六所塚古墳(ろくしょづかこふん)。
場所:茨城県常総市蔵持251。県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約1km。「松田自動車工業」付近にある水路に沿った農道に入り、左手(東)奥。農道は舗装されているが、狭く、古墳近くには駐車場もないので、農道に自動車で入っていくのはお勧めしない。
「六所塚古墳」は、鬼怒川右岸(西岸)、現・常総市(旧・石下町)の台地先端にある大型の前方後円墳で、全長約70m、後円部径約45m、前方部幅約35mの大きさとされ、一部に周濠跡もあるようだ。発掘調査等は行われていないようで、築造時期は不明だが、古墳時代中期(5世紀頃?)のものとされる。この古墳の東側、篠山字神子女(みこのめ)という地区を中心に「六十六塚」といわれた多数の古墳があり(確認できたもので85基あったという。)、神子女(神子埋)古墳群と呼ばれている。「六所塚古墳」も「神子女(神子埋)73号墳」と称されることがあるが、開発や盗掘などにより現存する古墳は20数基となっているようだ。
この古墳が「六所塚」と呼ばれるようになった由縁であるが、平良将(平将門の父)が、現・市川市国府台にあった下総国府を現・常総市国生(「六所塚古墳」の北、約3km)に移した際、下総国総社「六所宮」を当地に勧請したことによる、との伝承がある。また、一説によれば、「六所塚古墳」は平良将の墳墓であるとされ、良将が皇統を引くことから「御所塚(五所塚)」と呼ばれていたが、将門の乱の後は逆賊とされたため「六所塚」と称して隠したという。
常総市のHPから(六所塚)
写真1:「六所塚古墳」全景(西側から)

写真2:常総市指定文化財の碑と説明板

写真3:前方部(南側から)

写真4:前方部から後円部(南東から)。夏草に覆われていて判りにくいが、瓢箪型になっている様子がみえる。
場所:茨城県常総市蔵持251。県道24号線(土浦境線)と県道136号線(高崎坂東線)の交差点から、県道136号線を南下、約1km。「松田自動車工業」付近にある水路に沿った農道に入り、左手(東)奥。農道は舗装されているが、狭く、古墳近くには駐車場もないので、農道に自動車で入っていくのはお勧めしない。
「六所塚古墳」は、鬼怒川右岸(西岸)、現・常総市(旧・石下町)の台地先端にある大型の前方後円墳で、全長約70m、後円部径約45m、前方部幅約35mの大きさとされ、一部に周濠跡もあるようだ。発掘調査等は行われていないようで、築造時期は不明だが、古墳時代中期(5世紀頃?)のものとされる。この古墳の東側、篠山字神子女(みこのめ)という地区を中心に「六十六塚」といわれた多数の古墳があり(確認できたもので85基あったという。)、神子女(神子埋)古墳群と呼ばれている。「六所塚古墳」も「神子女(神子埋)73号墳」と称されることがあるが、開発や盗掘などにより現存する古墳は20数基となっているようだ。
この古墳が「六所塚」と呼ばれるようになった由縁であるが、平良将(平将門の父)が、現・市川市国府台にあった下総国府を現・常総市国生(「六所塚古墳」の北、約3km)に移した際、下総国総社「六所宮」を当地に勧請したことによる、との伝承がある。また、一説によれば、「六所塚古墳」は平良将の墳墓であるとされ、良将が皇統を引くことから「御所塚(五所塚)」と呼ばれていたが、将門の乱の後は逆賊とされたため「六所塚」と称して隠したという。
常総市のHPから(六所塚)
写真1:「六所塚古墳」全景(西側から)

写真2:常総市指定文化財の碑と説明板

写真3:前方部(南側から)

写真4:前方部から後円部(南東から)。夏草に覆われていて判りにくいが、瓢箪型になっている様子がみえる。
