:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「コメント」への「コメント」 一部補足しました(12月22日)

2012-12-22 08:12:45 | ★ 神学的省察

 

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「コメント」 への 「コメント」

一部補足しました(12月22日)

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前のシリーズに興味深い「コメント」があったので、「ブログ」本文に取り上げて「お返事」したいと思います。


Unknown (Unknown)

2012-12-19 16:21:07
こんにちは。
前回の記事(その-4)に最初のコメントをした者です。

結局は、「復活」を信じることができるかどうかにかかっているということでしょうか。
誰もが死んですぐに復活する。いつ死んでも同じ。ということは分かりました。
いまいちスッキリしませんが、まだ「付録」があるようなので楽しみにしています。
(できればクリスマス前にお願いします;)

肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?

>教会の中でしか通用しない古いおとぎ話的で幼稚な解釈や理解に対して、
>現代人の知性の批判に耐えられるより実際に適った表現を模索する

こういう話をわたしは求めているのだと思います。
お察しの通りわたしはカトリック信徒ですが、信仰に入って3年程度です…。無宗教の家庭に生まれ育ち、長い間無神論者でした。(七五三も初詣もしたことがない!)

ということで次回も期待していますね~。


お返事いたします:

「肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?」

旧約聖書の「サムエル記」(上)28章の物語ですね?!

《タイトル》サウル(イスラエルの王)口寄せの女を訪れる。

共同訳聖書のこの28章の書き出だしには「そのころ、ぺリシテ人はイスラエルと戦うために軍を集結させた・・・・」で始まります。

 旧約聖書は続けます:

サウルはぺリシテの陣営を見て恐れそのこころはひどくおののいた。・・・・サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せの女がいます。」サウルは変装し・・・女のもとに現れた・・・。
そして、話は女が口寄せすると死んだサムエルが現れて王と対話する場面へと続く。

やや漫画っぽく現代日本語に翻訳してみましょうか。

ぺリシテ人とはパレスチナ人のことです。なんで聖書翻訳者は「パレスチナ」という言葉の代わりに「ぺリシテ」なんて言う耳慣れない言葉を使ってわざと聖書をわかりにくくするのでしょうね?

「パレスチナ側はイスラエルと戦うために(ヨルダン川西岸地区に)軍を集結させた」と言う表現なら、そのまま立派に今週の「ニューズウイーク」のトップの見出しにもなりそうな場面ですのにね。

しかし、その記事が続けて、スラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフ氏は戦いが怖くなってヤーウエの神に託宣を求めたが、神は夢にも現れてくれなかった。それで、迷信深くなって口寄せ女に走った。伝えるところによると、今は無きアリエル・シャロン首相が現れて・・・・と言ったそうだ。・・・」と大真面目に書き立てれば、現代の大スキャンダルになること必定です。次の週、ニューズウイークを買う人は半減するでしょう。

そんなバカバカしいことを、現代の知性は受け付けません。

しかし、ブッシュ大統領は、9.11のあと、イラクやアフガニスタンに侵攻する前に、プロテスタントの一派の保守的教団の牧師にお伺いを立てたとか立てなかったとかいううわさを聞いたが、もし本当なら、笑っては済まされない恐ろしいことです。

ベネディクト16世教皇が、現代のカトリック教会の衰退を憂いて、「口寄せ女」のもとに走ったら、前教皇「教皇ヨハネパウロ2世」が姿を持って現れて、一緒に嘆いて慰めてくれた」とバチカンの広報誌「L’ オッセルバトーレ・ロマーノ」が写真入りトップ記事に大真面目に取り上げたら、バカバカしくなって多分私は神父を辞めますね。

サウルの口寄せの一件は、旧約聖書が書かれた時代、そして書きとめられた伝承が生まれたそれよりもっと古い時代のユダヤ人の宗教観、知的水準が、当時の異教徒の社会と似たり寄ったりの迷信深いもので、今のカトリック教会が「バカバカしい」として一笑に付すレベルのことをごちゃ混ぜに含んでいたということのいい実例にしかすぎません。

大切なのは、話の筋のバカバカしさではなく、そういう話の中に含まれる教訓的要素や、象徴的に示唆される意味内容でしょう。その意味でのみ、聖書は時代と共に古びて廃れることなく、聖典としての価値を保つことができるのかもしれません。

「肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?」

例外ではなくて、その聖書の記事は、現代の知性にとって文字通りには受け入れがたく神学的にも成り立たないただの寓話、面白い「むかしばなし」の類として理解すべきものです。それをもって、この場合に限り死者の眠っているはずの霊がこの世の歴史に介入してくる例外的ケースとする必要は全くないと思います。

同様のことは、イエスの「金持ちとラザロ」の物語(ルカ16章19節以下)にも当てはまります。

私は、イエスとその母マリアの二人を例外として、大聖人から極悪人に至るまで、全ての死者の魂は「無」乃至は「深いねむり」の中に居て全く意識のないまま、時間の経過も知覚せず、ひたすら世の終わりと体の復活を待っていると考えています。

「では、聖人の取り成しを願ったり、失せ物探しの時に聖アントニオ様にお祈りするのは無意味なことか?」「それはカトリック教会の美しい伝統ではないのか?」「聖人が眠っていて私たちの祈りを取り次いでくれないとしたら、わたしたちの祈りは一体どうやって神様に届くというのだ?」と真顔で詰め寄ってきた、自称正統派カトリックの信者から、非難を込めた問を受けて、異端まがいの無知なアジア人神父と見下された経験があります。

そんなとき「アハハ、ついに馬脚を表わしましたね!」と皮肉を込めて私は内心笑うのですが、喧嘩になるので言葉には出さず、ぐっとこらえて非難を受け流します。

そう言って私を非難し難詰する人たちは、大切なことを一つ忘れていないでしょうか?

聖人が死んで五感を奪われてつんぼになってい居たとしても、わたしたちが一見無駄な祈りをしているのを神様はそばで聞いていらっしゃらないでしょうか?聖人は取り次ぐことができなくても、聖人を当てにして祈っている私たちの心情と祈りに神様は知らんぷりを決め込まれるでしょうか。私たちの心根を酌んで眠っている聖人に代って聞いて直接答えては下さらないのでしょうか。

若い夫婦だって、自分たちの愛する幼子が何日も前から毎晩寝る前にサンタクロースに欲しいプレゼントのお願いの祈りをしているのを聞いたら、イブ24日に寝静まった枕元にそのおもちゃの包みにリボンをかけて、「サンタのオジサンから」の手紙をそえて、そっと置いてやるのを知っているではありませんか。我々が聖人に願った取次の祈りを神様が叶えてくださった時、わたしたちが聖人に対して感謝しても、神様は「俺だ、叶えてやったのはおれだよ!」なんて、野暮なことは言われないに違いありません。

子供は中学生にもなれば、おもちゃを贈ってくれたのは、実はサンタさんではなく、親たちだったことに自然に気が付くものです。ところが、カトリック信者は、大人になっても、或いは大人で洗礼を受けても、まだサンタさんを信じている幼子のようなレベルの信仰のままの人が多いようです。これでは、世俗化しグローバル化した神無き社会の荒波の中に孤立して、信仰を失うのも無理は有りません。大人には大人のレベルの信仰を、「ミルクではなく、固いパン」(1コリント3:1-2参照)を与えなければ大人の体は持ちません。

教会の責任には実に大きいものがあります。

私は、わたしが幼い時に死んだ母のことを絶えず懐かしく思い出しますが、彼女がいま深い死の眠りの中にいることを少しも寂しいとは思っていません。

復活の時、一緒に目覚めて、母が死んでからあと一人で生きてきた人生について話し聞かせ、「エッ!そんなにハチャメチャな人生を送ったの?よくまあそれで無事に天国に潜り込めたものね、と驚かせ、喜ばせ、後付けでハラハラさせるのを今からとても楽しみにしています。

私は今も母のために祈り、母に語りかけますが、彼女が今は眠っていてそれに気付かないと知っていても、無駄な愚かなひとり相撲をしているとは思っていません。なぜなら、そのデーターは神様の無限のメモリーにストアーされていて、復活の日に彼女によってそこから読み出され、あらためて一緒に楽しめると知っているからです。


 私が手を置いているのが母の墓石

ドイツのデュッセルドルフでの勤務を終えて日本に帰国する際に
何か記念の土産をと考えてふと思いついたのが母のために墓石を持ち帰ることだった
事情があって母の遺骨は教会の納骨堂にひっそりと置かれたままだった
スエーデン製の御影石の上半分には写実的な花の彫刻が施され
下半分の磨かれた面には、母の作詞・作曲手帳から私の一番好きな一曲を
彼女の手書きの譜面通りに彫ってもらった
神戸で一番素敵な音楽墓碑と当時の神戸版朝日新聞に紹介記事が載った
手前の白い庵治石は妹と父と二人目の母の名を刻んで最近置いたもの

 

神戸港と六甲アイランドを見下ろす長峰山の六甲カトリック墓地からの眺望

 

(おわり) 


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★ ともに罪を犯してくださる神

2012-03-21 07:52:09 | ★ 神学的省察

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「共に罪を犯してくださる神」

-何と大きな愛、何と深い慈悲-

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今朝起きてアウトルックを開いたら、次のようなメールがはいっていました。

谷口くん
警告!
JKさんらの挑発にのって
封印を解こうとしている
そこからくる災いの責任は?

グッときましたね、この警告が! 反抗心の強い私の最後のためらいを吹き飛ばしました。よーし、やってやろうじゃないか! と言う、やや自棄っぱちな思いで、パンドーラの箱のふたを開けました! さあ、もう後は知らないっと! 思い直して、あわててパンドーラの箱のふた閉めたときには、中にはかろうじて 「希望」 だけが残っていました。

(i以下、2009年にある人の手紙への返事として私的に書いたものを無修正のまま採録します。)

 ○×△様

 メール有難うございました。お返事申し上げます。

今朝は少しばかり時間があります。これは、素人哲学者、素人神学者にとって一番楽しい思索の時間です。

 私が素人なのは、それを生業としていないからです。
また、いわゆる「検定教科書」の正当性擁護の義務に縛られない自由人でもあるからです。
だからと言って、地道なデッサンの修練を知らない、奇を衒った町の素人画伯でもないつもりです。
これでも、上智大学の中世哲学の博士課程まで、ローマのグレゴリアーナ大学では神学修士を優等で
終了するところまで、やるだけのことはやったのですから。

 遠くニーニー蝉とアブラ蝉のデュエットを聴きながら、戴いた添付ファイルの玉稿を読み返し、
いま、それに触発されて徒然に浮かぶ思いを書き止めたいと思います。

 昭和14年生まれの記憶にあるお弁当箱と言えば、形状はいろいろでも、素材はアルミ製と相場が決まっていました。
蓋と身は相似形で素直に蓋をすれば身はすっと無難に納まりますが、蓋をどう傾けても身の中にそれを納め切ることは出来ません。
蓋を無理に身の中に押し込めようとしても、必ず反対側がはみ出しますし、暴力的に押し込もうとすれば、
蓋も身もへしゃげて壊れてしまい、二度と元のようにピッタリ収まらなくなるものです。

 神の英知と人間の浅知恵の関係も同じことだと思います。
相似形だから互いに矛盾はしないけど、後者で前者を捕らえ切ろうとすると、
ここを押さえたと思ったら、あそこがはみ出す、永遠の鼬(いたち)ごっこです。

 青虫のような我々が、蛹のように死の眠りに入って、天と地が新たにされるとき蝶のように変身して復活した後も、
人間の理性と神の理性の蓋と身の関係は変わらないのではないかと思っています。

 神秘、またはミステリーに関しては、神の如くなって、神と一つになって、顔と顔を合わせるように神を直観する日が来ても、
この関係性は何らかの形で残るに違いありません。
別のたとえでいえば、人間の作ったズームレンズは、同時に二つの互いに離れた距離にピントを合わせることが
できないもののようです。

 今日は、神が人間の時間に沿って歩んでくださる距離にピントを合わせたいと思います。
つまり、神の「永遠の今」の視点ではピントがぼけているということです。


 話は飛躍しますが、天国に入ったら、向こうからやってきて迎えてくださるのは、
父なる神でも、聖霊なる神でもなく、輝くような復活体を身に纏ったナザレのイエスその人だと思っています。
それでも、私は、イエスに向かって、「えっ、神様は『三位一体の神』ではなかったのですか、
地上のカトリック教会は確かそう教えていましたが・・・・?おん父はどこ?聖霊はどこですか?」
などと言う野暮な質問はしないでしょう。
「私を見たものはおん父を見たのだ」(ヨハネ14章9節)(従って、聖霊を見たのだ)、と言う生前のイエスのみ言葉を思い出すからです。


 さて、いただいたメールにはいろいろな概念がちりばめられていました。
「偶然」は「無知」とほとんど同義語ですね。
 「必然」と「自由」は人間においては「矛盾」概念であっても、神においてはほとんど同義語だとは思われませんか?

 「忘却」は本来的には神に固有の概念であって、
人間にとっては、限りなくそれに倣うように務めねばならぬ「徳」のような気がしてなりません。

 貞淑な妻が夫の浮気の動かぬ証拠を掴んで、カッとなって一瞬は嫉妬と口惜しさに狂っても-
子供のこと・世間体・生活能力の無さを思って-すぐ我に返り、「いいわよ、赦して上げるわよ。
けど、一生忘れないから、覚えてらっしゃい!」と吐き捨てるように言ったとします。彼女に「忘却」はありません。

 しかし、神が放蕩息子を赦したとき、神はその赦しの瞬間以降、息子の罪をすべて完全に「忘却」し、
無限の愛はその痕跡を焼き尽くし、
その罪を創造以前の無に還元するだろう、と私はシュミレートします。
貞淑な妻は、無を材料にして自分を存在に呼び出された創造主の本性に習い、それに限りなく自分を近づけ、
夫の出来心を完全に忘れるよう努力すべきではないでしょうか。

 「想定外」は人間に固有の概念であって、類比的にすらも(アナロジーとしても)神には馴染まない概念のような気がします。
その意味で、人間が神の愛からいただいた最高の恵みである理性と自由意志をもって選択しうるあらゆる(無限の)可能性は、
全て、一つの例外もなく、神の「想定内」にあったと私は言いたいのです。
(ただ、人間がいただいた自由を使って何を選ぶかは、神も事前に知ることはない。
つまり全知の神にも知らないことがあると言いたいのです。
(ただし、ここでも「時間と永遠」という弁当の「蓋と身」の問題は残りますが・・・。)

 復唱します。神は、溢れる愛から、無を材料にして被造物界を創造し、
その冠として人間を創り、神の命の秘密であった「理性と自由意志」という危険極まりない賜物
-プロメテウスの火のような-を無償の恵みとして与え、神に代わって被造物界の管理を全て委ねたれた時、
その全知をもって、その結果起こりうるあらゆる可能性をあらかじめ想定し得たに違いありません。
即ち、創造に先立って、あらゆる理性の混乱、あらゆる自由意志の乱用(原罪・罪)を予見し、
それに対して十分な備えをした上で、敢えて創造の業に着手されたに違いありません。

 だから、「全知の神に知らないことがあり」、「全能の神に出来ないことがあり」とすれば(拙著「バンカー・・・」頁325以下参照)、
-今日蛮勇を奮って新たに付け加えて言わせて下さい-
無限の善である神は「罪さえも敢えて犯す」と言ってもいいのではないかと思う次第です。

 たとえば、不良の集団の中に気の弱いのが一人いたとしましょう。
彼は、近所のお屋敷のお嬢さんを仲間で強姦する計画が持ち上がったとき、
小さな勇気を奮い立たせて、「僕はやっぱり出来ない」といって一人抜けることはあり得るでしょう。
しかし、神様にはその「小さな勇気」すらないのです。

 神が世界を、被造物を、人間を、「無から創造された」という概念は、
ユデオ・クリスチャンの伝統の中では案外歴史の浅いもののようですが、
それでも、これは永遠の真理だと思います。

「無から」ということは、即ち「材料なしに」と言うことでしょう。
強いて、そこに比喩的に材料を求めるとするならば、それは神の溢れる「愛」を措いて他にないと言えるのかも知れません。

 原初においては、唯一の存在であり存在の全てを一身に独占していた「神」のほかには、「無」しか存在しなかった。
その神の存在の内実は「三位一体」であり、その本性は「愛」であると、私達は神の啓示から知っています。

 神の愛のダイナミズムは、ご自分の本性である愛を「知りながら」「自由に望んで」無の中に放射し、
そのあふれ出た「愛」を「材料」に私達を創造されたと言っても、あながち誤りではないと思います。

 神の創造のみ業は、「無」からの創造ですから、被造物を時々刻々存在界に在らしめ続ける原理は神の愛以外にありません。
神が一瞬、一瞬、忘れることなく存在界に創造し続けている-つまり「愛し続けて」いる-からこそ、
私達は時の流れの中に自分のアイデンティティーを保ちながら生き続けていられるのです。

 私の肉体と精神が今も一瞬前と同じく存在し続けていること、その事実こそが、
神が私を創造的愛で持続的に愛し続け創造し続けていることの紛れも無い証拠です。
罪人が存在しうるのは、神がその罪人を、罪人としてのあるがまま、罪をも含む彼の全存在を愛しているということです。

 若いハンサムな神父が、善良な宗教家然として人前で賞賛を浴びながら、
実は弱い悲しい二重人格者として、夜密かに美しい未亡人と罪を犯したと仮定しましょう。
それでも、神様は限りない憐憫をもって彼を愛し続け、彼の存在の最も奥深いところで
彼を創造しつづけ、存在界の中に保ち続けなければならないのです。

 もし神が「この男の罪は余りにも重く、その悪は余りにも赦し難いから、私は最早やこの被造物を愛し続けることは出来ない」
「私の正義はそれを見過ごすことは出来ない」とそのみ心の中でつぶやかれたとしたら、
彼は瞬時にして元の素材の「無」に還元され、
存在界から跡形も無く消え去り、犯しかけた罪も完結し得ないままに終わるに違いありません。

個人の罪に限らず、ナチスのホロコースト、原子爆弾の投下、あらゆる戦争の場面に於いても、
神はその巨悪、犯罪を実行した人間達と共にその悪を内側から支え共有されました。
神は常に、-いや、ノアの洪水のときを除いて-人類の悪を耐えがたいとしてそれを抹殺されることはありませんでした。
私は雨上がりの空に虹を見る度にそのことを思います。
神は全ての戦争、犯罪に際して、その行為者の理性と意思と行動をリアルタイムで存在のなか呼び出し続けることを通して、
不可避的に人間の悪を自分のものとして共有し、「共同正犯」であり続けられると言えば誤りになるでしょうか。

 同様に、私が今、のうのうとパソコンのキーをたたきつつ、こんな感想を書いていられるということも、
神様が、私の歴史のあらゆる罪の場面で、私が罪を行う条件である私の肉体と理性と自由意志を内側から支え続け、
私の意思と行為を-たとえ憂いつつではあったにしても-刻一刻ご自分のものとして完全に共有されたからに他なりません。

 私の罪を、虚偽を、快楽を、-私の精神と肉体を存在界に呼び出し続け支え続け、
それが無の中に瞬時にして転落するのを妨げ続けることを通して-完全に共有されて、
私の罪の完全な「共同正犯」の役を、知りながら敢えて望んで演じ続けてくださる神の愛とはなんと驚くべきものでしょう!

 神は決して、気弱な不良少年のように「僕、一抜けた!」はなさらないのです。
男らしく最後まで付き合い、共犯者としてその責任を取られます。

 然し、罪は回心と償いの業によって贖われねばなりません。
人間は、人間として、人間の犯した罪の償いに最大限務めなければならないでしょう。
それは、洋の東西の聖者たちが意識的、無意識的に追及して来たことでしょう。
しかし、人間の罪の共犯者、「共同正犯の神」の犯した部分にまで、人間の力は及びませんでした。
それはもともと人間の業ではなく、神の業だからです。

 神の罪、強いて言えば、神が理性と自由意志と言う神固有の秘められた本性を、事もあろうに人間に
-まるで危険なプロメテウスの火のように-
渡してしまったことの責任までは、人間が神に代わって贖うことは出来ない道理です。

 その部分は、是非とも神が孤独に自己責任で解決しなければなりません。

 しかし、神は、唯の神のままではそれが出来なかった。

だから、人の姿に身を託す必要があった。
だから、御託身の玄義、ベトレヘムでの幼子イエスの誕生があったのではないか、と思います。
神がキリストにおいて人となったのは、そのためではなかったかと私は考えます。

 ナザレのイエスの十字架の上の壮絶な、そして凄惨な人の死は、全ての人の全ての罪の贖いであったと同時に、
神が孤独に神としてご自分の犯した罪に決着を付ける行為だったとは言えないでしょうか?
そこに、イエスが人でありながら、同時に神であることの「必然性」があったのだと思います。
しかも、これは決して「想定外」のハプニングに対する「後付けの」対応では無いように思います。

これに関連して、つい先日、朝のミサの第一朗読で、「フィリピの信徒への手紙」が読まれたことを思い出します。
2章6節~11節です。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」

「共に罪を犯してくださる神」

-何と言う深い慈悲、何と大きな愛-でしょう。


 以上、普段から心の中で反芻していたことを、今日初めて文字に固定しました。
○×△様の「神の全知について」の一ページに触発されました。

 よく言葉を選んで多くを書き改め、多くを補足しないと、
危険な、怪しげな生煮えの雑説に終わる恐れがある危険性はよく承知していますが、
こんな未完の想念が私の黙想の中に浮かんだことをとりあえず神様に感謝しています。

 蛇足ながら付け加えましょう。
実は、最近この話を何人かの人に試しにしてみました。大方が、如何わしげな顔で聞いていました。
しかし、その中に、「谷口神父。僕はその話がよく分かるよ!」と答える青年がいました。
彼は続けます。「僕がめちゃくちゃに罪の中に沈んでいたとき、
そのひどい罪のさなかにも、何故かどこかで、護られている、赦されている、愛されている、というほのかな実感があった」と。

 彼は、私と同じ放蕩息子の典型です。今でこそ、堅気になって、遅く30前に大学を卒業し、
欝や自閉症や軽度の統合失調症の子ども達のお兄さんをして、昼夜献身的に働きながら償いの生活をしていますが、
以前は新宿の歌舞伎町のホストクラブで、お金持ちのマダムたちを相手に、評判のホストをやっていたのです。
何しろ、すらりとして、イケメンで、優しい性格ときたもんですから。

 彼には、神学用語の理屈は通らないけれど、私の話の本質は体験を通して直感する感性が備わっていたのです。
罪を体験し、キリストの赦しと愛を肌で経験したもの同志の以心伝心とでも言いましょうか。

 十字架、
それは、被造物への愛におぼれて罪まで共有してしまった愚かな神、
神にしか償うことの出来ない神の罪を償う孤独な神の姿なのだ、というわけです。


2009年8月○○日

                            谷 口 幸 紀 拝

○×△様 玉案下


〔完〕

 



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