:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 《一部加筆》 教皇フランシスコ、日本の教会へ親書

2017-10-11 18:43:36 | ★ 教皇フランシスコ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《一部加筆》 教皇フランシスコ、日本の教会へ親書

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

=福音宣教省長官、フィローニ枢機卿来日に際して=

 ちょっとカトリック教会の内情に偏したローカルなテーマですが、敢えて!

 教皇フランシスコは去る9月14日付けで日本の司教たちに対して親書を送りました。その内容は非常に婉曲な言い回しを多用したものであるため、その本題と本質を正確に見極めるのは必ずしも容易ではありません。

それで、親書の随所にちりばめられたキーワードを抽出して綴り合せ、込められたメッセージの真意を読み解きたいと思います。

最初の鍵は日本の教会がもつ福音宣教の使命についての言葉です。

「教会はその起源から普遍(カトリック)であり、『出かけて行き』宣教する存在です」(2014年9月17日、教皇の一般謁見より)。事実、「キリストの愛」は福音のためにいのちを捧げるよう、私たちを後押しします(二コリント5・14参照)。このダイナミックな傾向は宣教熱のないところでは死んでしまいます。ですから、命は与えることで強められ、孤立と安逸によって衰えます。」(使徒的勧告『福音の喜び』10項)。

この言葉は暗に、日本の教会にはこのダイナミズムを失い宣教熱をなくし、世界の教会の趨勢に背を向けて、孤立と安逸の中に閉じ籠り、衰えて今にも死にかけていると厳しく指摘しているかのようです。

さらに、イエスの「山上の説教」を引用し、日本の教会に向かって「あなた方は地の塩、世の光である」(マタイ5:13-14)と述べ、教会は「地の塩」として社会を腐敗から守り、「世の光」として社会の暗闇を打ち破るべきものであることを強調し、「まさしくこのシンボルは日本における教会の現状をよく表しています」と続きます。つまり、日本の教会は「味を失った塩」「人々の前に輝いていない灯火」のようではないか?と暗に問いかけていると言えます。

そして、日本の教会は小さく、聖職者、修道者は目に見えて減少し、信徒は十分に参加していないのは事実だとしても、その現状はイエスがこの小さな日本の教会に託した大きな霊的倫理的な使命を十分に果たしていないことの言い訳にならない、と厳しく指摘しています。そして、「働き手の少なさは、かえってますます宣教熱を高揚させ、働き手を絶えず求める好機とさえなるのです。まるで福音に出てくるぶどう園の主人が、一日中、何時になっても新しい労働者を自分のぶどう園のために探しに行くようなものです(マタイ20:1-7参照)」と、聖書を引用して、働き手を求めて広場に出向き、そこに働き場を求めて待機している働き手を迎え入れるようにと促します広場には、教皇の庇護のもとに育てられ、日本で雇ってくれる主人を待つ働き手が、大勢たむろしているのです。

そして、「最後に、聖座(バチカン)が承認している教会の幾つかの運動体について話したいと思います。彼らの福音宣教熱とそのあかしは、司牧活動や人々への宣教においても助けとなりえます。これらの運動体にかかわりを持つ司祭や修道者も少なくありません。彼らもまた、神がそれぞれの宣教使命を十全に生きるよう招いている神の民の一員です。これらの運動体は福音宣教活動に寄与します。私たちは司教としてこれらの運動体のカリスマを知り、同伴し、全体的な司牧活動の中での私たちの働きへ参与するよう導くように招かれています。」と結論付け、「主が日本の教会に多くの働き手を送り、その慰めで皆さんを支えて下さいますように」と結んでいます。

教皇はここで何を言いたいのでしょうか。この親書を受け取った各人は、教会的な言語に対する多少の感性を持ち合わせているとしたら、教皇のメッセージを読み違えることは全く不可能です。

「聖座が承認している教会の幾つかの運動体」の中の最大のものが、日本の司教団が一体となって排除し、無視してきた「新求道共同体」を指していることは、どの司教の目にも明らかです。教皇は、その排除の論理を認めず、彼らを受け入れ、彼らの活力を生かすことを強く求め、緊急の課題として勧めているのです。いや、勧め超えて、ほとんど哀願とも言うべき響きが感じられないでしょうか。

福音宣教省長官フィローニ枢機卿は去る9月18日から1週間、この教皇の親書の趣旨を現実化するために勢力的に働きました。彼は日本を発つ前日の24日午後、東京のカテドラルで司教、司祭、信徒と共にミサを捧げたが、そのミサに先立って信徒との直接対話集会を開きました。

私もそれに参加しましたが、枢機卿は誤解や解釈の余地の全くない明快な語調で、「排除の論理ではなく包括の論理に立たなければ、日本の教会に明日はない」と言う意味のことをはっきりと述べられたのは印象的でした。それは、教皇の親書と全く軌を一にするものでした。

ローマへの帰途に就く日の朝、同枢機卿は日本の司教たちと最期の会議を持ち、上の点を再確認するとともに、日本の教会に働き手を確保する具体的な道として、教皇ベネディクト16世の計らいでローマに一時的に移植されている「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を何らかの形で近い将来日本に戻す何らかの方途が話し合われたのではないかという専らの推測の声が漏れ聞こえてきますが、その真偽のほどはきっと近い将来に明らかになるだろうと思われます。期待を込めて祈りたいものだと思います。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする