:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第13信 ホイヴェルス神父様との再会

2020-12-22 00:00:01 | ★ インドの旅から

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

友への手紙

ーインドの旅からー 

第13信 ホイヴェルス神父様との再会

~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

ボンベイにて。

 ぼくがバンガロールからコーチンへ向かおうとしたのは、ケララ州の山中深く存在する一風変わった新しいタイプの修道院を訊ねるためだった。

 しかし、ホイヴェルス神父様と約束の日にボンベイで無事合流するためには、コーチンを三日以内に発たねばならない。しかも、目指す修道院は遠く、なお悪いことには、コーチンからボンベイ行きの飛行機は予約しておいたにも拘らず、座席の保証を得られなかった。

 そこで、ぼくはコーチン行きをひとまず諦め、計画を変更してボンベイに着くことだけに専念することにした。もし飛行機がダメなら汽車かバスか船で行くしかないのだが、すべての汽車、すべてのバスと船は満員で蟻の割りこむ余地もない。みんな聖体大会のためボンベイに向かう巡礼者によって数週間前から予約されていたのだ。今買える切符は聖体大会の後にボンベイに着く汽車のばかりだ。

  幸い僕の場合、飛行場での直談判が功を奏して、結局は何とか飛ぶことに成功したが、この時はじめて、インドではなんでも賄賂で解決できることを実際に学んだ。

 ゴアの上空を通過するとき、スチュアデスがそのことに乗客の注意を促した。目の下の紺碧の海を白い渚で切り取ったゴアの街が、まるでおとぎ話の国の箱庭のように広がっていた。そこには、東洋の使徒聖フランシスコ・ザビエルの遺体が眠っている。ここもコーチンと共に帰りに寄ることになるだろう。

 さて、約束の日の夜、ぼくはボンベイ郊外のサンタ・クルス飛行場にホイヴェルス神父さまの到着を待った。

 ホイヴェルス神父様の飛行機は予定通り着いた。ちょうど満五十年の時間の流れをひとまたぎして、当時まだ紅顔の神学生だった神父様は、やがて、その長身を税関のカウンターに現した。

 「今晩は。」そう言って固く握手してくださる神父様の顔は、こんな時ことのほか優しくほころぶ。

 横合いから税関の役人が急き立てるように聞いた。「荷物は?」「はい、これだけです。」聖務日祷書とスータン(司祭の長衣)だけぐらいしか入らない黒いビニールの手提げが示される。「他にカメラとかトランジスターラジオとか、何か申告すべきものは?」「いえ、何も。」「現金は?」「10ドル。」「10ドル?!」役人はけげんそうな顔をする。いくら神父でも、10ドルぽっきりもってインドに乗り込んでくる人はまずいないからだ。すると神父様は思い出したように「いえ、日本のお金も少し」と言い添えて、帰り道羽田に着いてから四谷までの車代に足りるほどのお金を示された。まことに聖イグナチオの考えていた通りの清貧のイエズス会士を見る思いがした。

 まっすぐにバンダラの聖スタニスラウス・ハイスクールの宿舎へ向かった。ここは五十年前に神父様が教鞭をとられた学校だ。その夜は早く休んだ。

 半世紀前に布教雑誌「聖心の使徒」に書いた第13信はたったこれだけの短いものだった。何とも中身の乏しい、間の抜けた記事ではないか、と今わたしは思う

 しかし、この再会は私にとってはとても重要な出来事だった。横浜を船で出航して以来、糸の切れた凧のように全く行方知れずなっていた私が、一か月後のインドでホイヴェルス神父に無事再開できたということは、その間に起こっていたいろいろなハプニングや予定変更を思えば、ほとんど奇跡に近い幸運だったと言っても決して誇張ではなかった。いわば、スペースステーションと宇宙船がドッキングするぐらいスリルとリスクのある邂逅だったのだ。

 さて、神父様は、そもそも1964年11月12日から15日までボンベイ(今はムンバイと言う)で予定されている「第13回世界聖体大会」に参加するためにはるばる日本から来られたのだった。

 正直なところ、一年以上前にホイヴェルス神父様が、「私はインドに行く。一緒に行きたいものは連れて行ってあげる。」と言われたとき、なぜ神父はインドに行くのか、聖体大会とは何か、など私には一切関心が無かった。戦後の日本で、外国に旅することが若者にとってまだ叶わぬ夢でしかなかった時代に、それが可能かもしれないと思うと心が躍った。それだけで動機としては十分だったのだ。

 しかし、ホイヴェルス神父様にとってはそうではなかった。日本に宣教に来て、戦前・戦後を通して、40年間祖国への里帰りを頑なに拒んできた神父が、熟慮の末インドに行くことを決められた背景には重要な理由が有った。

 時あたかも、カトリック教会の歴史を画する大改革の「第2バチカン公会議」が既に始まっていた。その公会議の旗手パウロ六世が、ローマ教皇としては初めてヨーロッパの外に旅をする。それもヒンズー教と回教が主流でキリスト教が圧倒的少数派の地インドへ。ホイヴェルス神父様はそこに大きな意義を見出されたに違いなかった。

 そして、直接的には、そこに教皇主催の第38回「国際聖体大会」があった。

 正直なところ、わたしは神父と共に開会式に出るまで、それが何であるか全く理解していなかった、そして関心もなかった。それが分かったのはやっと今頃のことだ。

第51回国際聖体大会(マニラ)

 「国際聖体大会」(International Eucharistic Congress)は、ミサの中で司祭が聖別するパンとぶどう酒(聖体)の中に、キリストが実際に現存すると言うキリスト教の伝統的教義・信仰を深め広めることを目的としている。これはカトリックだけでなく、初代教会の頃からロシア正教、ギリシャ正教、聖公会、シリア典礼の教会など、実に広く深く信じられ、保たれている。

 しかし、私個人的には日本の今日のカトリック信者の間でどれほど深く、固く「ご聖体におけるキリストの現存」が信じられているか、心配している。それは、私たちカトリック司祭の司牧的責任だ。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これは私の体である。」又、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡していわれた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が許されるように多くの人のために流される私の血、契約の血である。」(マタイ26章26節ー28節)

 因みに、アドルフ・ヒットラーはそれを信じていなかった(というか、信じていたがゆえに、口で聖体をいただき、外に出て地面に吐き出し、靴でそれを踏みにじると言う涜聖の行為に出た)。 そして、欧米ではフリーメーソンがカトリック信者からこの信仰を奪うために、ミサで信者に配られた「聖体」を密かに買い取って穢していると言う話を聞いたことがある。実際にお金のために「神の子キリストの体」を売り渡す信者がいるということだろうか。私はそこに光と闇の戦いの最前線を見る。

 第1回「聖体大会」は1881年にフランスのリーユで開かれ、第52回は今年ハンガリーのブダペストで開かれる予定だったが、新型コロナウイルスの影響で、東京オリンピック同様に2021年に延期されることとなった。因みに4年前の2016年はフィリッピンのマニラだった。

 19世紀後半にフランスで始まったこの運動は、20世紀にはインドを皮切りに全世界に広まり、今もほぼ4年ごとに世界をめぐっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする