:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★  日本版 「100の広場」 (原宿ー2)

2015-05-22 10:15:01 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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日本版 「100の広場」 (原宿ー2)

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私の部屋の窓から川が見える ここから河口まで何キロだろう? 両岸は釣り船やレジャーボートが点々ともやってある

日曜日ともなると 朝からいろんな船が 次々と海に向かって下っていく

 

 

 

この日も 午後から原宿に向かった 代々木公園で フランシスコ教皇の呼びかけに応えて 街頭宣教をするためだ 

 

 

待ち合わせ場所には すでに宣教家族二世の若い母親が着いていて

美人の母親は 代々木公園を訪れた若い人たちに囲まれて 何やら楽しげに話していた

 

 

 

人の目を引いたのは どうやらお人形のように可愛い青い目の双子の赤ちゃんのようだった

この子たちが一番優秀な宣教師なのよ と若い母親は私に言う

彼女は 双子ちゃんの愛くるしさに見とれて 思わず足を止めた未婚の娘たちに 何やら話しているようだ

(聞き耳を立てていたわけではない 多分こんな会話があり得たかな と想像して書いてみよう)

母親になるって素敵なことよ 

あなたたちも早く結婚してたくさん子供つくりなさいな おろしたりしちゃダメよ

子どもは神様からの預かりものなんだから 神様はあなたたちを愛しているわ 本当よ わたし保証する

神様を信じるって 大切なことよ あなたたちにそのことを伝えたくて 今日わたしここに来たの

 

 

宣教家族が集まるところ 子供がとても目につく その数 一家庭平均5人とか

8人、10人、13人の子だくさんも全く例外ではない

 

 

 

30分遅れでスタート おや?今日はスローガンを書いた横断幕がないぞ?

それでも 真鍮の十字架を先頭に ギターを奏でて聖歌を歌いながら進む外人の群れに

公園に集まった人々は目を丸くして立ち止まる これだけでもパーフォーマンスとしては大成功だ

 

 

公園の奥深く 適当な芝生の広がりを確保すると 今日の街頭宣教が始った

先ず 司祭が聖書の朗読をする そしてその聖書のヵ所について相応しいお話をする しかし

まわりにビニールシートを広げて寝そべっている 若いカップルたち

耳ダンボの彼らに 話の内容は聞き取れているのだろうか?

せっかくの話 やはり マイクとスピーカー 

せめて 電気メガホンくらいは必要だな と内心痛感した

 

 

 

続いて 兄弟の信仰告白があった 私は彼を良く知らない 多分双子の赤ちゃんの父親だろう

声が届かなくて よく聞き取れなかったが 私なりに要約すると 多分こんなことを言ったのではないか

私はイタリア人の宣教家族の子どもとして日本で育った

しかし 日本に馴染めず 日本での生活に満足できなかった

それで 高校を出た頃 一人でイタリアに帰って 故郷の普通の若者と同じように放埓な生活に耽った

自分が自己実現だと思ったことは 罪深い利己的な生活に過ぎなかった しかし 自分ではそれがわかっていなかった

そして イスラエルのドームスガリレアというコンべンション施設に送られた

そこでどんな生活が彼を待っていたかは 私のブログ

2012年「ガリレアの風かおる丘で」今年も何かが・・・③

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/b2c04c6083839293cffc095f6f93989b

を見ていただけば一目瞭然

全てを奪われ 厳しい規則の中で 最も低い労働を課され 自分の自由な時間もほとんどない生活の中で

彼は不思議な体験をした

自由もない 自分の時間もない 厳しい労働に日々

毎晩神の前で涙ながらに祈り 私はなぜこんな目に合わなければならない? 神様と格闘した

毎日 他人のトイレを掃除し ベッドメーキングをし 掃除や窓ふきや 食堂の給仕に明け暮れる毎日の中で

放蕩生活では見つけられなかった 充実感 幸福感 心の平安と 神との出会いを体験した・・・

一年間の体験を経て 彼は別人としてそこを出た

今は 親の背中を追って 日本に帰ってきて 結婚し 二世代目の宣教家族として 神の福音を宣べ伝えている

神様はいる キリストは復活した!! 

 

 

まるく円をえがいて座った仲間たちが その証しを聴いている 

しかし 私がローマの「100の広場」で体験したようなこと 

つまり 次第に人垣ができて 人々が話に耳を傾けること は起きていないように見受けられた 

 

 

体験談 証しが終わると 二人ずつ組になって 代々木公園に散って 人々に声掛けをすることになった

正直 私の苦手な場面だ 気恥ずかしくもあり また怖くもあった

イタリア人の若者と一緒にでかけた 人はいっぱいいる さあ誰に声をかけよう

見ると 若いお父さんが二人の小さな坊やと 飛行機を飛ばそうとしていた

私は若いころ飛行機には目がなかった 紙飛行機 手投げグライダーから 本格的ラジコン飛行機まで

人並み以上に手先が器用で 作るのが大好きだったが 操縦技術は下手くそで 処女飛行で墜落させてお釈迦 という場面もあったが

それでも満足して 性懲りもなくまた新しい機体の制作に夢中になっていた

手投げグライダーがうまく飛ばなくて 坊やが苦労していたので 近づいて 声をかけ うまく飛ぶようにしてやった

それでごく自然に お父さんとの話しが始まった

私は もと外資系銀行で働いて そこそこお金持ちだったが 心に平和がなかった

回心して 神を信じて 神父になって貧乏暮らしになったが 今は幸せだ

 人間の命はこの世で尽きるものではない

神によって永遠の幸せに入るために創造されたものだ・・・

そこへ おチビちゃんを連れた若い奥さんが トイレから帰ってきた

主人が見知らぬ爺さんと話しているのを 胡散臭そうに眺めると 子供たち三人を束ね 主人を次の行動に促した

私の声掛けはそこで終わった

こんどは 若い外人の父親と乳母車の子供を捕まえて 話しかけようとしたが

両手を顔の前にバツ印に構えて 「私たち その手の話は苦手なんです・・・」と 尻ごみの姿勢

よく見ると さっき二人組で散った仲間の一人だった 大爆笑!

 

 

物売りが売って歩いているのだろう 大人から 小さい子供まで 盛んにシャボン玉で遊んでいる

公園中 初夏の風の中を 虹色のシャボン玉が流れていく

まるで 心地よい日差しに誘われて 代々木公園に繰り出した人々のようだと思った

一瞬のあいだ 風にもてあそばれながら色とりどりに輝いて あっという間に消えていくシャボン玉のような はかない人生

キリスト教は 人間は神に象って創造されたもの 神の似姿 

永遠に生き続ける不滅の魂をもった 高貴な存在だと教えている ただの儚いシャボン玉ではない

だが どうすれば この公園に集まっている人びとに そのことに気づかせることが出来るだろうか と考える

 

 

解散後 原宿の駅前で ハーリークリシュナか何かの出家者が 孤独にチラシを配っていた

ああ カトリックも オウムも この人も 原宿・代々木公園の日本人には どれもみな同じに見えているのかもしれないな

と醒めた心で考えた

~~~~~~

反省と来年への申し送り事項

時間厳守で毎回同じ時間にスタートすること

毎回おなじ場所からスタートし 同じ場所で展開すること (あちこち変えてみないこと)

横断幕は忘れないこと カトリックの行動であることを暗に示すために 教皇フランシスコの写真を横断幕に着けるがいいだろう

 人だかりがして 人垣ができるまで 音楽と歌とダンスをしっかりつづけること

聖書朗読や お説教や 体験談・信仰告白は 内容がしっかり人垣に届くように マイクやスピーカーを整備すること

二人ずつ当てもなく散っても 話かけられた人にも 話しかける側にも 心の準備ができていないことが多いから 余り効果的でない 

むしろ 体験談 信仰告白に重点を置き 中断無しに続けるほうがいいだろう そして

立ち止まって耳を傾ける人がいたら その人にに声掛けをする方が 実り豊かではないだろうか

(以上)

 

 

 

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★ 日本版 「100 の広場」(原宿)

2015-04-29 00:22:47 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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日本版 「100 の広場に飛び出そう」(原宿の場合)

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爽やかな日曜日の昼下がり 忙中閑あり もう長い間足を向けたことの無い表参道の散策と洒落こんだのだが・・・

原宿の駅は臨時改札を出るだけで一苦労 大変な人出だった

 

何となくセンスがいいと言うか 長野や四国とは一味違うな と思った

 

海水浴場でもあるまいに 恥ずかしげもなく と言うが そんな恰好がかえって調和するから不思議だ

 

 

しかし 歩くほどに そのコスチュームがだんだん過激になっていくではないか

決して仮装行列ではないのだ 仮面のカノジョ じっと私を見ている

 

半世紀時間をバックして 昔よく行った竹下通りに足を向けてみたが 歳末のアメ横よりもひどい人ごみだった

 

  

竹下通り 15分で抜けられると思ったのが浅はかだった

代々木公園の入り口に着いたときは 約束の時間に15分遅れ もう知る人は誰もいなかった

代わりに おへそのお姉さんが敬礼して迎えてくれた

 

公園の小道は人の行列だが 芝生の上はのどかなものだ 花みずきの花が満開だった

 

カセットテープの音楽に合わせてぴちぴち踊る やや太めのお嬢さんたちは すっかり汗をかいていた

 

あ、居た居た! 頼みの携帯電話が誰とも繋がらず 絶望して広い公園をひたすら彷徨い歩くこと1時間 やっと見つけたようだ

地面に広げられたキコの絵と スローガンの言葉 ギターのケースなどがそれを物語っている

しかし サボっている青い目の子供たちがちらほらいるだけで 誰も何もやっていない 

どうやら 二人ずつ組になって散って 歩行者や 芝生にビニールシートを敷いて寝そべっている人たちに

声掛けをして 「キリストは復活した」とか「神様は貴方を愛しています」とか

聖書の一句を語り聞かせたり ギターの弾けるものは 流しの聖歌の弾き語りをしたり・・・

 

置き去りの乳母車の中には 幼い子が平和に眠っていた 誰が看ているのだろう?

僕が悪いやつで この子をさらっていったら テレビで大騒ぎになるだろうな と思った 

 

やがてのことに 三々五々戻って来て これから原宿駅の方面に移動して解散することになった

十字架を先頭に 横断幕が続き その後ろに ギターが3-4本 チャランゴ タンバリンなどに合わせてキコの讃美歌を歌う

一見するところ 外国人ばかりのようだ 日本人の若者や娘たちもいるのかも知れないが

回りを行き来する人たちと区別がつかず 景色に融け込んでしまっているのだろうか・・・?

目につくのは 歴代のローマ教皇によって 過去20年間に直接日本に派遣されてきた宣教家族とその子供たちだ

つい先日 教皇フランシスコによって日本に派遣された数家族は ビザの取得中で間に合ってはいないだろう

 

2~30人の大きな外国人集団が 十字架を先頭に代々木公園を歌いながら練り歩くカトリック信者の街頭行動に

公園を訪れた外国人観光客が目を見張って振り返っていた

 

公園の出口の手前で一行は止まった そしてギターに合わせて輪になって踊り始めた いつものパターンだ

 

貧しい集団だから 高価なアンプやスピーカーや電気メガホンすら持っていない

そこここのロックやフォークのグループの大ボリュームにに負けまいと 声がかれるまでみんなで歌った

 

そしたら 一人のコスプレのお姉さんが 飛び入りで踊りの輪に入ってきた とんだハプニング

 

ゴム風船でアッと言う間の早業で 器用に色んなオブジェを作るおじさんも 仕事の手を止めたやってきて

宣教家族の女の子に 立派な風船飾りをタダでプレゼントしてくれた

 

世俗化した現代社会に頼りげなく漂う10億のカトリック教会では 若者は失望して外へ飛び出し 老人たちは急いで天国に旅立つ

去るもの追わず 来る者拒まずと おっとり構えていては 待っていても誰も来てくれなくて

教会は衰退の一途をたどる他はないと看破した聖教皇ヨハネパウロ2世は

「道路に出て、広場に行って、声を張り上げて福音を告げ知らせなさい!」

と、全世界の全て信者に呼びかけ 積極的に宣教家族を世界に派遣した

教皇ベネディクト16世も宣教家族の派遣を拡大して継続し

特に復活祭の後の50日間 ローマでは100の広場で 世界中でも都市のあらゆる広場で

直接ひとびとに語りかけて福音を伝えなさいと命じた

この命令はすべての信者 すべての司祭 すべての司教・枢機卿に向けられたもので 例外は無い

聖教皇ヨハネパウロ2世は これからの宣教の最前線は

独身の司祭や修道者ではなく 子供たちを抱えた普通の生活人信者 宣教家族が担うべきもの と歴史を看破した

彼らはその教皇に直接派遣されてやってきて いま代々木公園で宣教している

誰も止めることはできない どのような教会の権威もそれを制止してはいけない その権限もない

彼らが権限を有するのは 使徒のかしらの後継者 つまり 教皇の意思と望みにピッタリ一致している限り と言う制約が付いている

派遣されてきた宣教家族は その大勢の子供たちに信仰を伝える権利と責任と義務を神から与えられている

その基本的人権 神の掟に基づく行為を 誰も妨げ禁じることは許されない

彼らが宣教することを抑えたら 代わって路傍の石が叫ぶだろう

日本の憲法は信教の自由を高らかに謳っている

代々木公園の警備員も警察も一切干渉してこなかった

あるカトリックの要人は

「私は長い辛い迫害を忍んだキリシタンの末裔だ」

「私は純真で善良な信者たちを迫害し苦しめることだけは絶対にしたくない」 と言われた

私は痛く感激した 

 

 私はすでにローマでの「百の100の広場に飛び出そう」について、3編のブログを書いた

興味のある人は下をクリックして覗いてみてください

 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/0c8f519565b6693d54ac0b6d5d94da6c 

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/5a1506a11996016b66cecc9a052ce5ef

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/dd5b401c3ec3c8fe7f083eea574a9d27 

 

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★ 百の広場 その-3 《三位の天使》

2014-05-28 04:05:24 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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百の広場 (その-3) 《三位の天使》

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前回の「広場での宣教」の次の日曜日は、教皇による司祭の叙階式と重なったために私は参加できなかった。

そして、その次の日曜日も晴天にめぐまれた。

初回よりは遥かに整備された様子で、参加者も多かった。

 

私の同僚のレバノン人のエリア神父が司祭の白衣を着て司式していた。

  

話に聞き入る聴衆の数は確実に増えていた。初回、2回目からのリピーターもそこそこいるということか。

 

もちろん、身内のメンバーの参加者も充実している感じだった。

 

この写真に子供が何人写っているかわかりますか?3人。正解!

キティーちゃんの白シャツの後ろ乳母車に一人。そして、お母さんのお腹の中に3人目が。

 

小学生も

 

 新求道共同体の集まるところ、子供の数には事欠かない。

望んでも生まれないゼロ人のケースも平均5人の中に数えると、8人、10人、13人も別に驚くに値しない。


さらに、子宝に恵まれない夫婦は、往々にして2人、3人と養子を迎えるケースが多い。

それがまた平均を押し上げる要因になっている。養子は白人とは限らない。白人の子供は例が少ないので、

いきおい黒人、中南米の原住民系、アジア人の子供が多くなる。

この子沢山は神様の祝福の印。そういう宗教こそが明日の世界を制することになるだろう。

 

朝の祈りで始まり、詩編や歌が終ると、例によって兄弟姉妹の有志が自分の信仰体験、回心の軌跡を証言する。

 

  

その信仰告白は携帯スピーカーから流れ、通行人を包む。しかし、今回は一回目と大幅に様子が違った。

結構なボリュームで広場に広がり、誰もの耳に届くかと思いきや、今回に限り、全く効き目がないのだ。

 

 

それもそのはず、広い道を隔てて向こうのサンジョヴァンニ・ラテラノ教会のすぐ前の芝生の広場には、白いテント

軒を連ね、「フェスタ・デイ・ポポリ」、直訳すれば「民衆のお祭り」だが、

その実は、ローマに住む外国人労働者の祭典が開かれているのだ。

バジリカは観光スポットの一つでもあり、教会前の広場は人寄せの絶好の場所なのに、我々が

宣教のために求めても下りなかった市当局の使用許可が、外国人労働者申請に対してはあっさりと下りている。

非合法就労者、不法入国者の外国人もこの日ばかりは公然とお祭りに参加している。

その彼らの権利を主張する政治的アジ演説や、アトラクション、物品販売のアナウンスなどが、

大容量の本格的アンプとスピーカーを使って、こちらの声をかき消す勢いで迫ってくる。

  

5人が奏でるギターの音も、みんなで歌う歌声も、お祭り騒ぎの前には全く精彩を欠く。

しかも、悪いときには悪いことが重なるものだ、弱々しい我々のスピーカーのバッテリーが上がってきた。

声が割れ、途切れ途切れになり、やがて沈黙してしまった。

 

マイクなしでも話の内容が聞こえるようにと、輪を小さくした。それでも内容を聞き取るのがやっとのことだった。

 

しかし、そんなことで怯む我々ではない。カテキスタ(教理指導者)のリーダーは、声を枯らしながらも、

人類の罪と救いの歴史のメカニズムについて、諄々(じゅんじゅん)と話し始めた。

このドクロTシャツの青年たち、一回目には顔がなかった。新顔か、二度目か・・・

 

 

人祖アダムとエヴァの前に一位の天使が現れた。彼は天使の中で一番輝く光の天使だったが、神の如くになりたい

という、神の被造物の身分を弁えない野望を抱き、神に反逆し、堕落して悪魔、それも悪魔の頭目(ルシファー)になった。

彼は、神に愛される人類の幸福を妬み、人間を神に背かせようと誘惑した。

蛇に姿をやつした悪魔は、「楽園に生えている木の実はどれも食べてはいけないと神様は言ったのか?」と訊ねた。

「いいえ、どの木の実を食べてもいいが、園の真ん中に生えている善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない

と神様は言われました。」(その時人祖は初めてこの禁止事項のあったことにあらためて気付かされた)。

蛇が枝からぶら下がって人祖に語りかけた木は、たまたまその善悪の知識の木だった。

「神様は嘘つきだ。本当は、お前たちがその実を食べると、神のようになるのを知っていたから、それを禁じたのだ。

死んだりはしない。食べたら神になれるのだぞ!」 (これこそが真っ赤な嘘だ!)

神のようになりたい、というのはそもそも悪い天使自身の野望だった。そのことで彼は堕ちて悪魔になった。

不幸にも同じ欲望が人間の心にも芽生えた。木の実はいかにも美味しそうに思われた。

神の警告を忘れ、エヴァは思わすその実を手に取り食べてしまった。そして、伴侶のアダムにも食べさせた。

神に背いた不従順な人間は、自らの選択で神の命から自分を切り離した。

命から切り離された結果は、命の無い状態、すなわち死だった。こうして人は死すべき運命を招きよせた。

死は恐ろしいことであり、死を恐れる者はもはや人を無条件に愛することは出来なくなった。

愛の無い世界は地獄だ。

 

第二の天使、善い天使ガブリエルは、第2のエヴァ、マリアに言った。

「おめでとう、マリア。神の霊があなたに降り、あなたは身ごもって幼子を産む。その名はイエスと呼ばれる。

彼は、人類を罪から解放し、死ぬべき運命を取り除き、永遠の復活の命を与えるだろう。」

マリアから生まれたイエスは、第2のアダムとなり、第1のアダムの不従順の罪を、十字架の木の上で、

苦しみに満ちた死に至るまでの天の御父への従順で死を打ち滅ぼし、

復活して人類に永遠の命を取り戻した。

各人は自然な生物学的生命には死ぬが、キリストと共に復活して永遠の命をいただく。

死を恐れず、人のために命を与えるまで人を愛することが可能になった。

 

第3の天使は私だ!とカテキスタは叫ぶ。第3のアダムはあなたです(と目の前の男性に言う)。

第3のエヴァはあなたです(と、そのわきの女性に向って言う)。

あなたが今日ここで、この時この三位の天使の話を聴いたのは只の偶然ではない。

神様が、永遠の昔からこの瞬間の出会いを予見しておられた。世の中に偶然は無い。

神様が私を天使として(汚い醜い天使でごめんなさい)あなたにさし向けられたのです。

私の話を聴いて、受け入れて、信じるなら、あなたは今日永遠の命を手に入れることが出来ます。

回心して、死の恐れから、お金の神様の奴隷になる偶像崇拝から解放されて、

自由になり、愛に目覚めましょう。

 

ここまで一気に大声で叫ぶと、さすがのカテキスタも力尽きた。だが、騒音の中、マイクとスピーカーなしにやり通した。

「この3位の天使の話に心を触れられた人は、どうか来週の火曜日の夜、近くのナティビタの教会に集まってください。

私たちが待っています。共に信仰の道を歩みませんか。」

と5回目の日曜の宣教の後カテキスタは言うだろう。

 

そして、約束の火曜日の晩、ひとり、またひとり、そしてまた一人、3人の人がためらいがちにやってくるだろう。

5回の日曜日の街頭宣教に足を止めて耳を傾けた人は延べ600人だったろうか、1000人だったろうか。

私がまだウオールストリートや丸の内で銀行業界にいた頃、千三つ」という言葉があった。

1000件の商談の内3件が実れば大成功という意味だ。

ローマの100の広場で街頭宣教をやって、

合計400人から500人の人が信仰に立ちかえったとしたら、

天の天使たちの間でどれほど大きな喜びがあることだろう。

教皇フランシスコは、今年から全世界のカトリック信者に、このような宣教をする事を正式に求めた。

日本の教会に教皇の願いは届いているのだろうか?

 

期待に満ちた今日の宣教活動も、お祭りの騒音とマイクの故障の最悪の条件のなかでも何とか無事に終わった。

最後は、祈りと、歌と、そしていつもの踊りで締めくくられた。

 

無心に踊る大人も子供も

DSCF5496-2.jpg 

(百広場 おわり)  

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★ 《百の広場に飛び出そう》 (そのー2)

2014-05-12 18:56:59 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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《百の広場に飛び出そう》 (そのー2)

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前のブログ「100広場の宣教の派遣式」が5月3日の出来事だった。

その翌日、5月4日の日曜日、ローマ市内の100の広場を選んで、さっそく街頭宣教が行われた。

 

私たちの小教区の共同体は、みんな一緒になって、

ローマの4大バジリカの筆頭、サン・ジョヴァンニ・ラテラノ教会の前の

道路を挟んで反対側にある、アシジの聖フランシスコ像の脇の広場に陣取った。

バジリカの正面には一週間前に聖人に挙げられた二人の教皇の肖像がまだ掲げられたままだった。

 

記念碑の石積みの脇に、手ごろな空間が広がっている。

聞いたところによれば、今日の正午の聖ペトロ広場でのアンジェルスの祈りの後の挨拶の中で、

教皇はあらためて、「100の広場に行って宣教しよう」 と呼びかけられたそうだ。

 

広場と後ろの公園の境の柵に付けられた横断幕。そこには、

「パパ・フランチェスコと一緒に広場に行って、イエス・キリストを告げ知らせよう。彼は私たちを救ってくださる。」

と書かれている。

 

大きく輪を描いて兄弟たちが展開する。街頭宣教は先ず教会の祈りの「朝課の祈り」から始まる。

共同体の歌と、詩編の読誦があって、その歌声は

用意された何セットかのポータブルスピーカーから、バジリカ前の広場に居る全ての人の耳に届くボリュームで響いてゆく。

 

  

広場に居る人たち、道行く人たちは、何事が始まったかと、好奇心で耳ダンボ状態だが、・・・・

まだ近寄ってきて人垣を作るまでには行かない。

 

ローマの広場で、髪の白くなったアジア人神父の私が、福音書をマイクを通して朗読すると、

それを受けてベテランのカテキスタが、キリストの復活の出来事と、その意味などについて、言葉豊かに語りかける。

ときどき、キコの歌が間に挟まれる。

 

私の共同体の50才がらみの マッシモ は軽い発達障害があって、コミュニケーションにやや問題があるが、 

ボンギを叩くリズム感だけは達人の域に届いている。このタイプの障害者の特質か、その持続力には定評がある。

ギターがなり始めると、いつまででも叩き続けることが出来るのだ。

 

  

お天気がいいから、子沢山の若い夫婦たちは子供たちを連れてきている。

子供たちは、それぞれ小型のタンブーリなどの簡単な楽器を持たされている。

こうして宣教の習慣は子供の時から身について行くのだろう。

 

   

左の電動車に乗って参加した ダリオ は10年余り前に労災事故で両足を膝下から失って義足生活だ。

彼は兄弟たちの一番バッターで、自分の信仰体験、回心の歴史を語り始めた。

離婚に終わった不仲な両親の間に生まれ、キリスト教の信仰とはおよそ縁遠い環境を生きてきた。

ふとしたきっかけで新求道共同体の集まりを知り、暖かい人の輪に惹かれて教会に近づいた。

結婚をして3人の女の子に恵まれ、幸せをつかんだかに思われた時、事故に遭って、両足を失った。

生活は一変した。神の愛を疑い、死を思った。しかし、共同体の兄弟姉妹に励まされ、支えられて、何とか立ち直った。

あらためて神の存在を感じた。そしていま、共同体の中で信仰を深め、回心の道を歩んでいる。

「神は私に試練を送ったが、 彼は私を愛し、信仰の恵みを下さった。神はいる!

キリストは復活した。私の罪を赦してくださった。私は永遠の命の喜びを見出した!云々。

 

   

ダリオの、そして、それに続く仲間たちの信仰体験、信仰告白に、

道行く人が立ち止まって聞き入る。兄弟たちが声をかける。リーダーが、マイクをもって近づき、対話を始める。

スピーカーから流れて聞こえてくるこの対話の中身に、広場の人たちが耳を傾けているのが分かる。

 

  

だんだん話の輪が膨らんでいく。

 

   

興味を抱いた人が寄ってくる。

 

歌と祈りで集まりは締めくくられる。

「次の日曜日も私たちはここに来ます。興味のある人は同じ時間にまたいらしてください。

共に祈り語り合いましょう。」という呼びかけで、今日の宣教活動は終わった。

あのカトリック教会がここまでやるか!

 

           

広場の一部始終を一週間前に聖人に挙げられたばかりの二人の偉大な教皇の絵がずっと見下ろしていた。

聖ヨハネ・パウロ2世と                  聖ヨハネス23世だ 

 

天国の聖なる教皇が見守る中、共同体の兄弟たちは、なすべきことをなした後の充実感にあふれて

子供も一緒に輪になって踊る

 

私をいつも車で送り迎えしてくれるロベルトとステファニアの夫婦。彼らもこの道30年選手だ。

さて、来週の日曜日も同じ広場に同じ人たちが集まってくれるだろうか。

神学校の神学生、神父たちは、それぞれに自分の関係する教会と一緒にあちこちの広場に行っている。

帰ってくると、それぞれ体験談、武勇伝を食事の席で交換する。

一人が言った。

「自分たちはローマで一番美しい広場と言われるナボーナ広場に行った。200人ほどで行った」

(驚いた、これは例外的に大人数だ!)

広場には、いつものように大道芸人たちが芸を競っていた。

流しの音楽家、ブレークダンスの若者、似顔絵屋、パントマイム、手品師、物売り、カフェー、エトセトラ。

数に物を言わせて、マイクとスピーカーで盛んにキリストの福音の伝道をしていると、町の芸術家がやってきて、

「どうか私たちの営業妨害をしないでくれ、私たちには生活がかかっているのだ。」

と申し入れて来たとか。いやー、これは実に難しい問題ですね。


(つづく)

 

 

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★ 《百の広場に飛び出そう》 教皇フランシスコの呼びかけに応えて!

2014-05-10 17:39:06 | ★ 現代カトリックの宣教「100の広場」

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100の広場に飛び出そう!

= 教皇フランシスコの呼びかけに応えて=

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5月3日、ローマの4大バジリカの一つ、「城外の聖パウロ教会」で、

ローマ司教フランシスコ教皇代理のヴァリーニ枢機卿 (このブログではお馴染み) の司式で、

ローマの 《「100広場」 街頭宣教》 の派遣式が行われた。

これは、正式には昨年教皇フランシスコが全世界のカトリック教会に呼びかけて、

復活祭の後の50日間の復活節の期間中、

街の広場に出てキリストが復活した事実の喜ばしい知らせを街行く人々に告げ知らせるよう励ましたことによる。

だから、これは教皇の命による全教会の公式行事だ。

聖書によると、十字架上の死後、3日目に復活したキリストに出会った弟子たちは、

広場に出てその喜ばしい事実を人々に伝えた。

現代のキリスト者も、キリストの復活を信じていることの証しに、同じことをしようではないかという発想だ。


ローマ4大バジリカの一つ 「城外のサンパウロ」 のバジリカ(大聖堂)

これは4列の円柱で支えられた古いスタイルの教会だ。実はバチカンの聖ペトロ大聖堂も、昔はこの形だった。

 

 聖堂の正面はほぼ西を向いている。この日は高曇りだったが、夕日が当たるときはこのモザイクは金色に輝く。

 

内部の中央の身廊には、ローマ中の共同体の仲間が集まっていた。

柱列の上、窓の下の明るい直線部分には、丸い縁取りの中に歴代の教皇の肖像がモザイクで描かれている。

よく見ると、両側に2列ずつある側廊の柱列の上にも、祭壇のある内陣の柱の上にも、

教皇の肖像画はずらりと並んでいるが、その数、266人と言われている。

 

祭壇を正面に見て右側の側廊の柱列の上の一番左端には、現教皇フランシスコとベネディクト16世の

現役とまだ存命中の前教皇のモザイク画がすでに見られる。

教皇フランシスコの左側には、未来の教皇のための余裕の丸い枠がまだ3~4個みえる。

それを見て、あと3~4代教皇が現れた後に世の終わりが来るという悪い冗談を言う人もいる。

 

左端にちょっと見えるのが余裕枠。その右が教皇フランシスコ。そして、ベネディクト16世。

その右が教皇ヨハネパウロ2世、教皇ヨハネパウロ1世、パウロ6世、聖ヨハネス23世、と歴史を遡っていく。

 

聖堂正面の右側の1番目には、イエスの12使徒の頭、初代ローマ教皇聖ペトロのモザイク画があった。

悪玉教皇ボニファチウス8世もどこかに居るはずなのだが、余り多くて見つけそこなった。

 

     

人工照明がついていないときは、側廊の部分は昼間でも薄暗いが、それは、

窓がステンドグラスではなく、光を緩やかに透すアラバスタ(雪花石膏)の石の薄板で出来ているからだ。

自然が織りなすアラバスタの模様は実に美しい。

 

その聖堂に集まったのが新求道共同体のメンバーたち。

横断幕には

パパ・フランチェスコと共にイエス・キリストを告げ知らせるために広場に行こう彼は私たちを救うだろう。

と書かれている。

 

教皇の名において派遣式を行うヴァリーニ枢機卿。

復活節に広場に出て宣教を行うことを、全世界に向けて正式に呼びかけたのは確かに教皇フランシスコで、

去年が最初の年だったが、実は同じことは既に教皇ベネディクト16世の時代から、

新求道共同体の手で、世界中で行われてきた。

そして、それは実は教皇ヨハネパウロ2世の時代にまで遡る。

 

派遣式を荘厳に執り行うヴァリーニ枢機卿。右端の顔が半分切れているのは、

キコがオサマ・ビン・ラーディンと渾名するフローリアン神父。

彼はローマのレデンプトーリスマーテル神学院の副院長だ。



「物見の塔」「エホバの証人」のような戸別訪問の伝道活動、駅頭や広場での大衆伝道は、

歴史と伝統のある正当派カトリック教会の品格に合わないヤクザな手法と考える向きがなかっただろうか?

新求道共同体はその活動の一番最初から、それを大事な基本的宣教手段として積極的に活用してきた実績がある。

それに注目し、肯定し、励ました最初の教皇が聖ヨハネパウロ2世だった。

ベネディクト16世もそれを積極的に奨励した。

そして、教皇フランシスコはついに、それを教会の復活節の正式の行事として、全世界の全信者に求めるに至った



私は、10数年前、ローマでまだ学生神父をしていた頃、

カトリックの信者でないグレゴリアーナ大学の日本人学生と仲良くしていた。

今も当時と同じかどうかは知らないが、

彼らはたいてい、天理教や立正佼成会などの地方大教会長の御曹司、後継ぎであることが多かった。

(創価学会の人には逢わなかったが、出自を隠して中に混ざっていないとも限らなかった。)

???、何故それらの宗教の次世代を担うホープたちが、カトリックの最高学府の大学院で勉強しているのか?

信仰としてのキリスト教に学ぶため?そうは思えない。キリスト教の神に近寄り、改宗しそれを信じるためではもちろんない。

それは、自分たちの宗教団体の組織を強化するためのノーハウを獲得するためのようだった。

解りやすい例を挙げよう。

雨上がりの畑の土の上に、赤く艶やかに光るミミズがピチピチ、クネクネと動いているのを見たことはありませんか?

伸びたり縮んだりしながら、結構器用に前進していく姿は面白くもあります。

では、ミミズを同じ組織構造のまま20倍に拡大したらどうなるでしょうか?

直径10センチ、長さ2メートルほどのお化けナマコ状になるでしょう。

大蛇なら長い脊髄を包む強靭な筋肉を使って蛇行して進む事が出来ますが、

それがミミズと同じ素朴な組織内容でできているとしたらどうなるでしょうか。

大部分が水分の体は円形の断面を保つことすら出来ず、搗きたての伸し餅のように扁平に潰れ、

地面との摩擦で身動きが取れず、伸縮を繰り返して自由に地面を移動することなど全く不可能でしょう。

これでは、エサも取れず、干からびて、死んでしまうほかはありません。

何が言いたいか、ですって?

つまり、ミミズは直径4~5ミリ、長さ10センチほどの間は敏捷に動けても、20倍にしたら自重でペッタンコに潰れ、

身動きが取れなくなるように、宗教団体も、信者300万人程に教勢が拡大すると、

素朴で未発達な教義と組織体系のままでは、それ以上の発展が鈍って壁にぶつかるということなのです。

カトリックが10億の信者を抱え2000年の歴史に耐え抜いた秘訣は、

ユダヤ教の伝統の上に、ギリシャ哲学やローマ法典やローマ帝国の版図拡大を支えるだけの組織力を持ち、

壮大な神学体系を形成して、強靭な骨格と筋肉を身に着けたからです。

恐竜や象のような体格と筋肉があり、人間の英知を結集した頭脳をそなえてこそ、カトリックの大教団が出現できたわけです。

日本の新宗教は、それに比べると、神道系も、仏教系も、折衷型も、何れの場合も、

骨格と筋肉と頭脳の面ではまだまだ未熟で、それが信徒数300万位までは伸びられても頭打ちになり、

歴史の中を長期に生き延びられない弱点になるのではないのでしょうか。

グレゴリアーナ大学にそれらの宗教の明日を荷う優秀な人材が勉強に来るのは、

その様な背景があると私は見ました。



その人たち、会ってみると、みんなとってもいい人たちでしたよ。たいてい、小ざっぱりしたマンションか何かに住んでいて、

教団からの豊かな送金に支えられ、若い綺麗な奥さんとかわいい子共さんが一人いたりして・・・

食事に招かれて話し込んで打ち解けたとき、

「カトリックでも街頭伝道や、個別訪問伝道に行く部分が生まれ始めましたよ」、

と新求道共同体の活動の話をすると、

「いやー、それは参ったな!

業界最大手のカトリックさんが、来るもの拒まず、去るもの追わず、品よく、おっとり構えている間隙を縫って、

わたし達は只ひたすらそれだけを頼りに教勢拡大に励んでいるのに、

その十八番(おはこ)をカトリックさんに盗られたら、私たち全く太刀打ちなりませんよ!お手上げですね。」ときた。

教皇フランシスコは、新求道共同体を使って、そこに目をつけたのでしょうか。

教皇の檄が飛んだとあっては、ローマ教区長のヴァリーニ枢機卿も、もうやるっきゃないですよね!(笑)

新求道共同体は、去年からこの復活節の頃重点的に、世界中の広場で街頭宣教をやり始めました。

ひょっとして、日本でもささやかにやっているのではないでしょうか。

次回は、わたしのローマの共同体の広場での宣教の模様を中継致しましょう。

(つづく) 

コメント (1)
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