:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《今日出発》 ワールド・ユース・デー(WYD世界青年大会)

2013-07-18 00:44:22 | ★ WYD(世界青年大会...

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《今日出発》

ワールド・ユース・デー WYD 世界青年大会)

2013年7月23日-28日

リオ・デ・ジャネイロ、ブラジル 

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あと2時間でアジトを出ます。

成田組、関空組、総勢70人余りの中の最年長参加者(74歳)として、

若者に混ざって、寝袋と、グラウンドシートとリュックサック姿で、野宿も、雑魚寝も

共同体の兄弟姉妹の家庭での分宿もある強行軍に、ご老体がどこまで耐えられるか・・・

これが、このスタイルの巡礼の最後になるかもしれないと言う悲壮感をこめて・・・

19日 サンパウロに着いたら先ず全員の共同告解(懺悔)を聴く。

罪を抱えての巡礼は自己矛盾だから・・・その夜、共同体の家庭に分宿

20日 LONDRINA に行って、午後感謝の祭儀(ミサ)、共同体の家庭に分宿

21日 イグアスの滝の観光、黙想の家に泊まる

22日 イエズス会伝道所(パラグアイ)へ行く、イグアスの滝にもどる

映画「ミッション」の世界、全員出発前にこの映画のヴィデオを見た

23日 LONDRINA に戻る

午後日本人向けの街頭宣教活動、感謝の祭儀(ミサ)

24日 サンパウロに戻り、共同体の兄弟姉妹の家庭での分宿

25日 APARECIDA の大聖堂で感謝の祭儀(ミサ)

観想修道会訪問

26日 サンパウロ観光

27日 リオデジャネイロへ移動して、世界青年大会会場

翌日の教皇フランシスコとの集いと野外ミサに備えて会場の陣取り

そのまま星空の下で野宿 (雨でも野宿?)

28日 教皇との集い(マドリッドの時の300万人を越えるのは確実?)

その夜、初めてホテルに泊まる

29日 新求道共同体の若者達だけでキコと集いを持つ

多くの若者が司祭職を目指して立つだろう、

多くの娘たちが、観想修道会を志願して立つだろう

多くの恋人たちが結婚の決意を固めるだろう・・・


この日のためにアルバイトをしてお金を貯めてきた、借金をした

女の子はイアリングもネックレスも一切のアクセサリーをはずして参加、

パソコンも、I-PADも世俗の入り込むものを一切遮断して霊的な修行として参加する

それだけですでに現代の奇跡だと思う


以下は、前回のWYD(世界青年大会)準備段階の話に戻ります。 

 

2011年5月1日に福者(聖人の一つ前の位)に上げらてた教皇ヨハネパウロ2世は、

1984にローマで最初の青年大会を開かれた。

その福者教皇の取り成しによる2つ目の奇跡が最近確認され、これで福者教皇ヨハネパウロ2世の列聖が早ければ年内、

遅くとも来年には荘厳に執り行われる気配となった。(聖人の位に上げられるためには、少なくとも2つの奇跡が必要なのだ。)


さて、1985年にもローマで同様の青年大会が開かれ、1986年に正式に「第1回世界青年大会」と銘打って催され、

以来、ほゞ2年に1度の割合で世界各地で開かれるようになった。

そして、今年ブラジルのリオで新教皇フランシスコを迎えて南米初の青年大会が真近に迫ってきた。

 

日本からは、毎回かなりの人数の若者が参加してきたが、(その多くが新求道共同体の若者なのだ)

今回もアントネロ神父(上の写真左)の並々ならぬ努力で

遠方であるにもかかわらず、まとまった数の青年が参加できることになった。最大のネックは費用である。

アントネロ神父は、参加する青年たちを中心に

(その多くは日本に来ている宣教家族の子供たちでスペイン人やイタリア人が多い) 

国際色豊かなコーラスを編成して、資金集めのコンサート全国ツアーで盛り上がった。

その勢いを駆って、二日前ローマのホテルでイタリアの支援者を集めて

カクテルパーティーを開き、寄付の呼びかけを行った。

 

教皇フランシスコはアルゼンチン出身。今回のリオの世界青年大会は南米初の記念すべき大会となる。

ラテンアメリカが盛り上がるのも当然の成り行だろう。過去最大の人数になることは疑いない。

 

日本の参加者の夢いっぱいのビデオのあと、一人の参加者の証言があった。

クリスティーナ・コンティ(まだハイティーン)は教皇ヨハネパウロ2世から高松に派遣されてきた宣教家族の次女だ。

彼女は宣教家族の一員として日本に住むことになって、非常に苦しい体験をしたことを淡々と語った、

小学校から日本の学校で勉強し、ギトギトの讃岐弁を話し、ものの考え方も感じ方もしっかり日本人に溶け込んだ。

しかし、同じ世代の日本の子供たちは、決して彼女を日本人としては受け入れない。

イタリア人の間でも目立つ美人の彼女は、周りの日本人の子供たちにとってはあくまで「外人」でしかなかった。

この疎外感に彼女は日々苦しむ。

決意して家族を離れてイタリアに帰った。

当然親戚や友人は彼女をイタリア人として遇するわけだが、彼女の中の自分は「私はイタリア人ではない。私は日本人だ」

と叫ぶ何かがあった。ここにも魂の安らぎは無かった。

美貌と、歌の才能に目を止められて、オーディションを受けてトップ入賞し、プロの歌い手の道に入ったことがあったが、

日本の芸能界の裏のモラルの汚さ、醜悪さに、純粋培養のクリスチャンの彼女はひどく傷ついてすぐに辞めた。

そんな彼女が、自分のアイデンティティーを求め、生き方を探して、

この青年大会に参加する決心をした過程が人の心を打った。

 

高松にあったレデンプトーリスマーテル神学院が、前教皇ベネディクト16世の粋な計らいで、

ローマに移植され、教皇からその院長に指名された平山司教(元大分司教)も、皆様の寛大な支援を訴えて

挨拶をされた。

 

  

どこかまだ子供のあどけなさから抜けきらないクリスチーナを、私は彼女がまだ幼稚園ににもいかない頃から知っている。

 

来賓のコルデス枢機卿(ドイツ人)が挨拶に立たれた。彼はつい最近までバチカンのコル・ウヌムという基金の長官だった。

その前は信徒省の次官だった。

その時、ポーランド人の教皇ヨハネパウロ2世から「新求道期間の道」の保護者・監督者の任務を与えられた人だ。

私にとっては、バチカンの高位聖職者の中でただ一人、

ドイツ語で互いに「ドウ」(「貴方」ではなく「君」の親称)で呼び合う親しい関係にある。

彼は、1984年かその前の年、教皇ヨハネパウロ2世と雑談していて、青年たちを教会に繋ぎとめることの大切さを話し合い、

そこから 青年の集い→青年大会世界青年大会、のアイディアが芽生えたというエピソードを披露してくれた。

始めは、教会、バチカンの内部から色々な抵抗や反対があったという裏話も聞いた。

今や、200万、300万、リオはもしかしたらそれ以上の若者を、

一つのイヴェントに呼び集めることの出来る人気を持った者は、

世界広しと言えども、ローマ教皇を置いて一人もいないという理由で、教皇の地位の確固たる印にもなっている、

と彼は強調した。

 

ヨーロッパの夏至の前後の日の長さを利用して、屋外でカクテルパーティーはいつまでも続く。

どれぐらいの寄付が集まったかは知らない。しかし、

このようなパーティーがローマで日本の若者の青年大会参加を支援して開かれた意義は大きい。

 

歌手になって日本のテレビにデビューすることはなかったが、彼女の奏でる日本語の歌はパーティーに花を添えた。

私は74歳の高齢でこの青年大会に参加する若者と行動を共にする。

寝袋と、その下に敷くマットをもって、野宿も覚悟で巡礼をする。

私は第6回のポーランドのチェストコーワの大会(1991年)にも、

第8回のコロラドのデンバーの大会(1993年)にも、

第12回パリの大会(1997年)にも常に若者たちの中にいた。

2000年には第15回としてイスラエルのガリレア湖のほとりにも居た。

今年のリオが最後になるかもしれない。大きな回心の恵みを戴けたら最高だと思う。


私は、明日からポーランドのアウシュヴィッツでのコンサートに参加するためにローマを離れる。

キコのシンフォニー 「無垢な魂たちの苦しみ」 アウシュヴィッツで演奏される。

大勢のユダヤ人が参加する。その後、ルブリンでも、ハンガリーのブダペストでも行われる。

昨年5月のニューヨーク、ボストン、シカゴのツアーはブログで詳しく紹介した。

今回のポーランド、ハンガリーのツアーも紹介したいと思う。

キコが私を連れて歩くのは、

近い将来日本の広島、長崎、福島などの原爆・原発事故被災地で同じツアーを準備するためでもある。 

(終わり)

 

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★ 無垢な人々の苦しみ ① =アウシュヴィッツ= 

2013-07-15 02:31:16 | ★ シンフォニー 《ポーランド》

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 無垢な人々の苦しみ ① 

=アウシュヴィッツ=

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私は通算何度アウシュヴィッツに足を踏み入れただろうか?

今回は 「新求道期間の道」 の創始者であるキコが作曲したシンフォニー

「無垢な人々の苦しみ」

アウシュヴィッツ他で演奏するツアーに参加するためだった。

私は一年前にも同様のツアーに参加した。

2012年5月のツアーはアメリカ東部、ボストン、ニューヨーク、シカゴだった。その時の体験は

このブログの 「アメリカレポート」 全20編 に詳しく紹介したので、あらためて見ていただきたい。

今回のツアーは、ポーランドのアウシュヴィッツ、ルブリン、

そしてハンガリーのブダペストでの公演が中心だ。

前回のアメリカツアーもそうだったが、

今回の東欧ツアーにも、オーケストラのメンバーでもなく、コーラスでも歌わない私が

なぜ紛れ込んでいるのか?

それは、キコが将来同様のツアーを日本でも行いたいと考え、

その時のマネージャー役に私を選び、あらかじめ雰囲気を掴ませておくためであるらしい。


 

ローマからアウシュヴィッツ最寄りのクラカウ空港に着いてみると、そこにキコはいた。

何やら打ち合わせに集中している気配。

 

 

共同体の兄弟の運転するマイクロバスの窓から見える標識には

Oswiecim にアクセントをつけた地名が見えるが、それがポーランド語で表記した

「アウシュヴィッツ」


その夜は宿でくつろいだ。


 翌朝、キコと一緒に朝の祈りを唱えた一行はアウシュヴィッツの

ホロコースト・ミュージアムに向かった。

 

 

ミュージアム前のベンチには、戦争を知らないポーランド娘たちが笑いさざめいていた

しかし、彼女たちが生まれる少し前のポーランドが

ソ連の衛星国として今よりはるかに貧しく暗く厳しい生活に喘いでいたことを彼女たちは知らない

 

    

 

ホロコースト(「焼き尽くす捧げもの」=燔祭=古代ユダヤ教の犠牲の祭り 「ナチスによるユダヤ人大虐殺」

博物館になっているアウシュヴィッツの強制収容所の入り口の左側で私たちを待っていたガイドさん

彼女の解説は要所要所でピリリとわさびが効いていて、ユダヤ人を迫害した者とその子孫の心に刺さってくる。

              彼女はユダヤ人なのだろうか? 

  

 

アウシュヴィッツの強制収容所のメインゲイトの上に掲げられた鉄文字のモットーはドイツ語で

"ARBET MACHT FREI"

「労働は自由にする」

私は今までここを訪れるたびに何度もこのモットーを写真に撮ってきたが、

いつも左の写真のようにどれかの文字が陰に入って完全に写せなかった。

それが、今回はどうだ! うんと離れて望遠で煉瓦の背景に全文字きれいに映し出すことに成功した。

まさにそのゲートをくぐろうとしているのは戦争を知らない世代の若者たちだ、

だが、70年近く前の現実は全く違っていた。

 

(博物館内の各所に立てられたパネルから)

 

囚人のユダヤ人画家が描いた強制労働に向かうユダヤ人たち。

何故労働に向かう時の絵か?それは上のローマ字が裏返っていないからだ。

画家は明らかにゲートの外から描いている。彼は命令で描かされている。

彼が命令通り絵を描いている限り、ガス室送りから猶予されているのだ。

生きるために必死で描いている気迫がこの絵から漂ってきませんか?

 

 

一日の強制労働で死ぬほど疲れて帰ってきた囚人たち。それを迎える同じ囚人たちのオーケストラ。

パネルの下の説明文によれば、キャンプのオーケストラは囚人たちがゲートを通過する時、

ここに集まって行進曲を演奏しなければならなかった。それは

囚人たちを整然と歩かせ、人数の点検をしやすくするためだった。

一人の脱走者もなく全員帰還したことを証明するために、過労死したものの屍も運び込まれねばならなかった。

音楽家はこの仕事をする限り、強制労働とガス室を免れてしばらく生き延びることが出来た。

 

ナチスのSSが写した実際のオーケストラの姿 (1941年)

 

 

囚人画家の手になる 何千人、何万人の囚人たちの点呼風景。手前左には死体も。

 

 

収容所の中と外界を隔てる高圧電流の流れていた二重のバラ線の囲い。

生きる希望を失った囚人が、ガス室を待たずにこの電線に触れて感電死を選ぶのだが、

その度にヒューズが飛んで故障するのに手を焼いて、実際には

ある一定距離以上この線に近づいたものは、その場で見張り塔から射殺されるようになったようだ。

 

(今日はお手柔らかに、シンフォニーの「序曲の序曲」、で終わりとしましょう)

コメント (4)
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