桑原神社(くわはらじんじゃ)。
場所:茨城県常総市国生1186。関東鉄道常総線「石毛」駅から西へ約2kmで県道136号線(高崎坂東線)に入り北上、更に約2km。境内は県道に面しているが、県道側からは石段を少し登って入ることになるので、「長塚節生家」の案内標識のところから西側へ回りこむ。駐車スペースあり。
社伝によれば、下総の国司となった桑原王が宝亀3年(772年)、現鎮座地の東、鬼怒川右岸(西岸)の本屋敷と呼ばれた場所に、王の祖である豊城入彦命(トヨキイリヒコ)などを祀ったのが創始であるとされる。鬼怒川右岸のこの台地上には、かつて「東山塚」という高さ10mもある前方後円墳があった(鬼怒川の堤防工事のための土採りで消失してしまったらしい。)といい、古墳時代から大きな集落があったとされている。延喜年間(902~921年)には平良将・将門父子が当地を本拠地とし、当神社は国土開発・農業発展の守護神として崇敬を受けた。その後、鬼怒川の水害等もあり、集落が次第に西に移ったのに合わせ、延宝6年(1678年)、当神社も現在地に遷座したという。
しかし、江戸時代には誤って「香取神社」とされていた時期があったらしく、享保4年(1719年)に本殿を建替えた際、寛永2年(1625年)の棟札が発見され、そこに「日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇」という記載があったことから、公儀に届けた。宝暦8年(1758年)になって、当時の寺社奉行阿部伊予守から呼び出しがあり、当神社が延喜式内「桑原神社」であることを証明する書状が名主に下付されたという。
ところで、桑原王という人物については情報が少ないが、天智天皇の第7皇子であった志貴皇子の孫だったらしい。志貴王子は、壬申の乱によって天武天皇系に皇統が移ったことによって、天皇になれなかったのだが、六男の白壁王が光仁天皇に即位したことから、「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた。このことにより、桑原王も、その皇孫として二世王待遇となったとされる。そして、「続日本紀」によれば、神護景雲3年(769年)に下総員外介、宝亀元年(770年)下総守、宝亀2年(771年)には上総守に任命されている。こうしたことから、当神社が桑原王と関係があるとしても、桑原王自身が創建したというのは少し疑わしいようだ。祭神の豊城入彦命は、崇神天皇の第1皇子であったが、夢占いによって東国平定のために派遣され、弟の活目尊(イクメ)が皇太子となった(後の垂仁天皇)。このため、豊城入彦命を祖とする豪族は関東北部に多く、特に毛野氏が有名である。上野国・下野国は、元は上毛国・下毛国といい、「かみつけ(こうづけ)のくに」・「しもつけのくに」と読むのは、そのせいである。毛野氏の同族である桑原臣の一族が当地を治め、その祖である豊城入彦命などを祀ったものともいわれている。
玄松子さんのHPから(桑原神社(常総市))
写真1:「桑原神社」境内入口。社号標は「延喜式内 郷社桑原神社」

写真2:「平将門公史跡 桑原大明神」の石碑もある。

写真3:社殿(南向き)

写真4:彫刻が施され、木目も美しい扁額
場所:茨城県常総市国生1186。関東鉄道常総線「石毛」駅から西へ約2kmで県道136号線(高崎坂東線)に入り北上、更に約2km。境内は県道に面しているが、県道側からは石段を少し登って入ることになるので、「長塚節生家」の案内標識のところから西側へ回りこむ。駐車スペースあり。
社伝によれば、下総の国司となった桑原王が宝亀3年(772年)、現鎮座地の東、鬼怒川右岸(西岸)の本屋敷と呼ばれた場所に、王の祖である豊城入彦命(トヨキイリヒコ)などを祀ったのが創始であるとされる。鬼怒川右岸のこの台地上には、かつて「東山塚」という高さ10mもある前方後円墳があった(鬼怒川の堤防工事のための土採りで消失してしまったらしい。)といい、古墳時代から大きな集落があったとされている。延喜年間(902~921年)には平良将・将門父子が当地を本拠地とし、当神社は国土開発・農業発展の守護神として崇敬を受けた。その後、鬼怒川の水害等もあり、集落が次第に西に移ったのに合わせ、延宝6年(1678年)、当神社も現在地に遷座したという。
しかし、江戸時代には誤って「香取神社」とされていた時期があったらしく、享保4年(1719年)に本殿を建替えた際、寛永2年(1625年)の棟札が発見され、そこに「日本国関東下総国生桑原大明神造立一宇」という記載があったことから、公儀に届けた。宝暦8年(1758年)になって、当時の寺社奉行阿部伊予守から呼び出しがあり、当神社が延喜式内「桑原神社」であることを証明する書状が名主に下付されたという。
ところで、桑原王という人物については情報が少ないが、天智天皇の第7皇子であった志貴皇子の孫だったらしい。志貴王子は、壬申の乱によって天武天皇系に皇統が移ったことによって、天皇になれなかったのだが、六男の白壁王が光仁天皇に即位したことから、「春日宮御宇天皇」の追尊を受けた。このことにより、桑原王も、その皇孫として二世王待遇となったとされる。そして、「続日本紀」によれば、神護景雲3年(769年)に下総員外介、宝亀元年(770年)下総守、宝亀2年(771年)には上総守に任命されている。こうしたことから、当神社が桑原王と関係があるとしても、桑原王自身が創建したというのは少し疑わしいようだ。祭神の豊城入彦命は、崇神天皇の第1皇子であったが、夢占いによって東国平定のために派遣され、弟の活目尊(イクメ)が皇太子となった(後の垂仁天皇)。このため、豊城入彦命を祖とする豪族は関東北部に多く、特に毛野氏が有名である。上野国・下野国は、元は上毛国・下毛国といい、「かみつけ(こうづけ)のくに」・「しもつけのくに」と読むのは、そのせいである。毛野氏の同族である桑原臣の一族が当地を治め、その祖である豊城入彦命などを祀ったものともいわれている。
玄松子さんのHPから(桑原神社(常総市))
写真1:「桑原神社」境内入口。社号標は「延喜式内 郷社桑原神社」

写真2:「平将門公史跡 桑原大明神」の石碑もある。

写真3:社殿(南向き)

写真4:彫刻が施され、木目も美しい扁額
