、「第2段階として」キリスト教固有の教理、信仰の真髄、を徐々に前面に出して理解を求める二段階宣教論」(間接宣教)

一見、極めて謙虚で、常識的で、賢明で、したたかな、誰でも受け入れられやすいよい戦略のようではないか。

いつのころからか、おおざっぱに言って、インドから東のカトリックの地方教会指導者の多くが、上のような宣教論イデオロギーに染まっていったように私には思える。

「新求道共同体」のように、また「アーミッシュ」のように、「西暦紀元の最初の3-4世紀の初代キリスト教会」のように、つまり、ナザレのイエスが自身と、キリストの使徒たちと、その直接の後継者たちがやったように、ひたすら直接に福音の真髄をぶつける、「ケリグマ」を説く、宣教の「一段階宣教論」(直接宣教)は、どうやらアジアの地方教会の指導者達の多くが採用してるイデオロギーには非常にシャープなアレルギー反応を起こすもののようである。

《 つづく 》

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★ いま明かす、私がアーミッシュに拘った本当のわけ

2008-08-18 14:25:56 | ★ アーミッシュ




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★ いま明かす、私がアーミッシュに拘った本当のわけ
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2年ほど前のある晩、四谷三丁目のこ洒落た和風のお店で、亜紀書房のK編集長と美味しいお酒を呑みました。
それは、数日後に書店に並ぶ 『アーミッシュの赦し』 という新刊書出版の内祝いでした。


原題は:

“AMISH GRACE”
–How Forgiveness Transcended Tragedy–


私とこの本との繋がりは、「本文中のキリスト教関連の記述、用語の翻訳に関してアドバイスすること」 でした。
この本の原題をどう理解し、どう言う言葉をあてるべきかについては、訳者も、K氏自身も大いに悩まれたようでした。私の意見がいささかのヒントになったとすれば幸いです。

○ 06年10月2日、アーミッシュ学校で銃乱射事件が起こり、女生徒5人死亡、5人重傷。
○ 年長の少女は犯人の前で 「私を(先に)撃って」 と名乗り出た。
○ コミュニティーはすぐに犯人とその家族を赦した。
○ 賞賛と同時に様々な論議を呼んだ衝撃の事件の全貌を記す。
○ 全米ベストセラー!

私は、翻訳原稿を早い段階でじっくり読む機会に恵まれました。そして、自分の信仰内容と、自分が帰属するキリスト教集団、つまり日本のカトリック教会の現状について、深く考えさせられるものがありました。いま思っても文句なしのお勧めの一冊です。 このテーマに関心を持たれた方は、是非お読みくださるようお招きします。

さて、アーミッシュ成立の歴史的背景や、アーミッシュの現実の生活スタイルに関しては、いろいろと意見が分かれるかも知れません。

しかし、こと 「赦し」 に関する限り、予断と偏見を排して聖書を素直な心で読めば、アーミッシュの共同体で生きられている精神は、聖書の教えの真髄そのもの、キリスト教の大きな教派・教団のほとんどが、いつの間にかどこかに置き忘れてしまった最も本質的な部分を、現代社会の中で力強く証していると言わざるをえないのです。

カトリックにもプロテスタントにも、個人としてはアーミッシュと同じように、福音的 「赦し」 の精神を生きて体現している人はいるでしょう。カトリックの場合は、教会から公に聖人として顕彰されたほどの人たちは、皆この赦しの達人であったに違いありません。

カトリック教会では、神父を養成するための神学の科目の一つに、倫理神学と言うのがあります。私など、試験が終わると大概の細目は忘れてしまうのですが、テーマの中には、確か「聖戦論」と「タイラント殺し」、それに、新しいものとしては「解放の神学」などと言うものまであったように記憶します。

「聖戦論」とは、一口で言えば、キリスト教会は、-と言うか、キリスト教的国家又は集団は-、事と次第によっては、信仰ゆえに、正義のために武器を取って戦うことが赦される、と言う立場で、カトリック教会は今だにその説を堅持しているようでした。(ただし、十字架の旗印の下に戦われた戦争で、動機において、モラルにおいて、結果から見て、聖戦の定義に叶った戦争は歴史上ただの一回もなかった、と言うコメントを付け加えないと合格点はもらえませんが・・・。)

同様に、邪悪な非人道的な独裁者から国民を守るためには、その独裁者-例えばヒットラーのような-を殺す以外に方法はないと良心的、主観的に確信するに至った者は、その信念に忠実に行動を起こして、独裁者を斃すことを神はお赦しになる(タイラント殺し)とか、民衆の抑圧と収奪が忍耐の限度を越えた悪しき政治体制は、暴力革命をもって覆すことも赦される(解放の神学)とか、を容認した上で、ここでも、歴史上かつてそのような倫理神学の基準の満たした暗殺も革命も存在したことがない、と付言していました。なんとも歯切れの悪い講義だった、と言うのが、試験の後に残った印象でした。

アメリカは、いわゆる「9.11同時多発テロ」の直後、国際的なテロとの戦いと言う旗印の下に、アフガニスタンやイラクになだれ込みました。そして、その政策を推し進めたブッシュもキリスト教徒だと言われています。実にひどい話です。
ブッシュに比べれば、捕らえられ裁判にかけられたフセイン国王の顔の方が遥かに尊厳に満ちていたし、オサマ・ビン・ラーディンの顔は、日本ザルのように目鼻が寄ったアメリカの大統領の顔よりよほどストイックで品がいいと感じるのは、私だけでしょうか。

「十字軍の遠征」は言うに及ばず、神聖ローマ帝国を舞台とした人類史上初の世界戦争と呼ばれる「30年戦争」は、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争の一面-あくまで一面ではあるが-を持っていたし、アイルランド紛争も同じです。中東紛争、旧ユーゴスラビア紛争、そしてアフガニスタンやイラクの紛争もキリスト教対イスラムの戦いの側面を持っています。

キリスト教(今のカトリックもプロテスタントも含めて)が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのはいつの頃からだったでしょうか。

この問いの答えは次回に譲るとして、『アーミッシュの赦し』という新刊書の内容は、こと「赦し」と言う一点に関して、キリスト教が経験したあらゆる歴史的変質を潜り抜けて、今日もナザレのイエスの赦しの革命的教えに忠実に生きようとするる人たちがいるという事実を明らかにした点で、多くを考えさせる力を秘めています。

《 つづく 》

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★ いま明かす、私がアーミッシュに拘った本当のわけ (その-2)

2008-08-15 14:23:33 | ★ アーミッシュ




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★ いま明かす、アーミッシュに拘った本当の訳(その-2)

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=インカルチュレーション(宗教の文化への受肉)=


前回の話は、「キリスト教(今のカトリックもプロテスタントも含めて)が、ナザレのイエスの平和の教えを裏切って、戦争の一方の当事者の後ろ盾としての宗教に変質してしまったのはいつの頃からだったでしょうか?」と言う問いで終わった。

この「変質」は、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教扱いにした時期と明らかに符合する。キリスト教は、その時を境にして、ローマ帝国の中で不協和音を奏でる異分子、気持ちよく共生できない嫌な存在、であることをやめて、ローマ帝国の文化(カルチャー)に滑らかに融合・土着化した。現代的なカトリック用語で言えば、インカルチュレートしたのであった。

その結果、ローマ帝国の版図、地中海世界は、あっという間にキリスト教一色になり、その状態は、神聖ローマ帝国、キリスト教的ヨーロッパ中世を経て、前世紀の半ば(大体東京オリンピックの頃)まで続いた。

第三千年紀(2001年からの千年間)は、キリスト教にとってアジアの千年間と言われる。そして、そのためには、キリスト教はアジアにインカルチュレートする必要がある、と分かった振りをするキリスト教知識人がいる。
そのしたり顔の人士に対して、私はひどく懐疑的である。

私は、日本のカトリックの知識人たち・高位聖職者たちが「インカルチュレーション」を連発し、自分の説を都合よく組み立てるのに利用しているのを横目で見るにつけ、「あんた、ほんとに分かって物言ってるの?」と密かに心の中で問うてきた。

現に、その人たちが「インカルチュレーション」を納得のいく、説得力のある形で定義したのを、ついぞ聞いたことがなかった。みんな、めいめい自分の信条や自説に都合よく意味づけして、互いに整合性のない形で勝手に使っている風であった。また、ローマのグレゴリアーナ大学に8年間も在籍して、色んなゼミにも顔を出してみたが、当代一流の神学者たちが、誰一人「インカルチュレーション」の権威ある定義を教える者はいなかった。

無秩序な用語の都合のいい独り歩きを止めるために、ローマの聖座は公式見解を出してしかるべきだが、今もってその気配がない。既製品がなければ、手作りするしかないだろう。早速、試しにやって見よう。インカルチュレーションを正しく定義するには:

① 宗教の教義の本質、この点をはずしたらその宗教が骨抜きになる核心の部分(魂)と、その宗教が生まれた社会の文化(カルチャー)を区別しなければならないだろう。
② 同じように、ある宗教が新しい世界に遭遇したとき、その世界に固有の宗教・道徳の本質(魂)と、その世界の文化(カルチャー)も区別しなければならない。
③ さらに、宗教が新しい文化と遭遇した結果生まれる新しい文化(カルチャー)の出現にも注目しなければならない。ヘーゲル流の弁証法になぞらえて言えば、正・反・合の「合」に相当する何か新しいものである。

もう一つ、大切な点は、宗教と言うものは、決してその教義・神学が純粋な形で裸で存在することはなく、常に歴史と文化(カルチャー)の中に受肉(インカルネート)しているという観点である。それは、ちょうど道行く人がその人の目には見えない精神、魂、霊だけで浮遊しているのではなく、常にその人の個性をる表す目に見え肉体に受肉し、しかもちゃんと脱着自在の服をまとっているのと同じである。

① 霊魂
② 肉体
③ 衣服

この三つのものの区別に相当する区別を、宗教のインカルチュレーションを語るときに念頭に置いておかなければ、問題の本質を正しく把握することは決して出来ないだろう。
この区別を道具に使って、過去の宗教と文化の関係性、新しい文化との遭遇、インカルチュレーションの様態を点検していけば、キリスト教に関して、第三千年紀のアジアに何が予想され、それをどう導いていかねばならないか、また、どこに落とし穴があり、何をしてはいけないか、などが見えてくるのではないだろうか。(つづく)

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★ なぜ今アーミッシュ?

2008-08-12 14:21:11 | ★ アーミッシュ



 

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★ なぜ今アーミッシュ?
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いま私の目の前に

アーミッシュ 昨日 今日 明日」

という一冊の本があります。アメリカの社会学者ドナルド・B・クレイビルの書いたものです。

これらの本を手掛かりに、当分の間、カトリックとアーミッシュとを対比した考察を展開したいと思います。そして、なぜ私が急にアーミッシュに拘り始めたかはおいおい説明するするとして、まず、アーミッシュとは何かについての基本的理解を共有したいと思います。

アーミッシュ(Amish)はアメリカ合衆国・ペンシルバニア州やオハイオ州に居住するドイツ系住民で、ペンシルバニアダッチを話し、キリスト教の一派の再洗礼派に属しているメノナイト派(メノー派、メノナイト)の人々である。原郷はスイス。
アーミッシュは電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話等)も家庭内にはない。原則として、現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を営む。
服装はきわめて質素。子供は多少色のあるものを着るが、成人は決められた色のものしか着ない。洗濯物を見れば、その家の住人がアーミッシュかどうか分かる。


オハイオ州にて、馬車に乗るアーミッシュの夫婦(2004年9月)

ペンシルバニア州のアーミッシュは、日常生活ではきわめて古い時代の技術しか使わない。このため自動車は運転できない(ただし旅行の際は自動車も飛行機も使用するようである)。商用電源は使用できないが、風車・水車によって蓄電池に充電した電気は利用できる。ペンシルバニア州では馬車にウィンカーをつけることが義務付けられているため、この方式で充電した鉛蓄電池を利用しているとされる。 写真撮影は宗教上の理由から拒否されることが多い。ただしこれらの宗教上の制限は、成人になるまでは猶予される。したがって、未成年ならば自動車運転免許を持つアーミッシュも存在する。成人になる際、アーミッシュであり続けることを拒否することもできるが、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。政治的には、「神が正しい人物を大統領に選ぶ」との信条から、積極的に有権者として関わることはなかった。


アーミッシュの女性

専用の教会建物はなく、民家の家具を片付けて利用する。
喋る言葉「ペンシルベニア・ダッチ」は、ペンシルバニア風のドイツ語というわけではなく、ドイツ語のかなり古いかたちのものと言われる。ドイツ人がそれを聞いて今日理解できるものではない。スウェヴィッシュ、スイスのドイツ語圏で話されていた古語が元になっているといわれる。
その独特の生活様式は1985年のアメリカ映画『刑事ジョン・ブック/目撃者』で取り上げられた。ハリソン・フォード演じる刑事の主人公が、偶然殺人事件を目撃したアーミッシュの子供を守るため、アーミッシュの家庭に身を寄せるうちに、その母親と恋に落ちるという物語である。日本ではこの映画で初めてアーミッシュの文化を知る人が多い。しかし、必ずしもアーミッシュの人々の中ではこの映画は好意的に受け止められていないようであり、実際は共同体外部の異性と恋愛をすることは現在でもほとんどない。
• 屋根付きの馬車 大人にならないとこれは使えない。子供、青年には許されていない乗り物。
• 馬車(バギー) アーミッシュの唯一の交通手段。車の行き交う道をこれで走るため、交通事故も多い。
• アーミッシュでなくなった家族とは、たとえ親子でも互いの交流が疎遠になる。
 以上出典 (ウイキペディア)

私は、現代カトリック教会の中に、ある一面ではアーミッシュと同じ精神を共有しながら、別の面では全く異なった選択をしているグループが、急速に伸びているのを目の当たりにしています。その興味深い特徴を比較分析して行こうと思っています。乞う、ご期待!(つづく)

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★ なぜ今アーミッシュ? (その-2)

2008-08-09 14:20:32 | ★ アーミッシュ





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なぜ今アーミッシュ?(その-2)

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前回の「アーミッシュ(その-1)」で、私が今注目しているアーミッシュと言うものがどんなものかについての基礎知識が得られたものと思います。正直言って、私もいま旺盛な好奇心をもって勉強中です。

私がアーミッシュに深い関心を寄せる背景には、故ヨハネ・パウロ二世教皇が、キリスト教の未来を予言して、「第三千年紀(西暦2001年からの千年間)はアジアの千年だ」と言ったことと関連しています。

今から約2011年前のキリスト誕生の時代、世界の人口は約3億人でした。それが、1802年には10億人、1987年7月には50億人、1999年10月には60億人、2007年7月には66億人まで増え、それが2050年には92億人に達するだろうと予測されています。そして、その時、世界の人口の約三分の一はアジア人であるはずです。それだけでも、教皇が第三千年紀はアジアの千年紀と言ったことの重みが理解できます。

しかし、それだけではありません。第2千年紀にキリスト教の舞台であった欧米では、過去50年間に
キリスト教徒の「絶対数」が音を立てて激減に転じている (私のブログ「回教徒、ついに世界1?」その-1、その-2 参照) のに対して、アジアには著しく増加を続ける可能性があるからです。

その傾向は、中国におけるキリスト教の状況にもピッタリ当てはまります。最新のデータでは7000万人弱という段階ですが、現在のペースが推移すれば数年から10数年で1億人を超えることが予想されています。また、アジア各国(中国、韓国、シンガポールなど)に共通している現象として、高学歴者にキリスト教徒化の傾向が強いと言われていますが、それはインドにおいても同様に言えるようです。しかも、このインドの人口がやがて中国を追い越すという予測も無視できません。

実は、そのことと、アーミッシュがキリスト教集団としては珍しく、基本的には布教も宣教活動もしないのに、20年間で信者の数(取りも直さずアーミッシュ共同体の人数)が倍増してきたたと言う事実とが、私の頭の中で強く結びついています。そして、どうやら、その秘密はアーミッシュコミュニティーの家族構成、一家庭あたりの子供の数と関係があるらしいのです。

私が、国際金融業の華やかな世界を去って、55歳で神父になって、四国で田舎司祭を数年間やっていたとき、すぐにに大きな悲哀を味わいました。それは、自分なりに一生懸命努力して宣教活動をして、求道者と出会い、ようやく一人の人を洗礼まで導いても、多くの場合その信仰はその人一人に留まり、その人の子や孫に伝播し受け継がれていかないと言う現実でした。

ナザレのイエスは最初の弟子にしたガリラヤの漁師たちを「人をすなどる者」としましたが、その後継者である我々神父たちは実に哀れなものです。日なが一日労苦して、年にやっと数匹の魚を釣り上げても、先に釣った魚が高齢化の餌食になって容赦なく次々に消えていきます。新しく教会に入って来る人より、天国に旅立つ人の方が多く、先輩から引き継いだ教会が日増しに淋しくなっていくのをどうすることもできません。

それでも、空しさに疲れて自転車を漕ぐのをちょっとでも休めば、たちまちばたんと倒れてしまうことが分かっているので、老骨に鞭打って、息が続く限り同じ自転車を漕ぎ続ける以外に知恵が浮かばない、と言うのが多くの神父たちの絶望的現状ではないかと思いました。

専門用語に、合計特殊出生率(ごうけいとくしゅしゅっしょうりつ)と言うのがあります。それは、 人口 統計上の指標で、一人の女性が一生に生む子供の数を指します。この指標によって、異なる時代、異なる地域の人口の自然増減を比較・評価することができるのです。厳密には、一家庭あたりの平均の子供の数と完全に一致するものではありませんが、密接な平行関係にあります。

要するに、ある社会、ある国家、地球上のある地域において、特定の宗教が発展するかどうかは、もちろんその宗教の布教努力にもよるでしょうが、実はそれ以上に、その宗教の信者共同体における一家庭あたりの子供の数に大きくかかっていると言うことです。

カトリック教会は、1968年に教皇パウロ6世が 『フマーネ・ヴィテ』 という
回勅で、生命の尊重と、人工的な産児制限への反対を表明しました。堕胎は胎児を殺す殺人行為であるから問題外ですが、カトリック教会は、自然に反する人工的な避妊方法にも強く反対してきました。

しかし、現状はどうかといえば、これまでキリスト教国と見なされてきた国々では、その国の平均出生率とその国のキリスト教徒の家庭のそれとの間には、ほとんど差が無いと言うのが現実です。

つまり、カトリック信者たちは、教会の教えに反して、周りのノンクリスチャンと同じレベルで堕胎と避妊を繰り返し、その結果、イタリアでも、ドイツでも、フランスでも、スペインでも、そして日本の信者たちも、周りの異教徒と同じく、1家庭当たり平均1.3人前後の子供しか産み育てていないということです。(平均2人強いないと人口は減り始める。)

アジアの千年紀における人口動態と、カトリック教会の発展とを見る上で、アーミッシュの例には非常に示唆に富んだ興味深いものがあります。

それだけではありません。
私が司祭の養成を受けるためにローマに送られたとき、たまたまそこで出合った「新求道共同体」というグループと、アーミッシュが、ある一面では非常に酷似していながら、別の一面では全く正反対であるという点にも、強く興味をかき立てられました。


次回から、アーミッシュの特徴とされる幾つかの点を取り上げ、「新求道共同体」との共通点と、反対の点を比較検討していきたいと思います。

(つづく)


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★ 「アーミッシュ」対「新求道共同体」-1

2008-08-06 14:19:05 | ★ アーミッシュ




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★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」 -1

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プロテスタントの古風なマイノリティー集団「アーミッシュ」とカトリックの最も急成長の「新求道共同体」との間に、不思議な共通点と同時に、全く相反する面のあることに注目し、その両者を対比することを通して、現代における、そして第三千年紀における、キリスト教の展望を占いたいと思います。

アーミッシュについての情報は、主としてドナルド・B・クレイビル著「アーミッシュの昨日今日明日」と、「アーミッシュの謎」-宗教・社会・生活-(いずれも〔論創社〕)です。アーミッシュについては、それらの本を参照しながら、新求道共同体については私の限られた体験をもとにしつつ、展開していきたいと思います。


(1) 「成長」

共通点
アーミッシュは、ヨーロッパの母国では消えてしまったが、20世紀の今日、北アメリカの地で栄えている。20世紀初頭、わずか5000人の集団は、今日、大人と子供を合わせて12万5000人以上を数えている。ある文献によれば、アーミッシュは20年ごとに2倍に成長してきたと言われ、その数はアメリカで約16万と言う数字もある。

新求道共同体は、キコと言う一人のスペイン人の信徒(聖職者ではない)が、マドリッド郊外のスラムで初めた数十人のグループがもとで、聴くところによれば、わずか40年余りの間に、全世界に約100万人(?)のメンバーを数えるまでに成長し、今もその勢いは衰えを見せていないと言う。だとすれば、その成長率はアーミッシュを遥かにしのぐ計算にならないだろうか。

組織や集団が成長しようとするならば、生命の再生産か、外部からの補充によって、又は、その両方によって新しい構成員を作り出さなければならない。つまり、子供を沢山作るか、絶えず新たに多くの帰依者を得なければならない。

アーミッシュの場合は、その高い出生率が成長を支えてきたのは明らかである。一般的に、女性は平均7人の子供を産む。病気になったり死んだりして、子供の数は一家あたり平均6.6人である。産児制限をしないし、近代医学の恩恵にも与っているので、アーミッシュの出生率は増加してきた。

新求道共同体の場合は、その子供の数は平均で約5人と言われている。望んでも子宝に恵まれない夫婦もあるから、平均5人とは、10人、13人という子沢山の夫婦も例外ではないことを意味している。その上、子宝に恵まれなかった夫婦は、多くの場合数名の養子を迎えることも計算に入れなければならない。

相違点

では、アーミッシュより相対的に出生率の低い新求道共同体のほうアーミッシュよりはるかに高い成長を遂げているのはなぜか。
それは、アーミッシュと違って、新求道共同体が伝道活動や改宗を積極的に進めているからに他ならない。新求道共同体は、エホバの証人(物見の塔)たちのように、外に出て戸別訪問をすることも辞さない。

アーミッシュの場合は、伝道活動や改宗者受け入れを活発に行ってはいない。また、外部の人々を彼らの社会へ喜んで迎え入れはするが、電気や自動車、そして高等教育をも排除するという伝統に固執してきた彼らの社会へ、文化的飛躍を遂げて同化できる人はほとんどいない。

共通点

成長が集団社会の単なる人口動態を意味するのであれば、上の説明で足りるだろう。しかし、アーミッシュも新求道共同体も、ともに確固たるキリスト教信仰を守り実践しているところに最大の特徴がある。だから、単なる生物学的個体数の増殖の問題に加えて、同じ信仰が綿々と受け継がれていく精神的、霊的側面も考え合わせなければならない。
出生率が高く、沢山の子供に恵まれても、親から子供たちに同じ信仰が受け継がれて行かなければ、信仰者集団として成長することは出来ない。

子供たちが信仰を捨て、コミュニティーに留まらなければ、高い出生率によってもたらされた増加分は、相殺されてしまうことになる。アーミッシュはほとんどの子供たちを引き止めるのに成功してきた。ランカスター居住地での離脱者の割合は、10~24%の範囲である。リーダー達によれば、彼らの宗教的伝統を奉じる若者はますます増えている。いずれにしろ、5人の子供のうち、4人までがアーミッシュにとどまる。

私は前にもどこかで書いたが、日本のような世俗化が極限まで進んだ社会においては、親が信仰を得ても、もともと数の少ない子供たちにその信仰が伝わる確率、つまり、思春期という難しい時期を乗り越えて、子供たちが親と同じ信仰を保って生きていく割合は、アーミッシュとは逆に極端に少ない。統計的数字は手元にないが、平均では恐らく限りなくゼロに近いのではないかとさえ思われる。これは、教会の司牧の現場にいる我々神父たちの憂鬱の最大の原因である。

そうしたカトリック教会の現状にあって、新求道共同体の場合は全く様子が違う。新求道共同体は現象としてはアーミッシュとほぼ同じである。私が見てきた限りでは、その歩留まりはアーミッシュよりさらによいかもしれないとさえ思う。
しかし、その背景と理由は全く異なっている。

相違点

アーミッシュ教区の学校での8年間にわたる教育によって、子供たちの社会性は実質的に育てられる。高校や大学へ行ってはいけないので、若者は近代的価値から隔離される。子供達は一族の織り成す暖かいきずなに包まれている。コミュニティー内部で、仕事、親睦、そして事業の機会が得られるので、アーミッシュにとどまろうとする強い動機が生じる。彼らは、アーミッシュの世界と言う、もう一つの社会を築いている。それは、目的意識、アイデンティティ、帰属意識といった情緒的な安心感を与えてくれる。これらの力が、若者を、アーミッシュの一員になることへと向かわせ、彼らを離反させかねない世俗的誘惑を消し去るのだ。

アーミッシュは、近代社会の侵入に対して、いくつかのやり方で抵抗してきた。古風で地味な日常着、馬、幌馬車、ランタンなどに象徴される生活スタイルによって、近代文明生活との間に、明確な境界線が引かれている。それによってアーミッシュも外の世界に住む人達も、二つの世界を区分する文化的な柵の存在に気付くのである。さらに、このアーミッシュ社会を象徴する旗は、グループの大きな宗教的大儀のためには、利便さ、快楽、虚栄心、そして個人のアイデンティティさえも放棄するようメンバーに要請するのである。

アーミッシュはまた、外部の人々との交流を断つことによって、近代生活に抵抗している。子供の母国語がそれぞれの世界観を定めるように、ペンシルベニアなまりのドイツ語(ペンシルベニア・ダッチ)を使用することによりメンバーは団結するし、彼らと外部の人々との間には、明確な境界線が引かれる。馬による交通は、移動を制限し、外部の人達との交流を制限する。ラジオ、テレビ、その他のマスメディアを拒絶しているので、非宗教的価値の脅威から守られている。

私は、アメリカのグランドキャニオンを小型双発機で飛んだとき、人を容易に寄せ付けない巨大な絶壁の下の川筋に点在するインディアンの集落を見たが、アーミッシュの社会が同じような越え難いバリアーの向こうにあるように思えた。
もちろん、カトリックの社会にも、トラピストの修道院のように、高い塀をめぐらし、社会と隔絶して、自分たちだけの宗教的価値観を追及するグループが無いわけではない。しかし、そうした厳しい修道生活は、メンバーが全て独身者であることとあいまって、力強く増え成長することは期待し難い。

新求道共同体の場合はどうだろうか。一言で言えば、新求道共同体においては、日常生活のすべては周りの社会と全く変わったところがない。自分たちの子弟だけを集めた私立学校などもちろん無いし、本人の能力と家庭の経済力に見合った高等教育を受けることはごく自然なことである。若者は車や飛行機で移動し、インターネットなどの情報手段を手にし、近代的価値の恩恵に豊かに与り、意図的に何かを拒否し、忌避すると言うようには教え込まれていない。
彼らは、現代の世俗社会の中に溶け込み、区別し、分離する何らのバリアーも持っていない。

それなのに、新求道共同体は世俗社会の価値観に流されず、その若者たちが共同体にとどまり、共同体として急成長を続けている。その秘密の鍵は一体何なのだろうか。それに応えるためには、今しばらく、アーミッシュと新求道共同体の共通点と相違点の分析を続けなければならない。 《 つづく 》

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★ 「アーミッシュ」対「新求道共同体」-2

2008-08-03 14:18:10 | ★ アーミッシュ




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分離-なぜ、アーミッシュは、現代世界から分離するのか?

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★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」 (その-2)

「アーミッシュ」 の考えでは、「世界」 とは世俗主義的社会のことである。「世界」という言葉は、高慢、貪欲、罪悪、悪徳を象徴している。悪魔の領土である「世界」は、アーミッシュ教会の純粋さと精神的豊かさを脅かす。自殺、麻薬の常用、離婚、幼児虐待、テロリズム、戦争、詐欺などのニュースに接する度に、彼らは悪魔の世界に取り囲まれていることを実感する。「世界」と言う言葉は、否定的イメージを呼び起こす。

アーミッシュが「世界」から分離しようと言う衝動に駆られた根源は、彼らの歴史にある。彼らの宗教上の原点は、1525年、スイスで起こったアナバプティスト運動にまでさかのぼる。この新しい運動は、成人洗礼を互いに行った。当時のローマカトリック教会にとって、既に幼児洗礼を受けているものの成人になってからの再洗礼は、死に値するほどの罪深いものであった。官憲とプロテスタントとカトリックの一部の過激派は一体となって、1525年以来、何千人というアナバプティストの人々を宗教的信念のために殺害した。

彼らは、拷問にかけられ、餓死させられ、溺死させられ、火刑に処せられた。彼らは見つかって処刑されるのを避けるために、礼拝を夜おこなったり、洞窟の中で礼拝をおこなったりすることもしばしばであった。彼らへの初期の激しい迫害は、残酷な記憶を残し、彼らは、「世界」が彼らの教会をさげすんでいると、固く信じるようになった。
アルザス地方のアナバプティスト達は、スイスのアナバプティストから別れ、アーミッシュ教会を設立した。ヤコブ・アモンに率いられたから、後にアーミッシュと呼ばれるようになったのである。


「新求道共同体」 も成熟した大人の信仰を求めて、洗礼の意味と価値を再発見することを目指している。幼児洗礼を受けたものも、受けていないものも分け隔てなく、初代教会のころ大人の異教徒や無神論者が信仰に導かれ、洗礼に至るまで辿った過程を、あらためてその初歩的段階から長い時間をかけて歩みなおす。しかし、その歩みが完結したとき、既に洗礼を受けている者には再洗礼を授けない点で、アナバプティストと一線を画している。その代わり、新求道共同体の場合は、道を歩みを終えるに際して、聖地イスラエルに巡礼し、ヨルダン川のほとりで「洗礼の約束」のみを新たにする(再洗礼はしない)のである。

新求道共同体は、パウロ6世、ヨハネ・パウロ二世、そして現教皇ベネディクト16世の三代の教皇により手厚く保護され、世界中の司教たちに 「善いもの」 として広く推奨されている。従って、教皇に忠実な司教たちによって、教区内で保護される場合は、のびのびと活動を展開し多くのよい果実を結ぶことが出来ている。
一例としては、私が前に訪れたグアム島のアンソニー大司教の下では、新求道共同体の数は日ごとに増え、新しい神学校がそれを世話する司祭たちを輩出し始めている。

しかし、そのグアムにおいても、大司教の意向に反し共同体を理解しない主任司祭たちや、反対する一部の修道者や信徒たちによる迫害が無いわけではない。しかし、これは何もグアムという特定の場所に限った話ではない。何処でも何時でも起こりうる現象である。現代社会であるから、アーミッシュがかつてカトリック教会から受けたような拷問や火あぶりなどの野蛮な暴力は用いられないが、IT社会の進んだあらゆる手段を駆使して、誹謗、中傷、排撃に走る。そのような状況下では、新求道共同体のメンバーは、アーミッシュがかつて経験したのと同じ受難を体験をすることになる。

アーミッシュと新求道共同体との間に「決定的な違い」があるとすれば、アーミッシュはもともとプロテスタントの流れを汲むものであり、教皇やその下の教会の権威に対しては、プロテスト(反抗)することを主義としているから、堕落した、悪しき、不条理な権威に対しては不従順であることを当然とし、自分たちの正しいとするところを貫き、実行しようとするのに対し、新求道共同体はあくまでもその不条理をも神に対する信頼のもとに従順に耐え忍び、当然の正しい権利さえも放棄して、かえって教会内の迫害者の回心のためにひたすら祈ることを特徴としている。このようなことは、過去40年以上の共同体の歴史の中で、世界各地で度々起こった現象であり、それはむしろ共同体運動がよいものであることの印と考えられている。

アーミッシュと新求道共同体は、その精神と目指すところには深く共通するものを持ちながら、その現れ方は全く違う形を取る。例えば、自らの純粋さ、簡素なコミュニティの総体を維持するために、アーミッシュは、世界から離れたままであるべきだと信じているが、新求道共同体は同じ目的を追求しながら、世界から離れようとはせず、むしろ世界の中に地の塩、世の光として、積極的に溶け込んでいくのである。

カトリックの新求道共同体が、世界に背を向け、自分たちだけの閉ざされた社会に籠もることをしないのに、なぜその純粋さとアイデンティティを守り続けることができているのかと言う疑問に答えるためには、まだ多くのことを語らなければならない。 《つづく》

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★ 「アーミッシュ」対「新求道共同体」-3

2008-07-30 14:17:02 | ★ アーミッシュ



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★ 「アーミッシュ」 対 「新求道共同体」-3

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「世界」の中に在るが、世界には属していない

アーミッシュ は、象徴的にも社会的にも一般の世界から分離された状態を保ち続けている。

彼らの言語(英語社会のアメリカの中にあったドイツ語の訛りであるペンシルヴェニアダッチを話す)、ユニークな衣類、馬とバギーによる交通、そして生活の灯りとしてのランタンの使用は、我々から彼らを分離している。彼らは最新の技術による産物を取り入れることを躊躇するため、二つの世界のギャップは広くなる。また、本当の社会的境界も存在する。かれらは、職業団体、地域の役員、政党といった公職や公の団体には参加しない。若者が公立学校へ通うことはほとんどない。アーミッシュ固有の学校で8年間の教育を受けると、その後一般の高校や大学に進むことは禁止されている。地方選挙では、政治に関した事務所を開くことはけっしてない。電気の禁止は、テレビや他の電気メディアといった現世の価値から、彼らを守っている。学校、工場、店舗など、アーミッシュ・コミュニティの色々な社会施設は、外部の影響を遮蔽する。仕事、礼拝、学校、工場、遊びといった彼らの生活のほとんどは、家族と教会を軸にして展開されるのである。銀行、近代医学なども、他の専門的サービスと同様に利用するが、政府の補助金は辞退する。

外部からの脅威を受けたどの集団もそうであるように、アーミッシュは、自分たちを防衛するための戦略を発達させてきた。ユニークな衣服、なまりのある言語、交通手段、農業のやり方など、独特のものであり、異文化集団である彼らを囲む柵を象徴しているし、近代社会を寄せ付けない。外部の世界と文化的に関わりを持たなかったため、コミュニティを近代化の罠から守ったのである。

アーミッシュはよい隣人である。しかし、非アーミッシュの人たちとの関係が親密になることは極めて稀だ。外の世界の人々との結婚は禁じられている。

新求道共同体 はどうだろうか。

彼らも「世界」の中に在るが、世界には属していない。しかし、それは、およそ正当なキリスト教は元来全てそうあるべきである、と言う意味においてである。グローバル化した現代社会。世界はすっかり世俗化した。回心して洗礼を受け、福音を信じるキリスト者は、本来この「世俗」を捨てて神の国の市民になったはずだった。いわゆる出家と在家を使い分け、世俗的精神ににどっぷり浸かって世俗的生活をするキリスト者と、世俗を捨てたシスターや修道司祭という方便の使い分けは、福音書に書いてあるキリストの教えにはなじまない。新求道共同体の理想は、この世の中に生きながら、この世の精神で生きることをやめて、福音の理想を生きようとする集団のはずである。

ナザレのイエスが、洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのち、直ちに砂漠に退いて、「世界」の王、「この世俗社会の覇者」である悪魔(サタン)の誘惑を受けたときのやり取りを見れば、その原点がはっきりする。

イエスは悪魔から誘惑を受けるために、「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう」

と言った。すると、イエスは言われた。

「退けサタン。『貴方の神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:8-11)

「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなた方は世に属していない。わたしがあなた方を世から選び出した。だから世はあなた方を憎むのである。」(ヨハネ15:18-19a)

これらの聖書の言葉には、ナザレのイエスが「この世」(世俗社会)をどのように見、弟子たちにどのように教えたかが現れている。実は、これは本来全てのキリスト者が基本姿勢として身につけていなければならないものである。しかし、残念なことに、4世紀半ばにキリスト教徒に対する迫害が終焉し、キリスト教がローマ帝国の国教的存在に取り立てられた時点以降は、キリスト教の主流派によって忘れ去られた、単なる理想となってしまった。

それに対して、あくまでこの精神に忠実であろうとする点においては、アーミッシュも新求道共同体も全く同じである。しかし、新求道共同体はアーミッシュのように世界と自分たちの共同体との間に、300年前のライフスタイルに固執して柵を設け、異文化の別の世界を構成するようなことは、将来も決してないだろう。

カトリック教会において、アーミッシュに近いものを探すとすれば、それは生涯塀の中に生活するいわゆる隠修士たち、観想生活を営む修道士・修道女たちがそれに当たるのかもしれない。イタリアのカルトゥージオ会やフランスのシャルトルーズなどの古いタイプは日本には上陸していないが、函館のトラピストや、八ヶ岳の麓に新しい修道院を建てたベネディクト会などは知る人ぞ知るである。女子では、トラピスチンやカルメル会やクララ会、ドミニコ会などの観想修道会がそれに相当する。

アーミッシュがプロテスタントで家族持ちなのに対して、カトリックの観想修道者は独身である点は好対照であるが、「世界」または世俗社会との間に柵を設け、数百年前の服装や古い生活習慣を守ることを通して自分たちをそこから隔離する点では、両者の間に共通するものがある。

新求道共同体の場合にもし柵があるとすれば、それは服装や、居住地域や、生活習慣といった目に見える物理的なものではなく、ナザレのイエスが教えた精神を霊的に内面化して、心の中に精神的な柵を築くことによって、世間の中に散在しながら世間を離れた精神的絆で互いに結び合っていると言えるだろう。

アーミッシュが大家族を営む生活人であるように、新求道共同体も子沢山の家庭生活を営み、社会生活の中で職を得て生計を立てる点ではアーミッシュと同じである。

《 つづく 》

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